『教育の力』 苫野一徳 講談社現代新書

 著者の苫野(とまの)氏は自分が好きな哲学者・竹田青嗣氏の愛弟子。本書は現象学を学んだ哲学徒であり教育学を専門とする著者が、具体的かつ実践的な教育論を提案したもの。著者が確立を目指す「現象学に基づき原理原則をとことん追求した教育論」というのがとても興味深い。本当は最初の著作である『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)も読みたかったのだが、ついつい機会を逃してしまっていた。今回は講談社現代新書からの刊行とのこと。おそらく前著での議論を噛み砕いて紹介するとともに、さらに実践的なものになっているだろうと予想し、こちらの方を先に読むことにした。(じっくりと哲学・思想書を読むのも愉しいのだけれど、最近はなかなかその余裕がなくていけない。)
 で、読んだ結果だけれど、だいだい読みは当たっていた。冒頭には現象学的な分析から著者が導き出した“よい教育”とは何かが簡潔にまとめられており、その結論を踏まえた上で様々な提案がなされている。
 まずその考え方の基本を簡単にいうと、ホッブズが『リヴァイアサン』で述べた「普遍的闘争状態」に終止符をうつために、ヘーゲルが提唱した「自由の相互承認(*)」という概念を根本原理としたもの。もともと著者の師匠筋にあたる竹田青嗣氏の本が好きで、『人間的自由の条件』(講談社学術文庫)や『完全読解 ヘーゲル「精神現象学」』(講談社選書メチエ)なんかを読んでいたので、すんなり頭に入ってきた。哲学的な話が大丈夫な方は、出来ればそちらも読んでおくと本書が更に愉しめるのではないかと思う。

   *…ごくごく簡単にいうと、皆が自分のことばかり主張しては水掛け論になり喧嘩に
     なる(≒普遍的闘争状態)ので、お互いに相手の立場を尊重して承認しあおう
     ということ。皆が「自由」であることを認め合えば自分の自由も認めてもらえる
     というわけ。

 著者による公教育の目的と定義をひとことでまとめると「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の、<教養=力能>を通した実質化」ということになる。それはすなわち「すべての子供に、<自由>に生きるための“力”を育むことを保証するものであると同時に、社会における<自由の相互承認>の土台となるべきもの」であって、単なる読み書き能力や知識をつけることではない。(もちろんそれも大事だけれど。)
 少し自分なりに分かりやすく言い換えると、子供たちが大人になった時、お互いが社会で平穏に暮らしていくためのルール(=自由の相互承認)を体得させ、同時にそれを実現できるだけの最低限の技能や知識を身に着けさせるといった感じだろうか。ちなみに上記の「力能」とは、著者によれば「学力(≒将来に亘り自ら学び続けることが出来る力)」と「相互承認の感度」のことだそうだ。(おそらくここらへんまでの議論が、前著では詳細に検討されていたのではないだろうか。)
 つづいて後半では、これらの「よい」公教育を実現するための基本方針が示される。著者が提案する道筋は、(1)画一的でない徹底した「個別的な学び」/(2)子どもたちの智恵や思考を持ち寄る「協同的な学び」/(3)子供たちそれぞれが自らの目的をもって挑戦する「プロジェクト化の学び」という3つの“学びのあり方”。
 それらが融合して推進するとともに、閉鎖的になりがちな学校を様々な仕方で“開き”、多種多様な人々と交われる空間を作り出すことで、「ゆとり」or「学力重視」や「自由」or「管理」といった二項対立の不毛な教育論議ではなく、真に子供たちのためになる教育が実現できるのではないかと著者は主張する。(確かに、そんなに単純に割り切れるものではないよな。)
 著者は皆が納得できる原理を示すことこそが哲学の使命である―― という竹田氏の考え方を踏襲しており、本書でも納得のいくひとつの原理を示すことで、迷った時に立ち返ったり、正しい方向に進んでいくことが出来るだろうと述べている。そしてそれはおそらく正しい。教育に必要なのは検証不可能で思いつきのような主義主張をぶつけあうことでは無く、皆が納得して改善を進めていくことなのだから。今の教育制度に問題があると思うのなら、まずそこから始めるべきなのだろうと思う。好著。

<追記>
 最後にひとつおまけ。もしも本書で展開された主張に付け加える点があるとすれば、(自ら学ぶ力を付けさせるのが公教育の目的であるならば)「やる気」というものの仕組みを、脳科学の観点からも抑えておく必要があるだろうということ。やる気を司る「淡蒼球(たんそうきゅう)」や、感情の源の「扁桃体」といった脳の仕組みをうまく活用することで、精神論や押しつけではない教育が実現出来るのではないだろうか。
 著者の苫野氏は今年の4月から新たに熊本大学・教育学部の講師として赴任されたとのこと。氏の考えが実践されることで、少しでも子供たちの未来が良くなっていくと良いなあ。(今回は柄にもなく真面目なコメントになってしまった。/笑)
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『黙示録』 岡田温司 岩波新書

 新約聖書を読むと、マタイ/マルコ/ルカ/ヨハネの四つの福音書につづき、使徒の言行録や「○○人への手紙」といった書簡集があり、そして最後に「ヨハネ黙示録」によって締めくくられる構成になっている。中身を読むと微妙な食い違いも含めて重複した内容が多いが、これはイエスが無くなってから数百年に亘って伝えられてきた多くの教えを、後の世になってカトリック教団が再編・認定したからなので致し方なし。ちなみに教団から正典として認められなかった教典類(外典)はやがて歴史から消えて行ったわけだが、思うに正典とそれらの違いは単に当時の教団内部の政治的な力関係の結果でしかない。“異端”を巡る話は、これはこれでとても面白いのだけれど、この話をしだすと長くなるので今回は触れないことにしよう。(笑)
 さて本書は、そういった新約聖書の正典の中でもひときわ異彩を放つ「ヨハネ黙示録」について、その歴史と後世に与えた影響についてまとめたものだ。(*)

   *…「7つの封印」や「赤/白/黒/蒼白の色をした四頭の馬」、「7人の天使が吹き
     鳴らすラッパ」に「カタストロフ」や「巨獣リヴァイアサン」、そして神の使い
     と悪魔の軍勢が戦う「ハルマゲドン」に「最後の審判」といった黙示録が元とな
     る破滅や終末のイメージは、キリスト教徒でなくても必ずどこかで目や耳にして
     いるはず。

 本書によれば、ヨハネの黙示録がもつおどろおどろしいイメージには、やはり元となった多くの先行文献があるらしい。たとえば旧約聖書では「ダニエル書」にみられる“四頭の大きな獣”や同じく「エゼキエル書」にみられる復活思想、そしてそれらのイメージの集大成たる「イザヤ書」などがそう。(まったく読んだことないので全て受け売り。/笑)
 著者はこれら旧約聖書の正典だけではなく、さらに外典である「第四エズラ書」「第一エノク書」「シビュラの託宣」といった古い書物まで遡って内容を比較し、それらがいかに黙示録における終末ビジョンのイメージ形成に大きな影響を与えたかについて探っていく。どうやらこれらのイメージはもともと一部の入信者のみに許された秘密の知であり、それを知ることはある種のイニシエーション的な意味合いを持っていたようだ。
 また黙示録では良く知られているように神/正義による悪の断罪が描かれるわけだが、ここに悪の象徴として出てくる「バビロンの大淫婦」は具体的な人間を示したものではなく、一般には頽廃の象徴たるローマ(帝国)を揶揄したものとされているらしい。しかし著者はここに単なる頽廃と爛熟のイメージではなく、イシュタルやイシス、ディアナといった地母神のイメージを見る。対する神の側には「太陽を身にまとう女」という聖女が出てくるが、こちらもイシスとのつながりが指摘されている。つまりはいずれもグレートマザー(太母)の二面性を付与された存在であって、同じカードの裏表をなしているというわけ。うーん、こういう話は面白い。

 次には黙示録のビジョンが歴史の中で、どのように理解されてきたかについての説明がされる。著者によれば黙示録の読み方は「歴史主義的」(=ユダヤや初期キリスト教徒の迫害に対応させる)、「終末論的」(=黙示録のビジョンをそっくりそのまま現在の状況に照らし合わせる)、「寓意的」(=善悪の戦いなど普遍的テーマに読み替える)の3つに分類できるそうだ。暗示や幻想的なイメージを多用するというもともとのテキストの性質からしても、様々な解釈がされても仕方がないといえる。
 例えばキリスト教にとって審判の日の到来は重大な関心事だったわけだが、それがいつ来るのかは誰にもわからない。しかし黙示録によればその予兆として「アンチキリスト(反キリスト)」なる者が出現するとされている。とすれば、アンチキリストが特定さえできれば、最後の審判が訪れる時もわかるというわけだ。その結果、過去から様々な人物がアンチキリストと見做されてきた。(ヒトラーなどもそのひとりといえるだろう。)
 黙示録の最後で神の栄光とともに現れる「新しいエルサレム」についてもしかり。文字通り“闘って勝ち取る現実の場所”として読む見方もあれば、現実ではなくまったくの“精神的な王国の象徴”として読む見方もある。(ちなみに後者の場合は、教会/カトリック教団は「キリストの王国」を既に体現した存在である――という考えが前提となるらしい。そして彼らは異端や異教から正しいキリスト教信仰を守るために戦うのだ。十字軍の発想はこのあたりから出ているのかね。)
 このように多様な読みが出来るということは、同じ文章が対抗する勢力によって全く正反対に解釈され得るということでもある。たとえば宗教改革の際には、プロテスタントとカトリックは聖母マリア図像のモチーフの中に、それぞれ自分たちに都合のよい黙示録的な解釈を組み込んだ。たとえば「無原罪の御宿り」(マリアがイエスを身ごもった時のエピソードを描いたもの)の図像において、プロテスタントはマリアに踏みつけにされる蛇(竜)をカトリックに喩えており、またカトリックはカトリックで、マリアの横に今にも竜の口に投げ込まれようとする裸の野蛮な男を描き、これをプロテスタントになぞらえることで互いに非難し合ったのだそうだ。今でいうところのプロパガンダやイメージ戦略のようなものといって良いかもしれない。(両者による非難の応酬は、どちらがキリストでありアンチキリストであるかを巡ってますます過熱していった様子で、本書で紹介される図像をみているだけで大変におもしろい。)
 最後の章になると内容ががらりと変わり、現代にも残る黙示録の影響を紹介。様々なハリウッド映画の中に描かれるカタストロフのイメージとして取り出して見せる。例として挙げられる映画は「原子怪獣現わる」「放射能X」「水爆と深海の怪物」などなど。邦題を見ていても分からないが、これらの原題はそれぞれ「二万ファゾムから来た獣」「奴らだ!」「それは海底からやって来た」といい、いずれも欧米人には黙示録を強くイメージさせるものなのだそう。ある宣伝用ポスターに書かれた「本当に起こりうる恐るべき物語!」という惹句も、元は黙示録にある「今後起ころうとしていることを書き留め(た)」という言葉を踏まえたものらしい。
 日本人はあまり意識していないが、ゴジラが海から上がってきて街を焼き尽くすシーンも、黙示録に出てくる巨獣リヴァイアサンを強く意識させるものらしい。ほかにもキューブリック監督の「博士の異常な愛情」やタルコフスキー監督の「サクリファイス」、コッポラ監督の「地獄の黙示録」など数多くの映画が紹介され、芸術や文藝の世界では黙示録的なイメージが今でも色濃く残っていることが示される。

 かくして長年に亘ってキリスト教の歴史とともに、世界中に強い影響力を及ぼしてきたヨハネ黙示録なわけだが、著者も言うように20世紀を迎えて2つの世界大戦とアウシュビッツおよびヒロシマ・ナガサキを経験してしまった我々にとって、「カタストロフとそのあとに訪れる新エルサレムの到来」といういかにも単純なビジョンはもはや信じがたいものとなってしまった。そして21世紀を迎えた今、世界各地で続く民族紛争やテロの不安、ナショナリズムやポピュリズムの台頭と環境問題など数多くの課題が山積している。これからの未来がバラ色と考える人はいないだろうが、かといって問題から目を逸らしているだけでは何の解決にもならない。
 このような時こそ黙示録的なイメージは人々の心にじわじわと侵食していき、知らぬ間に人々の心に不安を煽り立てるからこそ、それを直視してその先を見つめる努力が必要なのだ――そう語る著者の意見には全くの同感。黙示録的イメージは誰もが多少知っているが故に却って詳しく知らなかったりする。こういう基本的な知識は、まずきちんと知ることから始めたいね。

<追記>
 ところで著者の岡田氏は(いくら研究のためとはいえ)SF映画に詳しすぎる。映画を紹介するくだりではそれまでの調子とはうって変わって如何にも愉しそうだった。なんだかんだ言って“この手の映画”が大好きな人なのではないだろうかね。(笑)
 黙示録は怖いけど何だか魅かれてしまう不思議な力を持っている気がする。本書を読んでそれを再認識した次第。

2014年3月の読了本

『チョコレートの世界史』 武田尚子 中公新書
  *コーヒー豆とよく似たプランテーション農業や植民地経営といった歴史を持つカカオ
   について、ココアおよびチョコレートの受容と産業化の観点から解き明かした本。
   コーヒ―と違うのは、収穫までは確かに1次産業だが、加工の段階までいくと先進国で
   の2次産業(食品工業)に変わるところだろうか。チョコレートを買う意識がちょっと
   変わった。
『剪燈新話』 瞿佑 東洋文庫
  *題は「せんとうしんわ」と読む。浅井了意の『伽婢子(とぎぼうこ)』や上田秋成の
   『雨月物語』に三遊亭圓朝の『怪談牡丹燈籠』といった、本邦の名立たる怪異譚に
   直接間接に大きな影響を与えた中国の伝奇物語集。14世紀末に明の瞿佑(くゆう)
   によって書かれた。『唐代伝奇集』とか『神仙伝』『聊斎志異』など中国の伝奇物語
   は好きで色々読んできたが、実は東洋文庫に手を出したのは今回が初めて。本書には
   元の20話に付録として2話の合計22話の物語が収録されている。どれも怪異や人情に
   溢れたもので面白いが、特に気に入ったのは「金鳳釵記(鳳凰の金のかんざし)」/
   「令狐生冥夢録(地獄の夢)」/「牡丹灯記(牡丹燈籠)」「永州野廟記(永州の
   古廟)」/「申陽洞記(申陽の洞窟)」/「鑑湖夜泛記(鑑湖に舟を浮べて)」あた
   りかな。結構自分好みなのが多かった。死後も数年間は想いの人と過ごすことが出来
   る、もしくは来世に添い遂げることが出来る――という話が多いのは、当時の中国の
   死生観を反映しているとともに、宋が滅んで戦乱の世になり貧しかったり一家離散に
   なったりという世の中で、そのように考えることで少しでも心の慰みにしようという
   表れだろう。技巧を凝らした近代西洋の怪奇小説も好きだが、素朴な味わいの中国伝
   奇物も好い。そのうち円朝の『怪談牡丹灯籠』も読んでみようかな。本書の「牡丹灯
   記」がどう変わったかが楽しみ。それにしても上田秋成の「吉備津の釜」まで「牡丹
   燈記」を基にしているとは。迂闊にも解説を読むまで全く気付かなかった。言われて
   みれば確かに…。
『これはペンです』 円城塔 新潮文庫
  *「叔父」と「姪」、「書くこと」と「読むこと」、そして「意識/自分とは何か」
   と「現実/夢とは何か」といった事柄の周りを、ぐるぐると廻りながら問いかける
   奇想の作品集。前者(叔父・書くこと・意識/自分)について書かれた「これはペン
   です」と後者(姪・読むこと・現実/夢)について書かれた「良い夜を持っている」
   の2短篇を収録。ジャンルとしてはメタフィクションになるのだろうし、明確に示さ
   れたものなど何もないのだけれど、迷いながら読み進む過程そのものが面白い。
   この作者の本を全て読んだわけでは無いが、いずれの作品も「読むこと」が好きな
   人にはきっと堪らないのではないかなあ。
『ロング・グッドバイ』 レイモンド・チャンドラー ハヤカワ文庫
  *村上春樹訳。別訳で『長いお別れ』という題名でも出ているが、こちらは70ページ
   ほど多い完訳版。私立探偵フィリップ・マーロウが活躍するシリーズの最高峰とい
   われている作品だが、実は読むのは初めて。5月に開催予定の読書会に向けて読んで
   みた。(ただいまハードボイルドの勉強中といったところ。)自分としては面白かっ
   たけれど、この手のジャンルにハマる人と受け付けない人がいるというのは何となく
   わかる気がするなあ。(詳しい感想は読書会に向けてまた日を改めて。)余禄として
   村上春樹の文体がハードボイルドの影響を受けているのがわかったのは良かった。
『生命(ゼーレ)の哲学』 岩渕輝 春秋社
  *19世紀にヨーロッパで活躍した“知の巨人”グスタフ・フェヒナーの生涯と彼の思想
   の変遷を辿るノンフィクション。現在では忘れられたに等しい人物の足跡を丹念に調
   べた本邦初の評伝だそうで、値段も高かったが満足感も高かった。
『海遊記』 仁木英之 文春文庫
  *中国を舞台にした仙人ファンタジー『僕僕先生』の作者による新しいシリーズ。副題
   は「義浄西征伝」とある。法顕・玄奘とならぶ天竺取経の3大スターであり、”海路”
   (海のシルクロード)を通って天竺入りした義浄を主人公とした一大冒険絵巻だ。
   本書では貧困ゆえに親から見捨てられた少年・張文明が慧智という僧侶に救われ仏門
   に入るところから、やがて衆生を救うために真の教えを求めて天竺へと向かい、波瀾
   万丈の冒険の後についにインドの地に足を踏みいれるところまでが描かれる。描き下
   ろしの短篇(サイドストーリー)もついてお買い得。途中には海賊との追いつ追われ
   つの逃亡劇や、死霊による怪異、そして海の魔物による危機が次々と描かれてスリル
   も満点。義浄という地味な(失礼!)キャラを使って立派なエンタテイメント小説に
   仕上げた力量はあいかわらず大したものだ。次巻以降は天竺での冒険と中国に帰るま
   での物語が続いていく気配。『僕僕先生』ともども、続きを追いかけなければいけな
   いシリーズが増えたようだ。
『ゴーレム』 マイリンク 白水uブックス
  *グスタフ・マイリンクによる幻想文学の有名な傑作が白水uブックス「永遠の本棚」
   のシリーズに加わった。(このシリーズは本当に良いシリーズ。)ひとことで言え
   ば、不完全な存在(ゴーレム)たる主人公ペルナートが様々なイニシエーションを
   経て完全なる存在(ヘルマフロデイート)へと至る錬金術的小説。前半は記憶を失
   いプラハの町を徘徊する主人公が夢野久作の『ドグラ・マグラ』を思わせるような
   悪夢の世界だが、後半はドストエフスキー『罪と罰』を経て急転直下、カフカの
   『審判』へと至る。カバラに基づいた幻想も見事な傑作。
『黙示録』 岡田温司 岩波新書
  *過去から様々な形でヨーロッパの思想に影響を与えてきた黙示録について、そのイ
   メージの形成と現代までつづく影響を考察した一冊。最終章では様々な映画や絵画
   に終末思想がいかに影を落としているかが、具体例で示されて大変に面白い。
   (取り上げられる映画は「原子怪獣現わる」「放射能X」「ゴジラ」「博士の異常
   な愛情」「サクリファイス」などなど。)
『書物愛[日本編]』 紀田順一郎/編 創元ライブラリ
  *本をテーマに、ミステリから文学の香り高いもの、蒐集家から古本業界のディープ
   な話題までバラエティに富んだ作品を収録した、いかにも編者らしいセンスに溢れた
   アンソロジー。もともとこの手の話は好きで昔から目につくと読んでいたので、本書
   の収録作も実は半分くらいは読んでいた。でも面白いものは何度読んでも面白いなあ
   (笑)。書物への愛には、ハードウェア/物体としての書籍に対するものと、ソフト
   ウェア/著作および読書という行為に対しての3つがあると思うが、古本ネタの物語
   はそれら全ての要素をバランスよく扱えるからこそ、昔から本好きの心を惹きつけて
   やまないのではないだろうか。初読・既読をとりまぜて、特に気に入ったものは夢野
   久作「悪魔祈祷書」/出久根達郎「楽しい厄日」/稲毛恍「嗤い声」/紀田順一郎
   「展覧会の客」あたりか。
『進化とはなにか』 今西錦司 講談社学術文庫
  *本邦における文化人類学の巨星であり、今に続くサル学の隆盛の礎を築いた人物によ
   る、進化論関連の論文を集めたもの...というと聞こえはいいが、正直いうと一種
   のトンデモ本的な疑似科学。(苦笑)昔から著者の「棲み分け理論」は噂だけは聞い
   ていたが、なかなか読むだけの気力がなかった。今回なぜ読んだかというと、『生命
   (ゼーレ)の哲学』でグスタフ・フェヒナーの思想に触れたから。おそらく共通する
   ところがあるのではないかと思って目を通したのだが、自分のみる限りやはり共通す
   る部分が多いように感じる。著者の思想そのものというより、そのように主張する
   著者自体がとても興味深かった。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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