『子どもは40000回質問する』イアン・レズリー 光文社

 これは一風変わった本だ。原題は”CURIOUS(好奇心)”といい副題には“あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力」とある。前半は発達心理学や子供の教育に関する話が続くが、後半になるとがらりと装いを変えてビジネス書になる。(ちなみに書店では教育の棚に置いてあった。)帯には「好奇心格差が経済格差を生む!」とあって結構そそられる。ひとことで内容を説明するならば、「セレンディピティ(思いがけない幸運な発見)」の元となり、また生きる喜びの源泉にもなる「好奇心」について、子供に対する教育からビジネスにおける効能まで、人生におけるあらゆる場面を想定して縦横無尽に語ったジャンル横断本 ――といった感じになるだろうか。
 後半部分はスティーブ・ジョブズのエピソードや「スペシャリストかジェネラリストか」にようにマーケティングやビジネス書でよくある話題が多くて、自分には比較的既知の内容が多かったため、子供の学習やなどにおける好奇心の効果を示す前半の方が面白かった。(しかし教育関係者の人にとっては、逆に後半の方が初めての内容が多くて面白いのかもしれない。)

 本書によれば、子どもは幼い頃から周囲の大人に対して直感的に、その人が「隠れた事実について情報を提供してくれる信頼できる存在」かどうかを判断しているのだそう。きちんと対応してあげればその好奇心は大きく伸びるが、いい加減な対応をしているとやがて質問をしなくなってしまうのだとか。
 こういった子供の好奇心の衰えは脳の発達過程に原因があるらしい。幼児の脳には爆発的な細胞の増加と新たな神経接合の形成によって、大人に比べると非常に多くの神経結合が存在する。しかしそれらのつながりは大人の脳のそれに比べて無秩序で非効率的であり、幼児の外界認識能力は無限の可能性があると同時に混沌としている。したがってきちんとしたケアをしなければ、早ければ四歳頃から好奇心は衰え始めるという説もあるようなのだ。こうした話を読むと、子どもの発達過程における大人の対応がいかに好奇心の発達に影響するかがわかって恐ろしい。自分が子どもの頃に、風呂に入るたび父親を質問攻めにしていたのを思い出した。面倒くさがらずきちんと答えてくれるのが嬉しかったが、まさにあれが大事だったのだなあ。好奇心旺盛な子供に育ったのは父親のおかげなのかもしれない。
 さらに興味深いのは、全く知らない事柄については興味を抱かず好奇心は湧かないという話だった。ただし知りすぎている事柄に対しても好奇心は抱かないようで(そりゃそうだ/笑)、好奇心には「手ごろな量の知識」が前提となるらしい。つまり好奇心旺盛な人というのはすなわち、幅広く色々な知識を持っている人ということになる。何事も知れば知るほど楽しくなり、そして知れば知るほど更に知りたくなるのはこういうわけだったのだねえ。
 子供は2歳から5歳の間に、「どうやって」「どうして」という質問をなんと4万回も行うという調査結果もあるらしく(*)、こういった話題に疎い自分にとっては、目からウロコが何枚も落ちるような内容だった。

   *…本書の邦題はここから取られたもののようだ。しかし確かに分かりやすく
      キャッチーな書名ではあるけれども、新書の薄いビジネス書を連想してしま
      ってちょっと残念だ。サイモン・バロン=コーエンの『共感する女脳、システ
      ム化する男脳』(NHK出版)の記事でも書いたのだけれど、個人的にはせっかく
      良い原題があるのにこういう邦題の付けかたをするのはどうかと思う。

 他にもけっこう頷いてしまう文章は多い。例えば“好奇心は「知識の感情」であると理解されてきたが、情報の空白は必ずしも理性的に認識されるわけではなく、例えば掻かずにいられない痒みのようなものだ。”なんて、思わず膝をうちたくなる。疑問が頭に浮かぶと判るまで落ち着かないんだよね。
 また「インターネットはかつてないほど多くの学びの機会を提供してくれる」「しかし、そこに好奇心が伴っていなければ(中略)インターネットは猫の写真を楽しんだり、見知らぬ他人と言い争いをしたりするのに使われるだけになる。」なんて言葉も。猫の写真を眺めて癒されるのは別に悪いこととは思わないが(笑)、SNSでつまらない諍いをしている人をみると正直いって「この人はなんと無駄な時間を使っているのだろうか」とも思えてしまうのもたしかだ。

 以上、幅広い知識と好奇心の重要性を説いているだけあって、取り上げるテーマの幅広さを自らも実践しているかのような本だった。ちょっと焦点がぼやけてしまっているきらいはあるけど、けっして悪い内容ではない。生涯に亘り読書や文章を書くことに親しんだ人は、そうでない人に比べ高齢による認知機能の低下が遅いといった話も書かれていて、本好きの自分にはちょっと嬉しかったりもする(笑)。好奇心旺盛な人はいちど読んでみると良いのではないだろうか。自分のその好奇心がどこからくるのかよく解るから。
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『女の子は本当にピンクが好きなのか』堀越英美 Pヴァイン

 “Think Pink”という言葉をご存じだろうか。自分は全く聞いたことがなかったのだが、なんでも女性向け商品にピンクやパステルカラー、花柄や光り物といったステレオタイプの仕様を用いることのようで、「ピンク発想」という訳語もちゃんとある。ピンクという色は女の子や女性が好む色である一方で、社会における女性の位置づけや性的な役割分担というジェンダー的な問題にも絡むため、どうやら一筋縄ではいかない色らしいのだ。
 本書はそんなピンクについて、アメリカの女子向け玩具の変遷やテレビ番組におけるジェンダーの取り扱い、そして日本で一時期ツイッターを通じて流行った「ダサピンク」やプリキュア等のアニメなど、種々雑多な話題を通じて考え、そして世界と日本における女性の主体的な生き方と社会の関係について想いを馳せようというもの。帯にある「この色(ピンク)と私たち(現代社会)のかくもややこしい関係」という言葉が、内容を端的に説明しているのではないだろうか。
 ただし、けっこう重いテーマではあるのだが書きぶりは決して暗くはないのでご心配なく。女性を象徴する色であり性的役割区分を可視化した「ピンク」という色が意味するものを、自分のような朴念仁のオヤジにも判りやすく解説してくれてとても面白い。本書のようにそれまで知らなかったことを教えてくれる本は大好きだ。

 全体は六章で構成されていて、まず第一章「ピンクと女子の歴史」では服飾史を紹介しつつ、かつては男女の区別なく着られていたピンクがいつ頃から女性専用の色になってしまったかについてひもといていく。結論から言えば、どうやら18世紀にベルサイユ宮殿から始まった「ピンクブーム」がヨーロッパ全土に広まったのが最初。フランス王室のファッションを真似て、女の赤ちゃんにはピンクの産着を着せるという風習が定着していったらしい。そしてそれをさらに後押ししたのが50年代のアメリカ。アイゼンハワー大統領夫人のマミー氏と映画女優のジェーン・マンスフィールドという二人の人物が熱烈なピンク愛好家であり、戦勝ムードに沸くアメリカで二人が身につけたり住宅に取り入れたピンクが、豊かで幸せな女性の象徴として全女性の憧れの色となったのが理由のようだ。
 こうして生まれたときからピンクに包まれて育った女の子は、第二次世界大戦からの帰還兵の就職先を確保するために政府主導で進められた女性の専業主婦化政策と相まって、幼いころからピンクアイテムと一緒に以下のような規範を刷り込まれていくことになった。
 「素敵な女の子はガムをかんではいけません。ズボンもはいてはいけません。常に優しく柔らかに、そして少々おバカに。自分の意見を言い立てることは慎み、しとやかなドレスを着て美しくふるまいましょう。そうすれば素晴らしい(高収入の)男性に愛されて、彼の庇護のもと幸福な暮らしができるでしょう。」
 うーん、まさに1937年公開の映画『白雪姫』の主題歌「いつか王子様が」そのままの世界ではないかねえ。
 もっともその後のアメリカでは、ウーマンリブ華やかりし1970年ごろにピンク色の抑圧に対する女性の不満が爆発して単純な「男の子はブルー、女の子はピンク」という色分けはなくなり服装やおもちゃにも中間色が使われるようになったそうだ。
 その傾向が再び変化し始めたのは1980年代半ばのこと。子供が3歳ぐらいになり性的アイデンティティが芽生えてくると、なぜか三~七歳の女児はピンクに対する執着がとても強くなるらしいのだ。(男女の視覚発達の違いなどそれらしい推測も紹介されてはいるが本当のところは良く分からない。)さらに2000年に発売された〈ディズニー・プリンセス〉ブランドの大成功が、パステルカラーを基調とした〈レゴフレンズ〉シリーズ(2012年発売)やハロー・キティなどと一緒になって「ピンク・グローバリゼーション」を巻き起こしているとのこと。男女平等の価値観の浸透とともに子供の自主性が尊重されるアメリカだからこそ、女子にピンクが蔓延しているというのは面白い。
 冒頭部分の紹介だけでずいぶん長くなってしまった。第一章ではこのあと戦後日本の消費文化におけるピンクの歴史についても詳しく述べているがここでは省略する。ピンク・レディーの登場や歴代の魔女っ子アニメの系譜、ファンシーグッズの事例などが取り上げられているので、興味のある方はぜひ本書を当たって頂きたい。

 さて第二章からは、従来のピンクが象徴していたステレオタイプな女性像のひとつである「科学に弱い」「空間把握能力に劣る」といったイメージを払拭するため、スタンフォード大学の学生デビー・スターリングが考案した女の子向け組立玩具〈ゴールディー・ブロックス〉の成功を始めとして、2013年から全米で巻き起こっている「STEM教育(*)」と呼ばれる理科領域全般の教育推進運動が紹介される。結局のところ「一般的に理科や数学が苦手」という女性の特徴も、子供の頃からの固定観念に基づく教育が原因だったというわけだ。

   *…STEM:Science/Technology/Engineering/Mathematicsの頭文字をとったもの

 〈ゴールディー・ブロックス〉やそれに追従して登場したDIYドールハウスキット〈ルーミネイト〉では、付属の絵のストーリーに従って回転装置やテコの原理を応用した仕掛を動かしたり、ドールハウスに付属されたモーターやライトを配線することで扇風機を回したりエレベーターを動かすといった電子工作が可能になる。色はパステル調で可愛らしいが、「ピンク・プリンセス」への挑戦という意味ではウーマンリブ運動に負けず劣らずの大きな影響を与えるものではないだろうか。またイギリスでもSTEMドール〈ロッティー〉が誕生したり、老舗メーカーも「セクシーすぎない女子アクションフィギュア」の〈IAmElemental〉シリーズや飛行機や観覧車を作れるSTEM玩具〈マイティ・メイカーズ〉を発売したりと、ここ数年で欧米では女子向けのおもちゃが様変わりしているそうだ。昔ながらのお人形の代名詞であるバービーや日本のリカちゃん人形には「算数が苦手」という設定があったらしいが(注:現在では公式プロフィールからは消えている)、そのような部分も今後はどんどん変わっていくのだろうね。

 さて以上のように長年にわたるピンクの呪縛から逃れて新たな動きが出始めた欧米の様子を見たあとは、話題はいよいよ日本におけるピンク問題へと移る。第四章「ピンクカラーの罠」には副題の「日本女性の社会進出が遅れる理由」からもわかるように、社会的に根強い偏見がみられる日本での状況が俯瞰・分析されている。
 いわゆる「女性らしい職業(**)」というものが子供のうちから人形遊びなどで刷り込まれていく様子と、それらの職業が現実的には過酷もしくは低賃金であり、また「男性に嫌われるリスク」を負う覚悟がないとそれ以外の職業に進みにくいという環境が、女性の社会進出を阻んでいる実態が明らかにされる。さらには家事の分業の不平等や出産後の社会復帰を阻む社会風土の存在など、日本においては極めて広範囲にわたる問題をはらんでいると言えるだろう。著者の「たぶん日本におけるピンクとは、欧米におけるピンクよりももっと根が深いのだ」という言葉はおそらく正しい。

  **…花屋、パン屋などの小売店の店員やキャビンアテンダントなどのサービス
      系、看護師や保育士などケアワーク系、美容師やネイリストなど美容系、
      秘書や受付や一般事務などアシスタント系、通訳や英語教師など語学系、
      そして司書や編集者など人文系のおよそ6タイプに分類できるそう。

 日本で社会改善が進まない理由として本書で著者は「大人が問題視しない」ことを挙げている。日本人男性は女性に対して無垢な少女性と無限の愛情を注ぐ母性を求めている――という話をどこかで聞いたことがあるが(気持ち悪い)、結局のところ大人から子供まで男女を問わず社会全体が「ピンクの罠」に囚われて身動き取れなくなっているのではないだろうか。
 主体的な生き方ではなく「モテ、愛される、カワイイ、選ばれる」といった客体としての女性性を演じることでしか認められない日本の女性。よく使われる「女子力」という言葉に対しても著者の「努力を重ねて客体としての女を演じることにより、主体としての「力」を有することを目指す(ある意味では転倒した)現代女性たちのマインドセットを表している」という鋭い分析がなされ、読んでいて心が苦しくなってくる。

 話は佳境に入っていよいよ第五章「イケピンクとダサピンク」では女性のアイデンティティに関する考察へ。そのような状況を踏まえた上で「ダサピンク」という言葉が生まれてきたことを考えるとなかなか趣き深い。これは単にあまり綺麗でないピンク(ダサいピンク)であることが批判されているのではなく、「どうせ女性にはピンクや光り物でも使っておけば良いだろう」という安易な姿勢が批判されているわけだ。そしてこれだけ“難しい色”であるピンクを心から「好き」と言える女性たち、あえて選んで身に着けている女性たちこそは「自分をひきたてる色として、ピンクについて日々考察している一種の美学者」であるのだと著者は言う。(もしもそのとおりなら、そんな女性に対して“雑なピンク”をあてがうのは確かに冒涜に等しいことのような気がする。)
 ではもう一方の「イケピンク」とは何だろうか。それは著者の「客体としての女性性を象徴する無垢なピンクではなく、主体的に選び取られたピンクである。だから、イケピンクは一人ひとり違うのだ」という言葉以外には特に説明は不要だろう。これは匿名性が高く、そのため性別が判り難いツイッターなどのSNSにおける書き込みをみていると非常によく理解できることでもある。「女性」という仮面を外して一人の人間として素に接した場合、ひとりひとりの人物がいかに輝いて生き生きとして見えることか。最近では、秋葉原発の某アイドルユニットが「女の子は可愛くなきゃね 学生時代はおバカでいい」と歌ったことでユニットを主宰する人物が批判を浴びたのも記憶に新しいが、これもツイッターから始まったことでは無かったろうか。
 これからは第六章「ピンク・フォー・ボーイズ」で示される「ピンクが好きな男子」「かわいいものが好きな男性」と同様に、誰もが「自分の好き」を自由に言える社会になっていってもらいたいと思う。そしてそのためにはまず女性が生きやすい社会が実現されるべきなのだ。女性が楽に生きられる社会は男性にとっても生きやすい社会であるに決まっているのだから。

 本書はとっつきやすくて読みやすいけれど決して侮ることなかれ。良書であるよ。

<追記>
 以前読んだ『女の子よ銃をとれ』(雨宮まみ著/平凡社)も、「女の子」という固定概念から解き放つという意味で本書と同じように刺激的で面白い本だったが、本書はふたりの女児の母親という立場がまた違った視点を提供しているように思える。ちょうど今読んでいる『子どもは40000回質問する』(イアン・レズリー/光文社)という本には子供の成長と好奇心に関して書かれていて、まさに本書にも共通するところがあると感じた。誰しも幼いころに持っていた自由な好奇心を、そのままの形で伸ばしてあげられると良いのだがなあと、一人の男児を育てた親として思うところではある。

第5回名古屋SF読書会レポート

 ※R・A・ハインライン『宇宙の戦士』の内容に触れています。未読の方はご注意ください。

 さる黄金週間初日の4月29日に、第5回となる名古屋SF読書会が開かれた。第4回(G・イーガン『ゼンデギ』)は都合により欠席だったので、SF関係の読書会は昨年の温泉読書会からおよそ6か月ぶり。名古屋SF読書会に限って言えば昨年の7月26日以来なんと9か月ぶりだ。(*)
 今回の課題本は“御三家”のひとりロバート・A・ハインラインの問題作『宇宙の戦士』。内田昌之氏による新訳版が昨年出たこともあり、「新訳しばり」でやってみようということになったのだ。中高生のころに矢野徹訳による旧版は読んだことがあって、その後、色々と思うところがありハインラインは読まなくなっていた。なので、自分がこの著者の本を読むのはおそらく35年以上ぶりとなるはず。今読むと印象がどのように変わるのか興味は尽きない。

   *…その間に少人数でのディック『ヴァリス』読書会や翻訳ミステリー読書会
      (ギルバース『ゲルマニア』)などには参加しているので、読書会自体は
      そこそこ出席している。すっかり生活の一部になってしまったようだ。(笑)

 今回の場所はいつのもように名古屋駅前の貸会議室。スタッフもいれて30名弱のメンバーなので、3つの班に分ける。前半はそれぞれのテーブルでホワイトボードに記録を取りながら個別の協議を行い、休憩を挟んで後半は一列に並べたボードを前にして全員で意見交換を行う方式。(このやり方は翻訳ミステリー読書会で教えていただいたのだが、本当にスグレモノだと思う。大人数での読書会にぴったりだ。)
 ちなみに司会役の人の頭文字をとってW班/N班/H班と呼んでいる3つの班は、SFを結構読み込んでいる人や読書会自体の参加が初めての人など、様々なタイプの人にあわせてある程度色分けをしてある。しかし回を重ねることで常連さんも増えてきたことだし、そろそろ混ぜても良い頃合いかもしれない。今回はそれも考えてすこしシャッフルしてみたが、そう大きな問題は無かったように思う。というわけで、前置きはこれぐらいにして早速内容について。

 まず読書会の開始にあたっては、今回もご参加いただいた翻訳家の中村融さんから新訳版の翻訳をされた内田昌之氏のブログ記事(「内田昌之翻訳部屋」2015年10月28日付け)の御紹介を頂いたので、読書会世話人のW氏によりそのページの朗読がなされた。
 異星人との戦争のために軍隊に入隊した若者の姿を描くこの小説は1959年に本国アメリカ、1967年には日本で出版された当時から、「右寄り(に見える)主張」に対して議論が起きた。しかし内田氏によれば「同時期にあの『異星の客』が書かれていたことを考えれば、ハインライン自身がこの作品で単純に右とか左とかの主張を繰り広げているとは思えません」とのこと。むしろ「一般的なイメージとは裏腹に、作者のバランス感覚がよくつたわってくる作品」ともおっしゃっておられる。「もちろん、作品の解釈は人それぞれで、これが正解というのはありません」ともあり、まさに読書会向きの本といえることを再認識した次第だ。ただし念のために冒頭で「参加者の方の政治信条ではなく、あくまでも本書の小説としての出来に対して意見を述べていただきたい」という話をさせていただいた。こういう本を取り上げるとけっこう面倒くさいのだ。(笑)
 というわけでいよいよ各班での意見交換開始。自分のいるH班は全部で9名で、読書会はおろかSF小説自体を読むのが初めての方から、専門誌で書評を書いている人まで様々な人がいる。まずは順番に自己紹介と感想を述べていく。中学から高校の頃に読んだという人が4人、今回初めてという人が5人いたが、一生懸命みんな褒めるところを探している感じが面白い。後の意見交換のときに出た話もまとめると、「ズィム軍曹が再登場するシーンで初めに名前を言わないところとか、物語としての演出が上手い」「パワードスーツがとにかく格好いい」「若者の出世物語として面白い」といったあたりは評価されていたようだ。自分も『のらくろ』や『島耕作』のようなイメージを持っていたので納得だった。世間知らずの若者が様々な苦労の末に社会で認められるようになっていくというのは、小説としてひとつの王道ではあるのだろう。好き嫌いは別にして訓練の様子や戦闘シーンに臨場感があった(作者の実体験の賜物?)という点も、皆さん一致して評価されていたようだ。
 さて一方、欠点については皆さん手厳しい。(自分もだが。/笑)まず拒否反応があったのは、新兵の訓練キャンプの指導教官であるズィム軍曹や主人公ジュアン(ジョニー)・リコのハイスクール時代の恩師であるデュボア元中佐の言葉を借りて述べられる、著者(のものであると思われる)思想の数々だ。旧版でも巻末の訳者解説でその手の話がたくさん書かれていて、否応なしに自らの政治信条を試される気分になったのを思い出した。結局のところ本書で書かれているのは「(アメリカにおける)一人前の男」を最上とする世界観であって、それを判りやすく象徴しているのが機動歩兵という陸軍部隊であるという意見には納得がいった。
 次に意見として多かったのは戦闘シーンが殆どなくてやたらそれ以外のシーンが多いということ。ただしこの点については必ずしも悪い評価ばかりではなく、小説としてバランスがとれていて読みやすいという意見が(主に本書を初めて読んだ方から)出ていた。さきほどの『のらくろ』と同様、あとで全員での意見交換をしたときには映画『愛と青春の旅立ち』が出ていたのも同じ理由だろう。なおパワードスーツを用いた「未来の戦争」という点については、その後の『機動戦士ガンダム』をはじめとするアニメの影響もあって、さほど拒否反応なく受け止められていたようだ。
 先にも書いたように日本においては1967年に出版されたため、当時、次第に泥沼化の様相を呈していたベトナム戦争との関連で感想を述べる人が、自分も含めて多かったように思う。ただし(日本においてはそれで間違いではないと思うが)アメリカ本国では59年なので、ハインライン自身はベトナムではなく朝鮮戦争をイメージしていたというご指摘が中村融氏からあり、眼からウロコが落ちる感じがした。敵異星人の思考形態や社会システムに蟻(=共産主義国の揶揄、中村氏によればアジア人?)を用いている点からも、マッカーシズムや「強いアメリカ」を求める考え方が背景にあるというわけだろう。ここで描かれているのはある意味でディック『宇宙の眼』のような作者の夢(理想)の世界というわけだ。本来なら機械によって力が増強されるため性別には関係なく機動歩兵は務まるはずなのに、なぜ機動歩兵には女性がいないのか?という点や、実際の歴史とは違う架空の過去の歴史(**)が書かれているという指摘もあったが、それらもみな「夢の世界」ということで説明が付く。「権利を求めるだけでなく自らの義務を果たせ」という考えで貫かれた社会や、母親の影があまりに薄いことなども全て根っこは同じなのだろう。そして外部に敵を想定しないと成り立たない制度だという世界のいびつさも......。
 異星人の設定があまりにもおざなりなのが自分としてはかなり不満だったのだが、これも作者が書きたいのは理想社会や思想の部分であって敵はただ外側に存在すればいいだけと考えると、適当に手を抜いている感じが理解できた気がして腑に落ちた。うん、やはり読書会やってよかった。

  **…例えば295ページにはフレデリックス少佐が名誉回復をされなかったとあるが、
      事実は本書が執筆される前の1952年に名誉回復されているらしい。

 ただ、この考えを仮に小説の設定としても受け入れることが出来るかはまた別の話であって、事実『夏への扉』やハインラインのジュブナイル作品に親しんだ人からは、読むのがとてもつらかったという意見があったことも付け加えておきたい。さらにここで述べられている考え方が19世紀プロイセン王国の軍人クラウゼヴィッツを始め、所詮あちこちからの借り物であってそう目新しいものではないということも含めて。

 さて、ひととおり各班の意見が出揃ったところで、つぎは休憩を挟んでの全員による意見交換へとうつる。他の班の話の中から面白い意見をかいつまんでご紹介しよう。
 まずW班で面白かったのは、SF読みが比較的多い班だったにもかかわらず初読の人が多かったということ。昔の論争をしっている人ほど、面倒くさい話を敬遠したのだろうか。「読書会がなかったら多分これからも一生読まなかった」というコメントもあり、本を読むきっかけとしての読書会の位置づけを改めて実感した次第。
 感想として出たのは小説として面白くリーダビリティが高いという点。しかし本書を褒める人が言及する「女性や有色人種も白人男性と同じように活躍する社会だから進歩的」という意見には懐疑的で、「とりあえず使っとけ」という程度の扱いなので肩すかしだったと手厳しい。さすがだ。また「主人公は成長など全くしておらず、ただ出世しているだけ(笑)」という指摘も鋭い。「父親が気持ち悪い」とか「リコは特に目立つ才能も無いのに上官や恩師になぜあんなに褒められるのか、それは洗脳しやすいからだ」といった意見には会場内爆笑だった。
 次は翻訳家の中村氏を有するN班。この班の人はさまざまな文献や豊富な知識に基づく説明が聞けたようで羨ましい。作家でハインライン研究家でもあったアレクセイ・パンシンが「『宇宙の戦士』以降のハインライン作品はお説教ばっかりで面白くない」といったとか、「最初に中篇版が書かれてそれを膨らませて長篇が出来たというのは誤り。最初に長篇を書いたが売り先が無かったのでやむなく一部を中篇として切り売りしたのが本当」とか、あるいは「ハイラインがこの作品を書いたのは再婚相手がバリバリの右派だったからでは?」など、興味深い話が色々と出たようだ。意外だったのは、この班では当初肯定的な意見が多かったということ。他の班が終始ほぼ批判大会であったことを思うとちょっとびっくり。(もっとも後になると結局N班でも批判になっていたようだが。/笑)肯定的な意見は先ほどと同様に「読みやすい」という点。この班からは「完全な肉体を持つ強い男性でないと一人前でない」といった先ほどと同様の意見のほか、「おじさんが若者に説教して導く小説(笑)」とか「徴兵制が無いのはハインラインが理想とする社会制度が分業制だから」といったユニークな意見も聞くことが出来た。たしかにこの世界には身体障害者の人は存在しないのだよなあ。(途中で出てきた傷痍軍人も結局はリクルートの為のニセモノだったし。)

 あれこれ話しているうちに会議室の終了時刻が近づいてくる。愉しい時間が過ぎるのはあっという間なのだ。慌てて「『宇宙の戦士』の後に読むおすすめ本」を確認してこの日の読書会はお開きとなった。以下にその時あがった作品リストをざっと並べておしまいにしよう。
 『卵をめぐる祖父の戦争』D・ベニオフ
 『エンダーのゲーム』O・S・カード
 『終わりなき戦い』J・ホールドマン
 『シビリアンの戦争』三浦瑠麗
 『戦争の条件』藤原帰一
 『宇宙兵ブルース』H・ハリスン
 『スローター・ハウス5』K・ヴォネガット
 『銀河英雄伝説』田中芳樹
 『老人と宇宙(そら)』J・スコルジー
 『アラン、海へ行く1』デューイ・ラムディン
 『風雲の出帆 トマス・キッド1』ジュリアン・ストックウィン
 《ストリート・キッズ・シリーズ》ドン・ウィンズロウ
 『銀河おさわがせ部隊』R・アスプリン
 『異星の客』『月は無慈悲な夜の女王』R・A・ハインライン
 『宇宙船ビーグル号』A・E・ヴァン・ヴォクト
 『フルメタルジャケット』(映画)
 『スターシップ・トゥルーパーズ』(映画)
 『フューリィ』(映画)

<追記>
 大勢の方が参加された二次会も含めて今回も大変愉しい読書会だった。ご参加頂きました皆さんを始め、急な用事で参加できなくなったにも関わらず感想や次のお薦め本を紹介してくださったニケさん、ありがとうございました。そして本業が忙しいなか、準備や当日の運営に奔走してくださったスタッフの皆さん、お疲れさまでした。次回の「第6回名古屋SF読書会」の概要も早々に決定したことだし(開催日:7月30日/課題本:B・J・ベイリー『カエアンの聖衣』)、また愉しくやりましょう。(さらに今回は第7回の課題本まで決定した。スタニスワフ・レム『ソラリス』に決定した。『ソラリスの陽のもとに』ではなく原典訳の『ソラリス』の方だということもあわせ、レム好きとしては大変に嬉しい。よーし、やるぞー。/笑)

<追記2>
 読書会の常連のO-bakeさんがご自身のブログにアップされた読書会レポートです。O-bakeさんどうもありがとうございました。
 ■O-bakeと読書とひとりごと 『第5回名古屋SF読書会』


 SFコミュニケーション研究会のおもちΩさんも読書会レポートをアップしてくださいました。おもちΩさんどうもありがとうございました。
 ■SFコミュニケーション研究会活動記 「第5回名古屋SF読書会『宇宙の戦士』レポート」

2016年4月の読了本

 今月は最後に黄金週間に突入したので一気にたくさん読めた。休み中にがっつり読んでおかなくては。

『愛国と信仰の構造』中島岳志/島薗進 集英社新書
 現政権により日本が向かいつつある全体主義的傾向について、歴史と信仰の視点から読み解く対談集。明治政府における神権政治と立憲政治の二重構造と臣民共育による前者の暴走に見て取り、「煩悶」や「不安」におびえるインテリと大衆がそれを支えたとする。歴史分析はなかなか鋭いと思う。

『南十字星共和国』ワレリイ・ブリューソフ 白水uブックス
 ロシア・シンボリズムの詩人による散文作品集。「鏡の中」や「いま、わたしが目ざめたとき…...」のように、夢と現の区別なく頽廃的で背徳的な幻惑を彷徨う乱歩の如き作品から、シュオッブを思わせるような「地下牢」や「塔の上」「大理石の首」、そして内宇宙と戦慄のJ・G・バラードを思わせるものまで、十二篇の暗く残酷な物語を収録。表題作「南十字星共和国」はもちろんだが、「ベモーリ」や「防衛」といった小品も悪くない。示される昏い幻想がいったい何のシンボルなのかはっきりとは解らないものの、革命前夜の重苦しい空気が感じられるのは確かだ。

『あめだま』田辺青蛙 青土社
 副題に「青蛙モノノケ語り」とあるように、異形の者たちを語り手にした掌篇が詰まった作品集。ぬめぬめとした肌触りの異形の日常がぎっしりで、恐ろしくも美しかったり可笑しかったり。稲垣足穂『一千一秒物語』の皮をくるりと裏返しにしたようなコント集だった。宇宙とか薄さとか少年だとか、常に外へと向かうベクトルがそのままゴムのボールを裏返したみたいに全部内向きになってしまい、真ん中へとどんどん潜っていく感じ。身辺の話ではあるが内田百閒とも違い不安で湿ったりせず、あっけらかんとしている。こういう感触の作品はありそうで無い。

『ねにもつタイプ』岸本佐知子 ちくま文庫
 著者一流の虚言的なエッセイと現実から地続きの虚構とがないまぜになってじわじわくるのが堪らない本。極上の”変”は相変わらず冴えわたっている。元版に「桃」「ピクニックじゃない」「ツクツクボウシ」「鍋の季節」の四篇を増補したとのことで期待して読んだのだが、再読なのに中身を全く覚えていないので得した気分はしなかった。(苦笑)

『天使とは何か』岡田温司 中公新書
 掴み所のないキリスト教における天使という存在について、様々なイメージの変遷を紹介するとともにその意味するところを考察した本。古くは異教の神々の残滓やイエスとの同一性や、或いは天界の調和の音楽を奏でる星に堕天使など、取り上げられる素材は多種に渡りとても濃い。あまりに情報量が多くて読んでいて眩暈がするほどだが、全体を通してみるとキリスト教世界における「天使」というものの意味が時代とともにどう変化してきたか、そしてなぜ掴み所が無いのかがじんわりと見えてくる。著者がいう「(近代になり)神は死んだ」が「天使は死なない」という言葉も、実感をもって迫ってくるようだ。前に読んだのにすっかり忘れてしまっていたが、『創世記』には人間を誘惑して子供を作らせる天使が描かれている。天使をプネウマやダイモンといった異教的なものの残滓と考える著者の視座は納得できるものだ。また初期キリスト教においては、イエスは天使と同一視されていたというのも知らなかった。こうしてみると天使というものは、例えば密教における曼荼羅の諸仏みたいに一種の”装置”なのだということが解ってくる。(ただ何のための装置なのかがわからないのであるが。)
 堕天使についての考察も滅法面白い。神に挑戦して敗れた彼らが幽閉された「地獄」とはギリシア語でタルタロス、すなわちクロノスに味方してゼウスと戦ったあげくティタンたちが堕とされた場所と同じであるとのこと。ここにもキリスト教と過去の異教(ギリシア・ローマ神話)との類似が見られるわけだ。そして堕天使はやがて自由意志で堕ちることを選んだものとして、ミルトン『失楽園』の頃から芸術家の苦悩と重ね合わされプラスのイメージが付加されたり、19世紀には父や子と離れた自由なイメージで描かれるようになった。第5章では『ベルリン・天使の詩』からモローやクレー、ロートレアモンやリルケなど今に至るまでの様々な天使について語られている。
 本書を読んで、昔読んだ『肩胛骨は翼のなごり』をまた読み返したくなった。あの物語に出てくる“天使のような者”は、本書で紹介されたような様々な意味を持たされ曖昧模糊としている天使の表徴を、丸ごとあますところなく描いているようにも思えてくる。

『出身国』ドミトリイ・バーキン 群像社
 男たちの日常を通して救いのない暴力的世界の閉塞感と冷酷さを描く。登場する男たちはいずれも身体や精神に過剰や欠損を抱えたものたちで、一読なんともいえぬ違和感を覚え読み続けるのがつらくなるほど濃密な作品世界となっている。あちこちに貌を出す不気味で無意味なシンボルも含め、ある種のロシア的なリアリズムと云えるのだろう。表題作のほか「兎眼」「根と的」などの作品が気に入った。訳者あとがきには英語版の巻末解説で挙げられていた本書の特徴として「登場人物・神話・言語」というキーワードが紹介されていたが、たしかに云われてみればそんな感じだ。(ただ「神話」と呼ぶのは少しばかり安直な気がしないでもない。どちらかというと「暗くて重くて衝撃度を増した舞城王太郎」といった感じだ。本職がトラック運転手というのも如何にも「謎の作家」らしくて好いと思う。)
 先ほども書いたように、ここに書かれているのは基本的にはある人々の日常生活。しかしふとした拍子に断層がその姿をほんの一瞬みせるときがあり、それがなんとも不気味。気がつかなければそれで何事もなく済んでいきそうな気もするが、どうしてもそこに目がいってしまう。この辺りが味なのかもしれない。こういった本を読んでいると普段慣れ親しんだ本とあまりにタイプが違うため、本を読む行為とはすなわち世界に向けて目を開くことだとも思えてくる。またあらゆるものが混乱して敵対的であるためいずれの物語にも救いは無く、まるで終わりのない責め苦を背負わされているようでもある。そしてそれが世界というものだとも思い知らされる。(少しばかり大袈裟だけど。/笑)なかでも特に「葉」という短篇は難しくて正直いまひとつよく解らなかった。しかし解釈を拒む物語もそれはそれで面白いと思う。なんせ世界は説明不能な矛盾と謎に満ちているのだから。ところで『カステラ』の時もそうだったが、日本翻訳大賞の受賞作は描写が明晰なのに何が書かれているか解らないのが面白い。朦朧とした描写の話はあまり得意じゃないけど、こういうのは好きだ。

『奇妙な菌類』白水貴 NHK出版新書
 「スター性のある菌類を紹介することで、世間一般に抱かれているマイナスイメージを払拭したい」との意図のもとに「とりわけ物珍しい形や面白い生態を持つ菌類」を集めて紹介した本。紹介されるのは例えば昆虫に寄生して操ったり花に擬態する菌。もしくは体内に藻を繁殖させて共生したり、土中に棲むセンチュウを罠で捕食する菌。さらにはある種のカタツムリの殻だけを分解する菌やジェット燃料を糧とする菌などユニークなものばかり。まさに驚きの連続だ。少し気味の悪い写真も出てくるので昆虫嫌いな人にはお薦めできないが、自分としては非常に愉しかった。

『地球礁』R・A・ラファティ 河出文庫
 全宇宙で最も“さもしい惑星”である地球に座礁したプーカ人を襲う試練と、彼らの恐るべき子供たち(アンファン・テリブル)による人類殲滅計画。口承文芸や神話の流れをくみ、死者と生者とが祝祭を繰り広げる分類不能な小説だ。熱狂的なファンをもつラファティではあるが、長篇は様々な要素が入り乱れて目まぐるしく変わるため、自分にとっては話についていくのが大変なときもある。その点で本書は細かなエピソードの積み重ねで判りやすく色んな作品の集大成っぽいところがあるため、ラファティの中で一番好きな長篇作品といって良いかも。(ちなみに二番目は同じく恐るべき子供たちが登場する『蛇の卵』。ラファティでは恐るべき子供たちの話がとりわけ好きなのだ。)作中でプーカ人の女性が述べる 「わたしたちは(中略)素朴な倫理で生きてゆく。素早くあれ、そして唐突であれ!これがわたしたちの秘密」という言葉は、そのまま著者ラファティの秘密といっても良いのかも知れない。

『宇宙の戦士』ロバート・A・ハインライン ハヤカワ文庫
 矢野徹氏による旧版から数十年ぶりに内田昌之氏によって訳出された新訳版。蟻のような集団行動を得意とする異星人との戦争が続く世界で、ジョニー青年が連邦軍に入隊して厳しい訓練と過酷な実戦を経て少尉になるまでを描く。旧版では訳者による示唆もあって社会的責任や戦争の是非といった思想面が強調されたきらいがあったが、今回は新たな視点で訳し直されており、本書を小説として純粋に愉しむことができるという点で評価できると思う。(ただし「ガンダムのルーツ」という帯の惹句に魅かれて読んだ人はちょっと肩すかしを喰うかも。)

『蒲公英王朝記 巻ノ一』ケン・リュウ 早川書房
 架空の多島海を舞台に繰り広げられる七王国の歴史群像劇。(題名の蒲公英は「たんぽぽ」ではなく「ダンデライオン」と読む。)三国志を思わせる魅力的な登場人物と怒涛の展開に心を奪われる。英雄は英雄らしく、そして腐った宮廷人は宮廷人らしく描かれているが、とりわけ市井の者たちの姿が丁寧に描かれているのが好い。生きるものは生き、死ぬべきものは死ぬ。重瞳の目を持つ主人公というのも魅力的で好い感じだ。本書は大長篇を二巻に分けたうちの前半部分であって、訳者・古沢嘉通氏によるあとがきによれば、下巻は「シルクパンク」というキャッチフレーズに相応しい急展開になるとの事。『十二国記』のテイストを加えたケン・リュウ版『三国志演義』のような前半が、これからどのように変貌していくのか楽しみだ。

『こちらあみ子』今村夏子著 ちくま文庫
 表題作と「ピクニック」の他、書下ろしの「チズさん」の3つの短篇を収録した短篇集。本書においては何を語るかではなく何を語らないか、あるいは何が見えたかではなく何が見えなかったかが重要で、見えないものが読む人をえぐり、声なき声で雄弁に語りかけてくる。目の前で物語が展開しているような、まるで手にとってさわれそうなほどの質感が凄い。とりわけ表題作にはアンナ・カヴァンの『アサイラム・ピース』を初めて読んだ時のような衝撃を受けた。「ピクニック」や「チズさん」においても同様で、語られぬことの輪郭が徐々に見えてくることによる、ある種のすごみが感じられる。誰にとっても特別な一冊になる本だと思うが、問題は耐えられるかどうかだ。読む人の強さを試される本ではないだろうか。

『女の子は本当にピンクが好きなのか』堀越英美 Pヴァイン
 アメリカの女子向け玩具の変遷やテレビ番組の紹介や、ツイッターで話題となったダサピンクやプリキュア等のアニメ等を通じて、世界と日本における女性の主体と社会性の問題に想いを馳せる本。重いテーマだが口調は暗くはない。ここでいうピンクとは女性を象徴する色であり性的役割区分を可視化したものと言ってもよいかもしれない。とても面白い。このようにこれまで知らなかったことを教えてくれる本は大好きだ。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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