2016年1月の読了本

今月は年末年始の休みで少し多めに読めたので嬉しい。

『ウィスキー&ジョーキンズ』 ロード・ダンセイニ 国書刊行会
 副題は「ダンセイニの幻想法螺話」となっている。エルフランドとペガーナの語り手たるダンセイニ卿が、軽妙な語り口で記した掌編であるジョーキンズ・シリーズの中から、訳者の中野善夫氏が選りすぐった傑作集だ。にやりとする話やアッと驚く話など、様々なタイプの物語がショーケースのように並べられて飽きさせない。個人的には「一族の友人」「ジョーキンズ、馬を走らせる」「奇妙な島」「夢の響き」などの、幻想の薫りが立ち上るような作品が特に気に入った。しかしまた、ぞくりとくる「スフィンクスの秘密」「リンガムへの道」も好いし、「薄暗い部屋で」と「スルタンと猿とバナナ」のラストの切れ味は抜群。中には「高野聖」を思い起こさせるような作品もある。バラエティに富んでおり滑稽な話も多いので、「ペガーナの神々」など異境の物語でダンセイニに初めて触れた人は少し面食らうかもしれないが、そこはかとなく漂う夢幻の輝きはやはりダンセイニらしい。これこそが、稲垣足穂が「セピア色の村」で表現しようとしたものなのじゃないかとも思えてくる。cocoさんの表紙イラストは、全部の作品を読んでからもう一度みるとどの話か全て判って二度愉しい。

『サロメ』 ワイルド 岩波文庫
 ワイルドの代表的な一幕物の戯曲。エロド王が実兄から奪い取ったエロディアス妃の娘たる王女サロメ。彼女の預言者ヨカナーンに対する禁断の恋を巡る、死と血と頽廃に彩られた悲劇を描く。ビアズレーの耽美な装画18点が良い雰囲気を出している。仏語版はシュオッブが手を入れたとのことだ。福田恒存訳。

『メノン』 プラトン 岩波文庫
 ソクラテスとメノンにより繰り広げられる、「徳(≒善きもの)とは何か?それは教えれられるものであるのか?」という問いに対する探求の書。「知らぬことを想起することにより探究できるのか?」など色々と横道に逸れながらも、弁証法で探ってゆく。「徳は教えられるもの(≒知の一種)ではなく、神の恵みとして自然に人に備わる」といったあたりまでは良いが、肝心の「しかして徳とは何か?」については見事にはぐらかされる(苦笑)。しかしイデア論の萌芽が見られるのは面白い。

『家事の政治学』 柏木博 岩波現代文庫
 家事労働の科学である家政学を、近代の歴史における家事労働の変遷を通じて「ミクロポリティックス(=家庭を国家の礎たる一単位として捉えなおすこと)」の視点から考察した本。家事労働を一戸の家庭で完結させるのでなく、協同住宅を理想とした活動や、家事サービスが「商品」として市場原理に組み込まれていく様子など、いままで考えたことも無い切り口で大変面白かった。

『ゼンデギ』 グレッグ・イーガン ハヤカワ文庫
 近未来のイランを舞台に、バーチャル・リアリティの先にある人工意識の可能性とそれが呼び寄せる倫理問題について、多種多様な価値観と宗教観、そして父子の運命を絡めて描いたSF小説。舞台が近未来で扱われている科学技術も拡張現実という馴染みのあるものなので、他のイーガン作品に比べて理解しやすくはあるが、決して読みやすくはないと思う。カタルシスや安易に飛びつけるような回答もなく、読者を主題に向き合わせる物語だ。物語の先は読者がそれぞれ考えるべきなのだろう。

『暴力の哲学』 酒井隆史 河出文庫
 国家による圧倒的な暴力の行使のメカニズムを読み解き、本来の意味での非暴力/反暴力の重要性を説く。内容としては哲学というよりむしろ社会学や政治学に近いが、色々な示唆に富んでいて刺激的。

『けだものと超けだもの』 サキ 白水uブックス
 日本で独自に編まれた傑作選が多い短編の名手サキだが、これはオリジナル短篇集をそのまま訳しており全部で36篇を収録。題名は「全人類が身心ともにすぐれ完全な社会を作るために必要な活発な生の力」を描いたバーナード・ショウの哲学的戯曲『人と超人』の題名をもじったものとのこと。一癖もふた癖もある登場人物たちが滑稽な人生模様を繰り広げる。本書に先立って同じくuブックスから出た『クローヴィス物語』の主人公クローヴィスも幾つかの作品で活躍するが、個人的にはこまっしゃくれた女の子ヴェラの方がもっと好きかも。「開けっぱなしの窓」「黄昏」「夢みる人」「鉄壁の煙幕」「納戸部屋」あたりが、意地の悪さにキレがあって特に気に入った。

『野球の国のアリス』 北村薫 講談社文庫
 少年少女向けの描き下ろしミステリー叢書であった「ミステリーランド」からの文庫化。宇佐木(うさぎ)さんを追いかけて鏡の世界に入り込んだスポーツ少女アリスが経験する“永遠のひと夏”の思い出を描く。厳密な意味でミステリーかと云えば疑問は残るが、パズル小説としてスポーツ小説として、そして何より子供達への物語の贈り物として秀逸だと思う。面白いから許す。(笑)

『ベーオウルフ』 岩波文庫
 中世イギリスの有名な叙事詩で、北欧を舞台にした勇壮の誉れたかき英雄ベーオウルフの冒険と死を描く。王宮を襲い人を喰らう怪物グレンデル及びその母との一騎打ちと勝利や、晩年の宝を護る龍との死闘は、子供の頃になぜか家に一冊だけあった「少年少女 世界の文学/イギリス編」で読んだ時のわくわくそのままだった。解説によればトールキンが『ベーオウルフ』の評論を書いていたとのことだが、『ホビットの冒険』でスマウグが黄金を護っていたのは、直接的にはこの辺りからの連想なのだろうか?

『被差別のグルメ』 上原善広 新潮新書
 食文化を味と精神性の結晶であるとし、アイヌや北方少数民族、琉球や日本各地の被差別民の文化に今でも残る「ソウルフード」を訪ねたルポルタージュ。内臓料理やソテツ味噌、キピトロ(行者ニンニク)を使った料理など、人々の「魂」に直結する食を紹介する。ある人にとっては二度と食べたくないほど不味いものなのに、その味で育った人には涙が出るほど美味しいというのがソウルフードの本質だろう、という言葉にはハッとさせられた。なるほど「ソウル」とはかように苛烈なものなのだな。食は生き方そのものであり、突き詰めると底無し沼のように奥が深い。

『これで駄目なら』 カート・ヴォネガット 飛鳥新社
 シニカルで心優しい我らが愛すべきヴォネガットが、全米各地の卒業式などで語った講演を集めたもの。作家の円城塔氏による日本語訳も読みやすい。辛辣なほどに面白さを増すヴォネガットなので、インディアナ自由人権協会とイースタン・ワシントン大学での講演はかなり気に入った。人生でひどい体験をしたことを、さも勲章のように誇らしげに語る人がいるが、ヴォネガットはそんなことは決して云わない。ただつらかったというだけだ。そしてそこから学ぶことは「苦労が人を作る」ではなく、「人には優しく」ということなのだと静かに語りかける。そして題名にもなっているが、何度か出てくるアレックス叔父のエピソードが好い。物事が本当にうまくいっているその時には、ちゃんと気づかないといけなくて、きちんと声に出すことが大切なのだそうだ。「これで駄目なら、どうしろって?」(でも良かった時って必ず後になってから気がつくんだよね。/苦笑)ヴォネガットはまず自分が高校か大学の頃に読んで、そんでまた自分の子供がそれくらいの歳になった時に読み返すとまた違った読み方が出来て、二度おいしいんではないだろうか。

『斜め屋敷の犯罪』島田荘司 講談社文庫
 『占星術殺人事件』と並ぶ著者の初期の代表作であるとともに、その後の新本格ムーブメント到来に大きく寄与した記念碑的な一冊の改訂完全版。数十年ぶりに再読したが愉しかった。奇妙な館と不気味な人形たち、吹雪の夜と完璧な密室の殺人。大時代めいた挑戦状も愉しい。前半と後半で三人称から一人称へと語り口が変わったり途中で唐突に「作者」が顔をだすところなどは、小説としても斜めに歪んでいるように感じるのだが、しかし却ってそこにこの作品がもつ“熱”を感じたりして魅力だったのを思い出した。

『文豪山怪奇譚』 東雅夫/編 山と渓谷社
 幻想と怪奇の名アンソロジストによる、山を題材にした幻想アンロソジー。文豪たちによる幻想と怪奇の作品が全部で十二篇収録されている。岡本綺堂や泉鏡花といった名手による作品はもちろん、なかには画家・村山槐多による「鉄の童子」や中勘助の「夢の日記から」といった珍しいものまで様々。巻末には柳田國男による山人幻想「山人外伝資料」を配して民俗学の古典を今の目で幻想文学として愉しもうとするなど、相変わらずセレクトが巧い。綺堂「くろん坊」や鏡花「薬草取」はもちろんだが、火野葦平「千軒岳にて」や太宰治「魚服記」なども思いのほか面白くて気に入った。
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『暴力の哲学』酒井隆史 河出文庫

 むかしから「笑い」と「暴力」の哲学的な意味に興味があって、本を見つけると機会があるごとに読んだりしている。自分が知りたいのはそれらの現象学的な“本質”なので、残念ながらこれまでのところはまだ「これだっ」という本には巡り合えていない。ただし、例えばベルクソンの『笑い』やジラールの『暴力と聖なるもの』なども自分が知りたかった事とは違う内容ではあるが、社会学的な考察であったり文化人類学的な考察であったりして、これはこれで面白かったりもする。
 というわけで今回は本屋の店頭でずばり『暴力の哲学』という題名の本を見かけたので、さっそく買って読んでみた。内容をざっくりといえば、国家による民衆への圧倒的な暴力行使のメカニズムを読み解いて、「マジョリティの恐怖」を煽ることで行われる支配を脱するために無抵抗と従順による“擬似的非暴力”ではなく、例えばマハトマ・ガンディーらのような本来の意味での“非暴力/反暴力”の重要性を説く本とでもいえば良いだろうか。本書も「哲学」というよりはむしろ社会学や政治学に近いものではあったが、しかしこれはこれでやはり面白く色々と示唆に富んでいる。笠井潔氏の評論『テロルの現象学』の最後に示された結論の、さらに先に行ったような印象はある。ではざっと中身に触れてみよう。

 本書では暴力をおおきく3つに分けている。まずひとつめは政治的権力と結び付く暴力。ここには軍隊や警察の治安部隊なども含まれるだろう。残りはいずれも政治と無関係な暴力であって、ニつめは宗教や絶対正義に裏打ちされた「政治上位的暴力」というもの。三つめはそれとは逆で、抑圧されたものが至る目的なき暴力ともいうべき「政治下位的暴力」。著者は政治的暴力に対抗できるのは愛や無抵抗ではなく、かといってカウンター的な暴力でもなく、権力から加えられる“正”の力を無化するために被抑圧者たちから生み出される“負”の力こそが重要だという。そしてそれが先ほども書いた「非暴力」というものなのだ。前半ではアメリカの黒人運動で有名なキング牧師やマルコムX、そしてその後のポストコロニアム思想をリードしたフランツ・ファノンといった人物を引き合いに彼らの思想を分析し、その行動から「憎しみ」と「怒り」というふたつの要素を抽出する。そして両者は一見よく似た感情であるが「憎しみ」は決して暴力の解決には結びつかないと主張する。それは「その感情をもたらす原因に遡り、根源的次元から根絶しようというのではなく、」むしろその結果生み出された「特定の人間や集団」を「排撃したり殲滅することでカタルシスをえる」ものであるので、暴力の根源的な根絶には至らない。ジョージ・オーウェル『一九八四年』に出てくる「憎悪の時間」などもそうだが、圧政者は人種や民族や生まれ育ちといった生得的な特徴をことさらに強調・利用することで、社会の底辺に位置する人々に、ある種の人々への憎しみを煽る。(「在日特権」や「生活保護の不正受給」といった話題などもそのひとつだろう。)その結果、本来は力を合わせるべき人々の間に相互不信と劣等と体制への依存が生みだされてしまう。それに対して「怒り」の感情の場合は、対象が身近な者ではなく暴力が生み出される根源的な問題へと向かうため、その解決へと結びつくものなのだそうだ。キング牧師による公民権運動の高まりやガンディーによる「塩の行進」などはまさに怒りの表出に他ならないとのこと。
 また(民衆に対して)強制力を持つという意味では、国家など主権を持つ者が“暴力をふるう権利”を有するとも言えるわけであり、ここからはマルコムXの率いたブラック・パンサー党の活動にあるように、「主権を持つのは誰か?」というまた別の根源的な問題が問われることになる。一方ではハンナ・アーレントのように、権力と暴力は本来別の物であって暴力は権力行使の道具に過ぎないといった議論もあるらしい。もっとも著者はアーレントの理論は暴力論としては致命的な欠点があると言っているが。(ここまで行くと詳しくないので全然わからない。/苦笑)

 そもそも「暴力」とはいったい何なのだろう?本書を読みながら考えてみる。他者に対して相手の意にそぐわない状況を強いるための手段であって、且つ施行する者の精神構造に対しても暴力への依存と過激化という影響を及ぼすものなのだろうか。つまりは道具(あるいは下僕)であるとともに、自らをまた目的(あるいは主人)にしようとするものなのだろうか? 読みながらぐるぐると頭の中が回っている。
 ページが進むと中ほどに出てくる、フーコーとニーチェの話が面白い。ニーチェといえばすぐに出てくるのは“力への意志”。そしてフーコーは“生権力”で有名だが、両者ともに共通するのは「権力は何か?」という問いは発せず、ただ「権力とはどのように作用しているか」を問えるだけであるとした点。すなわち彼らによれば”存在”と”力”は同義であり、権力はAからBに譲り渡せるようなものではないのだ。よって権力の移譲をベースに物事を考えるのは止めるべきだという。(ここで話はいよいよ核心の暴力と権力の違いへと移っていく。)
 暴力は「強制し、屈服させ、拷問にかけ、破壊し、すべての可能性へ通じる扉を閉ざすもの」であり「暴力をこうむる側は、受動的たりうるだけ」である。一方、権力とは「人間の身体そのものではなく、まず行為の可能性の領域に働きかけ」て「人のなしうる可能性から力を引き剥がしてしまう」ものなのだそう。そうすることで、権力は自分達により従順な人々を作り上げるのだ。
 権力の行使の仕組みは、例えばL.A.の黒人暴動(1992)の引き金となった白人警官によるロドニー・キング青年の暴行事件の顛末を見れば明らかになる。被告の警官たちが無罪になった裁判のように、権力は圧倒的強者が弱者に対して感じる根拠のない不安を利用し、その結果は強者による「予防対抗暴力」となって常に現れるのだ。地面に倒れ込んで身動きもできないキング青年を取り囲んだ屈強な警官たちによる「やらなければやられるに違いない」という思い込みによるいきなりの暴力。これなどはブッシュによるイラク侵攻の際の強弁(もしくは日本の現政権の考え方)でお馴染みのものだ。つまり逆説的ではあるが、戦争とは「根本的に反戦的」なものなのだ。なおこれらの強弁に関連しては、性的な要因と暴力の関係についてもふれられている。著者によれば、暴力が発生するときは理念的な「男らしさ」と自らの現実的な「無力(不能)」の間の亀裂を埋めようとする運動があるのだ。うん、これは何となくわかる。身近な例をみても、自信の無い人間ほど自己評価が根拠なく高かったり、そのくせ他人からの評価をやたら気にしたりするから。男らしさも決して「力の解放」などではなく、むしろ人を束縛する力の封鎖と規制の形態であるのだという指摘は鋭い。

 次にはこういった傾向が進んだ状態である、「ウルトラ・ポリテクス(=政治の直接の軍事化)」を介して抗争を極限にまで押し上げることで達成される脱政治化(の暴力)にまで考察が及ぶ。けっこう難しい。ここではクラウゼヴィッツやシュミットら(*)によってなされた思想的な研究、すなわち“ゲリラ・パルチザン闘争”と“総力戦による殲滅”の対比について取り上げ、こういった二者択一的な思想の限界ならびに「民衆的防御」という概念との相違点、さらには「民衆的防御」という概念のもつ可能性について示される。
 ここでいう「民衆的防御」とは何か? それは1871年のパリ・コミューンや上海、ロシアなどにおけるコミューンのように、国家(軍や治安維持の部隊)に組織化されたのでなく、あくまで民衆からの自然発生的な「反暴力」と説明される。(これを思想家でもあり小説家でもある笠井潔氏は統治の理想状態であると定義した。本書ではベンヤミンの「神的暴力」が対置されている。)また現代の例としてはサバティスタ民族解放軍(EZLN)というメキシコのゲリラ軍の考えかたが示されている。
 こういった一連の説明を通して、冒頭にも述べたように「国家による管理と、権力/暴力の行使を前提とする非暴力」は、無気力や支配との共存を前提とする「疑似的非暴力」であるとして著者は非難しているわけだ。それは平和なのではなく、単に波風を立てられないだけであると。最終的に著者は、ホッブスの言う「自然状態」を、“カオスに満ちた恐怖を生み出す状態”として捉えるのでく、個(エキセントリシティ)を互いに認め合う集合として捉えることで、生産的な生活の実験や経験の場として肯定することを提案している。実際に生活の場で実現していくには多くの困難があると思うが、それでも常に湧き出してくる暴力に対抗しようとするならば、それらを無効にする本来の意味での非暴力(=神的暴力)を続ける不断の努力こそが必要なのだということだろう。

   *…カール・フォン・クラウゼヴィッツは近代戦争の理論書である『戦争論』を
      書いた19世紀プロイセン王国の軍人。「戦争とは他の手段をもって継続
      する政治の延長である」という主張で有名。一方のカール・シュミットは
      『政治的なものの概念』や『パルチザンの理論』を書いた20世紀ドイツ
      の政治学者で、戦争を国家や政治と不可分なものとして位置付けた。

 薄い割にとても難しい議論が続いてかなり読み応えのある本だったが、頭の体操として結構面白かった。たまにもこういうのを衝動買いで読むのも刺激になって良いかも。みすず書房や法政大学出版局(ウニベルシタス叢書)なんかと違って文庫だから安いし。(笑)

<追記>
 この本を読んでからフランツ・ファノンが気になってしまい、主著である『地に呪われたる者』を見つけてつい買ってしまった。酒井氏はファノンの主張に対してはやや批判的ではあったが、どんな事を書いているのか実際に読んでみたい。それにしてもどんどん本が溜まってしまうなあ。(苦笑)

『クルアーンを読む』 中田考/橋爪大三郎 太田出版

 日本人でありながら敬虔なムスリムである中田氏と、キリスト教を中心に様々な宗教にも造詣が深い社会学者の橋爪氏による対談集。副題は「カリフとキリスト」という。日本語を母語にする極めて知性的な人物によって語られるイスラーム信仰についての話は強烈だが新鮮でもあり、予想もしなかった方向から頭をぼかぼか叩かれているような刺激がある。そして橋本氏によって時にあけすけに、時にぎりぎりまで踏み込んだ真摯でスリリングな議論は、緊迫の度合いを深めるシリアを中心とした中東情勢を理解するうえで非常に役に立つ。
 中田氏によれば、多数派であるスンナ派(スンニ派)には、神学的にみて「統治権力の正当性」を論証する術が無いとのこと。したがって民衆が圧制に対して起こす反乱蜂起は、実はスンナ派のシステムそのものに内蔵されたものなのだ。反乱はムスリムにとって原理的に正当な権利である。しかしその代わり、反乱を起こす際には宗教的にも正しくなければならず、単に現政府が民衆に対して「不正」であるだけでは駄目なのだという。したがってISはシリアにおいてアサド政権をまず「背教者」であると認定し、そしてその上で反乱を起こしたらしい。そうなると信仰の根元に関わることだけに基本的には殺し合いになるしかない。互いに相手が背教者であると主張しあいながら、どちらかが殲滅するまで戦いが続くことになる。停戦の可能性がないというのは恐るべしである。
 ところでこれまで読んできた中では、イスラーム信仰の内面については本書がいちばん詳しいように感じた。中田氏の見解は単純な受け売りなどではなく、イスラームの教えの根源的なところまで深く考え抜かれた上でのものなので、読んでいても納得が出来る。ちなみにそしてISに対して氏が感じている(と思われる)シンパシーもまた、宗教的にみて理解できるものではある。ただしそれは西洋的な価値観が主流である世界においては、おおきな誤解を招く恐れと表裏一体のリスキーなものではあるのだが……。おそらく中田氏は根本的に原理主義者なんだろうと思う。テロ思想がどうとかおかしな意味ではなく、ムハンマドから始まったイスラームの教えに忠実という意味で。例えばイスラム銀行の理念も否定、西洋的な資本主義も否定、そしてカリフ制に基づく商業文明に戻るべきと主張するなど、ある意味ではISより過激な思想といえるかもしれない。(笑)
 本書を読んでいちばん驚いたのは、キリスト教でいうところの「自然権」がムスリムの世界には存在しないという点だろうか。自然権に代わるものは「シャリーア(=後世の宗教学者によって書かれた言行録)」であるというのは、ムスリムの考え方を理解する上でまさに目から鱗だった。(*)

   *…結局のところ「人は罪を犯すものであり、神の意志は絶対ではあるが、
      預言者(ムハンマド)あるいは正統的な後継者(イマーム)なきあとは、
      世に残された者が恣意的に判断せざるを得ない」と認めたことが、
      イスラームに原理的に内包されたリスクといえるのかもしれない。

 時事的な話題も適度にとりまぜつつ話は進み、最後は“ユニバーサリズムたるイスラーム教”と“ナショナリズムたるキリスト教”(および西洋諸国)の思想的な比較という壮大なテーマにまで及ぶ。なおこの点において橋爪氏の舌鋒はかなり鋭い。極めて素朴な契約形態であるカリフ制の持つ根本的な脆さと、共産主義との共通点を指摘する橋本氏に対し、一方の中田氏は非常にナイーブすぎるようにも見える。氏の理想主義的な面が見え隠れする所以である。
 まああれこれ書いてはみたが、全体を通して「現在の世界を取り巻く情勢の鍵となるイスラーム教をキリスト教との比較で読み解く」という本書のねらいは、かなり成功しているといえるだろう。面白かった。こういう本は好きだ。

明けましておめでとうございます

新年、明けましておめでとうございます。
2016年の幕開けです。

なにやらキナ臭い情勢や先行き不透明な経済の昨今ですが、
昨年は個人的には仕事もプライベートも結構忙しく充実した年でした。
(そのせいで本は思ったより読めませんでしたが。/苦笑)

昨年読んだ本はざっと数えたところ132冊。
多くも無く少なくも無くといったところでしょうか。
忙しいとつい好きな小説に流れがちで、
学術系があまり読めなかったのが心残りです。
ことしもたくさんの良い本と出会えるといいのですが。

いつも拙ブログをご訪問いただき有難うございます。
皆さまにも良い本の出会いがありますように。
それでは今年もよろしくお願い致します。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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