オールタイムベスト短篇各種

 昨日の9月27日は、以前もお邪魔したことのある椙山女学園大学で「第1回 名古屋SFシンポジウム」というイベントが開催された。諸事情があり、ブログ主もパネリストの一員として末席を汚すというお恥ずかしい次第に相成ったわけだが、シンポジウム自体は大変に盛況で且つ面白いものになったと思う。はるばる遠方からご来場いただいた皆さんや、重い荷物を運んで来られディーラーズルームで物販をしていただいた皆さん、そしてぎりぎりまで準備に奔走されたスタッフの皆さん―― これらすべての皆さんに、この場を借りて篤くお礼を申し上げます。(当日の詳しい内容の報告については、もう少し落ち着いてからどうするか考えることにしたい。なにぶん自分が関係したイベントは小恥ずかしいので。/笑)

 とうことで話は変わる。今回のようなシンポジウムに限らず、最近は読書会やセミナーといった形の本にまつわる集まりが多く、色々な方のお話を伺う機会が増えた。そのような集まりのどこが愉しいかといって、同じ作品に対して自分と違う見方や感想に触れたり、あるいは気が付かなかった点を指摘されるのが堪らなく刺激的で面白い。読書自体は孤独な作業かもしれないが、本の先には著者との交流だけでなく読者同士の交流という広い世界が待っているのだ。一度この愉しみを覚えてしまうと、本好きならどなたでも病み付きになること請け合いである(笑)。
 それと同じ理由で、色々なジャンルのベスト作品を選ぶ投票も好きだ。音楽や映画、漫画に小説といった様々なジャンルで、投票によりベストテンを決めることが行われている。実はこれらのベストで一番面白いのは、全ての得票で決まった順位の方ではなく、投票者のひとりひとりが何にどんな配点で投票したかの方。(*)もちろん公開されないケースもあるが、もしも公開されている場合には、お気に入りの評論家がどの作品に点を入れたのか?などという愉しみ方をしている。

   *…例えば宝島社から毎年でる『このミステリがすごい』のようなもの。

 以上、前置きが長くなったが、先日ネットを覗いていたら色々な短篇小説のオールタイムベスト投票というイベントをやっていたのでさっそく投票した。そこでは個人の結果は公表されないのだが、自分の投票内容について備忘録も兼ねてここにご紹介してみたい。(マニアックなジャンルなので、興味のない方には申し訳ない。)
 参加したジャンルは4つ。怪奇幻想系の短篇(“怪談”)の国内と海外、そしてSF短篇の国内と海外だ。そのうち国内怪談の投票内容については、6/22の「アンソロジーについて(その2)」)という記事で取り上げたので、今回は残りの3つについて挙げることにしよう。

■「怪談短篇オールタイムベスト(海外)」
  H・H・エーヴェルス「蜘蛛」
  W・W・ジェイコブズ「失われた船」
  D・ブッツァーティ「なにかが起こった」
  ブルワー・リットン「幽霊屋敷」
  A・ブラックウッド「空家」
  ニコライ・ゴーゴリ「妖女(ヴィイ)」
  E・T・A・ホフマン「砂男」
  エリザベス・ボウエン「陽気なる魂」
  H・V・クライスト「ロカルノの女乞食」
  フィッツ=ジェイムズ・オブライエン「墓を愛した少年」

 どれも「その手」の小説が好きな人にはお馴染みのものばかりだと思う。(ジェイコブズは敢えて超有名作の「猿の手」を選ばず、別の物にした。)国についても英米だけでなくドイツやロシアなど様々なところを選んだ。また、一作家あたり一作品に限るというのも、自分がオールタイムベストを選ぶときの基本のルールにしてる。(こういう風に、自分なりのルールを決めて選ぶのがまた面白いのだ。)作品の味わいは国ごとでそれぞれ特徴があるが、とりわけどこかの国が好いということはなく、何処もそれなりに面白い。ただし作家でいえばお気に入りというのがあって、この中で云えばブラックウッドやゴーゴリ、ホフマンあたりが特に好きだ。


■「SF短篇オールタイムベスト(国内)」
  筒井康隆「ヨッパ谷への降下」
  矢野徹「折紙宇宙船の伝説」
  荒巻義雄「柔らかい時計」
  山野浩一「殺人者の空」
  小松左京「結晶星団」
  堀晃「アンドロメダ占星術」
  星新一「午後の恐竜」
  飛浩隆「ラギッド・ガール」
  大原まりこ「アルザスの天使猫」
  酉島伝法「皆勤の徒」

 お次は国内SF。「結晶星団」は短篇というよりも中篇と呼んだ方がいい長さだが、この際、かたい事は云いっこなしということで強引に選んでしまった。中学から高校にかけて夢中になった古い作品が多いが、どれも今読んでも傑作だと思う。筒井康隆は今回選んだ「ヨッパ谷への降下」の他にも「遠い座敷」などが好きで、幻想的な作品に自分好みの秀逸なものが多いように思う。最近の作品では、酉島伝法「皆勤の徒」が何と言ってもお気に入り。読者の理解を拒絶するようなわけの解らないさが面白かった。


■「SF短篇オールタイムベスト(海外)」
  A・C・クラーク「メデューサとの出会い」
  B・J・ベイリー「ドミヌスの惑星」
  U・K・ル=グィン「オメラスから歩み去る人々」
  P・K・ディック「まだ人間じゃない」
  J・G・バラード「溺れた巨人」
  タニス・リー「雨にうたれて」
  F・ブラウン「ミミズ天使」
  シオドア・スタージョン「ビアンカの手」
  ボブ・ショウ「去りにし日々の光」
  レイ・ブラッドベリ「万華鏡」

 海外のSF短篇は正直言って迷う。一度選んでも、暫くたって選び直すとまた違う作品になることが多い。そこでまずは現時点で印象に残っているものを挙げてみた。ただし「オメラスから歩み去る人々」のように必ず選ぶ作品はあるし、ベイリーやディック、バラードといった作家の中からは必ず何かを選ぶだろうとは思う。

 当ブログの管理人が選んだベストは以上のとおり。どんなものだろうか。(くどいようだが幻想怪奇やSFに興味のない方には申し訳ない。)
 人が選んだ作品リストを見るのはとても愉しい。「なんでこんな作品を選んだの?」と思う事もあるし、「そうか、これも好いなあ」と思う事もある。ミステリーや時代小説など、もっと色々なジャンルでオールタイムベストを挙げてみるの面白くていいかもしれない。もっとも何年かしてこのリストを見たら、「こんなの読んでいたかなあ?」なんてことになるかも知れないけど(笑)

<追記>
 この記事を読まれた方で、もしも他にお気に入りの作品などがあれば、教えて頂けると嬉しいです。
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『快感回路』 デイヴィッド・J・リンデン 河出文庫

 表題にある快感回路とは、脳科学の本では一般的に“報酬系”と呼ばれているもの。生命の危険に関わる状況になったときに苦痛や不快を感じるのと同様、甘いものを食べたり遊んだりしているときに感じる心地よさを生み出す部分のことだ。言うなれば生物が生まれながらにもっている“飴と鞭”のシステムのうち、飴にあたるものといえる。
 本書は原題を「快のコンパス」という。内側前脳快感回路(側坐核や背側線条体など)にある“報酬系”と呼ばれる部位が快感を感じるメカニズムと、そしてそれらが生み出す「依存症」という負の側面に関して最新の研究成果を紹介したノンフィクションだ。
 取り上げられている快の種類は、薬物/高カロリーの食物/性/ギャンブル/ランナーズハイなど様々。麻薬やギャンブルが脳にもたらす快感と、(人に親切にした時に感じる満足感のように)連合系が関与する高次な快感が、快感の質としては同じものだという話は興味深い。(もしかして善意の押し売りをする人の目が座っているのもそのせいなのかな。/笑)
 本書によれば、快を感じる仕組みは基本的に脳内ホルモンの一種であるドーパミンの受け渡しによるものだそうで、それだけならさほど難しい話じゃない。普段はドーパミン自体の放出を増やす回路とドーパミンの受容を抑制する回路の二つがバランスをとり、様々な刺激に対して報酬(快感)を制御しているのだという。
 自分が特に面白かったのは、快感が実は「感覚的・識別的」な要素と「快感・情動的」なものに分かれるという点。脳への感覚的なインプットと快感の発生は、一対一で直接対応はしていないのだ。だからこそランナーズハイのように苦しさと同時に多幸感を味わったり、あるいはある種の性的嗜好のように痛みが快感に変わったりもする。(*)この仕組みによって、複雑で多様な趣味嗜好が生まれるというわけなのだろう。瞑想や慈善活動と快感(報酬)の関係の考察もあって面白い。

   *…中でもすごいと思ったのは、言葉による抽象的な概念の受け渡しであっても実際
      の体験と同じように快感を呼び起こすことが出来るということ。読書の愉しみなど
      はこのあたりに起因するものなのだろうか。

 ところで冒頭でも触れたように、快感を感じるということは必ずしも良いことばかりとは言えない。報酬系には負の側面である「依存症」というものが存在するわけで、本書でもかなりのページが割かれている。
 依存症の仕組みを簡単にいうと、記憶とほぼ同じメカニズムのようだ。ちょっと難しく云うと「神経系の信号受け渡しの“長期増強”」により「快感回路の増強と固定が行われる」ため―― ということになる。たとえて言えば「人(=信号)が多くとおる道(=神経回路)は踏み固められてより歩きやすくなるし、滅多に人が通らない道はさびれていく」という感じに近いだろうか。したがって一度快感を覚えてしまうと、何度もその快感に浸っているうちに神経回路の増強が行われて脳が変化してしまい、おいそれと止められなくなってしまうわけだ。これは怖ろしい。ちなみにこの仕組みは薬物依存の場合もストレスの場合も同じで、フラッシュバックなんていう現象も、整備された道路に久しぶりに人が通ったら歩きやすかった……みたいなことなのだろう。
 最後の章「快感の未来」で示されるのは、快感を自由に制御して依存症の治療はもちろん、日々の生活にも役立てようというビジョン。これなどはオーストラリアの作家G・イーガンが「しあわせの理由」という短篇に描いた世界に他ならない。悪用されると悪夢の世界になる両刃の剣ではあるが、タバコやギャンブルが止められるのなら喜ぶ人も多いんじゃないだろうか。個人的にはテロや特定集団に対するヘイト・差別の原因になる脳研究もしてもらえると嬉しいなあ。
 秋の夜長にこういったノンフィクションを読むのも悪くないね。面白そうなノンフィクションは他にも幾つか買い溜めてあるから、ぼちぼちと読んでいこう。

娯楽としての読書

 世の中には仕事や勉強に役立てるために本を読む人も多いと思うが、自分の場合はたとえ小説以外の本であっても、専ら「娯楽」を目的に読んでいる。たとえ専門書であっても愉しむことが第一優先で、役立つかどうかは二の次。いちおう自分では自分の読書スタイルを“読書快楽原理主義者”と名付けている。(笑)
 難しい本であっても(いや難しい本であればなおのこと)どうせ読むなら愉しまなくては損、という気持ちがあるので、逆にいえば資格を取るために参考書の類いを読むのはとても苦手。最近では「功利主義者の読書術」なんていうのも流行っているようだけれど、自分の読書スタイルにはどうも合いそうにない気がする。
 というわけで今回は「娯楽としての読書」の定義について、つらつらと考えてみたい。紙や電子書籍といった媒体には関係なく、とにかく“本”を読むことで得られる快楽とはいったい何なのだろうか?

 仮に娯楽としての読書の本質を「(主に)文字により“知る”こと」と定義してみる。ただしここでいう“知る”という言葉の意味は「知識(kowedge)」を得るというだけではない。たとえば物語の登場人物に自分を仮託して文学的な感動を得たり、冒険のわくわくを感じてみたり、あるいはサスペンスやスリラーにおける恐怖といった「疑似体験」も含むこととしたい。他にもエッセイなどで著者の思想に触れ、「仮想コミュニケーション」を行う事もすべて広い意味で様々なことを“知る”といってしまって良いと思う。
 しかしこれら「主に文字により“知る”こと」というのは、同じく娯楽としてテレビや映画といった映像作品をみたり、音楽を聴いたりするのとは明らかに質が違うものだといえるのではないだろうか。
 一方で「創作」ということに目を向けてみるとどうだろう。つまり“受け手”ではなく“送り手”ということ。創作とは大なり小なり自分自身を外に向けて表出することに他ならないわけだが、その手段は必ずしも文字である必要はなく、絵(イラストやマンガを含む)/映像/音楽(作曲やアレンジ、演奏を含む)など多岐に亘る。文字(文章)による表出は、いうなれば創作という行為の1ジャンルに過ぎないわけだ。
 文字を使う創作の場合は、(自分で物語を創作する場合であっても、外国語から日本語に翻訳する場合であっても)自分の頭の中のイメージを一文字ずつ言葉に置き換えていく必要があり、実際の映像を見せるのに比べればかなりの制約を受ける。しかしそれがうまく受け手に伝わった時には、色や音や映像を伴った圧倒的イメージを脳内に作り出したり、もしくは映像化が不可能な論理や言語のアクロバットを見せてくれたりするわけだから面白い。

 自分は現在のところ創作はしていないので、「文字により“知る”こと」との関わりはもっぱら受け手としてだけ。というわけで読書をするという行為について考えるならば、結論としては、やはり自分は新しい事を知るのが好きなんだろうと思う。そして文字というもっとも情報量の少ない媒体を通じて、(もしかすると)最も大きなイメージ喚起がなされるという、摩訶不思議なところに魅かれているのかも知れない。
 これからの人生でいったいどれくらいの本が読めるかは分からないが、どんな本を読むにしても「愉しいから読む」という姿勢はずっと大切にしていきたいと思うなあ。

『塩の世界史(上・下)』 マーク・カランスキー 中公文庫

 副題には「歴史を動かした小さな粒」とある。自分は特定の食べ物に焦点を当ててその変遷をつづった本が結構好きで、これまでにもジャガイモや紅茶にコーヒーなどの本を読んできた。で、今回は「塩」である。書店で見かけた時には正直「地味な題材だなあ」と思ったけれど(笑)、読んでみたらびっくり、意外と面白かった。
 内容は古今東西さまざまな国や地域における食塩(*)の製造と利用について、丹念に拾い集めてまとめたもので、取り上げられる国や地域は数多い。中国や日本やインドといったアジアをはじめイギリス・ドイツ・フランスといった西欧諸国、そしてノルウェーなどの北欧や北アメリカに死海周辺の国々など多岐に亘る。時代も古代から20世紀初頭までと、文字通り世界中の塩の歴史といえるものになっている。(そのせいで話が途中あちこち飛ぶので、若干読みにくいのはご愛敬。)

   *…食塩(塩化ナトリウム)以外に、塩化カリウムやその副産物としての炭酸ナトリ
      ウム・炭酸カリウムなど、広い意味での“塩”や、また凍結防止や工業など食用
      以外の用途に使われる塩についても一部記述あり。

 本書を読んで一番驚いたのは、塩が国家経済や戦争の勝敗を左右するほど重要な戦略物質だったという点だろう。たとえばアメリカの南北戦争で勝敗の分かれ目になったのは、北軍により南部の製塩所がことごとく封鎖された結果の塩不足なのだそうだ。考えてみればしごく当たり前のことなのだけれど、恥ずかしながら本書を読むまでそんなことは気にもしていなかった。
 もちろん塩は身体にとって無くてはならないもの。それは当然のことなのだけれど、塩にはそれ以外にも物の腐敗を防ぐという重要なはたらきがある。19世紀以降に缶(瓶)詰や冷凍保存の技術が確立するまでは、雑菌の繁殖を防ぐには塩漬けにするか干物にするくらいしか方法が無かった。肉や魚はそのままではわずか数日しかもたないため、塩漬けにしなければ生産地から遠方の消費地(大都市)への食糧の移送はほとんど不可能になる。というわけで、塩は人類の長い歴史のなかで食料の貯蔵に欠かせないものとなっていった。中世から近世にかけ、塩は平時には魚や肉の加工を通じて経済の要になり、戦争の時には敵の兵站を絶つ意味で戦略上の要になった。なるほどこれは確かに「歴史を動かした小さな粒」といえるだろう。

 塩を手に入れるには大きく分けて二つの方法があった。ひとつは海水を蒸発させて結晶を取り出す方法。これにはきれいな海水がとれる海岸と、その海水をゆっくりと蒸発させて濃い塩水にする広い敷地、そして最後に塩水を鍋で煮詰めて結晶を作るために大量の燃料(=木材)が必要になる。ふたつめは岩塩鉱を地面の中から直接掘り出す方法で、こちらは地表に露出した塩の層かあるいは地中深くに隠れている岩塩鉱を見つけるまでが一苦労となる。(山中に湧いている塩泉をつかう方法もあるが、これには海水から塩を取り出すのと同じ設備が必要。)こうして考えると、むしろ塩が重要な戦略物資にならない方がおかしいような気もしてくる。塩の歴史は意外と奥深いのだ。
 現代では石油や天然ガスといったエネルギー資源が経済や国家戦略の要になったりしているけど、こうしてみると他にも意外なものが経済の要になっていたのかも知れないねえ。自分が知らないだけで。

<追記>
 本書で知ったおまけの話題をひとつ。ニシンは英語ではへリング(Herring)というが、この魚は燻蒸すると色が鮮やかな赤に変わるのだそうだ。そうして出来た香りの強い赤い干物のことをレッドヘリング(Red Herring)と呼ぶそうで、かつて北米大陸では入植者がオオカミの注意をそらすためにこの燻製ニシンをわざと道端に放置したらしい。そこからレッドへリングという言葉が「ひとの注意を逸らすもの」という意味で使われるようになったとのこと。ミステリで読者をミスリードする仕掛けのことをレッドへリングと呼ぶのだが、この言葉の背景にそんな由来があったとは知らなかった。意外なところで勉強になるものだなあ。(笑)
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