『宇宙の戦士〔新訳版〕』ロバート・A・ハインライン ハヤカワ文庫

 矢野徹氏による旧訳版を初めて読んだのは、中学三年生か高校一年生のころだったろうか。本篇に続いて、訳者あとがきやその後の「SFでてくたあ」で繰り広げられたやりとり(石川喬司氏によってまとめられたダイジェスト版)を収録した解説を読み、否応なく「社会正義としての暴力」についての是非を考えさせられた結果として強烈な拒絶反応を起こしたのを思い出した。
 本格的にSFを読み始めたころにはクラーク/アシモフ/ハインラインという所謂“御三家”を全て読んでやろうという野望(笑)に燃えていて、ハインラインも文庫で当時手に入る『人形つかい』や『宇宙の孤児』といった長篇あるいは『月を売った男』のような短篇集を一生懸命追いかけていた。そんな中で出会ったのがこの『宇宙の戦士』だったのだが、正直いってその頃の自分には、この作品が突きつけるものを冷静に受け止め咀嚼するには経験も知識も足りなかったようだ。その後、『悪徳なんかこわくない』や『栄光の道』を読んで小説としての出来にも疑問を感じてからは、『愛に時間を』『獣の数字』といった後期の大作に手を出すことも無くなり、自分にとって“過去のひと”となっていった。
 そんなわけで、なんと今回の内田昌之氏による新訳版で本書を読むのは凡そ45年ぶりになるのではないだろうか。ハインライン自体、たぶん40年以上読んでいないと思う。その途中、テレビアニメのガンダムが本書の「機動歩兵」や「パワードスーツ」に着想を得た「機動戦士」や「モビルスーツ」という言葉を一般に広めたり、SF小説の分野でも「ミリタリーSF」が翻訳されて一定数の読者を開拓したりといったことがあった。なので今回、読書会で課題本に選ばれたのも何かの縁と思って、改めて素直な気持ちで読み返すのも良いかも知れない ―― なんてことを考えながら読んでみた。
 で、結論から先にいうと、作者のあまりにも素朴すぎる倫理観や政治信条が生の形で出ていると思うと、はたしていかがなものかと思うが、小説としては割とよく出来ていて愉しめた。(つまり旧版の訳者あとがきや解説は純粋に作品だけを鑑賞しようと思えば、自分にとっては却って邪魔だということ。)もちろん作中で語られる主人公の考え方や社会背景その他に賛同できるかどうかはまた別の話だが。
 以下、順番に思いつくところを挙げてみよう。
 
 小説としての基本的な構成は同じ著者の『大宇宙の少年』や『宇宙怪獣ラモックス』といったジュブナイルにみられるように、「世間知らずの若者が様々な試練を経て一人前に成長していく」というものだ。物語としてはまさしく王道とも言える作りで、感情移入さえしてしまえば大変に読みやすい。たとえば入隊時には2000人以上いた新兵が過酷な訓練期間を終えるころには180名ほどに減っている。そんな中の“選ばれたひとり”であることの誇り。どんな社会であれその中で一人の成員として認められ、社会的な階層をひとつずつ上っていくというのは気持ちのいいものだ。古くは『のらくろ』的な面白さと云ってもよいし、最近では『島耕作シリーズ』なんていうのもある。異星人とのはらはらする戦闘シーンや仲間たちとのつらい別れといった、波瀾万丈の展開にも事欠かない。そういった点では、その後の冗漫とも言える長篇群に比べて少なくとも小説としての出来は優れているといえるのではないだろうか。
 しかし本書を愉しむ上での問題は別のところにある。思想的な是非はともかくとして、その内容が自分からすると先ほども書いたようにあまりにも素朴すぎて浸れないのだ。小説を構成する部材として考えるのであればそれがどんなに過激なものであっても、(例えば『その女アレックス』や『鉄の夢』のように)愉しむことは出来る。しかし素材を生のままで提供するのであれば、充分に練り込まれたものでなければならないのではないかと自分は考える。
 まず引っかかったのは99ページでズィム軍曹が新兵の質問に答えるシーンの「戦争とは単なる暴力と殺戮ではない。戦争とはある目的を達成するための制御された暴力だ」というもの。これは19世紀にプロイセン王国の軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツが書いた『戦争論』における「戦争とは他の手段をもって継続する政治の延長である」という主張となんら変わるものではない。本書が出版された1959年といえば、第二次世界大戦とナチスドイツによる大量殺戮を経験し、かつジュネーヴ協定経て南ベトナム解放戦線が叫ばれるなどベトナム戦争の泥沼へと突入していこうとしていた時代だ。そんな中でクラウゼヴィッツそのものとも思える思想はあまりに単純すぎやしないだろうか。(それともアメリカ国内で吹き荒れたマッカーシズムを始め、当時のアメリカ国内の考え方としては比較的一般的なものだったのだろうか?)
 140ページで主人公のハイスクール時代の恩師であるデュボア元中佐から手紙にあった「人が耐えることのできるもっとも気高い運命とは、愛する故郷と戦争とのはざまにみずからの身体を投げ出すことだ」といった記述や、あるいは146ページの同じくデュボアについての回想で「この世で最高のものは金を超越している。その対価は苦しみであり汗であり献身だ......そして、この世(ライフ)でなによりも貴重なものを得るために必要な対価とは、命(ライフ)そのもの」といった記述は、生きることの目的が倒錯しているような気もする。
 また、軍隊の厳しい規律から逃げ出した唯一の脱走兵が、街に潜伏して幼女を殺害するというのも随分都合のいいエピソードとなっているように思える。(物語の作り方としては効果的で上手いが。)非行少年が生まれるのは幼いころ体罰により倫理(社会ルール)を学ばなかったのが原因であり、しつけのためには年配者からの痛みを伴う指導が不可欠であるといった主張は、ちょっと噴飯ものではある。さらに183ページ「人間には、いかなるものであれ、生まれつきの権利などない」といった記述に至っては恐ろしささえ感じてしまう。ここには社会により徹底して“教育”される公的秩序からみた倫理観という考え方なのだ。子供のころの自分は本書のこういった部分に嫌悪感を感じたのだろう。そしてこれこそが著者の考えであると訳者あとがきで読んで、ハインラインを拒絶するようになっていったのだ。今にしてやっと判る。個人は集団(連邦国家や人類)のために存在しておりその逆ではないという考え方。これこそ石川喬司氏がファシズム的思想と呼んだものであるのだろう。

 ここで書かれている「軍人統治による社会」とは、よく言えば「ノブレス・オブリージュ」つまり社会的地位(≒権力)に伴い責任を自覚したものだけが世界を統治すべきというもので、もしかしたらニーチェがいうところの「超人」に近いものなのかも。そして「自分達を守るために戦う」ということさえ「是」としてしまえば、ここに描かれる社会制度は確かに理想的なものであるのかも知れないのだ。ただし必ずどこかに仮想敵を設けなければならないのと、軍人は常に同じ価値観を共有でき、一生涯に亘って“腐敗”することはないという前提つきなのだが……。その前提さえ許せば、徴兵制ではなく誰にも強制されぬ自発的な入隊であるという点と訓練で不適合になっても社会的なペナルティは一切ないという点で、退役者でなければ市民権が無いというこの社会の仕組みすら公平性が保たれているように見えてくる。まさしく一種の軍事的ユートピア思想だ。(ただやはり自分からすると、この考え方はあまりにもシンプル過ぎるような気がするのではあるが。)
 小説としてこの本を考えた時に宜しくないと思うのは、なんといっても父親との再会シーン。彼の入隊に反対していた父親が、異星人の攻撃で妻(ジョニーの母)を喪ってからは転向して自ら軍に志願したうえ、やがて再開したジョニーに対して過去の過ちを心から詫びるとともに彼を称賛するところなどは、あまりにもあからさまに思えてしまい、小説としてもいただけない。ちょっと稚拙なのだ。

 本書でもうひとつ引っかかった点は、ジェンダー的な見方をした時のいびつさ。本書でも軍隊を舞台にした映画でよくあるように、人間性を徹底的に否定する訓練を施すことで上官の命令に対する絶対服従の意識と連帯感を醸成し、それをもって「男にする」という表現がある。なぜか機動歩兵は全てが男なのだが、一方で攻撃艇のパイロットは全て女性が占めていて、それは性差による適性の違いという説明が一応はある。しかし人間の力を何十倍にも増幅するパワードスーツであれば機動歩兵を女性が出来ない理由など無いだろうし、出撃の直前、つまりこれで最後となるかも知れない時に聞く声が女性のものだと機動歩兵の士気が高まるという記述を読むと、なんだかなあという感じだ。生物学的に男性であるものは無条件で生物学的女性を好むといった前提もそうだ。
 他にも自然放射線により突然変異と生物の進化が引き起こされるという科学的記述はいかにも古い気がするし、人類と交戦する異星人「バグ」の生態に関する記述も不満が残る。異星人の描写は兵隊バグや労働バグ、あるいは女王といった名前とともにいかにもアリを連想させる。一糸乱れぬ統制のとれた行動や非人間的な動きは共産主義を揶揄するものであるだろうが、スタニスワフ・レムの洗礼をうけた身としては地球上の昆虫をそのまま流用したような異星人では少し物足らない。人間には理解さえ及ばない知性の在り方の方がむしろ自然ではないだろうか、とも考えてしまう。
 しかしまあ、これらはすべて発表年代を考えると仕方のないところではあるのだろう。以上、なんだかんだと難癖をつけたような感じになってしまったが、物語としては結構愉しんだのは間違いない。昔の想いが色々と甦ってきたりして、まるで「センチメンタル・ジャーニー」のような読書を味わうことが出来た。昔の作品を年取ってから読み返すのも、新たな発見があったりしてそんなに悪くないかも知れない。(かといっていまさら『悪徳なんかこわくない』や『栄光の道』まで読み返そうとは思わないけどね。/笑)
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震災と随筆

 4月14日の夜を皮切りに熊本地方を次々襲った地震は甚大な被害をもたらしている。大きな余震がまだ続いていて状況は予断を許さず、避難所にいらっしゃる方々の心労もいかばかりかと思う。お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々が一日でも早く元の生活に戻れることを心から願ってやまない。

 ところで今回の地震でも、東日本大震災のときのようにツイッターを始めとするSNSが情報のライフラインとして活躍したようだ。一部には悪質なデマやこの機に乗じたヘイトなどもあったが、いち早く指摘して非難・無効化する動きもあり、被災地以外の人たちもただいたずらに騒ぐのでなく自分達に出来ることをしようと声を掛け合うなど、以前の震災の教訓がうまく活かされているように感じた。
 さて話は変わるがこういった都市型の震災として頭に浮かぶものとして、古くは大正12年に東京を襲った関東大震災がある。そして東日本大震災のあと、関東大震災に関する本がいくつか出ていたのを今回の件で思い出した。まずひとつめは物理学者にして夏目漱石の弟子だった寺田寅彦による随筆が二冊。『天災と日本人』(角川ソフィア文庫)と『地震雑感/津浪と人間』(中公文庫)というものだ。それぞれ随筆選とか随筆選集といった副題が付けられており、災害をテーマにした文章ばかりを集めたものになっている。寺田寅彦は随筆の名手で沢山の文章が残されているので、このようにひとつのテーマにしぼった本も編めるということなのだろう。自分は寡聞にしてこの二冊しか知らないのだが、他にも同じ著者で自然災害について書かれた文章を収録した本があるかもしれない。(おそらく全集には皆入っているのかな?)
 そしてもうひとつは、自分が大好きな泉鏡花の『おばけずき』(平凡社ライブラリー)という本。これは創作ではなく、いわゆる「こわいもの」について書かれた随筆を集めたもので、怪談に関する文章はもちろんだが関東大震災の体験について書いた3篇の随筆も収録されている。両者の文章ともそうなのだが、危機的状況に陥った時にこそ、その人がもつ真価が発揮されるというか、あるいは人間性が見えてくるような気がする。震災ではないがたしか江戸川乱歩も、東京大空襲のときに身を挺して町内のひとたちのために尽くしたのじゃなかっただろうか。うろ覚えだけど。(他に幸田露伴にも地震に関する随筆はあったような気がするが、残念ながら見つからなかった。)

 当座の緊急事態対応が終わってライフラインが復旧すると、これから徐々にではあるが元の生活が取り戻されていくことになるのだろう。しかし物質的な充足がなされたあとも、今後長期に亘って精神面でのケアが必要になっていくに違いない。そんな「鎮魂」と「沈思」の時間のためには、こういった先人たちの言葉も何かの役に立つのではないだろうか。また被災地以外の方にとっても心の在り方を考えてみるとき参考になるのではないかと思う。

 一刻も早く被害にあわれた方々の生活と被災地の復旧がなされ、そしてまた復興がなされていきますように。

『愛国と信仰の構造』中島岳志/島薗進 集英社新書

 現代史にも詳しい宗教学者の島薗進氏と宗教に造詣が深い政治学者の中島岳志氏が、日本の政治状況を「国家と宗教」の関わりという観点から分析した対談集。現在の政権が掲げ日本が向かいつつある全体主義的傾向の根源を、明治維新後に当時の政府がとった「神権政治」と「立憲政治」の二重構造に見て取る。政治的および宗教的な価値判断が絡むためすべての意見に首肯できるわけではないが、少なくともその論旨は明晰で説得力と示唆に富んでいると思う。このような観点から日本を語る本はあまり見たことが無かったので、大変に面白かった。以下、元々知っていた話と知らなかった話をとりまぜながら、簡単に本書の内容と論旨を整理してみる。
 まず冒頭の第一章で示されるのが、日本における全体主義を分析するには戦前のファシズム期からではなく、さらに時代を遡って明治政府により為された国家デザインを考えなければいけないという視点だ。昭和になり一気に進んだ全体主義の萌芽が、実は自由民権運動が盛んで開放的だった大正期に秘かに進行していたのだという。
 本書で紹介された社会学者の大澤真幸(おおさわまさち)氏の研究によれば、およそ25年という周期で社会意識が大きく変化しており、明治維新からの75年(①明治維新から日清戦争まで/②日清戦争から第一次世界大戦の大戦景気まで/③戦後恐慌から太平洋戦争勃発まで)と、敗戦からの75年(④敗戦から高度経済成長の始まりまで/⑤大阪万博からバブル景気まで/⑥バブル崩壊から失われた10年を経て現在まで)が非常に似た構図になっているのだという。氏によれば①と④はひたすら“富国強兵”や“戦後復興”へと右肩上がりで上昇していった時代であり、②と④はこの世の栄華を満喫できた時代、そして③と⑥は不景気や社会不安が蔓延している時代として見事に照応しているのだ。ふむふむ、なるほど。
 ではなぜ不景気になり社会不安が広がることで、③の時代に日本は一気に全体主義へと突き進むことになったのか。本書によれば、その直接的な原因は社会との軋轢で「煩悶」をかかえるインテリ青年たちと、先が見えない将来への「不安」を抱える大衆にあったのだという。(現代でいえば過去の家族主義的な価値観にしがみつく政治家や、自国経済の凋落と隣国の繁栄への焦りからくるネトウヨ化した市民にあたるだろうか。)ナイーブな青年たちが抱える煩悶が社会や世界と結びついた時、国家を超えた何かと一体性を求めるような思想となる。このように、自我をめぐる苦悩が極端で危険な観念の土台となる構図は、笠井潔氏による名著『テロルの現象学』で示された赤軍派の若者たちの姿と見事に重なって見えてくる。宗教であれ思想であれ、いずれにせよ「絶対」を求めると碌な結果にならないのは確かであり、美しいとか強いとか恣意的な基準で語られる理想もまた同じことなのだろう。
 しかし青年や大衆の意識が変化した“だけ”で、そんなに簡単に世の中がひっくり返ってしまうものなのだろうか。まして普通選挙の実施により国民主演が徹底されている現代とは違い、“お上”による支配がなされていたはずの明治時代に......。本書を読みながら頭に浮かんだ疑問についても、さらに読み進んでいくとちゃんと説明がなされている。
 維新により幕藩体制から西洋的な近代社会へと大きな改革を成し遂げた当時の明治政府は、欧州の列強により支配されるのを防ぐため急激な富国強兵の道を進んだ。そしてそれをならしめたのは体制の二重構造だったというのだ。まずひとつめは天皇をその中心に据えた「神権政治」であり、そのための具体的な方法こそが、靖国神社を頂点とした国家神道の仕組みの整備と教育勅語による臣民教育の推進とそれによる天皇の神格化だった。(江戸しぐさではないけれど、日本の伝統と呼ばれる文化は意外と歴史が浅かったりするのだ。)
 そしてもう一つの体制は帝国議会や大日本帝国憲法を中心とした「立憲政治」。明治政府は自分たちは実質的には西洋的な国家運営を行う一方で、国民に対しては神権政治を隠れ蓑にした強引な支配を進めようとしていたのだという。しかしその思惑は上手くいかなかった。やがて膨張して大きなうねりとなった神権政治の流れは、政府が制御しきれないほどの勢いとなって5.15事件や2.26事件を引き起こし、太平洋戦争へと暴走していくことになる―― これが本書で示された大まかな全体主義国家への道筋だ。

 現代社会の抱える様々な矛盾や問題の原因が実は明治期まで遡るという考えは自分も以前から持っていたので、本書の主張には概ね納得できた。もともと宗教は国家主義との親和性が高いという話についても、日蓮宗や田中智学の国柱会と宮澤賢治の関係などについては知っていたが、浄土真宗における親鸞の絶対他力と国粋主義の親和性の高さについては知らなかったので新鮮だった。(*)

   *…大雑把にいうと、自らの考えをすてて阿弥陀如来に絶対帰依することを
     幸せとみる思想は、天皇の考えこそが国家安泰と臣民の幸せに合致する
     という形に置き換えられたとき、いともたやすく全体主義に替わるというもの。

 いっぽうで本書における両氏の主張には、首肯しかねる部分も若干見受けられた。一例を挙げると、「人が生きていく上で信仰は無くてはならないものであるため、完全な政教分離の実現は不可能。であれば行き過ぎた世俗主義の弊害を正すため、いっそのこと政治のシステムに有る程度の宗教的基盤を予め組み込んだ方が良い」というものだ。これは自分としては納得できない。今以上に危険な状態へとつながる可能性があるのではないだろうか。うまく言えないけど、中島氏や島薗氏の根底には、人間の営みは「よりよくあらねばならない」という価値判断が含まれているような気がする。人にとって信仰とは何か、社会にとって宗教とは何かについて、もっともっと深く掘り下げないといけないのではないだろうか。
 以上、まあ色々と書いたが、今の社会をみる上で大きなヒントになる本であることは間違いないと思う。少なくとも明治からつづく思想的な地下水脈を見える形にしたことは、評価されてしかるべきではないかと思う。刺激的で大変面白かった。

2016年3月の読了本

 年度末はとにかくせわしなくていけないね。4月は多少読めるようになるだろうか。

『邪馬台国はどこですか?』 鯨統一郎 創元推理文庫
 ミステリー岐阜読書会に参加するためにおよそ18年ぶりに再読。多作家の著者の文庫描き下ろしによるデビュー作で、人を食ったキャラクターと奇想天外な仮説が魅力のユーモア歴史考証ミステリ。記憶に違わずとても面白かった。奇想天外な結論と強引だが妙に納得してしまう論理が愉しい。(ミステリでなければトンデモ本の類いになってしまう内容ではあるが。/笑)最後に添えられた探偵役の宮田六郎による文章が、「信頼できない語り手」の枠構造を作り上げてミステリとしても上手く着地している(かな?)。さらりと読める良作。

『神の聖なる天使たち』 横山茂雄 研究社
 16世紀イギリスを代表する偉大な学者ジョン・ディーが晩年に没頭した精霊召喚と錬金術。死後の汚名の元となったその足跡を辿り、天界との交信記録『精霊日誌』を軸に召喚術の実態を克明につづった本。著者は稲生平太郎の名で『何かが空を飛んでいる』というオカルト研究本の傑作もだしているが、こちらは本業の英文学研究の一環として、2009年より国立情報学研究所から助成金をもらって行った研究成果を本にしたものだ。(といいつつしっかりオカルト系の内容なのだが。/笑)しかしあれほど優秀な頭脳の持ち主だったディー博士がケリーという人物に振り回され、最後は尾羽うち枯らして大陸から帰国ののち田舎の聖堂長として世間から忘れられたまま一生を終える姿が痛々しい。彼が没頭した精霊も錬金術も所詮は水晶球が魅せた一抹の夢に過ぎなかったのか......。ディー博士はケリーという詐欺師に騙されたのだと決めつけてしまいたいところだが、本書を読むとあながちそうとばかりは言い切れないところもあって面白い。精霊だか天使だか知らないがケリー自身が信じてる節もあるし、単純にディーを騙すだけにしては心血を注いであまりにも無駄な手間をかけているように思える。そしてそのあたりを、あえて結論をださずに宙ぶらりんのまま淡々と進むのがさすが横山茂雄氏だ。この手のネタの面白さをよく解っていらっしゃる。値段は張るが読み応えのある本だった。

『未来の回想』 シギズムンド・クルジジャノフスキイ 松籟社
 「時間切断機」の夢に取りつかれ、ロシア革命や共産主義の波に翻弄される天才研究者の人生を描く一風変わったタイムトラベル小説。時間理論はこれまで読んだことがないタイプのものだったが、意識の変容による時間移動というよく解らない奇想が面白い。訳者あとがきでボルヘス、カフカや筒井康隆、円城塔などが言及されているように、冷徹さと奇妙な読後感が同居する。ロシア・東欧系の作品はどれも作家自身の運命が作品に色濃く影を差しているようで、英米系の文学とは違う雰囲気にいったん慣れてしまうと結構やみつきになる。本書もカダレ『夢宮殿』にも共通するような独特の閉塞感が好い。

『トウガラシの世界史』 山本紀夫 中公新書
 食べものによる世界史のシリーズの一冊。辛いスパイスの代表格である唐辛子の分類や起源から、世界各地における受容と普及状況をざっくりと俯瞰している。とりあげられる地域は中南米から欧州、そしてアフリカを経て東南・南アジアと中国・韓国などの東アジアから最後は日本までとまさに世界を一周していて、世界に広がる唐辛子の文化が面白い。

『発達障害の素顔』 山口真美 講談社ブルーバックス
 心理学の立場から、自閉症スペクトラムやADHD、難読症(ディスクレジア)、ウィリアムズ症候群といった所謂「発達障害」について脳の発達と視覚形成によるアプローチを試み、感覚〜コミュニケーション〜社会性の各段階での発達の障害を解説した本。著者は発達障害を「視覚情報を処理して形の認識に関わる後部頭頂皮質へと伝える“背側経路”と、同じく動きの認識に関わる大脳基底の下部側頭皮質へと情報を伝える“腹側経路”という、脳の二つの部位に関する問題である」という仮説で理解しようとする。どの脳部位の障害が具体的にどのような症状となって現れるかを丁寧に説明しているので解りやすい。(ざっくりいうと空間認知や顔の認知、入力方法からノイズを取り除くフィルターの役目が重要ということか。)まだ研究途上の段階みたいだが、こういった色々なアプローチによって発達障害の仕組みが解き明かされて、対象者の方たちにとって社会的な適応がしやすくなると良いと思う。(ちなみに著者は自閉症スペクトラムの原因については、本書を読む限りではバロン=コーエンによる「システム化と共感」に関する仮説を有力視しているようだ。)

『なんらかの事情』 岸本佐知子 ちくま文庫
 翻訳家でもある著者の、極上の”変”な文章ばかりを集めた本。エッセイとも小説ともコントとも違う短文が愉しい。元版となる白水社uブックス版ももちろん持っているのだが、文庫化にあたり新たに未収録作が6篇追加されているのでやむを得ない。ページを開くと飛び込んでくる冒頭の「ダース・ベイダーも夜は寝るのだろうか」といった文章や、「油脂免職。それはどんなものか。たぶん、普通の免職つまりクビ、になんらかの油脂の要素が加えられたものだ」という文章を目にしては悶絶する。前作の『気になる部分』や『ねにもつタイプ』もボーナストラック付きとは知らなかったのでそのうち買ってこよう。

『スキャナーに生きがいはない』 コードウェイナー・スミス ハヤカワ文庫
 独特の味わいをもち一部のファンに熱烈な支持を受けているSF作家の、「人類補完機構シリーズ」に属する中短篇をほぼ作中の年代別に集めた作品の第一巻。これから順次発行されて全三巻になる予定とのこと。だいたい読んだものばかりだが、こうして読み返すとまた新鮮な気持ちで読めて愉しい。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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