『プラグマティズム入門』伊藤邦武 ちくま新書

 「プラグマティズム」については高校の倫理社会の授業で習った程度で、“アメリカを代表する哲学であり実践を重視する”というぐらいの知識しかなかった。いきなり難しい専門書を読むのは嫌なので、まずは全体像が俯瞰できる入門的な本が読みたい―― そう思っていたところ、今回ちょうど手ごろな新刊本を見つけた。ちくま新書は昔から色々な哲学入門シリーズを出しているのだが、今回はいよいよアメリカを代表する実践哲学プラグマティズムだ。本書では150年に亘るプラグマティズムの歴史と変遷を三つの時代に分け、パースから現代まで13人におよぶ人々の思想を紹介している。(*)

   *…プラグマティズムは19世紀にパースによって創始され、ジェイムズやデューイ
      らによってその骨格が固まった。その後いったん下火になったものの、70~80
      年代にはクワインやローティーらによって新たに「ネオ・プラグマティズム」と
      呼ばれる運動がおこり、そして90年以降の広がりを経て現在のプラグマティズ
      ムに至るのだそうだ。

 結構、各々の思想の中身に踏み込んで解説しているので、聴きなれない単語や知らない人物も多く出てきて少し苦労するがその分読み応えがある。プラグマティズムは「実用主義」とも訳され、アメリカの基礎になる思想であるとも言われる。しかしその後、社会運動やビジネスにまで展開されることで焦点がぼやけ、部外者にはとっつきにくい概念になってしまったのではないだろうか。(少なくとも自分がそうだった。)本書ではふらふらと掴み所が無いこの思想について、本来の形である哲学からのアプローチで説明してくれるので視点がぶれない。本書を読んで意味がやっと解ったような気がしている。(あくまで気のせいかもしれないが。/笑)
 しかしさすがに多くの人が絡んでいるだけあって、知れば知るほど源流から現代まで紆余曲折している。同じプラグマティズムで括られる思想でありながら、個々はほとんど別物といっても良いほどだ。とても全部はまとめきれないが、まあ印象に残ったところだけでもあげていこう。

 冒頭にも書いたようにプラグマティズムはチャールズ・サンダース・パースによって、ケンブリッジ大の学生たちによる「形而上クラブ」という集まりの中で産声をあげた。(パースは哲学だけでなく論理学・数学・科学など多くの分野でも優れた業績をあげた、文字通りの天才だったらしい。)名前はギリシア語で行為や活動、実践などを意味する「プラグマ」という言葉からとられたもののようだ。。
 この考え方はもともと、デカルトやカントといった観念論にみられるような、この世の現実とかけ離れた「真理」を規定することへの疑義から始まったもののよう。とても乱暴な言い方をすれば、形而上学的な「真理」などというものは無く、我々が生きるこの世界にとっての意味しかないという考えかたになるだろうか。
 パースは真理の探究方法としてデカルト的な方法的懐疑を不完全なものとして退け、代わりに最も優れている方法として「科学的探究」をおいた。これは「帰納的推論」と「仮説形成的推論(アブダクション)」、それに「演繹的推論」という3つの推論パターンをより合わせたものだそうだ。そして本当の「真理」とは哲学者という個人(=ひとつの理性)による探究によって得られるものではなく、複数の人間による“理想の共同体”による探究の果てに収束する最終的な信念であるとした。ふむふむ、まさに“実用主義”だ。なお、この「唯名(≒真理)論vs実在論」という図式は、(その後バリエーションが増えたにせよ)いまだにプラグマティズム全体に共通する特徴になあっているらしい。
 この新たな思想はその後、パースの盟友であったウィリアム・ジェイムズによって世に広く知らしめられることになった。しかしこの時点で既にジェイムズの考え方はパースとは違うものになっていたよう。彼にとって「真理」とは概念の定義ですらなく、あくまで実際に生きる行動を起こすうえで有用な「道具」でしかない。パースよりも更に極端な彼の思想からは、反デカルト主義という伝統の他にもうひとつ、「多元主義(=人の数だけ心理がある)」という重要な特徴が導き出されることになる。

 うーむ、ここまで読んで首をかしげる。これには自分としては同意できない。デカルトの方法的懐疑を不徹底であるとしたのは良いとしても、同じくデカルトへの批判から方法的懐疑をさらに徹底することで生まれた“現象学”に大きな影響をうけた身としては、パースやジェイムズの主張には納得できないことだらけだ。(笑)
 どうやって複数の人間の解釈の違いからくる誤謬を防ぎ、どうやって考えを収束させるというのだろう。無理やり収束させたとしても、それは単なる妥協の産物に過ぎずその時々で変わるため、とても「真理」と呼べるものではないのでは?あくまでも行動の効果としてのみ真理を認めるという考え方には、どうもデカルト以上の不徹底さを感じてしまう。あれこれ考えながらさらにページをめくる。
 どうやらジェイムズの場合、真理とは行為に至るための信念や観念すなわち「信じようとする意志」あるいは「信じる権利」の先にあるもののようだ。つまりある行為を為そうとしたとき、道具として有効であったものこそがジェイムズにとっての「真理」という定義なのだ。(著者によればジェイムズにとってこのような批判は既に想定済みの内容なのだそうだが、ただしその反論も根拠を「論理」ではなく「気質」に求めることで相対化するという大技なので、自分にはちょっとついていけない。こんなツッコミだらけの本を最後まで読み通すことができるだろうかと、だんだん不安になってくる。/笑)
 しかしその次に紹介のあったジョン・デューイはなかなか面白かった。彼は哲学がなぜ人間の持つ知識の確実性を探求するのかについてある種のメタ哲学を展開していて、さきほどまでの素朴な議論とは少し異なる感じ。「真理の探究とは有機体が様々な環境のもとで自己の平衡を取り戻すため、降りかかった問題に対処する行為として解釈されなければならない」なんて主張は、まるで“アフォーダンス”みたいな発想ではないかと思う。ここまでくるとプラグマティズムにおける「真理」とは過去の哲学のように絶対的な意味での確証でも客観的なものでもなくなり、あくまでも問題が発生した社会や言語や時代に即して示唆可能な仮説に依存する「限定された意味での保証付き信念」に過ぎないことになる。うん、この話は納得できる。

 気を取り直して第2章へと進む。この章ではプラグマティズムがヨーロッパにおける論理実証主義の勃興とともに下火となったのち、新たな思想家の再評価により復活を遂げ「ネオ・プラグマティズム」と呼ばれるようになった70~80年代が紹介される。ここでまず取り上げられるのは、今でも現代思想の本で名を見かけるクラインという思想家だ。彼によってプラグマティズムの再評価(ただし彼はパースに対しては若干批判的な面も。)が始まり、ついでリチャード・ローティーによる先鋭化とパースの否定、そしてその結果による徹底した相対主義化を経て、最後にはパトナムによるパースへの揺り戻しがなされるというのがネオ・プラグマティズムの大まかな構図。
 ちなみにローティーはクワインよりもさらに過激だそうで、クーンが科学哲学に大きな衝撃を与えた「パラダイム論」(**)に依拠しつつ、プラトンからデカルト、ロック、そしてカントまでの一連の思想をひとからげにして「破綻したもの」であると退けてしまう。そして真理とは「人々がレンチという形で(社会の中で)共有しうる信念」であるとまで言い切って、科学から文学、道徳、そして政治まで含むありとありとあらゆる知的活動はいずれも人が考え出したものに過ぎないため行動理念として優劣は無く、すべてが平等であるとする極端な多元論を展開する。(まるでパースに対するジェイムズのようだ。ローディの主張自体は理解できるものの、考え方そのものに首肯できるわけではない。彼が主張する「自文化中心主義」というのが単なる相対主義と結局のところどう違うのかさっぱり解らなかった。)

  **…たとえば天文学における天動説からコペルニクスの地動説への転換のように、
      科学による“真理”も決して絶対的なものではなく、その時代の科学者たちに
      よって了解が得られた主観の共有(=パラダイム)に過ぎないという考え方。

 次に登場するのはヒラリー・パトナム。名前はヒラリーだが男性だ。彼はクーンのパラダイム論と真っ向から対立する「科学的実在論」から出発した思想家であるにも関わらず、その後まるで正反対ともいえる「内在的実在論」(=カントに似た間接的な認識論)を経由して、最終的にはプラグマティズムと同義である「自然的実在論」というものへと至った“変わり種”だそう。その思想遍歴は目まぐるしく変わったが、最後にはクワインもローティーもどちらも極端な思想であるとして、両者をともに退ける中庸思想へと至ったらしい。ふうむ面白い。パトナムの思想の肝はウィトゲンシュタイン論理哲学の独自解釈であるようなのだが、このあたりまでくるとややこしくて、話についていくのがやっとになってくる。(苦笑)
 またその後も現代のプラグマティズム思想家であるドナルド・ディヴィッドソンやデュエムやセラーズなど、これまで馴染みがなかった哲学者の名前がたくさん出てきて、バラエティ豊かな各々の思想を追うのがちょっと大変になる。また先ほどから挙げているような「アブダクション」や「パラダイム論」といった用語が詳しい説明なく出てくるので、そのあたりにある程度の予備知識を持っていないと読むのがつらいかもしれない。ただし論旨はよく整理されているので、話の内容が判らなくなることはなかった。

 ここで本書のこれまでの内容に沿って、「プラグマティズム」とは何かについてもういちどざっと俯瞰してみよう。プラグマティズムでは真理や客観というものを、主に社会において共有される信念であると捉える。そしてその観点からデカルトに始まる観念論の考え方を批判および相対化し、時と場合と人によって真理の姿は異なるという多元的な見方を主張する。多元的であるがゆえに、同じ「プラグマティズム」というレッテルを使いながらも人によって主義主張がふらふらと揺らぎながら並存することになる。また思想的には「主観とは別に客体(または真理)が存在する」という科学主義と、それとは逆に「あらゆるものは主観に過ぎない」という相対主義(≒パラダイム論)との間を、時代や思想家によってふらふらと往復するものとなる。これまで全体像が見えにくかったのも当たり前だ。また教条主義的な議論よりは、むしろ社会的実践に重きが置かれるという特徴をもっていて、いかにも多民族国家のアメリカで生まれた哲学という気がする。

 以上が本書の大まかな内容と印象。読んでみて「ユリーカ!」と叫ぶようなことにはならなかったが、自分にごそっと抜けていた知識を新しく知ることができたのはとても好かった。とくに科学哲学の背景が判ったのは嬉しい。それではひとつだけおまけの話をしてこの記事を終えることにしたい。
 実はしばらく前から『表現と介入』という科学哲学の本を読みかけのまま放ってあるのだが、その著者イアン・ハッキングがプラグマティズムの思想家だということを本書で初めて知った。たしかに「唯名論vs実在論」をテーマにした本なのだが、その理由がプラグマティズムにあったとは。こんな風に思いがけず繋がるとなんだか愉しいなあ。また続きを読まなくてはね。
スポンサーサイト

イタリアバロック音楽コンサート

 ひょんなことからバロック音楽のコンサートにお招きいただくことになった。毎朝通勤途中でラジオのバロック番組は聴いているが、生のバロック演奏を聴くのは初めてなのでとても愉しみ。コンサートの題名は「イタリアバロック名歌集 ~綴られた悲劇」といい、あいちトリエンナーレ2016パートナーシップ事業のひとつだそう。チラシをみると愛知県立芸術大学同窓会や名古屋音楽大学が後援していたりして何だかすごい。時は2月14日(日)、場所は伏見にある電気文化会館の地下2階コンサートホール。余裕をもって家を出たつもりだったのだが、あちこち寄り道していたら到着が14:00からの開演ぎりぎりになり、会場に駆け込んだのはちょうど出演者の挨拶が終わっていまにも演奏が始まろうとするところ。あぶない、あぶない。人の入りはざっと100名弱ほどだろうか。座席指定は無いので適当なところに席をとり、受付で手渡されたパンフレットに目を移したところでコンサートが始まった。

 ではここで内容について簡単にご紹介。出演者の方は5名で、歌唱担当はソプラノ声楽家の加藤佳代子氏と本田美香氏。お二人をサポートするのがテオルボ(リュート)の坂本龍右(りゅうすけ)氏とバロックチェロの懸田貴嗣(かけたたかし)氏、そしてチェンバロの平井み帆氏という演奏家の皆さんだ。時間は途中15分の休憩を入れて計2時間、アンコールまで入れて全15曲というなかなか盛りだくさんなコンサートだった。構成としてはソプラノ二重唱や独唱による歌唱曲の他、それぞれの楽器の独奏や合奏を交えた器楽曲を加えたりして、バラエティに富んでいる。クラシックのコンサートといえばファミリーコンサートぐらいしか聴いた事がないのでこれが一般的な構成かどうかは知らないが、聴くものを飽きさせないように工夫されていて好かった。以下、当日プログラムから書きだしてみよう。

  1.遠いところに行けるだろうか/シジズモンド・ディンディア
  2.このうえなく甘いためいき/ジュリオ・カッチーニ
  3.東の門から/ジュリオ・カッチーニ
  4.ヴィオローネのためのトッカータ、ルッジェーロ 
          /ジョバンニ・バッティスタ・ヴィターリ
  5.おまえの自由を容赦なく奪う者/ジョバンニ・フェリーチ・サンチェス
  6.私はかわいい羊飼いの娘/クラウディオ・モンテヴェルディ
  7.第2旋法のトッカータ/タルクイニオ・メールラ
  8.フォーリア/ベルナルド・ストラーチェ
    <休憩>
  9.マリア・ストゥアルダの哀歌 “待ちなさい、私に話をさせなさい”
          /ジャコモ・カリッシミ
 10.トッカータ/アレッサンドロ・ピッチーニ
 11.死がわれらを別つまで/バルバラ・ストロッツィ
 12.タランテラ/ジューリオ・デ・ルーヴォ
 13.12のトッカータより/フランチェスコ・スプリアーニ
 14.哀れな美貌/ジョヴァンニ・フェリーチェ・サンチェス
 15.アンコール曲(曲名不明)/クラウディオ・モンテヴェルディ

 このうち冒頭の1と真ん中付近の6、そしてラストの14とアンコールの全4曲が、加藤氏と本田氏による二重唱となっている。2と3と9は本田氏による凛とした独唱、5と11は加藤氏の完全暗譜(歌の場合も楽譜を見ないのは”暗譜”で合っているのかな?)による力強い独唱で、その間に器楽曲が挟まる形。器楽曲でも4と12はバロックチェロ、7と8はチェンバロ、そして10はリュートによる独奏と分けられており、また残りの13は三つの楽器による合奏という贅沢なつくりになっている。普段聴きなれない楽器の音色なので、聴き比べができたのは嬉しかった。さらにそれぞれの演奏前には奏者による曲や楽器についての説明(*)もあったりして、自分のような初心者でも充分に愉しもことができた。

   *…例えばバロックチェロと普通のチェロの違いについて。バロックチェロには床で
      楽器を支えるためのピンが無く、両脚で胴体を抱えて弾くのが特徴。また羊の腸
      で作ったガット弦を使っている。(注:ガット弦は同じくリュートでも使用。)
      自然の素材を使っているため気候の影響で狂いやすく、頻繁に調律しなきゃいけ
      ないらしい。たしかにコンサート中も頻繁に音合わせをやっていたが、そういう事
      だったのか。

 パンフレットに訳詞が載っていたので、歌のパートはそれを読みながら聴いていく。前半の曲は「愛神の鋭い矢を感じないでいられるほど、遠いところに行けるだろうか」などといった能天気なラブソングばかりだ。6なんて全編「私はかわいい羊飼いの娘。バラ色とジャスミンの花のような頬、そしてこの額、この黄金の髪は......(後略)」といった感じで、読んでいる方が赤面してしまうほど。
 しかし休憩を挟んだ後半になると、(確かに愛も謳ってはいるが)徐々に老いや死の悲しみの歌が次第に増えてきて、コンサートの題名の意味が明らかになってくる。9は幽閉の果てに処刑されようとするマリア・ストゥアルダが歌う告発の歌になっていて、歌詞も「もし無慈悲な運命が罪人に当然の死を私に定めているとしても、私は無実で死ぬのです」といった感じ。14に至っては、最愛の人が老いさらばえた様子をみて「君はどのようにして、こんな風になってしまったんだい?」などという不届き千万な歌詞まででてきて驚く。(いまなら訴えられそう。/笑) 毎朝ラジオで聞いているのはミサ曲が中心なので、題名も「目覚めよと呼ぶ声あり」など神やイエスを讃える固めのものが割と多い気がする。したがって今回聴いたイタリアのバロック曲は、奔放さが逆に面白かった。中身は全然高尚ではないのだが(失礼!)、それでも舞台の上で繰り広げられる二人の熱唱や美しい古楽器の柔らかな響きを聴いていると、心が洗われていくような心持ちになっていくのが不思議。

 実をいうと、コンサートの間じゅう中世ヨーロッパを舞台とする様々な物語の1シーンがあたまに浮かんでは消えを繰り返していた。(16~17世紀を中心としたイタリア歌曲なので、厳密にいえば国や地域も時代も違ったりするのではあるが。)例えばヴァーノン・リーの『教皇ヒュアキントス』やエラスムス『痴愚神礼讃』、映画の『ブラザー・サン シスター・ムーン』にエーコ『薔薇の名前』など。さらには山尾悠子『ラピスラズリ』やディネセン『ピサへの道』、それにセルバンテス『ドン・キホーテ』など挙げていけば枚挙にいとまがない。考えてみればバロックはゴシックより前の時代にあたるので、自分が好きな幻想小説の源流にもあたる。道理で相性が良いわけだ。いやこれは愉しい。
 ラジオも決して悪くはないけれど、生で聴くことが出来るコンサートはまた格別なものといえる。毎年夏になると名駅前に薪能を観に行って夢幻の境地を味わうのが愉しみなのだが、バロック音楽のコンサートも、能とはまた違った意味で現実とは違う世界に連れて行ってくれることが判った。本との相性も良いし、これは病み付きになりそうな予感がする。ロマン派の音楽も悪くないけど、バロック音楽をこれから少し追いかけてみても良いかもしれない。あっという間の2時間だった。

<追記>
 今回のコンサートは、元を辿れば声楽家の加藤氏と喫茶リチルでお会いしたことがきっかけだった。その後、幻想文学を語るイベントにもご参加いただいたりして、今度はご本業であるバロック音楽を聴く機会を作って頂くことに。本を通じて思い掛けない方々との出会いが広がっていくのがありがたく、そしてまた愉しい。
 加藤さん、このたびはどうも有難うございました。またリチルで珈琲でも飲みながらおしゃべり致しましょう。マスター、その節は宜しくお願いします。

『家事の政治学』 柏木博 岩波現代文庫

 「男は外で仕事をして金を稼ぎ、女は家で家事と育児をする」というのが一昔前には日本の一般的な社会システムだった。我が家の場合は共働きで母親がパートタイムの事務仕事をしていたのだが、それでも炊事洗濯や家の掃除などは当たり前のようにこなし、それを不思議にも思わなかった。それに疑問を持ち始めたのはいつ頃からだったろう。
 その後、フェミニズムやジェンダーという言葉を知ってからは、色々と考えることも増えた。家事というものが過去どのように捉えられてきたのか、そして制度としてどのような変遷をとげてきたのかにも興味が湧いた。そんなわけで、先日本屋でたまたま見かけたのがこの本。「家事」と「政治学」という言葉の取り合わせが新鮮でさっそく手に取った・ページをめくると欧米における家事労働をめぐる社会運動の歴史が書かれているようでいい感じ。前から一度こういう本を読んでみたかったのだ。というわけで、中身について触れていこう。

 本書の題名である「家事の政治学」とは何か?「家政学」とは違うのか?(というか、そもそも「家政学」とは何か。/汗)知らないことばかりなので調べてみた。日本家政学会の定義によれば家政学とは「家庭生活を中心とした人間生活における人間と環境の相互作用について、人的・物的両面から、自然・社会・人文の諸科学を基盤として研究し、生活の向上とともに人類の福祉に貢献する実践的総合科学」なのだそうだ。難しすぎて却って何だかよくわからないが、とりあえずここでは家庭生活に関する人文科学(政治学・社会学)ぐらいに考えておきたい。本書ではその家政学(?)を特に「家事労働のミクロポリティックス(=家庭を国家の礎たる一単位として捉えなおすこと)」という観点から考察しているというわけ。
 冒頭に書いたような家庭外で行う労働は「賃労働」、家庭の維持管理のための労働は「家事労働」と呼ばれている。昔は区分が曖昧だったそれら二つの労働は、産業社会の発展につれ19世紀末ごろから分離していったそう。今の社会システムは遥か昔からの伝統のように思われているれど、たったの100年そこそこしかなくて意外と歴史が浅いのだ。(もちろん過去には分業は全く無かったというわけではなく、封建社会の時代から性差や貧困や国家政策と密接な関係を持ちつつ、形を変えて作られてきた制度ではあるわけだが。)
 本書で取り上げられているテーマは洗濯や掃除も含めた家事全般について多岐に亘っているが、なかでもキッチンと食事に関する比重がかなり大きい。これは毎日の食の確保が昔からいかに重要な関心事だったのかを示しているのだろう。食料の確保や保存、そして調理は、たとえ輸送システムや冷凍・レトルト食品などの貯蔵技術が発達した現代であっても、とにかく大変なのだ。まして昔であれば、大変に手間がかかる仕事であったろうと思う。
 一般的な住宅は個々にキッチンをそなえており、家事をひとつの住居のなかで全てまかなうことが出来るように作られている。しかし過去の歴史を振り返ってみると、それが必ずしも唯一の方法であったわけではないことが判る。本書によればドイツのバウハウス(*)では協同住宅を理想としていたようだし、また家事を完全に外注化してキッチンが無い住宅こそが理想とされる場合もあったらしい。例えばエドワード・ベラミーが書いた『顧みれば』(1888)という未来小説では、2000年のボストンで一種のシェアハウスに住む人々の様子や、相互扶助の思想に基づく家事の産業化によって実現した社会主義的ユートピアが描かれている。
 家庭の孤独な空間で女性だけに押しつけられていた家事労働を公的空間に解放したり、あるいは家事に対する報酬を支払うことで、家事労働を経済活動のひとつに位置付けることが模索されていた時代もあったのだ。
 しかし資本主義が世界を席巻するにつれ賃労働と家事労働の分離は進み、女性は専業主婦としてますます家事労働にしばりつけられることに。そして料理・洗濯・育児・掃除といった家事労働は解放された協同作業ではなく、個別の「商品」として市場から家庭に供給される方向へと向かった。
 やがてアメリカでは低技術・低価格の一戸建て住宅の発売と普及により、キッチンの共有と協同家事への道が完全に閉ざされることになった。(これは戦後の公団住宅の普及や核家族化が推進された日本においても同じ図式だと思う。)この意味で“夢の戸建て住宅”とは、家事にかかわる一種の「政治イデオロギー」であったのだと著者はいう。うーむ、結局のところ協同化の障害となったのは、「私有」の概念だったのかも知れない。根が深い。

   *…20世紀初頭に設立された美術と建築に関する学校。そこでは合理主義的または
      機能主義的な芸術運動が推進された。

 続く第2章では、清教徒の価値観に基づいてビーチャー姉妹らによってアメリカで推進された「家政学(ドメスティック・サイエンス)」の活動について俯瞰する。これは男女の分業を念頭においた上で「女性が家庭内を支配する」という考えに基づくものだそうで、すなわち男性がビジネス空間を支配するという意味と表裏一体の考え方だ。彼女らは家事を通じて女性の地位を向上し、奴隷や召使いを使わずに家事労を行う女性の負担を軽減するため、様々な装置を提案した。(注:それはやがてシステムキッチンという住宅設備の形で実現する。)
 ちなみに彼女らによる世界初の“システムキッチン”は、客船の調理室をヒントにして構想されたとのこと。この流れはクリスティーヌ・フレデリックによる「家事工学(ホーム・エンジニアリング)」や「ホーム・エコノミックス(これも家政学と訳される)の母」と呼ばれたエレン・リチャーズの活動へと広がり、住宅設備(≒家事を楽にするための設備)の導入によって「専門家としての主婦」と「経済における消費システムとしての家庭」を生み出していくことになる。(なお本書によればこれらの活動から、規律と標準化を旨とするファースト・フード産業が生まれたらしい。)20年代には冷凍食品の出現や自動車、そして家電製品の普及も始まったようだし、消費社会の進展と家政学のモデル化は切っても切れないものだったのだろう。思うにこれは当時流行った「科学的思想の社会学への応用」を反映したものだったのかも知れない。
 一方で海を渡ったイギリスにおいては、家政学が貧困層の生活水準を向上させるための社会的な政策として推進された面もあったようだ。ひとくちに「家政学」といっても国によって色々な違いがあるようだ。第4章ではそのイギリスに留学した大江スミにより日本に伝えられた「家政学」と、日本における女子教育の変遷が紹介されている。
 日本でも英米と同様に家政学は国策としての面を強く持っていたらしい。日本では召使いや奴隷の存在といった社会背景はなかったが、代わりに徳川の支配階級に変わって成り上がった明治時代の新興支配階級(下級武士)が、自分達の新たな生活様式を世界に示す必要があったとのこと。下田歌子による『婦人作法』などの著作や、博文館から発行された『裁縫と編物』『住居と園芸』『衣服と流行』といった一連の書物も、その方針に沿って書かれたものだそうだ。冠婚葬祭の礼法や育児・看病などを含んだ、今に続く「主婦業」のモデルすなわち良妻賢母の女性像はこの明治20年頃に確立したものなのだろう。
 第6章からは再び30年代のアメリカに戻り、家事労働のロボット化について語られる。1939年のニューヨーク万博では電気皿洗い機などの家電製品や未来の家事ロボットが展示され、会場を訪れた女性たちに家事の未来に関する展望を与えた。(このあたりのくだりは大阪万博の“人間洗濯機”などを思い起こさせる。)本章ではカレル・チャペック「R.U.R」などを例にロボットによる家事の全自動化の夢や、バックミンスター・フラーによる「ダイマクション・ハウス」といった、家事の作業動線と住宅設備による補助を意識した建築側からの取り組みも紹介されている。
 続いてはドイツにおける取り組みの紹介。ドイツでは第一次大戦の敗北から国内産業を復興させため、アメリカの家政学の影響を受けながら建築家やデザイナー達による模索が続けられたようだ。彼らの考え方は住宅設備による家事の合理化という視点と「家事の科学的な管理」という点が共通している。写真を見る限りではもうすでに高度成長期の日本のキッチン空間に近いものになっているが、著者によれば結局のところ建築家らによる単なる生活提案に過ぎず、「家事労働を女性が担う」という考えそのものにまで踏み込んだものにはなっていないそうだ。なかなか手厳しい。
 このように欧米の(そしてロシアをも巻き込んだ)「合理化」の流れはやがて日本にも到来し、文部省主導でつくられた“生活改善同盟会”による国力向上活動として、1920年代頃から「改造」や「能率」といった合言葉とともに展開されるに至る。いかにも戦前の雰囲気ただよう活動だ。(もっともこれは決して悪い面ばかり強調されるべきものではなく、日本の劣悪な住宅事情を改善するという意味もあったようだが。)

 これまで述べてきたように、家政学は近代国家の成立および産業社会の発展とともに生まれた。そして次に第二次世界大戦によって大きな転機を迎えることになる。ドイツや日本といった敗戦国は勿論のことだがアメリカやイギリスのような戦勝国であっても、住宅の極端な不足や戦時経済の影響による混乱は免れられない。そこでアメリカでは当時のフーバー大統領による一戸建て住宅キャンペーンが展開され、それを受けてウィリアム・レヴィットにより廉価な量産型住宅「レヴィット・タウン」が市場に供給された。「郊外に建つマイホーム。日曜日には庭の芝生でバーベキュー」といった、ある年代の日本人が持っているアメリカのイメージは、「アイ・ラブ・ルーシー」「うちのママは世界一」といったTV番組の舞台としてこれらの住宅が使われたことで形成されたようだ。
 その後、60年代頃になると、このような画一化した家族観が持つ歪みが見えてきてそれに対する批判もおこり、家事の枠組みを越えた社会意識の醸成と貧困問題などへの取り組みが必要となってきた。こうして従来型の家政学はフェミニズムなどの影響を受けつつ発展解消していったわけだ。

 以上、本書の内容をざっと紹介してみた。まとめると、家事労働は色々な国によって社会制度の一部として時代の影響を受けつつ、緩やかに改善の取り組みがなされてきたといえる。もちろん今でも酷い性差別によって女性の社会進出が進まない国や地域は多いし、将来どのような科学技術や社会が実現するかよって見通しが不透明な部分は多い。しかし少なくとも日本においては少子高齢化や周辺国の発展によって今までのような豊かな社会が望めない以上、家事労働についての考え方も大きく変わっていかざるをえないだろう。
 著者は本書の中で戦前の政府について「権力は個々の家族の自由な存在を認めないまま、それを単位として国家組織に組み込み、(中略)国家的生産の論理に取り込んでいったのだといえるだろう」と述べているのだが、現政権やその母体となる政治団体の中枢にある考えはここから何も変わっていないのではないだろうか。そう考えると少し絶望的な気分になってくる。いわゆる有識者の云うところの「伝統的価値観」というのが、いかに歴史の浅いものでしかないか、そして近代国家成立の歪みがいかに現在まで影響を与えているかが、この手の本を読んでみるとよく解る。しかし一方で、本書のような本が誰でも手軽に読める文庫という形で出ることに喜びも感じる。(そんなに売れる本ではないだろうから値段が高いのは仕方ないとして。)まあいずれにせよ「知の考古学」を実践している本はいつも愉しい。

<追記>
 内容とは直接関係ない話だが本書を読んで気が付いたことをひとつ。本書の著者はきっとSFファンなのではないだろうか。というのも、あまり必然性のないところで古今東西のSF小説やSF映画が引き合いに出されるのだ。有名なチャペック『R.U.R』ぐらいならともかく、ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』やP・K・ディックの短篇「追憶売ります」を原作にしたSF映画『トータル・リコール』まで。
 多分間違いないね。(笑)
最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR