My Choice/2014年印象に残った本

 今年は下半期に仕事が忙しくなったせいもあって、読書量がガクッと減ってしまった。来年は何とかしたいものである。一方で読書会を始めとする本を通じたお付き合いが非常に活発にできたのは良かった。これは今後もぜひ続けて行きたいものである。本を読む喜びを何倍にも増やすことが出来るのが好いね。さてそれでは今年の締めくくりとして、これまで読んだ本の中から「印象に残った本」を挙げてみよう。

<新刊部門> ―今年出版された本―
『ピース』 ジーン・ウルフ 国書刊行会
  *西崎憲氏と館野浩美氏の二人の訳者による快挙。よくこれだけの本を日本語に移せ
   たものだと感心してしまう。あいかわらずの“信頼できない語り手”が“油断ならない
   読書”の愉しさを誘う。今年出たSFでは個人的にはベストかな。読んだ小説の中でも
   1,2にを争う出来だと思う。
『ゴーレム』 マイリンク 白水uブックス
  *やっと読めた幻想文学の有名な傑作。白水uブックスはエライ!悪夢のようなプラハ
   の町が描写される。
『生命(ゼーレ)の哲学』 岩渕輝 春秋社
  *19世紀ヨーロッパの“知の巨人”グスタフ・フェヒナーの生涯と彼の思想の変遷を
   辿るノンフィクション。
『満足の文化』 J・K・ガルブレイス ちくま学芸文庫
  *80年代のアメリカ社会における中産階級に着目し、高所得者層を含む「今の生活
   に満足している人々」が選挙の趨勢を握るようになった状況を分析した本。今の
   日本でこそ広く読まれるべき本ではないか。
『世界堂書店』 米澤穂信/編 文春文庫
  *『折れた竜骨』や『氷菓』などの作品で有名なミステリ作家・米澤穂信氏が、世界中
   から選りすぐった短篇を選んだアンソロジー。これまでに出版された訳書からのセレ
   クトなので既読の作品も中にはあるが、短篇の好さを存分に味わうことが出来る。
『女の子よ銃を取れ』 雨宮まみ 平凡社
  *ファッションを中心に、世の中の女性が“外観”に関して感じている「生きづらさ」を
   楽にしてくれるエッセイ。
『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』 高原英理/編 ちくま文庫
  *文章(文学)で表現されたゴシック趣味“リテラリーゴシック”の出現を高らかに告
   げる大部のアンソロジー。かなりこだわりのある“尖った”選定なので当然自分の好
   みと合わない作品も出てくるわけだが、それも含めて非常に刺激的な本だった。
   こういうものがもっと出てくると、出版界はもっと活性化するのではないか。(単に自
   分が読みたいだけとも言える。/笑)
『喰らう読書術』 荒俣宏 ワニブックスPLUS新書
  *わが敬愛する読書人である著者が、一番面白い読書の仕方と紙の本への愛着を
   熱く語った一冊。いわゆる“役に立たない読書”の指南書として、これはもう最強なの
   ではないか、という気もする。まるで名人の話を聞いているような心持ちになれる。
『「下り坂」繁盛記』 嵐山光三郎 ちくま文庫
  *こちらもまた腹が据わった著者による名人芸のような一冊。”不良中年”改め”暴走
   老人”となった著者による、無手勝流のその日暮らしのすゝめ。
『江戸しぐさの正体』 原田実 星海社新書
  *現在大きな問題となっている架空の"江戸"の道徳の嘘を暴き警鐘を鳴らす。現在
   の文部科学大臣は江戸しぐさに限らず数多くのオカルト史観やトンデモ理論を信奉
   しているようなので非常に心配。小中学生の子供を持つ親や学校関係者は必読で
   はなかろうか。
『熱帯雨林の彼方へ』 カレン・テイ・ヤマシタ (新潮社)
  *長らく入手困難になっていたマジック・リアリズム文学の傑作の復刊。ラファティや
    ガルシア=マルケスやヴォネガットを彷彿とさせるような物語が展開する。
『郵便局と蛇 A・E・コッパード短篇集』 ちくま文庫
  *比類なき短篇作家コッパードのオリジナル作品集で西崎憲・編訳。これも長らく入手
   困難だった本の文庫化で大変に嬉しかった。冒頭の「銀色のサーカス」から「郵便局
   と蛇」「うすのろサイモン」「若く美しい柳」と続く流れがまず堪らない。悲しさも残酷
   さも含めて極上の作品集といえるだろう。
『怪奇文学大山脈Ⅱ』 荒俣宏/編纂 東京創元社
  *全3巻で構成される西洋近代名作選のうちの第2巻。『短編小説日和』や『怪奇
   小説日和』、それに『世界堂書店』といったアンソロジーと同様、本を読むことの面白
   さを再認識させてくれるような作品が並ぶ。早いこと第1巻と第3巻も読んでみなけれ
   ば。
『近代化と世間』 阿部謹也 ちくま文庫
  *中世ドイツを中心としたヨーロッパ文化研究で知られる著者が、「個人」を基本とする
   西洋的な価値観と「世間」を中心とした日本的な価値観を比較した本。今の日本社会
   に根強く残る差別や諦観といった「負の価値観」が、「世間」を基にした個人意識に依
   るものだという分析が、衝撃的ながら説得力を持つ。
『神道』 トーマス・カスーリス ちくま学芸文庫
  *日本独自の”宗教“である神道を客観的な眼で分析した本。漠然とした体系を「実存
   的神道」と「本質主義的神道」とに分類し、それぞれの古代からの変遷を辿る。


<既刊部門> ―古本・絶版とりまぜて今年自分が読んだ本―
『皆勤の徒』 酉島伝法 東京創元社
  *出版は2013年8月だが読み終わったのが2014年1月だったので昨年のリストには入
   れられなかった。イマジネーションの極北といえそうな連作SF集。独特の造語を駆使
   した異様な文章によって、人類の未来史が語られる。
『白熱光』 グレッグ・イーガン 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
  *これもぎりぎり2013年12月に出たので昨年読めなかった本。現代物理学の最新理論
   を生で描くのでなく、物語としてうまく取り込んでいるところが好い。個人的には“ハー
   ドSF作家イーガン”の現時点での最高作ではないかとおもう。
『エレンディラ』 G・ガルシア=マルケス ちくま文庫
  *4月17日に訃報が流れたノーベル賞受賞作家の短篇集。久しぶりに読み返したがや
   はり傑作。
『ストリート・キッズ』 ドン・ウィンズロウ 創元推理文庫
  *こちらも読書会準備のための久しぶりの再読。へらず口を叩きながらも懸命に生き
   るニールの姿が心を打つ、新感覚ハードボイルドの傑作。何度読んでも面白いもの
   は面白い。
『所有せざる人々』 アーシュラ・K・ル・グィン ハヤカワ文庫
  *恥ずかしながらこの年になって初めて読んだ。しかし若い頃に読んでも本書の好さ
   は理解できていなかったかも知れない気もする。硬質で刺激的な思弁に満ちた長篇
   SFであり、『闇の左手』とならぶ著者のSF作品の代表作。
『ストーカー』 アルカジイ&ボリス・ストルガツキー ハヤカワ文庫
  *敬愛するストルガツキー兄弟の代表作だが、ながらく入手困難になっていた本。
   復刊フェアで再び手に入るようになったのが嬉しいが、次はぜひとも『蟻塚の中のか
   ぶと虫』の復刊を希望したい。

 こうしてみると、今年の読書のキーワードは「アンソロジー」「読書会」「マジック・リアリズム」といったところだろうか。(「怪奇と幻想」の傾向はずっと続いている。)読みたい本は次々と出るので、あとは何とかして読書時間を捻出しなければいけないなあ。
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2014年12月の読了本

『ヰタ マキニカリス1』 稲垣足穂 河出文庫
  *題名の意味はラテン語で「機械的生活」という程度の意味だろうか。稲垣足穂の作品
   の中で、宇宙や機械への憧憬をテーマにした作品ばかりを集めた短篇集の上巻。
   冒頭には「一千一秒物語」も収録されていて、自分にとってはタルホの最良の部分が
   集められた作品集と言えるかもしれない。本書に収録されているもので云えば、自分
   にとってのタルホ作品の魅力とはまず、「一千一秒物語」や「緑色の円筒」のような無
   機質で人工的な宇宙的コント、次に「セピア色の村」や「白鳩の記」のような儚さにこそ
   あると思う。(少年愛の方はよく分からない。/笑)そして儚いものの美しさというの
   は、昼の強い陽光を浴びると色褪せて蒸発してしまうのだよね。その意味ではタルホ
   も大乱歩と同じく「夜の夢こそまこと」というべき作家かもしれない。ところで「白鳩の
   記」についてだけれど、この作品は飛行機事故と飛行機乗りたちの悲哀と、彼らに憧
   れる少年のリリシズムを描いた佳品。でも読んでいるうちに何故かJ・G・バラードの
   『クラッシュ』を思い起こした。『クラッシュ』からエロティシズムを抜くとこんな感じ
   になるかもしれない。廃墟趣味にも通じるところがあって、バラードやタルホの魅力
   (の一部)は案外こんなところにもあるのではないだろうか。
『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』 オブライエン 光文社古典新訳文庫
  *オブライエンを初めて読んだのは大瀧啓裕氏の訳によるサンリオSF文庫『失われ
   た部屋』だった。その後、創元推理文庫で『金剛石のレンズ』として出たが、今では
   どちらも入手困難な状態。と思ったら、訳者の南條竹則氏の強いこだわりで新たに
   古典新訳文庫から出ることになった。南條氏のオブライエンに対する愛情を感じる
   セレクトと解説がとても好い。どれも読んで愉しい話だが、表題の二作と「なくした部
   屋」、「ハンフリー公の晩餐」が特に好きかな。
『ポンス・ピラトほか』 ロジェ・カイヨワ 景文館書店
  *カイヨワは評論『遊びと人間』が面白かったが、幻想小説を書いているとは知らなか
   った。(本国では小説の方が有名という話も。)本書の副題は「カイヨワ幻想物語集」
   といい、いずれ劣らぬ出来の幻想作品が4つ収録されている。なかでもイエスの処刑
   をめぐる皇帝の代理人の苦悩を題材にした、表題作の幻想味はとても素晴らしい。
   他に好みだったのは、読むうちに眩暈がしてくるような「宿なしの話」かな。
『野蛮な読書』 平松洋子 集英社文庫
  *講談社エッセイ賞を受賞した読書エッセイ。「野蛮な読書」とは、行き当たりばったり
   で手を伸ばして本を読み、脈絡がないように見えて実は思いもかけなかった繋がり
   と広がりがある、そんなわけのわからなさを持った読書のことらしい。ある本の事を
   書いているかと思ったら、突然全く違うところへと連想が広がっていくので、びっくり
   しながらもそれが愉しい。本と食がテーマのエッセイはハズレが無くて好いね。
『怪談と名刀』本堂平四郎 双葉文庫
  *元本の刊行は昭和10年と大変に古い。実在するさまざまな刀剣にまつわる怪談や
   奇聞を、当の刀に関する薀蓄と共にまとめた何とも不思議なしつらえの本。刊行か
   ら長らく埋もれていた本だが、アンソロジストの東雅夫氏がその中から怪談エピソ
   ードを抜粋して復刊した。(原本には他にも仇討物や武勇譚などが多く収録されて
   いるらしい。)人名・地名など聞き慣れない固有名詞が多いので読むのに少し時間が
   かかるが、物語自体は化け物退治や辻斬りといった“犯罪もの”など不思議で奇怪
   な話が満載で、まるで講談を読んでいるように愉しい。(なかには異類婚姻譚の
   “蛇聟/へびむこ”まである。)ただし末尾に書かれている「タナゴ腹」「砂流」「松皮
   肌」「寸延び」といった刀剣に描写や薀蓄の方は、そちら方面に詳しくないためとんと
   解らぬ。残念。
『黒い破壊者』 A・E・ヴァン・ヴォークト他 創元SF文庫
  *「宇宙生命SF傑作選」と銘打ったアンソロジー。ヴォークト『宇宙船ビーグル号』の
   第1話の元になった作品を雑誌掲載の形で収録した表題作を始め、全部で6篇の作
   品からなる。表題作やシュミッツの「おじいちゃん」も好みだが、何と言ってもヴァンス
   の「海への贈り物」が堪らなく好きだ。
『ビブリア古書堂の事件手帖6』 三上延 メディアワークス文庫
  *古書の話は面白いが、古書を題材にしたミステリとなると、どうしても蒐集にまつわ
   る書痴たちのどろどろした人間関係が中心となりがち。物語も暗い展開になることが
   多いと思うが、本シリーズでは主人公と女性店主のロマンスをうまく散りばめることで、
   そのあたりを巧くいなしている。「爽やかな紀田順一郎ミステリ」とでも言えばいいだ
   ろうか。(笑)
『赤い右手』 ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ 創元推理文庫
  *とにかく豪快な展開。時系列を混乱させながら勢いに任せて読んでいくと、最後には
   本格ミステリの味わいでアクロバティック且つ見事に着地を決める怪(快)作。どこと
   なく『ドグラ・マグラ』を連想させる『赤毛のレドメイン家』のような印象をもった。ミ
   ステリマニアの人ほど楽しめそうな気がする。
『インド夜想曲』 アントニオ・タブッキ 白水uブックス
  *著者タブッキはブッツァーティと同じイタリアの作家。タブッキはこれまで読んだことが
   無くて本書が初めて。ブッツァーティの作品は『タタール人の砂漠』や『七人の使者』
   など不条理な展開が好きだが、こちらはまた違った意味で幻想的な趣きが好い。
   行方不明の友人シャヴィエルを探してインド各地を遍歴する“僕”の旅を読み進むうち、
   暑く眠れないインドの夜に夢と現実が溶けていくような酩酊感を誘う。著者が序文で
   「これは、不眠の本であるだけでなく、旅の本である。」と述べているが、ブッツァーテ
   ィよりもアメリカ作家のブローティガンあたりと比較した方が良いかも知れない。また
   “人探しをする話”という見方をすれば、安倍公房『燃えつきた地図』やアラン・ロブ=
   グリエ『消しゴム』と同じように、本書もミステリとして読むことが出来るかもしれな
   い。思いのほか面白かったので、著者の別の作品もいつか読んでみたいな。
『エクスタシーの神学』 菊地章太 ちくま新書
  *副題に「キリスト教神秘主義の扉をひらく」とあるように、聖者たちの絵や像にみられ
   る恍惚とした表情(エクスタシー)を題材にして、キリスト教の神秘思想について紹介し
   た本。(ただし著者の専門の関係から、イタリアやフランスなどラテン語圏の国が中心
   となっている。)中世から二十世紀にかけてそれらの国々で、聖職者や信者たちが神
   の神秘とどのように向き合ってきたかについて、具体例を挙げながら示す。ちょっと
   寄り道が多いのと事実の記述がやたら多いので論旨がつかみにくいのが若干難点
   だが、話自体は分かりやすい。神秘主義実例集もしくは実践編といった感じ。本書を
   読んでふと思ったのだが、「キリスト教神秘主義」というのは神と人間が(教会組織を
   通さずに)直接対峙するので、仏教で言えばいきなり悟りを開く禅宗みたいなものな
   のかもしれない。いや、人間はただひたすら祈ることしかできず、神によって選ばれ一
   方的に恩寵を与えられるのを待つしかないという点では、むしろ浄土宗や浄土真宗
   に近いのかも?それこそが神秘主義の本質であって、その結果、ひとは神の光に包
   まれ、自己が失われて神と一体となることで救いがもたらされるのだと著者はいう。
   (神という宗教的な普遍へは)「自分を捨てることでつながる」り、そこに精神疾患や
   身体的な発作の苦しみを越えたエクスタシーの本質があるのだと。
   とまあ、こう書くと小難しそうな本に思えてくるが、語り口はいたって軽妙。ときどき入
   る冷静なツッコミが妙に可笑しかったりする。例えば「苦しいのがうれしかったり、あ
   こがれだったりする。いったいこの人の精神構造はどうなっているのか」とか。(笑)

今年を振り返って

 今年もばたばたと慌ただしく過ごしているうち、いつの間にか年末となってしまった。年々忙しさを増すばかりの仕事に加え、このところプライベートでも読書関係のイベントが始まったりして忙しく、ゆっくりと本を読んだり文章を書く時間がとりにくくなりつつある。プライベートの用事の方は自分自身が愉しいので別に構わないのだが、仕事が忙しくて本が読めないのはちょっとつらい。そんな時は、以前も書いたように憂さ晴らしでついつい本を買ってしまうので、未読の山は高くなるばかり。困ったものである(苦笑)。
 とはいえ未読が多いということは、世の中に自分が読みたい本がそれだけあるということ。有り難いことであるし、特にここ数年は今までにも増して好みの本がたくさん出ており、フトコロには厳しいが気分的には嬉しい状態が続いている。そんなわけで今回はいつもとは趣向を変えて、新刊で出た小説作品を中心にして自分なりの一年を振り返ってみたい。

 今年についてまず真っ先に思い浮かぶのは、優れた海外作品の収穫が多かったということだろう。世界文学はもちろんのこと、幻想怪奇やSF、それに分類不能な奇想小説といった自分の得意とするジャンルにおいて、長らく名前のみ知られていた作品の初訳に加えて、入手困難だった旧作品の再刊や古典の新訳も順調に進んだ。翻訳小説が読まれなくなって出版量が激減している―― という悲しい業界話をツイッター等でときおり目にすることがあるが、今年のように数多くの作品が手に入る状態が、これからもずっと続いてもらいたいと思う。(本は一度買い逃すと後で入手するのがとても大変なのだが、たしかに近年とみにそれが酷くなっているような気がする。)
 そのため「いつか読もう、明日読もう」とか言いながら、せっせと本を買っているわけで、結果わが家には山と積まれた本が溢れることになる。これは先を見越したある種の“投資”であって、決して無駄遣いしているのではないのだ。(単なる言い訳です。/笑)

 それでは印象に残っているものを具体的に順不同で挙げてみよう。
 まずはロバート・クーヴァー『ユニヴァーサル野球協会』やグスタフ・マイリンク『ゴーレム』、それにカレン・テイ・ヤマシタ『熱帯雨林の彼方へ』といった、入手困難で古書価が高騰していた旧作品の復刊が嬉しかった。昨年でたサミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』やフラン・オブライエン『第三の警官』といい、今年11月に出たばかりの同じくオブライエン『スウィム・トゥー・バーズにて』といい、これらの作品が収録されている白水uブックスのシリーズはこれからも自分にとっての最注目株といえるだろう。
 入手困難ということでは、国書刊行会から出ていたコッパード『郵便局と蛇』(西崎憲/編訳)が増補版としてちくま文庫に収録されたのもとても嬉しかった。同様に今では絶版・品切れとなっているフィッツ=ジェイムズ・オブライエンの作品集が、サンリオSF文庫(『失われた部屋』)/創元推理文庫(『金剛石のレンズ』)に続いて、古典新訳文庫から南條竹則/編訳で三度目の登場(『不思議屋/ダイヤモンドのレンズ』)となったのも、幻想小説ファンのひとりとして素直に喜びたい。(*)
 過去の作品の再来ということでは、何と言ってもマーヴィン・ピーク「ゴーメンガーストシリーズ」の第4巻『タイタス・アウェイクス』にとどめを刺すだろう。それに併せて、過去に出たまま品切れとなっていた『タイタス・グローン』『ゴーメンガースト』『タイタス・アローン』のシリーズ三冊も、新装版として復刊されたのは嬉しい限りだ。おかげで前の物を持っているのにまた買ってしまった。しかも新装版だから字は小さいままなのに。でもいいのだ。蔵書を読み返そうにも、どこに仕舞われているか分からないから。(苦笑)

   *…光文社古典新訳文庫は小説以外にも、エラスムス『痴愚神礼讃』やスピノザ
      『神学・政治論』、ホッブス『リヴァイアサン』といった思想書の新訳でひとり
      気を吐いている。どれも読みやすくて面白い。大したもんである。

 もちろん老舗の岩波文庫の赤帯(海外文学)も負けてはいない。ウラジミール・ナボコフ『青白い炎』の文庫化は幻想文学ファンの間でかなり話題となった。個人的にはホフマン『牡猫ムルの人生観(上・下)』のリクエスト復刊がツボだったかな。
 本邦初紹介の作品では、トルコ発の魔術的リアリズムと称されるラティフェ・テキン『乳しぼり娘とゴミの丘のおとぎ噺』を出した河出書房新社や、アンチミステリのアレクサンダー・レルネット=ホレーニア『両シチリア連隊』の東京創元社、そしてジーン・ウルフ『ピース』にジョン・クロウリー『古代の遺物』といった国書刊行会の他、アンナ・カヴァン『われはラザロ』を出したのような小兵(失礼!)の出版社も健闘していたように思う。(文遊社はそれ以外にも『ジュリアとバズーカ』『愛の渇き』といったサンリオSF文庫から出ていたカヴァン作品も再刊してくれていて、なかなか頑張っている。値段がちと高いのも発行部数を考えると致し方ないところだろう。)今年は数十年前に廃刊となったある文庫を丸ごと取り上げたムック『サンリオSF文庫総解説』(本の雑誌社)が出て、しかも何度も増刷されるほどの売れ行きを示したのが翻訳小説ファンやSFファンの間で大きな話題となった。これなどはもはや“伝説”と化した叢書に対する物珍しさもあるだろうが、一方で(カヴァンの例があるように)良い作品はいつまでも需要があるという証拠なのかも知れない。

 SF関係では、昨年に引き続いて非英語圏の作家の紹介がさらに進んだのが印象深い。フランスからはロラン・ジュヌフォールの『オマル』『オマル2』、イタリアではダリオ・トナーニ『モンド9』、そしてチェコからはミハル・アイヴァス『黄金時代』といった感じ。アイヴァスみたいなロシア・東欧系の作家が注目される背景には、ドストエフスキーがベストセラーになったりウラジーミル・ソローキンがブームになったりした影響もあるのかも知れないが、何にせよ色々な国の作家が読めるのは良い事には違いない。(そういえば当の英語圏では『トマス・ピンチョン・コンプリートコレクション』という化け物みたいな企画が進行中だったりもするな。)
 日本に目をやると、『ラピスラズリ』に続いての山尾悠子作品『増補 夢の遠近法』がちくま文庫入り。皆川博子(『猫舌男爵』)や筒井康隆(『繁栄の昭和』)といった大御所も健在だし、『荒巻義雄 メタSF全集』や『筒井康隆コレクション』の刊行も始まって、海外と同様に入手困難だった過去の作品が(ハードカバーで値段は張るにせよ)ともかく手に入ることになったのは慶賀といえるだろう。筒井康隆といえば、ちくま文庫から名アンソロジー『日本SFベスト集成』の刊行が始まったのもいいニュースだ。
 そしてつい先日は、幻想怪奇の世界では今年最大の話題となる荒俣宏編のアンソロジー『怪奇文学大山脈』(全3巻)が無事に完結した。なんでも聞くところによれば数十年越しの企画だそうで、こうして日の目を見ることが出来たのは、氏にとっても自分のようなファンにとっても、そしてもちろん業界にとっても喜ばしいことだろうと思う。どんな形であれ世に出れば後に残るのだから。

 というわけで、今年をざっと回顧してみた。ここで挙げたのはあくまで自分なりの一年であり、百人の読者がいれば百通りの一年があるのは承知のこと。「ああ、なるほど」と云って頂けるか、もしくは「なんだ、こんな本ばかり読みやがって」と思われるかは知らないが、自分としては満足のいく一年だったように思う。なお今回の記事で肝心な点がひとつある。これまで挙げてきた作品については、一度も「読んだ」とは言っていない点だ(笑)。
 どれを読んでどれを積んであるかについては、読まれた方のご想像にお任せするということでご勘弁願いたい。(これまでの「○月の読了本」を順に見ていけばわかることなので、もしもご興味のある方がいらっしゃればどうぞ。/笑)
 なお文中では数多くの作家・作品に言及したため、まとめて“敬称略”ということで統一させて頂いた。普段の拙ブログのルールと違っているが、悪しからずご承知おきのほどを。

<追記>
 話は変わるが、嬉しいことの一方で今年もまた多くの訃報があった。ガルシア=マルケス、ダニエル・キイス、赤瀬川原平、P・D・ジェイムズといった人々が退場し、また世界が少し寂しくなった気がする。新しい本や作家との出会いがあれば、別れがあるのもまた仕方ないことではあるが……。来年はどんな出会いと別れがあるのだろうか。願わくば出会いの方が多くあらんことを期待したい。(最後にしんみりしてしまって申し訳ない。年末ということで少し感傷的になってしまったのかも。来年もまたガシガシと本を読んでいくので、宜しければまたお付き合いください。)

『神道』 トーマス・カスーリス ちくま学芸文庫

 著者はアメリカにおける日本思想・宗教研究の第一人者だそうで、元の本は初めて日本宗教にふれるアメリカの大学生向けの叢書として出版されたものらしい。(失礼ながら)日本人の自分でもよく解っていない神社や神道について、外国の方がどれだけ理解して書いているのかなー?と思いつつ読み始めたのだが、実のところは全くの杞憂だった。「神道」というものがどんな“宗教”であるかについて、アメリカ人にもよく解るように整理して書かれているし、逆に日本人が読むとこれまで気が付かなかったことを指摘してくれるような本になっている。
 本書は通常よく言われるような「神道は宗教ではなく、単なる民間信仰と習俗の集合体である」という紋切型の結論から脱し、神道を日本独特の「宗教」として捉え直すわけだが、そのために著者が引いて見せた“補助線”が面白かった。それはどんなものかというと、宗教を狭義の宗教(=一般的に我々がイメージする宗教)と広義の宗教(=もっと漠然とした信仰心のようなもの)に分けるというものだ。(*)

   *…前者はキリスト教やイスラム教などのように意識の上で「○○教の信者である
      こと」を殊更に強調するものであって「本質主義的宗教(スピリチュアリティ)」
      と呼ばれ、そして後者は日常の生活習慣まで含む“宗教っぽさ”みたいなもので
      「実存的宗教(スピリチュアリティ)」と呼ばれている。

 日本人は無宗教だといわれることもあるし自らそう名乗ることもあるが、それは日本人が自分のことを例えば「敬虔なキリスト教徒のように、宗教的な考えで自分を律したことが無い」と自覚しているからだろう。しかし近所を散歩している時にたまたま行った神社の境内でお賽銭をいれたり、あるいは正月になると神社へ初詣に行ったりするのは、誰もがごく一般的に行っていることだと思う。そういった行為を広い意味での宗教心の表れと解釈すれば、日本人だって一概に無宗教とも言えないわけだ。
 またそんな”ゆるめ”の活動ばかりでなく、靖国神社に参拝したり天皇誕生日に皇居に行って旗を振るような人も一方では存在する。そのような人たちはきっと日本人としてのアイデンティティを、神社や皇室をないまぜにした一種独特な宗教観に求めているような気がしている。
 実をいうとこれまで自分が神道や神社について考えるときには、ずっとこのあたりの話が心に引っかかっていた。なので本書で神道に先の定義を当てはめて、両者を「実存的神道」(初詣派)と「本質主義的神道」(靖国派)のふたつに分けることで明快に説明しているくだりを読んだ時には、胸のつかえやモヤモヤがすっと晴れたようで大変に気分が良かった。

 ついでに本書において説明される日本人の宗教観についても少しふれておこう。
 まず日本人に特徴的な生命観に関してだが、著者によればそれは「タマ」とか「ミ」もしくは「モノ」という言葉で表されるものだそう。「タマ(≒魂?)」というのは外在であり、「ミ(≒身?)」もしくは「モノ(≒“物の怪”などの物?)」と呼ばれるのは内在であるとのことだ。人は外部から到来する「タマ」に触れることで、元から自分の体中に内在していたスピリチュアルなものを活性化させる。ちょっと注意しなければいけないのは、神社の境内にある注連縄や鳥居といった仕掛け自体は決して「人に霊性を与えるもの」ではないという点だろう。それらは霊的なもの(=カミ)と交信するための単なる目印に過ぎないのだ。極論をいえばそこらの道端に落ちている石ころを目印にしたって構いはしない。
 また中国由来の「気」という概念が西洋には無い東洋独特のとても重要な概念であって、精神的でも物質的でもあるため神道でいうタマに近い。「気」といえば陰陽や太極をすぐに連想してしまうが、(西洋のように)聖と俗や善と悪といった形で明確な二項対立を設けていないことが大きな特徴であるとも言える。
 そもそも神道の信仰は、キリスト教やユダヤ教や或いはイスラム教のように、唯一無二の絶対神(ヤハウェ)に対する畏れなどではなく、あくまで自分を取り巻く自然や人智を超えたもの全てに対する”畏怖の念”とでもいうものが主体になっている。しかも”八百万の神”という言葉が示すように、カミは物質(ミ、モノ)に内在することで、結果的にこの世の全てのものに遍在していることになっている。(密教などで云う「山川草木悉皆成仏」の概念に近いのかな?)神は西洋のように外部から圧倒的なチカラでもって到来するものではないのだ。(**)

  **…本書によれば、純粋な“HEART”と“MIND”を併せ持ったものが「まごころ」と
      呼ばれるもので、それは「本当の自分自身であること」を意味する。そして本当
      の自分とは内在性を持つがゆえにカミと重なり合い相互依存する関係にある。
      言うなれば神道におけるカミとは、あらゆるものの中に存在する一種ホログラフ
      ィー的なものなのだ。

 日本に特徴的な宗教観はまだある。例えばケガレ(穢れ)。ケガレは西洋の「罪/sin」すなわち「ルール違反をしてやろうという行為者の意図を含むもの」とは異なり、本人の意図とは関係なく起こる。もっともポピュラーなのは死のケガレと血のケガレで、接触で他の対象へも移るため、祓うには水/火/塩などによる「浄め」が必要となる。大掛かりな方法としては禊(みそぎ)という儀式もある。
 「地域差」というのも重要な要因であるようだ。キリスト教では神の下の平等を謳うように同質感を重要視するが、例えば祭りにみられるように宗教性と地域社会性という相矛盾するものの共存は、世界的にみればマルティグラのようなカーニバルにも見られると著者は指摘している。ともあれ宗教に地域差があることで日本らしさを感じるという逆説的な意識が珍しい。
 あ、そうそう。そういえば本書によれば「宗教」という単語も19世紀につくられたものだそうで、茶道や華道、剣道や柔道といった実践を通じて心理に至る「道(とう)」ではなく、「教(きょう)」という文字を使ったため、実践よりは教義や信条というイメージが強い感じがする。

 ざっととばしてきたが、以上が本書における日本人の「実存的宗教」に関するエッセンスといったところ。こういった様々な感覚を持つことで、日本人は神社の境内にあるご神木を大切にしたり神社の境内にはいると敬虔な気持ちになったりすると云いたいのだろう。何となく解る。
 
 では次に神道を巡る最もおおきな問題である「本質主義的神道」について。
 結論を先に云ってしまうと、日本の神はそもそも①『古事記』『日本書紀』(=いわゆる『記紀』)にある人格神と②自然への畏怖、それに③死者の霊の三種類が存在していた。その中で人格神だけが明治期以降に政府が国家神道を推進していく過程で強調された。(そして戦後は英霊として戦没者が。)すべての問題はそこにある。また神道においては神の直系の子孫であるとされる天皇がいることで、国家が統治の手段として神道を担ぎ出す素地が固まったともいえる。
 本書の第3章からは神道的な考え方がいかに需要されていったかを年代順に紹介していて、そこを読んでいくと天皇と神道のかかわりが解りやすく示されている。ここから靖国神社の現在を考察する第5章までが本書の一番のヤマ場ではないだろうか。(特に日本人にとっては大事な部分だと思う。)
 以下、簡単に流れを紹介しよう。本質主義的な神道の流れは、古くは聖武天皇の命により編纂されたとされる『記紀』により道筋が作られ、聖徳太子によって強力に推し進められた。それによって、タマを通じてカミが全ての人々(日本人)と同一化し、さらに天皇がカミの直系の子孫とされることで、全ての人(日本人)は天皇を敬い且つ天皇は未来永劫その地位に居続けるべき―― という理論がいったんは確立することになる。
 しかしその後の歴史において密教の出現とともに、その流れは大きく後退することになった。なぜなら密教と神道の考えが似ていることで、仏教の最高神・大日如来と神道の最高神・天照大神が同一化(神仏習合)していったから。まさに「神も仏もない」というやつだ。(本来の意味とは違うが/笑)
 こうして17世紀初頭までは神仏習合のままに持ちつ持たれつの関係がずっと続いていくが、その流れに次に決定的な変化が加わったのは徳川の時代。幕府が檀家制度の徹底を図ったことで、まず仏教が世俗化していった。その後、幕府が導入を図った朱子学により仏教が一時的に攻撃を受けたため、神仏習合で仏教と一蓮托生になっていた神道も結果的に弱くなってしまった。次には林羅山による神仏ならぬ神儒習合の試みを経て「主君と家臣の精神的な一体化」といった変貌を遂げ、その後の神風特攻隊などの思想的背景に利用されるに至る。
 また『古事記伝』を記して「からごころ(漢意)」に対する「やまとごころ(大和心)」を提唱した“原理主義者”である本居宣長は、日本独自の価値観を追究する「国学運動」によって当時の神道に大きな影響を与え、その後の“恣意的な修正原理主義者”である平田篤胤や水戸学派の活動により、間接的に尊王攘夷や国粋主義へと道を拓くもととなり、結果、神道は「国家神道」へと変貌を遂げていくことになった。
 最終的にとどめを刺したのは「神社神道」という組織と、それを通じた国家による統制がスタートした時点だろおう。「神社神道は宗教ではない」という強弁で神道を通じた思想統制と国家ぐるみで推し進め、国家総動員での太平洋戦争へと突き進んでいったのだ。
 とまあ、大まかな流れはこんな感じ。なかでも第5章の靖国神社をめぐる考察は圧巻で、非常に参考にもなった。変なしがらみが無く客観的に分析ができるので、靖国を巡る問題のポイント(***)もはっきりと指摘できるのは、本書の大きな強みではないだろうか。

 ***…例えば、1869年の設立以降に国家(および国家と一体である天皇)のために
      死んだ人を祀る目的で作られた点。平田神道(=平田篤胤の解釈による神道)
      の考えを 援用して、国家のために死んだ者は死後に(祀られることで)報われ
      るという仕組み。(これはイスラム原理主義の主張に近い気がする。ただし神社
      神道の場合は、靖国神社に合祀されることでカミと同一化される)

 実存的な宗教としての神道のは人類が普遍的にもつものがあり尊重されるべきだが、本質主義的な神道は国家主義に道を拓くものである―― 著者の主張を要約するとこのような感じだろうか。
 そこで著者は、実存的神道の観点から本質主義的神道を否定しようとするならば、(思想化という)同じ土俵に乗らなくてはいけないと述べる。具体的に言うと「最低限の本質主義的規範」のみを神道の定義とすることで、本質主義的神道に対してひとつの宗教として意見を主張することが出来るというのだ。それは一体どんな規範かと云うと、「天地の創造それ自体を不可思議で畏怖を生じさせるものと考えさえすれば、その人を“神道信者”と(定義)する」というもの。(著者は本格主義を超えるものとして「新本格主義」と呼んで提唱している。)
 おそらく「うさぎ追いし…」で有名な唱歌「故郷」を聴いたときに感じる郷愁や心地よさは、著者の云う実存的な神道の体験に近いのかも知れない。そして水木しげる氏の描くところの妖怪の世界なども。

<追記>
 なんだかまとまりのない文章になってしまって申し訳ない。つかみどころのない鵺(ぬえ)のような宗教である神道を、よくぞここまで分かりやすく分析したものだと思う。今一度客観的に日本人であることを見つめるのに、とても良い本だった。こんなご時勢でもあることだし。
 そういえば話は変わるが、先日職場で地鎮祭に参加する機会があった。修祓(しゅばつ)から降神(こうしん)、献饌(けんせん)に祝詞の奏上と進んで、いよいよ「地鎮の儀(じちんのぎ)」や「玉串奉奠(たまぐしほうてん)」といった儀式に参加している間じゅう本書の内容を思い出して興味深かった。たしかにこれは西洋的なものとは違う、日本独自の宗教なのだなあという思いがしきり。心から信じているというよりは、たしかにもっと日常的な習俗であるような気がする。(個人的には仏教についても同じなんだけどね。/笑)

ちょっとお知らせ

 最近は仕事が忙しくなって、なかなか本が読めません。さらに年末進行でばたばたしており若干ブログの更新が不定期になるかも知れませんが、ご了承ください。(ぺこり)
 もっともっと多くの本を読んで沢山の文章を書きたいです。ブログを止める気は有りませんのでご心配なく。原稿がしあがり次第アップしていきますので、今後ともよろしくお願いします。

2014年11月の読了本

※相変わらずの低空飛行が続く。買った本が読めずに積みあがっていくのを見るのは、悔しいようで読むのが愉しみなようで......。(苦笑)

『世界ぶらり安うま紀行』西川治 ちくま文庫
  *著者は世界中を旅する写真家。各地で出会った安くて旨いものを綴る。いわゆる
   「B級グルメ」とは違い、現地の人が日々食べているものを彼らの懐に入り込んで
   食べる。うまそう。新聞や雑記に掲載されたコラムから選出した文庫オリジナル。
『闇の左手』 ア-シュラ・K・ル・グィン ハヤカワ文庫
  *SF界で最も権威があるとされるヒューゴ賞/ネビュラ賞のダブルクラウンに輝いた、
   著者の初期代表作。惑星連合“エクーメン”から極寒の惑星“ゲセン”へと派遣され
   たゲンリー・アイは、はたして無事にゲセンを連合に加盟させることが出来るのか?
   文化人類学や政治倫理、それにジェンダーといった社会科学の様々なテーマが錯綜
  して、知的興奮を誘う。
『読書狂(ビブリオマニア)の冒険は終わらない!』 三上延/倉田英之 集英社新書
  *本を題材にとったライトノベルで有名なふたりの作家が、ひたすら自分らの好きな
   本について語り合った対談集。乱歩や横溝、キングに風太郎といった名前や部屋に
   溢れる本の山、そしてもちろん書店についてなど、馴染みの話題がポンポン飛び出
   す。しかし本の話を読んでいると、何でこんなに愉しいのだろうか。(笑)
『現代の民話』 松谷みよ子 河出文庫
  *『ちいさいモモちゃん』や『龍の子太郎』などで有名な童話作家であり民話の研究家
   でもある著者が、全国各地から集めた口承説話や”実話”を語った本。立風書房の
   『現代民話考シリーズ』を基に、NHK人間大学で12回に亘り語った内容をまとめたも
   のだ。単なる世間話に過ぎなかったものが、やがて民話や説話へと姿と変えていく
   様子が垣間見られて面白い。本書を読むと民話・説話・伝説はもちろんのこと、今
   でいう「都市伝説」も含めて全てが地続きであることがよく解る。そしてそれと同時に、
   現代に新しく生まれる“民話”には思いのほか死の影が色濃いのにも驚かされる。
   『新耳袋』などに代表される怪談実話系もそうだが、説話が生まれる背景には、悲
   しみや恐怖を語ることによってバランスを取り戻そうとする人々の心があるのかも
   知れない。東日本大震災のとき、被災地のあちこちで怪談が語られたという話が思
   い起こされてとても興味深い。
『猫舌男爵』 皆川博子 ハヤカワ文庫
  *ミステリ、幻想、SFなどのちょうど境界付近の作品を5篇収録した短篇集。表題作は
   筒井康隆「色眼鏡の狂詩曲」やW・C・フラナガン(小林信彦)『ちはやふる奥の細道』
   を思わせるような、ゆがんだ日本理解を描いた怪作。(こういう話は大好きだ。/笑)
   しかし残る4篇は死の気配が漂う昏い魅力に満ちた作品だった。未来を舞台にした
   「水葬楽」、不幸な生い立ちの少年の物語「オムレツ少年の儀式」、ある画家の女性
   の一生を断章でつづる「睡蓮」と徐々に陰惨で暗いものになっていき、ラストの「太陽
   馬」ではボリシェヴィキによるロシア革命とその後の壮絶な内戦を描いてまさに圧巻。
   特に気に入ったのは「猫舌男爵」「太陽馬」かな。
『神道』 トーマス・カスーリス ちくま学芸文庫
  *日本独自の”宗教“である神道を客観的な眼で分析した好著。風習と信仰心の境目
   がはっきりしない神道を、郷愁や自然への畏怖に代表される「実存的神道」と、靖国
   や国家神道に代表される「本質主義的神道」に分けて、それぞれの古代からの変遷
   を辿るのが画期的。問題が整理され分かりやすい。
『近代化と世間』 阿部謹也 ちくま文庫
  *中世ドイツを中心としたヨーロッパ文化研究で知られる著者が、「個人」を基本とする
   西洋的な価値観と「世間」を中心とした日本的な価値観を比較する。今の日本社会
   に根強く残る差別や諦観といった「負の価値観」が、実は「世間」を基にした個人意識
   に依るものだというのが結構ショックだった。本は薄いが中身は濃いね。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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