『生命(ゼーレ)の哲学』 岩渕輝 春秋社

 19世紀のヨーロッパ知性を代表する人物、グスタフ・フェヒナーの生涯とその思想について、その詳細をまとめた本邦初の評伝。著者の岩渕氏はフェヒナーを研究するためにドイツ語を新しく学んだほど(!)の入れ込みようで、その熱意にはまことに頭が下がる。当時の学問の発展に大きな影響を与えたにも関わらず、今では殆ど忘れさられてしまった“知の巨人”の全貌を余すところなく伝えてくれる労作となっている。
 本書によれば、フェヒナーは物理学から心理学、はては哲学まで幅広く活躍した人物。例えばその著作『原子論』では、のちに一般的となる原子モデル(太陽系のように大きな粒子の周りを小さな粒子が周っているモデル)を初めて披露するなど、学術的にも数々の優れた業績を遺した、かなり有名な科学者だったのだ。一方ではマーラーやフロイトにも強く敬愛され、音楽家のシューマンとは親戚関係にあって、さらには電磁気学で有名なヴィルヘルム・ヴェーバーとも深い友情で結ばれていたとも。本書にはそんな彼の生涯(*)に亘る様々なエピソードと学問的な業績、人間関係やその思想の本質について詳しくまとめられている。

   *…1801年にドイツ・ポーランド国境近くの小村グロースゼルヒェンに生まれ、
     ロマン主義全盛の時代を背景に成長。当初は医学を志すも当時の医学に疑問を
     抱き、やがて自然哲学を経て物理学へと専攻が移る。若くしてライプツィヒ大学
     の物理学教授となるが、自然哲学や「死後の生」についての興味は持続。やがて
     生死をさまよう病気(おそらく抑鬱症的な精神神経症と光に対する極度の神経
     過敏)に罹り、3年後に奇跡的に回復した後は独特の生命観に基づく著作を発表。
     その後は1887年に86歳でその生涯を閉じるまで、晩年まで物質主義全盛の時代
     に抗すべくその思想を深め、著作を世に問い続けた。

 しかし先ほどは色々書いたが、実をいうとそれ程すごい人がいたとは本書を読むまで一切知らなかった。それもそのはずフェヒナーは、彼の思想の中核をなす「ゼーレの哲学」ともども、今となってはすっかり忘れ去られてしまっている人物なのだそうだ。(著者の岩渕氏はそのことを嘆いておられる。)
 自分が思うにフェヒナーは、例えば16世紀のゲスナーや17世紀のキルヒャーのように“世界が総合的に理解できた時代”のいちばん最後に位置する人物のような気がする。その後の時代になると自然科学の分野があまりに細分化・高度化してしまったため、ひとりの人間が世界をまるごと語ることは質・量ともに不可能になった。そんな意味で、フェヒナーは哲学と科学を同一の地平で語ることが出来た最後の人物であったような気がする。そしてその幸福な時代は、19世紀後半のヨーロッパを席巻したスピリチュアルブームの終焉とともに終わりを告げたのだ。

 では早速フェヒナーが生涯をかけて追い求めた「ゼーレの哲学」について、本書の内容を自分なりにまとめてみよう。
グスタフ・フェヒナーの思想は、題名にもある「ゼーレ(Seele)」という言葉がベースになっている。これは「プシュケー」に起源をもち、“生命”と“心”の両方の意味をもつ言葉なのだそうだ。日本語にはぴったりした言葉が無くて本書では「心」「魂」「生命」「精」「内界」「内面」といった言葉に適宜訳されている。また「生の息吹」や「生の胎動」という意味合いも含まれるとのこと。哲学者の竹田青嗣氏が述べているような(古代ギリシアの本来の意味での)「エロス/生の躍動」に相当する概念と言えるのかもしれない。

 彼はその著書『ナンナ、あるいは植物のゼーレンレーベン(Seelenleben/精神生活)』において、様々な生命体がすむこの世界はゼーレに満ち溢れていると説く。動物ばかりでなく植物を含んだあらゆる生命体にゼーレが存在するという彼の主張は、仏教の考え方(例:「山川草木悉皆成仏」)が浸透している我々などからすると別に驚くにあたらないが、キリスト教徒であったフェヒナーにとっては、世界観を揺るがすほどの大きな分かれ目になる考え方であるようだ。
 そのことが書かれた本書の第7章は、フェヒナー思想の核心にあたる大事な部分になるので、少し長くなるが引用してみよう。
 「全自然界が神によって内界化(ベゼールング)されて(中略)、この世には内界化から零れ落ちるものは何もない。石も波も植物も内界化されている。」「個々の心(ゼーレ)は能動性や感覚や思考や意志を持ち、それらを結びつける統一体を形づくっている。そして、それら下位の統一体同士は、最高位の神の統一体を介して結びついている。」(注:ベゼールング=“ゼーレを吹き込む”という意味の動詞が名詞化したもの)

 なお彼は別のところでは、石や水や波といった「死物」は(動物や植物とは違って)知ることや感じることの出来る内的な統一体を持たないとも言っており、考えに若干まだ整理しきれていない点があるようだ。ただし植物のゼーレについては繰り返しその存在を主張しており、植物には動物のような高次の意識はなくとも“生動”(≒生命の躍動)や感覚というものがあるとしている。
 彼にとって植物のゼーレを信じないということは、「動物や人間は自然界で圧倒的な数の死物(非生物や植物)にかこまれた孤独な存在である」という世界観(闇の世界観)を認めることにつながり、決して与しがたいものであったようだ。彼が信じたのは、生きとし生けるものがゼーレを持って繋がりあうという「光の世界観」もっとも植物にゼーレがあるかどうかだって実験で確かめることは出来ないわけで、それを信じるか否かは結局のところ、その人次第という事になるわけだが......。

 次は彼の思想におけるもうひとつのポイント「客観的な非決定性」について。これは何かというと、当時ヨーロッパ社会を席巻しつつあった決定論的な考え方(自然界には必然的な因果律がある)に対抗する、「世界の客観的性格が世界の進行を原理的に予測できぬものにする」という考え方。彼が宇宙に持っていたイメージは「宇宙は発展の過程で自らを縛る新たな法則を生み出しつつ進行する」というイメージなのだそうだ。
 人間の生命活動の奥底には生の息吹が湧きあがる場(ゼーレ)があり、それはけっして無味乾燥な唯物論的な法則では縛られない。―― 彼のそんなロマンチックな考え方は、ロマン主義全盛の時代に育ちシェリング=オーケンらによる自然哲学(**)の影響を受けたことで育まれたものなのかもしれない。また生涯敬虔なプロテスタントであったフェヒナーは、彼の信仰と矛盾しない理想的な新しい思想を考えることで、極端な方向に走り過ぎている(と彼には思われた)自然科学を、より良い方向へ導けると考えたのだ。
 こういった考え方が科学者として正しいかどうかは別にして、人物的にはとても心惹かれるものがある。温和な性格で、亡くなった時は町中の人々が悲しんだということだから、人間的にも大変に魅力ある人物だったのだろう。(個人的にはこういう人と友人になりたいものだと思う。逆にいくら立派な業績を上げている人であっても、人間としてどうか...という人とはあまりお近づきになりたくない。/笑)

  **…自然哲学の概念を提唱したシェリングはヘーゲルや詩人のヘルダーリンと同時代
     の哲学者。彼が唱えた「世界霊」というのは、古代ギリシアの哲学者が用いた
     生命原理的なものを表す概念だそうで、フェヒナーに大きな影響を及ぼした。
     手塚治虫の『火の鳥』にでてくる「コスモゾーン(宇宙生命体)」みたいなもの
     だろうか。オーケンはシェリングの弟子だそうだ。(当然ながら筋肉少女帯のボ
     ーカル・大槻ケンジのことではない。/笑)

 なお彼のこの考え方はずっと変わることがなく、その後の業績も彼自身が当初考えた思惑とは違うかたちで評価されてしまったのは少し気の毒な気がする。
 例えば彼は客観的なデータの欠如により科学と認められていなかった心理学の分野において、精緻な自然科学的手法(実験による数値化)を用いて人体に与えられる刺激量と被験者が感じる感覚量を数式化した。(これは今日「フェヒナーの法則」として知られ、彼が創始した精神物理学は現在の実験心理学の元となった。)
 元々のフェヒナーの意図は“心”の状態を数値化・客観化することで、思弁的思索や内観的記述に頼っていたために、それまで科学として認めてもらえなかった心理学を科学として認めさせようというところにあったらしい。ところが意に反して心理学はそれを端緒に“無味乾燥で唯物論的な”科学の仲間入りをしてしまい、「ゼーレの哲学」からは遠いところに行ってしまった。
 著者はフェヒナーを「インドに行こうとして、誤ってアメリカ大陸を発見してしまったコロンブス」に喩えているが、ゼーレの考え方に固執していた彼が図らずも科学の発達を通じて、物理学的世界観の浸透に寄与してしまったのは皮肉なものだ。(しかしフェヒナーはめげることなく一生ずっと無味乾燥な自然科学の世界に挑戦し続けた。70代は新たに「実験美学」という学問を創始したが、これは実験科学の手法を用いて美学上の問題を科学的に追求しようとしたものだそうだ。まさに「真・善・美」が混然となった概念こそが、彼の哲学の理想だったのではないかという気がしてくる。)
 参考までに彼の著作を列記してみよう。(先に挙げたものは除く。)
『ゼンド・アヴェスタ、あるいは天界と彼岸の事柄について。自然考察の見地から』(ゾロアスター教の聖典を書名に借りた、神秘主義的世自然哲学の色合いが濃い著作)/『シュライデン教授と月』(フェヒナーの著作を批判した植物学者シュライデンへの反論や月の気象学的影響についての統計学論考)/『精神物理学原論』/『内界(ゼーレ)の問題を巡って』/『美学入門』(実験美学の本)/『生物の創造と進化の歴史に関する若干の考察』(ダーウィン進化論に対する反駁。昆虫と植物の共進化は偶然ではなく、相互にある種の関係性をもって進化した結果だと主張)/『闇の世界観に対抗せる光の世界観』(世界を闇と捉える世界観と、光や音や生命に満ちた世界観の対比をした本)。
さらにはフェヒナー名義ではなく、ミーゼス博士というペンネームでユニークなエッセイやフィクションも出している。『死後の生についての小冊子』/『天使の比較解剖学』/『小品集』/『四つのパラドックス』といった作品だが、これなどは内容説明を読むと、まるでスタニスワフ・レムが書いたユーモア小説『泰平ヨン』シリーズを地で行っているような感じさえする。

 そんなわけでとても優れた業績と現在にも至る影響を与えたフェヒナーではあるが、それほどの人物である彼が今日忘れられてしまっている直接の原因は、本書によれば19世紀に知識人たちを巻き込んだスピリチュアル・ブーム(霊媒による彼岸との交信や妖精写真など)にあるようだ。奇術師によるペテンにはコナン・ドイルなど当時の錚々たる顔ぶれがころりと騙されたわけだが、その渦中にはフェフナー自身もいた。友人の誘いで「四次元の世界から降臨する霊との交信をする」と称したスレードというイカサマ霊媒師の交霊会に何度か連れ出され、それがためにスピリチュアリズムの擁護者と非難される羽目になったらしい。(もっとも、これはある意味仕方ないところはあるかもしれない。霊を四次元の存在であるとする主張や交霊会で本当に霊と交信しているかどうかには懐疑的だったようだが、かといってすべてがインチキとも言い切れないと考えていたようだ。)その前から『死後の生についての小冊子』(ミーゼス博士名義で発表しのちに本名に変更)を書いたり、最晩年に出した自らの思想の集大成ともいえる『闇の世界観に対抗せる光の世界観』の中では、先ほどの交霊術と合致するような世界観を示しているほどだから。(***)

 ***…『死後の生…』では、生まれる前に母親の胎内で過ごす「第一段階」と存命中の
     「第二段階」に続く、「第三段階」たる死後の世界が描かれる。そこでは人々が
     残した個々の精神活動の「波紋」が重なり合って相互関係を持ちつつ一体化し、
     永遠の覚醒/高次の生を形成すると述べられている。

 以上、ざっくりとフェヒナーの「ゼーレの哲学」についてまとめてみた。フェフナーは敬虔なキリスト教徒ではあったが、キリスト教の教義解釈そのものが原因となって「神への信仰」いう精神活動と「質的・機械的な世界観」の分離という“不幸”が起こったと考えていたようだ。そしてキリスト教が排除してきた古の異教的な考えである)自然と人間の精神活動の幸福な一体化を望んでいたらしき雰囲気もある。フェフナーの主張は自分のみたところ最終的には好き嫌いでしか判定できない世界に落ち込む神秘主義と思われるので、字義通り受け入れるのは無理だが、比喩として捉えるならばとても感銘を受けるものであるといえる。少なくとも彼が言いたかった気持ちは非常によく分かる。崇高な精神の活動こそが人間の本質であると信じる見方は(人によってはロマンチストの甘い考えとして批判されるだろうが)嫌いではない。気を付けないと水に「ありがとう」という類の話と同じになってしまうが、一歩ひいて現代から過去の偉大な思想家として見た時に、色々と得られるものは有るに違いないだろう。
 ひと言でいえば、「光の世界観による生の躍動(ゼーレ)の復権」という果たせぬ夢を追いもとめ、古き良き時代の理想的な学者人生を全うした人物。日本でいえば南方熊楠のような感じといえるだろうか。今では望むべくもないが、昔はこのようにあらゆる分野を横断的に渉猟する“総合知”を求めるゼネラリストが確かにいたのだよなあ。
 余談だが、工学系の大学を卒業して新入社員として会社に入った時、特定の技術のスペシャリストとして一生を終えるのでなく、ゼネラリストでありたいと思った事を思い出した。悪く言えば気が多いという事にもなるだろうが、色々な世界を見ることで初めて理解できることというのは有ると思う。そんな意味でもフェヒナーのような人物はかなり魅力的である。
 心温まる一冊だった。結構な値段がしたのだが元は取れたと思う。大変な労作に感謝。

<追記>
 余談ついでに、本書を読んでから以前より気になっていた今西錦司著『進化とはなにか』(講談社学術文庫)を呼んだのでその感想も少し加えておきたい。今西錦司氏は文化人類学者で日本における霊長類研究の礎を築いた人物だが、一方では生命の進化にも興味をもっており、「棲み分け理論」を提唱してダーウィンの進化論を否定する論文を数多く書いた。(いまなら「トンデモ本」に入れられてしまうような内容ではあるが)
 で、読んだ結論から言うと、フェヒナーが「ゼーレの哲学」を追い求めた感覚と今西氏が進化論に求めたものは案外近いものだったのではないかという感触を持った。
 『進化とはなにか』の中で今西氏は哲学者・西田幾多郎の「生物に、眼ができたから物を見るようになったのでなく、物を見るために眼というものもできたのである」という言葉を引用している。ここからもわかるように、著者は(本人は否定しているが)基本的に今西理論はラマルクの進化論(≒キリンは高い樹の上の葉を食べるために首が長くなったというアレ)の延長上にある。実際には生物が周辺環境を知るための手段にはいろいろあり、可視光を含む電磁波を認識するというのもその手段に過ぎないというのがユクスキュル(『生物から見た世界』)やJ・J・ギブスンに始まるアフォーダンスの考え方だが、まだ本作が書かれた時代にはその発想は無かったのだろう。
 今西氏の主張を端的にまとめると、「進化は個体を単位としたランダムな非適応的(≒自然淘汰)な突然変異ではなく、“種”を単位とした、方向性のある適応的(≒棲み分けによる共存)な変異に依らなくてはならない」というものになるが、そこで進化の内的動因となるのは、ヘーゲルの「世界精神」の概念に近い、架空の進化圧とでもいうべきものだ。(具体的には言及されていない。)
 こうして考えていくと、ヘーゲルやラマルク、今西錦司(1902年生まれ)、そして西田幾多郎といった19世紀から20世紀初頭の知性は、個体ではなく種や世界(社会)に埋め込まれた生命力/宇宙生命といったもので一直線に結ばれるような気がする。『生命(ゼーレ)の哲学』によれば、西田幾多郎の『善の研究』の序文にも『闇の世界観に対抗せる光の世界観』の冒頭が記されているとのことだし、思いつきとしては案外外れていないんじゃないかと思うんだが。どうだろうか。
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『ピース』 ジーン・ウルフ 国書刊行会

 初めて訳出の情報を聞いてから2年。長いこと待った甲斐があった。超絶技巧の傑作長編『ケルベロス第五の首』やひねりの効いた短篇集『デス博士の島その他の作品』、そして濃厚で長大な「新しい太陽の書」シリーズでカルト的な人気を誇る作家、ジーン・ウルフの初期傑作長篇がついに日の目を見ることになった。翻訳は西崎憲氏と館野浩美氏の共同訳で、巻末には西崎氏により詳細かつ懇切丁寧な解説がつくというおまけつき。ウルフ作品の初心者に対しても優しいつくりになっている。(ただし小説自体が読者に優しいわけではない。)
ウルフはSFというジャンル小説の中でもとりわけ難解と云われる作品を書く作家とされている。それは決して「作品がつまらない」という事を意味するわけではなく、ただ読者に親切でないだけだ。
 通常の小説の場合は、作者が考えたストーリー(≒時系列順に作られた真実の話)がきちんと読者の頭の中で再構築できるように書かれている。小説的効果を狙ってわざと時系列の順番を入れ替えたプロット(≒書き方)にしたり、もしくは途中の時間経過を飛ばしたりといった操作が行われることはあるが、前後の脈絡が理解できるようになっていることが多い。(注:前衛的な文学などは除く。)
 しかしウルフの場合、不注意な読者にもわかるような平易な書き方はされていない。なにげない一言や動作の描写にも仕掛けが施されていて、注意深く読んでいくと表面的な「プロット」とは全く違う「ストーリー」が浮かびあがってきたりするから要注意だ。
 その効果は例えばミステリでいえば「叙述トリック」を読んだときの驚きに近いと思う。(*)柔道で見事な背負い投げを決められたような感じといえばいいだろうか。一瞬のうちに天地がひっくり返り、今まで見えていたものが全く違った様相をみせてくる驚きこそが叙述トリックミステリの快感であり醍醐味ともいえる。

   *…本来なら具体的な書名を挙げたいところだが、そうするとこれから読む人の興を
     削ぐことになるのでやめておこう。国内でいえば筒井康隆や歌野正午に殊能将之
     といったところ。海外は不案内なので申し訳ないが、アントニイ・バークリー等
     の作品に優れたものがある。

 ウルフの小説でそれと違うところがあるとすれば、ミステリの場合はどんでん返し(隠されていた“真実”の開示)が小説の根幹にかかわる部分であり、ラストまでその一点に向けて収束していくが、ウルフの場合は最後まで“真実”(つまり小説としてのトリック/騙し)が何なのか判らないという点だろう。ミステリ以外にも目を広げれば、拙ブログではお馴染みのエリック・マコーマックやクリストファー・プリーストなどがそれに近い。もっともウルフは自分のみる限り彼らとも若干違っている。マコーマックやプリーストの場合、小説を読み進むうちにどうしても辻褄の合わない部分がでてきて、それが読者に強く違和感を感じさせるように書かれている。そしてその答えが明示されないので読者は宙ぶらりんの状態に陥るのだ。しかしウルフの場合は、先ほども述べたように表面上は目立つ齟齬もなく、(多少幻想的なシーンはあるにせよ)それなりにきちんと整合性の取れた物語が成立しているので、さらりと流していってしまうことも可能。気を付けていないと「ある食品会社の経営者が自らの半生を語った一代記」という“普通の話”としても読めてしまうのだ。
 それでも何となく気持ちの悪い感じは残るのだけれど、それが何なのかは最後まで分からなかったりする。そこがウルフという作家の“油断のならない部分”でもあり“難解”と呼ばれる所以であるともいえるだろう。同じ“騙り”の作家であっても、ウルフの方がマコーマックやプリーストよりもっと巧妙で意地が悪い(笑)と言って良いかもしれない。「何を書くか?」ではなく「どう書くか?」を最も重要視する作家という評価もわかる気がする。
 本書の場合、SF・ファンタジー的な小道具が出てこないので、SFに馴染みの薄い方にもとっつきやすいと思う。デビュー3作目にあたる本作は、ウルフの豊穣な物語世界への入門書としても最適ではないだろうか。


 とまあ、以上がネタバレ無しの感想。ここから先は本書の仕掛けについてあれこれ考えた仮説や疑問点を挙げて愉しもうという趣旨なので、未読の方はご注意を。




 まずはおさらいの意味で、帯に書いてある文章を引用する。
 「アメリカ中西部の町に住む老人ウィアは静かに回想する、自分の半生を、過去の不思議な出来事を、説明のつかない奇妙な事件を……」「時間と空間を錯綜して語られる、魅惑と謎に満ちた物語の数々。」
 筋だけを追えば、本書はまさにこの通りの話。過去を語る老人の心に飛来するのは、題名のとおり「平穏」であり過去の様々な出来事との「和解」ということになるだろう。回想は時間を飛び越えていつの間にか入り混じり、現在と過去を行き来して夢と現実の区別もつかなくなってゆく。(いや、そもそも最初から最後まで現実と呼べるものは本書の中にはないのかも知れない。例によって語り手の一人称による記述だし、どこに仕掛けが隠されているのか分かったものではない。)
 以下、順を追って流れを追っていくことにしよう。

 全編を通しての語り手は、先も述べたオールデン・デニス(デニー)・ウィアという人物である。年齢は60歳過ぎで、脳卒中で倒れて以来、左半身が不自由になっている。歩ける程度には回復しているが、いつまた再発するか分からない状態。40歳までは義理の叔父が経営するオレンジジュース工場のさえない貧乏技術者だったが、50代で突如会社の経営者となり金持ちに。生涯ずっと独身を続けており、現在は第一線を退いて会長となっている。
 物語は彼による語りで進んでいく。全体は5つの章に分かれていて、第1章「オールデン・デニス・ウィア」では本人の子供時代を中心としたエピソード、つづく第2章「オリヴィア」では主人公デニスの叔母にあたるオリヴィアにまつわるエピソード、そして第3章「錬金術師」では後にオリヴィアの伴侶となるスマートが若いころに体験した不思議な物語が語られる。第4章「ゴールド」はうって変わって中年技術者デニスの物語。彼が遭遇した偽書や隠された財宝を巡るエピソードとなり、そして最後の第5章「社長」ではジュース工場を引き継いだデニスが新聞取材をうけた時の様子が語られる。
 話が複雑になっているのは、これら一連の回想以外にも突然に現在の(ウィア老人の)様子が顔を出したり、彼が想像で作り上げたふたつの病院におけるシーンが入り混じっているから。さらには「単語と単語の間に何か月もの時間が広がっているかもしれないなんて、想像したことがあるだろうか」なんて言葉が出てくる。地の文の中は勿論もしかすると、挿入された会話文すら前後と同じ時系列である保証すらないのだ。これは気を抜けない。
 ちなみに全編を通じて繰り返しでてくるシーンは次の2種類だ。(病院を別々として数えれば3つになる。)
《a.現在》
 アメリカはカナキシー川のほとりにある小高い丘の上の町・キャシオンズヴィル。ウィア一族は昔ブレイン一家から土地を購入し、町の大半を所有している。主人公は卒中で倒れて隠遁状態にあり、昔叔母の家があった土地に新しく作り直した屋敷にひとりで住んでいる。
《b.架空の病院の診察室》
 ヴァン・ネス先生の診察室(40歳ほどの大人の自分)およびブラック先生の診察室(4歳の子供の自分)における、医師と自分との会話による内省。子供ではあるが老人の意識と記憶をもったまま医師と会話をする主人公は、TAT(主題統覚テスト)というテストを受けている。それはカードを見ながら様々な物語を綴っていくもので、それが各章の回想につながっていくという構成になっている。

 個々の章で描かれるエピソードは概ね次のようなものだ。
【第1章/オールデン・デニス・ウィア】
 5歳の時に祖母の屋敷で開かれた春のガーデンパーティで、大嫌いなブラック家の子供ボビー・ブラックが階段からおちて背骨に大怪我をする。(彼はそれがもとで数年してから亡くなることに。)解説で西崎氏が書かれているように、主人公デニスがボビーを突き落したのかも知れないと考えると、物語の様相が一変する。途中でデニーとボビーがもみ合うシーンがさりげなく挿入されているなど、後から考えると愉しげなパーティ描写の中にも実は恐ろしい“真相”が隠されているような気がしてくる。
 次は6歳の時に母方の祖父の家で過ごしたクリスマスのエピソード。真夜中にツリーの前で祖父とした会話の記憶ははっきり残っているのに、なぜか朝になるとベッドの中でに戻っていて、しかも記憶にあったネックレスとオードトワレのプレゼントが入れ替わっているという不思議な体験が語られる。あくまで子供の視点で書かれているのだが、大人が読むとほろ苦い「真相」が透けて見えるようで、ちょっと“厭”な話となっている。
 またこの章には、母の料理人だったハナ・ミルにせがんで話してもらった、彼女の子供時代の思い出も出てくる。ハナの両親が子守り役として雇い入れたアイルランド人ケイト(ケイティー)が語ってくれた、妖怪パンシーの話やインディアンについての思い出話。これは不思議な余韻を残す話中話で、本書にはこの後も同様の物語が数多く挿入されて物語に色を添えている。(**)

  **…長めの話としては「瀬に現れる岩に建つ塔に住む囚われの王女イレイヤと、彼女へ
     の3人の求婚者の物語」「千夜一夜物語の語り部シェヘラザードによって語られ
     た、魔物が漁夫の王に伝えた“魔神と召使いのベン・ヤハヤ”の物語」「中国を
     舞台にした翠色の陶器の枕を巡る物語」「アイルランドに古くから存在したとさ
     れる“シー”の種族の物語」など。個々の挿話自体はとても面白いのだが、反面
     何かの暗示のような気もしてきて、混乱に拍車をかけているといっても良いかも
     知れない。(笑)

【第2章/オリヴィア】
 デニスの両親が揃ってヨーロッパへと行ってしまった数年間を、叔母のオリヴィアの家で一緒に過ごした思い出。彼女へ求婚していたのは大学教授のピーコックと百貨店経営のマカフィー、それに大地主のブレインという3人の人物。ピーコック教授と3人で行ったピクニックの様子や、百貨店に叔母がオープンした陶磁器の店がきっかけになって、大きな陶磁器の卵を手に入れるまでの話、それにブレイン氏の自宅訪問など、彼らにまつわる様々なエピソードが語られる。(ちなみに陶磁器の卵は本章では最終的にマカフィー氏がお金を支払って購入したのだが、後の第4章の記述では叔母が陶磁器の卵を手に入れたように書いてある。このようなことがあるのでウルフの本はひと時も気が抜けない。)

【第3章/錬金術師】
 この章では、のちに叔母オリヴィアの伴侶となった青年ジュリアス・スマートが初登場。(つまり先の3人は全員振られたということになる。/笑)そしてスマートがまだ薬科大学を卒業したばかりの頃に、働き口を探しに行った南部地域で偶然遭遇したミステリアスな出来事、薬屋の主人ティリー氏と幽霊と、そして彼が調合する“石化の毒薬”についての物語が披露される。この章がもっとも起伏に富んでいて読みやすい。真相らしいものが作中で明かされるのもこの章のみで、本書の中で一番ミステリらしいエピソードといえるだろう。
 紆余曲折あって薬屋を継ぐことになったスマートは、やがてそれを元手にオレンジジュースの会社を興し、発展させる。叔母のオリヴィアは若くして亡くなったため、デリスは叔母の唯一の親族としてスマートとともに会社経営でもするかと思いきや、そうはならない。デリスは自身が中年になりスマートが死亡するまでは、ずっとその工場で安月給の一技術者として働くことに。口も利いてもらえなかったというから、よほど嫌われていたのだろうか。

【第4章/ゴールド】
 デリスが技術者だったときに職場の同僚だったユダヤ人・ゴールドの一族をめぐる物語。ゴールドの父親が経営する古書店で販売された偽書『放埓な法律家』についてのエピソードと、それが縁で知り合った女性図書館司書のロイス・アーバスノットとともに南軍兵士が隠したとされる財宝を探す話が中心となる。この章は本書中でもいちばん違和感がある内容になっていて、物語として明らかにつじつまが合わない部分が最も多い気がする。ウルフなりにヒントを出してくれているのだろうか。(とはいっても気を付けて読まないと、つい読み落としてしそうになるが。)
 例えばそれはブランコやベッドにまつわる、これまで記憶にないエピソードだったり、陶磁器の卵の購入にまつわる記述の食い違いだったりする。川辺にデニスと一緒に宝探しに行ったロイスがその後は、「よそに引っ越した」という説明だけで一切姿を見せなくなるのも意味深に思え、読んでいるうちになんだか胸がざわざわしてくる。まさにSF界一の騙り手の面目躍如といった感じ。

【第5章/社長】
 冴えない中年技術者だったはずの主人公は、最終章ではいつの間にかジュース工場の経営者へと変わっている。ここはデニスが経営を取り仕切るジュース工場を新聞記者が取材するエピソードが中心で、失われてゆく地場産業のジャガイモ農家の老人や、オレンジ風味のジュース(原料はジャガイモ!)の工場のいかにも資本主義的な経営の様子が淡々と語られる。ここで物語のカギとなるのはどうやら、冷凍倉庫の中で従業員が1名凍死した事故のようだ。(入社2年目の新米技術者の失敗によるその事故を、どうやら会社はもみ消したらしい。)

 以上、ざっと物語の骨子をまとめてみたが、最初のうちは僅かに感じるだけだった違和感が、後になるほど少しずつ積み重なってきて、「一代で功をなした老人が心安らかに語る自らの半生記」という当初のイメージがどんどん狂い始めるのがよくわかる。西崎憲氏も解説で同様のことを書かれていて、発表当時は(例えば中勘助『銀の匙』やダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』のような)少年の日の美しい回想として捉えられていた本書が、実は「別の模様」を隠し持っているという評価に変わってきたとのこと。氏の言われるように本書もホーバン『ボアズ=ヤキンのライオン』やクロウリー『リトル・ビッグ』などと同様、日常感覚から出発していつの間にか遠い彼方へと連れ去ってゆくタイプの幻想小説だと言えるだろう。
 ところで話は変わるが、物の本によれば哲学の目的とは、世界に対して新しい認識を提供することではなく、新しい疑問を提示することであるらしい。であればウルフ作品も同様に、正しい解釈を捜すのではなく新しい疑問点を見つけることこそが、最もふさわしい読み方なのかもしれない、なんてことを思ったりもした。
 参考までに解説で挙げられている疑問の中で、これまで触れてこなかったもの並びに、それに対する自分なりの解釈を書きだしてみる。(注:あくまでもそう考えた方が面白いということであって、それが正しい解釈というわけではない。)

 ■中年技術者だったオールデン・デニス・ウィアがいかにして社長になれたのか?
  ⇒もしかしたらデニスはスマートを殺したのではないか。
 ■ハナの父親はなぜハナに母親の死体を見せなかったのか?
  ⇒他人に見られるとまずい、母親の死に関係する決定的な証拠が残っているからでは?
   (父親が母親を手で絞めて殺害したとか。)
 ■薬剤師のティリーは本当に妻を殺し、そしてスマートがティリーを殺したのか?
  ⇒ティリーは自分の妻を殺し、そしてスマートが店を乗っ取るためにティリーを殺した
   可能性が高い。そしてスマートは妻オリヴィアの死に関係している可能性もある。
 ■カーニヴァルの女性ドーリスはなぜ自殺したのか?
  ⇒これは皆目見当がつかない。何か語られていない事情があるのか。
 ■オリヴィア叔母はなぜ若くして死んだのか?
  ⇒夫であるスマートもしくは求婚者であったピーコック教授により殺害された。もしく
   はデニス自身が遺産相続に絡んで、何らかの関与をした可能性も無きにしも非ず。
 ■ロイス・アーバスノットはなぜ突然いなくなるのか。
  ⇒川辺でデニスとロイスは本当に財宝をみつけ、その際にデニスがロイスを殺害したの
   ではないか。そしてそこで得たものがデニスの資金の出所となったのでは?(さら
   に言えばきっかけとなった偽書とゴールドの父親の話自体がまったくの創作である
   可能性も。)
 ■冷凍倉庫に従業員を閉じ込めて死亡させてしまったのは、実はウィリーではないのか。
  ⇒おそらくその可能性が高い。

 そして最後は本書で最も大きな謎、「語り手のウィアは実は既に死んでいるのではないか?」について。これもまずその通りだろうと思う。例えば本書112ページには次のように書かれている。―― 現存する「生きて、呼吸し、存在する」ぼくの記憶が、今は滅んで取り戻せない物理的存在よりも現実的でないなどとどうして言えるだろう ―― 本書第2章には、幽霊となった祖母が出てくる事からも、作中としての整合性にも何ら問題は無い。

 こうしてみると、平穏な回想記だったはずの本書が、なんだか死と陥穽に彩られた暗く冷たい物語に変わっていくようだ。これまでずっとウルフの作品を読んできたものとしては、本書を素直にひとりの老人の回想記として読むことなどできはしない。そもそも題名となっている“PEACE”とはいったい何なのか。死んだ者が煉獄で贖罪の日々を送ることで、やがて訪れる平安を意味しているのではないか...。そんなことを考えたりもした。
 何しろ数えきれないほどの謎と不思議がつまった物語。再読・再々読にも耐え、読むたびにまた新しい姿を見せてくれる本書は、ウルフからの大きな贈りものといえる。(そしてこれだけ色々な含みが込められた文章を、そのニュアンスまでも合わせてまるごと日本語に移し替えられた、訳者のご苦労は大変なものだったに違いない。その意味で本書は西崎氏と館野氏のお二人からの贈りものであるともいえる。)今年は短篇集『ジーン・ウルフの記念日の本』も出るようだし、昨年の“ラファティ祭り”に引き続いてまだ当面は“ウルフ祭り”を存分に愉しめそうだ。

<追記>
 本書には死を巡る大きな謎も数多いが、細かな謎もそれ以上に存在する。解説にもある「プラスチックの蠅」や「楡材の鹿」の意味といった象徴の話から、ブレイン家がインディアンから広大な土地を譲り受けた顛末や、銀行員ライスパイがブレインの金を持ち逃げしたはずなのに、後でブレインがそれはシンプソンだと訂正する話など、本編で説明されないエピソードの類いまで様々。「死んだ一族の顔が全て浮かび上がってくるポット」など、説明のしようがない不思議な小道具の存在もそうだ。
 よく分からないものとしては、途中でマカフィーのファーストネームがそれまでの「ジェイムズ(ジミー)」ではなく突然「ロスコー」に変わったり、また「祖母のエリオットのものからマブ・クローフォードのものに変わった台所にいる」というセリフがあるのだが、これなどエリオットは祖母ではなく祖父ではないかと思った。これは単なる誤記なのだろうか、それとも何か意図があるのだろうか。考え出すときりがないので、これくらいでやめておくことにしよう。(笑)

 以上、長々と失礼しました。


<追記2>
 このブログをアップしたところ、ありがたいことに訳者の西崎憲氏ご本人から疑問点について直接コメントをいただけた。まず「ロスコー」という男性名は、名前がわからない相手に対して呼びかける時に使う言葉なのだそうだ。”Hey,Mac!”みたいなものか。また「祖母のエリオット…」については原文でそうなっているのでその通りに訳されたとのこと。ウルフが祖父エリオット・ヴァンティと祖母イヴァドニ・ヴァンティの名を単純に取り違えたとも考えられるが、真意は不明である。台所だから祖母の名がふさわしいと思うのだが…。以上、補足でした。
 なお別の方から、デニスの母親であるアデリーナ(通称デラ)の姉妹アラベラ(通称ベラ)の名が「アラベラ・エリオット」と記述されているというご指摘をいただいたのだが、こちらは残念ながら確認できなかった。どなたかご存知の方はご教示いただけると幸いです。

<追記3>
 さらに共訳者の館野氏からご教示いただくことができ、すっきりした。ベラが旧姓で書いた記事の署名が「アラベラ・エリオット」だそうで、おそらく祖母の名前「イヴァドニ」の愛称が「ヴァンティ」なのではないかということが判明した。どうやら祖父のファーストネームは作中では明かされていないようだ。なんて紛らわしい。(苦笑)
 追記および追記2に書いたコメントはすっかり勘違いということがわかったのだが、関係がややこしいので、今後読まれる方のために敢えて訂正しないでこのままとしておきます。お騒がせしました。ご指摘いただいた「通りすがりの者」さんもありがとうございました。

『痴愚神礼讃』 エラスムス 中公文庫

 16世紀のヨーロッパを代表する知識人(聖職者)による当時の社会批判の書。これが機縁となってルターによる宗教改革の口火が切られたとの話を聞き、かねてから一度読んでみたいと思っていた。でもこの手の本は、何かきっかけがないとなかなか手を伸ばしにくいものなんだよね。今回は中公文庫から新訳が出てくれたので丁度良い機会となった。
 今回の中公文庫版のもっとも大きな特長というと、ラテン語からの原典訳だという点だろう。訳者の沓掛良彦氏による訳も読みやすくていい。翻訳ものは定期的にその時代の言葉でリニューアルした方が良いという話をたまに聞くが、本書や古典新訳文庫の収録作などを読むと、確かにそんな気がしてくる。それではさっそく中身についてご紹介を。
 本書を読むまで実はまったく知らなかったのだが、本書にでてくる「痴愚神」とはキリスト教のヤハウェ神とは何も関係がなく、ギリシア・ローマ神話に題材を取った異教の神だ。しかも女神。人間の愚かさを司る“痴愚の女神”が民衆に自画自賛の演説を行う姿を通じ、笑いの中に当時の権力者や聖職者への批判をにじませるというのが本書の基本スタイル。語り口が意外と滑稽だったのに驚いた。
 女神は道化師の被る二つに割れた帽子を頭につけ、自らの出自や自分がいかに人間たちの為に心を砕いているかについて滔々と述べる。それによれば彼女はプルトス(冥府の神プルート)を父に、ニンフのネテオス(ギリシア語で若さ・青春の意味)を母にして産まれた神だとのこと。痴愚の女神をたすける“お付の者”もたくさんいる。まず侍女神としては「ピラウティア(うぬぼれ)」に「コラキア(追従)」、「レテ(忘却)」に「ミソポニア(怠惰)」に「ヘドネ(快楽)」、さらには「アノイア(無思慮)」と「トリュペ(逸楽)」。侍従として男神も二人いる。その名を「コモス(お祭り騒ぎ)」「ネグレトス・ヒュプノス(熟睡)」というそうだ。
 これらの神々の名を借りながら、人間がもつ特性(悪癖)を順に具体例をもって説明していくというのが、本書のおおまかな流れ。(*)200ページを超える本文が、途中の切れ目も無くずっと同じ調子で続くので結構しんどかったりもするが、書いてある内容自体はそう難しくない。

   *…例を挙げれば、どんなに偉い王でも学者でも、子作りの気持ちに駆られると分別
     をかなぐり捨ててコトにはげむ。それは「アノイア(無思慮)」という女神の
     恩寵によるものだ ――といった調子。

 中には若干論旨が追いにくいところが無いでもないが、それは訳のせいではなくて原文自体が整理されていないからだと思う。例えばくだらぬ見栄やプライドを捨てて自分に素直に生き、人生を謳歌する人々を“痴愚”と呼び心から賞賛する一方で、生まれや教養や技芸を自慢する輩も同様に“痴愚”と呼び揶揄している点。
 当然のことながらエラスムスの執筆意図は、後者の人々を逆説的に批判する点にあるはず。しかし批判と讃美が入り混じって綴られる文章は、ときに意図が読み取りにくいものになってしまっている。(とは言いつつ、もしかしたら自分が当時の価値観を今の視点で読むから混乱するのであって、当時の基準からすれば首尾一貫しているのかもしれないが......)
 まあ、冒頭に掲げられた友人トマス・モアに宛てた文章に依ると、思いつくものを片っ端からからかいの対象にしたようなので、整理されていないのも致し方ないのかもしれない。書いてある批判の多くは現代でも充分に通用するものであって、読んでいていちいち納得。考えてみれば人間の本質なんてそうそう変わるものではないものねえ。(苦笑)

 全体を通した印象としては、本書が行おうとしているのは“愚かなものこそが賢く幸せである”という逆説を説いて、すべての価値観をひっくり返そうということではないかと思う。『マクベス』に登場する魔女が言うセリフ、「きれいはきたない きたないはきれい」のようなものといえば分かりやすいかもしれない。
 愚者を“知恵や理性の欠如したもの”とするのでなく、“痴愚の力に満たされたもの”として捉えていると言っても良い。赤瀬川原平氏によって一躍有名になった「老人力」みたいなもので、“負のエネルギー”に満ちているイメージ。
 著者自身はきっと社会批判を目的として筆をとったのだろう。しかし自分には本来の執筆目的よりも、むしろこのようなイメージこそが強く心に残った。理性や知恵を持っていても幸せにはなれないというのは、思えば哀しいことだ。痴愚の女神に最も愛されて幸せな生涯を送ることが出来るのは、もしかしたらドン・キホーテのような人なのかも知れない。本書を読み終えてそんな事を思ったりもした。
 気分は「おもろうて やがてかなしき “痴愚神礼讃”」といったところかな(笑)。

『チョコレートの世界史』武田尚子 中公新書

 特定の食品目に焦点を当てた本が好きで、「○○の世界史」や「○○の文化史」に類する本をみつけると読んできた。(*)日常的に食べたり飲んだりしているものが、実は世界を動かす原動力になっていたりという話がとても面白い。でもそれは考えてみれば当たり前のことかもしれないね。世界は身の回りにあるもので出来ているのだから。そういえば以前ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』がベストセラーになったけれど、あれも欧州で当たり前のものが他の地域で大きな影響を与えたという話だった。(もっとも病原菌に関する分析ならば、ウィリアム・H・マクニール『疾病と世界史』の方がより詳しくて面白いと思うけれど。)

   *…たとえば『ジャガイモの世界史』『茶の世界史』『一杯の紅茶の世界史』に
     『コーヒーが廻り世界史が廻る』、もしくは『パンの文化史』『麺の文化史』
     に『ナマコの眼』といった感じ。

 というわけで、今回はココアおよびチョコレートについてだ。(注:本書ではカカオ豆全般に焦点をあてているため、チョコレートの前身であるココアについてもかなりのページが割かれている。)
 チョコレートの原料であるカカオは、赤道を中心とした湿潤で温暖な気候に育つ作物。したがって世界史的な観点でみれば奴隷貿易や植民地支配に関する話がでてくるだろうことは、本書を読む前から何となく想像はついていた。(**)しかし知らなかったのは、カカオ豆はコーヒー豆に比べて加工の手間が格段に大きいということ。そのためチョコレートを産業として見た場合、第一次産業としてプランテーションを中心とした“暗い農業史”ももちろん外すわけにはいかないが、意外と第二次産業としての食品加工の比重が大きいのだ。原料のカカオ(=現地で一次加工されたもの)は先進国にある工場に運ばれ、そこで様々に加工される。したがってその部分は工業史にもなるわけで、これは正直言って予想外だった。
 ちなみに当初は貴族の嗜好品だったココアは、現代になって子供の滋養強壮や健康増進の飲み物へとイメージを変え、チョコレートもキットカットやスニッカーズといった安価なチョコレート菓子へと広く展開されている。こうなると販売におけるイメージ戦略という意味では、もはや第三次産業と不可分とも言えるだろう。

  **…コーヒー(豆)/カカオ/砂糖(キビ)はいずれも大西洋を跨いだ“三角貿易”
     の対象品目として、ヨーロッパによる植民地支配と奴隷貿易を支えた重要な作物
     だったようだ。そういえば栽培に適した気候風土や、いずれもある種の嗜好品
     (贅沢品)である点も似ている。

 本書では中米のマヤ・アステカ文明で昔から貴重な薬として飲まれていたカカオが、いかにしてヨーロッパに伝わり広まっていったか、そしてココアやチョコレートがどのように受容されていったかについて、大まかな俯瞰が出来るように書かれている。
 前半はココアが貴族や聖職者たちといった上流階級の人々に好まれるようになった様子と植民地政策の推移。そして後半は産業革命や社会革命によって庶民の口にも入るようになっていった様子と、「固形で扱いやすいココア」としてチョコレートが生まれ製造機械とともにヨーロッパ各地へと広がっていった様子が描かれる。イギリスの食品加工メーカーでキットカットの生みの親であるロウントリー社の歴史を例に、工業としてのチョコレート産業についても詳しく書かれている。
 また冒頭にはカカオ豆およびチョコレートについての一般的な知識が色々と書かれているので、そちらも大変に参考になった。本書によれば、カカオ豆に含まれる代表的なアルカノイド「テオブロミン」と、コーヒーなどに多く含まれるカフェインの分子構造は非常に似ているそうだ。これらのアルカロイドがカカオ独特の香りを醸し出すとともに、リラックスや集中力を高めるといった効果のもとになっているとのこと。コーヒーと似ているのは栽培地域や歴史だけじゃなかったのだねえ。
 ちなみにチョコレートとココアの製法上の違いも本書で初めて知った。カカオには50%を超える非常に多くの油脂分(カカオバター)が含まれているので、そのまますりつぶしただけでは表面に油脂が浮いて飲みにくい。そこで今のココアは油脂分をかなり搾り取って飲みやすくしているのだそうで(昔はそのまま飲んでいた)、
 逆にチョコレートの場合、口に入れた時の滑らかさを出すためにカカオ豆をすりつぶしたどろどろの液/カカオマスに、さらに油脂分を加えて作るのだそうだ。

 それでは例によって印象に残ったところを幾つか簡単にご紹介。
 先ほども述べたように、ココアはカトリック社内で聖職者や貴族層から浸透していった。(スペインやポルトガルが中心になってカカオ産地である中南米からカカオを輸入していたため。)その際、キリスト教の断食期間中に口にすることが許されるかどうかを巡り、ココアは「薬品か食品か?」もしくは「液体か固体か?」が真剣に討議されたらしい。断食中は食品や固体物は口にしてはいけないためだ。最終的にはローマ法王により「液体の薬品である」という都合のいい判断が下されたが、反対する者も多かったようだ。医食同源の考えからすると、そんなものどっちだって同じではないかと思うのだが。(笑)
 またカカオ豆には、苦みや酸味が少なくて美味しいが栽培が難しいクリオロ種と、苦みが強いが栽培しやすく安価なフォラステロ種、それらを交配させたトリニタリオ種の3種があり、一般に出回っているチョコの原料は殆どがフォラステロ種とのこと。そこでスイスのチョコレート業者は、地元で入手できる安価な油脂分としてミルクを加えたところ、苦みも減って食べやすく一石二鳥のミルクチョコレートが生まれたらしい。他にもベルギーでチョコレートボンボンが生まれたのは現地に古くから金型産業が盛んで、チョコの原料を流し込む金型が容易に入手できたからとかいう話を読むと、チョコレートも地場産業と密接に関わっていることがよく分かる。
 もっと驚いたのは、イギリスにおけるココア製造がクエーカー教徒らによって営まれたということ。イギリス国教徒でないことを理由に社会的な迫害を受け、公職や伝統産業から締め出されたかれらが、新しい嗜好品であるチョコレート加工に乗り出したということが真相らしい。しかしマックス・ヴェーバーも述べているように、クエーカー教徒(プロテスタント)にとっては「ビジネスに励むこと」と「社会のために尽くすこと」、そしては「社会活動を通じて信仰を深めること」はほぼ同義。その結果、ロウントリー社/フライ社/キャドバリー社といったイギリスの有名なココア・チョコレートメーカーは、全てクエーカー教徒によって営まれ、工場は社会福祉の見本のような位置づけになっていたのだそうだ。(余談だが、このあたりの話はロアルド・ダールの『チャーリーとチョコレート工場』に出てくるウォンカチョコレートを連想した。)
 他にも、実はキットカットは当時の労働者が、工場で(酒の代わりに)手っ取り早くエネルギーを摂取する手段として生まれたとか、小ネタも色々。工業の話が中心になる後半部は、これまで知らない話ばかりでとても愉しい本だった。
以上、今回の結論としては“「○○の世界史」にはやっぱりハズレ無し”というところだろうか(笑)。そのうち本屋で「○○の世界史」や「○○の文化史」の類の本を見つけたら、きっとまた手に取ってしまうのだろう。なるべく意外性のあるのがいいな。

2014年2月の読了本

 今月は残念。仕事が忙しくて本が全然読めなかった。自分のノルマ(目標)としている月10冊にも届かず。早く年度末が終わって余裕が出来るといいなあ。

『ピース』 ジーン・ウルフ 国書刊行会
  *この2年待ちに待ったウルフの新刊。期待に違わぬ素晴らしい出来だった。先般のプリ
   ースト『夢幻諸島から』に続いて幻惑される愉しさを存分に味わうことができた一冊。
   これだけの難物を仕掛けもろとも的確に日本語に移し替えるには、翻訳を担当された
   西崎憲氏と館野浩美氏は大変なご苦労だったろうと思う。その分こちらは愉しい思いを
   させてもらったわけだが。ある男性が自らの半生を物語る…という言葉では到底表現し
   きれないが、表面的にさらっと読んでも面白いし、所々に感じる違和感を手掛かりに
   語り手が隠している(と思われる)“真実”を推測するのもまた愉しい。
『脳には妙なクセがある』 池谷裕二 扶桑社新書
  *これまでの一連の著作と同様、脳研究の最前線のエピソードから面白いところをかい摘
   んで、エッセイ風にしたためた小文集。2012年に単行本として刊行されたものがもう
   新書になった。
『ビブリア古書堂の事件手帖5』 三上延 メディアワークス文庫
  *いつの間にか5巻まできた。そろそろ物語も佳境にはいってきた感じ。今回取り上げら
   れた本はブローディガン『愛のゆくえ』、雑誌『彷書月刊』、手塚治虫『ブラック・
   ジャック』、寺山修司『われに五月と』の4つ。ミステリとしては第二話の『ブラッ
   ク・ジャック』がいちばん好かったかな。
『機械探偵クリク・ロボット』 カミ ハヤカワ・ミステリ文庫
  *フランスの作家・カミによるユーモアミステリ。天才科学者ジュール・アルキメデス
   博士と機械探偵クリクが活躍する物語で、加納一朗氏の『透明少年』『怪盗ラレロ』
   といった一連のユーモアジュブナイルを思い出す作風だった。著者による挿絵も愉し
   くて、全部で2つの中篇しか書かれていないのがとても残念。今回の文庫版は2010年
   のハヤカワ・ポケット・ミステリ版に、特別付録としてカミのコント2篇を追加収録
   していてさらにお買い得となっている。
『かくれんぼ・毒の園 他五篇』 ソログープ 岩波文庫
  *19世紀末のロシア前期象徴主義を代表する詩人・作家である、フョードル・ソログー
   プの7作品を収録した短篇集。岩波文庫1937年刊の『かくれんぼ・白い母 他二篇』
   と1952年創元文庫刊の『毒の園 他』を底本にしており、文体にはいささか古風な印
   象も感じるが、本書の場合はそれが逆にいい味を出していると思う。いずれも子供達
   が主人公の物語なのだけれど、明るい話ではない。どことなく死の影がつきまとい、
   頽廃と幻想に彩られた作品ばかり。また哀しくもある。(日本でいえば小川未明の童
   話の雰囲気に近いかな。)巻末に収録された戯曲「死の勝利」は少し経路が変わって
   魔女と王の物語だが、これもまた好かった。収録作で他に気に入ったのは「かくれん
   ぼ」「小羊」「毒の園」あたりだろうか。(ところで「毒の園」は以前どこかで同じ
   ような設定の物語を読んだことがあるのだが思い出せない。最近こんなのが多い。/
   苦笑)
『痴愚神礼讃』 エラスムス 中公文庫
  *中世ヨーロッパの司教であるエラスムスが、当時の権力者や聖職者層の乱れを皮肉っ
   て書いた本。人の愚かさを司る女神(痴愚神)が、愚かさのもつ“功徳”とそれを実
   践する人々の様子を滔々と語る。ラテン語原典からの直接訳で、訳文もこなれていて
   とても読みやすい。たまに古典が無性に読みたくなるんだよね。
『ヴァージニア・ウルフ短篇集』 西崎憲/編訳 ちくま文庫
  *「20世紀のモダニズム文学を代表するイギリスの作家」ということだが、恥ずかしな
   がら初めて読んだ。解説によれば「意識の流れ(Stream of Consciousness)」
   の手法をもって、小説界に確信をもたらした作家とのこと。非常に濃密な文章が特徴
   で、本書は僅か200ページあまりの本なのに3倍ほどの厚さのものを読んだような感じ
   がした。まるで泥濘の中をすり足で進むような感覚で、例えばプルーンか何かを絞り
   煮詰めたエキスのような濃厚感もある。(どことなく甘美さとほろ苦さも少し。)そ
   して読後に残るのは、孤独と混乱と静謐と清浄感とでも言えばよいだろうか。
   視覚的ではなく、極めて言語的な方に振れている作家のような気がする。自分の印象
   ではレオノーラ・カリントンに似ているかなあ。そして、同じ「意識の流れ」を扱っ
   ていても、アンナ・カヴァンとは違う、とも…。自分が特に気に入ったのは次の作品。
   「青と緑」ふたつの色を巡って広がるイマジネーションの世界。硬質なファンタジー
        を思わせる。
   「乳母ラグトンのカーテン」カーテンに描かれた動物たちが動き出す。
   「サーチライト」アイヴィミー夫人の曾祖父が望遠鏡を覗く物語
   「月曜日あるいは火曜日」青鷺は飛び、色とりどりの断章が閃く。
   「キュー植物園」ある熱い日の花壇を通り過ぎる人々や生き物たちのスケッチ。
   「池の魅力」これもまた一つの池を巡る想念の断章。
   そしてラストの「書かれなかった長篇小説」は、列車(駅?)で出会ったひとりの女
   性を巡ってイメージされる数多くの物語が錯綜し、これもまた好い。他には「ラピン
   とラピノヴァ」(二人の男女の心の移り変わりを描く)や「堅固な対象」(ガラスな
   どを拾い集める男)といった、底意地が悪くてじわっと嫌な話もあるが、どうやら彼
   女はそれが持ち味でもあるらしい。ますます「食えない作家」だ。(褒めてます。)
『虹をつかむ男』 ジェイムズ・サーバー ハヤカワepi文庫
  *こちらはV・ウルフとは対照的でとても読みやすい。フレドリック・ブラウンやロバ
   ート・シェクリィ、あるいはロアルド・ダールやチャールズ・ボーモントのように、
   都会的でそれでいてヘンテコな洒落た話が詰まった短篇集。表題作や「空の歩道」
   「ツグミの巣ごもり」など、短いけれどピリッとしたスパイスの利いた掌編が持ち味
   で、“ユーモア・スケッチ”というのがふさわしい感じ。星新一のエッセイ『進化し
   た猿たち』で紹介されていたような、新聞のヒトコマ漫画の味に近いといえばいいの
   だろうか。あのエッセイを読んで感じたのは、サーバーもその一員である「異色作家
   たち」の作品に感じる印象と、結局のところ同じものだったというわけだ。収録作の
   なかでは、とりわけ「マクベス殺人事件」が(ミステリ好きの端くれとしては)大変
   に気に入った。ただし「ホテル・メトロポール午前二時」にはじまるラスト3篇は、
   ユーモアの成分が薄めで少し毛色が違う。ボーナストラックみたいなものかな。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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