2013年12月の読了本

 今年もこれで最後。なんとか滑り込みで最後の一冊を読み終えることができたので、こんなぎりぎりになってしまいすいません。来年もまた宜しくお願いします。

『江戸怪談集(上)』 高田衛/編・校注 岩波文庫
  *全3巻からなる岩波文庫版『江戸怪談集』の第1巻。「宿直草(とのいぐさ)」「奇異雑
   談集(きいぞうたんしゅう)」「善悪報ばなし(ぜんあくむくいばなし)」「義残後覚
   (ぎざんこうかく)」の4つの物語集を収録。入手の関係で中巻と下巻を先に読んでしま
   ったので本書が最後となる。(古い岩波ってなかなか見つからないのだよね。)中身は
   「怪談」というより「奇談」と言った方がよい話も多く、今でいうところの「実話怪談」
   という感覚で読まれていたのではないかという気もする。場所と人物名が明確化されて
   いたりという細工も、いかにもそれっぽい感じ。(笑) いずれも文学史的にはいわゆる
   「仮名草子」と呼ばれる説話集だが、個人的には特に「奇異雑談集」と「義残後覚」が
   読みやすくて面白かった。「奇異雑談集」の中には、中国の『剪燈新話(せんとうしん
   わ)』より「牡丹灯記」(「怪談 牡丹燈篭」の元になった話)の他、3話が収録されて
   いる。
『夜と霧 新版』 V・E・フランクル みすず書房
  *医師であり心理学者でもある著者が、第2次大戦中にナチスの強制収容所で過ごした日々
   の記憶と、そこで得た洞察をつづった本。霜山徳爾氏による旧版が1956年に出版されて
   いて現在でも入手可能だが、今回読んだのは1977年改訂版を底本にして池田香代子氏に
   より新たに訳し直された2002年の新版。(何でもかんでも新訳が良いとは言わないが、
   間違いなく読みやすくはなっていると思う。)収容されてから解放されるまでが順に語ら
   れているのではあるが、きちんとした時系列に沿って語られるわけでは無い。(当時の筆
   者にとって、そのように体系だった時間の経過などというものは意味をなしていないだろ
   う。「無期限の暫定的存在」に貶められていたわけだから。)心に残る言葉は数多いが、
   例えば次のようなものはどうだろう。筆者が何としても生き抜こうとし、そしてそれを
   可能にできた理由が何となくわかる気がする。
   「おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ご
   く少数の人びとのように内面的な勝利を勝ち得たか」/「きわめてきびしい状況でも、
   また人生最後の瞬間においても、生を意味深いものにする可能性が豊かに開かれている」
   /「あるいは熾烈をきわめた保身のための戦いのなかに人間性を忘れ、あの被収容者の心
   理を地で行く群れの一匹となりはてたか」/「ひとりひとりの人間にそなわっているかけ
   がえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということに
   たいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる」…このような洞
   察を得ることが出来たからこそ、未来に待つ何かのために生き抜くことが出来たのではな
   いだろうか。
『定本 何かが空を飛んでいる』 稲生平太郎 国書刊行会
  *円盤や宇宙人を始め疑似科学や妖精といったオカルティックなテーマを、文化人類学や民
   俗学の視点で読み解いた本。元本は表題にもなっている第1部なのだが、著者が「稲生平
   太郎」「法水金太郎」とそして本名の横山茂雄の3つ名義を使い分けて書いた単行本未収
   録の文章が大量に追加され、読み応えあり。
   第1部は円盤・宇宙人・誘拐といった、自分が子供の頃にテレビで一世を風靡したネタが
   満載。つづく第2部では、地球空洞説や日猶同祖論(日本人と猶太/ユダヤ人が共通の祖
   先であると主張する説)といったトンデモ学説から、ブラヴァツキー婦人の神智学協会、
   ナチスにも共通するアーリア人高等人種説を唱えたアドルフ・ランツなど危険な薫りのす
   るものまで、さまざまな題材が取りあげられる。第3部は柳田國男や南方熊楠、泉鏡花な
   ど本邦の民俗学を巡る人物を中心としたものだが、第1部から3部まで共通なのは、著者
   が一貫して注ぐまなざしが「幻視そのもの」にではなく「幻視する人々」の方であると
   いうこと。しかも批判めいた視点ではなく(もちろん讃美でもないが/笑)、純粋な興
   味でもって接している。高かったが読んで良かった。
『ぼくは本屋のおやじさん』 早川義夫 ちくま文庫
  *著者はかつてロックグループ・ジャックスで活躍した歌手。24歳にときに引退し、街中
   の本屋を22年やって94年から歌手に復帰したとのこと。(そちらは詳しくないので申し
   訳ないが著者略歴の受け売り。)本書は著者が本屋時代に出していた「読書手帖」や
   「本の新聞」に書いた文章をまとめたエッセイだ。本屋の日常生活や辛さやが書かれて
   いて、盛り上がるタイプの本ではなくしみじみとする感じ。内容は町の書店経営の光と
   影についてで、良いこともあれば悪いこともある。漫画で言えばつげ義春や福満しげゆ
   きの『ぼくの小規模な生活』みたいだなあ―と思って読んでいたら、やはり筆者はつげ
   義春の大ファンだった。大崎梢著の書店ミステリとセットで読むとバランスがとれて良
   いのではないだろうか。「小説や映画やステージの上だけに感動があるのではない。
   こうした何でもない日常の世界に、それは、目に見えないくらいの小さな感動なのだが、
   毎日積み重なっていたのだということを僕は閉店の日にお客さんから学んだ。」これな
   んかいい言葉だね。うん
   うん、激しく同意。
『夢の中の夢』 タブッキ 岩波文庫
  *カルヴィーノ、エーコと並び20世紀イタリア文学を代表する作家・アントニオ・タブッ
   キによる掌編集。20人にのぼる歴史上の著名人を主人公に、「彼らが見た夢」をタブッ
   キが夢想するという面白い趣向。夢がテーマと聞いて、夏目漱石の『夢十夜』や内田百
   閒の『冥途・旅順入城式』のように、不気味で酩酊感に満ちた昏い物語を想像していた
   のだが全く違った。からっとして時にすっきり。まるで西洋版の『壺中天』か『胡蝶の
   夢』を読むかのよう。いやこれは恐れ入りました。さほど期待していなかっただけに
   (失礼)、あまりの面白さにびっくりした。「作家にして破戒僧、フランソワ・ラブレ
   ーの夢」「画家にして幻視者、フランシスコ・ゴヤ・イ・ルシエンテスの夢」「詩人に
   して旅行家、アルチュール・ランボーの夢」なんてあたりはかなり好み。愛娘から贈ら
   れた手帖に書かれた本書成立のエピソードも好いなあ。
『パンの文化史』 舟田詠子 講談社学術文庫
  *文字通りパンに関する世界中の文化について調べ、そのなりたちや社会における役割につ
   いて考察した労作。前から食物に関する文化史や世界史には興味があり、『麺の文化史』
   とか『ジャガイモの世界史』など色んな本を読んできたのだけれど、本書は“パン食い”
   である自分にとっては特に愉しかった。本書によれば「パン」とは小麦粉をこねて焼いた
   もので、発酵させたりさせなかったりといった製法や、また地域や文化によって様々な種
   類があるそう。パンの文化史について日本語でかかれた本はこれまで一冊も無かったそう
   で、著者はヨーロッパの文献など直接あたって丹念に調査。・分析をしている。米食文化
   だった日本では家でオーブンを使ってパンを焼く習慣がなく、パンと言えば“外で買って
   くるもの”というイメージが強いからのようだ。期待に違わず読みごたえがあって愉しか
   った。
『ムーミン谷の仲間たち』 ヤンソン 講談社文庫
  *ムーミン一家ではなくムーミン谷にすむ人々を中心に、9つの作品が収録された短篇集。
   (ムーミンパパが主人公の話はあり。)全体的に割と渋めの物語が多く、どちらかという
   と子供向けではなく大人向けのような感じもしたが面白かった。個人的には「この世のお
   わりにおびえるフィリフヨンカ」「ニョロニョロのひみつ」「もみの木」あたりが好いか
   な。
『教会の怪物たち』 尾形希和子 講談社選書メチエ
  *副題は「ロマネスクの図像学」。ヨーロッパの教会に散在する奇怪な意匠の像やレリー
   フの起源を、ゴシック様式に先立つロマネスク様式に求め、中世の世界観を怪物図像から
   みた美術史の観点から解き明かしていこうという本。
『ボリバル侯爵』 レオ・ペルッツ 国書刊行会
  *かのボルヘスが絶賛したという幻想歴史小説。ナポレオン専制時代のスペインを舞台に、
   ライン同盟の二連隊が壊滅するまでの奇々怪々な顛末を描く。今年はただでさえ幻想怪
   奇の分野が大豊作なのに、年末になってまたこんな本が出るなんて…嬉しい悲鳴つづき
   だ。(笑)
『僕僕先生 先生の隠しごと』 仁木英之 新潮文庫
  *人気の中国仙人ファンタジー『僕僕先生』の第5弾。前作の『さびしい女神』で先生の過
   去が明かされ、よりいっそうシリアス感を増した気がする。でも相変わらずひょろひょろ
   と頼りない主人公・王弁が適度に気を抜いてくれるので好い感じ。このシリーズはここい
   らのバランスがうまいなあ。
『本を読む人のための書体入門』 正木香子 星海社新書
  *書籍の面白さについて、そこで使用される「書体」に焦点を当てて語った本。明朝体とゴ
   シック体くらいは知っていたが、これほど多くの書体があり(今でも新たにつくられ)、
   そして書体によって書物の印象がこうも変わるとは思わなかった。何気なく手に取ったの
   だけれど大当たり。こういう出会いが本屋巡りの醍醐味といえる。
『死なないやつら』 長沼毅 講談社ブルーバックス
  *著者は極限環境下に生きる微生物の研究者。本書はそれらの微生物との出会いをきっかけ
   として、「生命という現象の本質」について考察さいたもの。2万気圧という高圧でも生
   きる微生物や、塩分濃度30%の飽和食塩水から真水までどんな塩分濃度でも生きられる
   微生物。毎時6000万マイクロシーベルトという恐るべき量の放射線を浴びても死なない
   微生物など、興味深い生き物たちが沢山出てくるのに、あまりページが割かれていないの
   が残念。もう少しそちらを詳しく書いてもらいたかったな(いや、無理な注文ではありま
   すが。)生命現象に対する著者の立場は、基本的にはドーキンスの「利己的な遺伝子」に
   近い。その上で「エネルギーを食べて構造と情報の秩序を保つシステム」である生命の発
   生原理について自分なりの推測を述べている。「生命は渦である」というところなどは、
   福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』にもテイストを感じた。
『第三の警官』 フラン・オブライエン 白水Uブックス
  *ベケットやジョイスにも高く評価されたという、アイルランド作家の奇想小説。噂に違わ
   ぬ傑作だった。この小説を面白いと思う人は若干限られるかもしれないけれど、好きな人
   には堪らないと思う。ヴィアンの『北京の秋』や『うたかたの日々』、あるいはカフカ
   『審判』やカミュの『異邦人』、そしてモンティ・パイソンが好きな人なら多分お奨め。
   (ただし巻末の「出版者の覚え書」と「訳者あとがき」は読了前に読まない方が良いと思
   う。折角の小説の仕掛けを、ラストのオチまで全部ばらしてしまっているから。)
『笑い』 ベルクソン 岩波文庫
  *哲学者ベルクソンによって1900年に発表された「笑い」に関する考察の本。「笑う」と
   いう行為はごく普通の「可笑しさ」に対して発せられるものもあれば、嘲笑や哄笑、もし
   くは「嗤う」といった黒い笑い・赤い笑い・黄色い笑いなど様々なものがある。そういっ
   た「笑うという行為」のもつ意味に前から興味があるので、そのうち読んでやろうと思っ
   ていた。ところが実際によんでみると、こちらが期待していたものとは少し違う。この本
   が考察する対象は「笑うという行為」ではなく、「笑い」(しかもごく一般的な狭義の笑
   い)を引き起こす原因である「滑稽さ」について考察したものだった。
   多くの事例を引き合いに出しているので結構まどろっこしいところもあるが、著者のいう
   「滑稽さ」とは煎じ詰めれば「安全な位置から“場違い”なものに接した時に感じる違和
   感」ということになるのではなかろうか。それが具体的には何によって引き起こされるか
   というと、例えばハロルド・ロイドの映画のようなギクシャクとした機械的な動き。ある
   いは崇高な行為をしている時におきる、くしゃみなどの肉体的衝動であったり、もしくは
   思い掛けない地口による異化作用であったり...。それらの要素の“繰り返し”による
   「緊張と弛緩の反復」というのも笑いを引き起こす上で非常に有効であるとも書かれてい
   る。(これなどは、いわゆる「お約束」というやつにあたるのかも。)また、人々が笑う
   ことで何を期待しているのかといえば、それは虚栄心といった社会的なある種の「侵害」
   に対する矯正の役割を目的とするのだという。いずれにせよ頭で考える笑いであって、
   例えば子供が野原を思い切り駆け回るときにおもわずあげる笑い声や、幼子を見るときの
   親の微笑み、あるいは誰か弱い者を嘲り笑うといったものは考察の対象には含まれてはい
   ない。(かなり偏った考察であるなあとおもったら、1976年の改版における訳者あとが
   きでも同じ趣旨のことが書かれていた。)まあこれはこれで参考になったが、もっと広い
   意味での笑いを哲学的に考察した本が他にあったら、それもぜひ読んでみたいな。
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My Choice/2013年印象に残った本

 相変わらず公私ともどもどたばたは続いているが、なんとか先が見えてきたかな。健康でいられただけでも感謝しなくちゃね。今年は3月の殊能将之氏の件を始めとして、身近な人や自分の人格形成に影響を与えた人の訃報に接する機会が例年になく多かったような気がする。自分もそんな年齢になったという事なのだろうか。
さて、気を取り直して、今年の締めくくりとしてこれまで読んだ本の中から、恒例の「印象に残った本」を挙げてみよう。

<新刊部門> ―今年出版された本―
『アサイラム・ピース』 アンナ・カヴァン 国書刊行会
  *熱狂的なファンを持つ著者の第一作品集。今年はなんといってもカヴァン再評価の年。
   本書とともに『ジュリアとバズーカ』が読めたのは本当に良かった。
『もうひとつの街』 ミハル・アイヴァス 河出書房新社
  *珍しいチェコの幻想文学。現実のプラハの街の裏側に広がる「もうひとつのプラハ」
   をめぐる探索の物語。
『短篇小説日和』 西崎憲/編訳 ちくま文庫
  *今年は自分にとって短篇小説再発見の年でもあった。本書はそのきっかけとなった本。
   副題は「英国異色傑作選」といい、粒よりの作品17作に加え訳者・西崎氏による三つ
   の小説論を付す。
『ジュリアとバズーカ』 アンナ・カヴァン 文遊社
  *『アサイラム・ピース』と同じ作者、アンナ・カヴァンの短篇集で、こちらも一応
   新刊ではあるが、正確に言うとサンリオSF文庫で出ていたものの復刊。ヘロインと
   離人症と不安神経症に苛まれる一人の女性の幻想を描く。
『夢幻諸島から』 クリストファー・プリースト 早川書房
  *幻想系SFの傑作。著者が長年に亘って書き継いできたシリーズ「夢幻諸島(ドリ
   ーム・アーキペラゴ)」シリーズの集大成。
『若き日の哀しみ』 ダニロ・キシュ 創元ライブラリー
  *時は第二次世界大戦。ユーゴスラビアに生まれユダヤ人を父にもつ著者の、少年
   時代を描く自伝的小説。
『怪奇小説日和』 西崎憲/編訳 ちくま文庫
  *『短篇小説日和』とともに今年の短篇小説集の収穫。こちらは「暗褐色の異色短篇
   集」という雰囲気が似合う。
『定本 何かが空を飛んでいる』 稲生平太郎 国書刊行会
  *オカルト的な題材を文化人類学や民俗学の視点で読み解いた本。「稲生平太郎」
   「法水金太郎」「横山茂雄」という著者の3つの名義による文章が一堂に会する。
『パンの文化史』 舟田詠子 講談社学術文庫
  *文字通りパンに関する世界中の文化について調べ、そのなりたちや社会における役割
   について考察した労作。前から食物に関する文化史や世界史には興味があって、
   『麺の文化史』とか『ジャガイモの世界史』などその手の本は色々読んできたけれど、
   その中でも本書は出色。
『第三の警官』 フラン・オブライエン 白水Uブックス
  *大晦日のぎりぎりになってとても面白い本を読むことが出来た。ジョイスやベケット
   と同時代の、アイルランド生まれの作家による奇想小説。

<既刊部門> ―古本・絶版とりまぜて今年自分が読んだ本―
『聖杯と剣』 リーアン・アイスラー 法政大学出版局
  *「ジェンダー論の基本図書」の一冊。協調型社会から支配型社会への転換と、それに
   伴う性差別の進行を考察する。
『〈性〉と日本語』 中村桃子 NHKブックス
  *日本語の「女ことば」と「男ことば」に隠された「性差」と、日本社会に色濃く染み
   ついている社会意識を言語学の立場から解き明かす。
『東北学/忘れられた東北』 赤坂憲雄 講談社学術文庫
  *柳田民俗学が作り上げてきた「東北」の概念を覆し、本当の東北の姿を示そうとする
   「赤坂東北学」の試みの開始を告げた本。忘却の彼方に追いやられてしまった東北の
   地と、そこに住んでいた人々のイメージを掘り起こす。
『ルワンダ中央銀行総裁日記』 服部正也 中公新書
  *1965年から6年間ルワンダ中央銀行の総裁を務めた著者による爽快な回想記。
『レストレス・ドリーム』 笙野頼子 河出文庫
  *悪夢をテーマに据えた“居心地の悪い”連作短篇集。この著者の作品はどうも肌に
   合わないと思っていたのだが、ジェンダー論の観点から読むとこんなに面白いもの
   とは知らなかった。
『天来の美酒/消えちゃった』 コッパード 光文社古典新訳文庫
  *「唯一無二」の短篇作家A・E・コッパードの作品集。
『カラハリの失われた世界』 L・ヴァン・デル・ポスト ちくま学芸文庫
  *一時は絶滅したと思われていたアフリカの“大地の民”ブッシュマンを見つけ出す
   までの苦闘を描くノンフィクション。

 こうしてみると、今年の読書のキーワードは「短篇」「ジェンダー」「幻想と怪奇」だったことに気が付いた。来年はもう少しノンフィクションや学術系の充実を図れると嬉しいな。(そして合間にはもちろん怪奇や幻想やSFを読む。そちらは今年に続いて豊作が期待できそうだし。/笑)

『本を読む人のための書体入門』 正木香子 星海社新書

 著者による創作物は本というハードウェアに載って我々のもとに届けられる。本好きの端くれとして、装丁や書籍の作りには以前から興味があったのだけれど、本書がテーマとしている「書体」については正直なところ無頓着だった。でもテレビでは画質、音楽では音質が問題にされるように、確かに本にとって書体(フォント)というのは大事なものかも知れない。そんな風に気づかせてくれたのが本書だった。
 例の如くふらりと立ち寄った本屋でたまたま見つけ、手に取ったのが大当たり。とても面白い。やはりリアル書店はこういった思い掛けない本との出会いがあるからいいね。
 テーマはかなり専門的だと思うのだが、意外や意外、著者は編集者でもデザイナーでもない。単なる(失礼)市井の「書体ファン(*)」。そんな人がいるのにも驚きだが、2011年から始めたウェブサイト「文字の食卓」が読者の目線からの“書体批評”として話題になり、やがてウェブ連載をまとめた書籍『文字の食卓』が本の雑誌社より出版されたという経歴にもびっくり。(この『文字の食卓』の方も読んでみたい。)

   *…ご本人は自らのことを「文字食(もじしょく)」と呼んでいるそうだ。

 まずページを開くと現れるのが、夏目漱石の『吾輩は猫である』を様々な書体で比較したもの。明朝/ゴシック/行書といった異なる書体で書かれると、同じ文章でも印象が全く違う。次に例として挙げられるのは、本来はハンコ用に作られた「淡古印(たんこいん)」と呼ばれる書体。『ドラゴンボール』で初めてマンガに使われたて以来用途が拡大し、今ではホラーマンガに良く使われているということだ。こうしてみると、読書における書体やレイアウトは、朗読でいえば声のリズムや抑揚、強弱といった感じではないだろうか。言語情報とは別の次元に属し、且つさらなる情報の補足や演出を行うもののような気がする。
 なお著者によれば、文字とは「記憶を読む装置」であるとのこと。文字(書体)から受ける印象は、その文字を通じてこれまで得られた読書体験の記憶による…というのは仮説としてなかなか面白い。(自分なんぞは書体に対する意識が著者ほどには強くなかったので、言われて初めて「ああなるほど」と気が付く程度だが。)
 冒頭にも書いたように著者は出版のプロではないので、もちろん名前をしらないフォントも山ほどあるそうだ。しかし「自由に文字を楽しむ」ことでは誰にも負けない人だと思う。「フォントの名前を知らなければ語る資格もない、と考えるのは、美術は美術家のもの、音楽は音楽家のもの、と決めつけてしまうのと同じ。(中略)もったいない!」という言葉には、まさに目を開かされる思いがした。
 一介の読者としては気にしたこともなかったが、本書によればこの数十年で本の製作にかかわる技術や状況は大きく変化しているよう。そして活版印刷から写植をへてDTP(デスクトップパブリッシング/出版作業のデジタル化)で用いられるデジタルフォントへの変遷の過程で、失われていった書体が数多くあるのだという。もしかしたら、古本屋で購入した本を読むと妙に落ち着くのは、古い紙の手触りや匂いの他に、文字の印象も大きく関係しているのかも知れない。そんな気もした。
 本にはこういう愉しみ方もあるんだねえ。

<追記>
 ついでなので、色んなメディアで伝えることが出来る情報の質(次元)について、以前から考えていたことをご紹介したい。例えば落語のネタを様々なメディアで表現することを考えてみよう。
 まず一番簡単で情報量が少ないのは、①テキストデータ(文章)によるもの。落語でいえば、噺家の喋った言語を一語一句忠実に書き写したものとなる。次が②静止画像データ。これは好いのが思い浮かばなかったが、例えば子供向けの落語の絵本などはそれに当たるだろうか。(『寿限無』なんてあったよね。)
 これより情報が多いのが、CDやラジオ放送などの③音声データ。テキストの内容に加えて、噺家の声の抑揚や強弱、声色や間合いなど、感情やニュアンスを伝える情報を載せることが出来る。そこに演じ手の身振り手振りや顔の表情など、ボディランゲージの情報が増えたのが、DVDなどの④映像(動画)データということになるだろう。
 そして最後、最も情報量が多いのは⑤現場(寄席)で聞く生の落語ということになるだろう。先ほどからのすべての情報に加え、話者の息遣いや会場のニオイに雰囲気、温度、舞台までの距離感、周囲の客の反応などといった、自分がその場でまさに落語を“体験している”という臨場感がある。
 
 これらを書籍に当てはめてみると、せいぜい出来るのは②の静止画像データまで。電子書籍になれば可能性は広がるが、本来であれば④映像(動画)までフォローできるメディアを、あえて②の段階までで留めている感じがして、すこし勿体ない気がしないでもない。
 ちなみに映画は現在④のレベルだが、3D化を進めたり、映像と一緒に匂いやボディソニック(振動)による4D化を行うことで、一生懸命に⑤に近づけようとあがいている状態と言える。茂木健一郎いうところの「クオリア」というやつを獲得できるのは、果たしていつの日のことだろうねえ。

『怪奇小説日和』 西崎憲/編訳 ちくま文庫

 副題は「黄金時代傑作選」。19世紀から20世紀にかけての、いわゆる“ゴシック・ロマンス”と“モダンホラー”の間をつなぐ数々の傑作を生み出した時代から、バラエティに富んだ怪奇短篇の傑作ばかりを集めたアンソロジーだ。3月に同じ編者によって出された『短篇小説日和 ― 英国異色傑作選 ―』の姉妹篇でもある。前著は不思議な話や不気味な話、しみじみする話など、様々なタイプの極上短篇を集めたものだったが、今回は特に怪奇色の強い作品に絞って集めてある。氏の編纂によって国書刊行会から以前出された全三巻のアンソロジー『怪奇小説の世紀』から厳選し、さらに訳しおろしの作品などを加えたものだそうで、全部で18編が収録されている。氏が選ぶ作品のセンスが自分の趣味に合うのは既に承知済みなので、迷うことはない。本書も刊行と同時にすかさず買ってきた。

 収録作の題名と作者は以下の通りだ。
 ■「墓を愛した少年」フィッツ=ジェイムズ・オブライエン
   ひとつの墓を愛した孤独な少年の物語
 ■「岩のひきだし」ヨナス・リー
   岸壁にあるひきだしと海魔に魅入られた男
 ■「フローレンス・フラナリー」マージョリー・ボウエン
   恋人を裏切りずっと生き続ける呪いをうけた女
 ■「陽気なる魂」エリザベス・ボウエン
   クリスマスにある家に招待された人物が体験する不可解と恐怖。
 ■「マーマレードの酒」ジョーン・エイケン
   休暇で森を散策していた男を見舞う運命。さらりと書かれているがこれは怖い。
 ■「茶色い手」アーサー・コナン・ドイル
   まさしく正調な幽霊譚。インドに長年駐留し、今は故郷イギリスに住む叔父を襲う怪異。
 ■「七短剣の聖女」ヴァーノン・リー
   分不相応な憧れを抱いたドン・ファンが自ら破滅してゆく顛末。編者の言葉にならえば
   “ゴシックともバロックとも形容しがたいような”独特の味わいの中篇。
 ■「がらんどうの男」トマス・バーク
   数十年まえに殺した男が甦る。
 ■「妖精にさらわれた子供」J・S・レ・ファニュ
   いかにもレ・ファニュらしい感じの、古き怪奇小説。「取り替え子」の物語。
 ■「ボルドー行の乗合馬車」ロード・ハリファックス
   街角で出会った婦人から頼まれ、乗合馬車の発車時刻を尋ねたことで男が味わう不条理
   な恐怖。ラストも好い。
 ■「遭難」アン・ブリッジ
   スイスの雪山で姉妹を襲う恐怖。登山にまつわる幽霊譚・怪異譚も多いね。
 ■「花嫁」M・P・シール
   ダメ男と姉妹による恋のさや当てかと思ったらいきなり怪奇小説に。びっくりした。
 ■「喉切り農場」ジョン・デイヴィス・ベリズフォード
   小編ながら何とも言えぬ後味の悪さ。(褒めてます)
 ■「真ん中のひきだし」ハーバート・ラッセル・ウェイクフィールド
   ゴーストストーリの名手による怪談。妻を殺した男と、彼を糾弾する妻の幽霊。
 ■「列車」ロバート・エイクマン
   気ままな二人旅に出た女性たちが、迷い込んだ洋館で体験する恐怖。聞こえてくる
   列車の音と、深く静かに狂ってゆく屋敷の住人が不気味。
 ■「旅行時計」ウィリアム・フライアー・ハーヴィー
   これも小品ながらぴりっとして結構怖かった。屋敷にいたのは一体何なのだろか。
 ■「ターンヘルム」ヒュー・ウォルポール
   風変わりな叔父の家で休暇を過ごすことになったひとりの子供。その屋敷に隠された
   秘密とは?
 ■「失われた船」ウィリアム・ワイマーク・ジェイコブズ
   行方不明になった船から数十年ぶりに帰ってきた男と、彼を待ち続けた母の物語。

 どれも極上の短篇小説であり怪奇小説であるのだが、とりわけ自分の好みに合ったのは、「墓を愛した少年」「陽気なる魂」「七短剣の聖女」「がらんどうの男」と、そして「失われた船」あたりだろうか。(もちろんその他のものもどれも愉しめた。)
 ちなみに前著『短篇小説日和』にも作品が収録されている作家が何人かいる。それはマージョリー・ボウエン/ヴァーノン・リー/M.P.シール/ロバート・エイクマン/W.F.ハーヴィーの5人。それぞれ「看板描きと水晶の魚」「聖エウダイモンとオレンジの樹」「ユグナンの妻」「花よりもはかなく」「羊歯」という作品を書いており、そちらもお薦め。これらの本をきっかけにしてヴァーノン・リーやスパークなどに接することが出来、「短篇」という形式を改めて意識することで読書の幅がこれまで以上に広がったような気がする。(今はコッパードの短篇集『郵便局と蛇』を捜しているところ。)長篇作品もしくはまとまった短篇集が出されていない作家はどうしても印象に残りにくいが、こういう形で紹介してもらえると大変に有り難い。本書は創元推理文庫の『怪奇小説傑作集』(平井呈一訳・全5巻)がかつて果たしたのと同じ役割を、これからの読者に対して果たすことができるのではないだろうか。
 巻末には「怪奇小説考」と題して、西崎氏による短篇&怪奇についての力作エッセイ3篇も収録されている。題名と主な内容は次の通り。

 ■「怪奇小説の黄金時代」
   怪奇小説を巡る、当時の社会背景や作品の受け取られ方など。
 ■「境界の書架」
   好事家が好むものとしての怪奇小説と、周縁に立ち続けるファン気質について。
 ■「The Study of Twilight」
   過去から現在に至る、怪奇小説に関する解説書・研究書の紹介。

 なぜこんなに怪奇と幻想の物語に魅かれるのか自分でも不思議なのだが、西崎氏の論考「境界の書架」は、これまで常にマイノリティもしくはアウトサイダーを意識してきたそんな読者として、とても共感できるものだった。『短篇小説日和』にも同様の三つの論考が収録されていたが、日頃こういった“趣味の文学論”とでもいうものを読みたいと思っていた自分にとって、この2冊は充分に渇きをいやしてくれるものだったと思う。
 氏にはできればこれからも「○○日和」シリーズとして同趣向のアンソロジーを出して頂けることを期待したいな。

<追記>
 話は変わるが、今年はこれまでに無いほど幻想怪奇の分野が豊作だった。例えばちくま文庫からは本書の他にも、アンソロジスト・東雅夫氏による『幻想文学入門』『怪奇小説精華』『幻想小説精髄』と『幻妖の水脈』『幻視の系譜』『日本幻想文学事典』という、海外&日本の幻想文学を網羅した全6冊のシリーズが出版されている。
 また同じく東氏により、泉鏡花の小説と柳田國男の論考のカップリングという珍しい『山海評判記/オシラ神の話』という本も出されている他、今年はなぜか岩波文庫からも泉鏡花の『化鳥・三尺角』という短篇集が出た。比較的幻想系の強い作品が多く集められているので、鏡花ファンとしては嬉しい限りだ。(岩波は他にもタブッキ『夢の中の夢』が掌編ながらとても好かった。)
 河出文庫からは澁澤龍彦編訳『幻想怪奇短篇集』に『暗黒怪奇短篇集』や、大泉黒石の『黄夫人の手』といった渋いところが出ており、中公文庫からは岡本綺堂作品集の一冊として『青蛙堂鬼談』の続編にあたる『近代妖異篇』が。また意外と幻想系にも強い光文社古典新訳文庫には、大御所ブラックウッドの『人間和声』が新たに収録されている。
 ハードカバーに目を転じれば、国書刊行会からはボルヘス編の『新編・バベルの図書館』全6巻が無事完結の他、アンナ・カヴァンの幻の作品『アサイラム・ピース』の発売までも。(カヴァンはこの後引き続いて文遊社から『ジュリアとバズーカ』『愛の渇き』が復刊されたのは嬉しい限り。)年末も押し迫ってからは「ボルヘス絶賛の幻想歴史小説」という帯の文句も眩しいレオ・ペルッツ『ボリバル侯爵』が出るなど、いくらお金があっても足りないくらい。
 以上、SF色の強いものはあまり触れなかったが、プリーストの大傑作『夢幻諸島から』を始めとして実はこちらのジャンルでも今年は結構な傑作揃い。来年は『PEACE』を皮切りにジーン・ウルフの新刊が立て続けに出されるようだし、今年の“R.A.ラファティ祭り”に続いて“ウルフ祭り”が開催される模様だ。祭りに参加するためには、是非とも今のうちに小遣いを貯めておかなくてはならない。嬉しい悲鳴はまだまだ続きそうだなあ。(笑)

『イスラムの神秘主義』 R.A.ニコルソン 平凡社ライブラリー

 イスラム系の神秘主義的信仰である「スーフィズム」に関して、思想的背景を中心にまとめた本。スーフィズムというと、スカートのような裾を広げてくるくると回るスーフィー教徒の写真くらいしか思い浮かばなかったのだが、読んでみたら恥ずかしいことに全然違っていた。スーフィズムすなわちイスラム神秘主義を信仰する人々を「スーフィー」と呼ぶそうで、本書では彼らが信仰の階梯(マカーマート)を上っていく過程を軸に、スーフィズム全体の思想についてまとめてある。その反面、スーフィズム成立の歴史についてはあまり言及されず、その教えが最盛期を迎えた12世紀ごろの彼らの精神性や考え方を中心に書かれている。まあ入門書としては手ごろなのではないだろうか。
 本書を読んで意外だったのは、「スーフィー(イスラム神秘主義)」というのは「確固とした教理体系に基づく特定宗派」につけられた名前ではないという点。どうやら“ある種の傾向”をもつ集団に漠然とつけられた総称らしいのだ。そしてそれが何かというと、最終目標である「神との合一」に向かって、主に思索活動に基いて信仰を突き詰めようということのよう。ちなみにその過程は「道(タリーカ)」と呼ばれているらしい。
 一般的なイスラム信仰では「律法」や「禁欲」といった生活信条のイメージが強い気がするが、スーフィーはそれよりも「汎神論的」「思弁的」という方がしっくりくる感じ。(もちろん生活面への反映はされるわけだが。)
単に富を持たないだけでなく、富への欲求そのものを一切もたないということ。真の清貧を保ち、個人の意志を全て放棄して神への信頼に全面的に身を委ねる…それが彼らの理想的な生き方のようだ。

 とてもざっくりした印象では、教えに関してはユダヤ・キリスト教的な一神教はもちろん、密教系の仏教にも共通するところがある気がした。例えばスーフィーにおいては、人間の魂が持つ邪悪な要素を「ナフス」と呼ぶそうで、その正体は怒りや欲情といった“肉欲”(≒地上的/世俗的な欲求)に等しいもの。それを打ち破るには瞑想による修行を通じて「神への信頼」を獲得し、自らの全霊を神の前に投げ出すことで自我を忘却することが必要。ちなみに彼らが12世紀以降になって教団化した「スーフィー教団」においては、音楽/唄/踊りなどを通じて神の中への「消滅(ファナー)」と呼ばれるトランス状態に入るようになったそうな。肉体的な儀式を経てエクスタシー/宗教的法悦を得るというのは原始宗教ではよくあることだけど、ユダヤ・キリスト・イスラム教といったあたりでは割と珍しい。もしかして今の我々がイメージする姿はここから来ているのかな。
 スーフィーにとって神とは「全現象の根底にある一なる真の存在」である。従って人間を含む全宇宙は極論を言えば神と等しいことになる。(注:このあたりセム系一神教というよりも密教の教えっぽい)
 それなのになぜ人間は普段、神の恩恵から遠ざけられてしまっているのか? 彼らの教えによれば、それは「ヴェール」によって神の光が遮られてしまったから。いうなれば“隠された叡智”というわけで、ここらはグノーシス主義の考えに極めて近い。それもそのはず実はスーフィズムとは、世界各地に広がったイスラムの教えが各地に元々あった思想(キリスト教グノーシス主義や仏教、古代ギリシア思想など)から影響を受けて出来上がったものなのだ。そりゃあ密教にも似ているわけだよね。砂漠で瞑想するような禁欲的な側面は、原始キリスト教からの影響なのかもしれない。
 色々な信仰からの影響を受けて思想を深めていった結果、スーフィズムは一般的な意味での「イスラム教」ではなく、異教にも通じる“何か違うもの”をもった信仰になっていたようだ。そのためスーフィー教団は正統的なイスラム教からは異端の宣告を受け、やがて表舞台から消えていくことになっていったとのこと。(それでもシーア派にはまだ色濃く雰囲気が残っているそうだが...。)
 具体的にどんなところが違っていたのか、いくつか例を示そう。まずひとつめ。彼らは表面的にはどんなに異なった教義をもつ教えであっても認める。偶像を祀る神殿をもっていてもOK。これなんか正統派のイスラム教からは絶対認めがたい気がするね。「エクスタシー(宗教的法悦)の状態で神との完全なる合一を果たす」といった内容についても、“異端”の臭いがプンプンする。(笑)
 「悪」の定義についても独特なものがある。スーフィーにとって悪というのは、神に敵対する“絶対悪”ではないのだ。それはむしろ「神の不在」により引き起こされる“状態”であったり、もしくは人間には計り知れぬ意図でもって与えられた「神の秩序と調和の一部」であったりする。なぜなら彼らの信仰の根本にあるのは、「宇宙のあらゆるものが神と等しいものである」という考え方だから。そのため悪が神と別の存在であると認めてしまうと、「神は悪でもある」ということになってしまう。なんだか、「犯罪がこの世から消えてなくなると、警察の存在する意味は無い」という話にも似たような感じが。(笑)

 閑話休題。あくまで本書によればだけど(*)、スーフィーとは斯様に一般的なイスラムの教えと似て非なるもののようだ。律法にとらわれない自由主義的な信仰の総体と言ってしまっても良いのかもしれない。
 ひとつだけ気を付けなければいけない点があるので付け足しを。これまで紹介した内容は、かなりの修行を積んで聖者と呼ばれるようになった人々により初めて許される考えだということだ。いくらスーフィーといえども、一般的な信者がいきなりそのような考え方をするのは認められない。導師(聖者)によって適切かつ充分な指導を受け、神との合一に向けた一連の長い階梯を上っていくことが前提であるとのことだ。(しかし正しい信仰を突き詰めたところにあるのが、これまでの教えを否定するものだというのが面白いね。まるで風狂禅を実践した一休禅師を思わせる。)
 しかしそれが故、スーフィー教団では聖者たちが非常に大きな力を持つようになった。神への絶対的な帰依ではなく、聖者への絶対的な帰依にもつながる信仰は、神の下の平等においてなぜかヒエラルキーが存在するという、矛盾めいた状態を生じさせてしまうことにもなる。有名な暗殺集団の指導者である「山の老人」の伝説も、こんなところから生まれてきたのだろうか、なんてことも考えたりして。

   *…巻末の解説によれば、本書が刊行された1914年以降も研究が進み、今の学説や見解
     は本書と異なる部分もあるようだ。本書ではイスラム教とスーフィズムの異なる部分
     について、幾分強調しすぎているきらいがあるかもしれない。まあ概ね評価できる
     内容らしいけど。

 以上、何となくとりとめの無い話で申し訳ない。でも、知っていて別に何かの役に立つわけでも無い知識だし、普段の仕事とはまったく縁のない話ではあるけれど、本書みたいな話を読むのは大好き。「使えない知識」ほど生活を豊かにしてくれる気がするのは不思議だね。ときどきは世俗を離れて幽玄の世界に遊ぶのが、心の健康のために良いのだろうか。しょっちゅうやっている気もするけど。(笑)

『批評理論入門』 廣野由美子 中公新書

 本書の副題は“『フランケンシュタイン』解剖講義”。フランケンシュタインを題材にして、様々な批評理論の具体的な事例を示した本。第1部は「小説技法篇」と称して、ストーリー(エピソードを時系列で並べたもの)とプロット(実際の語り方)の違いや、物語の語り手および焦点化(視点)、エピソードの提示ないし叙述の方法、小説を作る上で欠かせない修辞や象徴といった技法について解説する。これらを説明するのに必ずしも『フランケンシュタイン』である必要はないのだが、逆に言えば『フランケンシュタイン』がそれだけ多くの技法を活用している証拠とも言える。
 第2部はいよいよ本書の本題である「批評理論篇」。これまで世に出てきた主要な批評理論を順に紹介し、さらにそれらの理論を実際に用いて『フランケンシュタイン』という作品がどのように解釈され得るのかについて語っている。(*)

   *…本書を読んで自分の本の愉しみ方が、「脱構築批評」の影響を受けつつも、作品に
     応じてその都度様々な批評理論の観点を利用したものであることがよく分かった。

 本書に出てくる批評理論について少しご紹介しよう。まず基本は、作品を「道徳」すなわち“社会通念を伝える道具”として読んだり、「伝記」つまり“作者の人生を反映したもの”として読む、いわゆる「伝統的批評」と呼ばれるもの。次は作品を詩・劇・小説もしくはナンセンス文学やロマン主義・ゴシック小説といった、形式上のカテゴリーで分類する「ジャンル批評」。これはニュー・クリティシズムと呼ばれる批評理論を始めとして、作品を(前述の伝統的批評と違い)作者や社会背景から独立した存在として批評するものだそう。ただしこれはテクストが何を内包して何を伝えようとしているか?に囚われている点で、結局は古いタイプの教科書的な批評のような気がする。
 ついで紹介されるのが「読者反応批評」。これは「テクストが本来意味する(と思われる)もの」ではなく、読者がどう読んだかを問題としている。ただしこれもあらゆる読み方を是としているわけではなく、「ある水準に達した資質の持ち主」が読者として想定されているそう。まだまだ読者の数だけ解釈があるという考えではないらしい。次の「脱構築批評」に至って、やっと自分にも馴染みの批評がでてくる。これはJ・デリダにより提唱されたもので、「矛盾する複数の解釈」をテキストが両立して内在させていることを明らかにしようというものだ。それにより『フランケンシュタイン』においては、生と死/美と醜/光と闇/善と悪といった、二項対立的な概念の境界がいかに曖昧なものであるか、いかに両義的に描かれているかが示される。なお当然のことながら、この批評には決まったひとつの解釈というものは存在しない。(**)

  **…自分にとっては、これが読者により様々な「読み(作品解釈)」があることを保障
     してくれるベースになっている。多くの人が自らの「読み」を互いに紹介しあい、
     「こんな解釈もあるのか!」という驚きや楽しさがあるのが一番の理想なのだ。
     (よって本書で紹介される数多くの批評理論も、どれが優れているということでは
     なく、いずれもひとつの“正しい解釈”と言えるかも知れない。)

 先に進もう。次に紹介されるのは「精神分析批評」と呼ばれるもの。フロイトやユング、ラカンらの精神分析理論を援用し、作者の創作姿勢や登場人物の心の動きを解釈するタイプの批評だそうだ。また「フェミニズム批評」というのもある。これは様々な小説作品の背景に、社会的に抑圧された女性の立場を読み取ろうというもの。伝統的に文学は男性中心に形成されてきたため、その中で無視されてきた女性作家の作品を発掘・再評価しようというのが狙い。
 この「フェミニズム批評」をさらに大きく発展させたのが「ジェンダー批評」であり、ここでは性別による役割り分担を自然のものではなく「社会や文化によって形作られた差異」であるとみることで、女性の問題ばかりでなく男性や同性愛者、性同一障害者なども射程にいれて論じられる。これによれば『フランケンシュタイン』では主人公ヴィクター・フランケンシュタインと親友のヘンリー・クラヴァルや、ヴィクターの許嫁エリザベスと召使いジャスティーヌの間に、同性愛的な関係を見ることができるそうだ。うーん、面白い。
 「マルクス主義批評」というのもある。これは作品が生まれてくるのに不可欠であった政治的・社会的・経済的条件を探究して、それらとの関係性で作品の意味を読み解こうとするスタイルの批評だそうだ。
 個人的に本書の批評のなかで一番面白かったのは「文化批評」というやつかな。文化人類学や社会学で使われる「カルチュラル・スタディーズ(文化研究)」と呼ばれる方法の成果を用いて、作品の生まれた社会そのものを読み解いていこうというもので、自分がこれまで学生時代から慣れ親しんできた文芸批評の類は、割とこれに近いものが多い気がする。(荒俣宏氏の本なんかはほとんどがこれかもしれない。)
 作品の生まれた歴史に着目するという点では、「ポストコロニアル批評」(=帝国主義と植民地という観点で読む手法)や「新歴史主義」(=フーコーの「知の考古学」のように、文学テクストと他の領域のテクストを全て同列で論じる手法)といったものも「文化批評」の仲間と言えるかも知れない。
 他に変わったところでは「文体論的批評」というのもある。これはテクストのなかの言語学的な要素に着目して、文体や語法を科学的に分析しようというもの。文節ごとの単語の数を比較したり、使われている品詞の種類を調べることで、作者がどのような効果を上げようとしているかを考察する。(ここまで来るともはや文芸批評ではないね。/笑)
 以上、ずらずらと列記してきたが次でいよいよ最後。それは「透明な批評」というものだそうだ。読者が作品世界に深く入り込んで、作中で直接言及されてはいない設定や結末まで自由に解釈してしまおうという批評(?)なのだそう。たとえば「マクベス夫人には何人の子供がいたか?」などの問題設定がなされるらしい。日本でいうと、2012年に高野史緒氏によって書かれた『カラマーゾフの妹』(***)という小説のスタンスが近いのかな?

 ***…未完となったドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を高野流に解釈して、「父殺
     し」の真犯人を描いたミステリ。

 ふう。本書で紹介された色々な批評について軽く触れていくつもりが、思ったより長くなってしまい申し訳ない。本書は『批評理論入門』という名の通り、あくまでもフランケンシュタインをネタに批評理論について語るのが眼目であって、本書の中で『フランケンシュタイン』について個々の批評理論をつかった深い読解がなされているわけでは無い。その意味では(怪奇小説ファンとして)少し物足りなさはあるが、批評理論をざっと一望することが出来る上、その材料が自分の好きなジャンルの小説というのは決して悪くない感じ。
 最後になるが一言だけ。先ほども少し書いたように批評理論はあくまでも、ひとつの作品を重層的に愉しむための“道具”にしか過ぎない。従って本書で紹介された多くの理論はどれも等しく価値を持つものであって、「果たしてどれが正解か?」などというものではないと思う。リンゴは皮を包丁で剥こうがピーラーで剥こうが、もしくは丸かじりしようが美味しいのだ。それが良いものであればね。(笑)

2013年11月の読了本

 仕事が年末進行に入りなかなか思うように読めないですが、まあぼちぼちとやっております。

『予期せぬ結末2 トロイメライ』 チャールズ・ボーモント 扶桑社ミステリー
  *“異色作家短篇”の本邦初訳や未収録作だけを集めた「予期せぬ結末」シリーズの第2弾。
   今回はチャールズ・ボーモントで、前半は幻想系、後半はSF系の作品を収録。この人の
   作品をまとめて読んだのは初めてだが、ブラッドベリやマシスンもしくはF・ブラウンの
   ような味わいだね。本書を読む限りでは同じ“奇妙な味”に属すると言っても、前巻の
   コリアに比べるとだいぶ素直な話が多い感じがする。こういう本が高校生の頃に読めた
   ら良かったかな。不気味な盲目の男が怖い「とむらいの唄」/正統派のモンスター物
   「フリッチェン」/世界最後の森の物語「老人と森」/最期の時を迎えようとする男と
   神父「終油の秘蹟」あたりが好み。
『イスラムの神秘主義』 R.A.ニコルソン 平凡社ライブラリー
  *副題には「スーフィズム入門」とある。イスラム教系の神秘主義であるスーフィズムの概
   要についてまとめた本。くるくると回転する踊りのイメージしかなかったけど、もっと広
   い概念だった。本書によればスーフィズムとは、厳格な唯一神への絶対的帰依を要求する
   正統派のイスラム教とは合いいれない、もっと汎神論的かつ思弁的な信仰のようだ。たま
   には「お勉強」もしなくちゃね。(笑)
『ブラインドサイト(上・下)』 ピーター・ワッツ 創元SF文庫
  *「地球に突如現れた謎の探査機。人類は地球の存亡を賭けて太陽系外の深宇宙に一隻の宇
   宙船を送り込んだ。乗組員は吸血鬼/四重人格の言語学者/感覚器官の大半を機械化した
   生物学者/平和主義者の軍人、そして脳の半分を失い特殊な観察能力を得た男の5人…」
   本屋でたまたま見かけ、気をそそられる設定と帯の“現代ハードSFの最高到達点”という
   謳い文句に惹かれて久々の衝動買い。印象としてはグレッグ・イーガンやテッド・チャン
   といったあたりの作品をイメージさせる作風だった。異星生命体との接触の様子は、小松
   左京『さよならジュピター』(上巻の方)を彷彿とさせ迫力満点。秋の夜長の読書を満喫
   した。
   物語は異星の生命体とのコンタクトを軸に進むわけだが、そうなると頭に思い浮かぶのは
   レムやストルガツキーの諸作品。レムの場合は「知性とは何か?」という哲学的命題、
   ストルガツキーは「コミュニケーションの持つ政治性」がメインテーマになるのに対し、
   本書の場合は「意識」(自意識や自我と置き換えてもOK)がテーマとなっている。認知
   科学の知見を踏まえての問題提起もなかなかだった。「意識」を追及するのに異星の知性
   体まで出さなくても(どうせ出すなら「自我」なんてものじゃなく、知性そのものを追及
   するとか…)という気がしないでもないが、それなりに面白かったのでまあ良しとしよ
   う。(笑)
『「美妙な死体」の物語』 レオノーラ・カリントン 妖精文庫
  *今は無き月刊ペン社からでていた妖精文庫の一冊。同じく妖精文庫に収録の『耳らっぱ』
   の作者レオノーラ・カリントンによる作品集で、短篇集“「美妙な死体」の物語”と中篇
   「石の扉」を収録。前者はシュールでちょっと洒落たコントのような感じ。後者は物語と
   しての骨格はあって無きが如しだが、奔放なイメージで読ませる。(『耳らっぱ』より
   さらに話の筋は追いにくいかも。)
『怪奇小説日和』 西崎憲編訳 ちくま文庫
  *日本語の「こわい」という言葉には、“恐ろしい”という意味だけでなく、たとえば“気
   味が悪い”とか“変”といった意味も含んでいるように思う。自分のなかでは「怪奇」と
   いう言葉がまさそれ。(「恐怖」はもっと恐ろしさが先に立っているような…。)本書は
   そんな「怪奇」にぴったりな感じのアンソロジーだった。これに先立って出た『短篇小説
   日和』も不思議な話や不気味な話が満載だったが、本書は茶色や灰色のイメージで染まっ
   た「暗褐色の異色短篇集」とでもいうべき雰囲気がぴったりくる。本書を読んでからコッ
   パードがもっと読みたくて探しているんだけど『郵便局と蛇』が見つからないだよねえ、
   残念。
『トロイメライ』 池上永一 角川文庫
  *琉球時代の那覇を舞台にした作品集。「筑佐事(ちくさじ)/岡っ引き」の青年の武太
   (むた)を主人公にしたコージーミステリと言えなくもないが、さほど謎解きに重点が置
   かれているわけでは無い。三線を弾かせれば琉球一だが、普段はドジでオッチョコチョイ
   で人情に厚い…そんな武太が出会う様々な事件を通じて、おもしろ可笑しく時にホロリと
   させる人情噺と言った方が良いかも。女性であることを隠して女人禁制の首里城に仕官し
   た孫寧温の活躍を描く長篇『テンペスト』と同じ時代設定なので、前作の登場人物たちが
   入れ替わりゲスト出演するのも愉しい。第六夜(最終話)の「唄の浜」は著者のデビュー
   作にして第6回ファンタジーノベル大賞を受賞した『バガージマヌパナス』にも通じる雰
   囲気で好きだ。
『化鳥・三尺角』 泉鏡花 岩波文庫
  *どんな基準で選んだのかよく分からないが、怖い話が多めに収録されていたのが嬉しい。
   収録作は「化鳥」「清心庵」「三尺角」「木精(三尺角拾遺)」「朱日記」「第二菎蒻
   本」「革鞄の怪」「茸の舞姫」の8作品。人情噺の「三尺角」が、続篇の「木精」になっ
   た途端に怖い話になるのが好かった。
『記憶のしくみ(上)』 ラリー・R・スクワイア/エリック・R・カンデル 講談社ブルーバックス
  *まだ2009年に原著が刊行されたばかりの、記憶に関する最新研究を一般向けにまとめた
   科学解説本。分子生物学的なアプローチと心理学的なアプローチの組み合わせにより、
   過去30年余りの成果が俯瞰できる。今月は2巻組のうち上巻のみの刊行なので、12月に
   出る下巻が愉しみ。正月休みにでも読もうかな。
『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』 マックス・エルンスト 河出文庫
  *コラージュという手法の創始者であるエルンスト自身による、『百頭女』(1929)『慈善
   週間あるいは七大元素』(1934)とならぶコラージュ・ロマン3部作の2作目。(刊行は
   1930年)創作活動における自らの子供時代からの半生を書いた「M.E.の青春について
   の若干のデータ」と、シュルレアリスムにおけるコラージュについて書いた「ウィスキー
   海底への潜行」という2つのエッセイを付す。以前、愛知県美術館で開かれたエルンスト
   展に行った時に他の2冊は買ったのだが、この本だけは(主に予算の都合で/笑)買い漏
   らしていた。通俗な読み物の挿絵(銅版画)を使い、突拍子もなくシュールなイメージを
   具現化するエルンストの技は、まさにロートレアモンの「解剖台の上の、ミシンと雨傘の
   偶然の出会いのように美しい」という言葉を彷彿とさせる。物語の流れもつかみやすく、
   3部作の中では一番読みやすい本だった。
『9の扉』 北村薫 他 角川文庫
  *9人のミステリ作家によるリレー小説。ただしリレーといってもそれぞれの作品は独立し
   ていて、次の作家に「お題」を出して繋いでいくという趣向。一筋縄ではいかない人たち
   ばかりなので、前回の人の設定を巧く使って連作仕立てにしてみたりと読んでいて飽き
   ない。参加した作家は北村薫を始め、法月綸太郎/殊能将之/鳥飼否宇/麻耶雄嵩/竹本
   健治/貫井徳郎/歌野晶午/辻村深月という豪華な面々。個人的には早逝した殊能氏が
   最後に書いた作品「キラキラコウモリ」が収録されているのが感慨深い。話は結構ブラッ
   クなものが多くて、そうでなかったのは法月氏と辻村氏の2作品くらい。「9の黒い扉」
   といった方がいいかも知れないね(笑)。最後の辻村作品のラストが後味よく決まり、
   なおかつ最初の北村作品に繋がったのは気持ちよかった。アンソロジーとしても結構
   いい出来ではないかな。
『ボブ・ディラン』 湯浅学 岩波新書
  *ボブ・ディランの生い立ちからデビュー、そして現在に至るまでの音楽活動について綴っ
   たバイオグラフィー。あとがきに「ボブ・ディランとは、どのような活動をしてきたの
   か。それは何故なのか。それをわかるようにしたい。そう考えて書いた本だ」とあるよう
   に、なるべく私見を挟まず事実を中心に記述してあるのが好かった。(また当然のこと
   ではあるが)ディスコグラフィーにもなっているので、アルバムを探すときの参考にも
   なる。読んでいるうちに無性にディランの歌が聴きたくなってきて、CDラックを漁って
   「追憶のハイウェイ61」や「血の轍」を引っ張り出してしまった。著者が言う「ボブ・
   ディランがいなかったらロックはこうなっていなかった」というのは全くその通りであっ
   て、本書を読んで改めてディランの凄さと影響力の大きさを実感した。
『運命綺譚』 カーレン・ブリクセン ちくま文庫
  *デンマークの高名な物語作家による後期の作品集。ちなみに著者が英語で作品を発表する
   際の名前は「イサク・ディネセン(ディーネセン)」で、こちらの方がより知られている
   かも。物語の中に物語が混然と混じり、まるで豪奢なレースの織物を見るかのよう。比較
   的短い作品であってもまるで大長篇を読んだような充実感がある。短めの「水くぐる人」
   「指輪」と長めの「あらし」「不滅の物語」という、全部で4つの作品が収められている
   が、いずれもどこに連れて行かれるか全く展開が読めないという点では同じ。個人的には
   「あらし」と「不滅の物語」が長い分だけ”読みで”があったので好みかな。この前買っ
   ておいたイサク・ディネセン名義の『七つのゴシック物語』2冊も、読むのがとても愉し
   みになった。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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