My Choice/2015年印象に残った本

 なんだか年々仕事が忙しくなっている。そのうえ昨年から仕事内容が変わり、出張が全くなくなってしまったので平日の読書時間が激減したせいで、毎月読める量にも制限がかかってなかなか大変。しかし一方では読書会やシンポジウムへの参加など、本に関係したイベントが充実してとても愉しい一年だったのは好かった。さてそれでは、毎年恒例としているように、今年読んだ本の中から「印象に残った本」を挙げてみよう。今年は幻想文学を中心としたフィクション分野で収穫が多かったように思う。

<新刊部門> ―今年出版された本―
『黄金時代』 ミハル・アイヴァス 河出書房新社
 チェコの作家による幻想哲学小説。前作の『もうひとつの街』が面白かったので読んでみたのだが、さらに自分好みだった。文化人類学的な面白さで読ませる前半と、ボルヘスばりのメタフィクショナルな展開が炸裂する後半でがらりと雰囲気が変わるのが面白い。日本翻訳大賞に推薦したが残念ながら最終選考でおちてしまった。(奥付を見たら2014年11月だった。でも読んだのは2015年になってからだからいいや。かたいことは言いっこなしで。)

『巨大ウイルスと第4のドメイン』 武村政春 講談社ブルーバックス
 自然科学系の本の代表として。近年になって新たに発見されミミウイルスやパンドラウイルスと名付けられた巨大ウイルスは、“無生物”であるにも関わらず“生物”であるバクテリアよりも大きなDNAをもつという。本書ではそれらの存在を基軸に、「生物」の誕生過程について分子生物学の大胆な仮説を繰り広げる。はたしてこれまでの「バクテリア(細菌)/アーキア(古細菌)/真核生物」という生物の3つのドメインに対して、新たな第4のドメインは成立するのか。そして細胞を基準とするこれまでの生物の定義は見直されるのか。これからも目が離せない。

『教皇ヒュアキントス』 ヴァーノン・リー 国書刊行会
 19世紀ヨーロッパの作家による幻想小説集。編訳者の中野善夫氏が数年に亘り悪戦苦闘している様子をツイッターで拝見してきただけに、とても印象深い一冊だった。もちろん中身も一級品。古代ギリシアや中世キリスト教などに題材を取った、古風で品の良い作品が特徴で、粒よりの短篇ばかりが集められているベストセレクションだ。価格がちょっと高いがそれだけの価値はあるとおもう。(この本を買ってから、高い本を買うのに抵抗が無くなってしまい、本代が嵩むようになったのは想定外だったが。/苦笑)
栞や蔵書票、豆本プレゼントといった様々な販促イベント“ヒュアキントス祭り”も話題となり、色んな意味で画期的な一冊だった。

『紙の動物園』 ケン・リュウ 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
 こちらはSFジャンルからの今年最高の一冊。今、最も注目されるアメリカ在住の中国系作家の作品を精選した、日本オリジナル編集の短篇集だ。芥川賞を受賞した漫才師の又吉氏がテレビで取り上げるなど、これもまた色んな意味で話題となった。軽妙なアイデアストーリーから痛切で思い読後感を遺す作品まで、バラエティに富んだ十五篇が収録されていて、訳者の古沢嘉通氏の選定がとても素晴らしい。

『反知性主義』 森本あんり 新潮選書
 最近よく目にする「反知性主義」という言葉の源流についてまとめた本。反知性主義とは日本で使われるような「総ての知性に対して反対する主義」という意味ではなく、元来はアメリカで生まれた特定の主義を指す言葉なのだそうだ。

『泰平ヨンの未来学会議』 スタニスワフ・レム ハヤカワ文庫
 今年は自分がもっとも好きな作家のひとりであるレムの本が3冊もでた稀有な年でもあった。本書は数十年前に他社からハードカバーで出て以来、長らく絶版になっていたものの初文庫化。まさかこの本が新刊のとして読めるときが来るとは思えなかった。(さらには本書を原作にした映画公開まで!)他にも国書刊行会のレム・コレクションから新刊の『短篇ベスト10』が発行されたり、同じくレム・コレクションの第一巻として刊行された『ソラリス』がハヤカワ文庫に収録されたりと、まさに夢のような一年だった。

『21世紀の資本』 トマ・ピケティ みすず書房
 経済学の高額な専門書であるにも関わらず大ベストセラーとなった話題の本。現在入手な可能で且つ信頼できるデータのみを集め、それらに精緻な分析を加えることで見えてくる経済政策と資本との関係を示した労作。日本ではあっという間にブームが去ったようだが、こういう学術書がきちんと評価されるのが社会の習熟度を示しているような気がする。

『月世界小説』 牧野修 ハヤカワ文庫
 日本のSFはあまり読んでいないのだが、本書は今年読んだ中では文句なくベスト。言語と物語と神をテーマにした、そしてどこか懐かしい感じもする小説。古代英雄神話や聖書にアニメや漫画、さらには「サピア・ウォーフ仮説」や松岡正剛の”日本という方法”といった思想系をくっつけて、もうひとつ全共闘時代を彷彿とさせるというごった煮状態。テーマも作風も懐かしいつくりなのだが、一方では、主人公がLGBTだったりするのがいかにも現代風で面白い。

『ビットとデシベル』 フラワーしげる 書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)
 まさか自分が短歌の本を買うとは思わなかったが、実は本書は翻訳家や作家としてだけでなく、音楽など多方面で活躍する西崎憲氏が、「フラワーしげる」の名前で発表した短歌集なのだ。作風は尾崎放哉や種田山頭火のような自由律短歌で、内容もちょっと形容しがたいものでとても面白い。正直いって短歌がこんなに自由なものとは知らなかった。同じ著者による短篇集『飛行士と東京の雨の森』にも繋がる、良質で密度の高い異界が広がっている。異化とか脱臼とか不穏とかそういうもの。笑いと辛さと、ちょっと不気味さもある。

『動きの悪魔』 ステファン・グラビンスキ 国書刊行会
 20世紀初頭に活躍した、ポーランド唯一の“恐怖小説専業作家”による鉄道怪奇物語集。これまではアンソロジーに短篇がひとつ載っただけなので、本書が実質的な初紹介に近い。乗務員や乗客などいずれ劣らぬ癖ある人々が鉄道事故にまつわる恐怖を体験する前半と、形而上的ともいえる神秘体験が色濃い後半の全十四篇からなり、バラエティに富んでいて飽きさせない。『怪奇小説傑作集』に収録されていても違和感ないものばかりで、なるほどこれは帯にあったようにポーランドのラブクラフトでありポーだと思う。本書が好評だったおかげで第二弾の企画が進められているとの噂もあって、これもまた嬉しい限りだ。

『死者の花嫁』 佐藤弘夫 幻戯書房
 古代から中世を経て近世へと至る、日本人の死生観を探った本。葬送儀礼や遺構、あるいは文芸作品の背景となる社会意識を読み解くことでで、柳田民俗学によって定説となっている日本人の死生観を覆す。大変に刺激的で面白い。また後半には、伝統的な家制度の崩壊によって現在に現れつつある新たな死生観の萌芽も示される。

『回想の人類学』 山口昌男 晶文社
 一昨年に惜しくも他界した文化人類学の泰斗の回想録。山口氏の信頼厚い編集者の川村伸秀氏による聞き書きで、幼少の頃から1980年までのエピソードが克明に記されて、本人しか知らない話が満載となっている。久しぶりに全盛期の山口節が読めて嬉しかった。歯に衣着せぬ毒舌ぶりは相変わらずで、アフリカやパリ、スペインでの生活や旅の様子も楽しい。

『スウェーデンの騎士』 レオ・ペルッツ 国書刊行会
 日本での再評価が著しい“幻想歴史小説”の巨匠の代表作。ひとりの”泥坊”が辿る数奇な運命を描いたピカレスク・ロマンでありギリシア神話的な非劇であり、そしてまた魔術的中世と近代の端境期を舞台にした歴史物語でもあるという稀有な作品で、波乱万丈の展開はページを繰る手を休ませない。

『クルアーンを読む』 中田考/橋爪大二郎 太田出版
 日本人に珍しいムスリムである中田氏と、キリスト教を中心に様々な宗教にも造詣が深い社会学者の橋爪氏による対談集。イスラームの信仰と教義について、信仰の内面にまで踏み込んだ真摯でスリリングな議論が交わされる。

<既刊部門> ―古本・絶版とりまぜて今年自分が読んだ本―
『グリーン・マイル 1~6』 スティーヴン・キング 新潮文庫
 モダン・ホラーの巨匠キングが、「毎月1冊、6か月連続で刊行」という変わった形式で発表して話題を呼んだ作品。小学館文庫から上下巻の形で先ごろ復刊されたのをきっかけに、せっかくなのでオリジナルの新潮文庫の方で読んでみた。1930年代のアメリカを舞台に、死刑囚を収監した刑務所で起こった不思議な出来事を描いた物語で、看守が老年になって書いた回想記というスタイルも好い。しばらく遠ざかっていたキングだが、これはかなり良かった。個人的には『呪われた町』『IT』にも匹敵する。もっと早くに読めば良かった。

『ゴースト・ハント』 H・R・ウェイクフィールド 創元推理文庫
 20世紀初頭に活躍した怪談の名手による傑作集。語り口はあくまでも伝統的で美しく、英国の泉鏡花と呼ぶに相応しいかも。グロテスクさは無いがかなり怖い。「赤い館」「”彼の者現れて後去るべし”」「目隠し遊び」「最後の一束」や表題作はかなり好み。(いまさらだけど、もしかして本書は国書刊行会から刊行された『赤い館』の文庫化なのかな?)

『ムントゥリャサ通りで』 M・エリアーデ 法政大学出版局
 世界的に有名なルーマニアの宗教学者が発表した幻想小説。世界のすべてを知るかのごとき驚異の語り部ファルマ老人は、保安警察や政府高官らの求めに応じて謎の消失を遂げたラビの息子を巡る思い出話を語りだすが、彼の話は迷宮のように錯綜し、尋問にあたった警官を翻弄する。そしてまた前半の目くるめくような神話的世界は、後半に至りマコーマック『ミステリウム』を思わせるような緊迫感に満ちたメタミステリへと突然変貌をとげる。噂に聞く一品をようやく読めて満足だった。

『家守綺譚』 梨木香歩 新潮文庫
 早逝した友人の家守(いえもり)となった若き文士の元を訪れる数々の不思議と交流を描く。凛とした清冽さとそこはかとないユーモアが感じられるが決してくどくない。新たに個人的な「幻想と怪奇の短篇集」のマスターピースに加えた一冊。

『スティーヴンソン怪奇短篇集』 福武文庫
 『宝島』や『ジーキル博士とハイド氏』で有名なロバート・ルイス・スティーヴンソンの数多い作品の中から、幻想怪奇の味が強い作品ばかりをセレクトした短篇集。神話のごとき薫りがして愉しい「びんの小鬼」「声の島」や、対照的にかなり怖い「ねじけジャネット」「トッド・ラブレイクの話」など、予想をはるかに上回る出来の作品集だった。

『夜毎に石の橋の下で』 レオ・ペルッツ 国書刊行会
 ルドルフ二世が統治するプラハを舞台にした幻想譚。当初ばらばらに見えた各短篇は様々に絡み合い、互いに関連しながら大きな物語を形作っていく。この作品を著者のベストに推す人も多いと聞くが、なるほど聞きしに勝る傑作だった。

『亡命ロシア料理』P・ワイリ/A・ゲニス 未知谷
 1970年代にアメリカに移住した二人のロシア人ジャーナリストによるロシア料理のレシピ付きエッセイ。日本では馴染みの薄いロシア料理の紹介とともに、東欧/西洋の両文化批評と失われしロシアへの郷愁が語られる。ユーモアもありまた優れた文明批評にもなっているのはさすが。
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2015年12月の読了本

『宇宙背景放射』羽澄昌史 集英社新書
 副題は”「ビッグバン以前」の痕跡を探る“。「宇宙の究極のルールブック」を探す実験科学者による最新研究の紹介で、「インフレーション理論」の証拠となる「原始重力波によるBモード偏光」なるものを探そうというのが著者の研究テーマなのだそうだ。アタカマ砂漠という、チリの辺境に建つ実験施設が素粒子物理学と天文学の夢を追う最先端というのが、なんとも心を湧き立てる。理論物理学者が唱えた仮説を証明するのも大切だが、逆に仮説を覆すような新事実を見つけるのもまた実験物理学者の醍醐味だという著者の話は、今年のノーベル賞を受賞した梶田氏のニュートリノ観測にもつながっているような気がする。見果てぬ夢を求める途中経過が愉しい。

『ヴィトカツィの戯曲四篇』スタニスワフ・イグナツィ・ヴィトキェーヴィチ 未知谷
 白秋や太宰を思わせるようなろくでなしと純真もしくは性悪な女性が繰り広げる、暗くて辛辣で時に滑稽な戯曲四篇を収録。突如出現する不条理な世界が面白い。甦った婦人に翻弄される三人の男たちを描く三幕物の不条理劇中「小さなお屋敷で」や、強烈な印象を残す「母」が好みかな。目まぐるしく変わる展開にちょっと眩暈がしそうな社会派風ドラマの「水鶏」も、ラストの不条理感がなかなか好い。小篇「狂人と尼僧」もあわせ、いずれの作品もクズ男やダメ女が多い(笑)。「母」は岸田今日子の主演で舞台化されたことがあるらしいが、観てみたかった。

『ノックス・マシン』法月綸太郎 角川文庫
 「このミス」と「ミス読み!」で1位を獲得した作品集。表題作と続篇の「論理蒸発」、そして「引き立て役倶楽部の陰謀」「バベルの牢獄」という四つの短篇は、全てがSFでありミステリでもあり、本と物語を主題にしているという凝りようだ。SF読みとして一番好きなのは「論理蒸発-ノックス・マシン2」の奇想だけど、本好きとしては「引き立て役倶楽部…」も堪らなく面白い。職人が丹精込めて作り上げた箱根細工か何かのような秀作の短篇集。ただし(解説を読んで知ったのだが)、電子書籍版には「バベルの牢獄」は収録されていないとのことなので、本書は絶対に紙版を買うべきだと思う。(作品そのものの仕掛けの問題なので、収録は無理なのだ。)

『ピサへの道』イサク・ディネセン 白水uブックス
 上下巻の作品集「七つのゴシック物語」の上巻。見えているものが必ずしも真実ではない。目まぐるしく変わる展開に驚かされているうち、いつの間にか物語は幕を閉じる。描かれる人間模様は結構ほろ苦いが、この手の味が好きな人には堪らないだろう。下巻「夢みる人びと」も愉しみだ。

『クルアーンを読む』 中田考/橋爪大二郎 太田出版
 日本語を母国語とする極めて知性的なムスリムである中田氏と、キリスト教を中心に様々な宗教にも造詣が深い社会学者の橋爪氏による対談集。イスラム教信仰の内面にまで踏み込んだ真摯でスリリングな議論が交わされる。特に中田氏の論考は強烈だが自分には新鮮で、イスラームの信仰と教義について、今まで読んだ中では一番深いところまで踏み込んでいる。予想もしなかった方向から頭をぼかぼか叩かれてるような刺激がある。結局のところ、人は罪を犯すものであり、且つ神の意志は預言者なきあと残された者が恣意的に判断せざるを得ないと認めたことが、イスラームに内包されたリスクということか。最後はユニバーサリズムたるイスラム教とナショナリズムたるキリスト教的西洋諸国の思想的な比較まで及ぶ。極めて素朴な契約形態であるカリフ制の持つ根本的な脆さと、共産主義との共通点を指摘する橋爪氏の舌鋒は鋭く、この点では中田氏は非常にナイーブで理想主義にもうつるが本当のところはどうなのだろう。本屋の店頭で見かけて衝動的に買ったのだが、良い本だった。

『猫は迷探偵』月刊「ねこ新聞」監修 竹書房文庫
 1994年に創刊された文学紙に掲載された中から再編集したエッセイ集。寄稿したのは作家や漫画家、学者に芸術家など様々で、内容も文字通りの“猫っかわいがり”のものから永久の別離を描いた文章までと、大変に幅広い。それにしても、かくも世の中に猫派は多いものなのか。

『エイルマー・ヴァンスの心霊事件簿』アリス&クロード・アスキュー アトリエサード
 怪奇小説ファンの間で話題となっているナイトランド叢書の一冊。ジョン・サイレンス博士やカーナッキの系譜に連なるオカルト探偵ものの短篇集だ。(マニア向けの話ですいません。)ただしオカルト探偵といっても、不可解な事件を快刀乱麻のごとく解決するわけではない。主人公たちが人知の及ばぬ超自然的な出来事を前にして善処するのみなのは、むしろ往年の名作オカルトドラマの「事件記者コルチャック」に近いかも。内容に触れると、まず前半はエイルマーの体験談を後に相棒になるデクスターが聞くという形式。怪奇色は強くなく、むしろ超自然の匂いがするゴシック・ロマンスみたいな印象だ。怪奇色にこだわらなければ、前半に収録された「見知らぬ誰か」「緑の袖」「消せない炎」といった作品は、ファンタジーとしてかなり好きな部類に入る。後半は依頼された不思議な事件をコンビで探る探偵形式になるが、中でも「ヴァンパイア」や「恐怖」は特に好み。怪奇幻想文学のファンとして嬉しい一冊だった。

『作家の収支』森博嗣 幻冬社新書
 『すべてかFになる』で第1回メフィスト賞を受賞するという鮮烈なデビューをとげたミステリ作家が、約20年間に亘る自作の販売部数や収入を赤裸々に語った本。また、同時に作家という職業についての持論も開陳している。(自分は仕事だから小説を嫌々書いているが、作家という職種を客観的にみた場合は投資や効率の面で意外と将来性がある職種であるという意見はちょっとびっくりだが、これでなかなか説得力がある。)実はこの人の本は小説も含めてこれまで読んだことがなく、今回が初めてなのだ。しかし変な自慢も卑下もなく淡々と事実だけを述べているので、自分には読みやすい。デビュー当時は「現役の国立大学工学部助教授」とか「理系ミステリ作家」とかいうキャッチフレーズが飛び交っていたように記憶しているが、なるほど極めて論理的な口調は”理系“というのがぴったりかもしれない。「森博嗣作品では大当りは無理だ」「そのとおり、そのマイナさを売り物にしているのが、森博嗣なのだ」 という、自己分析に基づく戦略もなるほど納得。初めから趣味のための小遣いを稼ぐために作家になったというだけあって、書く作品も売り方もかなり戦略的で感心した。ただ、コンスタントに一定水準以上の作品を大量に書き続けられるアイデアと力量がある事が前提なので、常人には真似し難いかも知れないとも思えた。作家の日常を書いた本としてもなかなか面白い。真面目な口調の中にちょっと諧謔味を忍ばせるというあたりがこの人の文章の味なのかもしれない。

『〈初稿〉眼球譚』 オーシュ卿(G・バタイユ) 河出文庫
 当初は変名で発表されたバタイユの初小説作品。初稿の方を読むのは今回が初めてだ。第一部ではボリス・ヴィアン『墓に唾をかけろ』を思わせる暗黒小説(ノワール)の手法を用いて、死と性が重なりあう圧倒的なまでの放蕩を描く。そこに現出するのは“聖なる呪われし者たち”によって為される、世俗的なものの否定と至高の存在そのものへの冒涜。さらに自伝的要素が強い第二部「暗号」では、眼球、玉子、牡牛の睾丸という「球体幻想」の暗喩と繰り返される汚穢、そして死の描写が持つ意味が明らかにされる。しかしそれでもこの小説のもつ毒と思想性は到底理解できるものではない。(注:ほめてます。)暗黒の魅力を持つ、おそるべき思想家もしくは狂人の作といえるか。両頬を思いきり叩かれて気合を入れられたような気分。相変わらずバタイユは理解に苦しむが、いつか『呪われた部分』も読んでみなくては。

『カンタヴィルの幽霊/スフィンクス』 ワイルド 光文社古典新訳文庫
 かなり滑稽な幽霊譚の表題作やエジプトの幻想動物を題材にした詩を始め、多才なワイルドの小粋な短篇を五つ収録。さらにはボーナストラックとして、彼に”スフィンクス”というあだ名を付けられた親友エイダ・レヴァーソンによる掌編や回想記を附す。幻想味のある作品は「カンタヴィルの幽霊」と「スフィンクス」の二篇だけだが、残りの「アーサー・サヴィル卿の犯罪」「秘密のないスフィンクス」「模範的億万長者」も愉しかった。

『亡命ロシア料理』P・ワイリ/A・ゲニス 未知谷
 1970年代にアメリカに移住した二人のロシア人ジャーナリストによるロシア料理のレシピ付きエッセイ。シチーやスカー、ハルチョーといった、日本人には馴染みの薄いロシア料理の紹介とともに、東欧/西洋の両文化批評と失われしロシアへの郷愁が語られる。語り口は軽くとも時に鋭く、またユーモアにも満ちている。優れた文明批評にもなっているのは、食こそが最も身近であり文化に直結するものだから。そして彼らが祖国を離れ遠いアメリカの地にいることも大きな理由ではあるのだろう。ユーモアあふれる文章は昔テレビでやっていた「世界の料理ショー」みたいで面白いが、同時にどことなくツイアビ(エーリッヒ・ショイルマン)の『パパラギ』に似た香りもした。

『江戸のバロック』谷川渥/監修 河出書房新社
 副題は「日本美術のあたらしい見かた」。侘び寂びとはまた違った日本美術の系譜を示す写真&画集。バロック的ともいえる、豪奢で過剰で異様で奇抜な浮世絵や建築物、変わり兜に焼き物に生人形といった作品群を、江戸を中心に明治・大正期まで紹介。取り上げられる作家(画家)は伊藤若冲、歌川国芳、歌川豊国、葛飾北斎に曾我蕭白、河鍋暁斎といった有名どころから、岩佐又兵衛、海北友松、狩野一信や長沢蘆雪などといった初めて目にした名前まで総勢33名にもおよぶ。序文に挙げられた谷川氏の解説が良い。フォションやドールス、ホッケらによるルネサンス/マニエリスム/バロックの定義から、岡本太郎や辻惟雄らによる縄文vs弥生や奇想に関する考察まで、いわゆるバロック的なものについてざっくりと俯瞰してくれて、この不思議な作品群を捉える視座を与えてくれている。

本の価値というもの

 かなり以前のことだが、新宿にある名物喫茶店の店主が書いた『「食の職」新宿ベルク』という本を読んだ。そのとき思ったことがある。その店では職人が作るこだわりの食材を使い、リーズナブルで美味しい食事を提供しているのだが(注:自分も出張の折に何度か利用したことあり)、本に書いてあったパンやソーセージといった食材や珈琲豆の焙煎への徹底したこだわりを読むにつけ、まさに大手スーパーのプライベート(PB)商品の対極の話であるような気がしたものだ。そしてこれは自分が本に対して抱いているこだわりにも似ているとも。安価でそこそこの品質が保証されるPB商品と同様、万人受けする内容の本やベストセラーの本にももちろんそれなりの意味はある。だけどそれは自分が本に求めるものとは違うと思う。そう考えると本というものは究極の嗜好品なのかも知れない。
 ベストセラー本が概して自分の好みに合わないのは、先ほどの例で言えば日頃手作りのハムやソーセージばかりを食べ慣れてしまっている人が、PB品を食べる感じに近いかも知れない。本は中身の価値に比べてそれほど高い物でもないし、安くても均質化されたものよりは個性があって手の掛かったものの方が好きだ。(もちろんスーパーのPB食材が悪いとは言わない。日頃は自分もそういうものを食べている。要は、はなから狙っているところが違うということだろう。)
 そういったこだわりのもの(本)を作り続けている人は世の中に必ずいるわけで、それなりの対価を払うつもりでさえあれば、あとはどうやってそういった本と出会うかという問題となる。スーパーに行っても売ってないような美味い食材を、どこかのお店に探しに行く感覚で新刊書店や古本屋をうろつきまわる。そしてまた自分にとってツイッターを始めとするネット環境は、まさしくそのための有益な情報を得る場になっている部分がある。
 “食”の生産者に当たるのが作家や翻訳家、装幀家や編集者だとすれば、お店の客に当たるのは読者。そして書評家は本の情報を美味しく調理して読者に提供するという意味で、さしずめ料理人といったところか。しかし実は読者もある意味で本の料理人なのではなかろうか。自己流で本を読み解いて味わうもよし、読書会やレビューを通じて他の人の味付けを知るのもまた愉しい。
前に会社のデザイナーに聞いた話だが、万人に可もなく不可もなく受け入れられるデザインよりは、一部の人に嫌われるデザインの方が良いそうだ。嫌われるほどインパクトが強いデザインであれば、それは逆に熱烈なファンも生むことになるから。確かにその方が面白いかもしれない。好むか好まないかは受け手側の嗜好や度量の問題で、デザインの良し悪しとはまた別の話。それは食品や本も同じなのかもしれない。

 話は変わる。
 これも以前のことだが、仕事関係の財界の会合に出たとき、中部地方は他の地域に比べるとモノづくりが盛んな分、中小企業も元気で不況に強いという話を聞いた。正直あまり実感はないのだけれど、全国の中小企業の倒産件数などをみるとそんなものなのかも知れない。
 仮にそれが本当のことなのだとして、だったらそれは何故なのだろう。もしかしたら中部地方で作っているのは自動車や工作機械やその他生活必需品のような、割と「地味」なモノづくりが多いからなのかもしれない。オーディオ機器やデジタル家電、はたまた情報機器のような見栄えがして付加価値の高い“流行りもの”は、あまり作られていないような気がする。流行りは儲かるときは大きいが、ひとつ外すと途端に厳しくなる。不況や増税による買い控えの影響も受けやすい。
 家電製品の花形であるテレビは、「民間放送が無料で流すコンテンツを観るための道具」として発達し、大画面化やステレオ放送といったコンテンツの本質とは違うところで商品の付加価値を高めてきた。デザイン性やブランド価値なども同じことだ。しかしここにきて海外の安い製品に押され、ビジネスモデルが完全に崩壊してしまっている有様をみると、これもまた一種の“付加価値バブル”だったのではないかという気もしてくる。
 今の人々は、バブルの底を支えてきた「ブランド」というものに価値を認めない人が増えているし、安ければ海外製でもなんでも躊躇なく利用する。一方で、自分が欲しい機能や性能についてはとことんこだわる姿勢も持つ。そんな消費者の前に地上デジタル放送を始めとする、使うあてもない余分な機能ばかりを沢山つけて値段を上げたガラパゴス的な商品を出されても……と思ってしまう。
 これは携帯電話(特にスマホ)でも同じことだろう。ネットに繋がって便利になるのは良いが、電話やメールといった本来必要とされる機能より、無料のアプリとよく分からないバナーを送りつけてくるインフラとしての比重が増えた時、スマホ自体にどれだけの価値(対価)を支払ってもらえるのか?そこの判断がこれからは重要になってくるのではないかという気もする。
 話は戻って、本の場合はどうか。マニュアルや資格取得のための実用本は別にすると、最後に意味をなすのはその本の著者(あるいはその作品を世に出すために関わった全ての人々)という「個人」がもつ価値なのかもしれない。(本だけでなく映画や音楽などクリエイティブや要素が大きなものは全て同じ。)
 また、以前より「図書館に新刊を置くな」という議論が出ては消えしているようだが、自分にとって図書館問題は青空文庫のような本の無料提供サービスと同じ次元の話として捉えている。一読して愛着が湧けば、購入して手元に置きたくなるだろうし、その点では紙の本と(お金を払って購入する)電子書籍は全く違いはない。
 ただ問題は、作り手に対するリスペクトも作品に対する愛着もなく「画質が汚かろうが何でもいいからテレビをただ見てみたい人」、あるいは「ただ話題になっているからという理由でその本を読んでみたい人」の方が、こだわりを持って作品に接している人よりもはるかにマスが大きいという点かもしれない。拘った良質な作品を世に出したとしても商売にならなければ意味ないわけで、そこが大きなジレンマではある。逆に言えばこれまでがバブルなだけであって、これからが「真の商品価値」を問われる時代なのかもしれない。(*)

   *…思えば松下幸之助翁が提唱した「水道哲学」というのは、日本にとって
      功罪相半ばする考え方だったなのかも知れないと思ってみたりもする。
      社会が貧しい時代だったからこと成り立つ理屈であって、商品そのもの
      に目を向ければ結局のところはユーザー不在でしかないわけだから。

 ただ一方でハードウェアがソフトウェアの限界性能を規定するということもある。当たり前の話だが。例えば老眼で小さな字が読めなくなると読む量が減る。あるいは脳というハードウェアのメモリに蓄積された知識の量こそが思考の深さを決める。(知識が多くても沈思できるとは限らないが、知識が少ないと沈思が出来ないとは言える。)そう考えると、コンテンツや受け手側に配慮したインフラというものが、著者や翻訳者といった「個人」と同様に本の価値を決める上で大きな意味を持つこともあるのかもしれない。

 以上、今回はとりとめのない話で失礼しました。たまにはこんな真面目なことを考えたりもしているのです。(笑)

『ロマネ・コンティ・一九三五年』 開高健 文春文庫

 先日、『オーパ!』のカメラマン高橋昇氏による『旅人 開高健』という本を読んだら、久しぶりに開高健の本が読みたくなり、大好きな短篇集『ロマネ・コンティ・一九三五年』を引っ張り出してきた。開高健は好きでおそらく文庫で出たものは殆ど持っていると思うが、とりわけ好きで何度も読み返しているのは『オーパ!』や『珠玉』に『風に訊け』に本書といったところ。これらの作品は軽く読めるところが好い。(『輝ける闇』『夏の闇』『花終わる闇』(未完)の“闇”三部作や『耳の物語』も好きなのだが、こちらは内容が重たいのでさほど読み返してはいないのだ。)
 本書の作品は「玉、砕ける」「飽満の種子」「貝塚をつくる」「黄昏の力」「渚にて」「ロマネ・コンティ一九三五年」の全6篇。著者の著作によく登場するテーマであるベトナム戦争やその後の戦争ルポルタージュ取材、そして釣り紀行で知り合った人々の記憶の他、自身が寿屋(現サントリー)の広報にいた時の思い出など、私小説ともエッセイともとれる作品がバラエティ豊かに収録されている。この中で特に気に入っているのを挙げるとすれば川端賞を受賞した「玉、砕ける」だが、他の作品もいずれ劣らぬ名作だと思う。一篇ずつ噛みしめるように読むのが合っているかも知れない。
 例えば「飽満の種子」はベトナム戦争の時に著者が経験した阿片体験がテーマなのだが、阿片による無化を表現するくだりはいくど読んでも圧巻。つくづく開高健という人は「言葉にできないものを言葉で表現すること」にひたすら心を砕いた人なのだろうと感じる。自分が実体の無い何かを示したい時、「のようなもの」を列挙することで暗示させるのは、実をいうとこの人のやり方を真似たものだ。
 また「貝塚をつくる」では、ヴェトナム沖で繰り広げられる始原の海での夜釣りのシーンがあまりにも美しい。今でこそ釣りに行くことは無いが、子供の頃には良く親に連れて行ってもらった。そのせいもあって“安楽椅子釣り師(笑)”なので、釣りの話は好きなのだ。喫水が浅い小舟に乗って富豪との釣り合戦。舟底には市場で買い込んできたドリアンがいくつも転がしてある。劫初から変わらぬ豊穣の海の傍らに漂うのは、芳烈で爽涼なドリアンの香り。翌朝になり前夜の記憶を振り返えってみると、官能はひとつの厳しい知性に他ならないのだと悟らされる……うーん、かっこいい。こういう文章が書けたらいいよなあ。
 本書を読み返して改めて感じたのは、開高健は目の作家だということ。エピソードの当事者である場合もあれば傍観者のこともあるが、いずれも共通するのは「みる(見る/観る/視る)」という行為だ。そこには自らが置かれた状況と、その中でもがく自分自身を離れたところから冷静に見つめる観察者の視点があるように思える。あれだけの博識と経験を持ち、その気になればいくらでも饒舌になれる氏のような人物が、言葉を呻吟することで極限まで削って作り上げた文章表現は、そのことごとくが心に突き刺さってくる。
そしてまた、そんな“目の作家”である彼が書いたのが、幼い頃からこれまで頭に残る音の記憶を綴った『耳の物語』(*)であるというのが大変に面白い。しかもそこでは「主語を書かない」という試みまでなされていて徹底している。もしかしたら傍観者であることをやめようとした物語なのだろうか。(そしてまた常に視点にこだわってしまう自分もまた、開高氏と同様に傍観者なのかも知れない。)

   *…『破れた繭』『夜と陽炎』の二部からなる自伝的長篇。自らの生涯を
      ≪音の記憶≫によって再現しようとする。日本文学大賞受賞作。

 ところで『輝ける闇』や『ベトナム戦記』に書かれているように、氏は記者の立場でベトナム戦争に従軍した。それらの作品では徹底して傍観者である事の無力さとともに、コインの裏表の関係にある気楽さも感じていたはずの著者が、いつの間にか戦闘の渦中で生と死の当事者となる様子が赤裸々に描かれる。その瞬間、傍観者の視線はどこにも無い。(尤も作品として見た場合は、それを冷徹な作家の視点で書くという二重構造にはなっているわけだが。)これらのことを重ね合わせてみると、もしかしたら氏は傍観者であることを止めたがっていたのではないかと思えてくる。「玉、砕ける」の冒頭に書かれた「消えられなかったのばかりにはじきかえされる」という言葉は、氏の偽らざる気持ちなのかも知れない。また『オーパ!』や『フィッシュ・オン』といった釣り紀行で全ての「円環が閉じる」のは、対峙し続けた魚をついに釣りあげた瞬間であるというのも、何となく解るような気がする。
 そしてラストは「ロマネ・コンティ・一九三五年」。作品集の掉尾を飾るこの短篇では、一本のワインにより『夏の闇』の一挿話がフラッシュバックのように甦る瞬間が活写される。ワインの描写を読むだけでもこれを読む価値はあると思う。収録された六つの短篇が万華鏡のように様々に色を変える。見事としか言いようがない。他の人にとってどうであるかは知らないが、この作品集は少なくとも自分にとって今後も折に触れ読み返す一冊であることに間違いない。

2015年11月の読了本

 11月は前月に引き続いてペルッツ強調月間だった。

『聖ペテロの雪』 レオ・ペルッツ 国書刊行会
 ドイツの寒村に住む貴族の屋敷を舞台に、皇帝フリードリヒ二世の栄光復活への想いと、信仰の探究が結び付くときに起こる悲劇を描いた長篇。他のペルッツ作品とは若干テイストが違って、「幻想の歴史」ではなく限りなく内側へと向いた物語を描いてユニークだ。印象としては夢かうつつか判らぬ、精巧に作られた愛らしい小宇宙のよう。喩えるならまるでスノードームのような感じだ。そして小宇宙がペルッツの手で振られるたびに雪が視界を覆い尽くして、現実と幻想あるいは夢と真の境が判然としなくなる。しかしそれもやがて静まり、すべては忘却の彼方へと消え去るのみ......。あ、そうか。『ドグラ・マグラ』なんだ。

『旅人 開高健』 高橋昇 つり人社
 開高健の『オーパ!』『オーパ、オーパ!!』などの取材に同行したカメラマンによる、「“釣り人”開高健」の思い出と写真の数々をまとめた本。写真と各地でのエピソードを読んでいるうち、若い頃に開高健が好きで読みふけったことを思い出した。彼は古いタイプの人で、男の格好よさと寂しさを体現したようなところが魅力だったと思う。心の中にはいつも虚無を抱え込んでいて、どれほど愉しんでいても何かの拍子にふとそれが顔を出す。文体もそうだが、性格的な面でもある意味ヘミングウェイに似ていた人だったのかも知れない。この人の作品を読んでいるうち、死ぬのは寂しく辛いことではあるけれど怖くはなくなったような気がする。「上を見て生き、下を見て暮らす」「悠々として急げ」「漂えど沈まず」といった、警句が似合う人でもあった。

『ロマネ・コンティ・一九三五年』 開高健 文春文庫
 開高健のおそらくベストであろう短篇集。冒頭の「玉、砕ける」に始まり最後の表題作まで、いずれおとらぬ珠玉の作品が続く。折に触れつい読み返したくなる作品集なのだ。

『スウェーデンの騎士』 レオ・ペルッツ 国書刊行会
 ひとりの”泥坊”が辿る数奇な運命を描いたピカレスク・ロマンでありギリシア神話的な非劇であり、そしてまた魔術的中世と近代の端境期を舞台にした歴史物語でもあるという稀有な作品。隙の無い構成や波乱万丈の展開はページを繰る手を休ませない。死者が生者と普通に会話をするあたりも魔術的リアリズムっぽくて面白いし、ここまで読んだ中ではベストだった。この作品の特徴をひとことでいうと、要は『モンテ・クリスト伯』であり山田風太郎なのだ。あるいは「名前の持つ重さ」と「滅びの美学」と言い換えてもいい。

『シャーロック・ホームズとヴィクトリア朝の怪人たち(1・2)』ジョージ・マン編 扶桑社ミステリー
 やあこれは愉快。ホームズ物のパスティーシュを14篇収録していて、本格的なミステリだけでなくさまざまな系統の作品が愉しめる。(なかには『シャーロック・ホームズの宇宙戦争』の後日譚である「火星人大使の悲劇」や、スチームパンクの薫り高い「地を這う巨大生物事件」といった作品まで。)どれも著者たち自身が楽しんで書いている様子が伝わってきて、読んでいるこちらまで嬉しくなる。休日の読書にはうってつけの本だった。

『シュメール神話集成』 ちくま学芸文庫
 杉勇・尾崎亨/訳。古代メソポタミアの碑文テキストからの直接の翻訳により、イナンナやギルガメシュ、エンリルといった神々や英雄が活躍する神話群を紹介。これらの神話が後にいかにしてユダヤ・キリスト教の伝説に影響を与えてきたかがよく解る。碑文の損傷などで文章が途中抜けているのもリアルな感じがして良い。(笑)

『夜毎に石の橋の下で』 レオ・ペルッツ 国書刊行会
 ルドルフ二世が統治するプラハを舞台にした幻想譚。この作品を著者のベストに推す人も多いと聞くが、読んでなるほど納得。聞きしに勝る傑作だった。当初ばらばらに見えた各短篇は様々に絡み合い、互いに関連しながら大きな物語を形作っていく。そしてそこに見えてくるのは三人の男の哀しき運命とユダヤ人街の喪われた歴史。ひとつの時代の終わりはいつも物悲しいのだ。凄いなペルッツ。つい先日読み終えたばかりの『スウェーデンの騎士』差し置いて、このたび堂々のマイ・ベスト・ペルッツの称号を勝ち取った。(笑)

『芸術脳の科学』 塚田稔 講談社ブルーバックス
 脳研究に従事する傍らで芸術家としても活動している著者が、脳における情報処理や記憶の仕組みとともに自らの創作理論を開陳した本。全体としては三木成夫『胎児の世界』や立岩二郎『てりむくり』に似たテイストといえる。芸術脳の話でも科学の話でも無いような気はするが、興味のある方はどうぞ。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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