2015年5月の読了本

『なぜ怪談は百年ごとに流行るのか』 東雅夫 学研新書
 およそ百年の周期で訪れる怪談実話の流行を時代ごとに区切って分析を施した本。江戸の上田秋成や鶴屋南北たちが活躍した時代、そして大正~昭和の泉鏡花や内田百閒、岡本綺堂や幸田露伴らが活躍した3つの時代の怪談流行の様子が甦る。
 「動乱への予感をひそめた繁栄と爛熟の時代」がおよそ百年ごとに繰り返される怪談流行の背景にあるという指摘は面白い。巻末には今まさに進行中の“平成の怪談”についても触れられているが、もしかしたら震災被害や経済危機による不安は、施政者および社会の右傾化と同時に怪談の流行を呼んでいるという仮説も成り立つのかも知れない。また百物語や実話怪談が大正期に流行した理由のひとつに、新聞や雑誌といった出版メディアの急成長にあったという指摘は面白い。もしかしたらポール・バニヤンなど北米の法螺話や実話怪談も、エドガー・アラン・ポーなどと同じで出版メディアの勃興に関係するのだろうか。(ところで本書の中で最も怖かったのは実は怪談ではなくて、著者が東日本大震災のときにやっとのことで帰宅したらマンションの電気温水器が破損していて、溢れた水が天井裏をつたって蔵書に滴り落ちていた時の描写だったというのはここだけの秘密だ。/笑)つい先日、学研が文庫や新書の出版事業から手を引くというニュースが流れていたが、本当だとしたらとても残念。まだ手に入るうちに本書が読めて良かったと思う。

『太宰治の辞書』 北村薫 新潮社
 なんと著者のデビュー作にして代表作の“円紫師匠と私”のシリーズが帰ってきた。版元は東京創元社から新潮社に変わったが、味のある表紙のスタイルが同じで嬉しくなってくる。このシリーズは初期作品こそ落語家の円紫師匠を探偵役に高校生の“私”が語り手となるミステリ連作だったが徐々にその要素は薄れ、前作の『六の宮の姫君』では芥川龍之介の文学上の謎を巡る物語へと変貌をとげていた。本作でもそれを踏襲しており今度は太宰治が取り上げられて、相変わらずのいい味を出している。このスタイルならまだまだ続きが期待できるかも知れない。

『21世紀の資本』 トマ・ピケティ みすず書房
 経済学の高額な専門書であるにも関わらず大ベストセラーとなった話題の本。現在入手な可能で且つ信頼できるデータのみを集め、それらに精緻な分析を加えることで見えてくる経済政策と資本との関係を示した労作。

『ニセ科学を10倍楽しむ本』 山本弘 ちくま文庫
 “水伝”や“アポロ=偽物説”に“911アメリカ政府陰謀論”、あるいは血液型性格判断に“地震雲”にホメオパシー等々、巷に溢れるニセ科学の中身と、それらのどこが間違いなのかを解りやすく紹介。たいへん面白いのだがが、自然科学を装ったインチキの数の多さを考えると、だんだん哀しくなってくる(苦笑)。

『ゴースト・ハント』 H・R・ウェイクフィールド 創元推理文庫
 20世紀初頭に活躍した怪談の名手による傑作集。語り口はあくまでも伝統的で美しく、英国の泉鏡花と呼ぶに相応しいかも。グロテスクさは無いがかなり怖い。「赤い館」「”彼の者現れて後去るべし”」「目隠し遊び」「最後の一束」や表題作はかなり好み。

『「食の職」新宿ベルク』 迫川尚子 ちくま文庫)
 新宿東口のルミネ地下にある、こだわりのカフェ&ビールの店ベルク。ユニークなその店の副店長が、食材とメニュー開発にかける自らの情熱を綴った本。中ほどにはベルクが扱っているパンやハム・ソーセージ、そしてコーヒー豆の店の職人オーナーさんたちとの語らいも載っていて大変に面白い。彼らが作るのは大手スーパーのPB品の対極にある食材なのだが、これは書物に対して自分が持っているこだわりとよく似ている。ベストセラー本にもそれなりの意味はあるのだろうけど、それは自分が本に求めるものとは違う。こう考えると、本は究極の嗜好品かも知れない。

『われはラザロ』 アンナ・カヴァン 文遊社
 『アサイラム・ピース』や『氷』といった作品で有名な作家による短篇集。長短とりまぜた15の作品からなる作品集で、まるで素描や覚え書きのようにも見える。第二次世界大戦を背景にした作品が多いが、世界から拒否され疎外された人々を描く姿勢は変わらない。作者が影響を受けたというカフカ的な作品もあるなど、バラエティに富んでいる。それにしても文遊社は復刊・新訳を含めて次々とカヴァン作品を出していて偉いねえ。

『増補 オオカミ少女はいなかった』 鈴木光太郎 ちくま文庫
 副題は「スキャンダラスな心理学」。心理学の世界における悪しき「神話」、すなわち否定的な証拠があるにも関わらず時代を超えて何度も甦る通説の嘘を暴く。語り口がかなり厳しめなのは、心理学に纏わりつく胡散臭さを払拭したいという著者の思いの表れだろうか。徹底した科学的な姿勢には好感が持てる。章題はそれぞれ次の通り。(注:カッコの中に書いてあるのは内容)
 「オオカミ少女はいなかった」(“インドのオオカミ少女”アマラとカマラの物語)/「まぼろしのサブリミナル」(映画館でポップコーンとコーラの売り上げを伸ばす実験)/「3色の虹?」(サピア-ウォーフ仮説の嘘)/「バートのデータ捏造事件」(双子の性格のシンクロに関する研究)/「なぜ母親は赤ちゃんを左胸で抱くか」/「実験者が結果を作り出す?」(天才馬クレヴァー・ハンスの顛末)/「プラナリアの学習実験」/「ワトスンとアルバート坊や」/「心理学の整理」

『カステラ』 パク・ミンギュ クレイン
 栄えある第一回の日本翻訳大賞を受賞した韓国生まれの傑作短編集。日常の閉塞感と虚しさに流されていく若者の日常と、あまりにも情けなく無力な彼らを突如襲う不条理で滑稽な出来事が描かれる。逆らいようのない悲劇に対してただ笑うことしかできない彼らの姿は、その飄々とした語り口もあって村上春樹や高橋源一郎あるいはヴォネガットやブローティガンを思わせる。(無気力感と不条理感は吾妻ひでおにも近いかも知れない。若干、粕谷知世著『終わり続ける世界のなかで』に似た雰囲気も感じられた。)いずれにせよ、落語にも似た軽さを持つ語り口ではあるが中身は重い。原書に収録されている10篇の他、さらに韓国の著名な文学賞である「イ・サン文学賞」を受賞作の「朝の門」を加えたお得な一冊。
ヒョン・ジェフン氏と斎藤真理子氏の共訳なのだが、日本翻訳大賞をとっただけあって言葉づかいがとても自然。最初から日本語で書かれた小説のような気さえしてくる。きっと韓国の人が原著で読んでもこんな風なんだろうなあ――なんて考えていると、日本翻訳大賞受賞のレベルの高さが何となく実感できる。好著。

『泰平ヨンの未来学会議』 スタニスワフ・レム ハヤカワ文庫
 近未来のコスタリカを舞台にレムには珍しいほどのドタバタと冗句が炸裂する前半と、眠りから覚めたヨンを悪夢のユートピアが待つグロテスクで批評精神に満ちた後半からなる中篇。短い作品なのに信じられない程のアイデアが放り込まれていて驚く。薬に侵され現実と幻覚の境が消えていく様子はまるでディックのような悪夢に満ち溢れると同時に、ルイス・キャロルを思わせるような言葉遊びも。ヴォネガット的な面もあるが、絶望間は寧ろオーウェルやハクスリーにも似る。久しぶりに読み返したが、やはり泰平ヨンのシリーズ中一番好きな作品だ。

『歩くアジア』 下川裕治 双葉文庫
 バックパッカー出身で自他ともに認める“貧乏旅行作家”が、韓国・釜山からトルコ・イスタンブールまでをなんと全て陸路(!)により踏破した旅行記。極寒のチベット自治区や灼熱のカザフスタンを抜け、腐敗した役人や心優しい現地の人々の人情に触れ、そして通れるかどうかも分からぬ国境目指してバスと列車でひたすらゴールを目指す。1995年当時のアジア各地の生の姿が(あくまで旅行者の視点ではあるが)垣間見えてくる。著者の本にどれも共通するように、本書もまた“ゆるい”旅ではあるが決して“甘い”ことはない。
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『反知性主義』 森本あんり 新潮選書

 最近あちらこちらで「反知性主義」という言葉を時おり目にするようになってきた。大学教育や教養に対する悪意を持った動きに対して使われているようで、自分もてっきり知性全般に対して憎悪を向ける人たちのことかと思っていた。(勉強が嫌いだというならよく解るが、その為に学校を潰してしまおうとする人たちが本当にいるのだろうか?)
 と、まあそんな折、ちょうどタイミングよく新刊ニュースに本書の題名を見かけたので読んでみたというわけ。その結果、「反知性主義」という言葉は、どうやら自分が考えていたのと全然違う意味だったことが判ってきた。アメリカで起こったある種の運動に対してつけられた名前のようで、元々の意味は「反知性・主義(=反知性を標榜する主義)」ではなくて「反・知性主義(=“知性主義”に反対する考え)」だったというわけだ。いやー、今の今まで全く知らなかった。
 本書はアメリカ建国の時まで遡る「反知性主義」の歴史とその思想について、順を追って解りやすく解説を施した本であって、現状のアメリカ文化の背景を知るうえで不可欠なのに意外と知られていない事柄に光をあてたもの。こういう本は有り難い。(実は告白すると、以前からアメリカの社会や文化に対して何となく“居心地の悪さ”とでもいうべきものを感じていた。それは何故だか判らなかったのだが、本書を読んでそれがどの辺りにあるのかくらいは解ったような気がする。)
歴史書にも思想史にも共通して言えることだけれど、“陽のあたる世界”については過去から幾らでも本が書かれていて比較的簡単に知ることができる。でもこういった陰の部分については、なかなか出会えないのだよね。だから当初の趣旨とは違ってしまったが、結果的には愉しく読み終えることが出来た。ではさっそく中身について。

 先ほども述べたように「反知性主義」をひとことで云えば、アメリカに特有な社会風土である「知性主義」に対抗するものとして生まれたものなのだそうだ。では「知性主義」とはどういうものかというと、ここでちょっと世界史のおさらいをしなければならない。
 イギリスからアメリカへの移民と建国のきっかけとなったのはピューリタリズム(清教徒主義)だった。したがって、アメリカの白人社会の基礎には厳格な聖書解釈に基づいた信仰があり、聖書を正しく解釈して生活規範を示してくれる牧師の存在が不可欠。聖書を深く理解するには充分な教養を身に着ける必要があるわけで、本来はハーバード大学も牧師育成のための教育機関だったのだそうだ。そうしたリベラルアーツ教育によって培われた知のピラミッド構造は、「知性による権威の階級的な固定」をもたらすこととなった。
 アメリカ大陸に移住した最初のピューリタンたちは、あくまで国王が宗主を兼ねる“イギリス国教会”から“自らの信仰の徹底のため”に移住しただけであって、植民地政策という社会制度そのものに対して叛旗をひるがえしたわけではなかった。本書によれば、むしろ積極的な批判をしないように心掛けていたようだ。それがピューリタンの当時の主流派の公定教会(チャーチ型と呼ぶ)の人々の考えだったらしい。
 社会的なエリートであるチャーチ派の人々による階級固定と、彼らによる植民地経営で引き起こされる不平等によって、アメリカ社会は矛盾を抱えることになり、そのため周期的にファンダメンタル(=原理的)な「信仰復興運動」が集団ヒステリーの形をとって引き起こされた。メソジスト派やバプテスト派といった宗派は、信仰をさらに徹底して「神の前における万人の平等」を謳って社会制度そのものを批判したため、アメリカ社会では蛇蝎のように嫌われて迫害を受けたらしいが、それらが反知性主義の母体となっていったようだ。
 一方、植民地にはセクト型とよばれる理神論的な人々の集団もいた。彼らの代表であるジェファーソンやマディソンといった政治家は、チャーチ型の公定教会の牧師たちの強い反発を受けながらも政教分離を推し進めた。それは緩いものから原理主義的な厳しいものまで幅広い「信仰の自由」を徹底するためであって、彼らはどちらも後のアメリカ大統領となった。
アメリカ合衆国では、これら“知のリベラル派”と“原理主義的な人々”のそれぞれの考えが建国以来せめぎあいを続けてきたため、国民の間に常に権力を疑う傾向が培われ、小さな政府を望む意見が伝統的に多いのだそうだ。またそれらのせめぎ合いを通じてやはり国民に共通する「福音主義」と呼ばれるものが浸透した。それは素朴な聖書主義や楽観的な共同体思考、保守的な道徳観などを特徴とするものらしく、これなどもまさに今のアメリカ社会を特徴づけるものとなっている。
 著者によれば、アメリカにはもうひとつの伝統的な傾向があるそうだ。それは信仰復興運動の立役者であるエドワーズに端を発する、「自然世界の美しさに神の栄光の影と象徴をみる」というもの。エドワーズの跡を継いでその後継者となったエマソンらによって広く伝えられたその“自然の叡智”の考え方は、それまでアメリカ社会に流布していたヨーロッパ起源の伝統的なキリスト教信仰とは違って、アニミズムや神秘主義にも似た性向を帯びたものだった。(ちなみに哲学史の世界ではこれを「超絶主義」と呼ぶらしい。)本書では「リバー・ランズ・スルー・イット」という映画を例に、大自然の中でのフライフィッシングを通して、神の奇蹟である大自然との一体化を求める(まるで仏教の“梵我一如”のような)信仰が説明される。(*)

   *…有名なソロー『森の生活』も同じ文脈で語られるべきものらしい。

 以上の事柄を背景にして、明確な形で「反知性主義」の狼煙が上がったのは1828年の大統領選かららしい。南部育ちの粗野な大統領候補であったジャクソン(20ドル紙幣の肖像画の人)は、民衆の熱い支持をうけて北部インテリ層出身のアダムズとの下世話な中傷合戦を制して大統領となった。それをきっかけとして、後のアメリカ大統領選では如何に民衆の支持を受けるかが最も重要な課題となり、そのために解りやすくキャッチーな主張をした方が勝ちといった風潮が生まれた。アメリカ大統領選だけが持つ一種独特なムードの源流は、このあたりにあったのだと読んで合点がいった。

 結局のところ反知性主義は反権力主義なのだと著者はいう。知的権威に対する大衆の嫌悪感情と、権威におもねることの無いアメリカンヒーローへの渇望こそが反知性主義の本質なのだろう。知性が権力と結び付くのを何よりも嫌い、彼らの花を明かしてやろうとする判官びいきのようなものだが、既存の知識や権威には依らず何よりも自分の判断を重視するその考え方は、(真っ直ぐ筋が通ってはいるが)独善的で視野の狭いものになるリスクも高い。
 冒頭では今の日本の状況は「反知性主義」とは呼ばないという趣旨のことを書いたが、こう考えればあながち間違いではないような気もしてくる。某大阪市長が引き起こした様々なトラブルや、大学改革の名の下に進行しつつある“改悪”なども、それまでの権威をこき下ろすことで大衆の支持を得る手法や、その実たんなるカウンターでしかなく先の展望を全く持たない点では、そっくりな面を持っているのではないだろうか。
 なおこのあたりの記述を読んでいて思ったのは、この信仰復興運動というやつはどうやら日蓮宗や浄土宗などの鎌倉仏教に近いスタンスではないかということ。それまでの天台宗など平安仏教のように、民衆は悟りを開くため何年も山寺に籠って修行をする暇はない。乱世の中で明日をも知れぬ民衆には、修行もせずただひたすら念仏を唱えるだけで救われる方がありがたい。大学で何年も修行してきた牧師による救いを否定したところなど、非常によく似ていると思うのだがどうだろう。

 閑話休題。アメリカではその後もフィニーやムーディといった宗教家たちにより、第二次、第三次の信仰復興運動(リバイバル)がおこった。それによってアメリカ社会では“神と人との契約”という図式の徹底やプラグマティズム(実践主義)の浸透、そして宗教のビジネス化といった一連の流れが加速していった。
 そして最後に反知性主義の誇る “スーパーヒーロー”が登場する。それは知性や宗教的権威への徹底的な嫌悪とともに、無学であるが故の力を声高く叫んだ元大リーガーにして福音伝道者のビリー・サンデー(**)という人物。彼によって、アメリカにおける反知性主義は完成したとのことだ。

  **…「エルマー・ガントリー」という映画のモデルにもなっているそうなので、いつか
      機会があったら観てみたい。どんな酷い人物なのだろうか。意外と今の日本で
      ニュースを点けたらよく見られるようなタイプだったりして(苦笑)。

 以上、本書の内容に沿ってアメリカにおける反知性主義とは何かについて、ざっくりとまとめてみた。本書では独立の時の話やビリー・サンデーの生涯なども詳しく触れられているが今回は省略。興味のある方は直接読んでいただけると有り難い。
 こういった、世の中を読むための補助線を引いてくれるような本が見つかると、ちょっと嬉しいね。そういった意味で本書は満足のいく好著だった。

<追記>
 アメリカの信仰復興運動では「高慢な知性よりも素朴で謙遜な無知の方が尊い」という感覚なわけだが、日本の場合はそのあたりは何だろうか。「理性よりも共感や周囲との協調」ということかも知れない。そして「神の前の平等」にあたるのが、きっと「古き良き日本」なのだろう。長引く不況や震災、そして周辺国の台頭で自分の不安になった一部の層が、道徳や古い価値観の復興運動を起こしている図式になるのかも知れない。総じていえば、日本の反知性主義はアメリカのそれとは違って反論理/反科学/反教養の集合体のようなものであり、それらに代わって「本質主義的神道」(byカスーリス)に基づく宗教観と国家主義とオカルトを代替としていると考えればしっくりような気がする。

<追記2>
 最後に蛇足をひとつ。著者は「あんり」という名前だが女性ではなく男性。てっきり女性だと思い込んでいて、読了後にカバーを外して著者近影で驚いた。本書の題名である「反知性主義」といい、何事も名前だけで判断してはいけないね。(笑)

『21世紀の資本』 トマ・ピケティ みすず書房

 たまにはベストセラーだって読むのである。1月には『その女アレックス』だって読んだし。(←既に4か月前であるが。/苦笑)ピケティなる人の高い本が経済学の専門書として異例の売れ行きを示している―― そんな話を小耳に挟んで、中身を調べてみたら結構面白そう。しかも版元はよくあるダイヤモンド社や日本経済新聞社ではなくて“みすず書房”。哲学書や歴史書など人文系の手堅い本を出している中堅どころであり、ちゃんとした学術書として期待できるかも知れない。自分が読みたくなるような経済学系の本には、残念ながら日頃あまり出会えないので、これも機会と買ってみた。
 
 で、さっそく中身であるが、ハードカバーの本文だけで600ページを超える大著であるにも関わらず、実をいうと内容はいたってシンプル。著者の主張は「はじめに」の部分かもしくは本文ラスト8ページあたりを読めば凡そ理解できる。ではなぜこれほど分厚いのかというと、それは著者の主張の根拠となるところを、詳しいデータとともに懇切丁寧に列記しているためだ。現在入手可能でかつ信頼できるデータの収集と徹底した分析により、経済政策と資本との関係を解説する労作といえる。「ごく単純な結論と精緻な分析」というスタイルが何かを連想させると思ったら、網野善彦氏の歴史学の著書に似ているのであった。
 ではどんな内容なのか、ざっくりとまとめてみよう。概ね次のような感じになると思う。

1)人が暮らしていくには「資本(あるいは富、財産)」から収益をあげる方法と「労働」から収益(所得)をあげる方法がある。(注:前者は不動産の賃貸収益や株の配当など、実際に体を動かさなくても利益があがるもので、後者は会社や工場などで実際に働いて得る給料や賞与をイメージすると解りやすい。)

2)資本収益率(資本の運用で利益をあげる率)が労働収益より高いまま放置しておくと、やがて資本の集中と蓄積が更に進み19世紀並みの格差社会になってしまうリスクがある。

3)それを食い止める方法は幾つか考えられる。例えば所得が上がるほど課税額も増える累進課税というものがあるが、これを高所得だけでなく高資本の持ち主に対しても公明正大な仕組により適用するというもの。(ただし実現するには色々な課題がある。)

 まあ、云われてみればごもっともな話で、現状認識も提言も含めて極めてオーソドックス且つ簡単なものだ。それでも書店のビジネス書の棚を見れば、やたら本書の解説本が目立つのは、手っ取り早く結論だけを手に入れたいからだろう。(著者が苦労した調査および分析の部分は全て省略して......。)
 でも本好きの立場から言わせてもらえば、この種の本を読む愉しさは細部を味わうことにこそあるのであって、ちまちました考察を味わうこと無しに一足飛びに結論だけを頭に入れても全く意味がないと思う。(まさに「神は細部にやどる」というわけだ。/笑)テスト前に参考書を読んでいるわけではないのだから、書店にあふれる解説本を有り難がって買うのはどんなものだろうかと思ってしまう。まあ、あくまで個人の感想ではあるが。

 せっかくなので、もう少し中身について触れてみよう。本書は経済学のジャンルで云えばマクロ経済について書かれたもので、全体は4部(16章)に分かれている。順に説明すると、まず第Ⅰ部(第1~2章)「所得と資本」は所得と資本に関する用語の定義と考察のための基本的な考え方について。第Ⅱ部(第3~6章)「資本/所得比率の動学」では資本による収益と労働所得がこれまでどのような関係にあったかを示し、続く第Ⅲ部(第7~12章)「格差の構造」では資本収益率が何らかの理由で高くなると、徐々に資本がそちらに集まって“持つ者”と“持たざる者”の格差がどんどん開いていったり、あるいは同じ労働収入の中でも高所得者と低所得者の格差がどのように変化していくかについてのメカニズムを説く。最後の第Ⅳ部(第13~16章)「21世紀の資本規制」では、これら社会的・経済的な格差を食い止めるための処方箋について幾つかの案と課題を提示する。いずれの章でもデータには18世紀から21世紀にかけてヨーロッパやアメリカ、日本などの富裕国で蓄積された、比較的信頼できる統計データのみを使用し、デヴィッド・リカードなど過去の研究者による実績を踏まえた上で彼らの不充分な点などを補完・訂正することでより精度の高い分析を施している。(このあたりの話は「はじめに」で詳しく触れられている。)資本収益率やインフレ率などの諸条件による違いの考察も抜かりはなく、全体を通じてねちっこいほどの(笑)分析が行われているといえるだろう。

 それではここからは、読書好きな人間としてどのように本書を愉しんだかポイントをいくつかご紹介してみよう。例えば「資本主義の法則」というのが出てくる。第一法則は資本と所得の関係を示す単なる定義で「α=r/β」というもの。数式で書かれるとアレルギーを示す人がいるかも知れないが、要は「資本運用で上がる収益の統計的な値(=r)に、資本と所得(労働対価)の比率(=β)をかけたものが、国民の全所得における資本のシェア(=α)になる」というだけのことだ。
続く第二法則は貯蓄率や経済成長率によって資本がどれだけ蓄えられるかの年率を示すもの。式で表すと「β=s/g」となるが、これは「国民の貯蓄率(=s)を国民所得の成長率(=g)で割ったものが、資本と所得の比率(=β)になる」という意味で、つまりは貯蓄をして低成長の国は長期的にみると莫大な資本ストックを蓄積するということになる。これらは過去の経済統計データを分析して導き出したもので、いわば著者がみつけだした資本主義経済に共通する特徴というわけだ。(もちろん長期的にみればその方向に向かうというだけであって、数式通りに実現するというわけではない。)他にはアメリカの奴隷制度を資本として計算した場合の数値だとか、1970年以降に世界各地で行われた国有財産の民営化による資本への影響分析なども面白かった。
 おもえば本書のユニークな点は、これまでの研究者のように「資本と労働の分配」を対象に分析するのでなく、「資本/所得比率」の変遷に着目したところかもしれない。そこからは「経済の低成長や人口減少が続くと資本ストックが増加していく」だとか、あるいは「技術変化による労働効率のアップは資本収益率(=r)や資本シェア(=α)の低下に一定の効果があるが充分なものではない」といった分析結果が導き出される。放っておくと資本は勝手に膨れ上がっていき格差が広がっていくというわけだ。

 アメリカ経済に対しても様々な分析を加えている。本書によればアメリカでは労働所得のトップ10%(いわゆるスーパー経営者)が国民所得のなんと35%を受け取っていて、最下層50%の人々はわずか25%にあたる労働所得の分配にしか預かっていない。世界的にみるとヨーロッパ諸国でトップ10%の人々が25~30%、最下層50%が35%ほどをうけとっていて、それに比べても突出している。「アメリカンドリーム」という言葉はよく聞くが、実際にはアメリカンドリームが可能だった時代は20世紀初頭までで終わっており、今では資本や所得の固定が進んで世界で最も不平等な国のひとつになっているという指摘はかなり面白い(ただし賃金の絶対値や生活水準は単純に比較できないのでまた別の話)。比率だけで云えば、アメリカは貧富の差が激しい発展途上国となんら変わりはないらしいのだ。なおアメリカの名立たる大企業はある時期から軒並み経営者の報酬を極端に引き上げたが、業績の向上はスーパー経営者の手腕ではなく単にツキであったように思われるという分析結果は傑作だった。1929年の大恐慌や2007年の大暴落の原因が、実質購買力が低下した中下層の所得世帯に対して、銀行が(規制緩和で融資条件が緩やかになったおかげで)営業を活発化して多額の借金をさせたことで、経済が破綻してしまったためだという仮説も面白かった。
 ここで本書の説明のときに必ず取り上げられる有名な関係式「r>g」が出てくる。資本収益率(=r)は通常4~5%あって、先進国においては通常は1%程度しかない経済成長率(g)を上回ると、資本は集中する方向へと向かい、その結果、富の集中による不平等が拡大するというものだ。集まった資本は世襲されていき、所得格差が固定されていくことになる。日本でも最近よく聞かれるようになった所得格差による負のスパイラルだ。

 最後の第Ⅳ部で示されるのは、これら資本主義社会が持つ問題点に対する著者からの提言となる。この部分におけるスタンスもいたって穏当なものだ。いわく、極端な社会格差をなくして最低限の人間らしい生活が送れること、また所得による社会的な地位が将来に亘って固定されないこと―― とまあ、概ねこんなところ。そして最初にも述べたように、著者が提案する社会システムは所得や相続や法人に対する累進課税を政府が行い、そうして得た資金を教育や福祉に投入すべきという、極めてオーソドックスな結論となっている。(ただし現在の税制は世界大戦後の経済復興にために慌てて導入されたため様々な問題を抱えているそうで、たとえば資産所得の比率が大きい超高所得層に対する課税の仕方は見直しが必要とのこと。)
 ざっくり言うと、労働所得はある程度まで容認するが、不労所得(=資本の相続やそれらの運用による所得)に対しては社会還元を進めるべきという見解だ。自分も“持たざる者”なのでこの意見には賛成である。(笑)
 最終的には一国ではなく世界的な規模での(資本に対する)累進課税を行う必要があるとも述べられており、たしかにグローバル社会を迎えた現代においては、世界的な資本集中が可能な国際金融を前提とした新システムができたらすばらしいと思う。ここで著者が考えているのは、課税システムを単に国の税収を増やすための手段ではなく、「経済活動に対する法的枠組みを課す手段」として活用すべきということ。こういった富裕税とでもいうものが「グローバル化した世襲資本主義」に対する処方箋となる。これも至極真っ当な意見だと思う。ひとつの国の利益だけを考えた資本統制や保護主義あるいは移民という政策は、所詮は不完全な手段でしかないわけだから。

 以上、非常に大雑把ではあるが本書で印象に残ったところについて簡単に紹介してみた。何度もいうように、本書のような学術書は細部を愉しまなければ読書の意味がない。〇〇経済新聞社などから出ている高価な解説本をわざわざ買うくらいなら、店頭で「はじめに」や末尾を立ち読みするくらいで充分だと思うし、本当に愉しみたいと思うなら、ぼちぼちと並び始めているらしい安い古本を買うというのはどうだろう。それとも、その手の解説本に「マンガで読むドストエフスキー」みたいな胡散臭さを感じてしまうのは、自分が活字中毒であるが故の偏った見方なのだろうかねえ。(苦笑)

『氷』 アンナ・カヴァン ちくま文庫

※内容に詳しく触れていますので、未読の方はご注意ください。

 前にサンリオSF文庫で出たときに読んだきりだから、再読はおよそ30年ぶりだ。ブライアン・オールディスが著作『十億年の宴』の中で現代SFの到達点のように取り上げた作品ということで、出ると同時に勢いにまかせて読んでしまった。そして解ったような解らないような読後感と、文章から溢れ出る異様な迫力だけが印象に残ったおぼえがある。(当時は他に短篇集『ジュリアとバズーカ』と長篇『愛の渇き』が刊行されているだけで、どちらも既に入手困難な状態。当然ながらカヴァンがどんな人かも知らずに読んだのだから、まあ致し方ないのかも知れない。)そんなわけで自分にとってアンナ・カヴァンという作家は、気になってはいたが馴染み深い作家というわけではなかった。(『氷』はその後、2008年になって突如バジリコという出版社からが復刊されたが、こちらもすぐに品切れ。サンリオ版を持っている身としては1800円の出費は大きいので、つい買わずに来てしまった。まあその程度の存在だったというわけだ。)
 そんな不遇の状況が変わったのは2013年初頭。どんな事情があったのかは知らないが、突然デビュー作の『アサイラム・ピース』が新刊として出ることになったのだ。版元はマニアックな作品を多く手掛ける国書刊行会という出版社。ここは『未来の文学』というSF系の叢書を出しているので、もしかしたらその流れだったのかも知れない。内容紹介を読んでぶっとんだ。

 「異国の地で城の地下牢に囚われた薔薇のあざをもつ女。名前も顔も知らないがこの世界のどこかに存在する絶対の敵。いつ終わるとも知れぬ長い裁判。頭の中の機械。精神病療養所のテラスで人形劇めいた場面を演じる患者たち――孤独な生の断片をつらねたこの短篇集には、傷つき病んだ精神の痛切な叫びがうずまいている。自身の入院体験にもとづく表題作はじめ、出口なしの閉塞感と絶対の孤独、謎と不条理に満ちた、作家アンナ・カヴァンの誕生を告げる最初の傑作。」

 まさに自分好みの作家。かなりヘビーだが傑作という前評判を聞いて、2000円を超える値段に若干ひるみながらも購入。一気読みしたところ、これまで読んだことの無いほどの閉塞感と絶望感に打ちのめされて、すっかり虜になってしまった。SFの世界では70年代から80年代にかけて活躍したジェイムズ・ティプトリー・jrという作家がいて、彼女(=男性名だが女性作家)は結構暗い作品で有名なのだが、カヴァンはおそらくそんな比ではない。ティプトリィを中島みゆきとすればカヴァンは山崎ハコではないか(笑)と、そんな印象を持った。
 そうこうするうち、同じ2013年の春に、今度は文遊社というところから『ジュリアとバズーカ』が復刊されることに。こちらも3000円を超える出費におののきながら読了し、前著を超える満足感を得ることが出来た。(*) 「なんで昔読まなかったのだろう」というのが今の正直な印象である。まあ後悔は先に立たないものだが。

   *…その後もカヴァンの再評価は続き、2015年現在では『愛の渇き』『われは
      ラザロ』『あなたは誰?』といった著作が復刊ないし新たに訳出されている。

 すっかり前置きが長くなってしまったが、そんなわけで『氷』である。本書は先述のように2度目の復刊(つまり3度目の出版)ということになるのだが、ここにきてついに、ちくま文庫というビッグネーム入りをすることになった。ネットの様子をみているとかなり評判が良いようで、版を重ねているようだ。お気に入りの古本カフェでも近々『氷』の読書会を開くことになり、折角なので参加を申し込むことに。そしてこれを機会に、30年ぶりの再読と相成った。
 
 これまで読んだアンナ・カヴァンの作品は、どれも主人公(著者の投影?)の精神的な荒廃が現実世界の描写とリンクしており、読むたびにユクスキュルとクリサートが共著書『生物からみた世界』(岩波文庫)の中で提唱した「環世界」というものを連想してしまう。たとえば人間とダニのように、同じ現実世界を生きていても生物によって見えている世界は全く違うという考え方だ。認識の違いがそのまま世界の違いに直結するという考え方は、ある種のSFとも親和性が高く、自分の好きなP・K・ディックやJ・G・バラードといった作家たちが好んで取り上げたテーマでもある。(そう考えると、同様に世界認識の違いが作品の大きな背景にある『逆転世界』や『夢幻諸島から』といった作品を書いたクリストファー・プリーストが本書の序文を書いているのも、何やら意味深な感じがしないでもない。)
 本書では不幸な“少女”と彼女に心惹かれる“私”、そして彼女を精神的に追い詰め支配しやがて放逐する “長官”( ならびに“夫”)といった、ごく少ない登場人物で物語が展開していく。まずは序盤に出てくる彼女の夫の豹変ぶりが怖い。“私”が幼いころにみた“少女”は久しぶりに再会した時には既に21歳になっているのだが、それでもまだ彼女の心は傷ついた少女のままのようだ。世界は彼女にとって恫喝や恐怖の渦巻く場でしかなく、そして彼の態度が冷たく厳しくなっていくにつれ、彼女は心を閉じて白く透明に、そして静謐になっていく。このあたりは一見、徹底して客観的な描写が為されているようだが、実は彼女の内側から見た世界がそのまま表出されているのではないかとも思える。最近の脳研究によれば失恋したときに感じる胸のズキッとくる痛みは脳内で本当に物理的な痛みと同じように感じているものなのだそうだが、本書で“少女”がみている世界は彼女にとっては真正のものに違いない。

 姿を消した“少女”を追い求めて“私”は世界を駆け巡る。そこに見えてくるのは廃墟と相互不信ばかりが広がる世界だ。銃弾や戦闘による破壊の跡が残る街の風景。世界を覆い尽くそうとする巨大な氷の壁。ひりひりするような肌感覚で、“少女”が不在にも関わらずまるで自分が“少女”であり、自分に刃を剥いてくる世界を前に慄くしかないという妄想が広がっていく。先ほども書いたように、本書が秀逸なのは“少女”の視点ではなく第三者である男の視点で描いている点ではないかと思う。“少女”を救おうとするが所詮は無力な傍観者にしかなれない男の目を通して描くことで、彼女の感じている(であろう)痛みと不信と絶望は、黙示録的なイメージと強い現実感をもって作品世界を侵食していくことになる。幻想小説としても一級品だと思う。
 やがて独裁者“長官”が支配する国において、“私”は“少女”を見つける。長官の住いである《高い館》の一室にいる少女は防音設備の中に閉じ込められ、外の世界との関わりを一切断ち切られている。“長官”に支配され凌辱されるだけの存在である“少女”を、“私”はただ傍観するしかない。場面に漲る緊張感はただものではない。カタレプシーに陥っているかのような彼女の姿勢と“私”に見せる敵意は、その後なんども邂逅と離別を繰り返す3人の様々なエピソードを通じて、ラスト間際まで終始変わることは無い。“少女”は“私”にとってまるで瞳についた傷のようだ。視野の少し外側にあり、視界に入れようと眼を動かすといつも視界から逃げていってしまうような存在。
 彼女の行動の背景にある心理も、痛いほどよく解る気がする。親しくなればなるほど相手が自分を裏切るのではないかという猜疑心に囚われ、それを確かめようと過激で挑発的な言動を繰り返す。そしてその行動は相手の心とともに彼女自身をも傷付けてしまうのだ。
 氷が迫る極寒の地で少女をみつけ、一旦は暖かい地方へと連れ帰ることに成功はしたものの、彼女からの敵意と侮蔑に耐えがたくやがて彼女を置いてどこか見知らぬ場所へと旅に出てしまった“私”。そのころ世界には氷が迫り、彼女をとりまくあらゆる場所が破滅に瀕していた ――

 その後しばらくの展開は正直よく解らない。少女に別れを告げてからは“私”のための物語へと変貌を遂げる。全編を包み込むような息苦しいまでの閉塞感はそのままで、独裁者とレジスタンスの闘いに巻き込まれ逡巡する“私”の物語が続いていく。(一方的に“長官”に共感を寄せ始める“私”の様子は、まるで立て籠もり犯と人質の間に起こるとされる「ストックホルム症候群」を見ているような感じ。理解できるような気がしないでもないが、やはり動機が不可解ではある。)“私”は周囲の誰も信用することが出来なくなる。これは典型的な陰謀論の特徴ではあるのだが、陰謀論というのはまた、妄想の親しきパートナーであるともいえるだろう。この間、ずっと“少女”は不在ではあるが、それでも世界そのものに彼女の影が刻印されているようだ。
 “私”は独裁者側について戦闘に明け暮れ、“長官”と面会を果たすまでになるが、その瞬間に現れるのは、海を真一文字に切り裂いて前進してくる虹色の氷の壁。世界の隅々まで覆い尽くそうとする「氷」のシーンはまさに圧巻で、本書で最も美しくまた最も恐ろしいシーンといえるかも知れない。
 ところがラスト近く、いよいよ世界が滅びようとするときになって、物語は急な展開を見せ始める。もう一度“少女”を見出した“私”は、雪と氷に閉ざされようとする世界のなかで、明るい希望の光を求めて南へと車で走り出すのだ。最終的に自らの心を全てさらけ出しついに“私”を受け入れる決断をした“少女”は、冷たい氷の世界へと足を踏み出し、どこまでも二人で進んでいく……。
 最後まで、本書の視点は世界を律する“少女”ではなく傍観者であり第三者であった“私”のままで揺るがない。これが辛く厳しい本書において、最後の救いをもたらす鍵になっているような気がする。世界のすべては氷によって覆い尽くされ、静寂と死の世界が到来しようとしているのだが、間際になって“私”のこころにはひとつの考えが降り立つ。それは『ファウスト』の有名な台詞「時間よ止まれ、今こそお前は美しい」に近い。凝縮された一瞬にこそ生の充足があるというものだ。それはまたルターの「たとえ明日世界が滅びるとも、私は今日林檎の木を植える」という言葉にも近いものかもしれない。

 はたして二人は救われたのだろうか?そしてカヴァンは?



<追記>
 本文中に書いた読書会に参加してきた。参加者は自分を含めて8名のこじんまりとした会。場所は名古屋大学にほど近い閑静な住宅街にある古書と喫茶の店リチルだ。とても居心地の良いお店なので最近よく行くのだが、今回の読書会もリチルのマスターの企画であり、参加者もリチルの常連客の方が多い様子。そのせいか皆さん読み巧者の方ばかりで、カヴァンは今回が初めてという方が多いにも拘らず様々な意見が飛び交い、愉しい読書会だった。
印象もたとえば「(視点が変わるので)混乱してよく解らない」「前評判がとても高かったのでかなり期待(覚悟?)して読んだが、全体像が掴めないままに終わった」といったものから、「まさに自分が読みたかったタイプの本」という絶賛の声まで色々。
 読み方も人それぞれで、例えば「少女/私(男)/長官」の関係ををそれぞれユング心理学のアニマ/アニムス/シャドウといった象徴(←全てが少女の分身)として読んだり、マッカーシー『ザ・ロード』やニューエイジの影響を読み取った、あるいは「出来の悪いラノベのようだ」という意見まで。(この意見は言われるまで気が付かなかった。確かに類型的で解りやすいキャラ設定や世界系のような設定は、今のラノベの元祖といっても通用しそうだ。)更におもしろかったのは、小説を混乱と矛盾にみちたそのままに受け取る自分のような読み方ではなく、何らかの隠された情報や解釈を求めようとする読み方が見られたこと。「信頼できない語り手」が頻出する物語に慣れてしまった自分にとって、このような見方は却って新鮮だった。
 ひと通りの意見交換が終わったあとは、それぞれが持ち寄ったお薦めの本や音楽などを紹介しあうことに。広い趣味の方が集まっていたので、自分の知らないものが多くてこれも愉しかった。(紹介されたものは『居心地の悪い部屋』『図書館の魔法』『濁った激流にかかる橋』『民なき神』といった小説から、アントワーヌ・ダカタの写真集『ANTIBODIES/抗体』、そして音楽ユニット“Open Reel Ensemble”による実験的な音楽やダブステップの雄ジェイムズ・ブレイクのCDと幅広い。ちなみに自分からは『短篇小説日和』『ユービック』『ソラリス』を紹介させていただいた。)
 それにしても、これだけ色んな趣味や意見を持つ人がネタにして2時間語り合えるのだから、そういう意味でもやはり『氷』は良い小説なのだろう。
 以上、追加のご報告ということで。

2015年4月の読了本

※2番目の『世界受容』の項で《サザーン・リーチ3部作》の詳しいストーリーに触れているので、未読の方は充分にご注意ください。

『知られざる天才 ニコラ・テスラ』 新戸雅章 平凡社新書
 交流発電システムや高周波の研究と実用化で、19世紀末から20世紀初めの世界をリードしつつも、いつか忘れられた天才発明家の生涯を辿るノンフィクション。手軽に読める本格的な評伝としてお奨めといえる。エジソンとの確執や派手な放電実験といった“科学の魔術師”のベールを剥がすと、そこから現れるのは孤独な姿だ。技術者として天才的かつ純粋であるが故に、社会人・企業人としては挫折せざるを得なかったテスラの姿がつらい。今ここに来て、世界的に再評価されつつあるのがせめてもの救いと言えるか。

『世界受容』 ジェフ・ヴァンダミア ハヤカワ文庫NV
 『全滅領域』『監視機構』に続く、“サザーン・リーチ三部作”の最終巻。J・G・バラードの諸作やストルガツキー『ストーカー』を思わせる魅力的な世界を舞台に、うだうだと登場人物たちによる心理ゲームが繰り広げられるというのは相変わらずだ(笑)。物語の全体像が見えてくるのがかなり終盤になってからなので、テンポの良いエンタメ小説を期待するとストレスが溜まるかもしれない。プロットもかなり入り組んでいて、最後になって本書の主人公が誰であったのかがやっと解る、そんな物語。
 長くなるが頭の整理を兼ねて物語のエピソードを時系列にざっくりとまとめてみよう。(以下、完全ネタバレなので、未読の方はご注意ください。)
■いわゆるCIAのような組織である<中央>が様々なことを画策。その一環として<S&SB(降霊術と科学の旅団)>なるオカルト組織を利用して、海岸地域の灯台で工作を実施した。(海岸地域は今では<エリアX>になってしまっている。)しかもたまたま(!)その灯台のガラスレンズの中には、遥か星々の彼方から漂着した微小な生命体が閉じ込められていた。
■灯台守のソールは元司祭であり、複雑な過去を持って海岸へと流れ着いた人物。そこに住んでいた少女グロリア(後の局長)はソールと親しくなり、彼女にとってソールと灯台で過ごした日々は子供時代のかけがえのない思い出となる。しかしグロリアはやがて遠く離れた父親の元に引き取られ地域を去ることに......。
■<S&SB>のメンバーであるヘンリーが、偶然にもレンズ内に閉じ込められた“それ”を開放してしまう。ソールにとりついた“それ”は徐々に彼の精神と身体を侵食し、そして彼を触媒にして環境までもが侵されていくことに。やがてソールは<クローラー>という存在へと変貌を遂げ、周囲のもの達を次々と侵食して異形の物へと変えていく。侵食された人間は燐光を放つようになり、やがて巨大な芋虫か豚、あるいはイルカのような生き物や名状しがたいものへと生まれ変わって姿を消していく。
■海岸地域は一部の<境界>というゲートを除いては周囲から侵入できなくなり、<エリアX>と呼ばれて隔離されるようになる。近くには<エリアX。の監視と調査を行う特殊機関<サザーン・リーチ>が設置される。
■第一次調査隊が派遣されたが1名を除いて全滅した。ただひとり帰ってきた隊員ラウリーは、実は本物ではなく彼の劣悪なコピー人間であった。それをひた隠しにして生き続けようとする(偽の)ラウリーは、保身のために権力の亡者となって<中央>に食い込み<サザーン・リーチ>を自らの支配下に置こうと画策する。また<中央>に所属するスパイ一家出身のエリート女性エージェントであるジャッキー・セヴェランスは、ラウリーと結託し、それぞれの思惑で<エリアX>を取り巻く状況を利用し続ける。
■灯台守ソールのところで少女時代を過ごしたグロリアは長じて心理学者となる。なんらかの形で<エリアX>と化した海岸地域に関係を持ちたいと考えた彼女は、やがて<サザーン・リーチ>の局長として赴任することに。そこで<エリアX>の謎を探ろうと図るが、<中央>で徐々に権力を得ていくラウリーの横槍で思うように活動が出来ず、ラウリーの指示で無謀とも思える調査隊を次々と送り込んでは帰らぬ人を増やすばかり。彼女および彼女の右腕であるグレイス副局長は徐々に疲弊していく。
■ついにグロリア(局長)は自らが第十二次調査隊の隊長となって生物学者や人類学者らを引き連れ、<エリアX>に赴くことにするが、全員行方不明となる。(あとにはコピー人間が何人か帰還するが、その中に局長の姿はない。)
■ジャッキー・セヴェランスの息子であるジョン・ロドリゲス(自称<コントロール>)は、母親と違いエージェントとしては無能な存在だった。しかしセヴェランスにとっては可愛い一人息子。彼女は息子を助けるためラウリーと共謀してジョンを<サザーン・リーチ>の新しい局長として送り込む。副局長であるグレイスとの様々な確執もあって、組織としては既に末期状態だった<サザーン・リーチ>で彼が右往左往しているうち、突如領域の拡張を始めた<エリアX>に周囲地域は次々と呑み込まれていく。
■生物学者のコピー人間である<ゴースト・バード>は、<中央>に身柄を送られる途中で失踪した。しかし彼女が赴くであろう場所を推測した<コントロール>は、彼女を追って各地に触手を伸ばす<エリアX>の入り口のひとつへ飛び込み、<ゴースト・バード>と共に<エリアX>へと赴く。
■<エリアX>は地球の環境に似せてはいるが実は別の星の世界だった。そこでは地球と時間の流れが違っていて、生物学者たちが訪れてから僅か既に数十年が過ぎてしまっていることが判明する。また今では現実世界との唯一の<境界>は閉じてしまい、元の世界に還るすべが無くなっていることを知る。そこで彼女らは3年前に来たという副局長のグレイスと再会し、オリジナル生物学者の手記や変貌した彼女との邂逅などにより徐々に真相を知ることになる。(ただし<エリアX>が何なのかは不明。所詮、人間には理解できないものなのだろう。)
 未知の存在とのファーストコンタクトを行うのが権謀策術に腐心する諜報機関であるというところが、物語のややこしさに輪をかけることになっている。しかも二巻(『監視機構』)の主人公が無能で、周囲の人物の思惑と本人の暴走気味な行動が相俟って、予測不能な方向へと話を進めていったのだということが、ラスト100ページほどになってからやっと見えてくるという仕組み。もやもやとした感じが最後まで残る。筋の追いにくさを除けば、話自体はなかなか面白いのだけれど、どんな物語を好むかによって読者の評価は分かれそうだなあ。

『紫苑物語』 石川淳 新潮文庫
 王朝末期に生きた冷酷な国の守にして弓の名手である宗頼を主人公に、幽玄で陰惨な物語が繰り広げられる表題作の他、倉橋由美子を思わせる幻想的な「鷹」、戦後の闇市を舞台にした「善哉」の3篇を収録した短篇集。「紫苑(しおん)物語」は中島敦の「名人伝」のような寓話かと思ったが全然違った。話が進むにつれてどんどん凄みが増してくる。一種独特の熱狂に満ちた文章が、いかにもこの人らしくて好い雰囲気をだしている。

『クローヴィス物語』 サキ 白水uブックス
 短篇の名手サキの短篇集がオリジナルの形そのままに初めて訳出された。(これまでは日本版オリジナル編集のものばかりだったとのこと。)本書は17歳の小生意気な若者クローヴィスを狂言回しに、風刺やユーモアや恐怖の物語を数多く収録した作品集となっている。中身の出来不出来は結構あるが、これまで色々なアンソロジーに収録されたような、キレのいい作品はかなり面白い。「エズメ」「トバモリー」「スレドニ・ヴァシュタール」「聖ヴェスパルース伝」あたりが、ブラックユーモアが効いていたりドキッとして結構好みかな。

『夜の写本師』 乾石智子 創元推理文庫
 様々な魔法が理(ことわり)となっている世界を舞台にした、一人の人間の“喪失”と“復讐”と、そして“帰還”の物語。ここまで正統的なファンタジーとは思わなかった。架空の世界を念入りに作り上げてあって、読後感も悪くない傑作。同じ世界を舞台にした作品があるようなので、そちらもまたそのうち読んでみよう。

『仮面の街』 ウィリアム・アレグザンダー 東京創元社
 ゾンベイ市の魔女グラバの元で暮らす少年ロウニー。互いに支配権をかけて争う魔女と市長の闘いの渦中で、ゴブリンたちと仮面の力に助けられたロウニーは、失なったものと自らの未来、そして居場所を見つけだす......。2012年の全米図書賞(児童文学部門)を受賞したとのことだが、なるほど納得できる良質な児童文学としてのファンタジーになっている。(それにしても『夜の写本師』もそうだが、ファンタジーには失ったものを取り戻す探索の話が多いね。)
 子供時代に誰もが感じたことのある恐怖やワクワクを見事に感じさせながらも、単純な悪と善の対決の図式や安易な決着を描かないところが、今風なのかも知れない。(どんなものにもそれぞれに主張も存在意義もあるということで。)最後になったが、ゴブリン達の作る仮面の数々がとても魅力的。続篇はまだ訳されないのかなあ。

『開かれ』 ジョルジョ・アガンベン 平凡社ライブラリー
 著者はイタリアの哲学者。本書は古今東西の様々な文献を渉猟しつつ、「人間とははたして何か?」についての思想的な歴史を考察したもの。人間と動物の定義を巡るガイドツアーと言い換えても良いかも。

『反知性主義』 森本あんり 新潮選書
 最近よく目にする「反知性主義」という言葉だが、「総ての知性に対して反対する主義」なのではなく、元はアメリカで生まれた特定の主義を指す言葉のようだ。アメリカ社会には清教徒を母体に建国したという歴史背景から生まれた「知性主義」とでもいうべきものがあり、それに異議を申し立てたのが「反知性主義」ということらしい。(つまり「反知性の主義」ではなく「反・知性主義」なのだ。これまで全然知らなかった。)
 本書はその「反知性主義」について、成立の背景からその後の展開までをわかりやすくまとめた本になっている。本書によれば、アメリカにおける反知性主義とは結局のところ、進化論否定にみられるような信仰復興運動にその根を持つということらしい。だとすると、日本における「反知性主義」、すなわち反論理、反科学、反教養の集合体みたいなものとは成り立ちも主張も異なるということになるだろう。知性を否定して、代わりに「本質主義的神道(byカスーリス)」に基づく宗教観と国家主義、それにオカルト(=トンデモともいう)をその代替とするという日本のそれは、いったいどこから生まれたのだろう?長引く不況や震災や周辺国の台頭で不安になった一部の層が、道徳や古い価値観の復興運動を起こしているのだろうか。そして信仰復興運動の場合は「高慢な知性よりも素朴で謙遜な無知の方が尊い」という感覚だったようだが、日本の場合ははたして何だろう?理性よりも共感や周囲との協調というものを優先する感覚であって、「神の前の平等」にあたるのが「古き良き日本」ということなのだろうか?

『氷』 アンナ・カヴァン ちくま文庫
 このところ日本での再評価が著しいカヴァンだが、その代表作がちくま文庫に収録された。世界を覆い尽くそうとする氷の脅威の中、“私”は失踪した少女の姿を追う。ひりひりした文章と、幻想による現実世界の侵食のイメージがいかにもカヴァンらしくまた痛ましい。数十年ぶりに読み返したが記憶にある以上の傑作だった。

『紙の動物園』 ケン・リュウ 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
 今、最も注目されるアメリカ在住の中国系作家(でいいのかな?)の作品を精選した、日本オリジナル編集の短篇集。軽妙なアイデアストーリーから痛切で思い読後感を遺す作品まで、バラエティに富んだ十五篇が収録されている。訳者である古沢嘉通氏の作品選定が上手くて、本邦初紹介の作品集としては理想的なものになったのではないだろうか。実はこのケン・リュウという作家、名前だけは知っていたのだが作品を読んだことが無かった。そこで今回はわざと予備知識を全く入れずに読んでみたのだが、冒頭の表題作からラストの「良い狩りを」までどれも大変に愉しめた。
 全体を通しての特徴は、取り返しのつかないことや、喪って初めてわかるものを描くのが巧いということ。それは登場人物たちにとって、これから生きていく間ずっと忘れずにいたいものであり、或いは自らの命を賭してでも守らねばならないものでもある。作品を味わう時に作者の出自を考えてはいけないのだろうが、それはまた“帰属”の物語でもあるようだ。
作品はどれも大変愉しめたが、敢えて好みベスト3を選ぶとすれば「紙の動物園」「選抜宇宙種族の本づくり習性」「どこかまったく別な場所でトナカイの大群が」あたりだろうか。特に「選抜宇宙種族の本づくり習性」はレムの「泰平ヨンシリーズ」の一篇かB・J・ベイリーの短篇みたいで、昔ながらのSFファンとしては読むのが愉しかった。また「どこかまったく…」では、イーガン『ディアスポラ』や「ワンの絨毯」を思わせるSF的な設定も好きなのだけれど、何といっても『ファウスト』の「時間よ止まれ、今こそお前は美しい」みたいな展開が好かった。(前向きで充実している話はいい。)他にも「もののあはれ」や「文字占い師」、「良い狩りを」などが甲乙つけがたい。ツイッターでは古沢氏により、著者と訳者のサイン入り色紙が抽選であたる販促イベントをされているが、そこで呟かれる「お気に入り3作品」が皆さんそれぞれ違っていて面白い。ヴァーノン・リー『教皇ヒュアキントス』の時もそうだったけど、選り抜きの作品ばかりを集めた本だからこそ出来ることなのだろう。

『荒木飛呂彦の漫画術』 荒木飛呂彦 集英社新書
 『JOJOの奇妙な冒険』で絶大な人気を誇る漫画家が自らのマンガ製作のテクニックを披露した本。「人気漫画家が明かすマル秘テクニック!」みたいなあざといものではなく、中身はごく真っ当な漫画論だった。手塚治虫の『マンガの描き方』や『石ノ森章太郎のマンガ家入門』のような正統的なハウツー本で、自作を例に書かれているので面白い。氏の愛読者なら実例を見ているだけでかなり愉しめるだろう。巻末の”実践編”では『ジョジョリオン』や短篇「富豪村」の舞台裏が覗けて嬉しい。なお本書では作品の設定に対して”世界観”という言葉があてられている。“世界観”を「世界の捉えかた」ではなく「作品世界の観せかた」という意味で使うのを最近よく目にするが、この用法はもしかしたら漫画業界から始まったものなのだろうか。

『アルカトラズ幻想(上・下)』 島田荘司 文春文庫
 太平洋戦争前夜のアメリカを舞台に猟奇殺人とそれを追う刑事の暑い夜が幕を開ける――のかと思いきや、恐竜絶滅の真相を述べた論文が登場したり、あるいは急転直下で真犯人の逮捕へ。さらに後半では主人公が刑事から犯人へと替わり、刑務所内でのオカルト談義(地球空洞説)に脱走および幻想王国での冒険へと、目まぐるしく展開される物語に振り回される。雰囲気としては同じ著者の『奇想、天を動かす』や『ネジ式ザゼツキー』みたいな感じもあるが、最終的にはあまりの奔放さに上田秋成の『春雨物語』を連想した。最終的にうまく着地はしているが、たぶん普通のミステリの論理では捉えきれないのではないかな。

『宮沢賢治詩集』 谷川徹三/編 岩波文庫
 宮沢賢治が数多く遺した詩稿の中から、『春と修羅(一)~(四)』、「肺炎詩篇」、文語詩など146篇を選んで収録。「永訣の朝」や「松の針」「雨ニモマケズ」といった有名なものもひと通り紹介されている。賢治は自らの詩を「心象スケッチ」と呼んでいる。日常の事柄に対して心に浮かぶことなので、ここに挙がっているのも農作業や指導を通じて体験した内容が中心。(童話ではなく詩集を読むのは初めてなので、選択に編者の嗜好がどのくらい反映されているかは知らない。)
 岩手の美しい自然の様子を詠った綺麗な作品が多いが、ただし自分が賢二の詩に魅かれる理由はどちらかというとそちらではなくて、地質学や天文学などの科学用語を使った表現の仕方にある。例えば有名な『春と修羅(一)』冒頭の「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」みたいな文章。「むしろこんな黄水晶(シトリン)の夕方に」とか「蜂が一ぴき飛んで行く/琥珀細工の春の機械」、「畢竟あれは水と空気の散乱系/まばゆい冬の積雲です」なんていうイメージが岩手の風景をバックに浮かんでくると、わけもなくわくわくしてしまう。自分にとっては稲垣足穂と少し共通する部分があるかもしれない。

『モンテ・クリスト伯(三)』 アレクサンドル・デュマ 岩波文庫
 デュマ『モンテ・クリスト伯(三)』(岩波文庫)読了。いよいよエドモン・ダンテスの復讐に向けた動きが始まる。現代の小説に比べると幾分テンポが遅く感じるが、なあに構いはしない。復讐はじわじわと慌てず用意周到に。毒蛇は急がない……。残り4冊もゆるりと読んでいこう。

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』 伊藤亜沙 光文社新書
 著者が研究する「美学(=芸術や感性的な認識を哲学的に探究する学問」の立場から、視覚障害者に”見えている”世界を言葉で再構成しようする試み。そこに見えてくるのは身体機能の単なる欠損ではなく、健常者とはまったく違う身体機能のあり方だった。価値転倒の面白さで「善意のバリア」に揺さぶりをかける刺激的な本だった。(著者は四本のうち一本の足がとれた不安定な椅子と、始めから三本で設計されている安定した椅子の違いに喩えている。)ジャンルとしては「アフォーダンス」や「環世界」といった用語が出てくる認知科学系の研究分野に近いだろう。ただし生物学的なメカニズムではなく、それらがもつ意味を追究しているのがこれまでとは違うアプローチで面白い。
 ひとつ例を挙げる。視覚障害者には視点という概念がない。(言われてみればたしかにそうだ。)それで対象物を全体像として捉えるため、彼らに死角というものは存在しない。(本文中には書かれていないが、視点がないということは錯視も無いということになる。)二次元ではなく常に3次元なのだ。
 また、視覚障害者を加えた複数のグループで美術鑑賞をする「ソーシャル・ビュー」というのが出てくる。健常者が絵画に書かれている事柄を言葉に出して説明するのだが、そこで見えてくるのは解釈が人によって違っているという事。視覚障害者の人に説明することで「他人の目」による異なった解釈が明らかになってくるというわけだ。(ある意味、読書会に近いものがあるかも知れない。)障害者の人はこのイベントでは「ナビゲーター」と呼ばれているそうだが、まさにその言葉がぴったりといえるだろう。実に面白い。
 なお、こういうことを素直に面白がるという姿勢は、視覚障害者とのコミュニケーションに限らず相互理解のためや自分の視野を広げるために大切なことだと思う。そして善意からくる遠慮やよそよそしさ或いは”区別”といった、著者がいうところのいわゆる「善意のバリア」を取り除くためにも。
 付け加えておけば、著者は本書ではあえて「障がい」や「障碍」といった言葉に置き換えたりせず、わざと「障害」という漢字を使っている。その理由は、障害とは個人の身体的な機能の欠損によるものではなく、そのために何かが出来ないことこそが障害だから――という認識からなのだそうだ。これまでのように障害を個人モデル(=不便の原因を身体機能の欠損に求める考え方)ではなく社会モデル(=身体機能の違う人が不便を感じる社会こそが障害という考え方)として自覚するべきという著者の意見にはなるほど首肯できる。(自分は普段は「碍」の辞を使っているが、本項では著者の意向にそって「害」と云う字を使った。)放送禁止用語を連発して差別を隠蔽しながらも、なんら実態は変わっていないどこかの国にとって、そのように考えてみることは大事なことかもしれない。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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