『乳しぼり娘とゴミの丘のおとぎ噺』ラティフェ・テキン 河出書房新社

 「魔術的リアリズム」や「マジックリアリズム」と形容される類いの小説が好きだ。もともとはガルシア=マルケスやカルペンティエールといった南米の作家たちに共通する特徴を述べた言葉だが、現実世界がいつの間にか地続きで幻想世界に入り込むような怪しい魅力がある。
 本書の存在はネットの情報で初めて知ったのだが、帯に書かれた「トルコ発マジックリアリズムの最高傑作」という惹句に魅かれた。解説によれば、トルコ国内ではノーベル文学賞を受賞したオルハン・パムクとならぶ国民的な作家らしい。ときどきこのように飛び込みで読んでみる本があり、それが当たりだととても嬉しくなる。
 本書の内容をひとことで言うと、農村から都会への人口流入とそれにともなう貧困という、トルコ近代化を象徴する問題を取り上げた社会派小説(?)なわけだが、それを描くにあたって著者(*)が幼い頃から親しんだおとぎ話のような、虚と実/奇想と現実とが入り混じった文章を駆使している。まさに好みのタイプだ。(笑)

   *…ちなみにいっておくと、著者ラティフェ・テキンは女性。

 物語の舞台となるのは〈花の丘〉と呼ばれる小高いゴミの山。都会のゴミが捨てられるゴミ捨て場だ。急激な都市化により大量のゴミが生まれると、処理に困って昔の東京の「夢の島」やフィリピンの「スモーキー・マウンテン」のようにゴミの集積場が作られる。「スモーキー・マウンテン」では貧困層の子供たちがゴミの中をあさる映像がニュース等で有名になったが、トルコでもそこは同じらしい。ゴミ捨て場には「一夜建て」と呼ばれるバラックを建てて人々が住みつき、当局によって何度追い払われても舞い戻ってしたたかに生きている。(というより、農村を捨てて街に出てきた彼らにはゴミ捨て場より他に住むところが無いのだ。)本書はそんな人々の姿を描き、〈花の丘〉の変遷をたどっていく。
 でてくるキャラも個性的なメンツばかりだ。たとえば“盲目のギュルリュ爺さん”や“憑き物つきの女の子スルマ”、キブリィェ母さんに“黒髪”ハサン、“床上手”フィダンなど。名前を聞いただけでもいわくありげな人々が、入れ替わり立ち代わり次々に登場する。特定の主人公というのはいなくて、ゴミの丘に住む人々の群像劇のような感じになっている。もしくは〈ゴミ通り〉に伝わる慣習の起源を説明する神話とでもいうべきだろうか。

 彼らを次々に襲うのは、謎の奇病や住まいを吹き飛ばすほどの強風、そして近くの工場から降ってくる毒の“白い雪”といった様々な災厄。しかし住民たちはその都度声を張り上げて“はやり歌”を歌いへこたれない。徐々に町は発展し、町会議員となったクルド人ジェマルや資本家イザクといった人物を輩出。イザクが経営する冷蔵庫工場ではギュルベイ親方を中心とした組合運動が湧き起こり、やがて〈花の丘工場街〉へと変貌を遂げていく。
 人々がそれまで共に暮らしてきたゴミとの決別を決心し、工場の従業員とその家族という選択を行ったのと時を同じくして、町にはチンゲネ(ロマ族)がやってきて新たな住民として住みつくように…。どうだろうか。ざっと流れを紹介してみたが、少しでも本書の魅力は伝わっただろうか。時代による町の変遷とともに新たに生まれる〈ゴミ通り〉〈下着通り〉〈ミニバス通り〉〈銀行大通り〉といった名前も魅力的だ。

 そうこうするうち、いつの間にやら“神話の世界”は、トルコ共和国の歴史を踏まえたリアルな世界へと変わっていく。「ゴミの大火」のエピソードではチンゲネの長“兵隊”マフムトや、一夜建ての住民“憤怒”ドゥルスンなどが登場。「“博打うち”ラドと珈琲店の時代」の後には無政府主義者が出現し、不安定な当時の世相を反映するかのように体制もくるくると変わっていく。
「“物狂い”の娼婦ギョニュルと映画館」の後は、「花の丘サッカークラブとクラブ監督の“恥知らず”エロル」が登場するが、ここまでくるとかなり現代に近い。とある財団によって〈花の丘〉を追い出されそうになった住民たちは、別の山を不法占拠して〈団結ヶ丘〉と呼ばれる新たなコロニーをつくり、元の場所は〈財団ヶ丘の花の丘〉と呼ばれるように……。

 『百年の孤独』ではジャングルの中に生まれた村・マコンドはやがて土に還る運命であったが、〈花の丘〉の人々はもっとしたたかだ。本書は今に続くトルコの近代化の歴史を、花の丘の住民たちが語り継いできたおとぎ噺というわけなのだろう。ちなみに原題は「乳しぼり娘クリスティン、ゴミのおとぎ噺」というそうで、農村で乳搾りをしていた娘が街にでて、クリスティンという源氏名をもつ娼婦に身を落とした状態を示唆しているそうだ。(外国人の源氏名を付けた女性は娼婦を意味するらしい。)
 農村から都市へ移住した者たちの困窮と苦悩、そして自然発生的に出来上がったゴミの街の盛衰を描く叙事詩とでもいうべき感じで、魔術的リアリズムが引き起こす眩暈を期待して読んだところなかなかに読み応えのある作品だった。思い切って買った本が面白いと気分いいね。
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「奇なるものへの挑戦」展

 突然だが本日、岐阜県・関市の岐阜県百年公園内にある岐阜県博物館に、「奇なるものへの挑戦」という展示会を観に行ってきた。副題に「明治大正/異端の科学」とあるように、心理学や物理学と超能力や心霊がまだ未分化だったころの学者や民間の研究家らによる活動の歴史を、当時の文献や写真などを使って紹介していこうという催しだ。昔からこのような“如何わしいもの”が大好きなのだが、特に今回のお目当ては夢野久作自筆による『ドグラ・マグラ』の草稿の特別展示があるということ。これは怪奇と幻想の物語をこよなく愛す身として、何としても行かざるを得まい。たまたま今日は昼から仕事を半休にしたのだが、用事が思ったより早く済んだので、思いついて行ってきたというわけ。
 「ところで岐阜県百年公園って何だ?」と思ったら、どうやら岐阜の置県百年を記念して昭和46年に作られた由緒正しい公園らしい。名古屋から延々クルマを走らせること1時間強、刃物で有名な関市にやっと到着したと思ったら、鬱蒼とした木立の中に広い敷地に少しさびれた感のある公園が広がっていた。入口で駐車料金を払って博物館への道を訪ねると、山の中に更に300m進んだところにあるとのこと。気温35℃の強い日差しの中を進んでいくと、やがて山を切り開いて作った公園の先に岐阜県博物館が見えてきた。
 博物館の入り口で入場料を払う。企画展なので普段よりちょっと高めの600円。常設展示も見られるとのことなので、さきにそちらを見て回ることにした。展示室に入るとプンと独特のニオイがしてくる。目の前に並ぶのはホルマリン・剥製・骨格標本の数々。ガラス玉の動物たちがじっとこちらを見つめてくるので、気分はもう夢野久作や江戸川乱歩の世界。いやがおうにも『ドグラ・マグラ』への期待は高まる。(笑)先へ進むと古代の土器や中世の寺社仏閣、江戸時代の民具などがもあったので、どうやらここは岐阜県の自然や文化を展示する博物館ということのようだ。(知らずに来ていた。/苦笑)
 
 さて、ひと通り常設展示を眺めたあとは、いよいよ本番の企画展へと足を向ける。入口には学芸員の方がいて、そのすぐ横には「撮影禁止」の大きな文字が。あわよくば草稿の写真を撮りたかったのでがっかりだが、気を取り直して先に進む。入口を入ってすぐ右側を向くと、そこにはいきなり井上円了の収集物が並んでいた。「幽霊の手」や「子供の感(疳)の虫を鎮める鈴」といった木彫りの細工物に、「哲学うらないに使う筮木(ぜいぼく)」など。『妖怪学講義』などの主著も並んでいる。
 いきなりの”濃い”展示ににんまりしながらそのまま進むと、今度は催眠術ブームの本に続いては福来友吉の催眠心理や千里眼研究のコーナーが。写真やパネルが沢山あってとても愉しい。福来は飛騨出身の初の博士だったそうで、東大を辞めたあとも変態(異常)心理学の研究を続け、飛騨には今でも「福来記念・山本資料館」なる施設が存在するらしい。
 かの有名な御船千鶴子(=今では『リング』の貞子絡みで有名かも知れない)の千里眼事件についての顛末も、パネルできちんと説明されている。関係者の相関図の中に呉秀三(=『ドグラ・マグラ』ファンにはお馴染み?)の名を見つけひとりほくそ笑む。当時の、先進国の科学者や文学者を大勢巻き込んだ、催眠術~変態心理~心霊科学という一連の流れへの関心の高さは、全世界共通の話だったのかもしれない…なーんて思いながら眺めていく。
 修養(健康)ブームの展示もあるが、この手のものは今も昔もかわらず胡散臭い気がする。健康と疑似科学はなぜだか相性がいいので、『トンデモ本の世界』なんかを連想した。念力写真・心霊写真なども次第にボルテージが上がっていく。念力測定器の実物展示なんてものまであって、オカルト好きには感涙ものだった。
 ここまで壁伝いに観ていて、ふと何気なく背中の方にも眼を向けたところ、そこにはなんと『ドグラ・マグラ』の草稿があるではないか。慌てて駆け寄ってガラスケースに顔を寄せ、まじまじと眺める。もっとおどろおどろしいものかと思ったら、ごく一般的な400字詰め原稿用紙だった。文字は万年筆で書かれていて、紙ヤケはしているものの意外と状態はよくてちゃんと読める。用紙の表側は夢野久作による草稿なのだが、裏は息子の杉山鶴丸によって別の小説の原稿用紙に再利用されている。原稿用紙自体は束になっておいてあるのだが、そのうち草稿が読めるのは僅か4ページ分のみ。ペンによる修正や追記の跡が生々しい原稿にじっと見入る。4ページしか読めないのではるが、、それでもわざわざラスト部分が読めるようにしてあったのはありがたかった。
  “「アッ…呉青秀…」と私が叫ぶ間もなく何処へか消え失せてしまった。……ブーン……」 ― おはり ―”
 とまあこんな感じ。かえすがえすも撮影禁止なのが恨めしい。

 『ドグラ・マグラ』を食い入るように眺めているうち時間が無くなってきたので、残りは駆け足でみていくことに。展示の後の方では「人間ポンプ」や合気など、特殊な鍛錬法による特殊技能の例や、子供の頃にテレビで見ていたオカルト・超能力ブームにかんする雑誌コピーや書籍類の展示がある。ユリ・ゲラーが曲げたスプーンの実物があるかと思えば、岐阜にゆかりの口裂け女の等身大マネキン人形やツチノコによる村おこしグッズなんてものも。いかがわしさ満点。ただし永井豪のコミックス『手天童子』や安倍公房『砂の女』のサイン本があったのは意味がよくわからなかった。(どうせなら『うしろの百太郎』あたりの方が良かったかな?)全体的にキッチュな感じでまとまっていて、まるで稲生平太郎著『何かが空を飛んでいる』(国書刊行会)を地で行くような面白さが満喫できた。「大霊道」や「霊気療法」なんていう民間療法や宗教系のマニアックなものも愉しかったが、何と言っても本日一番驚いたのは、人文書院の前身が「日本心霊学会」だったということかな。

 以上、平日に思いがけず良い経験ができた。思い切って名古屋から関まではるばる足を運んだ甲斐があったが、なんで岐阜県博物館でこのようなマニアックな展示が企画されたのかは、結局良く解らなかった。(笑)
 先週の”椙山女学園大学 国際フォーラム”と同じく、今回も「名古屋に住んでいて良かった」と思える企画だった。こういったイベントが地方でもっと盛んに行われて、どんどん成功していけば良いのにね。
 以上、速報でした。乱文失礼。

椙山女学園大学 「国際文化フォーラム」 レポート

 今回はちょっと趣向を変えて、先日開催されたフォーラムについて書きたい。最近はミステリ系の読書会を始めとして、本に関係するイベントに多く参加している。今回もそのつながりでご紹介いただいたものだ。場所は星ヶ丘にある椙山女学園大学。国際コミュニケーション学部が主催して7月5日(土)に開かれた。演題は「女性作家・評論家によるパネル」という。 名古屋近郊に在住する3名の著述家の方を招き、大学の講義を行う教室で行う本格的なもの。朝の10:00からとちょっぴり早い時間だったが、年取ってから休みの日でも目が覚めるのが早いので(笑)、まったく問題ない。なんせ女子大なんていうところに足を踏み入れるのは生まれて初めてなので、どきどきしながらも興味津々で出かけて行った。1時間ほどかけて市内を横断し、地下鉄・星ヶ丘の駅を降りたらそこは別世界。お洒落な街並みをぬけると美しいキャンパスが広がる。気後れしながらも内心の動揺を見せないように平然とした様子で構内を進み、会場についたのは10分ほどまえ。受付でスタッフの皆さんにご挨拶をして教室に入り、あたりを見渡すと見知った顔がちらほら。少し安心する。
 その後も続々と人は増え続け、人数は数えなかったが、一般の人や学生など全部で30~40名ほどはいただろうか。場所柄のせいかテーマのせいなのか参加者は女性の方が多く、(自分も含め)男性は少ない。無料だし事前登録もいらないので、もっと沢山の人が参加すれば良いのにと思う。

 さて、ここで今回の「国際文化フォーラム」について少し紹介しておこう。フォーラム自体は十数年前から開催されてきたそうで、一般に公開を始めたのは外部講師の方を招いて開催するようになった昨年かららしい。今回は東海地区で活躍する作家・書評家の方によるパネルディスカッションであり、出席者は演台の向かって左から順に、小説家の水生大海(みずきひろみ)氏、書評家の大矢博子氏、そして小説家で椙山女学園大学の准教授でもある堀田あけみ氏のお三方。司会進行は同じく椙山大の長澤唯史教授(こちらは男性)だ。
 大矢氏はミステリ読書会でお世話になっていて、話術の巧みさは折り紙つき。長澤氏によれば他のお二人もトークがかなり達者な方のようで、今回は特にテーマを定めずに文筆家としての経歴や名古屋という土地で活動をしていることなどについて、自由に語ってもらう形としたということだ。
 司会の長澤氏からまずは質問の形で振られたのは、「現在のように文章を使った表現者になる以前、どのような本を読んできたのか?」という話題。
 右の堀田氏から順番にこたえていく。彼女の場合は、4歳年上の姉の本棚にあった少年少女世界文学全集がきっかけだったそうだ。外国といえば当時はまるで「夢の国」と同じであり、今のように情報が溢れていないので分からない言葉が出てきても想像で補って読むしかなかった。基本的にはそのまま世界文学を読み続けていたため、17歳の時に『1980アイコ十六歳』でデビューするまで、実は日本文学はあまり読んだことがなかったという話が語られる。
 次は大矢氏。氏は大分出身で地元には当時大きな書店もなかったため、学級文庫を読みふけったとのこと。お決まりの江戸川乱歩の『少年探偵団シリーズ』にはまり、そしてホームズ、ルパンなどを経て読書の面白さに目覚めていったそうだ。中学生の頃には角川書店がプッシュしていた横溝正史にどっぷり浸かってミステリに開眼したらしい。ただし乱歩も横溝もミステリとしては少し異質で、いうなれば“様式美”や“耽美”の世界。今のようなミステリを知るきっかけになったのは仁木悦子氏(『猫は知っている』など)だそうだ。彼女の作品によってリアルな日常を舞台にしたミステリに触れ、欧米のからりとした作風のミステリへと幅が広がっていったとのこと。
 水生氏も三重県の山間部(?)出身ということで読書環境は大矢氏に割と似ている。学級文庫でポプラ社の乱歩を知り、子供向けにリライトされた『マルタの鷹』などを読みつつ角川の横溝にどっぷりはまったクチ。違うのは理科の先生から教えてもらった星新一から新井素子を経てSFへとすすみ、やがて漫画家の道に進んだという点だ。
 3人ともほぼ同年代なので社会背景や見ていたテレビ番組もかさなるし話も弾む。その意味でこの選択は大正解だったといえる。自分も同じ世代なので、こちらも「あ、そうそう」と頷きながらつい聞いてしまう。『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』。『エースをねらえ!』に『ベルサイユのばら』。そして吉田秋生の『カリフォルニア物語』まで、懐かしい名前が次々と出てきて気分が盛り上がる。(若い人には申し訳ないけど。/笑)

 続いての話題は、デビューのきっかけや誰かの文体から影響を受けたか?といったもの。
 堀田氏は読んできた本が翻訳物だったため、はじめて小説を書くときも海外小説に多い一人称を選んだとのことだが、そんな中、日本人で影響を受けたのが田辺聖子氏だというのは意外だった。小説やエッセイなど作品によってスタイルががらりとかわるが、とくにエッセイの読みやすさは素晴らしいという意見は同感。(といっても自分はそんなに読んでいるわけではないのだが。)
 思い返せば当時は椎名誠や嵐山光三郎ら「昭和軽薄体」と呼ばれる軽い口語調の文体の最盛期。てっきりその影響だろうと思っていたら、むしろ氷室冴子や新井素子といった集英社コバルト文庫系の作家の影響が大きいという。ちょっと驚いたがしかし納得した。(ちなみに昭和軽薄体の大元は庄司薫ではないか?という鋭い指摘もあった。)
 大矢氏の場合は、書評の場合は発表媒体(たとえば雑誌なら読者層)に応じて文体をかき分けているそうだ。もしかして(奇しくも名古屋出身の)清水義範のパスティーシュ/文体模写の影響があるかもしれないという話もあった。どんな文体で書いても平易で分かりやすい清水氏の文章は良いお手本になるらしい。(こちらもあんまり読んでないので迂闊なことはいえない。/苦笑)大矢氏がエッセイを書く場合、新井素子や栗本薫の語りかけるような文体をはじめとして、色々なものの影響が混じっているとのこと。(ここでも新井素子の名前が出てきたが、当時はかなり影響力あったのだなあと感じ入る。)面白かったのは、自分の気持ちをだらだらと書き連ねるスタイルから入って、それがブラッシュアップされたのはパソコン通信だったという話。字数制限のおかげで、自分の言いたいことを簡潔にまとめる技術が身に付いたらしい。

 いちど火が付いたおしゃべりはもう止まらない。司会が無理に話題を振らなくても勝手にどんどん進んでいく。文体の話から次は、「頭の中のイメージをいかに文章に表現するか?」という深い話題へと。最近の若い人たちが小説を創作する時は、最初に映像でイメージを作る人が多いという発言が堀田氏から出てきて、これもまた納得できる。教育者ならではの鋭い指摘だと思う。なるほど子供の頃からテレビやビデオなど豊富な映像表現に慣れてきた世代ならば、創作も画像のイメージから入るのかもしれないなあ―― なんて思ったりした。ちなみに創作のキャリアを漫画家としてをスタートされた水生氏も、やはり映像が先に浮かんでくるそう。それをいかに文章で表現するかに腐心されているとか。

 話はあちらこちらに飛ぶが、どの話も面白い。コバルト文庫の話題から今度は講談社X文庫などジュニア向け小説全般の話題へ。
 当時は今と違って小説によって作家が明確に色分けされており、ジュニア向け小説でデビューした作家が活躍の場を一般小説に移すのには高いハードルがあったらしい。ペンネームを変えて別の新人賞に応募し直し、再デビューを果たした人もいたとか。(実名も出てきたがここで挙げて良いか分からないのでやめておこう。当日はこのようにオフレコに近いような話もどんどん出てきたが、こういったフォーラムやセミナーに参加する醍醐味はこんなところにもあると思う。)今でこそ有川浩や米川穂信、桜庭一樹に西尾維新など、ティーンズ向けでデビューしてから一般小説を書いた作家は枚挙に暇がない。その意味ではかなり恵まれた環境になったようだ。しかし逆に作家自身の持ち味をPRして編集者に売り込んだり、読者のニーズに合わせて作品ごとに書き分ける技術という点では、却ってハードルが高くなったかも知れないという声も水生氏からあった。
 文章を書く上での何かこだわりといったものはないか?という質問もあったが、これに対しては三者三様に特にこだわりは無いといいつつも、それなりに意識していることがあるようだ。たとえば「すべからく」を「総ての」という意味で使うといった明らかに間違った表現を使う文章家に対しては、「言葉に対して慎重でない人」という判断を下すという意見もあった。(大矢氏)
 水生氏は登場人物の表記の仕方にこだわったり、言葉のリズムを意識して校正が入ったときも敢えてそのままにすることがあるとのこと。同じ単語を漢字か平仮名で統一するように指摘された場合でも、漢字が続いて見苦しくなったり、文章のリズムが崩れてしまうと感じたときには、わざとそのままにすることもあるそうだ。また「日本語としてきちんと書く」のを心掛けているのは堀田氏で、最近は意識して辞書を引く回数が増えたそうだ。
 大矢氏がおっしゃっていた「作家(著述家)は頭の中のイメージを的確に伝えるため、出来るだけ多くの語彙を持ち、その中から最も適切と思うものを選ぶよう日頃から訓練している」という言葉は、とても腑に落ちるものだった。さらに、それは作家に限ることではなく一般人であっても同じで、語彙を増やし言葉選びを訓練すれば、日常的なコミュニケーションの場で大いに役に立つのでは?という意見もごもっとも。

 以上、盛りだくさんの内容すぎてかなり端折ったが、ここまででやっと1時間が経過したところ。ここで10分間の休憩をはさみ、後半は地方在住のまま仕事をすることの苦労などについて語ってもらった。(この調子で書いていくと長くなるので、以下はパネラーの皆さんの意見を大雑把にまとめてみる。)
 昔は情報機器が発達していなかったので、出版社(=東京が多い)とは郵便で原稿のやりとりするしかなく、地方はその分締め切りが短くなるなどの苦労が色々とあったようだ。今はFAXやメールでのやりとりができるし、いざとなれば新幹線で2時間かからずに顔を合わすことも可能。原稿の引き渡しや校正のやりとりもとても簡単に出来るようになったため、その点で地方在住の苦労は無いという。むしろ、子育てをしながら作家活動を続けるのは、地縁もあり落ち着いた地方の方が東京よりも向いているのではないか―― というコメントは、子供3人を育てながら名古屋で活動を続けている堀田氏ならではの深い意見といえるだろう。
 沖縄などは地方の出版がとても盛んだが、名古屋はそんなでも無い。「はたして名古屋で出版事業が興る時代がくる可能性はあるか?」という質問に対しては、一人の作家が名古屋の出版社から大ヒット作品を出してその出版社の経営を支えられるようにさえなれば、名古屋で若い新しい作家を育てる余裕もできるのではないか、というコメントがあった。しかし一方で、出版業界自体が構造的にもつ問題で市場を縮小させ続けているため、地方で出版を盛んにするのは難しいのではないかという重い意見も。難しい問題ではある。
 ただ水生氏が会場に呼びかけて、書店に足を運ぶ人の挙手を求めたらかなりの人が手を挙げた。なるべく大勢の人がネットではなく街の書店で本を買い支えていきさえすれば、まだ可能性は残されているのかも知れない。
 ちなみに小説の舞台としての名古屋については、都会的な面と田舎の面がうまく配分されているので色々な小説の舞台として意外と向いているようだ。これは一介の読者ではなかなか気づかないことで、作家だからこそ言えることだと思う。

 パネルディスカッションの本編は以上で終了し、続いて会場からの質疑応答へとうつる。
 3つか4つの質問が出たが、一つ目の質問がいかにもこのフォーラムらしい質問でよかった。質問したのは専門学校で漫画やアニメの創作を学ぶ人のお世話をしている人。最近は先生や編集からの一度のダメ出しで心が折れてしまう学生が増えているということで、彼らへのアドバイスをいただきたいということだった。
 会場にお越しのプロの作家さんも交え得て色んなアドバイスがでたが、要約すると「自分への否定」ではなく「作品へのダメ出し」だということを意識することだという。常に複数のアイデアを持ち、ひとつの作品のアイデアが否定されてもすぐ別のアイデアに切り替えて提案すべき。そして貶し言葉も褒め言葉も話半分に聞いて、本気にしないで聞き流すことがコツなのだとか。他にも地方を舞台にすると他の地方の人には単語や地名のもつニュアンスが分からないではないか?だとか、男女によるキャラクターの捉え方の違いはあるか?だとか、色んな質問に対してそれぞれ的確に答えていた。中には「メイド喫茶とBL喫茶の愉しみ方の違い」だとか、ここに書くのは憚られるような話もでたりして爆笑につぐ爆笑、とても愉しい2時間だった。壇上と会場が一体となって和気藹々とした良いフォーラムだったと思う。フォーラム終了後はパネラーと一部の参加者でランチのテーブルを囲み、さらに愉しい時間を過ごすことが出来たのも大変よかった。
 本会の企画および司会進行をされた長澤教授によれば、椙山大学では今後も定期的に今回のような催し物を企画されるらしい。次回はまだ未定だが、都合がつく限りぜひ参加したいと思う。地元に開かれた学問の場としてとても良い試みだと思うので、出来る限り長く続けられるとありがたい。


 本会を企画された長澤教授には心から感謝もうしあげます。そして水生さん、大矢さん、堀田さん、どうも有難うございました。どうもお疲れ様でした。またの機会を楽しみにしております。

『神学・政治論(上/下)』 スピノザ 光文社古典新訳文庫

 “危険な思想家”スピノザの『エチカ』と並ぶ代表作。古典新訳文庫はこういう本を出してくれるから偉いよねえ。幻想系作家のラインナップもかなり渋いところを攻めてくるし、翻訳系文庫では今や押しも押されもせぬ立派なブランドに成長した感がある。
 さて本書の著者であるスピノザについてだが、17世紀半ばのオランダはアムステルダム出身のユダヤ人だそうだ。父親から貿易商の仕事を引き継ぎ弟と共同で営んでいたのだが、なぜか24歳の時に地元のユダヤ人共同体から破門された。記録には「劣悪なる意見および行動」が原因とあるそうだが、一体どんな言動が問題となったのかについては、残念ながら記されていないようだ。
 ただ、もしも本書に書かれているようなことを若い頃から述べていたのであれば、当時の価値観からすればひとことで言って “不遜”。破門の原因になった可能性は充分にある。なんせ本書におけるスピノザの考え方は、まるで現代人かと見紛うばかりの合理主義なのだ。聖書や教団の教義を自らの信じるところに従って一切の遠慮なく徹底分析し、納得いかないところは一刀両断のもとに切って捨てている。(もう一つの主著である『エチカ』の方は読んでいないから良くわからない。こちらもいつか読んでみたい。)
 本書は1670年(スピノザが38歳の時)に匿名で刊行されたのだが、その4年後には禁書処分にされている。やはり当時はそれほどに過激な内容だったということだろう。

 いきなり話が飛び過ぎたようだ。まずは本書の内容について紹介をしていこう。
 本書が刊行された1670年といえば例えばフランスではルイ14世の治世、欧州では王政がこの世を謳歌していた時代だ。権力争いにうつつをぬかし腐敗したカトリック教団に、ルターやカルヴァンらが宗教改革の狼煙を挙げてからおよそ100年が経過、徐々に変化の兆しはあったが近代国家の出現はまだこれからといったところ。当時は政治権力と宗教が密接に結び付いていて、自由な意見を述べることが出来ない社会が続いていた。そんな時代の中、スピノザが本書で追求しようとしたのは「不寛容な宗教勢力が(中略)政治権力の中枢部に食い入ってしまっている場合に、思想の自由をどうしたら守り抜けるかという問題」だったそうだ。
 たとえば冒頭には次のような言葉が書いてある。

 「本書は、哲学する(≒理性による思索)自由を認めても道徳心(≒信仰)や国(≒当時の社会基盤である絶対王権制度)の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう、ということを示したさまざまな論考からできている。」

 本書の構成は大きく二つに分かれる。本文は全部で約720ページ(全20章)あるが、そのうち3/4(第1章から第15章まで)が神学論、残り1/4(第16章から第20章まで)が政治論に充てられている。
 まず前半の神学論においては、「論理的かつ自由な思考」が信仰による圧力で捻じ曲げられることが無いよう、哲学と神学を互いに切り離して論じることの重要性が述べられる。そのために彼が行うのは、聖書の記述を理性の目で読み解き、不合理な部分と信仰にとって真に重要な部分を分けて見せること。そして聖書における「誤り」が理性の目によって正されようとも聖書の価値は損なわれないどころか、むしろそれによって神への信仰のうち最も優れた点が逆に際立ってくると主張するのだ。(まあ、そんな事を云ってるから禁書にされてしまうわけだが。/笑)
 もっとも実際に読んでみるとそんなに堅苦しい感じはしない。聖書に示された記述をヘブライ語の原典にまで遡って分析し、それまで伝えられてきた解釈が間違いであることを次々に指摘していく様はなかなか爽快だ。(きっと訳が上手いせいもあると思う。)
 たとえば旧約聖書の「創世記」から「申命記」までの“モーセ五書”について、それらがモーセ本人によって書かれたものではなく、後代の誰かによってまとめられたものであることを記述の不整合から明らかにしていく。「ヨシュア記」「士師記」「サムエル記」など、“モーセ五書”から先の一連の書物についても同様に分析を加え、それらが一人の作者(おそらく「エズラ記」に記されているエズラ本人?)によって書かれたのではないかという仮説を示す。
 このような作業を行うことで、スピノザは聖書の記述のうち「道徳的に手本とすべき普遍的な内容」だけを抽出し、それ以外の矛盾や不整合は奇跡でも神の意図でもなく、単に後世の人による誤りや混乱による間違いであると述べる。そしてそれらの間違った記述を一字一句後生大事に信じ込んだり、辻褄が合わない部分に無理やり理屈をつけたりといった当時の聖書解釈の愚を説く。(これは科学的・合理主義的な立場からすれば至極納得がいく見方で、今でいうテキスト分析の見本ともいえる。)
 彼が主張するのはそれだけではない。明らかな不整合がみつからない歴史上の記述であっても、そこから神の知や愛を授かることは出来ないと断言までしている。なぜなら神の知はその時代や地域に住む集団のレベルに合わせて、彼らが容易に理解できる形で示されるものだからだそう。(親が子供に対して平易な言い方で物事を伝えるようなイメージ。正確ではないこともままある。)それはモーセなど旧約聖書に書かれたヘブライ人たちに対しても同じで、彼らに述べられた啓示が必ずしも普遍的な真理であるとは限らないという、徹底した懐疑の立場を貫いている。
 彼はこの理屈を発展させて、さらにすごい事も述べている。(ユダヤ教の神殿などの)宗教施設はもちろん極論すれば聖書すらも、ただの信仰の手段に過ぎず、神に対する「真の信仰」が時代とともに失われてしまえば、単なる無用の長物もしくは神聖どころか不敬な物と化すことすらあるのだという。(ここまで聖書の記述が否定されると、こんなこと書いて大丈夫かな?と他人事ながら心配になってくる。/苦笑)
 しかし続けて彼は次のように述べる。このように哲学(≒理性)を通じて聖書における誤解や間違いを除くことは、神への信仰を冒涜するどころか、逆に真の信仰への足場固めをすることに他ならないのだと。そして聖書に対して不敬を慎む態度が過ぎると、宗教が迷信に変わり神の言葉のかわりに模造品や創造の産物を敬う羽目に陥るのだと。
 ここまで読んできて実感したのが、スピノザにおいては合理的な精神と神への絶対的な信仰が矛盾なく両立しているのだということ。自分からすれば、この論旨を突き詰めると別に神の存在を信じなくても聖書の内容は全て説明がつくような気もするのだが…。このあたりは現代における信仰の話も同じで、いい加減な仏教徒である自分には西洋社会の知識層の考えが深いところで理解できていない気がする。
 それではスピノザにとって信仰上もっとも大切なものとは、いったい何なのだろうか。本書によればそれは教会でも十字架でも聖書でもなく「神に対する思い」なのだそうだ。それが無ければ神に従う気持ち自体が失われてしまうような、あるいは神に従うつもりであれば必ず想定される類いの、そんな篤い想い。聖書に書かれているような、誰が何年生きたとか使徒がどう布教したといった知識が重要な訳ではない。最高の“神の法”とは「神を他の何よりも愛し」、そして「隣人を自分自身のように愛する」ことなのだとスピノザは言う。
 神こそはこの世において最も完全な存在。従って最も完成された人間とは、神を知的に理解することを何よりも愛し、神の知を喜ぶ人に他ならない。人間にとっての最高の善であり至福とは、制裁や罰を畏れる一心で神に従うのではなく、「神を知ること」と「神を愛すること」と「(神の被造物である)隣人を愛すること」、そして「正義(ひとそれぞれにその人の権利を認めようとするゆるぎない不断の意志)を持つこと」なのだ。以上のことから、彼の考える7つの信仰箇条というものが導き出されてくる。

 1. 神が存在すること
 2. 神はただひとつであること
 3. 神はどこにでも存在すること
 4. 神は至高の権利を持ち、無条件の裁量や特別な恩恵に基づいて万物を支配していること
 5. 神への崇拝と服従の具体的中身については、「正義」と「隣人への愛」をその旨とする
   こと
 6. 神に従う人だけが救われるということ
 7. 神に従わなかった人であっても、悔い改めさえすれば神はその罪を許してくれること

 これら聖書に書かれた記述から導きだされた7つの事柄(信仰箇条)を守りさえすれば、人は神への信仰篤く生きることが出来るのだそうだ。彼にとって大事なのはあくまでも“信仰”そのものであり、(たとえ聖書に書かれている事であろうが)個々の歴史的な出来事というのは、所詮どうでもよい瑣末なことなのだ。すなわち信仰に求められるのはいかに神に従って生きるかということであって、「真理」の探究ではない。それが「道徳心」であるとスピノザは定義している。なお道徳的に健全かどうかの判断は、「神への服従」の実施の程度よってのみ決まるとのこと。信仰の核心についての著者による考察が続く第13章から第15章にかけてが、本書中の白眉とも言えるだろう。

 では次に本書の冒頭にも出てきた「哲学」の概念について。スピノザにおける「哲学」が何かというと、それは共通理念を基礎として自然に導かれる「真理」を究明するものなのだそう。対する「信仰」というのは、先ほどから述べているように、聖書や啓示を通じて示される神の威光に対して服従し、道徳心を持つことに他ならない。つまり彼にとっては、信仰/神学と哲学/理性というのは本来全く違う次元に属するものであって、同列で考えてはいけないもの。一緒にせず切り離して考えるべきものなのだ。
 以上長々と説明してきたが、こういった思考を経てスピノザは信仰と哲学を相矛盾すること無く両立させることが出来たようだ。読み進んでいくうち17世紀とは思えないほどの論理的な考察に感心するとともに、なぜこれだけの頭脳の持ち主が無条件で神の存在を信じているのか疑問だったが、ここまで来て一応納得することが出来た。(*)ただし自分が信じるかどうかは別問題だが。

   *…ちなみに彼は「信仰が理性(論理的な判断)と無関係なのに、なぜ人は神を信
      じるに至るのか?」という疑問に対しても、ちゃんと自分なりの回答を用意して
      いる。本書によればそれは「啓示」なのだそうだ。ここでいう「啓示」とは神が人
      間に対して自らを直接指し示すことであって、スピノザが信仰に対して超自然的
      なものを取り入れるのは、本書では僅かこの一点だけだ。おそらく彼にとって
      これがぎりぎりの選択なのだろう。このようにして一旦啓示がありさえすればあと
      は理性が活躍するし、心情的にも充分に納得した上で受け入れることができると
      いうわけだ。ただしスピノザほどの知性をもってして、「神の存在をなぜ信じるの
      か?」という疑問に対しては最終的には超自然的なものを持ち出さざるを得なか
      ったのはちょっと残念な気もする。信仰を持つ者と持たない者との間には、やは
      り越えられない溝があるのかもしれない。「あらゆる体系はその内部論理では体
      系そのものの矛盾を問うことが出来ない」という、不完全性定理のことをなぜだ
      か思いだした。

 さて、ここまでは第1章から第14章までの神学論についてまとめてみた。ここからは後半第15章からの政治学についてまとめてみたい。
 ここでのテーマをひと言でいうと「哲学する(≒自分で判断する)自由は、実際の国家でどこまで認められるべきか」ということになる。(イスラム原理主義の国でもっと読まれるべきと思うが、発禁になるかなあ。/笑)
 あらゆる隣人を愛するのが聖書の示す道徳的な生き方かもしれないが、現実にはなかなか上手くいかない。そこで必要になるのが理性によって取り交わされる契約ということになる。個人や社会との間に取り交わされるそのような契約が、すなわち政治というわけだ。
 もっとも彼が述べる理想の政治形態というのは、(当時の王権制度を反映して)市民が自らの権利を社会(王や諸侯)に譲渡することが基本となっていて、基本的人権という考え方はまだ無い。また『君主論』にあるような国家同士の政治学も混じっていて、神学論のパートに比べると議論が若干不充分な感じがして歯がゆいところがある。(人間存在の本性に関する分析はホッブズやヘーゲルにも近いところがあって納得感はある。)
 具体的には前半と同様に聖書の分析を通じ、ユダヤ支族の国家存亡の様子などについて考察を加えている。その結果彼が得た結論というのは、「宗教的な指導者(=聖職者)」に政治を仕切る権限を与えるのは宗教にとっても国家にとっても大変有害ということだった。ついで彼は、「至高の権力者(=施政者)」と宗教的な指導者を厳密に分けておくことがいかに重要か、そして市民生活を統治する権利と宗教的な事項の解釈および実施は、聖職者に直接与えるのではなく至高の権力者がしっかりと押さえておく必要があるのだと述べる。
 ただし至高の権力者といえども、個々の人間が心に思う事のすべてを支配する事は出来ない。かといってそれを全て取り締まることなど不可能に近い。(**)そこで国家の安泰を考えた場合、(実際に行動に移さない限りは)考えたり口に出したりする程度は自由にさせ、個人の意見を自由に表明できるようにする施策の方が有効だとする。人々が勝手気ままにふるまう「自然状態」に対して基本的にスピノザは否定的であり、権利を社会に譲渡する方が良いと述べている。しかし、だからと言って人が生まれながらにして持つ「存在し活動する権利」は、(他に害を及ぼさない限りにおいて)極力守られるべき、というのが彼の考えのようだ。
 従って理性によって様々なことを判断する(だけの)「哲学」については、最大限の自由が保証されるべきであるというのが本書の結論となる。だからこそ聖書の記述を合理的な精神で分析し意見を表明するのは彼にとって最も重要な「権利」だったというわけだろう。

  **…歴史的には二十世紀になって思想警察という形で現実化したわけだが……。

 本書の最後に書かれている言葉がとても好かった。
 「自由な国家体制においては抑圧できないはずの判断の自由をそれにもかかわらず根絶したがる人たちこそが、実は国を乱す張本人なのである。」
 訳者解説によればこれは「不寛容な宗教勢力が(中略)政治権力の中枢部に食い入ってしまっている場合に、思想の自由をどうしたら守り抜けるかという問題」なのだそうだが、もっと普遍的なことを述べているような気もしてくる。

<追記>
 上記の話とはまったく関係ない話だが、南方熊楠の云う「大日如来の大不思議」の考えとスピノザの神についての考えは近い気がする。人格神ではなく森羅万象にくまなく広がっている創造的原理のようなものと言えばいいだろうか。またそれを突き詰めて考えると、「人間に対して徹底的に無関心な神」という概念につながるような気がする。スタニスワフ・レムが好んで取り上げたモチーフだが、西洋的な知性は最終的にそのあたりに行きつくのかも知れない、なんて考えてみたりも。

2014年6月の読了本

 仕事が忙しくて以前ほど読めないので、その分なるだけ良い本を選ぶように心掛けている。思う存分本が読めないストレスを本の購入で解消するせいで、積んである本がどんどん増えているのをどうしたものだろうか。(笑)

『愛書狂』 G.フローベール他 平凡社ライブラリー
  *フローベール、デュマ、ノディエといった錚々たるメンバーにより書かれた、本を巡る
    “懲りない面々”についての作品集で、編集および翻訳は生田耕作。いわゆるビブリオ
    マニアと呼ばれる人々の、滑稽で時に物悲しい生態が赤裸々に綴られるのだが、
    彼らに注がれる著者たちの眼差しはあくまでも温かい。「愛書に狂った人々」では
    なく、「愛すべき書狂たち」という感じだろうか。全編にただよう雰囲気がなんとも
    愉しくて、読んでいて気持ちいい。
『にゃんそろじー』 中川翔子/編 新潮文庫
  *無類の猫好きで知られる歌手の“しょこたん”こと中川翔子が、猫に関して書かれた
   小説やエッセイから選りすぐって集めたオリジナルアンソロジー。全部で20篇の作品
   が収録されており、気軽な読み物ばかりかと思いきや、実際読んでみるといやいやどう
   して大したもの。かなり本気の編集がなされていて、「編集・中川翔子」ということを割
   り引いたとしても、アンソロジーとして充分素晴らしい出来に仕上がっていると思う。猫
   の死についても多く取り上げられているのがこのアンソロジーの特徴で、実際に生活し
   てみると分かるように、ペット(=パートナー)と暮らすというのはただ“可愛い”と
   か“癒される”とかいう事ばかりではなく、飼い主より早く老いていく彼らと向き合う事
   でもあるのだ。特に好かったのは(というと語弊があるかな、印象に残ったのも含めて
   挙げると)島木健作「黒猫」/内田百閒「クルやお前か」/青木玉「ネコ染衛門」/
   保坂和志「生きる歓び」/加納朋子「モノレールねこ」といったあたりだろうか。
『ヘンリー・ライクロフトの私記』 ギッシング 光文社古典新訳文庫
  *著者の自伝的な要素も含んだ小説。田舎に隠遁して一人暮らしをする年配の元作家に
   よる私記の体裁をとっている。乱暴な言い方をすれば“イギリス版徒然草”みたいな感じ
   だが、田舎の自然や四季の移り変わりと気ままな読書の様子が、本好きにとっては堪
   らない魅力。自分も年を取ったらこんな暮しをしてみたいものだねえ。(笑)
『国のない男』 カート・ヴォネガット NHK出版
  *2007年に亡くなったアメリカの国民的作家・ヴォネガットの遺作となったエッセイ集。
   自筆イラストも満載で、昔からのファンとしてはいかにもヴォネガットらしいコメントが
   嬉しい。
『バタをひとさじ、玉子を3コ』 石井好子 河出文庫
  *自身のパリ生活と思い出深い料理の数々を紹介した『巴里の空の下オムレツのにおい
   は流れる』で有名な著者による、料理エッセイの第3弾。お腹が空くよ。(笑)
『喰らう読書術』 荒俣宏 ワニブックスPLUS新書
  *読書家であり愛書家でもある著者が、一番面白い読書の仕方と紙の本への愛着を語る
   一冊。いわゆる“役に立たない読書”の指南書として、これはもう最強なのではないか、
   という気もする。著者の荒俣宏氏の読書に向かう姿勢は、立花隆氏や佐藤優氏らの読
   書スタイルの対極にあるといえる。(そして自分はといえば、もちろん荒俣派に与するも
   のである。/笑) 後半は話が更に広がっていき、"世界を読み解く"という最もエキサイ
   ティングな愉しみと、そのための読書の仕方について解説する。まさにどこを切っても面
   白い本と言える。娯楽としての読書を突き詰めるとやがて教養としての読書と結びつき、
   やがて「読書を愉しむ」という形でひとつになる。その悦びには小説もノンフィクション
   も関係は無く、まるで名人の話を聞いているような心持ちになれる。そんな本。
『書きたがる脳』 アリス・W・フラハティ ランダムハウス講談社
  *副題は「言語と創造性の科学」とある。神経科の医師であり自らも出産時の「産後気分
   障害」で“ハイパーグラフィア” (=書かずにいられない病)という状況に陥った経験を
   もつ著者が、文章(創作物)を書くという行為と、作家の創造性について考察した本。
『薔薇忌』 皆川博子 実業之日本社文庫
  *ミステリと幻想的な作品で知られる皆川博子氏による幻想譚。芝居や舞踏の世界で死者
   と生者が交叉し、芸と幻想とが交歓する。何気ない日常の中、ふいに見えてくる心の奈落
   が怖ろしい。これもまた一種の“リテラリーゴシック”といえるか。収録作の中では「桔梗
   合戦」と「翡翠忌」が特に気に入った。
『神学・政治論(上/下)』 スピノザ 光文社古典新訳文庫
  *17世紀の“危険な知性”スピノザにより書かれた、『エチカ』とならぶ代表作。まるで現
   代人を思わせるような合理的な考え方でユダヤ・キリスト教の信仰を深く考察し、哲学
   (理性)と信仰(道徳心)の両立を目指す。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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