「SFインターメディアフェスティバル2016」

 SFコミュニケーション研究会によって昨年の3月に第一回が開催されたイベントの第二回に行ってきた。日時は本日3月27日の14:00~16:30、場所は名古屋の中心部にほど近い、吹上と今池の中間あたりにあるライブシアターだ。今回のお題は「すべてがRealになる」ということで、ヴァーチャルリアリティ(VR)や拡張現実(AR)が巷にあふれる昨今、いまいちど「現実」とは何かについて考えてみようというもの。うーん、なかなか格調高いぞ。でも1ドリンク付きのチケットだったので、観る側はアルコールを一杯ひっかけながらという気楽なものだったのだけどね。(笑)
 せっかく街に出たのだからと本屋を覗いていたら例によって時間ぎりぎりになってしまい、慌てて地下鉄吹上駅を出て1番出口から会場へと急ぐ。ツイッターの写真案内に従って会場に着き、地下への階段をおりると薄暗い店内には舞台の前にずらりと椅子が並べてある。ざっとみたところ30脚ぐらいはありそうだ。半分ほどは事前予約者の札がついていたので残りは当日の来場者用ということだろう。奥のテーブルに先に来ていた友人を見つけて声をかけ、開会時刻まですこしおしゃべりしながら展示してあった登壇者の方の拡張現実(AR)アートの作品を愉しむことに。
 壁一面に貼られたボードには、不思議の国のアリスの挿絵(ジョン・テニエル?)や北斎の富嶽三十六景(神奈川沖波裏)、ゴッホのひまわりにモナリザといった有名作品が印刷されている。友人の話だとテーブルに置いてあるスマホのカメラを通してそれらのパネルを観ると、絵が動き出すらしい。さっそくやってみる。
 「おおー、これは面白い!」
 肉眼でパネルの方を見てももちろん変化はないのに、スマホの画面の方では大波やグネグネと動きチェシャ猫が消え、ひまわりの花びらがはらはらと散ってゆく。現実世界の上に別の現実が上乗せされるような感覚が面白い。今はスマホ画面の中に閉じ込められた世界でしかないが、メガネがスクリーンになれば将来は普通の生活シーンでも当たり前の風景になっていくかもしれない......。
 ―― なんてことを考えながら席に着き、受付でもらったチラシを読む。今回の登壇者は3名。まず一人目はメディア作家であり岐阜県大垣市の情報科学芸術大学院大学(IAMAS)の教授でもあるという赤松正行氏。氏はさきほどの展示作品の作者で、かつてi-Phone用として話題になった拡張現実アプリ「セカイカメラ」の製作者であるとのことだ。つづく二人目は心理学講師のかたわら演劇の舞台演出家をされているという加藤智宏氏。そして三人目は臨床心理士の後藤智希氏となっている。本日はまず3名のゲストにそれぞれ予めお願いしておいた演題に沿ってお話しいただき、休憩の後はゲスト同士でのパネルディスカッションや会場からの質問に答える時間となるらしい。この三人によって語られる「現実」とは、いったいどんな話になるのだろうか。わくわくしながら「イエーガージンジャー」なるカクテルをちびちびやっていると、やがてスタートの時間となった。

 司会進行は昨年と同じくSFコミュニケーション研究会の“ぽちこ”氏。開会の挨拶に続いては、ツイッターで事前公募していた「拡張現実っぽいSF作品」の紹介に。ところがどうやら会場備え付けの機材にトラブルがあったらしく、本来プロジェクターに映し出されるはずの小説/映画/アニメといったジャンルの全46作品のリストが映らない。しかたなく“ぽちこ”氏が『ハーモニー』『スキャナー・ダークリー』『パプリカ』などの小説作品や「マトリックス」「キングスマン」といった映画、そしてアニメ「アクセル・ワールド」などを一生懸命口で説明していくが、けっこう大変そうだった。後日、研究会のホームページ(BLOG)にアップするそうなので、そちらを楽しみに待つことにしよう。
 そしていよいよ本日ひとり目のパネリスト赤松正行氏の登壇である。ご自身の経歴に沿ってVRやARの歴史についてざっくりと俯瞰され、エジソンのキネトスコープの懐かしい写真などがプロジェクターに映し出されていく。一番のネックはコンピューターの処理能力と物理的サイズだったという話が面白い。やはり2007年のi-Phone登場は衝撃的だったようだ。GPSや加速度センサーの作用でカメラがどちらを向いているかが判るため、その瞬間に画面に映っている(であろう)景色を推測できるというのもすごい。「セカイカメラ」というアプリはその時、風景に存在しているであろう情報を可視化して画面に表示するというものであったとのこと。しかし残念ながらカメラを構えたままあたりを見回す動作が盗撮に間違えられやすく、話題になった割に普及せず消えて行ったという。
 会場に展示してあったアート作品とそれを鑑賞するためのアプリ「ARART」開発のこぼれ話や、さらにコンセプトを先鋭化させた「Hype Cube」という作品の話から徐々に話題は本題の「リアル」へと移っていく。コペルニクスの天動説やダーウィン進化論などを例に色んな話題が出たのだが、氏の考えをまとめると「今見えている現実が唯一のものではなく、さらに大きな現実の一部であることが判明するときが来るかも知れない」と考えていた方が良いという感じだろうか。総じてVR/ARには肯定的な意見だった。
 かくして一人あたりの持ち時間20分があっという間に過ぎてしまい、続いては加藤智宏氏の番に。氏の専攻は環境心理学だそうで、その大元は認知心理学へとつながるらしい。氏に振られた演題は「舞台演出における現実の拡張法」というものだそうで、これがまた難しい(笑)。氏は新劇やアングラや伝統芸能(文楽など)をネタにしつつ、「舞台を演出する」とはどういう事なのかについて軽妙な語り口で述べていく。
 加藤氏によれば舞台における“世界”とは台本であり、台本を通じて観客に見せたい「テーマ」が骨格となるものなのだそう。したがってどんなに破天荒で荒唐無稽な“世界”であっても、その世界はその作品の中では紛ごうことなき「現実」なのだ。劇団・少年王者館による舞台「夢十夜」の映像を見せながら、プロジェクションマッピングなどを駆使した舞台演出と視覚イメージの変容についての話が滅法面白かった。氏の結論としては、「現実」とは感覚受容器が伝えた情報を脳内で「REALなもの」であると認知しているに過ぎないということのようだ。ユクスキュル『生物からみた世界』やあるいはカント、フッサールといった思想家たちの本の内容が頭に話が浮かんでくる。いやあ面白い。
 つづいて登壇者の三人目は後藤智希氏だ。臨床心理士である氏へのお題は「依存から見る現実世界」というもの。拡張現実からなんで「依存」の話になったのかはよく解らないが、ネット依存症などからの連想なのだろうか。ともかくも氏は「依存症(=ある物事に依存し、それがないと身体的精神的な平常を保てなくなる状態)」だとか万能感の裏返しである「自己不全感(=自己が不完全であり何も満足できないといった劣等感、自らを無価値であると考える自己嫌悪)」といった話や、それらがこじれることで過度な自己愛から生じる「自己愛型人格障害」まで、幅広い話題で飽きさせない。いつもはお酒を飲むとすぐに眠くなってしまうのだが、今回はまったく眠くならなかった。
 とりわけ興味深く且つ恐ろしかったのは、自己愛型のパーソナリティ障害は理想の自分と現実の(さえない)自分の間のギャップに苦しみ、やがて「自分を認めない世の中が悪い」という倒錯した観念に囚われていくことがあるという話や、過去5年ほどの間に自己愛で悩み人が増えたことこれらの症状とネットの関連性が取りざたされているという話。「ルサンチマン」とか「グノーシス主義」という単語がちらりと頭をよぎったが、それよりもぴったりなのはネトウヨやISなどの過激派組織だろう。不全感に悩む者たちが、こじれた自己愛と世界への憎悪を抱えつつ集まっていく構図は大変に怖ろしい。後藤氏の話の要点をまとめると、VR/ARによって「現実のリアル」と「心の中のリアル」の境界が曖昧になることでの危険には、充分に注意していかなくてはならない、といった感じになるだろうか。
 色々考えているうちに時間となり前半が終了。10分間のトイレ休憩を挟んでいよいよ三氏によるパネルディスカッションの開始である。休憩中、この三人の内容をどう結び付ければいいのだろうとずっと考えていたのだが、始まってしまえば結構活発な意見交換がなされていた。以下はその抜粋である。
 ・「現実(=リアル)」と「現実感(=リアリティ)」はきちんと区別して使って
  いかないといけない。【赤松氏】
 ・依存症や人格障害は身体的よりも社会性の問題であり、その人に合った社会なら
  幸せなのかもしれない。【加藤氏】
 ・時代が変わればパーソナリティに対する社会の受け取り方も変わるのかも。
  【赤松氏】
 ・国や文化や時代によって「リアル」の違いがある。【後藤氏】
 ・ウイリアム・ギブスンのSF小説『あいどる』にでてくる仮想アイドルはまさに初音ミク。
  初音ミクのコンサート映像では、最初に生身の人間が出てきたらブーイングで、
  その後初音ミクが出てくると大歓声で迎えられていた。ミク自体はさほどリアリティの
  あるキャラではないのにリアルに感じる。同様に「ARART」でも、使っている動画自体
  は高精細ではなく粗い映像を使っているのに、かなりリアルに絵画が動いているように
  感じられる。これらからすると、リアリティを与える根拠は物理的なものではないと言え
  るのではないか。【赤松氏】
 ・駅の柱のポスターが最近は動画に変わったが、自分としてはとても違和感がある。
  テクノロジーに置いてけぼりになる人間は一定数存在するが、その人たちは永久に
  新しいテクノロジーを拒み続けるのではないか。【加藤氏】
 ・最近では小さなお子さんが紙の雑誌を一生懸命スワイプしようとしたり、「(紙面が)
  動かないからつまらない」というらしい。若い人にとってはそちらの方が自然になる。
 ・人間は適応力が高いからVRやARによる様々な変化にもやがて適応していくと思う。
  ただし「頭で理解する」のと「心でわかる」のはまた別なので、急激な社会変化に対して
  は問題が出る人もいるかも知れない。【加藤氏/後藤氏】

 会場からの質疑応答にもこたえていただけたのはよかった。(当ブログの管理人も調子に乗って質問してしまった。)上のコメントの中にも質問に対する答えが混じっている。
 とても面白いと思ったのは、加藤氏に対してなされた「演劇は“ある役者がある役柄を演じている”とみている人と、“(舞台上の)有る人物”として見ている人がいるが、頭の中ではいったいどうなっているのか」という質問とそれに対するコメント。加藤氏自身は「ある役を演じている役者自身」という見方を前提にして演劇の演出をしているとのこと(つまり「二重に見え、かつ統合されている」という状態)だが、十人いれば十通りの見方があるのではないか?ともおっしゃっていた。

 以上、あっという間の2時間半が過ぎ、今年のSFインターメディアフェスティバルも無事に終了。来年の開催を約束してお開きとなったのであった。次回はどんなテーマになるのだろうか。スタッフの皆さんお疲れさまでした。

<追記>
 このイベントは他で行われている読書会やシンポジウム、セミナーといったSFイベントとは違って、現実にあるテクノロジーをメインに据えて、それらと小説や映画などフィクションの交差を狙っているところが大変に素晴らしい。まさに刺激的で面白いインターメディアなお祭りなのだ。今回は冒頭のフィクションの部分が弱くなってしまったので残念だったが、ぜひともこの路線で独自の面白さを追求していってもらうと良いのではないだろうか。
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『トウガラシの世界史』山本紀夫 中公新書

 ちょうど一年ほど前に『チョコレートの世界史』を取り上げた時にも書いたことではあるが、ひとつの食べ物に焦点を当てて歴史を繙いていく本が好きだ。なので本屋で書名に「〇〇の世界史」とか「〇〇の文化史」と付いたものをみかけると、つい手に取ってしまう。そしてまた、その手の本にはどういうわけかこれまでハズレが無いのだ。ざっと書名を挙げてみると、伊藤章治著『ジャガイモの世界史 ―世界を動かした貧者のパン』、角山栄著『茶の世界史 ―緑茶の文化と紅茶の社会』、磯淵猛著『一杯の紅茶の世界史』、臼井隆一郎著『コーヒーが廻り世界史が廻る ―近代市民社会の黒い血液』、武田尚子著『チョコレートの世界史 ―近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』、マーク・カーランスキー著『塩の世界史 ―歴史を動かした小さな粒』、あるいは舟田詠子著『パンの文化史』、石毛直道著『麺の文化史』などなど。(副題が付いている本は、その副題がまた格好いいのだ。)中にはナマコに関する歴史や文化史を徹底的に調べ尽くした鶴見良行著『ナマコの眼』なんて異色作もある。
 特定の物事に焦点を当てて歴史を描くのは割とよくある方法のようで、食べ物に限らなければウイリアム・H・マクニール氏の名著『疫病と世界史』や、先般ベストセラーとなったジャレド・ダイヤモンド著『銃・病原菌・鉄』、船山信次著『毒と薬の世界史』に山田篤美著『真珠の世界史』といったものも。また対象を日本に限定するなら更に多く、桜井英治著『贈与の歴史学』や酒井シズ著『病の日本史』などもある。ただし病気をテーマにしたものは内容が重くなりがちで、続けて読むと次第に落ち込んでいくのが玉に瑕だ。(笑)

 前置きがずいぶん長くなってしまった。今回はそんな“食べ物の世界史”の一冊として『トウガラシの世界史』を取り上げる。南米を原産とするスパイス「アヒー(=トウガラシ)」は、コロンブスによって15世紀に初めてヨーロッパへともたらされ、「ロングペッパー」や「ペペロンチーノ」あるいは「パプリカ」といった名前と共に急速に世界各地の食卓に広がっていった。まさに副題にあるように“辛くて熱い「食卓革命」”を起こした食材なのだ。(ちなみにスワヒリ語ではトウガラシの事を「ピリピリ」というそうだ。これもまた何とぴったりなネーミングだろうか。/笑)
 本書はそんな「世界を虜にした悪魔のスパイス」であるトウガラシについて、その分類や起源から世界各地における受容の状況まで、専門知識が無くとも理解できるように解りやすく俯瞰した本。とりあげる地域は中南米を皮切りに欧州とアフリカを経て東南アジアに南アジアから中国・韓国といった東アジア、そして最後は日本まで、まさしく世界に広がるトウガラシの文化が語られていて面白い。
 なお、この手の食べ物世界史はテーマがジャガイモやチョコレート(カカオ)にコーヒーなど、いずれもヨーロッパ列強の植民地政策と切っても切り離せないものであるため、意外な裏面史を知ることが出来るのも魅力。本書でもアフリカへのトウガラシの移植が奴隷貿易とセットであったことを知って、なかなか複雑な気持ちになった。なお著者は元々農学者であり専攻も歴史学ではなく民族植物学だということで、本書は“世界史”と云いつつトウガラシの植物学的な位置づけや植生についてもかなりのページを割いているのが特徴。自分のような“知りたがり”にとっては却ってありがたかった。
 また、世界各地におけるトウガラシの普及の歴史とともに現在のトウガラシ料理についても紹介してくれていおり、その中でいちばんびっくりしたのはブータン料理だった。「ほとんどありとあらゆるものにトウガラシが用いられ」ていて、「トウガラシなしでは、どのように料理すればよいのかわからない」とまで言われているらしい。他の地域では料理にアクセントをつけるスパイスとして用いられているトウガラシを、ここブータンでは“野菜”の一種としてそのままバリバリと口にしているとのこと(*)。自分は辛い物は決して嫌いな方ではないのだが、さすがにそこまでいくとちょっと......。とてもブータンには住めそうにない。

   *…例えばブータンの国民食とも言われるエマ・ダッツィという料理は、
      トウガラシをチーズとバターとともに煮て塩で味付けしたものなのだそう。

 辛さにはある種の中毒性があるので、辛い物を食べていると更に辛い物を求めるようになる。日本でも例外ではなく、最近は辛い味付けを好む若い人が増えているらしい。この調子ならトウガラシの出番は将来に亘って増える事はあっても減ることはなさそうだ。(本書によれば日本で一番多く生産されている漬物はキムチだそうだ。)
 本書を読んでいて困ったことがひとつある。それは口の中に唾が湧いてきて仕方なかったことだ。でも本書を読んだことで、これから食卓に辛い料理が並んだときは、今までよりさらに料理が愉しめるかもしれない。

<追記>
 最後に恥ずかしい思い出話をひとつしたい。実は小学生の時に、近所の庭に生えていた丸いトウガラシの実が緑や黄色、赤色とあまりに綺麗だったので手で触り、その後何気なく眼を擦ってしまったことがある。当然のことながら目には激痛が走り、幾ら手で擦っても痛みは増すばかり。突発性の目の病気で失明するのではないかという不安と激痛とで気も狂わんばかりだった。(その後、慌てて親に連れて行ってもらった病院で、トウガラシを触った手が原因と分かって大目玉をくらうというオマケまでついた。)そんなわけでトウガラシには個人的に深い思いを持っていたので、本書はとても印象深いものとなった。できれば子供の頃の自分に読ませてやりたいくらいである。もちろんトウガラシを触る前にね。(笑)

本が先か本棚が先か

 先週のと今日の丸二日間の日曜日を費やして本棚の新調と本の整理を行った。ここ数年買っては読み、読んでは適当な箱に詰め込んでいたせいで、押し入れもロフトのぐちゃぐちゃ状態だったのだ。本棚を買うといってもそんなに予算はないので(*)、「お値段以上~♪」のCMでお馴染みの店でDIYキットを購入してきた。幅118mm×高さ181mmの立派なもので税込み1万円しない。ただしガラス扉は無し。(ガラス扉はオプションで一枚5000円近くするので、4枚買うと本体の2倍近くかかってしまうのだ。/汗)
 ひとつ20kg近くある梱包をふたつ車に積み込んで、家に着いたら二階へとえっちらおっちら運ぶ。でもこれもみな、費用を安くあげるためと思えば重くない重くない。

   *…なんせ本棚に使う金があったら本を買いたいほうなので......。(苦笑)

 カッターナイフで梱包を開けると、プーンと新品の木の匂いがしてくる。自分で組み立てるといっても大げさな道具は必要なくて、プラスドライバーとニッパぐらいで充分だ。ちゃんと木ダボに付ける木工用ボンドまで入っていて、まさに至れり尽くせりになっている。ラジオをかけながら作業して、およそ3時間あまりで組み立てを完了し、決めておいた設置場所へと運び込む。うん、立派なものだ。
 今回本棚を整理するに当たり、ひとつ考えていたことがあった。それは「好きな本だけを並べる棚」を作るということだ。せっかく新しく本を置くスペースを作るのだから、どうせなら昔からやりたかったことを実現してやろう。というわけで考えたテーマが“幻想と異界の棚”。好きな幻想小説や人類学系の本ばかり、しかもハードカバーばかりを集めた棚を作ってみたい、それが昔からの夢だったのだ。2時間ほどかけて、家じゅうのあちこちにに散らばっていたその手の本を集めてみたところ、一度で棚がいっぱいになってしまった。ざっと数えてみたところ250冊強といったところか。まだ並べたい本はあるのだけれど泣く泣く断念。苦労した割には意外と少ないなあと思いながら眺めていると、それでもだんだん顔がにやけてくる。なんせ上から下まで、そして右から左まで、自分の好きな本ばかりが視野いっぱいに広がっているのだ。これは愉しい。その後の一週間は、家に帰るたびに本棚を眺めては悦に入るという生活が続いた。いい年の中年オヤジが本棚を眺めてにやにやしているのだから、傍からみているときっと気味が悪かったに違いない。
 大きな本がだいぶ片付いたので、これまであった本棚にはあちこちにぽっかりと穴が開いている。こんどはそれらの本を並び替えて、ついでに段ボールの中の本を整理する番である。結構は一週間後の日曜日、つまり今日だ。朝の9時から取りかかったところ意外と大変で、途中の昼食を挟んで結局夕方までかかってしまった。都合7時間ぐらいかかったことになる。なんでこんなに手こずったかというと、途中でこちらもお気に入りの棚を作ろうと本の選別を始めてしまったからだ。(自業自得である。/笑)でもその甲斐あってこちらも愉しい本棚ができた。こちらのテーマは“思想とSF”。これまで買い溜めた哲学・思想の分野でお気に入りの本を左手の棚に、そして昔から買い溜めてきたSFの文庫ばかりを右手の棚に配置してある。実はSF・ファンタジーの本はまだまだ段ボールに詰め込んであるのだが、こちらも棚のスペースが残り少なくなって残念ながら途中でストップ。これ以上やろうとすればもう一つ本棚を買ってこなくてはならないが、くたびれたので当面はいいかな。

 今回、家じゅうの本を見直したおかげで分かったことがある。それは家の蔵書が(おそらく)1500から2000冊ぐらいだろうということだ。読み終わった本はときどき古本屋で処分しているのだが、それでもまだまだ多い。(読む量より買う量が多いから当たり前ではある。)
 「卵が先か鶏が先か?」ではないけれど、本が溢れそうになるから本棚を増設するのか、新たに本を置くスペース(=本棚)が出来るから本を買ってしまうのか悩ましいところではある。しかし間違いなく言えることは、これからも本が減ることはだろうということ。定期的に棚を増やすことになるのは避けられない。となれば、せめてその時には、今回のようにテーマ別の棚を作るなどして愉しくやりたいものである。

2016年2月の読了本

 今年はうるう年で一日多かったのだが、結局9冊に終わったので少し悲しい。でもまあ面白い本が多かったからいいか。

『奥の部屋』ロバート・エイクマン ちくま文庫
 今木渉/編訳。元は国書刊行会から「魔法の本棚」の叢書の一冊として刊行されたもの。文庫化にあたり、新訳の「何と冷たい小さな君の手よ」と「スタア来臨」が追加されさらにお得になっている。ジャンルとしては怪奇幻想小説になるのだが、漠然とした不安を示すことでその先に待つ恐怖を暗示する不思議な作風が特徴。なにしろ作中で起こっていることの意味が理解できないところが怖い。『郵便局と蛇』のA・E・コッパードと同様に、他に類を見ない作風なのが気に入った。どれも面白かったが、自分の趣味に最も合うのは「髪を束ねて」と表題作の「奥の部屋」あたりだろうか。「学友」と「恍惚」は自分の意志ではどうにもならない状況が本書の中でもかなり怖い。「待合室」もそうなのだが、いずれの話でもいつの間にか歯車が狂って異様な空間に身を置く人々が描かれていて、どこで踏み違えたか判らないまま徐々に状況が緊迫してゆく。訳者解説にもあるように、ホラーではなくストレインジ・ストーリーという表現はかなり合っているような気もする。
 「名前がなければそれは正体が判らぬ恐ろしい怪物だが、名付けられた途端に一頭のライオンでしかなくなる」という言葉を聞いた事がある。本書で描かれる怪異は、読む者の安易な解釈を拒み、まさしく名付けられる前のライオンにあたる。その意味で理想的な怪奇小説かも知れない。

『火星の人』アンディ・ウィアー ハヤカワ文庫
 火星に一人取り残されたクルーが救出までに生き残るための創意工夫と様々な危機の克服、そして彼を救出するためのNASAを始めとする世界中の人々の挑戦を描く。不可能なミッションをやり遂げる冒険小説の登場はいつの時代も歓迎されるのだ。ツイッターの感想では『ロビンソン・クルーソー』だとかDASH村だとか言われていて確かにその通りなんだけど、自分としては『ナヴァロンの要塞』や『ミッション・インポッシブル』なんかも連想した。あと、全体の印象はとにかく明るい、というか軽い。いかにも娯楽映画の原作にぴったりだと思った。そう、喩えるなら現代版のA・C・クラーク『渇きの海』といっても良いかな。(もう少しエピソードを絞っても良い気がするけど。)映画はかなり端折ってあったけれど、その分映像で魅せてくれたし、小説と映画で二度おいしい作品だった。

『プラグマティズム入門』伊藤邦武 ちくま新書
 ちくま新書は哲学入門シリーズをたくさん出していて、どれも結構面白いので好きだ。本書はアメリカを代表する実践哲学プラグマティズムについて、源流から現代までの13人の思想家とともにその概要を示したもの。いまひとつピンとこないこのプラグマティズムという思想について、ポイントとなるところがやっと解った気がする。

『料理長が多すぎる』レックス・スタウト ハヤカワ文庫
 美食家で鼻持ちならない性格の探偵ネロ・ウルフと、彼の助手にして親友のアーチ―・グッドウィンが活躍する料理ミステリ。昔から名前はよく聞くが読んだことが無かったシリーズなので、読書会の課題図書に挙がったとき、真っ先に買ってきた。残念ながら所用で読書会の方は出られなかったのだが、これも機会と読んでみたところ、人種差別など時代背景を感じさせる描写はあるが、語りはあくまで軽くラストも爽やか。なぜだか自分でも判らないのだが、何となく『犬神家の一族』を思い出した。陰惨な事件の後ろに見え隠れする人間模様とか、その中でも捜査陣や探偵を含めた登場人物が基本的に”いいヤツ”だったりするからだろうか。(なお人種差別の描写については、批判として敢えて著者が本作に取り入れたものであることが後から判った。)探偵が旅行でどこか異邦の地を訪れて、地元の因習やどろどろしたものを快刀乱麻の如く断ち切って、爽やかに去って行く。もともとそんな話が好物なので、横溝の「金田一耕助シリーズ」やドン・ウィンズロウの「ニール・ケアリーもの」とかも大好きなのだ。ミステリとしては瑕疵がある物語ではあるが、本書もそんな意味で結構気に入った。

『贋物漫遊記』種村季弘 ちくま文庫
 書名は「にせものまんゆうき」とルビが振ってある。人形、詐欺師、ガセネタ、偽史など、世の中のあらゆるニセモノを俎上に載せて、気の向くままに書き綴った軽めのエッセイ集だ。これだけ様々なネタを並べられると壮観で、むしろ世には本物の方が少ないんじゃないかという気さえしてくる。マダム・タッソーの蝋人形館や恐ろしかった菊人形と生人形の思い出。さらには蜜蝋の材料となる蜜蜂の巣の話題から、再生を祈って死者の棺に蜂の巣を模した穴をあける風習など、話題はあちこちへと飛び、千々に乱れて面白い。中でもニセ帝大生や鼠小僧の話が自分の趣味に合って愉しかった。学生のころは荒俣宏、澁澤龍彦、紀田順一郎あたりが好きで、それに比べると種村氏の本は「あんまり面白くないなあ」と思っていたのだが(失礼!)ここ数年、がぜん面白くなってきた。歳をとると趣味が変わっていくというのはこういう事かと、妙なところで納得してしまった。(笑)。こういうのが面白いと思うようになれば、種村氏の著作はどれも愉しく読めるのだろう。

『殊能将之 未発表短篇集』 講談社
 早逝した著者がデビュー前に書いて講談社の編集宛てに送ったまま仕舞いこまれていた3短篇と、デビュー前夜の様子を描いたエッセイ「ハサミ男の秘密の日記」を収録。驚愕の展開が愉しい「犬がこわい」、手に汗握るアクションが珍しい「鬼ごっこ」も面白いが、『黒い仏』と同様に夢と現実のはざまの世界を描く「精霊もどし」がなかなか好い。久しぶりに殊能センセ―の文章を堪能した。

『月と幻想科学』荒俣宏・松岡正剛 立東社文庫
 二人の碩学による古今東西の月の詩的・文学的イメージを巡る対談。月(=ルナティック)の名に恥じない「憑き」と「気のふれた」ものとなっている。どことなくニュー・サイエンスの薫りも漂うのだが、それも今からしてみるといかにも70年代らしくていい感じだ。のっけから月をめぐる妄想とはったりが炸裂していて、今ならきっとトンデモと非難されそうなネタも未分化で混じっていて、熱病にうかされたような対談が懐かしくも面白い。35年前ってこんな感じだったかとしばし感慨にふけってしまった。月に対して従来からの物狂いや反太陽的なイメージとともに、新たに冷熱や反射や鏡をイメージするのが、如何にも文学と科学を超えた幻想科学を志向する二人らしくて好い。巻末に挙げられた「月をめぐる100冊の本」の選書も使えそうな本が並んでいていい仕事だと思う。松岡氏の『ルナティック』や荒俣氏の『別世界通信』なんかをまた読み返したくなった。

『江戸しぐさの終焉』原田実 星海社新書
 芝三光という一人の人物によって創作された偽史が、さまざまな人の思惑によって実際の教育現場へと蔓延する過程を検証・批判した前著『江戸しぐさの正体』に続く第二弾。前作が出版されてから後の展開を記す。自らが信じる”正しさ”のためなら嘘でも捏造でも構わないという考えは恐ろしいものだ。たしかに「嘘も方便」という言葉もあるが、教科書に載るようになっては宜しくないだろう。江戸しぐさの創始者である芝氏の生前の挙動や発言を読んでいると、人を信じられない人物が自ら創り出した虚構にすがらないと生きていこうともがく哀しさのようなものを感じてしまう。人によってそれぞれ”正しさ”は違うと思うが、その違いに耐えるには、ある程度の心の強さが必要なのだろう。本書を読んでふとそんなことを思ったりもした。

『稲垣足穂さん』松岡正剛 立東舎文庫
 編集工学研究所を主宰する無類の論客セイゴオ氏が、稀代の文学者であった稲垣足穂について語る3つの文章をまとめたプラネタリー・ブックスの文庫化。先ほどの『月と幻想文学』と同じく、立東舎文庫の一冊としてこのたびめでたく復刊の運びとなった。文学という枠を軽々と越えて現代科学の領域へとイマジネーションを広げた稲垣足穂の足跡は、同じく思考の型にとらわれない自由な博物学者だった南方熊楠にも似ている気がする。本書に関するツイッターでのやりとりでもご指摘いただいたのだが、タルホが求めたのは“文学のその先”に行くことだったのだ。そしてその結果、新たな文学の領域が生まれることになった。哲学の価値とは答えを見つける事ではなく新たな問いを見つける事だと聞いたことがあるが、まさに足穂はそれまで存在しなかった新たな文学を作り出したと言えるのかも知れない。見るたびに相貌を変え掴みどころのない作家でもある稲垣足穂。このような作家に関しては、ひとつの視点から切り込むよりも、むしろ本書のようにプリズムによって分光するようなアプローチの方が向いているのかも知れない。そしてそのとき読者も、ホログラムのような読書を試されることになるのだ。冒頭には「初めて稲垣足穂を読む人のために」という言葉もあるが、実際のところ初期の文章に特徴的な省略と直感的イメージの多用で少しばかり読みにくいものとなっている。まあ慣れるとそれが病み付きになったりするわけだが。(笑)
中身について少しふれておくと、松岡正剛氏は稲垣足穂氏のもっとも大きな特徴を、「脱文学」とでも呼ぶしか無いものとして捉えているようだ。タルホが求め続けて届かなかったものは、文学が決して射程に入れようとしない物理学であり物質そのものを表現することであったと。そして文学的イマジネーションの外にあるのは、氏の大きな特徴でもある宇宙的・鉱物的・機械的な何かというわけだ。この主張に全面的に賛同するかどうかはさておき、とても刺激的な本であることは間違いない。立東舎さん、よくぞ文庫化してくれました。
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プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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