良い酒、良い眠り、そして良い本

 唐突だが、「良い酒」と「良い眠り」は似ている気がする。良い酒は水のようにノドを通過していき、良い眠りは本人が寝たことすら気付かないままに朝を迎える。明鏡止水の心境とでもいおうか、変に主張をしないで自然にこちらに寄り添ってくる感じ。
 それは本についても当てはまる話なのかも知れない。例えば“今ひとつな本”を読んでいる時は、(まるで不味い酒や寝苦しい夜のように)本の世界に浸ることが出来ず、途中で何度もページの進み具合を確認してみたり。それに比べて面白い本の場合は、時間のたつのも忘れて一気呵成に読み切ってしまう。良い酒/良い眠り/良い本、どれも自分をことさらに意識させないという点では同じなのかもしれない。
 思えば子供の頃には、学校の図書室に「良い本」が山のようにあった。親が子供に読ませたい本という意味ではなく、子供が読んで面白いと思える本。自分が子供の頃のことを考えてみると、今と違って予備知識も無いので表紙絵や題名をみて直感で本を選んでいたように思う。いざ読み始めると、自分がどこにいるかも忘れて物語の世界に没入していく。そして最後のページをため息とともに閉じたとき、やっとそこが自分の部屋だった事を思い出すのだ。良い時代だったのだろう。
 しかしそんな読書体験が出来たのは小学生のころまでであって、大人になってからは我を忘れるほど面白い本に出会えたことは残念ながら数えるほどしかない。知識や経験とともに雑念が増えてしまったせいか、本を読みながらも明日の仕事のことをふと思い出したり、色んなことを考えてしまって没入するところまではいかないのだ。あんなに夢中になれる読書をすることができたのは子供なればこそ。今となっては二度と出来ない貴重な体験だったような気がする。
 でも大人になるのは必ずしも悪いことばかりではない。知識が増えたことで子供の頃には気が付かなかった作者の仕掛けや物語の背景が深く理解できるようになり、重層的な愉しみ方が出来るようになったという点では却って良かったとも言えるだろう。好きな作家が出来て系統的に読むようになり、さらには書評やネットの評判を参考に本を選ぶようになった結果、大人になってからは極端なハズレを引くことは無くなったように思う。

 ただ、書店をうろうろしていると、これまで知らなかった本を見かけることがままある。(そりゃそうだろうね、年間数億冊が出版されているのだから。/苦笑)そんな時は題名や帯をみて食指が動き、ついふらふらとレジに持っていくこともしばしば。そうやって買った本は、やはりどうしても“打率”は悪くなる傾向がある。そんな時は、読み進むうち「予想と違うぞ。なんかまずい物買っちゃったかな?」なぞという気持ちがふつふつと湧いてくるのは否めない。(笑)
 そんな時はどうするか。自分の場合は、1.我慢して一気に最後まで読んでしまう/2.途中で別の本を挟みながらチマチマと齧るように制覇する/3.読みたい気分が再び湧き起こるまで本棚の「読みかけ本コーナー」に置いておく、のいずれかになることが多い。(ちなみに読むのを諦めてしまうことはまずない。子供の頃の嫌いな食べ物とは違って、大人はたとえ詰まらない本であっても読み残したりはしないのだ。もったいないからね。/笑)

 ――「いい酒、いい眠り、いい本」の話題から始まっておかしな話になってしまった。ともあれそんな失敗もたまにはあるが、それでも新しい本へのチャレンジはこれからもずっと続けて行くだろうと思う。それはまだ見ぬ巨匠、自分の知らない傑作にいつか出会えると信じているから。
 もちろん絶対にハズレが無い「良い本」を読もうと思えば、お金さえ出せば手に入れられないことはない。値段が高くて買っていないハードカバーの作品などはまだまだたくさんある。定評のある絶版作品を古本屋で手に入れることだって出来る。お金さえ払えばね。良い酒と同じく良い本だって、それなりの値段を払えば手に入れることはできるのだ。でもそれだけでは何だか詰まらない。いざという時のために良い本は手元に常に確保しつつも、見知らぬ新しい本との出会いにもまた果敢に挑戦していきたいものだと思う。そして手に取った本が期待に違わず面白かったときの気持ちの良さといったら......。(ついでに読み終わった頃に新聞の書評で取り上げられているのを見つけたりするのも、またひとつの愉しみだったりして。)このように本の世界の愉しみ方ひとつとっても、なかなかどうして奥深いのだ。
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『黄金時代』 ミハル・アイヴァス 河出書房新社

 著者ミハル・アイヴァスはプラハ在住のチェコの作家。日本での本格的な紹介は長篇『もうひとつの街』(2013年2月刊)に続いて2014年11月の本書が2作目となる。(正確には高野史緒氏によるアンソロジー『時間はだれも待ってくれない』に『もうひとつの街』から訳出が一部あり。)プラハといえば錬金術や魔術のイメージ。曲がりくねった路地裏に佇むゴーレムなんかがすぐ頭に浮かぶわけだが、さすが本書もさすが一筋縄ではいかない。一読、強烈な印象を残す幻想作品となっている。(ちなみにロシア・東欧地域では、SFやファンタジーや幻想小説のジャンルを全部ひっくるめて「ファンタスチカ」と呼ぶらしい。)

 物語の舞台はアフリカ西の沖合、スペイン領カナリア諸島とカーボベルデ共和国の間にあるとされる架空の島。かつてその島に暮らしたことがある語り手が、当時の記憶を辿りながら人々の暮らしぶりについて書きつづったという設定になっている。
 全体の構成は大きく二つに分かれていて、前半は島での暮らしぶりがまるで文化人類学のテキストのような味わい。つづく後半はその島に伝わる“ある物”についての紹介がなされている。
 前半に描かれる様々な風景、たとえば時刻により異なる匂いを漂わせる水の壁で囲まれた「上の町」や、首都である海辺の「下の町」とそこにある王宮の様子などは、何とも言えず静謐で奇妙な魅力に溢れている。加熱調理を一切行なわない島の(とても食べ物には思えない/笑)伝統料理も可笑しいが、なんといっても想像力をかき立てるのは島の人々が使う言葉や文字についての解説だろう。
 膨大な数の接頭辞や接尾辞と複雑な格変化をそなえた島の言語。そして象形文字のように記号と図像の境界どころか、意味とモノの境界すらやすやすと超えてしまう文字の描写は、途中で何重にも挿入される様々なエピソードと相俟って、読んでいると眩暈すら覚えるほどだ。
 本書中のある挿話の中で語られる「ありとあらゆる場面が詳細に描かれた巨大な細密画」のように、細部まで微に入り細に入り描き込まれたひとつひとつのエピソードの面白さに目を奪われながらも、本書を読み進むにつれて徐々に不安になっていく自分にふと気が付いた。

 「いったいこの本は何が書かれているのだろうか?」

 しかし心配は無用だった。後半に至り、それら全てが作者の企てる壮大な仕掛けの一部としての意味を明らかにしていくにつれ、静かな興奮が湧きあがってくる。アラビアンナイトを思わせるエキゾチックでグロテスクな物語の開幕とともに、一気呵成に最後まで読み切ってしまった。
 レーモン・ルーセル(『アフリカの印象』)やジーン・ウルフ(『ピース』)、それにマーヴィン・ピーク(『ゴーメンガースト』)などが好きな人なら、またボルヘスやガルシア=マルケスにブルガーコフなどが気になる人も、きっと本書を気に入るのではないかと思う。実をいうと訳者の阿部賢二氏は本書を訳すのに4年をかけたと小耳に挟んだのだが、(真偽のほどは知らないけれど)納得できる話ではある。日本語で読んでもこれだけ読み応えのある本を訳すのは、さぞやご苦労だったことと思う。本を読むことの愉しみというのは、おそらく本書のような作品を読むことを云うのだろうねえ。
 最近は翻訳小説が売れなくて出版社や翻訳家の方が困っているという話をよく聞くが、こういう本は是非とも売れて欲しいものだと思う。本書の英訳版がAmazonの2010年度SF・ファンタジー部門で一位を獲得したということだが、その肩書は決して伊達ではない。
 
 とまあ、以上がネタバレなしの感想。ここから先は本書の内容に触れるので、未読の方はご注意いただきたい。




 ここまで書いてきたように前半部分も文化人類学的な興味で大変興味深かったのだけれど、実をいうと島の言語や文字や記号とモノのエピソードのつながりが、いまひとつピンと来ていなかった。やたら細かい描写の羅列と脈絡なく挿入され脱線を繰り替えす物語に、なんとなくモヤモヤしたものを感じていたのは事実だ。
 しかしその印象が一変したのは後半に差し掛かって一変した。島に伝わる唯一の芸術である一冊の「本」(*)が登場してから、前半に延々と続いた脱線や錯綜は実はこの「本」の形態を真似たものであることが徐々に判ってくる。ここにきて本書は俄然メタフィクションとしての相貌を見せ始める。
 後半はこの「本」の仕掛けと、その中のひとつのエピソードを中心に語られることになるのだが、何しろこの「本」というのがすごかった。

   *…島で一冊しかないので名前は無く、ただ「本」とだけ呼ばれている。

 ボルヘスの書いた「砂の本」という短篇(平凡社ライブラリー『砂の本』所載)をご存じだろうか。この作品には、開くたび違うページが出てきて二度と同じ内容が読まれることのない本(=砂の本)が出てくる。本書に出てくる「本」は、またそれと違った形で物語の極北を示していると云えるだろう。
 その「本」にはあらゆるページのあらゆる箇所に、蛇腹になった薄い紙で本文に対する註釈や挿話が張り付けられ、さらにその註釈に対して新たな註釈が付けられるなど、始まりも終わりも無い巨大なオブジェと化している。「本」は島民の間で順繰りに回されていて、ある人によって描き込まれたひとつの物語は、また別の人によってあるいは付け加えられあるいは削除され、変幻自在に変貌を遂げてゆく。時には水がかかって滲み消えてしまったページも出てくるが、残された文字の跡(沁み)さえもが読み解かれ、また別の意味を持った言葉として立ち上がってくる。
 先ほども少しふれたように、まさにこの「本」を成り立たせている仕組みこそが、本書の前半で執拗に語られた「島」の言葉であり文字であり、はたまた意味とモノの境界を曖昧にする言語構造であったとうわけだ。(この仕掛けが徐々に見えてきた時には、背中をぞくりと走るものがあった。)
 そして1/3を過ぎたあたり(第34章)からいよいよ、本書の一番のヤマ場である「本」の中のひとつながりの物語(**)へと向かうことに。これまでどちらかというと動きが少なかった本書は、ここへきて突如勢いづいて読者を翻弄し始める。

  **…ふたつの王家が何代にもわたって繰り広げた争いの物語。息をつかせぬスピード
      感と、エキゾチックで残酷な描写は、帯で古川日出男氏も書かれているように
      『千夜一夜物語』を彷彿とさせる。

 しかしこれだけ面白い挿話であるにも関わらず、この「本」においてあらゆる物語は特定人物による創作ではなく、複数の人間による恣意的な挿入と加工により、ある時期にたまたま成立した偶然の産物でしかない。(しかもその時そのページをたまたま目にした者だけが読むことのできる物語でしかない。)つまりは物語であるにも関わらず物語られることが否定され、メタフィクションになってしまっているのだ。まるで無限に連なる小さな鱗が形を変えてきらきらと、角度によってそのつど違った模様を描くようにも見える。まさに無限増殖する迷宮としての書物がここには現出しているといえるだろう。
更に凄いのは「本」が、(比較的よくあるように)外部に拡散・増殖してやがてバベルの図書館と化す“本の無限”ではなくて、まるで「アキレスと亀」の如く極小の中に本の無限をみてるということ。いや、これは面白い。エッシャーの無限循環の絵をみるようでもある。
 本書の中には「本」に関する次のような描写もある。

 「物語は何層にもわたって相互に挿入されているため、内部の奥深くに入ろうとする者にしてみると、「本」は、歯車や伝動装置が何層にもなっている、目的のはっきりしない巨大な機械のような印象を与えていた。」

 これなどは、そのまま本書に当て嵌まることではないだろうか。誤解を恐れず言えば、西崎憲氏の一連のファンタジー作品(『世界の果ての庭』や『ゆみに町ガイドブック』など)にも共通するような雰囲気があるようにも思えてしかたがない。複数の視点からなる構成で最初は緩やか動きだしながらも、やがて渦を巻いて急流と化し読む者を呑み込んでいく作風は、『もうひとつの街』でもそうだったように思える。これは果たして著者の特徴なのだろうか、それとも東欧という地域が伝統的に持つものなのだろうか。
 いずれにせよ、本棚にはお気に入りの一冊がまたひとつ増えたようだ。

『近代化と世間』 阿部謹也 朝日文庫

 副題は「私が見たヨーロッパと日本」。地味な書名だが(失礼!)中身はすこぶる面白い。著者は中世ドイツの文化や賤民意識を通じて西洋社会の成り立ちを研究した人で、『ハーメルンの笛吹き男』や『刑吏の社会史』などの著作はとても好きだ。晩年は興味の対象を日本の歴史意識まで広げて(というか立ち返り?)、「世間」という言葉をカギにして日本社会に関する様々な文章を著した。本書はその集大成とでもいうべきエッセイで、2006年に刊行され最後の著作となった 元々は朝日新書で出ていたのだが、今回の文庫化により多くの人が手に入れやすくなったのは良い事だと思う。
 全体は3つの章に分かれていて、第1章一は西洋の中世社会おいて共同体のもつ意味と賤民意識の誕生、もしくは共同体からの追放といった、著者がこれまで研究してきたテーマの大まかなおさらいになっている。次いで第2章では舞台を日本に移し、明治以降の日本社会が拠りどころとしてきた「世間」という概念と、そこで重要視される「贈与・互酬」という価値観について考察する。最後の第3章は少し毛色が変わり、日本哲学学会での講演を文章に起こしたもの。西洋と日本の歴史に対する意識の違いについて、(第1章・第2章と若干重複する部分はありながらも)その概要について簡潔にまとめられている。
 では第1章から順に印象に残ったところを紹介していこう。

 ヨーロッパにおいて共同体を一歩出ると、その先に広がっている“森”は「生者の領域」である村落と異なり、狼や死者が跋扈する「存在の夜の領域」であったそうだ。(日本の場合は、小松和彦氏による“異界”という表現がぴったりくるだろうか。西洋とは違って必ずしも人間社会に敵対するものではないと思う。)
 9世紀頃のゲルマン共同体では、許されざる罪を犯した者は「平和喪失者」を宣告され、オオカミの皮を着せられ或いは頭から被せられ「wargus/人狼」として森へと追放される。人間と動物もしくは生者と死者の境界が無い社会において追放された者は生きながら死者と見做され、その時から妻は寡婦、子供は孤児とされる。共同体からの追放とは当人を生者の領域から「夜(死者や魔)の領域」へと排除する行為を意味し、そのシンボルこそが森であったのだという。
 しかし追放された者が必ずしも全て死に至ったわけでもないようだ。「人外」とされた彼らは時に徒党を組んで人間社会に敵対し、森から生者の村に介入して復讐を為したとある。もしかして村人によって“平和喪失宣言”を宣告され追放された者は、人外になると同時に意識まで変容してしまったのかもしれない。そして彼らが訪れる四旬節や十二夜(=“狼の時”)は、百鬼夜行のように死者の軍勢が通り過ぎるとされる時とされるようになった。(その様子は村人たちにとって、まるでトールキン『指輪物語』や映画「ロード・オブ・ザ・リング」に出てくる冥王サウロンの軍勢のようなものだったかも知れない。/笑)

 以上、森は中世西洋の人々にとって恐ろしい世界であったわけだが、人間に制御しきれないものが実はもうひとつあった。それは火や水といった「自然」に属するもの。(森もある意味ではそうかも知れない。)
 炎は竃(かまど)などの特殊な手順を踏んで後にやっと使いこなせるものであり、取り扱いには細心の注意を要する。少しでも使い方を誤ると家屋や村落を丸ごと破壊してしまう可能性すらある、恐れる(畏れる)べきもの。従って当初中世ヨーロッパでは、死者/火/水といった人間には御しきれないものを扱うスキルを持つ者たち、すなわち煙突掃除夫/水車挽き/刑吏/埋葬人といった人々は、聖なる存在として扱われていたのだそうだ。(*)

   *…本書では詳しく書かれていないが、「宇宙につながるもの」としては他にも“性”
      が制御されるべきものとされたらしい。

 しかしこれらの伝統的な価値観はおよそ12世紀になって大きく変貌を遂げた。それはキリスト教により罪の告解が行われるようになり、「個人」という概念が生まれたためだ。キリスト教は聖なるものへの憧憬や、神と個人が直接対峙することによって、自己意識というものの純化を推し進めた。その結果、それまでの「他者との絆によって自己の存在を確認する社会」や、自然と村落(=人間)という二つの宇宙に基づいて生活してきた人々の価値観は大きく動揺した。そして心情的に二律背反する感覚のなか、聖なる職業とされてきた煙突掃除夫ら「宇宙と関わる人々」が賤視されようになっていったのだそうだ。
 とまあ以上が第1章の大雑把な内容。これまで色々な本で考察してきたテーマがコンパクトにまとめられている印象だ。(ちなみに中世の人々の伝統的な価値観を脅かすものは他にもあって、本書では王や教皇といった世俗もしくは宗教上の権力の存在、もしくは貨幣経済と共同体の関係などについても軽く触れられている。詳しく知りたければ他の著作を読むことをお薦めしたい。)
 
 さて次の第2章では冒頭にも書いたように、日本について述べられている。著者によれば日本はキリスト教圏とは違って、個人ではなく「世間体」というものが基本となっている世界なのだそうだ。(ドイツをはじめとするヨーロッパ社会に比べ、日本において「個人」が敬意をもって遇されることが少ないのはそのため。)日本は明治維新をきっかけに西洋の技術や習慣を取り入れはしたが、人間関係つまり社会と個人の関係は以前から何ら変わっていない。「個人」に対する意識はあくまで貧弱であり、社会は今でも「世間」を中心に動いている ――とまあ、これが著者の考え。(こうしてみると、西洋的な価値観に立って考えれば、日本はまだまだ成熟していない社会といえるのかも知れないね。)
 ではここでいう「世間」とはいったい何なのか?著者によればそれを読み解くヒントは「贈与・互酬」の関係にあるのだそう。お中元やお歳暮といった贈答において、贈り手は実は相手のことを「ひとりの人格(=個人)」とみてはいない。その人が置かれている「立場」を示す存在として品物を贈っている。日本ではまた「長幼の序」(=年上を敬う教え)というものも根付いているが、これもその人自身ではなく年齢という属性に対する対応でしかない。
 時間に対する意識も西洋とは違っている。「今後ともよろしく」という挨拶は「(同じ世間に住むもの同士なので)あなたとはいつかまた会う機会がある」というのが前提になって初めてなりたつ言葉なのだと著者はいう。「先日はどうも」というのも同様で、視線が過去に向かってはいるが結局は“同じ世間”であることを前提にした言葉。まさに「世間は狭い」のだ。さらに言えば、日本では“公共性”というのも単に「大きな家」という意味合いでしかなく、最終的には家長である天皇に行きついてしまう概念。かように「世間」というものは、生者のみならず死者まで含んだある種の人間集団として捉えられる概念なのだそうだ。うーん、なるほど。言われてみると何となく納得できる気がする。
 著者による日本社会への容赦ない分析はまだ続く。明治期になって初めて伝わった“Society/ソサエティ”という言葉に「社会」という訳語を、そして“Individual/インディヴィジュアル”に「個人」という訳語を当て嵌めるまで、日本にこれらに掃討する概念は無かったとのこと。なんと、わずか150年余り前まで日本には、今でいうところの社会も個人も存在しなかったのだ。(!)
 そのためだろうか。日本において子供は家庭の中では、幾つになっても親から常に半人前としてしか扱われない。(ただしこれには儒教の影響もあるのかも知れない。)社会に出ても同じで、ややもすれば世間が同様に“ひよっこ”として処遇しがち。成人式でも子供のように暴れる連中がいつまでも減っていかない。また家庭が「世間」を温存する牙城となってしまっていて、家事は女性がやるべき仕事と決めつけられている……。きっと社会における女性やマイノリティに対する差別が無くならないのも、これらと同じ理由によるものなのだろう。「女子ども」などという呼び方残っていることが、それを端的に示しているような気がする。
 著者は言う。日本には「個人」がないから人の尊厳や命にも無感覚になるし、政治でも「隷属することに慣れて」しまうと。(ときに「慣れている」が「馴れている」ではないかとさえ思えてくるほどだ。)以上、第2章に書かれていることはどれも重いが主張には極めて同感。第2章は本書の中では一番読み応えのある部分だった。これまで著者の晩年の本(日本を取り上げたもの)は殆ど読んだことが無かったが、これからもう少し読んでみたいと思った。

 さて、最後となる第3章は、日本哲学学会で行われた、西洋と日本の歴史に対する意識の違いについての講演の記録。
 西洋においては専門家らの研究に基づいてつくられた「歴史学」が、やがて(庶民や小説家らの創作である)「歴史的神話」に敗北していくさまが語られ、対する日本では「世間」が「歴史」に与えた影響について、先の章よりさらに噛み砕いた感じで語られている。
 日本では明治に輸入された「西洋的な公的世界」(≒理性、自己のあり方を基本とするもの)と、「伝統的な私的世界」(≒空気を読む、義理と人情を基本とするもの)の二重生活が送られていて、伝統的世界のなかでは文字や言葉は大して重みをもたない。(これは政治家の発言を見ればよく解る気がする。)
 それは何故かというと、世間における真実とは“言葉”ではなく“振る舞い”だからなのだそう。そして社会差別に対する運動は殆どが欧米の言葉や概念の輸入であるため、それに基づいた活動は日本では上滑りしてしまう。世間とは所詮虚しいものであり、その中に浸っている人々は外に目を向けることは無い。未来は自ら切り開いていくものではなく、自然と起こる結果を静かに受け入れるのが美学とされる。常に「今」しかなく、四季が毎年同じように繰り返されるだけの円環構造をなす。その結果、変化や進歩という概念は、世間を基本とする社会には存在しない。そこに住む者たちにとって世間とは外界から自らを守ってくれるゆりかごであり、歴史とは世間の外にあるものでしかないのだ。そこに決して「自分達で作る」という当事者意識はない。(この辺のくだりは、第2章とかぶって非常に耳が痛い内容だった。)
 なぜそのような価値観が生まれたのか?著者はその理由については最後に軽く触れるにとどめているが、それによれば、これらの日本的価値観は本居宣長による「記紀」の解釈に始まるらしい。本書ではさほど詳しく書かれていないのだが、自分は先日読んだばかりのカスーリス著『神道』(ちくま学芸文庫)の内容とうまく結びついて腑に落ちるものがあった。偶然とはいえ、この2冊を続けて読むことが出来て良かったと思う。(**)

  **…ただし「欧米の自然諸科学の現状を仏教の視点から見直すこと」こそが著者に
       とって重要だというくだりについては、正直よく解らなかった。もっと勉強
       しなくては。(笑)

 他にも著者が一橋大学学長や数多くの大学で教鞭をとった経験を基に、大学教育の崩壊について語った文章などもあって盛りだくさん。厚さはさほどないけれど、中身がぎっしり詰まった濃い本だった。満足、満足。

2015年あけましておめでとうございます

 激動の2014年が終わり、新しい年が始まりました。政治の世界や社会ではキナ臭かったり暗い話題も多い昨今ですが、明るい一年になると良いですね。幸いにして読みたい本は増え続け、本好き仲間の輪は広がるばかり。あとは自分が頑張りさえすれば、まだまだ愉しいブックライフが過ごせそうです。(財布には厳しいですが。/笑)

 いつも本ブログをご訪問いただきありがとうございます。本年も皆様にとりまして良い年になりますように。そしてもっともっと本の世界が広がっていきますように。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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