中入り/読書とブログを巡るあれこれ

 今回は趣向を変えて、ちょっとした思い出話などを。
 この読書ブログを始めたのは2010年の2月末だから、かれこれ通算で5年以上になる。最初のうちは週2回の更新をしていたが、仕事が忙しくなったので今は週1回が基本。ときどき遅れたりもするけれど、飽きっぽい性格なのに我ながらよく続いているものだと思う。(笑)
 始めた直接のきっかけは、読んだ本の内容を忘れないための備忘録代わりだった。長年ノートにつけていた読書メモをワープロに置き換えたので、そのままにするのも勿体ないのでネットで公開しようと、ホームページを開設していた友人に新年会であったときに相談をもちかけたのだ。そうしたらホームページよりブログの方が簡単だからとアドバイスをもらい、あれこれ準備に手間取りながらもおよそ2か月後には公開までこぎつけることができた。
 当然のことながら初めの数か月は訪問してくれる人など殆どいない。それでもずっと続けていたのは、定期的な更新が大事だと友人から教えてもらっていたことと、もうひとつやはり備忘録を兼ねていたから。(そうでなければ面倒になってそのうち止めてしまっていたかもしれない。)
 その頃の愉しみは取引先の読書好きな人と、このブログをネタにして話をすること。それまでは日常生活のなかで本の話をすることなんて皆無に等しかったから、それでも充分に嬉しかった。盆と正月に友人と会って本の話をするのが唯一の愉しみだった時からすれば、読書環境は大きく変化したといえるだろう。
 読書環境が大きく変わった次のきっかけはSNS(ツイッター)を始めたことだった。実をいうと最初のうちはツイッターなど全く興味が無く、ブログについて教えてくれた友人に誘われるままツイッターのアカウントを作ったのも、彼らと簡単に連絡がとれるということ以外には、「ツイッターからブログを訪問してくれる人が多い」という程度の理由からだった。
 ところが初めてみたところ、その魅力にどっぷり浸かってしまった。なんせ作家や翻訳家、書評家や出版社の方たちと直接やりとり出来るのがすごい。(もちろん気さくな々方だからこそ応じて頂けるのではあるが。)話をするうち読書好きな仲間も増えていき、いつのまにか「本好きクラスタ」とでもいうべきタイムラインが出来上がっていた。
 もうこうなってしまった以上、ツイッターを止めようなどという気はさらさら無い。もはやブログの宣伝の為ではなく、ツイッターで好きな本の話をしたり気になる新刊情報をいち早く手に入れたり、あるいはそれまで聞いた事も無かった本について教えてもらえるのが愉しくて堪らない。
 そうこうするうちツイッターで知り合った皆さんと東京でオフ会を開いたり、あるいは名古屋で開かれている翻訳ミステリー関係の読書会に参加するようになり、以前は考えられなかったほど本をきっかけにしたコミュニケーションの場が広がって今に至っている。現在では年に1、2度は東京に遠征してオフ会で濃い本の話をする他、数か月に一度は何かしらの読書会に参加したり、あるいは本に絡んだイベントに参加したりと、どっぷりと浸かってしまっている。おそらく休日の半分くらいは何かしら、読書に関する活動をしているのではないだろうか。(そして残りの時間は本を読む時間にあてている。/笑) いやあ、この年になってこんなに愉しいことがあるなんて、人生まだまだ捨てたもんじゃないね。(笑)
 しかし思えばすべてはこのブログをひっそりとオープンした時から始まっているわけで、おおもとになったこのブログは、これからも続けられる限りずっと続けて行きたいものである。

 いつもながら好き勝手書き散らかしているブログですが、いつもご訪問いただきありがとうございます。おかげさまでいつの間にやら訪問者数も90000を超え、もう暫くしたらカウンターが一周しそうな勢いです。
 本のジャンルもバラバラでまとまりのない記事ばかりですが、宜しければたまには覗いてやってくださいませ!
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『翻訳ミステリー大賞シンジケート名古屋読書会/第14回』

 ※S・キング『シャイニング』の中身に触れています。未読の方はご注意ください。

 6月20日に開催されたミステリー読書会にまたまた参加した。今回の課題本はスティーヴン・キング『シャイニング(上・下)』(文春文庫)。ちょうど続篇の『ドクター・スリープ』が出るのにあわせて、翻訳者の白石朗さんもゲスト参加で来ていただくなど、いつものように大盛況だった。ほんと、この読書会は熱気にあふれて愉しい会だよなあ。申し込みがすぐに埋まってしまうほどすごい人気なのも頷ける。(ただし今回はモダンホラーということで、女性参加者の出足は若干鈍かったようだが。/笑)

 参加者はゲストやスタッフも入れて全部で42名。グループを3つに分けて前半はグループ毎でのディスカッション、後半はホワイトボードを前にその各グループの内容を司会者が報告し合うという形式は以前の読書空きレポートで言及したので今回は省かせていただくが、手慣れたスタッフの方々のおかげでテキパキと進行されるスタイルはとても気持ちがいい。
 自分はK氏の司会によるグループに割り振られたのだが、ここには出版社でキングの本の編集担当をされているN氏が同席されていたので、たとえば「『シャイニング』はキングのターニング・ポイントになった作品」といった興味深いお話を伺うことが出来たのは収穫だった。
 もともとミステリー読書会は女性の比率が多めなのだが、今回のK班でも男は14名中4名しかいない。そのせいかキングはおろかホラー小説自体が初挑戦という方も多くいて、そのおかげで「モダンホラーとはいったい何か?」といった普段あまり考えないことも改めて考えることが出来た。(ちなみに自分はキング作品を半分くらい読んでいると思うが、長いのが億劫になって最近作までは手を出していない。そんな中でも『シャイニング』は『呪われた町』や『IT』『グリーンマイル』と並んで好きな作品の一冊だったので、今回の読書会は個人的にとても愉しみだった。)

 とまあ、前振りはこれくらいにして具体的な話に入ろう。
 『シャイニング』といえばJ・ニコルソンが父親のジャック役を演じたS・キューブリック監督の映画があまりにも有名(*)。そのせいかツイッターによる事前のやりとりでは「怖いから読めそうにない」という人がとても多かった。自分も含めてキングファンは懸命に「コワクナイヨー」と云っていたのだが、いざ読んでみるとやはり「それほど怖くなかった」という声が多かった。(K班では半分くらいだったろうか。)映像だとショッキングなシーンが否応なく目や耳に飛び込んでくるが、小説では自分が想像(場面の脳内イメージ)を膨らませない限りは大丈夫。本邦の怪談とは違ってホラーは意外と怖くないのだ。
 話を聞いてみたところ、原作では逆に単なる「お化け屋敷もの」ではない部分の重みが、読んでいて却って恐ろしかったという声が特徴的。自分もこの点はまさにそのとおりで、上巻でジャックのダメ男ぶりがこれでもかと描かれるところなどは、ある程度、年を取って家庭をもって初めて解る部分もあり、身につまされる辛さと怖さがあった。むしろ下巻になって完全にあちらの世界に取り込まれてしまってからは、単なる(といっては語弊があるが)「化け物vs主人公」の構図で読めるので、すらすらと面白く読めてしまう。参加者の皆さんも同じような感想を持たれていたので大いに気をよくした。(笑)

  *…扉を打ち破って隙間から横目で覗く“あの写真”。誰もが記憶にあるのでは?

 「ホテルに巣食う悪霊たちが、会社組織のようなヒエラルキーを持っているところが面白い」とか「ボイラーのイメージがずっと通底音のようについて回るのが、コニー・ウイリス『航路』の鐘の音のようで巧い」とか、もしくは「後半になって心が追いつめられていくにつれ句読点が減っていくのが、緊迫感があっていい」など、自分が気が付かなかった点について話題に挙がるのが読書会の醍醐味といえる。
 また、「“すずめばち”は人間に害をなす純粋な悪の暗喩であって、“すずめばちの巣”はホテル。また、いくら巣を壊してもすずめばちがいる限りどこかにまた新たな素が作られる」という説明は、自分の中でモヤモヤしていたことを上手く言葉にしてもらえたようで嬉しかった。
 キング担当編集者のN氏からは先の話の他にも「キング作品は優れて視覚的なので、想像をよくする人の方が怖いのではないか」という発言や、「ボイラーはあれほど何度も言及されるのに後半になるとテンポが速いのですっかり忘れてしまい、最後になって“何か忘れている”というダニーの言葉と共に思い出される構成が巧い」といった、プロの視点から見た意見がとても参考になった。キング作品には「地味なキング」と「派手なキング」と「怖いキング」があるというのも、これから読み進める人にとっては結構参考になるのではないだろうか。
 割と多い疑問としては「トニーっていったい誰?」というのが多かったが、「すこし年上の自分自身」(注:トニーはダニーのミドルネーム“アンソニー”の愛称)という意見が出されて納得している方も多かったので、解らないならわからないなりに読書会に出るという意味もあるのだと思う。(もちろん「トニーはダニーの生まれてこなかったお兄さんではないか」という解釈もあったりして、それはそれで面白いのだが。)
 他には、前半のジャック一家を巡る鬱展開は「発言小町」があったらすべて解決したのではないか(笑)というぶっとんだ意見もあって、全体的に(ホラー読書会にも関わらず)笑いに包まれたものだったのは、いかにもミステリー名古屋読書会らしいところだと思う。
 休憩を挟んでの他の2グループとの意見交換でも、概ね同様の意見が出ていたので、割と今回の読書会は皆の意見が一致した感じだった。まとめると次のような感じだろうか。

■伝統的な「館もの」のアイデアを現代に移し替えたホラーでありながら、アメリカ社会が抱える様々な問題も抜群のリーダビリティをもって書き込まれている重層的な作品。キングにとっては実体験をが盛り込まれた特別な作品であるとともに、ここから本当の“キング・オブ・ホラー”が始まった記念碑的な作品なのではないだろうか。

 ここから派生して色々な作品を紹介しあう「次に読むなら」は読書会の名物になっているが、今回も個性豊かな作品が上がったので、それを紹介して終わりとしよう。(以下、順不同。)
 ポー「赤死病の仮面」、シャーリィ・ジャクスン「丘の屋敷」(「たたり」「山荘綺談」)、リチャード・マシスン「地獄の家」、ロバート・ブロック「サイコ」、ウイルキー・コリンズ「幽霊ホテル」、デヴィッド・アレル「廃墟ホテル」、F・ポール・ウィルソン「ザ・キープ」、アーサー・ヘイリー「ホテル」、ジェニファー・イーガン「古城ホテル」、ノーラ・ロバーツ「恋人たちの輪舞 イン・ブーンズボロ」、アーナルデュル・インドリダソン「湿地」、シャーリィ・ジャクスン「ずっとお城で暮らしてる」、H・R・ウェイクフィールド「ゴースト・ハント」、ジョン・アーヴィング「ホテル・ニューハンプシャー」、マーヴィン・ピーク「ゴーメンガースト」、ヨーゼフ・ロート「皇帝廟」、コニー・ウイリス「航路」、クライブ・パーカー「血の本シリーズ」、ジョン・A・キール「プロフェシー」、ダニエル・キイス「24人のビリー・ミリガン」、ギリアン・フリン「ゴーン・ガール」、ジョー・ヒル「NOS4A2」、クーンツ「戦慄のシャドウファイア」、ティプトリィ「輝くもの天より堕ち」、ルース・レンデル「ロウフィールド館の惨劇」、筒井康隆「七瀬シリーズ」、小野不由美「残穢」「悪夢の棲む家」、景山民夫「ボルネオ・ホテル」、宮部みゆき「おそろし」「レベル7」、宮沢賢治「注文の多い料理店」、高村薫「照柿」、恩田陸「わたしの家では何もおこらない」、若竹七海「遺品」、久世光彦「1934年乱歩」、綾辻行人「霧越亭殺人事件」、小池真理子「墓地を見下ろす家」、菊地秀行「妖戦地帯」、古田足日「おしいれのぼうけん」、今市子「百鬼夜行抄」、吾妻ひでお「失踪日記」「アル中病棟」、キング「ザ・スタンド」「IT」「ドクター・スリープ」「デッドゾーン」「ランゴリアーズ」「グリーンマイル」「ニードフルシングス」「トミー・ノッカーズ」「11/22/63」「ミザリー」「トム・ゴードンに恋した少女」「ゴールデン・ボーイ」「ドロレス・クレイボーン」「ペット・セマタリー」「ファイアスターター」「1408号室」etc.

 以上、長篇と短篇が入り混じって、もしかしたら著者名や題名にもすこし間違いがあるかもしれないがご容赦。それにしても、これほど次々とお薦め本が出てくるのも、いかにもキングらしいね。書き込みがとにかくすごいので、読んだあとにはつい何か語りたくなってしまうのだろうなあ。

<追記>
 先ほども書いたが、今回はモダンホラーというものについて自分なりに考えが整理できたのが収穫だった。読書会レポートとは外れてしまうが、せっかくなので忘れないうちに書き留めておきたい。

 欧米において元来ホラーというジャンルは、即物的・肉体的な恐怖を描くものとして、(編集のN氏の話によれば)比較的“下世話な読み物”として発達してきた。ここら辺は文人の娯楽として怪談がもてはやされた日本とは若干違っているかも知れない。ともあれそういった元々のホラーは例えばゴシックホラーに代表されるように、「現実世界の外側には人間の住む世界とは別の“超自然的な世界”があり、それは人間にとって脅威や害悪となりうる」という認識と、人間の力では食い止めることのできないそれらに対する恐怖が背景にある気がする。キングはそこに人間の心理や等身大の現代アメリカ社会が抱える病理といった要素を加えてモダンホラーというジャンルが生まれた。特にキングの場合、アメリカの一般的な白人社会から見た視点で、ピューリタン的な罪の意識と救済の要素が(本人が意識する・しないに関係なく)行間から滲み出ているのではないだろうか。
 『シャイニング』で初めて言及された「かがやき」というのは、単なるテレパシーや未来予知といった超能力ではなく、もっと倫理的な“善”とでもいうべき存在と親和性が強い概念のように描かれている。まさしくプロテスタントが依拠するキリスト教的な天上からの光と善にもつながるもの。(**)そしてこれは後の『IT』では更にパワーアップして描かれ、『グリーンマイル』や『ダーク・タワー』でもずっと物語のテーマとして扱われてきたものとも言える。
 こう考えると『シャイニング』においてジャックがホテルに取り込まれてしまうということは、すなわち闇の眷属となり魂の救済から永遠に遠ざけられる事に等しいのではないか。その意味では、ダニーを追いつめたジャックが最期の一瞬に自分を取り戻し、「ここから逃げるんだ。急いで。そして忘れるな、パパがどれだけお前を愛しているかを」と云うシーンこそが、作者とその分身であるジャック、そして大好きな父親ときちんとした別れを告げることでダニーの救済にもなっているのだと思うのだが。
 対してキューブリック版『シャイニング』の場合、ダニーの計略にまんまと引っかかって凍死したニコルソン演じるところのジャックは、ラストシーンでホテルの人々と同じ写真に収まってしまっている。これでは救われない。『シャイニング』でキングが描きたかったものが、深い闇とそこに差す一条の光の輝きなのだとすれば、キングがキューブリックの映画を許せなかったという話もわからないでもない。

  **…読み取ろうと思えば、例えば雪と氷にとざされた極寒のホテルをサタンが封じ
       られた地獄の最下層になぞらえることも、そしてボイラーの爆発を炎による
       浄化であると見做すことも可能だろう。

 蛇足になるが、原作が映画ほど怖くなかった理由についても少し。ホラー小説の場合、文字を頭のなかでイメージに変えることで恐怖を得る。(注:意味不明の言葉の並びが与える怖さというのもあるが、ここでは省略)ところが怖さは笑いに通じるものでもあるから、恐怖の正体を客観的に描こうとすればするほど、怖いというより笑えてきてしまう事態も生じてしまう。小説の場合は即物的な恐怖より、むしろ気配や刹那的な恐怖を描く方が向いているのだろう。だからベタに恐怖の正体を描く西洋のホラー小説より「出るか?まだか?出た―!」という本邦の怪談の方が数等怖い。(例えば泉鏡花の「眉かくしの霊」や「海異記」といった作品がそう。)即物的な恐怖は映画の方が得意なのだ。あれは恐怖というよりショックだから。姿を見せてしまった恐怖はもはや恐怖ではなく単なる怪物との対決になってしまう。だからこそ『シャイニング』の下巻はジェットコースターのようなスリルはあっても上巻ほどには怖くなかったわけだろう。これは映画「エイリアン」と「エイリアン2」にも似た関係かもしれない。

『明日のプランニング』 佐藤尚之 講談社現代新書

 著者の肩書きは「コミュニケーション・ディレクター」。今ひとつどんな職業かイメージが湧かなかったが、著者略歴をみて合点がいった。もともとは電通でCMプランナーなどを手掛けていたとのことで、要は広告やマーケティング関係の仕事というわけだ。本書もどちらかというと一般読者というよりは、広告プランナーやマーケッターを想定して書かれているような雰囲気がある。(ちなみに副題は“伝わらない時代の「伝わる」方法”。)
 ところで自分は“佐藤尚之”氏の本を読むのは初めてなのだが、実は氏の著作は以前から好きで読んでいた。但し“さとなお”というペンネームで書いていた食べ物エッセイの著者としてだ。氏は早い時期から自身のブログを立ち上げ公開するなど、ネットへの造詣が深い。そのブログでアップしていた記事が『うまひゃひゃさぬきうどん』や『沖縄やぎ地獄』など、いくつか書籍化されていたというわけ。

 ではさっそく本書の中身について紹介しよう。
 広告業界ではここ数年、広告を作っても消費者に伝わっているという手応えや実感がないと云われているらしい。著者はそれは半分だけ正しいと云う。著者は次のような仮説を述べる。

■2005年ごろから始まったインターネットの爆発的な普及により、生活者は情報への接し方によって「ネットを日常的に利用していない人」と「ネットを日常的に利用している人」の2種類にわかれてしまっている。
■「ネットを日常的に利用していない人」は今でも昔と変わらずマスメディアからの情報のい頼っており、従来のマーケティング手法がまだまだ通用する。
■しかし「ネットを日常的に利用している人」は日常的に大量の情報にさらされているため、これまでのように広告を出したとしても埋没してしまい、目に留まるチャンスはほとんどないといって良い。(またバナーを工夫して目立つようにしても、煩わしく思われて悪印象をもたれるので逆効果。)

 上記の三つめの内容が、広告業界で現在ささやかれている話の大元ということだろう。ただしこれらは仮説といっても、何の根拠も無い思いつきというわけではなく、著者は電子情報通信学会誌や雑誌WIREDの記事からデータを引用して説明している。それによると2005年ごろから始まった”情報洪水”は年を追うごとに激しさを増し、ついに2010年には世界中の情報量の合計が「ゼタバイト」のレベルに達したらしい。「ゼタ」がどういう数字かというと、「世界中の砂浜にある砂の数と同じ」とのこと。つまり1年間で世界中を駆け巡った情報の量は砂浜の砂の数ほどに増えているのだ。そんな世界ではいくら広告を流そうが、砂浜の砂一粒ていどにしか効果が期待できない。
 さらに言えば、日頃からネットを日常的に利用している人たちには、テレビCMも大した意味をなさない。番組はハードディスクに保存して興味のあるものしか観ないし、新聞を取らずニュースはネットで済ませる場合も多い。かと言ってPCのポータルサイトに広告を出してもスルーされてしまう。さらには話題になった人や出来事も、あっというまに過去のこととなり忘れ去られていく......。マーケティングに携わる人たちにとっては、とんでもなくやりにくい世の中になったものだ。(著者はこのように常日頃から大量の情報に接している人たちを称して、“砂一粒の人”と呼ぶ。)
 ただここで注意しなければいけないのは、ネットを日常的に利用していない人もまだまだいるという点。著者がざっくり計算したところでは、「ネットを毎日は利用していない人≒5670万人」「検索を日常的に利用していない人≒6000万人~7000万人」「ソーシャルメディア(SNS)を利用していない人≒7000万人」ぐらいはいるらしい。これらの人々はたとえば新聞を主な情報源とする高齢者であったり、あるいは新聞も読まずテレビや口コミから情報を得るマイルドヤンキーなどいくつかのタイプに分かれるが、いずれにせよ従来と同じ方法でアプローチすれば良い人々ということになる。
 すなわち「ネットを日常的に利用していない人」と「ネットを日常的に利用している人」というふたつのグループの人々に対しては、それぞれ全く違うマーケティング方法を取らなければいけないというわけだ。では“砂一粒の人”に対してはどのようなアプローチをすればよいのだろうか。結論から言うと、これまでの標準的な広告手法である「アテンション(注意喚起)とインパクト(強烈な印象)」を目指るのでなく、「インタレスト(興味をもたせる)とシンパシー(共感を呼ぶ)」を目指した手法をとるべきと云うのが著者の意見。
 そしてそのために一番有効なチャネルは何かというと、これまた意外なことに「友人知人のネットワーク」なのだそうだ。なぜそのような事になるかというと、膨大な量の情報を検索して必要な情報を得るよりも、自分の好みを理解したうえで情報提供をしてくれるのが友人知人だから。彼らのフィルターを通すことで、膨大な情報の海の中から無駄なく合理的に、自分に必要な情報だけを得ることが出来るのだ。これは言われてみれば自分にも思い当たる節がある。ツイッターで流れてきた情報を“お気に入り”に入れておいて、あとから買う時に参考にする。あるいは自分の知りたい情報を流して、親切なフォロワーさんからの返信を待つ。こういった事をうまく活用すれば、“砂一粒の人”に対してもまだ広告は有効な手段となり得るのだと著者はいう。いやむしろ、この方法以外に有効な手段は無いのだと。
 うーん。ネットを利用していない人々に流す広告よりもはるかに手間がかかり非効率ではあるが、致し方ないのだろうか。それにしても高度IT化社会で最良の広告媒体が「友人知人のツテ」というのは、なんだか逆説的で面白い。
 新しい商品やサービス、コンテンツが出たら、まずは「(その分野に)興味や関心があるファン」に伝え、彼らから友人知人に広げてもらう。ただしそれはお仕着せの宣伝を“転送”(ツイッターの場合ならリツイート)してもらうのでなく、彼らに心からの興味関心をもってもらえるものであること。そして素直な言葉で友人に推薦してもらえる(=つまり知り合いに言いふらしたくなる)ような環境を整えることこそが、今後ますます発達する情報化社会において唯一通用する「明日のプランニング」であるというのが、本書における著者の結論なのだ。うん、なるほど。マスメディアの衰退著しい昨今、物量作戦ではなくゲリラ戦を仕掛けることこそが大事という趣旨はよく理解できる。そして趣味嗜好の強い商品ほど有効であるような気もする。最初は軽い気持ちで手に取ったのだが、意外と読みごたえがあるいい本だった。

<追記>
 補足として、自分の趣味の世界で本書の主張によく似た事案が二つほどあったので、併せてご紹介しておこう。まずは『教皇ヒュアキントス』という短篇集についてのエピソードから。一説によると、日本においては(自ら情報収集に努めてコンスタントにハードカバーの本を買うような)幻想文学ファンは、全国でわずか2000~3000人ほどしかいないと言われている。そんな中、これまで日本では殆ど知られてこなかったがとても素晴らしい作品を書いた、19世紀ヨーロッパの幻想小説家ヴァーノン・リーの作品集が、翻訳家の中野善夫氏の手によって訳されたと思って頂きたい。
 氏はこの素晴らしい作家を出来るだけ多くの人に知ってもらいたいと考え、中身にふさわしい美しい装丁が施されたハードカバーの本であるにも関わらず、版元と交渉して破格の値段(といっても5000円弱するが)で世に出した。しかしこのままでは全国に散らばっているコアな幻想文学ファンの耳には届かない。耳に届かなければ当然買ってはもらえない。ではどうしたら多くの人にこの本のことを知ってもらい、手に取ってもらえるのだろうか ――といった経緯で、この本の出版に関わった多くの人の協力により、ツイッター上で様々なイベントが繰り広げられることになった。
 まずは装画と同じ美しい版画の図柄を使った特製しおりを、PCまたはコンビニでプリントアウトできるサービスを行った。ついで幻想系の書籍に強い“古書ドリス”という古書店の協力を得て、装画を担当した版画作家の林由紀子氏の作品展と連動したサイン本の販売を実施。さらには訳者・中野氏の手作り(!)による豆本プレゼントキャンペーンが行われ、ツイッター上でお気に入りの作品を3作つぶやいた人のなかから抽選で豆本が贈られた。(先ほどの古書ドリスでは大手新刊書店よりはるかに多い、なんと100冊以上の『教皇ヒュアキントス』を販売。中野氏からお礼として世界に一冊しかない特製の“饅頭ヒュアキントス”と名付けられた豆本が贈呈された。)
 豆本が当たった読者はそれを部屋に飾って写真を撮りツイッターにアップしたり、あるいは「ヒュアキントスのある風景」と称してファンが自主的に、自分の買った本を本棚に美しく並べた写真を撮るなど、これまでに無かった多層的な“遊び”が繰り広げられた。
そしてこの様子がネットで話題となり、それをきっかけとして『教皇ヒュアキントス』を購入したという声もちらほら聞こえるなど、自然発生的に販促が行われることになった。本当ならば『教皇ヒュアキントス』は本の性質上もっと少ない部数で一部の愛好家だけが買うことになっても不思議では無かったと思うので、この事例などはまさに本書『明日のプランニング』の実践といえるのではないだろうか。ファンを中心にした販促で、しかも心からの推薦があってこそ、これほどまでに売れたと思うのだ。
 次にもうひとつの事例。こちらは中国系アメリカ作家ケン・リュウのSF短篇集『紙の動物園』だ。こちらも『教皇ヒュアキントス』と同様、訳者の古沢嘉通氏のご厚意により表題作(=折り紙で作った動物が登場する)に因んだ「作者と訳者のサイン入り折り紙」という、ファンにはとても嬉しいプレゼントが準備された。応募要領も同じくツイッター上でお気に入りの3作品を挙げるというもので、熱く語るファンの様子をみることで、2000円という比較的高価な本であるにも関わらず、読みたくなって買ってきたという声もツイッター上でちらほら見受けられた。
 (幻想文学ファンほどではないにせよ)少数派である海外SF小説の購入層に対しては、こういったコアなファンを通じた販促がやはり有効なのかもしれない。ファンは面白い作品であれば全身全霊を込めてプッシュするし、かつての角川書店のように広告宣伝費の大量投入によって数十万部のベストセラーを生み出すことがほぼ不可能な今日、ファン発信型のプロモーションすなわち巨大な器を狙うのでなく小さなパイをコツコツと積み上げていくことこそが重要なのかもしれないと思った。一部の愛好家やファンに向けて情報発信することで、そこでの盛り上がりがトレンドワードになり、さらにそれがきっかけで新聞の日曜日の読書欄やテレビで取り上げてもらい、結果的にネットを使わない層にも伝わっていく。そんなことを考えたとき、メーカーにとっては厳しい時代かもしれないが、一個人としてはますます面白い時代になっていくような気もしている。

『ソラリス』 スタニスワフ・レム ハヤカワ文庫

 言わずと知れたポーランドの国民的作家スタニスワフ・レムの代表作である。特に本作は国書刊行会のレム・コレクションで刊行された際に自分が“100点満点”を付けたポーランド語からの原典訳であり、ハヤカワ文庫SFの2000番を記念して収録されたという作品。これは気合も入ろうというものだ。タイミングよく映画「コングレス未来学会議」の公開に合わせて『泰平ヨンの未来学会議』も文庫で復刊されたし、本家のレム・コレクションでも『天の声・枯草熱』が増刷されるなど、このところ突然のレムフィーバーにひとりで喜んでいるところ。
 さっそく再読してみたところ、やはり記憶に違わず大傑作。レムの最高作と呼ぶにふさわしい作品だった。(*)訳者の沼野充喜氏による解説も大変に素晴らしいもので、まさに『ソラリス』の決定版といった仕上がりになっている。では最初に、沼野氏の解説で触れられている内容と結構重なるのではあるが、ここで自分が“満点”を付けた理由についてふれておきたい。

   *…もちろんこれは個人的な感想。他に『天の声』や『完全な真空』それに『砂漠
      の惑星』など別作品を最高作として推す人もいるし、飯田規和氏による『ソラ
      リスの陽のもとに』の方を好む人も知っている。
 
 『ソラリスの陽のもとに』が飯田氏による名訳であることを前提としての話ではあるが、そのうえでロシア語からの重訳であったために『陽のもとに』では削られてしまっていた部分が、本書では(当然ながら)全て訳出されているという点がまず好い。
 解説によれば、削られたのは「怪物たち」「思想家たち」「夢」の三つの章を中心に、全体でおよそ原稿用紙40枚分(7%強)の文章らしい。二冊を並べてざっと見比べてみたところ、ケルヴィンがソラリス・ステーションの図書室でソラリス学の文献を読みふける部分が抜け、そして“実験”を終えたあと暫くのあいだケルヴィンがみた悪夢の描写が、しごくあっさりしたものになっていた。従来訳ではこのあたりが無いことでストーリー展開にはずみがついた感じはするが、かわりに物語の豊かさみたいなものが減ってしまっている気がしないでもない。(たとえば「擬態系生体(ミモイド)」と呼ばれる“海”の形態の描写で、とくに「脊柱」と呼ばれる形状変化について書かれたくだりがごっそりと省かれてしまっている。話のうえでは特に支障があるわけではないのだが......。)どちらを選ぶかは読む人の好みだが、自分にとってはこれらが物語にリアリティを増すための重要な要素であっただけに、新訳版の方がよりいっそう愉しめた。

 そもそも自分は本書に限らず、色々な読み方ができる作品が好きだ。ジーン・ウルフやクリストファー・プリーストの作品なんてまさにそうだし、『百年の孤独』や『ダールグレン』が好きなのも同じ理由。その意味で『ソラリス』も、どんな読み方をしても受け止めてくれる懐の深い作品といえるだろう。
 まずはソラリス・ステーションを訪れた主人公ケルヴィンが遭遇する異様な状況と“お客さま”の正体をめぐるミステリ的な読み方。これは『捜査』や『枯草熱』にも共通するもので、読む側にとっては取っ付き易い。冒頭でスナウトが見せる謎の行動から読む者の心を鷲づかみだ。(笑)
 次はケルヴィンとかつての彼の伴侶であるハリーにより展開する、ラブ・ロマンスとしての読み方。恋愛の心理描写はレムの小説には極めて珍しいのだが、ある意味、極限状況における愛を描くことで、それがもつ根源的な意味を読者に問いかけるものになっている。(ちなみにソダーバーグ版の映画「ソラリス」はテーマをその点に絞ったものと聞いたので、こわくて観ていない。/笑)
 そしてもうひとつが、(おそらく本書の中心的なテーマの)異質なものとのコミュニケーションに関する物語としての読み方。学生時代に『陽のもとに』を読んだ時はまさにこの視点でしか読まなかったし、その上でソラリスが何らかのコミュニケーションを図ろうとしているという“安易な”解釈に飛びついてしまったのは恥ずかしい限りだ。(いや、別に恥ずかしいことはないか。そういうのもまたひとつの解釈ではあるし。)
 今にして思えばそれは、ヘリコプターのパイロットが霧の中で遭遇したという赤ん坊のエピソードや、あるいは本書135ページにある「われわれは宇宙に飛び立つとき(中略)宇宙を征服したいわけでは全然なく、ただ、宇宙の果てまで地球を押し広げたいだけなんだ」そして「そして、宇宙の向こう側から真実が ――人間が口に出さず、隠してきた真実が―― 突きつけられたとき、われわれはそれをどうしても受け入れられないんだ」といったくだりの印象があまりに強く、コミュニケーション(およびその不在)にとらわれ過ぎていた為かも知れない。実際には解説にもあるようにレムは“人間中心主義”や“アントロポモルフィズム(人間形態主義)”を明確に否定しているわけだが。

 ソラリスの海は人間にとってどこまでも理解不能な存在であり、ソラリスを研究することは「群盲、象をなでる」に近い。発見以来、単に自動的に反応を返すだけの原形質(プラズマ)の集まりという見方から、高度で異質な知性をもった生物という見方まで、あるいは崇敬から憎悪の対象までといった、大きな振幅をもって人類に扱われてきたソラリスの海。たとえ人間中心主義による仮説を否定したとしても、その代わりになる答えがあるわけではない。巨大すぎる球面が近くでは平らな壁にしか感じられないように、至高の存在は不可知の壁となって人類の前に立ちはだかる。理解など始めから望むべくもなく、我々に許されるのはただその前で理解しようと対峙し続けることだけ。まさに“天の声”そのものである。
 レム自身は本書の執筆意図として「未知なるもの」との出会いと、そしいて「それを理解しようと試みること」を挙げているそうだが、仮説をことごとく粉砕する相手に対し「〇〇ではない」を繰り返すことでしか近づけないというのは、キリスト教的なアプローチである「否定神学」にもちょっと似ているかも知れない。そう、ソラリスの海は限りなく「神」に近い存在なのだ。そして「宇宙時代の宗教の代用品、科学の衣裳を身にまとった信仰」としてのソラリス学は、やがて錯綜し袋小路だらけの迷路と化して学問そのものに対する問いかけとなるのである(**)。

  **…なお解説にもあったが、当時の共産圏では「科学におけるたゆまぬ努力に
      よって人類に展望が開かれる」という考え方が主流。レムは『金星応答なし』
      から一貫してそれに対する疑義を示しているにせよ、本書ほどあからさまな
      作品がよくロシアで出版できたものだと思う。

 話は少し変わるが、レムの中で同じコミュニケーション(の不在)の問題を扱っている『エデン』や『砂漠の惑星』といった宇宙3部作の他作品と本書が違っているのは、2作品では相手側になんらかの形で人間にも理解(推測)可能な行動原理が見られたが、“海”にはそのような理解の手がかりが皆無という点だろうか。コミュニケーションの不在(拒否?)を貫くことで逆説的にコミュニケーションを図るということでは、メルヴィルの『白鯨』におけるエイハブ船長とモービィディックの関係にも似ていると言えるのかも知れない。さらにいえばソラリス学における“海”の執拗な造形描写による脱線も、『白鯨』におけるクジラの生態や捕鯨の実態についての記述に似ている。解説ではスウィフト『ガリバー旅行記』が引き合いに出されていたが、自分としてはむしろ『白鯨』に近いのではないかと思う。いずれにせよ本書の一筋縄ではいかない多様性が鮮やかに浮かび上がってくるようだ。(そのとき読者の前には世界文学への扉が開かれているのである。)

 最終章「古いミモイド」でケルヴィンとスナウトが交わす、“欠陥を持った神”としての“海”に関する神学的な意見や、その後にケルヴィンがひとり佇む“海”のシーンは、本書を静かで不思議な抒情性に満ちた読了感で満たす。まさに傑作と呼ぶにふさわしい作品だと思う。自分にとって、汲めども尽きぬインスピレーションの源こそが本書『ソラリス』なのだ。

<追記>
 本書315ページに、「(ある特定の研究分野に偉大な才能の持ち主が生まれるかどうかを決めるのは)おそらく、その分野が開いて見せてくれる未来の展望だろう」という記述がある。文章の流れとしては科学に関するものであり、レムの科学に対する思想が素のかたちで表されているような気がするのだが、これは本書にもそのまま当てはまることなのではないだろうか。このような世界を見せてくれる作品が書き続けられていく限りは、SFというジャンルの未来はまだ捨てたものじゃないとおもうのである。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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