『ハイレッド・センター:「直接行動」の軌跡展』 (名古屋市美術館)

 夏からずっと楽しみにしていた美術展『ハイレッド・センター:「直接行動」の軌跡展』に行ってきた。1960年代初頭から4年余りの期間に亘り、芸術家の高松次郎(high)・赤瀬川原平(red)・中西夏之(center)の3人が結成していたグループ「ハイレッド・センター」の活動を中心に、“日本の熱い時代”を彩った前衛芸術を紹介する回顧展だ。行ってきたのは11月17日の日曜日。前日は仕事の関係でずっと立ちっ放しだったので疲れたのだが、どうしてもその日に観に行きたかった。なぜかというと、学芸員による解説会があるのはその日だけだったから。

 赤瀬川原平氏の本が(尾辻克彦名義の物も含めて)好きで昔から読んでいるのだが、とりわけ気に入っているのは『超芸術トマソン』と『東京ミキサー計画』の2冊(いずれもちくま文庫)。後者の『東京ミキサー計画』という本は、かつて氏を取り巻いていた若手芸術家たちが行っていた活動を記憶の彼方から蘇えらせて、当時の写真とともに書き綴ったもの。「読売アンデパンダン展」という無審査制の美術展への出品や、土方巽や小杉武久といった志を同じくする舞踏家や音楽家たちとの交流、そして模造千円札の制作により起訴されて有罪判決を受け、“芸術家”としての活動を縮小していくまでが生き生きと描かれている。
 それによると当時の彼らは美術館に大人しく飾られるような作品を作りあげるのではなく、そういう既存の芸術を否定する「反芸術」に取り組んでいたらしい。街に飛び出して一般の人々を巻き込む「ハプニング芸術」(今でいう「パフォーマンス」)を行ったり、観る人の常識に揺さぶりをかける不思議な作品を次々と生み出していたようだ。
 『東京ミキサー計画』や『反芸術アンパン』という氏の著作にはそれらの具体的な内容が克明に説明されていて、写真やイラストを何度も見返しては妄想を膨らませていた。ところが今回の展覧会にはそれらの実物が出展されるとのことではないか。これは行かねばならぬ ―― と固く心に決めていたというわけ。
 学芸員の方による解説を聞いたのはやはり良かった。先ほどの本はあくまでも赤瀬川氏の主観によるものであって、当事者ならではの臨場感はあっても客観的な判断には若干欠けるきらいがある。そこを補うのが当時の時代背景や美術史からみた評価であり、展示物を見る前にざっと頭に入れることで、本美術展をより一層愉しむことが出来たと思う。

 解説会はまずグループの名前の説明から入ったのだが、そこからしていきなり面白かった。ハイレッド・センターの基本コンセプトには「正体不明」というのがあったそうで、そもそも「ハイレッド・センター」という表記ひとつとっても正解は決まっていないとのこと。(ハイ・レッドセンターでもハイ・レッド・センターでもハイレッドセンターでもどれでもOKらしい。)
 今回の展示はハイレッド・センターおよびその前後の活動を追っていくものだそう。ハプニングやイベントによる芸術表現は物理的な作品としては存在しないので、展示はどうしても記録写真や印刷物が多くなる。そこで解説では例えば“前ハイレッド・センター期”にあたる「山手線のフェスティバル/通称“山手線事件”」というパフォーマンスの顛末などについて、関係者の裏話を交えて説明してくれていた(*)。
マルセル・デュシャンの「泉」のようなコンセプチュアル・アートは、作品の背景となるコンセプトが理解できないと面白みが半減してしまう。その意味では、わざわざこの日を選んで足を運んだのは正解だったようだ。

   *…それらが具体的にどんなものだったかはここでは省くが、写真を見ているだけでわく
     わくしてくる。もしも興味があれば前述の本を古本屋で探すか、もしくはこの美術展
     に足を運んで自分の目でご確認いただきたい。ひと言だけ付け加えるなら、山野浩一
     氏の不条理小説にも共通するような、“あの時代”に独特の空気がある感じがした。

 ちなみに今回の美術展の名前にある「直接行動」とは、(例えば右翼のテロ行為のように)違法も承知の上で直接的に結果を強く求める種類の社会活動のことだそう。深沢七郎の小説に端を発する「風流夢譚事件」といった右翼テロ事件や、60年安保の運動の挫折から左翼ゲリラが生まれた時代の空気を感じさせる言葉だ。
 そんな時代に彼らのような若手芸術家が行おうとしていたのは、美術館や画廊を飛び出して街に赴き、日常生活を送る不特定多数の人々を対象に彼らの心を直接「攪拌」(≒かき乱そう)という試み。まさしく「正体不明」の輩による、ゲリラ的なパフォーマンスだったというわけだ。(ちなみにこの「攪拌」という言葉は、当時の芸術家たちのキーワードになっていたみたい。『東京ミキサー計画』のミキサーもたぶん同じ意味で使われているのではないかな。)
 先ほども書いたが、展示はあくまで「直接行動」の記録(写真や資料類)がメイン。それでも赤瀬川氏の「ヴァギナのシーツ」や梱包芸術、中西夏之氏の「コンパクトオブジェ」の実物が展示してあり、見ることが出来たのはとても嬉しかった。ハイレッド・センター時代の“作品”では「シェルター計画」で作った等身大の全身写真や裏返しのカニ缶(宇宙の缶詰)、それに画廊を閉鎖する時に使った「閉鎖」「CLOSE」と書かれたステッカーなど。本で読んだだけの物が当時の雰囲気そのままに展示してあり、自分的には大満足だった。
 12月23日(月・祝)までやっているそうだから、前衛芸術に興味のある方(もしくは赤瀬川原平氏のファンの方は)一度足を運ばれてはいかがだろう。

<追記>
 今回は他の展示内容を確認せずに行ったのだが、常設展では企画展に合わせて(?)「現代の芸術/反芸術とパフォーマンス」というのがやっていた。更にルフィーノ・タマヨを中心とするメキシコの芸術家の絵画(ルソーやピカソを彷彿とさせるものあり)や、19~20世紀初頭にメキシコで活躍した民衆版画家ホセ・グアダルーペ・ポサダによる新聞版画も展示。後者では有名なカラペラ(骸骨)のシリーズが見られたのが望外の幸せだった。こちらの常設展も『ハイレッド・センター:「直接行動」の軌跡展』と同じく12月23日までやっているそうなので是非是非。
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『言霊とは何か』佐佐木隆 中公新書

 「言霊(ことだま)」という言葉。伝奇小説などで割とよく出てきたりするけど、実は正しい意味をよく知らなかったりする(苦笑)。何となく“言葉に宿る霊力”という程度の意味という認識しかないのだが、本当のところ古代の日本人にとって「言霊」とはどのような概念だったのだろうか...。
 とまあ、本書はそんな言霊について『古事記』『日本書紀』『風土記』といった文献に直接当たり、考察を施したものだ。著者は古代人が「言霊のもつ威力」をどのように捉えていたか、そしてその背景にはどのような自然観を持っていたのかについて、分かりやすく且つ詳しく説明してくれる。何より気に入ったのは個人的・恣意的な解釈を極力排した真摯な執筆の姿勢。人文系の研究書でたまにあるのが、思い込みの強い著者が検証不可能な説を得意げに開陳する類の本。そんなのにあたるとちょっと困惑してしまうわけだが、本書はそんなことは無く、とても好感が持てた。
 いつも思うことだが、この手の学術的な本は細かな検証過程こそが面白い。本書でも題名にある「言霊の正体」については割と早い段階で説明があり、その後に詳しい説明が続くスタイルをとっている。したがって当ブログもそれに倣って、結論をざっくりと述べてしまおう。
 本書の結論を簡単にまとめると、「言霊」というのは「神が口にした言葉が持つ霊力」のことなのだそう。あくまでも「神が発した言葉」に限定されているところがミソで、古代においては(天皇も含め)人間が発する言葉に言霊は一切宿っていないらしい。(冒頭にも少し書いたように、本書の話題は言霊の正体探しではなく、それが持つ「威力」が具体的にどのようなものであったかが主体。)ちなみに「言葉には呪力がある」とか「呪いや言祝ぎは言葉に宿る」というのは近代になって生まれたもので、江戸後期のいわゆる国粋主義的な思想家や学者たちにより生まれた比較的新しい概念(解釈)だったようだ。

 たとえば古く『万葉集』には、神が言霊を発揮することで国を「佐(たす)くる/助ける」ことや「幸(さき)はふ/幸いをもたらす」ことを実現する、との記載があるそうだ。先に述べたように人(天皇)が発する言葉が直接威力を発揮するものではなく、人はあくまでも神に願い事をするだけ。そしてその願いが聞き届けられ神が言葉を発すると、その言葉には言霊が宿り願いは実現する...という筋書きになっているとのこと。
 『古事記』や『日本書記』などでも同様であって、高天原から降臨してきた神々は新たな土地を目の前にして、まず国褒めの言葉を述べるところから始める。これ(国褒め)が実現するという事は、すなわち国が栄える事に等しいわけであって、神が逆に国褒めの儀式を怠ったり逆に土地を貶すような発言をしてしまうと、その後は次々と不幸な出来事が襲いかかることになる。
 では人間が神の言葉を無視したらいったいどうなるのだろうか。神が発した言葉は相手が望むと望まざるとに関係なく実現しなければならないのが掟。従ってそれを破ると神に恥をかかせることになるため、その人は神の大きな怒りをかう事になるらしい。(神って面倒くさい/苦笑)
 なお神の言葉がもつ強制力は、「○○になれ」という肯定の内容に限らず、「○○してはいけない」という禁止の項目を述べた場合も同じ。こうなると絶対に実現させてはならないらしい。これらがすなわち神の言葉の持つ強制力であり、また「言霊」の正体に他ならないという事のようだ。(*)

   *…ひとつ例を挙げれば、天照大神が天岩戸に隠れたのも、単に素戔嗚尊の乱暴に怒った
     からではなく、自分の発した言葉が彼によって否定されたからというのが著者による
     解釈。このあたりの記述を見ていると、日本神話の神も嫉妬深かったり怒りっぽかっ
     たりして、まるでギリシア神話のオリンポスの神々のようにみえてくるね。(笑)

 ここで「口に出された言葉」のもつ威力について、別のエピソードをひとつ。それは何かというと、たとえ「偽りの言葉」であっても後から口に出されたものは、先に発せられた言葉に置き換えてしまえるということ。つまり乗っ取ってしまうというか、上書きのようなことが可能ということだ。
 たとえば「夢合わせ(夢占い)」において夢見が悪かった場合には、あえてその解釈を良い風に読み違えて口にすることで良い結果がもたらされる(実現する)事になるそう。また仮に誰かが良い夢を見たとして、その人が別の人に夢の内容を喋ってしまった場合、聞いた人が先ほどの夢の内容をあたかも自分が見たように語り直せば、そっくり夢を盗めてしまうというのもあるらしい。
 この決まりをうまく使うことで、国褒めをしなかったがため災いが訪れてしまった場合でも、後から改めて国褒めを行えば元通りに関係を修復することが可能なのだとか。このあたり、今のわれわれの感覚とはかなり違うところがあるようだ。「一度口にした言葉は元には戻せない」とは現代に限った話であって、昔はいくらでも取り消し可能だった様子。(このあたりの伝統を引き継いでいるのは、現代では政治家ぐらいしかしない気がする。/笑)

 少し話が発散してしまった。
 ここまでの話をまとめるならば、「“言霊”というのはオカルト的なものでも何でもなく、神が持つと言われる“力”の一種である」ということ。そして「口に出した言葉は実現するものであって、それが神にあって人に無い力である」ということになるだろうか。
 本書のおかげで言霊の何たるかはよく理解できたが、その代わり言霊という単語を安易に使っている文章を見かけたら、これからは気になって仕方がないかもしれない。(笑)

『文学のレッスン』 丸谷才一/湯川豊 新潮文庫

 丸谷才一氏といえば、小説・文学評論・エッセイ・翻訳と多彩な分野でマルチな活躍ぶりを示した方。惜しくも2012年に亡くなられたが、本書はそんな氏が小説や伝記、詩や戯曲といった、様々な“文学”のジャンル別に縦横無尽に語った「丸谷版・文学講義」。語り起こしなので文章もやわらかく読みやすい。聞き手は「文學界」編集者などを経て現在は大学教授も務める評論家の湯川豊氏。うまいリードで丸谷氏の膨大な知識を引き出している。

 以下、面白かったものをいくつか紹介したい。たとえば「伝記」について述べるこんな話。―― 近代イギリス社会で特に敬されたのは、社交的であって且つ奇人と呼ばれるような人物。それを描くことが、同様に社会における人間を描くのが主眼の「長篇小説」と並んで、「伝記」がイギリスで尊重された所以であるとのこと。
 「歴史」については、「歴史を物語のひとつとして愉しむ」という視点も示唆にとんでいて面白い。氏によれば歴史書には、特定個人(すなわち物語でいうところの語り手や主人公)といった視点は無い。その極端な例が歴史年表とのこと。しかしそれが「物語」になれば特定の視点で語られるため、感情移入もできるし記述も起伏に富んだものになる。視点を定めてしまうと史実の見方に偏りが出るという弊害もあるが、物語として愉しむだけなら何ら問題は無い。そもそも史実といっても、所詮は歴史書を編纂した人物や集団の視点によるものでしかない。過去の「史実」を今の目で振り返ったり、国という立場を入れ替えて眺めてみると、「特定個人の歴史認識」であることが露わになることもよくあるわけで...。うーん、結構奥が深い。
 また別の話。「戯曲」という形式は、他のジャンルに比べると文学としては立場が若干弱いようだ。なぜなら「役者(配役)」「劇場(建物と観客)」「物語(台本)」の3つで出来上がる“演劇”という芸術表現の、ひとつの要素(しかも順位は三番目)に過ぎないから。ちなみに本書で丸谷氏自身は述べていないが、この三つは「長篇小説」の章で語られる「作中人物」「文章」「筋(ストーリー)」の要素に、それぞれ対応するものかもしれない。
 次は「詩」について。海外では今でも「詩」という文学形式がとても重要な位置を占めているが、日本では殆ど壊滅状態に等しい。書店に並ぶ文学は散文形式のものばかりとなっている。ではなぜ近代以降の日本で「詩」が消えてしまったのだろうか。本書によると、それは西洋文学の洗礼を受けた明治期の人々が、西洋哲学や近代的自我に代表される「観念」の追求へと走り、もうひとつの伝統的な要素である「韻」の重要性を見失ってしまった為であるとか。
 日本にも独自の表現形式である俳句や短歌の伝統は残ってはいる。しかしそれらは如何せん文字数が限られていて、単独では多くの意味を十全に盛り込むことが出来ない。実はそのために過去あったのが、歌枕など複数の作品を重層的に結び付け味わう仕組み。ひとつのフレーズが過去の作品と呼応しあって別の含みを持つことで、三十一文字を遥かに超えた味わいを出していたというわけ。しかし社会変化で過去の蓄積が失われるとともに前提となる共通認識も消滅し、それらも意味をなさないものになってしまった。このようにして日本では「詩」を愉しむ人が日本からいなくなった...というのが大まかな説だ。

 以上、軽くさわりを紹介したが、本書にはまだまだ多くの文学ジャンルが取り上げられている。たとえば「エッセイ」は定義づけ不可能であり幾ら定義を重ねても必ず抜け落ちるものがあるとか、「批評」は学問とエッセイの重なったところに生まれるとか、興味深い薀蓄が次から次へと語られて飽きることが無い。(良く考えてみると本書自体が文学に関するエッセイみたいなものでもあるわけだな。/笑)
 著者の本はエッセイが好きなので比較的よく読むのだが、小説や訳書はこれまで殆ど読んだことが無かった。そのうち読んでみてもいいかもなあ。『女ざかり』とか評判いいようだし。

2013年10月の読了本

『開かせていただき光栄です』 皆川博子 ハヤカワ文庫JA
  *18世紀に実在した解剖学医ジョン・ハンターをモデルにした人物が主人公のミステリ。
   冒頭に不可能犯罪が登場するが本書の愉しさはそこより、当時の臭いまでが漂ってきそう
   な程に生き生きとしたロンドン下層社会の活写にあるとみた。しみじみと哀愁漂うラスト
   にも好感。本格ミステリ大賞受賞作。
『澁澤龍彦訳 幻想怪奇短篇集』 河出文庫
  *澁澤龍彦の比較的初期の訳業から幻想怪奇短篇ばかりをピックアップした作品集。おそら
   く河出書房による編集だと思うが、書名にまで「澁澤龍彦訳」とあるのが凄い(笑)。
   きっと一連の澁澤文庫シリーズの一冊という位置づけなのだろう。肝心の中身だが、創元
   推理文庫から今も出ている『怪奇小説傑作集4』(フランス編)から7篇を抜粋し、更に
   アンリ・トロワイヤの短篇集『共同墓地 ― ふらんす怪談 ―』から全7篇を全て収録とい
   う変則的な形をとっている。特に自分好みなのは、地下の穴倉で夜な夜な繰り広げられる
   怪異を暴いた憲兵隊長を見舞う不幸な人生を描くジェラール・ド・ネルヴァルの「緑色の
   怪物」/海の水を浸かって描かれた水彩画の不思議アルフォンス・アレの「奇妙な死」/
   そしてトロワイヤの「自転車の怪」「恋のカメレオン」あたりか。
『パルタイ』 倉橋由美子 新潮文庫
  *作者が明治大学在学中に書きデビューのきっかけとなった表題作を始めとして、「非人」
   「貝のなか」「蛇」「密告」の全5作品を収録した初期短篇集。(中では「蛇」のイメー
   ジが気に入った。)まだこの頃の著者の作品は、後のイマジネーション豊かな幻想作品と
   は違って硬い印象。いずれの作も登場人物が全てアルファベットで記され、不条理なスト
   ーリー展開はカフカを強くイメージさせる。以前読んだ『スミヤキストQの冒険』の感触
   に近いかな。解説で森川達也氏も書いている自己への嫌悪や羞恥とともに、周囲に対する
   猜疑が登場人物たちの行動を支配するキーワードになっているようだ。なお作者によると
   作品の狙いは「何かの問題」を描くことではない。《この世界ではない世界(反世界)》
   を表現するのが主題なのだそう。先日読んだロブ=グリエの『消しゴム』にも似た「冷た
   さ」をもつ作風は、もしかしてそのせいなのかもしれない。これがどのような段階を経て
   後期の作風へと変わっていくのか、作品を年代順に追いかけていくのも面白いかもしれな
   いなー、なんて思ったりもして。
『火山を運ぶ男』 ジュール・シュペルヴィエル 月刊ペン社
  *南米のラス・デリシアスに広がる大草原(パンパ)の大富豪グアナミルは、ある日大きな
   火山を建設しようと思いつく。しかし全霊をこめて作った火山は人々に受け入れられず、
   それをパリに移設しようと考える…。本書はウルグアイの詩人によって書かれた、(妙に
   リアリスティックなところもある)幻想物語で、今は無き妖精文庫の一冊として上梓され
   た。旅行鞄の中に突如現れる小さな火山や、大西洋を航海中に現れる人魚など、不思議な
   ムードをもったエピソードが繰り広げられる。なお原題は『大草原(パンパ)の男』であ
   り、邦題にある「火山」は彼が大都会パリで繰り広げる幻想物語の端緒に過ぎない。
   絶対にベストセラーになるような話ではないけれど、こういう話は好きだなあ。この手の
   物語が新刊で読めるうちは出版業界も安泰なんだろうけど、今の時代は果たしてどうなん
   だろうねえ。殺伐とした時代にこそ大事にしたい話と思うよ。
『冥界遊び』 山口昌男 筑摩書房
  *副題には「SCRAP BOOK NO.3」とある。中身は副題のとおり、著者があちこちに書い
   た文章を集めてテーマ別に章立てしたもの。気軽に書きとばしたような文章もあるが、
   それが却って時代とともに駆け抜けた著者らしい“味”を醸し出している。80年代に
   学生だった自分にとっては、氏の本に出てくる「トリックスター/カーニヴァル/笑い
   /身体/周縁」といった言葉は、文字通り輝いてみえたものなあ。本書には寺山修司の
   追悼文や南米のスリナムを訪問したときの事を書いたエッセイなど、論文をまとめた著作
   では読めない珍しい文章もあって愉しい。久しぶりに氏の文章を読んだらあまりに懐かし
   くて、”おっかけ”が再燃しそうで怖いね。(笑)
『文学のレッスン』 丸谷才一 新潮文庫
  *マルチな才能で活躍した著者が、小説や詩や戯曲などのジャンル別に“文学”について語
   り尽くした「丸谷版・文学講義」。薄いけどけっこう中身は濃い。
『若き日の哀しみ』 ダニロ・キシュ 創元ライブラリー
  *第二次世界大戦の頃に少年時代を過ごしたキシュによる自伝的な小説。例えて言うなら
   『夜と霧』の哀しみをまとった『銀の匙』といったところか。戦争中に収容所に連れて行
   かれ、そのまま帰らぬ人となった父。ユーゴスラビアに生まれユダヤ人を父としてもった
   著者の、子供時代への甘くて苦い懐かしさが横溢する。(中でも「少年と犬」は名作)
   作者にとっては、マルメロの実こそが記憶を呼び覚ますマドレーヌであったようだ。
『泥鰌地獄と龍虎鳳』 南條竹則 ちくま文庫
  *翻訳家・作家であり中華料理についても造詣が深い著者による、食をテーマにしたエッセ
   イ集(なんと贅沢なことに文庫書き下ろし)。たとえば題名にある「泥鰌地獄」という料
   理だが、これは火にかける前に豆腐とドジョウを鍋に入れると、熱くなるにつれ豆腐の中
   にドジョウが入りこんで一緒に煮込まれるというもの。しかし有名なこの料理、話ばかり
   で実際には誰も見たことがない。この幻の料理の真偽のほどをひも解いていくエピソード
   を始め、さまざまなドジョウ料理にまつわる文章は本書の中でも量・質ともに圧巻。また
   題名にあるもうひとつの料理「龍虎鳳」とは、蛇と猫と鶏をそれぞれ龍・虎・鳳凰になぞ
   らえて一緒に煮込んだ料理で、これは実在するそう。
   他にも羊と魚を煮込んだ料理「魚咬羊」の話題から、動物と魚介を一緒にする料理の出自
   に思いを馳せたり(「魚と羊」)、北京の一画にありそこだけは真夜中まで飲食店が開い
   ているという「鬼街」の思い出を語ったり(「ゆうれいめし」)色んな話題で飽きさせな
   い。(ちなみにこの鬼街の描写を読んでいると、アニメ『千と千尋の神隠し』に出てくる
   飲食店は、もしかしてここをモデルにしたんじゃないかという気も。)「金龍報春」や
   「古都飄香」といった料理の名を見て、その正体を想像するだけでも面白い。クライマッ
   クスは洛陽で著者たちが行った、スープばかり食べ続ける宴会「水席」の顛末。これなど
   は自分も一度体験してみたいものだ。
『うたかたの日々』 ボリス・ヴィアン 早川書房
  *ミシェル・ゴンドリー監督の映画「ムード・インディゴ うたかたの日々」を見に行った
   らあまりに良かったので急に読み返したくなった。原作は新潮文庫(『日々の泡』)や
   光文社古典新訳文庫からも出ているが、自分が持っているのは早川のボリス・ヴィアン
   全集(伊東守男訳)。刊行は結構古いのだが愛着がある本だし、金銭的な余裕もさほど
   無いので(苦笑)蔵書を読み返すことに。原著で「ビグルモア」となっているダンスの
   名前を「アチャラカダンス」とするあたりには少し時代を感じたりもするが、作品自体
   は何度読んでも傑作だった。
『食物漫遊記』 種村季弘 ちくま文庫
  *澁澤龍彦の盟友による、(書物ではなく)食べ物に関する文章ばかりを集めたエッセイ。
   普通の美食の話もあるが、著者が本領を発揮するのは何といっても”普通じゃない食”
   についての話。たとえば“断食”についてのあれこれを書いた「飢えを見せる人」や、
   人肉食に関する古今東西のエピソード(「食うか食われるか」)など抜群に面白い。食
   べ物に関する精神的なアレルギーの思い出と克服について語った「天どん物語」も壮絶
   で、なかなかなものだ。
『パラークシの記憶』 M・コーニイ 河出文庫
  *同じ河出文庫からでている青春SF小説『ハローサマー、グッドバイ』の続篇。前作同様
   に恋あり冒険あり世界の危機ありという盛りだくさんな内容に加え、今回はさらにミス
   テリの趣向や前作の謎解きまでなされるというサービスぶり。相変わらずバカップルが
   健在なのも素晴らしい(笑)。今どきのアニメの原作とかにありそうな感じじゃないの
   かな?
『批評理論入門』 廣野由美子 中公新書
  *副題は“『フランケンシュタイン』解剖講義”。フランケンシュタインを題材にして、
   様々な批評理論の具体的な事例が示される。第1部は小説技法篇と称して、小説を作る上
   で欠かせない技法について解説。第2部は批評理論篇。これまでに世に出てきた主な批評
   理論の紹介と、それらの理論を用いて『フランケンシュタイン』という作品がどのよう
   に解釈され得るのかについて語られる。
『ボルヘス・エッセイ集』 平凡社ライブラリー
  *テーマによりいくつかの章に分かれている。冒頭の「論議」の章は4つのテーマに関す
   る評論を収録。ついで少し長めの「永遠の歴史」が続くが、これは“永遠”という概念
   についての変遷を考察したもの。(いい意味で)なんと浮世離れした内容なのだろう。
   日常生活とは全く関連の無い話題がいっそ清々しい。仕事で凝り固まった頭のツボを
   適度に刺激して、心地よく解きほぐしてくれる。中でも気楽に読めるのは「続・審問」
   の章。秦の始皇帝による万里の長城建設と焚書坑儒に関する「城壁と書物」(1950)
   などは、もしかして開高健「流亡記」やブッツァーティ『タタール人の砂漠』のヒント
   になったのでは?などと考えるもまた愉しいもの。他の話題がどんなものかというと、
   たとえば無限の球体としての神や宇宙、もしくはセルバンテスやオスカー・ワイルドと
   いった作家についてなど。ウィルキンズの考案した分析言語というのもある。(ちなみ
   にこれは、エーコの『完全言語の探求』で取り上げられていたトンデモ説のひとつ。)
   書物や文字言語に対する“信仰”についてといった話題も悪くない。
   ところで難解とよく言われるボルヘスのエッセイだが、もしかしてそれは彼の文章が多
   く論理学に依っているからなのだろうか。博覧強記に頭がついていけないというのはも
   ちろんあるけど(笑)。巻末の木村榮一氏による訳者解説でも、途方に暮れている様子
   が素直に書かれていて、そのあたりは全くの同感。でもそこに魅かれるんだよね。難し
   いなりに面白いというのがボルヘスの魅力だ。――「省略と圧縮による論理の難解さと
   博覧強記が、幻惑とともに知的興奮をさそうエッセイ」―― こんなキャッチフレーズを
   考えてみたのだがどうだろうか。
『わたしは“無”』 エリック・フランク・ラッセル 創元SF文庫
  *著者はかつてジョン・ウィンダム、アーサー・C・クラークと並びアメリカで最も良く
   知られた作家のひとり。全部で6つの短篇が収録されている。最初のあたりの作品は
   いかにも往年のSFといった感じだが、文明崩壊した地球を訪れた火星人の物語「ディ
   ア・デビル」と表題作の「わたしは“無”」がすごく好い。ヒューマニズムと反戦思想
   がストレートに表現されていて、なお且つ抒情性もあってさすがに読ませる。中学生の
   頃に本書を読んだらフレドリック・ブラウンと同じく大好きな作家になったかも知れな
   い。そんな風にも思える好篇集だった。今回の復刊をきっかけに再評価されると良いの
   だけれどね。
『天来の美酒/消えちゃった』 コッパード 光文社古典新訳文庫
  *不思議な短篇で知られる作家A・E・コッパードの作品集。強いて言えば「奇妙な味」で
   括られるのだろうが、他の作家たちとはまた違った独特の魅力がある。(唯一無二の作
   家という意見も…。)訳者解説によれば著者は正規の学校教育を受けずに独学で作家に
   なったらしい。型に嵌らない自由奔放な作風は、もしかしたらそれが理由なのだろうか。
   コッパードを初めて紹介した平井呈一氏によれば「達者な筆致」と「底を流れる淡い詩
   情」が魅力とのことだが、本書を読んでなるほど納得。個人的には時に久生十蘭のよう
   な唐突な終わり方や、ラファティのように先が読めない展開が気に入った。収録作はど
   れもすごく面白かったけれど、そこから特に気に入ったのを挙げるとすれば、牛の病気
   を治す笛吹きの話「ロッキーと差配人」/クリスマス物語「暦博士」/美しい小編「去
   りし王国の姫君」/楽園を巡る皮肉が効いた「レイブン牧師」あたりかな。国書刊行会
   から出たもうひとつの作品集『郵便局と蛇』も読んでみたくなった。
『探偵夜話』 岡本綺堂 中公文庫
  *これまでに出た『三浦老人昔話』『青蛙堂鬼談』『近代異妖篇』に続く「岡本綺堂読物
   集」の第4弾。怪談集だった『青蛙堂鬼談』の姉妹篇となるミステリ集。例によって青
   蛙堂に集まった人々によって面妖な事件が語られるが、今回はきちんと事件の謎解きが
   なされている。もっとも大正12年に乱歩により「二銭銅貨」が発表され、本格的な推理
   小説がスタートを切る前の作品が殆どであり、今日のミステリの見方で読むと少し物足
   りない感はあるかも。(たとえば犯人は判明するが、事件の全貌は明かされないとか。
   しかし探偵趣味の読み物として愉しむ分には申し分ない。)ただひとつ苦言を述べると
   すれば、巻末の解題で物語のオチまでさらすのはちょっとやり過ぎではないかな。作品
   の背景なども載っているので参考にはなるが、解説に目を通すのは読後にすることを
   ぜひともお勧めしたい。
『カラハリの失われた世界』 L・ヴァン・デル・ポスト ちくま学芸文庫
  *一時は絶滅したと思われていたが、1955年に「再発見」されたアフリカの大地の民ブ
   ッシュマン。本書は著者が子供の頃からの夢である、原始の社会文化をそのまま残す
   純血ブッシュマンをカラハリ砂漠の奥地に見出だすまでを綴った、傑作ノンフィクショ
   ン。ナイルの水源を探し求めたリヴィングストンや「さまよえる湖ロプ・ノール」を
   見つけたヘディン、あるいは南太平洋を筏船コンティキ号で渡ったヘイエルダールの系
   譜につらなる冒険記と思えばいい。(著者のヴァン・デル・ポストは南アフリカ出身で
   イギリスを中心に活躍した作家。第2次大戦中は大佐として従軍して日本軍の捕虜とな
   った事もあるが、非常に高潔な人物だったようだ。)
   本書の前半は正直いって読むのが結構きつかった。冒頭は探検の動機となった子供時代
   の思い出が述べられるが『最後のモヒカン族』みたいで結構暗いし、いよいよ探検隊を
   作って捜索に乗り出してからもつらい旅が続く。地理的な困難や捜索が空振りに終わる
   せいもあるが、最も大きな理由は資金調達の記録映画製作のために契約したフランス人
   カメラマン。人格障害ではないかと思えるほどで、最終的に彼と決別する第7章(“失
   望の沼地”)までは鬱々とした展開が続く。しかし第8章(“「すべり山」の精霊”)
   からは事態が劇的に好転し始め、そこからは一気読み。まるでムーミン谷が現実化した
   ような「すべり山」で次々と起こる不可解な現象とか、重要なポイントで著者を助けて
   くれる奥さんの予言めいたアドバイスとか、つい「本当?」と突っ込みを入れながらも
   どんどんページは進んでいく。(著者自身があれこれ変なコメントを差し挟まず、淡々
   と「事実」を述べるだけなのが良い。)
   「すべり山」のくだりなどは、神や信仰が生まれるきっかけのようなエピソードで、こ
   れなどはまさに文化人類学の薫りといえるのでは? ブッシュマンとの出会いを経て、
   彼らに受け入れてもらってからの様子はまさに感動的だ。本書が世に出たのは60年近く
   も前の話なので、今ではこのような真正の伝統文化はおそらく消えてしまっただろう。
   そう考えると著者によって残された当時の映像と活字の記録は、後の我々にとって大き
   な贈りものと言えるのではないだろうか。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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