「名古屋SFシンポジウム2015」レポート

 昨日、第2回目となる「名古屋SFシンポジウム」が開催された。これは椙山女学園大学国際コミュニケーション学部が平成26年度から実施している「名古屋地区座愛中の表現者による学生向けのワークショップ」という活動の一環。(*)自分も昨年から実行委員会のスタッフとして参加しており、出演をこころよく引き受けてくださったゲストの皆さん(作家や翻訳家といった方々)や、企画の立案および調整、会場準備や告知といった諸々に奔走するスタッフの様子を見てきた。そんな話も少し加えながら、記憶がまだ新しいうちに書き留めておきたい。

   *…第1回は「SFから世界へ」というテーマで2014年9月27日(土)に開催。
      二人の翻訳家をお迎えしてちょっと固めの内容の「翻訳とSF」と、学生も
      加わってバラエティ豊かな「アニメ漫画の中のSF」というふたつのパネル
      構成だった。

 今年は「ここではないどこかへ」というテーマで「宇宙SFは今」「東欧SFを語る」「クトゥルフ神話への誘い」という3部構成による実施となった。(これら3つのパネルはそれぞれ「地球から宇宙へ」「英米中心のSFから非英語圏へ」「現実世界から異次元へ」といった意味があり、実はテーマが共通しているのだ。)場所は昨年と同じく椙山大・星ヶ丘キャンパス内にある国際コミュニケーション学部の010教室。時間は途中2度の休憩を挟んで午後1時から6時までという長丁場だったが、正直いってあっという間だった。それでは順番に内容を紹介していこう。

■パネル1「宇宙SFは今」
 作家の林譲治氏と翻訳家・アンソロジストの中村融氏をパネラーに、そして新進気鋭のレビュアー片桐翔造氏を司会進行役にして、昔からSFの代表的なテーマである「宇宙」に関して語って頂いた。内容はざっくりいうと、現実の宇宙開発の歴史とその時々に書かれたSF作品についての俯瞰。まず最初は19世紀のジューヌ・ベルヌやH・G・ウエルズに始まり、ついで1947年に書かれたハインライン『宇宙船ガリレオ号』や同じく47年に書かれ51年に発表されたクラーク『宇宙への序曲』といった古典的な作品の話が続く。「万能の天才科学者が自宅に庭で作り上げる宇宙船」とか「月の裏側あるナチスの秘密基地」といった当時の小説に有りがちな特徴の話も面白かったが、驚いたのは『ナルニア国物語』で有名なC・S・ルイスがこれら宇宙開発SFを批判してクラークらと対立していたという話。なんでもルイスによる批判の背景には「霊的階層で云えば最下層(地獄の底)にあたる地球の穢れを、上の階層(宇宙)へとまき散らしてはならない」という、彼独特のキリスト教的な考え方があったとのことだ。さらにクラークに支持された「宇宙進出の意志」は一種の神秘思想に基づくものであり、19世紀ロシアの思想家ニコライ・フョードロフやロシア宇宙開発の父コンスタンチン・ツォルコフスキーらの思想にも通じるものだったという中村氏の指摘は後の「東欧SF」にもつながっていく重要な指摘であり、思わぬ深い展開にワクワクしてくる。(後でご本人にお聞きしたところ、第2部で話がしやすいようにわざと振って頂いたとのことだった。中村さん、ありがとうございました。なおルイスとクラークの対立については、中村さんが先日出された『宇宙への序曲(新訳版)』の訳者あとがきに詳しく書かれたそうなので、ご興味のある方はご参考に。)
 つづいてはフォン・ブラウンを招いてのアメリカでのロケット開発や、冷戦時代の俗にいう「スプートニクショック」(=人工衛星をロシアに先に打ち上げられてしまったことで、アメリカの“宇宙開発の第一人者”であるというプライドが傷ついたことや、弾道ミサイル実現への恐怖が芽生えたこと)と、その後の国家の威信をかけたアポロ計画への流れと、当時の『FIRST ON THE MOON』(1958)といった作品では、米ソによる領有権を賭けた月の開発競争が描かれるといった話。さらには冷戦終結後に予算が大幅に削られて夢よりも市場原理(経済性)が優先される現実社会と、それを踏まえて小説としてのリアリティを如何に追究するかがポイントになったという指摘もあった。ふうむ、面白い。
 そんな世知辛い話ばかりでは面白くないからか、ある時から反動のように「我々の住む現実とは違う時間軸」にある「現在でも昔と同じような規模で宇宙開発が続いている世界」を描くアレン・スティール(『THE TRANQUILLITY ALTERNATIVE』)やスティーヴン・バクスター(『VOYAGE』)といった作家たちが登場してきた結果、さらに多様化して今に至っているらしい。(**)

  **…SFマガジン1997年10月号で特集が組まれているとのこと

 後半はがらりと雰囲気を変えて、『火星の人』を題材に「宇宙における事故とサバイバル」をテーマにした作品についての考察。50年代に製作された『火星のロビンソン・クルーソー』という映画では、最初は『火星の人』と同じようなサバイバルを描いているにもかかわらず、後半になっていきなりオリオン星人(!)や彼らの奴隷を助けてフライデーと名付けたり(!!)と、全てを台無しにしてしまっている(笑)という話で場内が爆笑に包まれる。結局のところ当時は「極限サバイバル」だけでひとつの話を持たせることが出来なかったのだ、という林氏の指摘はなかなか鋭いと感じた。
 氏によれば、宇宙での事故を描くのは以下の二つの目的があるらしい。
 ・「テクノロジーによる宇宙開発」の技術的なリアリティを突き詰める手段としての極限状況
 ・「異世界としての宇宙」を説得力をもって描くための極限状況
 『火星の人』はこの二つをうまく融合した作品だろうということだ。
 また主人公が宇宙で漂流したり生死に関わるトラブルに巻き込まれることには、「予想される(既知の)トラブルをいかに解決するか」という技術のプロフェッショナル的な解決の面白さを描く場合と、「想定外(未知)のトラブルをいかに切り抜けるか」という当意即妙の面白さを描く場合があるという指摘も、なるほど実作者の方でないと気が付かないことだと感心した。(“想定外”ということでは、13日の金曜日の殺人鬼が宇宙船に密航して惨劇を起こす『ジェイソン宇宙に行く』という作品もあるらしい。これはいくらなんでも想定外すぎる。/笑)
 同じ宇宙サバイバルものであっても、主人公ひとりだけの『火星の人』と集団による『月は地獄だ!』では小説としてのドラマツルギーが全く違うという中村氏のコメントや、林氏からの「寧ろ似ているというなら『虎よ、虎よ!』の冒頭の方がそれに近い」とのコメント、さらには主人公の楽観的な性格は宇宙におけるミッションクルーに求められる適性として見るのが正しいとか、とにかく話を聞くたびに目から鱗がポロポロと落ちる感じ。
 結局のところ現代は万能科学者がひとりで何でもこなしてしまう物語は鳴りを潜め、(例えばレム『砂漠の惑星』で描かれたように)リーダーによるマネージメントでプロジェクトメンバーが協力しあうのがリアリティを持っているという事のようだ。
最後の時間は質疑応答にあてられた。
 林氏の宇宙をテーマにした代表作『ウロボロスの波動』についての裏話や、技術を詳しく描写すると時代と共に陳腐化するのは避けられないが、ロジックが作中で一貫していれば個々の技術がレトロになろうと物語としての面白さは失われない(⇒そこを突っ込む読者は野暮)といった鋭いコメントもあって、80分に亘る骨太のパネルは無事終了。「宇宙SFは書きにくい時代」という冒頭の林氏の意見を受け、まとめで中村氏が述べられた「でも今ほど面白い宇宙SFが日本で書かれている時代はない」という意見が今回のパネルを象徴したのではないだろうか。ほんと、面白い宇宙SFは今とても多いと思う。(まだまだ書き漏らしたことは多いが、かなり長くなってしまったのでパネル1はこれくらいで。)

■パネル2「東欧SFを語る」
 順番にさくさくと行こう。ゲストの著作の即売会を兼ねた休憩を経て、次はパネル2、いよいよ自分の出番である。(実は最終打ち合わせの時間が取れなくて、急遽この休憩の間に会場の片隅で行ったのは秘密だ。/笑)
 パネリストは翻訳家の大野典弘氏と現役学生でSF研究会の会員でもある女子大生Aさん。進行役はハンドルネーム舞狂小鬼こと自分である。心配性の自分はだいぶ前からメールでやりとりをしていたので、話す内容はたくさんあった。むしろうまく時間内に収めるため、どの話題を削るかに腐心したほど。(***)このコマは当然ノートにメモを取るわけにはいかなかったので(笑)、事前につくったネタ帳をもとになるだけ再現してみたい。抜けているところがあってもご容赦を。

 ***…もっとも、会場では大野さんの力作である「ロシアを中心にみたSF史」
       という図や、今でも入手しやすい作品を中心にしたブックガイドを配布し
       て、多少端折った話になっても大丈夫にはしてあったわけだが。

 前半は日頃から馴染みのある英米SFとは違う「東欧SF」とは何かについて大野氏に語って頂いた。まずはここで対象にする「東欧」の定義から、地図を写して説明いただく。ここでは「かつてコメコン(注:ソ連主導で作られた東ヨーロッパ共産主義諸国の経済協力会議)に属していた地域の国々」という程度のイメージだ。ただしドイツやオーストリア辺りは歴史的にみて一部重なる部分もある。歴史や民俗、言語的な事情が複雑に絡んでいて定義ひとつとっても大変に悩ましく、ベトナムやタイやインドネシアを一括りで「東南アジア」と呼んでしまうくらいには乱暴な括りには違いないそうだ。
 つぎにはこのパネルの目玉のひとつでもある文学的な定義について。本来「リアリズム(写実主義)」というのは(日本の私小説とは異なり)デフォルメや暗喩、レトリックなどの技巧をこらして現実を表現しようとする手法だそうで、東欧SFも広くはこの「リアリズム」に分類されるのだそう。文学的な分類でいえば「ファンタスチカ」と呼ばれるものになる。これは英語でいうところの「ファンタジー」や幻想文学とは全然別の物であって、例えばカフカの『変身』でザムザが虫になってしまうのも、あくまで「写実主義」。そして絵画で云えばピカソらによるキュビズム(全角度からの絵を全て一方向に展開してしまう手法)なども写実主義に含まれる。リアリズムの一種であるファンタスチカの始祖にあたるのはニコライ・ゴーゴリ(SFファンの間では「外套」「鼻」といった“幻想小説”が有名)であるとされ、他には先ほど挙げたカフカや色彩論という疑似科学を考え出したゲーテ、「ロボット」という言葉を作ったチャペックなどもファンタスチカの分類に含まれる。(この話はお聞きするまで知らなかった。とても面白い。)
 というわけで、“不思議な話”は東欧においては敢えて幻想文学というキーワードを出さなくとも、リアリズムの延長に不可分で存在するものなのだ。それでは英米のようないわゆる「SF」は何と呼ばれているかというと、「科学的ファンタスチカ」と呼ばれていたらしい。(ただし生活の中にテクノロジーが溢れる現代においては、あえて“科学的”という言葉を取っ払ってしまって、ただの「ファンタスチカ」と呼ぶストルガツキー兄弟のような例もあるそうで、これもまたなかなか難しい。
 ここで思い切ってAさんに話題を振ってみたが、あまりの無茶振りに会場から笑いが起こってしまった。そりゃそうだ。こんな話の途中でいきなり「どう感じた?」なんてことを聞かれたらねえ(苦笑)。でも果敢に受け答えしてくれるのがありがたい。Aさんの質問に対して大野氏がやさしく返したところによれば、「西洋的なファンタジーはペレストロイカ以降にトールキンなどが紹介されてから初めて生まれたもの」なのだそうだ。へえ、そうなのか。
 話の流れついでにロシア・東欧文学に特徴的な点を聞いてみたところ、意外な話が返ってきた。厳格な一神教であるローマカトリックとちがってロシア・東欧に伝わった東方教会というのは昔の教えを伝えているせいでその点かなりルーズだそうで、15,6世紀の西欧なら異端審問にかけられてもおかしくないほどの逸脱振りとのこと。その関係で例えばパネル1でも出たツォルコフスキーによる進化論の人工的な促進(=人間は進化と共に海からでて陸上で二足歩行を始め、やがて重力のくびきを離れて垂直方向/宇宙への進出と適合をとげる)といった思想が広く認められることになった。したがって東欧の文学は一般的に、キリスト教の価値観からみて“バチ当たり”なものが多いのだそうだ。ちなみにダンテの『神曲』も(神を冒涜するとして)ユダヤ教やイスラム教では読んではいけない書物とされているし、『ハリーポッター』も神以外に神秘の力(=魔法)を認めるということで読んではいけないことにされているという説明では、会場からどよめきが起こった。(なお念のため、大野さんとは今回のシンポジウムにあたって東欧の宗教についてもやりとりをさせて頂いており、東方教会はプロテスタントやカトリック、あるいは無神論者まで様々な人がいる東欧の信仰のごく一部でしかないというサジェスチョンを頂いていたことも付け加えておきたい。シンポジウムでは時間の関係で詳しく触れることが出来なかったので、誤解が無いように付け加えておきます。)
 話が膨らんで予定時間をかなり食い込んでしまったので、仕切り直していわゆる“SF”について訊くことにする。自分らの世代だとエフレーフあたりの作家か、もしくは共産主義礼讃の作品(例:マルチノフ『宇宙船220日』でも金星~火星へと探検旅行を行ったソ連の科学者一向が、火星で無茶をして遭難していたアメリカの科学者を助けて帰還する)ばかりが目立つイメージだったが、やはり正しいらしい。進化論を社会学に持ち込んだマルクス・レーニン主義に基づく体制の国では、科学的発展を遂げた社会派全て共産主義になるはず(ならなくてはいけない)であり、共産主義は常に正しい側に立たなくてはいけないわけだ。そんな社会主義SFのなかでかろうじて西側諸国でも通用するのがエフレーモフだったという説明を聞いて、長年の個人的な疑問が氷解した。さらにロシア国内で民衆に絶大な人気を誇ったのがストルガツキー兄弟であり、同じような問題意識をもって作品を発表したがやがて亡命して自分は安全なところから批判を続けたソルジェニーツィンに対し、発禁処分を受け続けながらも国内に留まりつづけたストルガツキーに人気があるのも当然というコメントも。なるほどA&B・ストルガツキーはロシア・東欧SFの中でも別格ということがよく解った。
 次は共産主義崩壊を経て、最近の状況について。ペレーヴィンやソローキンといった世界レベルの作家が日本でも次々と紹介されている印象が強いが、大野氏に言わせるとソローキンファンの編集者(訳者?)がいたなどの幸運もあるらしい。アルバニアのカダレなどひと通り話が出たところで、大野さんのお仕事にも関係するレムやストルガツキーの話へ。
 いちばん思い入れがあるのは初めて読んだストルガツキー『収容所惑星』であるとか、マキシム・カンメラーシリーズではミッションは最後にかならず失敗するが、そこが好いという熱い話。そして「解らない謎を解くとそこには絶望が待つだけ。だから考えるのはやめる」といった日本人の意識にも近い諦観や、科学哲学を究めると不可知論に至るといった話、そして物語の進行のための都合のいい設定ではなく不合理を感じるまでに徹底した演繹を行う東欧SFの(物語としての)「誠実さ」など色々な話に花が咲いた。
 と、ここで突然、大野氏から本日最大の隠し玉が出た。東宣出版という版元から出ている「はじめて出逢う世界のおはなし」というシリーズ。これは東欧やラテンアメリカといった非英語圏の文学を紹介するシリーズで、現在7冊が刊行されているとのこと。訳者も一流の方ばかりで、世間では全く話題になっていないが実は傑作ばかり......という説明に再び会場からどよめきが起こる。(なお、大野氏からはあとで「そんなんじゃなく、単にブックガイドに書き忘れていただけ(笑)」というコメントを頂いたことも一応ここに付け加えさせていただく。

 時間が無くなってきたので最後は大野氏が持参されたお薦め映像作品を駆け足で紹介することに。レムやストルガツキー原作の各種映画、あるいはストルガツキーや東欧諸国の傑作映画をDVDパッケージで次々と紹介して頂くのだが、饒舌な大野氏のコメントについつい聞き入ってしまい、質疑の時間が殆ど取れなかったのが申し訳なかった。質問のひとつ目は「諦観(=あるがまま受け入れる)」という考えであるなら、もしも人間が滅ぶような事態になったときどう反応するのか?というもの。大野氏からは「天変地異で滅びるなら潔く受け入れる。汚れた現代人は滅びるべきという考え」といった、真剣なのかブラックユーモアなのか判断に迷うような、ちょっと怖い回答があった。また冷戦終了~ソ連崩壊後の状況についての質問では、ナショナリズムに回帰して小国に分裂してしまったため、これまでロシア語という共通語で汎共産圏的な紹介をされてきた東欧SFも、これからはフォローしにくくなっていくかもしれないという寂しい話がでたところで3分ほど予定時間を超過して終了とさせて頂いた。

 うーむ、どうしても長くなってしまう。もう少し御辛抱ください。
 ふたたび休憩があり、その間、物販に加えて当日のゲストや来場いただいた作家さんたちのサイン会も開かれ、とても盛況だった。この物販は昨年もあったのだが、大学で開催されるワークショップとしては画期的なのではないだろうか。自分も沢山の本を持参して、中村融氏や大野典弘氏を始め、3コマ目のゲストである増田まもる氏や立原透耶氏、そしてイラストレーターのYOUCHAN氏など大勢の方にサインをいただいてしまった。(単なるミーハーですね。/笑)

■パネル3「クトゥルフ神話への誘い」
 さて最後のパネルはラブクラフトとクトゥルフ神話について。大学のSF研の若手2人がプレゼンと司会進行を受け持ち、コメンテーターである翻訳家・増田まもる氏と、作家で中国古典文学を専攻する大学の准教授でもある立原透耶氏が色々なコメントを加えていく――という前振りで始まったのだが、実際には当初の思惑とはかなり違ったものになった。あとの懇親会でも同席した方から「若者にはもっと場数を踏ませて鍛えてあげて」という、本人たちにとっては有り難いのか苦痛なのか分からないコメントをいただいたように、かなりギリギリな状態だったようだ。しかしそこは増田氏と立原氏がさすがのフォローで話をひっぱってくれて、かなり面白い話になったと思う。
 まずは熱烈なクトゥルフ神話ファンである学生Bくんによる、クトゥルフ神話についての基本的な解説や、日本におけるクトゥルフ神話体系を扱った作品群の紹介からスタート。なかでも創土社から数多くでている、クトゥルフ神話を用いた二次創作の話が面白かった。「クトゥルフ×少女戦隊」とか「クトゥルフ×艦隊」というように、クトゥルフに何か別のジャンルの設定を組み合わせることで新たな魅力を生み出した作品群や、組み合わせに使われている対象の幅広さなどが実例をもって示され、ラブクラフトやダーレスぐらいなら読んだことがある客席の人たち(注:自分も含む)も、とても興味深そうに聞いていた。用意した図像がことごとく小さなサイズで会場が笑いに包まれたのも、会場全体が打ち解けた雰囲気になれたので結果オーライとしておきたい。
 ここで「クトゥルフ初心者」のC君からでた幾つかの質問に答える形で、増田氏・立原氏から「ラブクラフトの作品と後にクトゥルフ神話としてまとめられた作品群は分けて考えるべき」という興味深いコメントがあった。ラブクラフトの作品の本質は自らの内側を見つめて掴み取った恐怖や疎外感といったものであり、最初から読者を想定して書かれた他の作品とは全く違うのだそうだ。ラブクラフトはリアルに描けない曖昧模糊とした恐怖を描いており、具体的なモンスターとしてイメージを具体化してしまったのが後のクトゥルフ神話であるという指摘は慧眼だった。
 増田氏の熱い語りはまだまだ続く。なぜラブクラフトの創始したクトゥルフがこれほどまでに日本で人口に膾炙し得たか?それはきっと「この世の理不尽さ」に対する諦念が共感を呼ぶのだろうとのこと。おお、ここでパネル2の東欧SFの特徴とも関係してくるコメントが!意図したものでは無かったのだが、結果的に今回は3つのパネルが互いに響きあう素晴らしいものになった。
 話を戻そう。人治を越えた絶対的な畏怖すべきものに振り回される状況は、誠実に突き詰めていけば最終的に恐怖と諦観に落ち着くしかない、というのが増田氏の主張。これを立原氏が中国におけるクトゥルフ神話の受容を例にして補完する。氏によれば中国は日本人のような世界観をもっておらず、曖昧な恐怖よりは人間の悪意や目に忌める物理的な危険への恐怖が勝るとのこと。だから何度出版しても挫折するのだそうだ。(これは中国本土に比べればまだましな台湾でも同じ傾向にあるらしい。)ラブクラフトを受け入れた欧米であっても、おそらく日本のような受け取り方はしておらずゴシックの派生とか別の受け取り方をしているのではないかという意見もあった。なおアイルランドは感性が日本に近いものがあるのでクトゥルフを受け入れやすい土壌があるかもしれないとのこと。アイルランド出身のラファティが描くホラー作品に自分がどことなくラブクラフト的なものを感じていたのは、もしかしてそのせいだったのかもしれない。
 ラブクラフトは「Cthulhu」をどう発音したのか?という話題も大変面白かった。基本的に「人間には発音できない」と著者本人がうそぶいていたように、決まってはいないのだろうという結論なのだが、沢山のアメリカ人に実際に発音させてみたところ「くるる」に近い発音になったそうだ。理由はTHとLは舌を突き出すような発音の仕方が同じで、かつ殆ど発音しないから。(ちなみに増田氏はこの「くるる」という発音が好きじゃないということだった。理由は大阪のたこ焼きチェーン店を連想してしまうから。/笑)立原氏にお聞きした中国式の表記と発音も面白い。「克蘇魯」と書いて「くーすーるー」と読むらしい。中国ではよく似た発音の漢字を当て字にするため、どうしても微妙に発音が違ってしまうとのこと。さもありなん。
 他にもラブクラフトをSFの祖ヒューゴ・ガーンズバックと同時代であることから「コズミックホラー」の創始者ではなく「アメリカにおけるもう一つのSF」の可能性を見出したり、「ラブクラフト学会」を立ち上げるべきではないのかといったアジテーションまで、とにかく増田氏が熱かった。彼の文章は小説というより散文詩であり、小説として訳すとくどい表現になる文章であっても、散文詩として訳せばリズミカルでとても読みやすいものに変わるそうだ。「とこしえに休み得るもの死者ならず、奇しき永久(とわ)に死すらも死なむ」という美しい詩とともに、増田氏の訳者としての腕前に触れた一瞬だった。今回は自分がいちどお目にかかりたい大勢の方にお会いできたのでとても満足のいくシンポジウムになったと思う。
 質疑応答でも色んな話がでたがとてもここには書ききれない。会場の林譲治氏からの「クトゥルフはハードSFとも親和性が高い」というコメントによってシンポジウム全体が最初のパネルにぐるりと戻った、というツイッターでのつぶやきと、同じく会場のYOUCHAN氏によって出た「ラブクラフトと夢野久作は顎長の風貌もさることながら活動時期までほぼ同じという、まるで生き別れの兄弟のような存在」という、まるでギャグのようなご指摘を紹介する程度でとどめておきたい。
 かくして円環は閉じた。もしもこの日、このひとときだけでも、会場の皆さんを日頃の憂さを忘れられる「ここではないどこかへ」とお連れできたのであれば、スタッフ一堂こんなに嬉しいことは無い。

 以上、駆け足で当日の様子をご紹介してみました。急ぎまとめたので乱文はご容赦。間違いなどありましたら教えていただけると幸いです。 最後になったが、わざわざ遠方からお越しいただいたゲストの皆さん、アットホームなシンポジウムの雰囲気づくりと質疑応答での鋭い質問にご協力いただいた参加者の皆さん、そして会場の手配から運営、当日の準備や発表の進行まで受け持ってくれたスタッフの皆さん、どうも有難うございました。


<追記>
 今回のシンポジウムは懇親会も最高に愉しかった。名古屋飯を出す居酒屋でYOUCHANさんと交わしたヴォネガット談義やジーン・ウルフ賛歌。そして大野さんとのソラリス談義など、とても濃く熱い夜を過ごすことが出来たのだが、それはまたシンポジウムとは別の話。いつか機会があればご紹介することとしたい。

<追記2>
 本文中にも書いたが、このシンポジウムはプロの作家さんなども一般参加者として普通に席に座って聞かれていたのがとても特徴的だった。実は今回挙げた以外にも、作家の上田早夕里氏や太田忠司氏、後藤みわこ氏に書評家の大矢博子氏など、多くの方が会場に顔を出されていた。東京のSFセミナー、京都のSFフェスティバルとならび「名古屋のSFシンポジウム」と言われるようなイベントにできると良いというのがスタッフの思いなので、これからも出来る限りは続けていけると良いと思う。いや、ぜひ続けていきたい。
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『アーキテクチャの生態系』 濱野智史 ちくま文庫

 日本におけるインターネットの勃興期から本書が書かれた2008年までを対象にして、その歴史と概念を俯瞰した本。技術系の世界では普通「アーキテクチャ」と言えば建築学のことを意味するのだが、ネットの世界では違うらしい。(そんなことすら、この本を読むまでは知らなかった。/汗)ネットでアーキテクチャというのは(自分流に解釈すれば)“使用ルールを内包した構造的な仕組み”のことを指すようだ。
 建物を例にとって、もう少しわかりやすく説明してみよう。例えば大きなビルで、各階のトイレや階段の位置が違っていると利用者が不便で仕方ない。また緊急時に避難する時でも、各自が好き勝手な方向にいけるようになっていると危なくて仕方がない。そこで(特に意識せずとも)誰もが迷わず利用できるよう、トイレや階段の位置を合わせたり、入られて困る場所の扉に鍵をかけて勝手に出入り出来ないようにするなど、構造的な配慮を行うのが一般的だ。ネットの世界でも同じことで、利用者にやってほしくない行為を禁止して、しかもそれを利用者に意識させないように、始めからルールとして組み込んでしまったプログラム構造 ――すなわち“ルールを内蔵して使用者に強制的かつ無自覚に守らせることが出来る仕組み”のこと―― を、「アーキテクチャ」と呼んでいるらしい。
 ではさっそく本書の中身について。
 素人には簡単には理解しがたいこのネット空間を、著者は「生態系」になぞらえて説明している。要はホームページやブログ、あるいはパソコン通信やミクシィに2ちゃんねるといった諸々の栄枯盛衰を、生物の弱肉強食の世界に喩えているわけだが、ブログやツイッターを利用しながらもこの手の話題に極めて疎い自分にとって、このようなアプローチの仕方は新鮮かつとても解りやすい。こういう入門書が前から読んでみたかったので丁度よかった。著者によれば日本は欧米のネットとは別の生態系が発達しているそうで、そのあたりの考察が本書の眼目といえるだろう。
 日本におけるネット黎明期のあれこれも面白いが、まず最初に取り上げられる大ネタは「2ちゃんねる」についてだ。なんど覗いてみても仕組みがよく理解できない2ちゃんねるについて、“dat落ち”といった特殊用語も含めて、そのアーキテクチャの設計思想を解りやすく説明してくれている。いわゆる“常連”の排除とコミュニテイとしての活性化を狙って、2ちゃんねる特有の匿名性や”dat落ち”といった仕組みが作られたということらしい。(*)

   *…これは管理人である西村博之氏の言葉とのこと。しかしこの匿名性こそが
      結果的に、2ちゃんねる自体を(まるで昔の九龍城のような)世間から隔絶
      した存在にしてしまった感も否めないところではある。著者はこの2ちゃん
      ねるのことを、ジャーゴン(業界にだけ通用する隠語)によってつながった
       一種の「想像の共同体」ではないかと述べているが、むしろ文化人類学
       的な意味での「秘密結社」に近いのではないだろうか。

 各種アーキテクチャと文化の相性についての考察も面白かった。2ちゃんねるを日本的な「安心社会」(=ある集団に属することで安心感を得、「誰と誰が仲間なのかといった人間関係を見分ける知性の方が重要」である社会)に、そしてブログをアメリカ的な「信頼社会」(=集団ではなく個人のレベルで「誰が信頼に足るべき人かを見分け」、個人同士の間で関係性を結ぶ社会)に基づくものとして位置づけたうえで、両者を対比している。そう言われてみると、たしかに2ちゃんねる的なものは欧米には出現しにくいという気もしてくる。また今でいうなら、前者は日本で隆盛を誇るツイッター、後者は世界のスタンダードになりつつあるフェイスブックに相当するのかも。
 ミクシィ(執筆当時は招待制で閉鎖的な空間をウリにしていた)とフェイスブックについての比較も。ミクシィはグーグル/アメリカ的な社会文化からの逃避の手段として生まれ、日本的な「儀礼的無関心」さえも必要としない閉鎖空間を実現したことで人気を博したとされる。さらには「足あと」を全て辿れる究極の「繋がりの社会性」を実現することで個人同士の「信頼」を却って不要にしたことが、日本に馴染んだ理由ないかとも。(これは現在ではLINEに引き継がれているような気もする。)

 別の章ではツイッター(非同期型)、ニコニコ動画(疑似同期型)、セカンドライフ(同期型)という三つの異なる時系列システムを比較し、テレビに代表されるような同期型メディア(=参加するとリアルタイムで拘束される)からネットという非同期型メディア(=いつでも好きなときに参加して履歴を追える)への変化についても言及している。著者によればセカンドライフが上手くいかなかった理由は、インフラが脆弱で一度にログインできる人数が少ないため閑散としていることの他に、同期型であるという本質的な部分にあるとみる。それに対してニコニコ動画ではいつでも「まつり」に参加しているような臨場感/満足感が得られるというのだ。うん、たしかにそれは云えるかも知れない。クライマックスで画面を埋め尽くすコメントを見ていると、そのイベントがまさに今起こっているような錯覚に陥るものね。
 他にはニコニコ動画における初音ミクの成功と拡散、ケータイ小説「恋空」の小説作品としてのクオリティの低さ並びに限定された読者層の中での「リアルさ」についての考察なども。日本固有のネット現象に関する種々のテーマが取り上げられて飽きさせない。
最後の方ではネットの持つ潜在的な危うさについても考察がなされている。その中で経済学者ハイエクの思想まで引用されているのにはちょっと驚いた。市場経済においてはいまだに「神の見えざる手」にすべてを委ねる方が良いという考えと、放置ではなく公的機関による最低限の介入こそが秩序を保つのに不可欠という考えが対立している。これはまさにネット社会においても同様であって、「祭り」や「炎上」(これら両者は同じ事象の裏表ともいえる)が暴走したときに市民に対して外部からの圧倒的な強制力として働くのではないかという指摘は、その後のネトウヨの出現によって現実のものとなった。ハイエクは経済学において「自生的秩序」の必要性を説いたのだが、ここから派生して法学者ローレンス・レッシングによる「インターネットがもたらす自然発生的な自由を、(デジタル著作権管理のような)極端な抑制から守るためには、何らかの自律的な秩序が必要である」といった意見を紹介している。たしかに今の状況を見る限りでは、ヘイトスピーチやデマの拡散の防止を目的として一定のルールを作ることは、まさにブラックマンデーやリーマンショックを防ぐ為の市場介入のようなものであるという気もしてくる。(もちろん導入には慎重かつ多義的な議論が必要ではあるが。)
 そのような仕組が是か非かといったところにまで思いを馳せたうえで本書は考察を終える。現在進行形のことでもあり本書にも最終的な結論や展望めいたものは書かれていないが、かなり重要な視点であるといえるだろう。本書は初心者に丁寧な説明はもとより以上のような深いところまで議論がなされ、射程が広くて読み応えのある本だった。

<追記>
 本書の内容には概ね満足できたのだが、少しだけ残念だったのは2008年から現在までの増補がなされていなかったところ。2008年といえば初音ミクやフェイスブックがやっと登場した一方で、ミクシィがまだ全盛だったころにあたる。その頃からすれば今は“生態系”も大きく変化しているので、ぜひともそれらについての考察が読んでみたかった。
 またミクシィやフェイスブックにツイッター、セカンドライフやケータイ小説といった代表的なアーキテクチャについては、“今後の予測”について書かれているのだが、これらが悉く外れてしまっているのが(本書の主旨とは違うが)とても面白い。尤もこれは決して著者の分析の甘さなどではなく、情報社会の変化の速さと予測の難しさ故といえる。これからどのような方向に向かっていくのだろうか。

積極的な読書の愉しみ方

 2010年2月にブログを始めていつの間にか5年半が過ぎた。最初は読んだ本の感想を記録に残したいということだったが、これをきっかけにして色んな本の愉しみ方を知ることができ、読書の幅もさらに広げることができた。今回はそんな話をちょっとしてみたい。

 基本的に「本を読む」という行為自体は孤独なものだけれど、読んでいる本人の頭の中ではそうではない。例えば小説の登場人物たちに一喜一憂したり、あるいはノンフクションを読んでこれまで知らなかった話題に心躍らせたりと、結構賑やかにしているのだ。読み終わった後もああだこうだと反芻して余韻を味わったりと、結構忙しかったり。
 しかしどんなに面白かった本でも、時間がたてば細かな内容を忘れてしまうのは致し方ない。またあるタイプの小説では、注意深く読まないと作者が組み入れた仕掛けに気付かず、面白さが半減してしまったりということもある。そんなわけで、いつの頃からか本を読むときにはメモを取りながら読む習慣がついた。(人によっては気になるページに付箋を付ける方法をとっている方もいらっしゃるようだが、自分はやっていない。付箋だらけになりそうだから。/笑)
 家ならパソコンを開いてその都度打ち込みながら読むことが出来るが、外出先ではそうもいかない。そんな時は手帳に書き込んだり携帯電話に打ち込んだりして、後で書き写したりもしている。このブログの原稿も実はそうして書いたメモを基にして、まとめた文章がおおもとになっているのだ。
 この“メモとり読書”はかなり愉しさの幅を広げてくれたと思うが、それでも孤独な作業である事には変わりない。そこで次に来たのが、感想を他の人にも伝えたいという気持ちだった。ブログもそうだしツイッターを始めたのも結局は同じ理由。自分の書いた本の感想に共感するコメントが返ってきたり、疑問に対する回答をもらえる楽しさを一度覚えたら、これはもう止められない。(ツイッターの場合はさらに色々な情報を得られたり、もしくは作家・翻訳家の方々と親しくやりとり出来るといった利点まである。)これら“ネットを使った読書”との出会いは自分の中ではかなり画期的な出来事だったといえだろう。
 こうして始まった「積極的な読書」は、やがて次のステージである“読書関連のイベントへの参加”へと進むことになる。ネットで読書関係の人脈ができて驚いたのは、これまで存在すら知らなかったイベントが沢山あるということだった。作家や書評家の方をゲストにお呼びして開催されるシンポジウムやセミナーもあれば、本の朗読会(ジャンルは様々で中には自分の好きな「怪談」に特化したものまで)や“一箱古本市”といったアマチュア参加型のイベントまで、全国各地でひっきりなしに開催されているのだ。ふらふらとそんなイベントのひとつに遊びに行って即売の本を買ったり、もしくは帰り道に鶴舞の古本街をぶらついたりというのは、休日の過ごし方としてかなり好いものである。
 そうこうするうち、読書仲間から「翻訳ミステリー読書会」というイベントへのお誘いを受け、これが決定的だった。学生のころにサークル仲間で読書会を開いたことは何度かあったのだが、所詮は友人同士の雑談の域を超えるものではない。社会人になってからは仕事の忙しさにかまけていつの間にか自然消滅していた。
 しかしこの時に参加したミステリー読書会はまったく違っていた。初対面の人も含めて数十人もの人が集まり、上手な司会進行とシステマティックな運営によって初心者からマニアまで誰もが愉しめる、まさに「大人の読書会」とでもいうべきものだったのだ。好きな本について心ゆくまで語り合うというのがこれほど愉しいことだとは思わなかった。それ以来“読書会への参加”は自分の中で、休日の過ごし方のかなり上位に位置づけられることになった。
 そして読書会はその後さらに発展をとげた。「翻訳ミステリー読書会」の参加者によるスピンオフ読書会(岐阜、浜松など近郊で開催されている)や自分たちが立ち上げた「名古屋SF読書会」といった、参加者の間口の広い読書会から、5~6人という少人数で開催されるミニ読書会(*)まで色々なものが、今ではそれこそ毎月のように行われている。

*…こちらはアンナ・カヴァン『氷』やP・K・ディック『ヴァリス』など、かなりディープな
   課題図書をとりあげて有志で実施している。主催者もバラバラで、やりたい人が
   ツイッターで参加者を募るというかたち。

 このようにして培われた人脈を通じてまた新たな人たちとの出会いがあり、皆でもっと大勢の人に愉しんでもらえるようなイベントを作りたいと、今度は主催する側に回ったおかげで、最近ではかなり忙しい休日を送っている。(笑)
 ここ最近とくに思うことは、読書は自己完結する愉しみ方だけでなく周囲に広がっていくことで、その愉しさを幾重にも膨らませるということ。つまり「積極的な読書の愉しみ方」に気が付けたのは、5年前にこのブログを始めて一番良かった事かも知れない。ほんと、読書の世界は奥深いものだよねえ。

2015年8月の読了本

今月は休みにたくさん読めたのでかなり満足できた。本当は平日にもそこそこ読めるといいのだけれどねえ。

『ムントゥリャサ通りで』 M・エリアーデ 法政大学出版局
 世界的に有名なルーマニアの宗教学者が発表した幻想小説。世界のすべてを知るかのごとき驚異の語り部ファルマ老人は、保安警察や政府高官らの求めに応じて謎の消失を遂げたラビの息子を巡る思い出話を語りだす。しかし彼の話は迷宮のように錯綜し、尋問にあたった警官を翻弄する。ボルザをきっかけにダルヴァリ、ヨジ、リクサンドル、そしてオアナへとファルマ老人の思い出話は際限なく広がっていくのだが、「一人について語るには全てを語らなくてはならない」という老人の言葉で、文化人類学者レヴィ=ストロースが『神話論理』のシリーズで明らかにした神話のグラデーションをふと思い出した。まさに神話的な幻想といえるだろう。ミハル・アイヴァス『黄金時代』に出てきた無限につながる註釈つきの本みたいだ。
 そして前半の目くるめくような神話的世界は、後半に至りマコーマック『ミステリウム』を思わせるような緊迫感に満ちたメタミステリへと突然変貌をとげる。後半の畳み掛けるように謎が解かれていく展開も悪くないし、エスピオナージュ的な描写も当時のルーマニアのお国柄が出ているようで大変に興味深い。予想していたのとはちょっと違っていたが、これはこれで満足のいく一冊だった。

『わたしのブックストア』 北條一浩 アスペクト文庫
 新刊書店や古書店の区別なく、どこか人を引き付ける魅力がある店を全国各地に訪ね歩いたガイドブック。もとはムックの類いで出た本の文庫化らしく、今を時めく芥川賞作家のピース又吉氏や均一小僧の異名を持つ古本愛好家・岡崎武志氏らのインタビューなども収録されている。取り上げられた書店は仙台の火星の庭、千駄木の往来堂書店、表参道の古書日月堂など17店舗。前から行ってみたいと思っていた有名店も多いが、店内のカラー写真が掲載されているのが嬉しい。書中には取り上げられてはいない本屋ではあるが、町田の高原書店にもまた行きたくなってきた。

『モンテ・クリスト伯(六・七)』 アレクサンドル・デュマ 岩波文庫
 地位も名誉も全てを失った絶望の中、奇跡により巨万の富と自由を得た男エドモン・ダンテスによる復讐の物語。三、四巻のあたりは少しダレて間が空いてしまったが、五巻に入ってから一気に展開が進んで続けて読んだ。うん、面白いぞ。読後感も爽やかで好い。基本的に勧善懲悪の物語なのだが、司法の手が届かない罪人にを相手に神に替わって罰を与えるというのが、如何にもキリスト教的に思える。どうなんだろう。
 A・ベスター『虎よ、虎よ!』は本書を参考に書かれたとされ、両者を比較しながら読んでみたのだが、なるほどたしかに色々と似ているところも多い。大まかなプロットばかりではなく、物語のラストまでヒントにしているような気もする。そしてさらに気が付いたのは、白井喬二『富士に立つ影』も本書から着想を得たのではないかということ。親と子供で善悪の役割りが入れ替わったり、あるいは善人に生まれた子息らの処遇であったりは、とても似ている気がする。
 正直なところ、個人的には作者の代表作である『三銃士』よりも面白く感じた。用意周到に張り巡らされた伏線も最後にはきちんと回収されていて、個々のエピソードにも巧く決着がつけられる。その中でも一番の見せ場はやはり監獄でのファリア司祭との出会いと別れ、そして脱獄から財宝を見つけるまでのくだりであって、それが良くも悪くも本書の印象を決めている気がする。中盤以降の復讐の顛末は、意外と知られていないのではないだろうか。有名だけど読んでいない本はまだまだあるので、これからも機会を見つけて読んでみよう。

『11 eleven』 津原泰水著 河出文庫
 極めて技巧的で昏く幻想的な物語が全十一篇入った短篇集。イメージでいえば、例えばベルメールの人形であったりパク・ミンギュの『カステラ』であったりといったところか。幻想小説とホラーとミステリの境界線上のような話も多く、作風としては心を擦られるような不穏さと美しさが同居している。「五色の舟」「延長コード」「手」「土の枕」あたりが好みだな。

『動きの悪魔』 ステファン・グラビンスキ 国書刊行会
 20世紀初頭に活躍した、ポーランド唯一の“恐怖小説専業作家”による鉄道怪奇物語集。これまではアンソロジーに短篇がひとつ載っただけなので、本書が実質的な日本への紹介に近い。
 実は本書を読む前は、全てが鉄道を題材にした作品だと聞いて正直心配していた。昔、海洋テーマばかりを集めた怪奇小説集を読んだ時、最後の方で正直いって少し飽きてしまったことがあったのだ(笑)。しかしそれは本書に限っていえば杞憂だった。乗務員や乗客などいずれ劣らぬ癖ある人々が鉄道事故にまつわる恐怖を体験する前半と、形而上的ともいえる神秘体験が色濃い後半の全十四篇からなり、バラエティに富んでいて飽きさせない。出てくる人物の誰もがどことなく偏執的なのが面白い。『怪奇小説傑作集』に収録されていても違和感ないものばかり。なるほどこれは帯にあったようにラブクラフトでありポーだ。
 ちなみに本書でもツイッターを使った愛読者プレゼントが翻訳者の芝田文乃氏により自主企画されていた。(これは訳者の中野善夫氏によるヴァーノン・リー『教皇ヒュアキントス』のキャンペーンから始まったもので、最近は古沢嘉通氏など他の訳者の方にも広がりつつある。)当然のことながら応募条件は訳者の方により違っていて、今回の応募条件は「気に入った3作品を選び、ハッシュタグをつけてツイートする」というものだった。自分の選んだのは「音無しの空間(鉄道のバラッド)」「偽りの警報」「動きの悪魔」だったが、他にも「X電車で行こう」を彷彿とさせる「放浪列車(鉄道の伝説)」や、「トンネルのもぐらの寓話」も好かった。
 それにしても何で鉄道ばかりがテーマなのだろう。20世紀初頭の世界では、全速力で疾走する大きな鉄の塊は今以上に強烈なイマジネーションの源だったのだろうか。スマートな電車に比べとても無骨な機関車の持つ暴力性や、遥か彼方まで続いていく線路が持つ魔力といったものがあったのだろうか。すごく乱暴な思いつきで恐縮だが、もしかしたら20世紀初頭に列車が持っていたイメージは、その後は飛行機に受け継がれ、次にロケットへと移っていったのかもしれない。

『ヴァリス』 フィリップ・K・ディック ハヤカワ文庫
 ディック晩年に書かれた問題作。5年ぶりに読み返した怪作は、新訳のおかげでファットの狂気を冷静に見守る「ぼく」のパートがより強調された結果、自分の中ではこれまで以上に奇怪な作品という印象が強くなった(笑)。作品としては明らかに破綻していると思うが、色んな意味で面白い。ところで本書で描かれる「ディック神学」というものは、今回も結局のところよく解らなかった。グノーシスをベースにユダヤ教とか仏教とか色んなものから持ってきているのだが、結局のところは“ひとりカルト”なので。

『新生』 ダンテ 河出文庫
 ダンテが僅か9歳の時から想いを寄せた、ひとつ年下のベアトリーチェへの至高の愛を詠った抒情詩集。平川祐弘氏による口語訳が読みやすく、さらに詳細な註および解説を附している。きっと若い頃なら気恥ずかしくてとても読めなかったと思うが、これがある『神曲』の詩想の源泉と思うとなかなか感慨深い。

『残穢』 小野不由美 新潮文庫
 著者本人を語り手とした実話怪談系のホラー小説。新興住宅地の賃貸マンションで、さりさりと畳を擦る音や赤ん坊の泣き声がする。しかも何ら関連のないあちこちの家で……。怪異の謎を追う2人の女性が転居した人達や土地の過去を知る古老へ聞き取りを繰り返すうち秘密は徐々に明かされていくのだが、結局のところは有るか無いか判らぬ「穢れ」というやつが一番怖かった。
 そもそも人が恐怖を感じるのは、「把握しがたいもの(正体不明や場違い)」「理解しがたいもの(因果や相手の行動規範)」「受け入れがたいもの(とっさの瞬間や強制)」などに出会った時ではないかと思う。だから恐怖を感じた時に、人はその対象を理性でもって理解しうけいれようとする。そうすることで恐怖を克服しようとするのだ。ところが本書で描かれているのはまさに、いくら理性で向き合おうとも理由が見えてこない怪異。しかもいくら過去に遡ろうとも因果が見えてこない怪異でもあり、恐怖の仕掛けが2番底、3番底になっているのだ。これはなかなかに怖い。そして因縁では解釈できないそれら不条理な恐怖の連鎖を、「穢れ」で説明しようとすることもまたひとつの理性の表れとするならば、まさに本書は露伴怪談の正統な後継と言えるのかも知れない。これまで実話怪談にはさほど興味を持っていなかったのだが、本書を読んで見直した。小野不由美作品の中では本書の方が『東亰異聞』や『屍鬼』より好きかも知れない。

『異界と日本人』 小松和彦 角川ソフィア文庫
 NHK人間大学として放映された番組のテキストをもとにして、角川選書として発行されたものの文庫化。様々な説話に表される日本人の異界観を、軽い読み物として紹介している。なおここで云う「異界」とは、人の棲む地に隣接した境界の向こう側にあるとされた領域のこと。直接異界に行けるのは特別な資質をもった者だけであり異界の様子は知る由もないが、その存在は現実と異界の境界部分に現れる“異形のもの”にまつわる物語を通じて流布された。たとえば酒呑童子しかり玉藻前しかり、そして俵淘汰の百足退治しかりだ。日本人の異界観は近世に至り一気に変貌を遂げたが、妖怪文化の娯楽化は現代でも水木しげるの漫画やゲーム、アニメなどを通じて継続しているといえる。本書はそれらを俯瞰するのに手ごろだし読みやすいので、小松妖怪学の入門編としても良い本かもしれない。

『風流仏・一口剣』 幸田露伴 岩波文庫
 著者が23、4歳の時に書かれた出世作とのことで、それぞれ仏師の悲恋と刀鍛冶の一念発起を描く人情もの。今読むと現代との価値観の違いに戸惑い、あるいは“あんまりな結末”に驚くが、それが逆にいかにも明治期らしさを感じさせもする。鏡花を読んでいるときもそうなのだが、何しろ言葉遣いが心地良いのが好い。

『善と悪の経済学』 トーマス・セドラチェク 東洋経済新報社
 チェコの経済学者による経済学の本。現在の主流派経済学への批判を目的とし、「ギルガメシュ叙事詩」「旧約聖書」「古代ギリシャ」「キリスト教」「デカルトと機械論」といった過去から哲学・思想の中に経済学の萌芽をみて、現代の経済学の中に人を幸福にする手段としての“善き経済学”を見出そうとする。

『澁澤龍彦との日々』 澁澤龍子 白水uブックス
 澁澤晩年の18年を共に過ごした夫人による回想録。なれそめや鎌倉での四季折々の暮らしぶり、友人たちとの交遊や旅先での様子、そして涙なくしては読めない闘病から逝去までの様子を赤裸々に語る。本書によれば龍子夫人が最も好きな著作は『フローラ逍遥』とのことで、(絶筆となった)『高岳親王航海記』は傑作だが最期を思い出してつらいので読めないとも。本書を読んでいるうち『高岳親王航海記』をまた読み返したくなった。そしてそのうち、『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』と盟友・種村季弘氏による『澁澤さん家で午後五時にお茶を』も、併せて再読してみたい。

『猫とともに去りぬ』 ロダーリ 光文社古典新訳文庫
 『チボリーノの冒険』で知られたイタリアの児童文学作家によるファンタジー集。元は中高生向けのようで易しい物語だが、どれも奇想天外かつおしゃれな設定で面白い。表題作や「チヴィタヴェッキアの郵便配達人」「ピアノ・ビルと消えたかかし」などが好み。

『脳天気にもホドがある。』 大矢博子 東洋経済新報社
 ミステリを中心とした書評活動で有名な大矢氏の旦那さんが脳出血で倒れてから1年間に亘る闘病の記録。発症から急性期、回復期とリハビリまでの期間にあった出来事が事細かく語られるが、本書でなにより素晴らしいのは徹頭徹尾、前向きで明るいこと。闘病記は読むと後悔するようなものも中にはあるが、これは読んで良かった。アドバイスが具体的なので、きっと同じような状況になった人にとても役立つと思うし、よほど勇気づけられるのではないだろうか。本書の特徴はもう一つあって、やたら野球の話が多く出てくる事。それもそのはず、夫婦そろって「キチ」が付くほどの中日ドラゴンズファンなのだ。でも病気の時に限らず、「好きなこと」があるのは良い事だよねえ。日々の励みになるし、気分転換にもなるし。なるべく沢山あった方が良いとおもう。

『聖なる侵入(新訳版)』 フィリップ・K・ディック ハヤカワ文庫
 ヴァリス二部作(もしくは『ティモシー・アーチャーの転生』も加えて三部作)の一冊であり、前作『ヴァリス』の神学を全面的に展開した物語で、不完全な神により作られた世界における個人の救済が追求される。ただし小説としては前作より面白かった。細部には『宇宙の眼』や『市に虎声あらん』を思わせるところもありそれなりに愉しめる。(もちろんディック作品は世界に対する不安や生きる苦しみ、そして現実崩壊の感覚が醍醐味なので、『ユービック』『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』といったベスト級の作品に比べればちと弱いところはあるが。)巻末の訳者解説によれば『ヴァリス』の主人公であった狂えるSF作家ホースラヴァー・ファットが書いた作品という位置づけらしい。ここで中心テーマとなる“ディック神学”はいびつな世界観をもっているのだが、それでも基本的には旧約のヨブ記かもしくはグノーシス主義の派生なのでキリスト教の思想をベースにして理解することが出来る。とうか、一神教の世界で「苦しみ」とか「救済」の話になると、どうしてもそのあたりの話にならざるを得ないのだろうか。世界や自分の生に意味を求めだすと特に。このあたりは仏教の方が気楽に生きていけそうな気がする。

『記憶をあやつる』 井ノ口馨 角川選書
 脳分子化学の専門家が自らペンをとって書いた、「記憶」の研究に関する一般向け解説書。脳研究の歴史や脳構造、記憶のメカニズムといった基礎知識が最初に載っているので初心者でも解りやすい。(すでに知っている人は飛ばしても差し支えない。)しかし本書の白眉はなんといっても記憶研究の最前線を解説する第4章からで、池谷裕二氏のエッセイに載っていた話のその先が語られている。シナプス・タグという、長期記憶を制御することで互いに連動して動くシナプスのセル(≒集まり)を作り出すメカニズム。あるいはそれらのセルがさらに関連付けられる事で、大きな繋がりを持つ連合体になり連想記憶を作り出す。こういった高次の記憶を司る一連の流れが分子化学のレベルで説明され、ぞくぞくするほど面白い。但しこの手の「最新情報」は数年たつと古くなって面白さが半減してしまうので、なるべく早いうちに読んで愉しむのが良いと思う。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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