『記憶をあやつる』 井ノ口馨 角川選書

 分子脳科学の専門家が自ら書いた、「記憶」に関する脳研究の解説書。題名や帯の惹句は少し怪しそうな感じがしたのだが、店頭で中身をパラパラと確認して買うのを即決した。そもそも自分が脳科学に興味を持ったのは、本書でも触れられている立花隆著『脳を究める』を読んでからだった。当時は『サル学の現在』や『サイエンス・ナウ』など、様々な分野の研究者に立花氏が最前線の話を伺う本がたくさん出ていて、店頭に並ぶたびに買って読んでいた憶えがある。どれかの本の中で立花氏が「これからは脳研究から目が離せない」という趣旨のことを述べていて、それ以来、脳科学の本に気を留めるようにしているのだ。もちろん専門書まで手は出ないが、最近は一般読者向けの本も増えているので手軽に読めてありがたい。(*)

   *…『進化しすぎた脳』を始めとする池谷裕二氏の一連の本も、最新トピックスを
      わかりやすく噛み砕いて書いてくれるので気に入っている。

 本書も一般のひとに最新の脳研究をわかりやすく紹介しようという趣旨で書かれた本なので、内容は専門的だがとっつきやすい。前半にはこれまでの脳研究の歴史や脳の構造、「記憶」の基本的な仕組みといった基礎知識がまとめられているので、脳科学の本を初めて手に取った人でも解りやすいと思う。
 しかし何といっても本書の白眉は、記憶研究の最前線を解説する第4章からだろう。脳の中にシナプス結合を強化された特定の「セル・アセンブリ/細胞集合体」が生まれ、それにより記憶が保持される―― という仮説が検証されるまでのエピソードや、海馬に蓄えられた短期記憶が大脳皮質の長期記憶へと転送されていく様子など、これまであまり知らなかったことが詳しく述べられている。シナプスにつけられた分子的なタグを使うことで長期記憶を制御して、連動するシナプスのセルを作り出すメカニズムは、これまで全く知らないことだったので大変興味深かった。さらにはそれらの独立した記憶のセルが互いに関連付けられる事で、更に大きな繋がりを持つ連合体になるという一連の流れは、推測や独創的な想起がいかにして可能になるか、もしくは何でもないエピソードがなぜいつまでも強い記憶として残るかについても解き明かしてくれていて、ぞくぞくするほど面白い。
 さらには独立した記憶をあとから人工的につなぐことでマウスに偽の記憶を作り出すことに成功したという実験や、逆に意図しない記憶の連合を絶つことで事故や天災によるPTSDに苦しむ人の治療が出来ないかといったアイデアが語られ、ちょっと高かったが存分に愉しむことが出来た。これからの脳研究はますます目が離せないものになりそうだ。

<追記>
 新書や選書は人文科学や社会科学系の本が多いが、ときどきこういった自然科学系の面白本が混じっているので侮れない。自分のような興味本位の読者にとっては、高い専門書を読むよりももしろ良い本にあたる確率が高かったりすることも。ネットで注文も便利だけれど、こういう本にばったり出会えたりするからこそ本屋巡りはやめられないのだよねえ。
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『善と悪の経済学』 トーマス・セドラチェク 東洋経済新報社

 チェコの経済学者が書いた、一風変わった経済学の本。2009年にチェコで出版されると同時にベストセラーとなり、欧州をはじめ15か国語に訳されたとのことで、2012年にはドイツで「ベスト経済書賞」も受賞している。本書を開くと、まず目次からして経済学の本と思えない章題がついている。例えば第1章は「ギルガメシュ叙事詩」。次いで「旧約聖書」「古代ギリシャ」「キリスト教」「デカルトと機械論」と続く。アダム・スミスの名がでてくるのはやっと第7章になってからだ。
 本書が書かれた趣旨は現在の主流派経済学への批判にある。著者によれば、経済学とはもともと道徳哲学の一部だったそう。それがいつの間にか実証的な学問であることを目指して自然科学の手法を取り入れた結果、数学的整合性ばかりを追い求めるようになり、本来の目的である「人々の幸福の実現」を忘れてしまっているとのこと。
たとえば現在主流となっている経済学(アメリカ式の古典派経済学のことか?)では、経済活動を行う人間のモデルとして「所与の予算制約の中で自己の効用の最大化を目指す合理的主体」という、現実とはかけ離れたものが用いられている。確かに物理学を始めとする自然科学の学問領域においては、「摩擦の無い世界」といった“理想空間”を設定して考察することで、大きな発展をとげることが出来た。しかし社会科学である経済学の場合、現実に反映できない恣意的なモデルを用いてシミュレーションをいくら行ったとしても、実験による検証とモデルの見直しが出来ないため現実との乖離が縮まることはない。口悪く言えば「机上の空論」でしかない。(*)
 
  *…このあたりは佐和隆光著『経済学とは何だろうか』(岩波新書)の意見に近いと思う。

 著者は問う。
 「善悪の経済学は存在するか。善は報われるのか、それとも経済計算の外に存在するのか。利己心は人間に生来備わったものか。公益に資するなら利己心を正当化できるか。」
 そしてそのために著者は、過去の宗教や哲学の中に“幸福を求める手段”としての経済学の萌芽を探す。そしてアダム・スミスやバーナード・マンデヴィルといった初期の経済学者の思想のなかに、社会幸福を求める哲学としての経済学を見出そうとする。
ひとつ例を示そう。第2章「旧約聖書」や第3章「ギリシャ哲学」には次のようなことが書いてある。
 ユダヤの教えでは労働は否定すべきものではない。肉体労働を奴隷のすべきものとし生きるための必要悪としたのは古代ギリシャの人々であり、プラトンやアリストテレスらは純粋に知的な活動に専念する事こそが理想であるとした。しかしユダヤ教において労働とは喜びである。安息日とは本来、6日間働いた疲れを癒すためにあるのではなく、労働の達成を喜びその成果を愉しむためにあるのだという。同様に経済活動も本来であれば(現在の経済学の考えのように)際限なく成長し続けるのではなく、達成してひと休みし、生活の満足を味わうというものであるべきなのだ。
 また、著者によればアダム・スミスも「市場の見えざる手」という言葉に象徴されるような利己主義的経済学を確立した人物ではなく、『国富論』に先立つ『道徳感情論』では彼の経済学の基礎となる倫理が展開されているとのこと。しかもスミス自身は『国富論』より『道徳感情論』の方が優れた著作であると考えていたらしい。このように本書において著者は、現在の主流となっているアメリカ式の経済学に欠けているもの ――すなわち経済学の倫理を指し示そうとしているのだ。成長経済が国際的な危機に瀕している現在、この視点はもしかしたらとても大事なものなのかも。
 ふと思ったのだが、人を幸福にするのが“善き経済学”なのだとすれば、人により幸福のモノサシが異なるという点が課題となるだろう。物質的な満足だけでは幸福にはなれないが、精神的な満足に至るにはある程度の経済的な自由も不可欠。ただし人は豊かになってもそこで満足はせず、むしろ豊かになればなるほど更に多くの物を望む。絶対的な満足というものは無く、かといって常に成長し続けることも難しいし、過去の生活水準に戻すために禁欲することも不可能。それではすべての人の幸福を求めるにはどのようにすれば良いか。本書の中にその明確な答えがあるわけでは無いが、「安息日」を作り達成の成果を味わうという本書の提案も一つの方法ではあるだろう。
 以上、著者の全ての主張に首肯できるかは別としても、とても刺激的で面白い本だった。はたして「善き経済学」の実現は可能なのか? もしかしたら、それを見つけるのは我々ひとりひとりの仕事なのかも知れない。

『動きの悪魔』 ステファン・グラビンスキ 国書刊行会

 今からおよそ100年前、20世紀初頭のポーランドで活躍した作家による連作短篇集。まったく聞いたことが無い作家だし結構な値段だったのだけれど、先日読んだばかりのスタニスワフ・レム『短篇ベスト10』(国書刊行会)と同じ芝田文乃氏が翻訳をされており、思い切って買ってみた。名前を聞いたことが無かったのも道理で、この作家自身日本では殆ど知られておらず(*)、作品集としては本書が本邦初紹介とのこと。内容はちょっと変わった題名にもあるように、鉄道にまつわる話ばかりを集めた怪談集だ。

   *…これまでの邦訳は『東欧怪談集』(河出文庫)収録の「シャモタ氏の恋人」のみ。

 ぱらぱらと目を通した巻末の解説によれば、著者グラビンスキはポーランドでほとんど唯一ともいえる恐怖小説ジャンルの書き手であったらしい。「ポーランドのポー」「ポーランドのラブクラフト」とも称されるとあるが、幻想小説ファンならこれだけで凡そどのような作風か分かるのではないだろうか。「モルグ街の殺人」や「黄金虫」で推理小説の開祖とされ、また「アッシャー家の崩壊」や「黒猫」「赤死病の仮面」など怪奇小説の名作を世に送り出したエドガー・アラン・ポー。そして今でも人気を誇るコズミック・ホラー“クトゥルフ神話”を作り出したH・P・ラブクラフト。これら幻想文学界のビッグネームにも比するとされるのだから、否が応でも読む前から期待は膨らむ。
 で、読んでみた結果だが、かなり満足のいく出来だった。(こういう読み方をすると当たり外れが大きいので、面白い本にあたると嬉しい。)同じテーマばかりで正直飽きてしまわないかと心配だったのだが、いやいやどうして、そんなことは無い。主人公は乗務員や乗客など作品毎で様々に変わり、しかもいずれ劣らぬ癖ある人々ばかり。(誰もがどことなく偏執的なのが面白い。)そんな彼らが鉄道事故にまつわる恐怖を体験する前半と、形而上的ともいえる神秘体験が色濃い後半の全十四篇からなる、バラエティに富んだ短篇集だった。なるほど確かに前半はポーだし後半はラブクラフトだ。グラビンスキはポーの大ファンだったらしく前半がポーの作風に似ているのはなるほど納得できるのだが、ラブクラフトについてはおそらく読んだことは無かっただろうとのこと。大西洋を挟み遠く離れた地に住む2人の作家が同じような時期に同じような宇宙的ホラーを書いていたとは面白い。ちなみに収録作の題名と大雑把な内容は次の通り。

 ・音無しの空間(鉄道のバラッド)/引退した車掌が廃線で体験する奇妙な出来事
 ・汚れ男/事故を予言する“汚れ男”を目撃した車掌
 ・車室にて/列車に乗っている時だけ生気に満ち溢れる男
 ・永遠の乗客(ユーモレスク)/駅と列車を徘徊する悲しい男の物語
 ・偽りの警報/鉄道事故にまつわる謎の法則
 ・動きの悪魔/全速で走る列車に取りつかれた男と彼を見舞った怪異
 ・機関士グロット/心に傷を負った機関士の恐怖
 ・信号/鉄道員たちに伝わる伝説と奇妙な偽信号
 ・奇妙な駅(未来の幻想)/超高速未来列車の夢と幻影
 ・放浪列車(鉄道の伝説)/突如あらわれ自走する車両の恐怖
 ・待避線/乗った人をおかしくしてしまう車両と、それに憧れる保線工夫の策略
 ・ウルティマ・トゥーレ/山中の小さな駅の管理長が体験した友人の不幸
 ・シャテラの記憶痕跡/駅長が取り憑かれた狂気の幻
 ・トンネルのもぐらの寓話/鉄道トンネルを守る職に就いた男の秘密

 なかでも特に気に入ったのは「音無しの空間(鉄道のバラッド)」「偽りの警報」「動きの悪魔」あたりだが、山野浩一氏のSF短篇「X電車で行こう」を彷彿とさせる「放浪列車(鉄道の伝説)」や、奇怪な妖精の世界のような「トンネルのもぐらの寓話」も好み。全般的にかなり水準が高く、最後まで愉しめた。往年の名アンソロジー『怪奇小説傑作集』(平井呈一編/創元推理文庫)に収録されていても違和感ないものばかりといえるだろう。幻想文学ファンなら買って損はないと思う。そしてこんな出会いがあるからこそ、なんど失敗してもついつい衝動買いをしてしまうのだろうね。

<追記>
 それにしてもなぜ鉄道ばかりを題材に選んだのだろう。(単に著者が鉄道好きだったというだけではあるまい。/笑) 昔、鉄道が持っていた象徴の力は、現代とは比べ物にならないほど大きかったということだろうか。大きな鉄の塊が疾走する暴力性とか、あるいは徒歩や馬に比べはるかに短い時間で遥か遠くまで行ける魅力、そして彼方まで線路がつながっているという浪漫など......。
 すごく乱暴な思いつきだけれど、20世紀初頭に列車が持っていたある種のイメージは、その後はリンドバーグらによって飛行機へと引き継がれ、そして今ではロケットや宇宙探査機が担っているのかも知れない。人間が作り得た力の象徴とでもいうべき何かとして。

第3回名古屋SF読書会レポート

 昨年の第1回(アーシュラ・K・ル・グィン『闇の左手』)、今年になってからの第2回(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』)に続き、早いもので第3回の読書会を迎えることが出来た。開催日は7月26日(日)で、場所は第2回と同じ名古屋駅前のウインクあいち。課題本はレイ・ブラッドベリ『華氏451度』だ。第1回の時に参加者の皆さんの投票で選ばれたのが『虎よ、虎よ!』と『華氏451度』だったので、これで当初予定した作品はすべて実施したことになる。
 今回の参加者はスタッフも入れると全部で29名。今回もたくさんの方にご協力いただき愉しい読書会が開催でき、大変にありがたかった。スタッフ一同この場をお借りして改めてお礼申し上げます。

 さてそれでは早速当日の内容について。
 流れはいつもと同じく名古屋ミステリー読書会方式。予定通り14:00からのスタートで、最初の1時間40分は3つに分かれてのグループ協議の時間。グループごとに司会者の進行に従って感想を述べ、板書係がホワイトボードに記録していくというかたち。グループ協議の最後には「次に読むならこんな本」をお互いに出し合って終了となる。10分間の休憩中に机を片付けてホワイトボードを横一列に並べ直し、後半はホワイトボードの記録を使って各グループの内容を司会者が他のグループに紹介し、全員で出た意見を共有する。ラストには次回の読書会の課題本を全員投票で決めて17:00までに撤収し、そのまま2次会へとなだれ込むというパターン。ところで名古屋SF読書会の特徴として、(ミステリー読書会と同じく)2次会への参加率がとても高いことが挙げられる。今回も都合で出られない方を除いて参加者29名のうちなんと24名が2次会参加という状態に相成った。2次会の場で皆さんが親睦を深め、次からも気軽に参加いただけるという良いサイクルが生まれている気がする。これは男女の参加比率がおよそ50%ずつという点と合わせて、結構自慢できることではないだろうか(笑)。

 閑話休題。
 ではH班/W班/N班(←司会者の頭文字)という3つの班それぞれで出た内容を一括りに整理して、全体でどんな意見や感想が出たかをざっとご紹介しよう。
■新訳と旧訳について
 旧訳は句点がやたら多くて読み難かったという意見もあれば、用語は旧訳の方が良かったという意見もあり一概には言えない感じ。(例えば灯油の代わりにケロシンなんて言葉を使っているが、若い人には却ってわからない。)なかでも「新訳は(言葉の感覚が)古い」という意見が斬新だった。でも新訳版には引用の解題も載っているし、ブラッドベリの原典の表現により忠実な訳ということらしい。
■映画版との比較
 映画の方が小説に比べて解りやすいという印象。クラリス(=主人公モンターグの導き手となる謎の少女)が生きていて後からまた出てくるなどラブロマンスの要素が強い。クラリスとミリー(=モンターグの妻)が同じ役者による一人二役というのも暗示的。
■小説の印象
 前半が読みにくい。後半の逃亡劇になってからは読みやすい。世界の設定について説明がない。クラリスは死んだのか、街は滅んだのかどうかなど曖昧。結局何が禁止されているのかがよく分からないなど、物語として今ひとつ解りにくい。
■登場人物について
 モンターグは激情・破滅型で思い込みが激しく、チャンスを壊すことはあっても自分から行動は起こさない。多くの導き手に迷惑をかけながらも導かれていく存在。クラリスは無垢。立ち止まって物事を考える習慣をもっていることで反社会的と見做されるが、フェイバーやグレンジャーと同じくモンターグの導き手でもある。上司であるベイティーは膨大な本の知識を持つが、それを攻撃のための道具(武器)としてしか使っていない。(ベイティーは死にたがっていたのではないか?という意見もあり。)そして彼もある意味モンターグの導き手になっている。
 ミリーたちはTV壁に移るドラマに興じるばかりで虚しい人生を送っているように見えて、実は幸福は人それぞれなのではないか?(ああいう生き方もまたひとつの幸せであることは作中にも言及されていたはず。)

 とまあ、全体に共通する印象としてはこんなところだろうか。その他にも重要かつ面白い意見が結構あったので、思いつくままに挙げてみよう。
 まず「この世界で禁じられているのは何か?」について。これはひとこと「書物」といって終わるような単純な話ではない。クラリスが反社会的とされ監視の対象となったことからも判るように、そしてドラマの台本は問題なく使用されていることからも明らかなように、「知識」や「ノウハウ」は禁じられておらず、考える力を養うこと即ち「教養」が禁止されているのだ。(“一億総白痴化”計画みたいな感じか?)
 だいたい、禁書の範囲がどこまでなのかがはっきりしない。最初の部分(新訳版では60ページ)に「アメリカ昇火士」の略史が記されているが、それによれば1790年にベンジャミン・フランクリン(!)をこの制度の嚆矢とし、英国の影響下に著された書籍を焼却したとされている。つまりアメリカ以外では本は禁止されていないようなのだ。さらには全ての州で実施されているかもわからない。(大麻が禁止されている州と合法な州があるみたいなもの。)極端な話、単なるどこかの街の条例みたいなものかも知れないのだ。それにしては物騒な条例ではあるが。
 また、通常「反知性主義」と言われるものは本来アメリカのプロテスタント社会に特有のものであって、キリスト教的な一種の原理主義である「リバイバル(信仰復興運動)」に基づくとされている。したがって宗教的な視野狭窄とは切っても切れないはずなのだ。ところが本書においては聖書も焼却の対象とされている。これはどうしたことかと思っていたのだが、結局のところは先ほど書いたように考える力や思想を持たせない生権力みたいなものというわけだ。「焚書をテーマにしていながら“物体としての書物”にはこだわっていないのが不思議」という意見もあったが、これがその理由なのかもしれない。
 なお本書が発表された1953年は東西冷戦の真っ最中であり、朝鮮戦争や赤狩り(マッカーシズム)など社会不安が多い時代だった。また核戦争により一瞬で世界が滅んでしまうことへの強い不安が蔓延していた。(これは『虎よ、虎よ!』読書会での中村融氏による指摘に共通する内容。)そのためラストで街が爆撃で滅びるシーンは核戦争の暗示であるとともに、死亡したと見做され森の中に隠れ住んでいた人々が知識を携えて復活したり(=死者の復活)モンターグが街の最期を幻視するシーンは、ヨハネの黙示を象徴しているのではないかという意見があったことも付け加えておきたい。

 詩人としてのブラッドベリに着目した話題もあった。本書がなぜこんなに結論を曖昧なままにしているのかについてだが、これは著者が計算してやったことではなく、単にブラッドベリはプロットを組み立てるのが苦手だからなのだそう。(『ブラッドベリ年代記』を翻訳された中村融氏からのコメント。)著者は個々のエピソードやイメージ喚起力には格段に優れているが、実はプロット作りはもともと上手くないのだそうだ。本書も最初は中篇として発表されたものであり、その段階でラストまで書かれていたひとつの完成品だったらしい。もともと長篇化に耐えられるほどしっかりしたプロットではないのにエピソードを追加して膨らませたせいで、あちこちに細かな綻びができてしまったらしい。
 個人的な話になるが、ブラッドベリ作品におけるセンス・オブ・ワンダーの本質は実は「一言で語れる設定」にこそあるのではないかと常々思ってきた。しかしそれがプロットの弱さの裏返しだったとは。とても新鮮で面白い意見だ。そう考えるとした場合、ブラッドベリが得意なオムニバス作品(例:『火星年代記』や『塵よりよみがえり』など)を”不完全な長篇”としてみてみるのも面白いかも知れない。
 次は本書の曖昧さをつくるもうひとつの要因について。それはブラッドベリのテクノロジーに対するある種のこだわりなのだそうだ。本書では映像やコミュニケーションツールといった新メディアが否定的に描かれており、本書を読む限りブラッドベリはテクノロジーが嫌いなのかと思っていた。しかし中村氏によれば実はそうではなく、テクノロジーが大好きなのだそうだ。ただしここで注意点がひとつある。それはブラッドベリが好きなテクノロジーには条件があるということ。あくまでも子供時代から慣れ親しんでいて自分で好きにできるようなテクノロジーだけが好きなのであって、理解できないような新しいテクノロジーは嫌い。そこらへんにこそ、本書で描かれるテクノロジーの切り分けにいまひとつ曖昧さが拭えない理由に違いない。
 中村氏からは他にも「ブラッドベリ作品では象徴が重要な役割を果たす。象徴性を見逃すと大事なものを読み落とす」とか、「火は多様な意味を持つが主に破壊を司る。一方で水は生命や救済(洗礼)で対になっている」「昼と夜も対立。火は夜に燃やす」といった面白い見方を教示いただいた。
 また別の方からは本書が図書館学を勉強する時に必ず出てくる作品だということや、ベンジャミン・フランクリンがアメリカで初めて有料の図書館を作った人物だという話を教えて頂いた。このように全く思いもよらなかった意見や知識に出会えるのが、まさに読書会の醍醐味といえるのではないだろうか。

 長くなったが、恒例の「次に読むなら」を挙げて終わりとしたい。
■ブラッドベリ作品から
 『火星年代記』/『刺青の男』/『何かが道をやってくる』/『10月はたそがれの国』
■その他の小説
 『第六ポンプ』(パオロ・バチガルピ)/『キャッチ=22』(ジョーゼフ・ヘラ―)/『1984年』(ジョージ・オーウェル)/『ゲルマニア』(ハラルト・ギルバース)/『肩をすくめるアトラス』(アイン・ランド)/『すばらしい新世界』(オルダス・ハックスリー)/『時計仕掛けのオレンジ』アントニイ・バージェス/『侍女の物語』(マーガレット・アトウッド)/『エドウィン・マルハウス』(スティーヴン・ミルハウザー)/『バルザックと小さな中国のお針子』(ダイ・シージエ)/「バベルの図書館」(ホルヘ・ルイス・ボルヘス)(『伝奇集』所載)/『月世界小説』(牧野修)/『ハーモニー』(伊藤計劃)『図書館戦争』(有川浩)/『3月は深き紅の淵を』(恩田陸)/「オペラントの肖像」(平山夢明)(『独白するユニバーサル横メルカトル』所載)/『ファーレンハイト9999』(浅倉勲)/『僕の妹は漢字が読める』(かじいたかし)
■その他
 『街場のメディア論』(内田樹)/『光る風』(山上たつひこ)(漫画)/『フール・フォー・ザ・シティ』(永野護)(漫画)/「リベリオン」(映画)/「突然炎のごとく」(映画)/「サイコパス」(アニメ)/「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」(アニメ)

<追記>
 SF読書会は設立の経緯もあってミステリー読書会からの参加者も多いのだが、いかにもミステリーファンらしいコメントもあった。例えばクラリスはまだ生きていて正体はモンターグに送り込まれたスパイなのではないかという説や、クラリスが死んでいるとした場合、彼女を殺したのは誰か?という犯人捜しの愉しみ方。これは考えもしなかった読み方なので面白かった。
 またある女性の方からは「スパイスの香りなど五感に訴える描写が素敵」「フレグランスを作りたくなる」といったコメントもあり、2次会では『華氏451度』をイメージしたジャムを作りたいというお話も聞かせていただいた。なんだかこれまで知らなかった新しい世界が開けていくようで愉しい。

<追記2>
 第4回の読書会も開催日時と課題本が決定しています。
 日時) 2016年1月23日(土) 13:30受付開始、14:00~16:45読書会、(17:00~2次会)
 場所) 名古屋駅前 ウインクあいち会議室
 課題本)『ゼンデギ』グレッグ・イーガン/ハヤカワ文庫

 ※詳細は近くなりましたらツイッターおよびスタッフホームページにてご案内します。
   多数の方のご参加をお待ちしています。

2015年7月の読了本

 今月はイベントが2つあったのでいつもよりさらに本が読めず。もうちょっと頑張らねば。

『街角の書店』 中村融/編 創元推理文庫
 翻訳家の中村融氏によるオリジナルアンンソロジー。中村氏のアンソロジーはどれも面白くて好きだ。今回は副題に「18の奇妙な物語」とあるとおり、いわゆる“奇妙な味”の短篇を集めた作品集になっている。
名アンソロジストによる奇妙な味の短篇集。味付けはどちらかというとSF寄りで且つすこし残酷。何とも意地が悪くて気味の悪いものも中にはある。読んでいるうち、ブラウンやシェクリイにどっぷり浸かった中高生の頃を思い出した。なお収録作は次の通り。
 「肥満翼賛クラブ」ジョン・アンソニー・ウェスト
 「ディケンズを愛した男」イーヴリン・ウォー
 「お告げ」シャーリイ・ジャクスン
 「アルフレッドの方舟」ジャック・ヴァンス
 「おもちゃ」ハーヴィー・ジェイコブズ
 「赤い心臓と青い薔薇」ミルドレッド・クリンガーマン
 「姉の夫」ロナルド・ダンカン
 「遭遇」ケイト・ウィルヘルム
 「ナックルズ」カート・クラーク
 「試金石」テリー・カー
 「お隣の男の子」チャド・オリヴァー
 「古屋敷」フレドリック・ブラウン
 「M街七番地の出来事」ジョン・スタインベック
 「ボルジアの手」ロジャー・ゼラズニイ
 「アダムズ氏の邪悪の園」フリッツ・ライバー
 「大瀑布」ハリー・ハリスン
 「旅の途中で」ブリット・シュヴァイツァー
 「街角の書店」ネルスン・ボンド
 有名作家から知る人ぞ知る作家までバラエティに富んでいるが、自分の好みからすると中でも「アルフレッドの方舟」「遭遇」「ナックルズ」「古屋敷」「ボルジアの手」あたりだろうか。

『ビットとデシベル』 フラワーしげる 書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)
 翻訳家や作家や音楽など多方面で活躍する西崎憲氏が、「フラワーしげる」の雅号(この場合は雅号でいいのかな?)で発表した短歌集。短歌といっても五・七・五・七・七で詠む定型ではなく、たとえば尾崎放哉や種田山頭火のような自由律短歌でとても面白い。濃密な内容からすると、あるいはJ・G・バラードの濃縮小説のような感じといっても良いかもしれない。短歌がこんなに自由なものとは知らなかった。同じ著者による短篇集『飛行士と東京の雨の森』にも繋がる良質で密度が高い異界が広がっている。
 たとえばこんなもの。
 「むかしより小さくみえるな 子供のころこのへんに住んでいたんですか いや」
 あるいはこういうのも。
 「かならず来いと死が遠くからさけびかならず行くとさけびかえす夜かな」
好きな歌は人によって全然違うだろうし、読めば心ざわついて仕方ない人もいるかも知れない。異化とか脱臼とか不穏とかそういうもの。笑いと辛さと、ちょっと不気味さもある。気に入った歌を書き出して眺めては悦に入っているのが愉しい。

『月世界小説』 牧野修 ハヤカワ文庫
 言語と物語と神をテーマにした、そしてどこか懐かしい感じもする小説。帯にも『神狩り』(山田正紀著)へのオマージュであると書かれているし、解説を山田正紀氏自身が書いているところからしても、まさに70年代日本SFの正統的な後継といえそう。古代英雄神話から聖書まで貪欲に取り込んで、最後は「新世紀エヴァンゲリオン」を経て永井豪「デビルマン」から「手天童子」へと着地するという、サービス精神にあふれた展開。もしくは「サピア・ウォーフ仮説」に松岡正剛の”日本という方法”をくっつけて『マインド・イーター』をやっているといってもいい。しかもそれだけではなく、当時世間を震撼させた時限爆弾のテキスト「腹腹時計」を模した冊子「ハラハララジヲ」や、あるいは「ブント」ならぬ「ブンド」など、全共闘時代を彷彿とさせる言葉をわざと頻出させるという凝りよう。テーマも作風もまさしく懐かしいつくりなのだが、それなのにどことなく「ラノベっぽい」感じがするのは、第一世代の日本SF作家が開拓してきた水脈が、おそらくその後の漫画やアニメやライトノベルの根柢に流れているからなのかもしれない。その一方では、主人公がLGBTだったりするのがいかにも現代風で面白い。エンタメ小説の冒頭にプライド・パレードが登場する時代なのだ。YOUCHAN氏による装画も格好良くて、自分好みの作品だった。

『華氏451度』 レイ・ブラッドベリ ハヤカワ文庫
 読書会のために数十年ぶりに再読した。(正確には伊藤典夫氏による新訳で読み直した。)ところが自分の記憶にある話と全然違う。3分の2ぐらい読んでも「あれ、こんなだったっけ?」という感じ。とんと記憶にないシーンが続く。自分はいったいぜんたい昔何を読んだのだろうと思いながら読んでいくと、残り40ページ(=全体の約7分の1)ほどになっていきなり懐かしいシーンが出てきた。そして脳内イメージがそれまでのモノトーンから一気に総天然色へと変わる。結局のところ、この場面が余りに印象強過ぎて他を忘れていたようだ(笑)。「書物を読むことが禁じられた未来世界で、秘かに隠し持つ人々とそれを燃やす“昇火士”の主人公の苦悩」といった簡単な設定紹介ではとても語りつくせない、長所も短所も兼ね備えたまさに読書会向けの作品いえるかもしれない。

『西洋中世奇譚集成 魔術師マーリン』 ロベール・ド・ボロン 講談社学術文庫
 5世紀頃のブリタニアを舞台に、パンドラゴンとユテルという兄弟王に親しく仕え数々の予言と奇跡を見せたマーリンの生涯を、アーサー王の誕生まで綴った本。後の世に書かれた円卓の騎士や聖杯伝説を題材にした全ての物語のもとになった作品らしい。なんせ13世紀前半に書かれた古い物語なので翻訳はさぞかし大変だったと思うが、平易な日本語に直してありとても読みやすい。ただ、自分はキリスト教の教義にも詳しくないし面白がって読んでいるだけだが、本書が書かれた当時はまだローマカトリックの権威も確立していなかったはずで、ひとつ間違えると異端とされるおそれはなかったかなど、学術的な面を考え出すときっと色々と深い話なのだろう。

『モンテ・クリスト伯(四・五)』
 久しぶりに続きを読んだ。全7巻のうち今月は後半の2冊。エドモン・ダンテスが着々と進めてきた準備が完了し、いよいよ復讐の幕が上がる―― とおもったら、悪人の子息が善人だったり伯爵がそれを助けたりして展開が目まぐるしい。登場人物たちがそれぞれの思惑で行動して予想もしない展開になっていき、横道に逸れながらもページをめくる手を止めさせないのはさすが。いかにも大衆文学の王道といった印象。白井喬二著『富士に立つ影』はもしかしてデュマの影響を受けてるのかな?とも思った。
脳梗塞で半身不随になったノワルティエ老人の描写が「すでに四分の三は墓にはいりかけているこの生ける屍にとって」と酷かったり、モンテ・クリスト伯とモルセール夫人の邂逅が切なかったりして、はらはらどきどきとしながら次の巻へと続く……。

『寄港地のない船』 ブライアン・W・オールディス 竹書房文庫
 オールドSFファンには懐かしいビッグネームが1958年に発表した第一長篇が、まさか今になって新刊で出るとは思わなかった。さっそく読んでみたところ、これはまた懐かしい味わい。ハインライン『宇宙の孤児』と同じ「世代宇宙船」というアイデアを使った作品だが、さすがはオールディスひとひねりもふたひねりもしてある。二転三転するストーリーはどことなくJ・ヴァンス『ノパルガース』も思わせるとか色々書きたいことは有るけど、まあ要するに自分が中高生の頃に夢中になった50年代の名作SF群のひとつということだね。愉しかった。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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