『開かれ』 ジョルジョ・アガンベン 平凡社ライブラリー

 副題には「人間と動物」とある。なんとも中身を説明しにくいのだが、イタリアの哲学者が人間の定義についての思想史を俯瞰しつつ考察した本とでも云えば良いだろうか。博識な著者が案内する「人間と動物の定義を巡るガイドツアー」みたいな感じ。ただし普通のガイドブックにあるようなメジャーなコースではなくて、わざと道を外したり回り道(しかも悪路/笑)だったりする。進んでいく学問領域は人文主義から分類学、生理学に動物学や解剖学と様々。
 古来、キリスト教系の宗教では人間と動物を厳密に区別してきた。そこには、あらゆる動物は神の似姿である人間に使役されるためにある ――という考えが根底にある。となれば、人間(=魂を持つもの)の定義をどうしても明確にしておく必要があり、しかもそれは「動物ではないもの」といった消極的な定義ではなく出来れば「〇〇する存在」という明確なものが望ましい。かようにヨーロッパではこれまで人間と動物を区別するための概念がさまざまに考えられてきたわけだが、残念ながらいずれも上手くいかなかった。
 それは何故か?著者はそれら過去の取り組みによる考察(=「概念装置」)を「人類学機械」と呼ぶ。そしてそこで考察された人間の定義を「機械仕掛けの光学機械で歪められた像」として退け、これまでのものとは違うスタンスで考察していく。数多くの領域を軽やかに横断しながら......。

 具体的な内容に移ろう。本書で取られている方法はフーコーの系譜学の手法。過去からの文献を渉猟し、それらを読み込むことで当時の考えを再構築しようとする。まず取り上げられるのはエゼキエル書にみられる幻視や、グノーシス派の彫刻にある動物の頭部をもつ人々(動物人、無頭人)などの図像。おつぎはスコラ哲学における定義だ。(いずれも古い!/笑)
 たとえばキリスト教で復活した者たちは生前と同じように食事をして排泄するのか?という問題。あるいは性交はどうなるのか?といった難問について、当時の教団がどのように考えたのかを丹念にひもといていく。(自分からしたら正直どうでもいいような気もするが、当時の人々にとっては大問題だったのだろう。)
 そこから見えてくるのは人が「(人として)生きる」とはどういう意味かという問い。つまり終末のときに「復活」するのはどの属性までなのか、あるいはどのような存在としてなのかということ。排泄や生殖といった営みを否定するということは、すなわち自然状態に「生きている」動物の姿を天国から抹殺するということに他ならない。
 “分類学の父”であるリンネによる人間の定義も取り上げられる。本書によればそれは人間とは「自らを人間と認識する動物のこと(意訳)」らしい。これなどはトートロジーっぽいが結構皮肉が効いていて面白い。別の説としては19世紀末のユダヤ系の言語学者ハイマン・シュタインタールによる、「言語の有無が人間と動物を分ける」というのもある。しかしこれらの定義も人間と動物の中間的な存在を考え出すと自己撞着に陥りたちまち破綻していく。(例えば人狼や人熊のような「人獣」と、狼に育てられた少年「動物人」など。)どうやら人と動物の間には、限りなく接近はできても最後にどうしても飛び越えることのできない深い断絶があるようなのだ。ヨーロッパの思想家たちは、結局のところその深い溝をあちこちに恣意的に動かすことしか出来てはこなかったといえる。

 しかし画期的な考察はユクスキュル(*)によってもたらされた。彼の「環世界」の概念は、生物にとって世界は全く違うものだとする認識論や認知科学への道をひらいたものと言える。本書の白眉は何と言っても、ユクスキュルからその後のハイデガーへと至る考察を取り上げた部分だろう。(それにしてもユクスキュルの考え方がハイデガーに影響を与えていたとは知らなかった。言われてみれば確かにハイデガーの云うところの「世界内存在」というのは、まさにユクスキュルが提唱した「環世界」に生きる生物の認識に近いのかもしれない。)

   *…19世紀から20世紀に活躍したドイツの生物学者。『生物からみた世界』が有名。

 ハイデガーによれば、人間と動物を分かつのは動物の「放心」と呼ばれる状態らしい。それは「何かをそのものとして知覚する一切の力を剥奪された状態」だそうだ。(分かりにくいが、何も考えないで受け身の状態のままぼけっとしている感じかな?)
 例えば石のような非生物にとって世界は無いも意味しない。ただそこにあるだけである。次に人間にとって世界とは、様々な目的のためにその都度意味合いを変えて立ち現れるものであって、「世界内存在」とはそのような形で世界を認識・意味づけして状況に応じその都度「開くことができる」存在(=人間)を意味する。それでは動物はどうか。本書によれば動物とは非生物と人間の間で宙つりになった状態なのだそうで、これをハイデガーは「露見なき開示」と呼んでいるらしい。(だとすれば道具を使う猿やカラスはどうなのか?などと思ってしまってはいけないのだろうな。/笑)
 ちょっと余談になるが、ここで思ったことを少し。ハイデガーのこの定義はちょっと恐ろしい考えにつながるものなのかも知れないと思った。世界を意味づける意識こそが人間を人間たりえているものだとすれば、自己意識を持たないまま生きているものや「倦怠」(≒惰性で過ごす無気力状態)に陥った者は、少なくともハイデガーの考える意味では“人間ではない”ということになりはしないのだろうか。そこから脱して未来へ自らを投企していかなくてはならないとハイデガーは説くが、それは動物の「放心」とはいったい何が違うのだろう。いくら両者は根本的に違うと主張しても、外側からは区別できないほどに酷似しているのは否定できない。とすれば(ニーチェの超人がナチスによって曲解され優生学的思想に利用されたように)ハイデガーのこの考えも根本的なところで絶滅収容所へと近づいていく危険を内包するものではないのだろうか。

 閑話休題。アガンベンは、ハイデガーの「動物の放心」と「世界の開かれ」をめぐる関係は、ちょうど否定神学と肯定神学の関係にも似た両義的なものであり共犯関係にあるものだという。そして本書のタイトルでもある「開かれ」(das Offene)とはすなわち“開かれ/リヒトウンク”であり、同時に“無化/ニヒトムンク”でもあるのだと述べる。しごく納得できる意見ではある。彼によれば、ハイデガーは(人間と動物の間の定義という)アポリア/難問を、旧来の人類学機械によって解決できると信じた最後の思想家であったとのことだ。うーん、なんだか格好いい表現。こういうの好きだなあ。(笑)
 ハイデガーの次にはベンヤミンも取り上げられる。彼の思想はグノーシス派のように自然を(悪しき神に創られた)不完全なものとしてではなく、むしろ至福の原形に据えたものだそうだ。人間は「ある程度まで自然」と重なっており、人間を自然から切り離している要因は「性的充足」であるというのがベンヤミンの見解らしい。うーん、ベンヤミンは殆ど読んでいないからよく解らないなあ。性によって人は、羞恥や嫉妬や隠蔽の智恵を知るということだろうか。(これもまたしっくりこないけれど。)
 人間という概念は、人間自身が恣意的につけた区分でしかないとはっきり認める方が理にかなっているような気もするな。ただこの考えは、啓典の民であるキリスト教徒やユダヤ教徒には受け入れがたいところなのかも知れないが。

 以上、あちらこちらをふらふらと彷徨いながら、「人間とは何か?」について考察を続ける本書を読むことで、久しぶりに頭の体操になった。本書を読むことで単純に答えが見つかるわけでも無いのだが、たまにはこういう事を考えるのもいい。少なくとも様々に交差する考察を読むだけでも充分に刺激的な経験だった。読書の愉しみとはこういうところにあるのだよねえ。
 最後に余談になるが、本書の題名である「開かれ」というのは、すなわち人が人であることの根拠は“自らを外の世界へと開いていく試み”にあるのだということを示しているのかも知れない。アガンベンの主著であるとされる『ホモ・サケル』も読んでみたくなったぞ。
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『教皇ヒュアキントス』ヴァーノン・リー 国書刊行会

 先日、簡単な感想はアップしたのだが、せっかくなのでもう少し書き足してみたい。

 著者ヴァーノン・リーは19世紀末にヨーロッパで活躍した女性作家で、歴史や音楽、文学、芸術などに関する研究書の他、本書のような幻想小説などのフィクションも書いた。イタリアを中心にイギリスやフランス、スイスなど各地を転々としたそうで、英語の他フランス語、ドイツ語、イタリア語を自由に使いこなせたらしい。(以上、翻訳者の中野善夫氏による「訳者あとがき」による。)
 とまあ、偉そうに書いてはみたが、実をいうとこの作者はつい近年まで名前すら知らなかった。彼女の名前を知ったのは、『短篇小説日和』(*)という本で読んだのが初めて。本書にも収録されている「聖エウダイモンとオレンジの樹」だった。

   *…西崎憲氏の編訳による2013年刊行のオリジナルアンソロジー。奇妙だったり
      怖かったりと、とても面白い短篇ばかりを集めた本で、姉妹篇の『怪奇小説
      日和』(2013)ともども翻訳小説ファンにはお薦めの作品集。A・E・コッパード
      やエリザベス・ボウエンなど、この2冊で初めて知って後から作品集を買い求め
      た作家も多い。

 その次にヴァーノン・リー作品を読んだのは『怪奇小説日和』所載の「七短剣の聖女」。(これは本書には「七懐剣の聖母」という題名で収録されている。)本書が出るまでは僅かこの二作を読んだのみだったのだが、懐古趣味とも違う一種独特の雰囲気が強く印象に残った。かたや中世を舞台にしたキリスト教の聖者の奇蹟の物語、かたやドン・ファンの如き放蕩児を主人公にした千夜一夜物語のようなエピソード。いずれも古風で端正な作りの文章でありながら、題材はユーモアだったり怪奇であったりと多彩な内容で飽きさせない。
 もっと他の作品を読んでみたいと思ったのだが、ウィキペディアで調べても実はヴァーノン・リーの名前は出てこないのだ。「よほど知られていない作家なのだなあ」などと失礼な感想を呟きつつ、ツイッターでお付き合いさせて頂いている中野氏が翻訳を完成させるのを一日千秋の思いで待ち続けた。脱稿から販売価格決定までのやりとり、林由紀子氏の美しい版画を使った素晴らしい装丁や中野氏による奇抜な販促活動等々、本書を巡るとても面白いエピソードは山ほどあって実は現在も進行中なのだが、それは本書の中身とは別の話。またの機会に譲ることとしよう。
 以下に本書収録の作品名を挙げる。

 「永遠の愛」
 「教皇ヒュアキントス」
 「婚礼の櫃(チェスト)」
 「マダム・クラシンスカの伝説」
 「ディオネア」
 「聖エウダイモンとオレンジの樹」
 「人形」
 「幻影の恋人」
 「悪魔の歌声」
 「七懐剣の聖母」
 「フランドルのマルシュアス」
 「アルベリック王子と蛇女(スネークレディ)」
 「顔のない女神」
 「神々と騎士タンホイザー」

 以上、全部で十四篇。まさに“決定版作品集”といえるだろう。(事実、本書が公表でも同じスタイルで第二集の編纂は出来ないと中野氏も述べている。リーの幻想作品の中でも選りすぐったものばかりを集めたものなのだ。)
 これから読もうかどうしようか迷っている方のために、とても大雑把ではあるが収録作を傾向別に分けてみると、概ね次のような感じになるだろうか。いずれも一篇ごとの濃度が濃くて一度に多くは読み進められるものではない。いやむしろ勿体ないから、一日ひとつずつゆっくりと味わって読むのが正しい読み方なのかもしれない。

 1.ある種の「ファム・ファタール」(運命の女/魔性の女)とでもいうべき存在を描く作品
  ⇒「永遠の愛」「ディオネア」「幻影の恋人」「悪魔の歌声」
 2.中世キリスト教の聖者・聖女や無垢の心をもった人々の物語
  ⇒「教皇ヒュアキントス」「アルベリック王子と蛇女(スネークレディ)」
    「聖エウダイモンとオレンジの樹」「マダム・クラシンスカの伝説」
 3.悪魔のような男とその報いを描く作品
  ⇒「婚礼の櫃(チェスト)」や「七懐剣の聖母」
 4.掌編ながら強烈な印象で心に残る作品
  ⇒「人形」「フランドルのマルシュアス」「顔のない女神」
 5.ギリシアの神々を題材にしたとても愉快な喜劇
  ⇒「神々と騎士タンホイザー」

 ツイッター上でこれらの作品の中から特に気に入ったものを3つ選ぶというイベントが行われたのだが、参加者の人の選んだ作品が千差万別で眺めているだけでとても愉しい。そして異口同音に「どれも好いので3つに絞れないが敢えて選ぶとすれば」と云っていたのも面白かった。(ちなみに自分が挙げたのは「聖エウダイモンとオレンジの樹」「七懐剣の聖母」「アルベリック王子と蛇女」だが、他に同じぐらい好きな作品として「教皇ヒュアキントス」「永遠の恋人」「ディオネア」「人形」「フランドルのマルシュアス」があり選ぶのに迷った。なおここで名前を挙げなかった他の作品についても、読みごたえのある良い作品ばかりだと思う。)

 ひとつ断っておくが、ヴァーノン・リーの作品は読むのに時間がかかるが、決して読みにくいわけではない。むしろ文章は意味を取りやすく具象的で解りやすいのではないかと思う。ではなぜ読むのに時間がかかるのか?(本が分厚いというのは横に置いておくとして。/笑)
 それは、冒頭にもあげた「古風」という言葉が鍵ではないかと思っている。良くも悪くもヴァーノン・リーらしさはまさにこの「古風」を感じさせるところにあって、尚且つそれは3つの要素からなっているのではないかと思っている。
 まず一つめは「題材」。中世キリスト教や古代ギリシアの神々などはもちろん、昔ながらの貴族階級の暮らしぶりなどがふんだんに取り入れらるなど、産業革命や共産主義の嵐が吹き荒れる現実世界とは一線を画した―― つまりある意味“浮世離れ”した題材を選んでいる点が大きな特徴。逆にこの事こそが、彼女の作品が時代の移り変わりによる風化逃れ、現代にも通用する普遍性をもった理由ではないかという気もしている。
 二つめの要素は「言葉」。「雪花石膏(アラバスタ―)」や「縁飾り(フリンジ)」、「蛇腹(コーニス)」に「荘園領主館(マナーハウス)」といった、普段は目にしないような言葉が頻出するので、意味を理解するのに少し時間が必要だったりするところはあると思う。なおこれについては中野氏による訳文も大きく貢献していて、たとえば「捩れた(よじれた)」「抽斗(ひきだし)」「狡猾(こうかつ)」といった言葉の選び方を見ると、“今使われている読みやすい日本語”による訳とは一味違うこだわりの良さを感じるものである。
 そして最後の三つめは「物語の枠組み」。これについては少し説明が必要かもしれない。昔の物語は語り部による口承が基本にあって、そのため(今の小説のように)いきなり地の文で始まることなく、冒頭に語り手を設定するなどして、物語自体をひとつの枠組みの中に閉じ込めてしまう手法がとられていた。(有名な作品では『フランケンシュタイン』や『ポールとヴィルジニー』などでも二重三重に語り手が設定されており、現代の読者が読むと却って枠が邪魔に感じられることがあるかも知れない。)
 この枠組みのことを通称“額縁”と呼ぶらしいが、ヴァーノン・リーの作品はいずれも誰かが誰かにあてた書簡や日記の形式をとったり、或いは語り手による過去のエピソードの回想という額縁を持っているものが殆ど。物語の外側にそれを語るものが設定されているという点が、先に挙げた二つの要因と共に彼女の作品に古風な印象を与え、且つそれとともに重層的で深い味わいを与える源泉となっているのではないだろうか。(他の方はどうか判らないが)少なくとも自分が本書を読むときは、まるで語り部が炉端で物語を語ったり、古い教会の図書館で古文書を読んでいるような雰囲気に包まれる。これはきっとそのせいであるに違いない。

 定価で4600円(税別)、ハードカバーで解説まで含めると500ページを超える大部ではあるが、どれも粒よりの作品群でたっぷり一月近くを愉しませてもらうことが出来たので、決して高い買い物では無かったと思う。これをきっかけにして、これから日本でもずっと幻想文学の定番として長く親しまれるようになると嬉しいのだが。幻想文学ファンには一生の宝物になるような本だと思うので、迷っている人がいたら是非手に取って読んでみることをお薦めしたい。決して損はしないと思う。あとがきで中野氏が書かれているように、まさに「あり得ないような短篇集」なのだ。

<追記>
 本文では触れなかったが、ヴァーノン・リーの訳書には他に『ことばの美学』という、“美”に関して書かれた文章の抄訳が出版されているようだ。当初は歴史や文学、美術などに対する研究から著述活動をスタートした彼女にとって、本書のような幻想小説を書くということにはいったいどんな意味があったのだろう? 筆名が男性名であることや当時の女性の社会的位置づけを考えた場合、彼女にとって幻想文学とは空想の翼を自由に広げることのできる大事なものであったのかもしれない―― そんな風に考えたりもする。出来れば彼女にとって単なる手慰みなどではなく、そんな存在であったのだと信じたい。なぜなら本書により、自分にとっても彼女の作品は大切なものになったわけだから。
 最後になったが本書を世に出してくれた関係者の皆さんと、そしてこの本が世に出る瞬間に立ち会うことが出来た幸運に感謝して終わりとしたい。

第2回名古屋SF読書会レポート(課題本『虎よ、虎よ!』)

 昨年に開催した第1回読書会(課題図書はアーシュラ・K・ル・グィン『闇の左手』)に引き続き、第2回目を無事に先日開催することが出来た。今回の課題図書は前回と同じく過去の名作シリーズで、アルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ!』。
昨年2月に翻訳ミステリー大賞シンジケートが主催する読書会に初めて参加して、あまりの面白さに病み付きになってしまい、有志で第1回を開催したのが昨年11月22日のこと。その他、名古屋SFシンポジウムなどのイベントが開催されたりと、名古屋のSFシーンが活気づいたのもきっかけのひとつだが、要は好きな本について話をする場がもっと欲しかったのだ。(笑)
 なにしろ最初は何しろ手さぐり状態。参加人数の予測も出来ず、ふたを開けてみれば応募者が多くてひとつのテーブルに19人がぎゅうぎゅう詰めとなってしまった。それでも参加者の皆さんのご協力により結構充実した読書会になったと思うが、事務方としては反省しきりだった。(ひとつのテーブルで大人数だと、ひとりあたりの発言数が減ってしまうし、詳しい人と初めての人が同じテーブルなので進行に気を遣う。あまりマニアックなところに入り込むと初めての人を置いてけぼりにしてしまうし、かと言って深い話にならないと熱心なファンの人には不満が残るだろうし......。参加者の皆さんの幅広い意見を充分に披露して頂くには、本当はひとテーブル10人程度が理想なのだ。)
 今回はそれらの反省を踏まえ、なおかつ前回参加者を募ったときの反応の早さも考慮して、思い切って人数を前回の2倍近い30人に増やしたうえで複数のテーブルを準備できる会場を取ることにした。(*)
 結果的には有り難いことに東京や茨城、静岡といった遠方からも(わざわざ宿泊までして)参加いただいた方もいて、とても活気ある読書会になったのではないかと思う。これも積極的に愉しもうという姿勢の参加者の皆さんのご協力と、当日のボランティアスタッフを快くかっていただいた皆さんのおかげであり、この場を借りて深く御礼申し上げます。

   *…最終的には29名の参加者にメインスタッフ3名を加えた32名での実施となった。

 さて、それでは当日の内容についてご報告をば。
 進め方はミステリー読書会の方式をそのまま踏襲して、前半は3つの班に分かれてのグループ討議。司会はスタッフの三人がそれぞれ受け持ち、板書をボランティアスタッフの方にお願いする。グループ分けは事前にお願いしていたアンケートの、皆さんの読書傾向や読書会参加経験などを参考に決めたもの。SF好きの人や読書会初参加の人、本は好きだがSFを殆ど読んだことがない人など、色々なプロフィールの方のバランスを考えながら割り振る。大まかには「SFについて語りたくて仕方ない人たち」「海外SFをこれまで殆ど読んでいない人たち」「読書会に参加するのが初めての人たち」といった感じ。(それぞれのグループは司会係の名前の頭文字をとってW班/N班/H班と呼ぶことにした。ちなみに当ブログの管理人はH班であり、以下の記載はH班の内容を中心にすることになるので悪しからず。)

 H班は“読書会に出たことが無い”で括ったので、メンバー11名の内訳が比較的バラエティに富んでいた。海外SFは読まずとも日本SFは割と読んでいる人や、映画にとても詳しい人、ミステリー読書会からの参加者、SFそのものを読んだことが無い人や逆に海外SF大好きな人など様々。まずは初対面同士のアイスブレイクを図るため、ネームプレートを周囲に見せながらの自己紹介と課題本の簡単な感想を述べていくことにした。
 そうしたら、「物語に共感できるところが全くない」「話の展開が飛び過ぎてついていけない」といった否定的なものから、「最高に面白い」「ジョウントがかっこいい」などの肯定的なものまで千差万別な意見がいきなり飛び出してきた。色んな意見が出る方が読書会としては愉しくなるので、とてもいい感じだ。ひと通り感想を述べたところで適当に話を振りながら意見を述べてもらうフリーディスカッションへと移るが、のっけから次々と積極的に発言する人が多かったので、司会としては大変助かった(笑)。出た意見を順不同で幾つか挙げてみよう。

<登場するキャラについて>
 「主人公への印象は最初は酷かったが、後からどんどん向上した「女性の扱いが酷いが発表年代(1956年)を考えるとまあこんなものかも」「とんでもない状況に巻き込まれる主人公なのに、逆に周囲を翻弄している」
<物語の解釈>
 「多様な読み方が出来る」「悪漢小説としても教養小説としても読める」「最後は『2001年宇宙の旅』で有名になったニーチェの超人思想まで行きつく」「ジョウントは信仰である」「宗教小説としても読める。例えば科学人のリーダージョセフはイエス・キリストの父親と同じ名前。最初は水の洗礼で後から火の洗礼を受ける救世主としてのフォイル」「青ジョウントには何のイメージを投影?」「顔に施される刺青はどんな意味?(聖痕?)」「歌舞伎の隈取りと同じか?」「主人公の女性への扱いは当時流行したハメットやミッキー・スピレーンなどSEX&VIOLENCEの影響か?」
<作品への印象>
 「SF的なガジェット(小道具)がとにかく沢山でてきて賑やか」「タイポグラフィの処理がとても面白かった原書でどんなふうだか見てみたい」「ミステリーとして見た時には最後まで物語の設定が隠されていてびっくり」
<他作品への言及>
 「昔、巌窟王がアニメ化されたが、元々『虎よ、虎よ!』をアニメ化したかったのが出来なかったためである」「『サイボーグ009』や『AKIRA』にも使われたアイデアの源流」「身体的な欠陥をもつ超能力者は『地球へ...』『人間以上』などにも出てきた」「ワイドスクリーン・バロックというSFジャンルの嚆矢とされている作品」
などなど……。都合1時間半近くのディスカッションで、細かく挙げだすときりがないのでこれくらいにしておこう。(面白いかどうかは別にして作品としての好きか嫌いを挙手で訊いてみたところ、好き=6名/好きじゃな=5名という結果だった。)

 活発な意見交換により、ひとりでは思いもつかなかったような解釈が披露されるのが読書会の醍醐味。そのたびにグループの中から「おおー」という声が出る。板書係の人は気になる意見を書き留めていくのだが、どれも鋭い意見なので大忙しだ。その結果、最初は「何が何だか解らなかった」という感想を述べていた方も、この作品がオールタイムベストSFの上位にいつも選ばれている理由については、それなりに納得されたようだった。
 そしてあっという間の1時間半が過ぎたところで一旦グループディスカッションを止め、「本書の次に読むのにお薦めの本」を10分程度出し合うこととし、大方の意見が出そろったところでちょうど前半終了なった。
 
 これまでのところは(鋭くも活発な意見交換ができたにせよ)普通の読書会とそう変わらない。ミステリー読書会方式の真骨頂はむしろこれからである。10分間のトイレ休憩の間に車座にしてあった机を全て退かし、一面に各班のホワイトボードを横一列に並び直した上で、ホワイトボードが見える位置に椅子を置いて全員が真っ直ぐに座る。そしてそれらのホワイトボードを見ながら、各班の司会者が前半に出た意見を他の班の人たちに紹介していくわけだが、まさに板書の係の記録センスと司会者のプレゼン技術が問われるところではある。(笑)
 他のグループの意見で自分の印象に残ったものとしては、たとえば次のようなものがあった。
 「ニューヨークが核爆発にさらされる恐怖が物語の原イメージにあるのではないか。そしてパイアは核爆弾の暗示」「歪な上流社会やスパイ小説的な雰囲気はディレイニーらに影響を与えている」「突き詰めると盲目のオリヴィアと主人公フォイルの相克の物語である(オリヴィア=熱力学的視点/フォイル=古典力学的視点)」「冒頭のナレーション風記述はディケンズ『二都物語』が元ネタ」「超能力(という胡散臭いアイデア)に時代性を感じる」「ダーゲンハムは(アメコミの『ウォッチメン』に出てくる)Dr.マンハッタンぽい」「フォイルが何度も死と再生を繰り返す」「ガジェットやキャラがとても漫画的」「映画にしたら面白そう」「出てくる女性は全て(やんちゃな子供である)フォイルに対する母親の位置づけ」etc.
 ホワイドボードに書かれた言葉に対する質疑応答も行うので、中には「ロビンを裸にしてない」なんていう記載について「どういう意味?」といった質問も(**)。会場は参加者全員による熱気あふれる意見交換の場となった。

  **…訳書には“ベッドに放り出して裸にした”とあるが、原書にあたってみたら
       ベッドに放り出すだけで裸に剥くという記述はないそうだ。訳者の筆が
       走り過ぎたか?(笑)
 
 いよいよ時間も最後に近づいたので、「(本書の)次に読むならこんな本」を紹介することに。出たものをざっと列記してみる。
 『モンテ・クリスト伯』デュマ
 『分解された男』『願い星、叶い星』ベスター
 『≪魔王子≫シリーズ』ヴァンス
 『ねじまき少女』バチガルビ
 『バベル-17』『ノヴァ』『エンパイア・スター』『時は準宝石の螺旋のように』ディレイニー
 『カエアンの聖衣』『禅銃(ゼンガン)』『シティ5からの脱出』『永劫回帰』ベイリー
 『スキズマトリックス』スターリング
 『ニューロマンサー』ギブスン
 『幼年期の終わり』『2001年宇宙の旅』クラーク
 『宇宙船ビーグル号』ヴォクト
 『人間以上』スタージョン
 『ハイペリオン』シモンズ
 「苦痛思考」ティプトリー(『故郷から10000光年』所載)
 『夜の写本師』乾石智子
 『屍鬼』小野不由美
 『サラマンダー殲滅』梶尾真治
 『マルドゥック・スクランブル』冲方丁
 『紫色のクオリア』うえお久光
 『スターレッド』萩尾望都
 『スカルマン』石ノ森章太郎
 『コズミックゲーム』聖悠紀
 『エスパー魔美』藤子・F・不二雄
 『手天童子』永井豪
 「ジャンパー」(映画)
 「LOOPER/ルーパー」(映画)
 「ナイフ」(芝居)
 『カミングス詩集』
 よく似たジャンルの作品から『虎よ、虎よ!』へのオマージュ、もしくはテーマが関連しているものなど内容はディスカッションの時と同様に多岐に亘っていて、まさに読書会の面白さを凝縮したようなリストになっていた。会場ではホワイトボードを写真にとったり携帯電話にメモをする人の姿も見受けられた。

 というわけで、14:00から16:45まで、途中10分の休憩を入れて2時間半あまりがあっという間に過ぎ去って、次回の課題本を多数決で決めてお開きとすることに。結果、複数の候補のなかから圧倒的多数で『華氏451度』(レイ・ブラッドベリ)に決定となり、第2回名古屋SF読書会は終了した。
 およそ4分の3の参加者がそのまま二次会へと突入し、かくして名古屋のSFの夜はさらに熱く更けていったのだが、その話はまた別の機会に譲ることにしよう。

<追記>
 最後になりましたが、当日を愉しく盛り上げてくださった参加者の皆さん、とりわけ早速ブログにレポートを挙げてくださったO_bakeさん、SFコミュニケーション研究会の皆さん、青の零号さん、放克軒(さあのうず)さん、どうもありがとうございました。また当日のボランティアスタッフを快く引き受けてくださったelekingさん、おもちΩさん、ゲルンさん、お陰様で大変うまくいきました。ありがとうございました。(elekingさんには二次会の幹事まで引き受けていただき誠に感謝する次第であります。)皆さんにはこの場を借りて読書会スタッフからお礼を申し上げます。それでは次回、第3回の読書会でお会いしましょう。

※次回は下記の内容で決定です。近くなりましたらツイッター等を通じて告知します。
  日 時 :7月26日(日) 14:00~16:45
  場 所 :名古屋駅前
  課題本:レイ・ブラッドベリ『華氏451度』(ハヤカワ文庫など)


<追記2>
今回の読書会の記事をアップして頂いた皆さんのブログです。
O_bakeと読書とひとりごと
 本と音楽をこよなく愛するO_bakeさんのブログです。

SFコミュニケーション研究会活動記
 SFインターメディアフェスティバルを主催したSFコミュ研の皆さんによるブログです。

Biting Angle
 G・ウルフとR・A・ラファティが大好きな、青の零号さんのブログです。

異色もん。
 青の零号さんと同じく関東から駆けつけてくださった放克軒(さあのうず)さんのブログです。

2015年3月の読了本

 今月は年度末の殺人的な職場スケジュールに加え、読書会の開催や息子の帰省などが重なってゆっくりと本を読む時間が取れなかった。最低目標にしている月10冊が読めないのはつらいが、4月になり少しは落ち着けることを期待したい。(でもどんなに忙しくても本は読むよ。/笑)

『監視機構』 ジェフ・ヴァンダミア ハヤカワ文庫NV
『全滅領域』に続く「サザーン・リーチ三部作」の第2作。突如出現した<エリアX>を舞台に調査隊の運命を描いた前作とはうって変わり、本書は<エリアX>を管理する官僚組織とそこに新しく赴任してきた局長の物語。いかにもSF的で魅力的な舞台設定にも関わらず、そこで展開されるのが鬱々とした心理描写と権謀作術である点は、前作となんら変わらない(笑)。J・G・バラード『結晶世界』の世界で延々と続く『ハイ-ライズ』、あるいはクリス・ボイス『キャッチ・ワールド』において宇宙戦艦の中で行われた降霊会が、最初から最後まで延々と繰り広げられているとでもいうか。(読んでいない人にはさっぱり解らない喩えで申し訳ない。/苦笑)はたして次の『世界受容』でちゃんと決着がつくのだろうか?

『メディアはマッサージである』 マーシャル・マクルーハン/クエンティン・フィオーレ 河出文庫
60年代の知のシーンを席巻したメディア論の旗手マクルーハン。本書は彼の文章の中から抜粋・編纂して、コラージュ写真をつけた本。(デザイナーのフィオーレと編集者のエイジェルという二人の人物による共同作業とのこと。マクルーハン自身は制作には関与していないのかな?)ページをめくると“如何にも”な写真と文章が目に飛び込んでくる。マクルーハンは本邦に紹介したのが竹村健一氏だったというところからして、いかがわしさが満載だった。学生時代は実はあまり好きな著述家ではなかったのだが、今回読み返してみたら丸ごとパッケージとして鑑賞することができ、それが時代を感じさせて意外と好かった。厨二病も黒歴史も遠く過ぎ去ってから振り返りし時は、古いカサブタを剥がすような感じで(笑)、存外懐かしく感じられるものかも知れない。訳者の門林岳史氏と日本語版のデザイン監修を行った加藤賢策氏による、写真や当時の状況を説明した“副音声解説”が付くのも思い出しながら読むのに最適。

『知ろうとすること。』 早野龍五/糸井重里 新潮文庫
福島原発事故の直後からツイッターで情報発信し続けた科学者と”ほぼ日新聞”の主催者による対談。科学者が依って立つべき姿勢について語る。判断のため正確な知識を持つ事、誠実である事、そして開かれている事こそが未来を作る。
 学校のテストのように白黒はっきり決められるものならともかく、現実世界の問題は簡単に決着をつけられない。いくつもの要因がモザイクのように絡んで、どの側面に着目してどこに目をつぶるのかで結論は大きく変わり、それがいわゆる「政治的なスタンス」というものであろう。どんなスタンスを取ろうが個人の自由ではあるが、しかしその際にひとつだけ守らなくてはならないことがある。それは事実を直視し、事実について誠実である事。歴史認識など当事者の認識の仕方に直結する問題の場合は難しい面もあるが、少なくとも自然科学の領域に対しては誠実であるべき。自らの信条を貫き通すためには、方便としてどんなことを言っても構わないという人を自分は信用しない―― とまあ、そんな事を改めて考えるのに良い本だった。リーアン・アイスラーのひそみに倣えば、ISのような“剣”的な文化とほぼ日のような“聖杯”的な文化のぶつかり合いは、危機の時にこそ見えてくるものなのだと思う。(男女の性別や職業、社会的な肩書きには関係なく。)

『虎よ、虎よ!』 アルフレッド・ベスター ハヤカワ文庫
 云わずと知れた50年代SFの名作。3月29日に行われた第2回名古屋SF読書会のため、数年ぶりに再読した。何度読んでも傑作だと思う。『モンテ・クリスト伯』に着想を得た、未来世界を舞台にした悪漢小説にして教養小説。SF的な手法でしか描けない奇想に溢れる一冊。死と暴力と憎悪と贖罪、不具と無知と怒りと悔恨、時間と空間と共感覚、そして信仰と救済と覚醒。どこから読み解くことも出来そうな、悪趣味と興奮に満ちた快作にして怪作であり、こういうのを読みたいからこそ、自分はSFを読み続けているのかも知れない。

『イスラーム 生と死と聖戦』 中田考 集英社新書
日本人には珍しいイスラーム法学者による、ムスリムの死生観と倫理観を解説した本。イスラーム法の理想に忠実な宗教家でもある著者は、巷にあふれる付け焼刃的な解説本とは一味違った解釈を示して興味深い。後半にはISの”聖戦”を巡る純粋なイスラム的解釈が開陳されていて、近代国家の概念そのものを否定し、イスラームの法による統治を理想とするその論考は大変刺激的なものではあるが、おそらく日本では誤解を招くだろうと思われる。(本人はおそらくそのあたりについては確信的に行っている節がある。)いつの日か世界中がイスラームの教え(シャリーア)に基づく宗教国家で覆い尽くされることを夢描く著者の思想は、異教徒である大半の日本人からするとあまりにも異様に思えるだろう。大学(東大文学部イスラム学科)の後輩にあたる池内恵氏による解説が、そのあたりの危惧とともに現実の日本社会との橋渡し的な役割をしてくれていて有り難い。出来る事なら、いきなりこの本を読むよりは、もっと入門的な本を読んでイスラム教自体への理解を深めてからの方が良いと思う。

『教皇ヒュアキントス』 ヴァーノン・リー 国書刊行会
19世紀ヨーロッパの作家による幻想小説集で、翻訳家の中野善夫氏によるオリジナル編集。なお著者は男性名だが実は女性で、イタリアやイギリス、フランスなどヨーロッパ各地を転々とした人物。古代ギリシアや中世キリスト教などに題材を取った、古風で品の良い作品が特徴。本書は文字通り粒よりの短篇ばかりが集められていて、正直どれも甲乙つけがたい出来。中野氏自身が“おそらく満足が行く形での続刊は出せないだろう”というほどの、まさしくベスト・オブ・ベストのセレクションとなっている。そんな中で敢えて好みを挙げるとすれば「聖エウダイモンとオレンジの樹」「七懐剣の聖母」「アルベリック王子と蛇女」あたりだろうか。でも本当は表題作も「永遠の恋人」も「ディオネア」も「人形」も「フランドルのマルシュアス」も、そしてそれ以外の収録作も全部好きだ。価格は5000円近くするのでちょっと手を出しにくいかもしれないが、本来なら作者の著名度や凝った本の造りなどからして、1.5~2倍近い値段がついていてもおかしくは無かった本なので、幻想文学ファンなら買っても決して後悔はしないと思う。
 本書は中身や造本も話題となったが、それ以外に送り手(訳者、装幀家など)と受け手(読者)がツイッターを通じて様々な“遊び”を繰り広げ、本書の刊行自体が一大イベントとなったことが印象的だった。まずは足かけ3年に亘る中野氏の苦闘の実況中継に引き続いて、脱稿後は刊行記念の栞や初版限定の蔵書票サービス、それに中野氏お手製の豆本のプレゼントなどがツイッター上で大変話題となり、さらには自然発生的に始まった読者による「ヒュアキントスのある本棚」の写真投稿や、古書店を巻き込んでの販売イベントもなど、作り手と受け手が一体となった“ヒュアキントス祭り”が大変に愉しかった。(「饅頭」をネタにしたツイッター上の冗談から、やがて世界に一冊しかない豆本「饅頭ヒュアキントス」が生まれたエピソードなどは、これからもきっと語り草になるのではないだろうか。)新しい形の読書のあり方/愉しみ方を示してくれたという意味でも、画期的な一冊だと思う。

『モンテ・クリスト伯(一)(ニ)』 アレクサンドル・デュマ 岩波文庫
 『三銃士』の作者による超有名作。むしろ日本では『巌窟王』という名前の方が有名かもしれない。『虎よ、虎よ!』の元になったと聞いて、読書会を機会に読み始めたのだが、噂に違わず大変に面白い。今でいえばスティーヴン・キングや夢枕獏のジェットコースター・ノベルに近いのかもしれない。全7巻とまだまだ先は長いが、ぼちぼちと読み進めていこう。

『生命と記憶のパラドクス』 福岡伸一 文春文庫
 分子生物学者の著者が週刊文春に連載した66のミニコラムを集めたもの。気楽な読み物だが、テーマは研究の話から生物の進化、ITや読書にフェルメールの絵画など幅広い。研究者の人が書いたエッセイは愉しくて好きだな。子供の頃に読んだ本の話題も出てくるが、氏が筒井康隆の大ファンとは知らなかった。岩崎書店のSFジュブナイルの思い出などもあって、ちょっと意外。小さい頃に接した自然やSF小説の魅力で、理系分野に進んだ人間は案外多いのだろうか。”センス・オブ・ワンダー”を「気づくことのなかった世界の豊かさに不意打ちされること」と述べているが、これは上手い表現だとおもう。今度から使わせてもらおう。(笑)
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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