『レストレス・ドリーム』 笙野頼子 河出文庫

 笙野頼子氏は前から気になっていた作家。『二百回忌』をかなり昔に読んだきりで、その時は作風が自分の趣味に少し合わなかったか、残念ながら今ひとつ乗り切れなかった。しかしその後も横目でちらちら気にしていたところ、とりあげる題材がことごとく自分好み。そこで今回思い切って再チャレンジしてみたというわけ。

 本作で取り上げられている題材は「悪夢」、それもゾンビに襲われるタイプのものだ。舞台は「大寺院」なる謎の体制組織に統制される街「スプラッタシティ」。一辺がおよそ40kmの正方形で京都をイメージさせるそれは、虚無の中にぽっかりと浮かんだ悪夢の街。夢見る者たちは観光客としてそこを訪れ、殆どの者は何事も無くやがて去っていく。しかし中には特別な「ゲスト」として招かれる者もあり、そんな彼らを待ち受けるのは襲いかかる死者たち...。
 書名の“restless”とは直訳すれば「落ち着かない」「休めない」「絶えず動き続ける」といった意味だが、たしかにそんな感じがぴったりくるような悪夢の連作集で、個人的にはかなり気に入った。これまで読んだ筒井康隆『驚愕の曠野』や安倍公房『カンガルー・ノート』と同じ「悪夢小説」の系譜に位置づけたい。(ちなみにここでいう「悪夢小説」とは、悪夢を何かの隠喩として使うのでなくて、素材のままごろりと目の前に放り出すような感じの小説のこと。本書を読んで自分が勝手に名づけた。/笑)
 「主人公を取り巻く異様な世界」について描く物語は数多いが、その世界の成り立ちを明かすことに主題を置くのであればSFとなるし、襲撃にひたすら恐れおののく様子を描くのであればスプラッタホラー。そして世界の不思議そのものを示すのが目的ならば、幻想小説になるような気がする。本書の場合にはどの要素も色濃くあるのだけれど、それが主人公にとってどのような意味を持つかを描くという点では、やはり「文学」というものなのだろう。(ただし本ブログのカテゴリでは「幻想・SF・ミステリ」にした。)
 最後まで読み進むとやがて悪夢の正体が見えてくるのだが、それは女性たちが社会で生きていく上で感じている閉塞感だったり焦燥感だったり。そして教えて頂いたところによれば、どうやらそれが著者が一貫して追求しているテーマでもあるらしい。重くてつらいテーマだしグロテスクな描写はたくさん有るしで、決して読みやすいタイプの本ではないのだけれど、機会があればまた他の作品を読んでみたいと思わせるものだった。

<追記>
 上の文章を書いた後で、さっそく同じ河出文庫から出ている『母の発達』も買ってきて読了。こちらはグロテスクではあるけれど怖いものではなくて、むしろ「哄笑」に近い感触をもつ連作短篇集。結果、自分にとってますます気になる作家になった。こうして読みたい作家がどんどん増えていくのだよな。(笑)
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『現れる存在』 アンディ・クラーク NTT出版

 本書の副題は「脳と身体と世界の再統合」。いわゆる認知科学の学術書なのだが、比較的歴史の浅い研究分野だけあって、1997年の刊行にも拘らず早くも古典的な趣きすらただよう一冊となっている(笑)。おそらくこれからも読み継がれていくだろう記念碑的な著作ではないだろうか。
 なお日本語版では監訳者の池上高志氏(東京大学教授)による巻末解説で、原著刊行後の1997年から2012年までの進捗が簡単にフォローされているので、その点も有り難い。ではさっそく中身について。

 改めてキリスト教やデカルトの例を出すまでも無く、西洋文化の根本に心身二元論の思想があったと言えるだろう。しかし「“道具”である身体を“主人”である心が制御・支配する」という考えは、フロイトによる無意識の発見を経て20世紀になると徐々に揺らぎ始める。アフォーダンス理論やソマティック・マーカー仮説といった「身体こそが主役であり、脳は中央制御装置ではない」という説も提唱されるようになり、現在では認知科学として花開きつつある…。本書が生まれた背景を大雑把にまとめるなら、大体こんな感じになるだろうか。ぶっちゃけた話、生き物が環境のなかで生きていく仕組みを安易にモデル化(簡略化)せず、なるべくあるがままの形で解き明かそうとする取り組みと言えるのではないかと。
 そもそもニュートンの時代から「自然科学」というものは、なるべく簡素化した(=美しく調和のとれた)方程式やモデルを理想としたところがあったと思う。しかし世界は単純なモデルで示せるものばかりではないのも事実。それをむりやり簡略化するところに現実とのずれが生じる。そんな中に登場したのが、複雑な世界を複雑なままに扱おうという“複雑系”の考え方。バタフライ効果で有名なカオス理論などがその代表だが、複雑系の応用分野は物理学ばかりではなくかなり広い。本書で取り上げられている認知科学も、大きくはその流れを組んでいる研究分野のようだ。
 生き物が生きていくのに必要な力には、概ね「①周囲環境を認識する力」「②入力データを分析して生存に最適な行動を選ぶ力(*)」「③判断結果を実際の行動に移す力」の3つがあるのではないかと思う。これらは目や耳や皮膚といった感覚器官や、脳および全身の筋肉とそこに張り巡らされた神経系が互いに協調しあって実現される働き。したがって認知科学の研究も、例えばロボット(=運動における身体制御)や脳および神経系(=不充分な情報による最適判断の仕組み)、言語(=思考と意思決定のツール)といった、多岐に亘る分野の研究者たちが協力しあって進められている。言い方を変えると、認知科学とは「認知」すなわち脳もその一部であるところの「柔軟な要素で構成された問題解決のシステム」の仕組みを解き明かそうとする研究。すなわち世界をいたずらに単純化することなく“猥雑”なままに理解しようとする試みであり、自然な知性とは何かを理解しようとする試みでもあるといえるだろう。

   *…それは<創発>とも呼ばれることもある。副読本としてはユクスキュル『生物からみ
     た世界』の他、A・ダマシオの『デカルトの誤り』や「アフォーダンス」に関する本
     などが良い感じだ。

 本書にはそんな認知科学が辿ってきた道筋が見晴良く俯瞰できるようにまとめられているので、取り上げられる話題もおのずと広くなる。例を挙げれば「自律的に動くロボット(エージェント)」や「乳幼児の状況判断と行動」、「人工ニューラルネットワーク」に「粘菌の動き」、「脳神経科学」や「人の購買行動における心理学的アプローチ」、その他「言語獲得の仕組み」等々。認知科学の予備知識が全くなしで本書を読むと、あまりの話題の広さに少々とまどうかもしれない。
 ところで本書の題名になっている「現れる存在」とはそもそも何か? 本書によれば、それは“身体と一体化され環境に埋め込まれた生物の認知と行動のシステムの詳細”ということらしい。もしくは“身体・行為・世界から心を説明する方法”とも。分かりにくいけど、認知の仕組みを(簡略化せず)あるがままに表現することで見えてくる存在とでも言えばいいのだろうか。
 そのような「現れる存在」を明確にしていくため、アプローチのしかたは2種類あるそうだ。ひとつは個別の構成要素どうしのつながり方を考える事で、もうひとつはそれらが有機的に繋がって作り上げる更に高次なシステムのルールを知ることなのだそう。(それには「力学系モデルによるアプローチ」が有効らしいが、よく理解できなかった。/苦笑)ちなみに個別の要素が有機的に繋がる仕組については、まだ正直よく分かっていないとの事で、今後もまだ研究が必要らしい。
 なにしろ認知科学は発展途上のホットな分野なので、現時点ではたとえば物理学のようにオーソライズされた仮説があるわけではない。そのため本書にも「これが生物における認知の仕組みだ」というすっきりした結論が書かれているわけではないが、その分研究者たちの熱い思いが伝わってくる本という気がする。

 後半にはメルロ=ポンンティの身体哲学まで出てきてちょっと驚いたが、さらには「人間が作り出してきた社会構造そのものが、実は人間の個人の脳にかかる処理の負担を減らすために行われた外部環境の構造化である」という大胆な社会学的な仮説(**)まで。
 ここで述べられる「共通の言語が個人に対して他の人の知を提供することで、思考の強力なツールになる」というのは、まさに集合知の仕組みそのものではないかという気がする。そしてその結果生まれたのが、神話や哲学思想や科学知識、あるいは詩的言語による異化作用や創作であったりというわけ。また巻末の日本語版付録においては、言語どころかジェスチャーまでもが思考を形作る一部であることが示唆されているが、もしそうとすれば、神話だけでなく儀礼も思考の記憶装置であると言えることに…。文化人類学好きにとっては堪らない話が続く。(笑)

  **…そう考えると現在の選挙制度や国の仕組みに見られる不具合や、社会システムの限界
     も腑に落ちる気がする。非常にしっかりした“足場”に支えられた場合には合理的な
     推論に基づく社会的な判断が可能だが、非合理で制約が多くやっつけ仕事のような人
     の思考の比率が強まるにつれて失敗のケースが増えるというわけ。

 うーん、何だかまとまり無い文章になってしまい恐縮。まあ、もともとが雑多な内容の本ということでご勘弁いただきたい。なにしろ様々な点で刺激を受けた本だった。では最後に、本書を読んで頭に浮かんだ雑多な思いつきをいくつか書いて終わりとしたい。

― その1 ―
 哲学における“イデア”の概念も認知科学で考えることが出来るのかも。「イデアとは情報の内部処理の過程で生まれる、その場限りで有効な“内的表象”の総体である」とか。たとえば「コーヒーカップ」と言われた時、その人の頭に浮かぶ(つまりその人にとってその言葉が意味する)“内的表象”こそが「コーヒーカップのイデア」であるというわけ。
 本書によれば内的表象が生まれる理由は、環境を積極的に構造化することでその後の計算負荷を減らそうとするためだそう。もしそうであればイデアとは各個人によって違うものということになってしまうが...。

― その2 ―
 生物が自らの生存確率を増やそうとすれば、リアルタイムの環境情報による行き当たりばったりの対処ばかりではだめ。将来に予測されるリスクに対する備えが必要となる。意識とはもしかしたら「時間的あるいは空間的に離れた出来事」や「想像上の行為によって起こりうる結果」について、事前に予測し対処するために生まれてきたのかも知れない。

― その3 ―
 「リズム」を刻むという能力は、音楽ばかりでなく実は日常生活においても必要不可欠なもの。動き出したバスにとび乗るときなど、外部のシステムにステップ(=動作の順序)だけでなくタイミング的にも同調して動く必要がある場合、リズム感がないとどうしようもない。野生の世界では動いている獲物を獲るときに必要な力だろう。
 このように認知科学の観点から考えていくと、人間の精神活動というのも(哲学思想に代表されるような)ある種特権的・特殊なものでは決してなく、神経活動の延長上にあるものと理解できる。要は生き残るチャンスを少しでも高めるために進化してきた能力ということ。してみると「現れる存在」とは、実はあるがままの人間の姿と言えるのかもしれないね。

 以上、おそまつさまでした。

『ムード・インディゴ うたかたの日々』 2013年(フランス映画)

※映画および原作についてのネタバレを含みますので、これから観ようという方はご注意を。

 大好きなボリス・ヴィアン原作の小説『うたかたの日々』を、『エターナル・サンシャイン』のミシェル・ゴンドリー監督が映画化。公開初日の10月12日にさっそく観に行ってきた。調べたところ愛知県では何と1館しか上映予定がないそうで(*)、つくづく名古屋市に住んでいて良かったと感じた次第。まあ多少遠くても観に行ったとは思うけどね。

   *…名古屋は栄のパルコ東館8階にあるセンチュリーシネマ。名古屋駅に昔あったゴール
     ド劇場のような、ちょっとマニアックな映画ばかりをかけるミニシアターだ。(今回
     初めて行った。)

 正直、原作付きの映画は期待外れに終わりがちなので観ないことが多いのだが、本作は違った。たまたまYOUTUBEで見かけた予告編がかなり良かったのだ。実際に見た結果も予想以上に良くて大満足。ストーリーも変なアレンジが無く原作にほぼ忠実だし、映像も自分が原作に対して持っていたイメージにかなり近い。あっという間の愉しい131分だった。
 ただ如何せん原作を読んだのはかれこれ数十年も前のこと。映画を視た感じでは当時の印象や記憶と大きなずれは無かったのだが、実際のところどうだったのか気になった。そこでさっそく本棚から原作(ボリス・ヴィアン全集3『うたかたの日々』/早川書房刊)をひっぱりだして再読してみた。前置きが長くなってしまったが、以下は原作本との比較を交えた『ムード・インディゴ うたかたの日々』の感想について。

 物語を知らない人のためにまずは簡単なストーリー紹介を。
 物語の舞台は1947年のパリ。ただしヴィアンの想像によって生み出された虚構のパリだ。主人公はコランという若者で、彼は定職にもつかず(おそらく遺産か何かで引き継いだ)莫大な財産を食いつぶしながら贅沢に暮らしている。コランはあるパーティで知り合った魅力的な娘クロエと一生一度の熱烈な恋におちる。やがて盛大な結婚式を挙げたふたりだが、しかし幸せは長く続かなかった。クロエは肺に睡蓮の花が咲く奇病に罹ることに。日に日に衰えていく彼女のため、高額な治療費を使って懸命な治療を続けるコランだが、その甲斐もなく彼女は帰らぬ人に。そして彼女も財産もすべてを失ったコランは...。 とまあ、こんな話。作家のレイモン・クノーが「現代の恋愛小説中もっとも悲痛な作品である」と評したという話もある、儚い愛を描いた作品だ。
 予告編で流れていたのは映画の前半部分にあたる部分が中心。2人が出会い恋におち、そして結婚式を挙げるまでの夢のような日々を、いかにもヴィアンらしいキッチュでシュールな雰囲気そのままにうまく映像化していた。後半は病に倒れ衰弱していくクロエと、莫大な治療費のせいで没落していくコランの心象がインディゴ・ブルーの画面で表現され、そして最後にはモノクロへと変わっていく様子が見事。パステルカラーが基調の前半と、良い対称になっていたと思う。

 気になっていた小説との違いについても、細かなところを除いては殆どない。あちこちに出てくる不思議な「小道具」(**)もかなり原作にそのまま登場していた。感心したのはそれらの小道具の映像表現の仕方。わざとぎこちないコマ撮りにして、原作が持つ“安ピカ”(by荒俣宏)で不気味な感じを見事に表していたと思う。ゴンドリー監督は物語には手を入れない代わりに、映像の部分で原作のイメージを大きくふくらませる(超える?)大胆な解釈を施すことにしたのだろう。そしてそれは見事に成功していると思う。

  **…演奏に合わせてカクテルを調合する「カクテルピアノ」や、テコの原理で心臓をくり
     抜いてしまう殺人兵器「心臓抜き」といった機械の他、水道管から出てくる鰻やパー
     ティで踊られる奇妙なダンスのように、物語とは直接関係のないシュールな描写が
     多いのが本書の特徴。(1947年当時に圧倒的な人気を誇った哲学者サルトルを模し
     たジャン・ソル・パルトルという人物も、重要な役だがヘンテコ顔で登場する。)
     これらは著者の『北京の秋』や『心臓抜き』といった幻想系の小説群に共通する一種
     独特の“味”を作り出していると言えるだろう。

 音楽にはヴィアンと交流があったJAZZプレイヤー、デューク・エリントンの名演奏の数々を使用。白黒のレトロな映像は、幻の1947年のムードを効果的に表している。(まあそういった演出上の理由とは関係なく、デュークの音楽自体が素晴らしいんだけどね。)
 次に原作と大きく違っていたところを、3つほど取り上げて書いてみよう。おそらくそこがゴンドリー監督による『うたかたの日々』解釈の意思表明であり、映画『ムード・インディゴ』のスタンスを象徴しているのではないかと思うから。
 まず最初はコランの家のキッチンに飼われているハツカネズミについて。原作では(ときおり妙に人間臭いところもあるにせよ)あくまでネズミという生き物の範疇を超えてはいなかった。しかし映画では驚くことに、芸人の爆笑問題がむかし着ぐるみで扮していた「爆チュー問題」そっくりの不気味なキャラに変身。これは「演出の延長」といえば言えなくもないけど、ひとつ間違えるとすべてをぶち壊しにしかねない、かなり踏み込んだ解釈でもあると思う。(このような方法をとった理由については、小説と映画におけるラストシーンの違いに現れているのではないかと思うが、詳しくは後で。)
 次は金に困ったコランがカクテルピアノを処分するため古道具屋に見積もらせているシーン。映画では古道具屋が演奏するピアノ曲(曲名は分からないが、原作通りならデューク・エリントンの〈放浪者のブルース〉)を聴きながらコランが流す涙が感動的。きっと幸せだった頃の二人と今の二人を重ね合わせたのだろう、とても美しいシーンだ。それに対して小説版のコランは愉しかった頃を思い出して「魂が浄化され」、ただ喜んでいるだけ。原作は徹底的にドライなのだ。
 最後の大きな違いは、クロエが死んでしまってコランが抜け殻のようになってしまってから。原作のラストでは絶望したハツカネズミが、猫に食べられる事で自殺しようとするシーンで終わるという徹底した救いの無さ。しかし映画ではここが決定的に違う。映画では、爆チュー問題風(笑)のハツカネズミは、(クロエが生前ずっと描き続けていた)幸せなふたりの様子を描いたパラパラ漫画の束を、崩れ去る邸宅跡から救いだす。そしてそれを抱えていずこへともなく去っていくのだ。これは普通のハツカネズミを使った撮影では無理だよなあ。
 アンチロマン小説を代表する作家ロブ=グリエと並び評される事もあるヴィアンだが、人間不在であくまでドライな世界観を持つ彼の原作に対し、ゴンドリーはもう少し人間的で救いのある作品にしたかったようだ。その結果、映画が終わったあとも幸せそうな二人の様子が目に残り、沈鬱なラストにも関わらず印象は決して悪くは無い。(『未来世紀ブラジル』も同様に救いの無い話だが、かなり自分の持つ印象は違っている。)
 以上、終わり方は小説とは違うが、これはこれで「あり」だなあと感じた次第。

<追記>
 今回、初日の朝一番の上映に行ったのだが、いくら小さな劇場とはいえ客が15名ほどしか来ていなかった。劇場の経営云々は別にして本作の上映だけに限っても、この調子では長く上映されるとは思えないなあ。好い映画だからもっと大勢の人に観てもらいたいもの。少なくとも愛知近郊の方で興味のある方は、なるべく早めに行った方が良いと思うよ。
 それから、原作はハヤカワepi文庫版(伊東守男訳)の他、光文社古典新訳文庫や新潮文庫からもでている。(新潮版の題名は『日々の泡』)もしも原作に興味を持った方がいれば蛇足ながらご参考まで。

<追記2>
 物語の本筋とは直接関係はないのだが、登場人物について書き忘れていたことがあった。コランの家に勤める料理人のニコラと、彼の姪のアリーズという人物が大事な役で登場するのだが、彼らが原作では白人なのに対して映画では黒人になっているのだ。(小説で白人なのは、何度も描写を読み返したからたぶん間違いないと思う。)これにどんな意味が込められているのかは分からないけれど、ヴィアンは問題作『墓に唾をかけろ』で人種差別からくる白人への呪詛によって犯罪を犯す黒人を描いてもいるし、なんだか意味深な気がする。

2013年9月の読了本

 9月は連休もあったのだけれど、何だかバタバタしてあまり読めなかった。涼しくなって日の暮れるのも早くなれば沢山読めるかな。読書の秋に期待したい。

『リンパの科学』 加藤征治 講談社ブルーバックス
  *血液とならび「第二の体液循環系」と呼ばれるリンパ系。子供の頃、風邪を引いたときに
   よく「リンパ腺が腫れた」経験はあるが、それがどんなものかについては正直いって良く
   知らなかった。(そもそも“リンパ”の語源がラテン語というのも。)本書はそんなリン
   パの概要について一般向けに書かれたもので、ちょうどいい機会と読んでみた。どうやら
   リンパというのは詳しい研究が遅れている分野ではあるらしい。電子顕微鏡などによる
   形態科学的な研究が主流だそうだが、血管と隣接して区別しにくいうえ場所により形態も
   千差万別とのこと。それでもリンパ管およびリンパ節の成り立ちや外形的な特徴の違い、
   リンパが原因でおこる「リンパ浮腫」といった恐ろしい病気、あるいは免疫に占める重要
   な役割や癌の転移におけるリンパの関係など、現在までに分かった事がひととおり述べら
   れている。
   本書を読んだ印象は、血流循環系を上下水道に喩えるなら、リンパはさしずめ雨水処理シ
   ステムということ。血流から流れ出た血漿やその他の組織液を毛細リンパで回収して、
   あちこちの免疫系の「関所」であるリンパ節を経て静脈へとつなぐ、一方通行の静かな流
   れ。その他、リンパには小腸で吸収した栄養を血流に運ぶという大事な働きもあり、この
   時リンパには透明もしくは白濁した液が流れるので別名を「白い血」というようだ。
   (知識を淡々と列記するくだりも多く、素人である自分には読み辛いところも無きにも有
   らずだが、たまにはお勉強もしなくてはね。)
『現代語訳 南総里見八犬伝(上・下)』 曲亭馬琴/白井喬二 河出文庫
  *言わずと知れた江戸を代表する伝奇小説の白眉の現代語訳。洋書ならともかく日本語で
   書かれたものはなるべく原書にあたる事を心がけてはいるのだが、さすがにこれはきつい
   ので手ごろな現代語訳にした。浪人という一種のアウトローだった八犬士が巡る因果に依
   って集う過程がべらぼうに面白い。クライマックスは扇谷定正/山内顕定の連合軍と里見
   家との決戦だが、八犬士が参集してしまえば里見家はぜったい安泰なのでハラハラドキド
   キはあまりなく残念。事前に聞いていたとおり、八犬士の中ではやはり、スーパー神童・
   犬江新兵衛の存在が浮いていた。儒学にならって「仁義礼智忠信孝悌」の中でも特に新兵
   衛のもつ「仁」の珠を重視したというのは分かるが、もしかしたら広げ過ぎた伏線を回収
   するために苦肉の策で生み出したキャラという気がしないでもない(笑)。
   いずれにしても全1200ページを僅か2日間で一気に読ませてしまう、本書が持つパワーた
   るや大したもの。これは馬琴の力は勿論だが、白井喬二の文章の力もかなりあるとみた。
『言霊とは何か』佐佐木隆 中公新書
  *万葉集や古事記などの文献を丹念に紐解き、「言霊」とは本来どのような概念だったのか
   について考察した本。丁寧で真面目な研究姿勢は好感が持てる。
『消しゴム』 ロブ=グリエ 光文社古典新訳文庫
  *アラン・ロブ=グリエによって1953年に発表された長篇小説。20世紀半ばの文学史上を
   揺るがした一大運動「ヌーヴォー・ロマン」の嚆矢となった作品。何ともいえぬ違和感が
   全編に漂い、噂に違わぬヘンテコで素敵な作品だった。
   設定はミステリータッチ。ある男性の殺害事件を巡り、政府から派遣された特別捜査官に
   よる捜査が続くが、地元の警察署長や医師をはじめ数多くの関係者たちが入り混じり真相
   は藪の中…。いや正確にいうと被害者も犯人も全て明かされているのだが、読んでも読ん
   でも何が起こっているのか理解が出来ないといった方が近い。登場人物の心理までが、残
   らず描写されているにも関わらずだ。この小説において何が謎なのかが、すなわち最大の
   謎といって良いのでは。
   キュビズム絵画はあらゆる角度からみた対象物の姿を一面に描いたものだそうで、個々の
   ピースをみるとそうでもないのに全体では異様にゆがんだおかしな絵になっている。本書
   もちょうどそんな感じか。解説では安倍公房『燃え尽きた地図』や筒井康隆『虚人たち』
   との共通性も言及されているが、なるほど小説の虚構性に着目したという点ではたしかに
   似た雰囲気があるね。それにしても結局のところ、主人公が拘る消しゴムには何の意味が
   あったのだろうか。ルイス・ブニュエルの映画『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』に出て
   きた謎のずた袋と同じで、案外何も意味は無いのかも知れないが。(笑)
『異形の白昼』 筒井康隆/編 ちくま文庫
  *本書の副題は「恐怖小説集」。日本ではかなり初期となる1969年に出版された幻のアン
   ソロジーが、めでたくちくま文庫から復刊。もともと自分は恐怖小説よりは怪奇小説の
   方が好みなのだが、これはほどほどに怪異も入ってバランスもとれている。(ちなみに
   ここでいう「怪奇小説」というのは、登場人物の恐怖を語るのが眼目ではない、という
   程度の意味。)自分の考える「怪奇」とは、憧憬や畏怖を含んだ「幻想」と隣合わせの
   ジャンルであり、心理も含んだ「恐怖」とも隣り合わせといえる。ちなみに怪奇小説に
   あって他のジャンルに無いものといえば、若干の滑稽さではないかと考えるが、その意
   味で滑稽さを排した本書はまさに見事な「恐怖小説」のアンソロジーとなっていて、
   編者の「本気」が感じられて好ましい。収録作には気の滅入るような作品も含めて背筋
   がぞくりとくるような短篇が揃っている。元版にあった筒井氏本人による解説・解題も
   ちゃんと収録されている上、東雅夫氏に新たに書き起こされた解説も好印象。
   既に他の短篇集で読んだ作品も結構あるが、再読も含めて特に気に入ったものは小松左
   京「くだんのはは」/結城昌治「孤独なカラス」/筒井康隆「母子像」/生島治郎「頭
   の中の昏い唄」/吉行淳之介「追跡者」あたりか。
『零度のエクリチュール』 ロラン・バルト みすず書房
  *構造主義的批評を得意とする論客による初期論文集。文章の書き手が逃れえない「エク
   リチュール」についての分析と、そこからの解放に関する展望を記す。もうひとつの
   論文「記号学の原理」を付す。
『七人の使者・神を見た犬』 ブッツァーティ 岩波文庫
  *20世紀イタリアを代表する作家の短篇集。これまで幾つかの作品を読んできた限りは、
   著者が一貫して追及したテーマは「不可知」ではないかという気がする。不可知な事柄が
   当人にとって意味をなさない場合には、著者がよく形容されるように「不条理」ともなる
   が、そうなるケースは意外に少なく大抵の場合は自らの範疇で何らかの理解を示すよう。
   それは例えば『タタール人の砂漠』では国境警備という職務や使命だったり、「神を見た
   犬」では信仰だったり。はたまた「なにかが起こった」のように不安や恐怖だったりする
   場合も...。
   本書は著者の短篇集『六十物語』から15篇を訳者の脇功氏が選んで訳出したもの。光文
   社古典新訳文庫との重複が結構あると思ったら、さては同じ原典からのチョイスであっ
   たか。収録作は基本的にどれもお薦め。特に気に入ったのは、「七人の使者」(王国の
   境界を捜す調査隊)/「大護送隊襲撃」(3年ぶりに釈放された山賊の頭領)/「マン
   ト」(帰ってきた息子を迎える母が哀しい)/「神を見た犬」(聖者と黒犬と不信心な
   町の人々)/「なにかが起こった」(破滅に向かってひた走る特急列車)/「自動車の
   ペスト」(車だけが罹る致死性の伝染病)といったところか。本書にひとつだけ注文を
   つけるとすれば、訳者解説で全収録作の粗筋を書くのはやめて欲しいな。解題ならとも
   かく。(苦笑)
『限りなき夏』 クリストファー・プリースト 国書刊行会
  *幻想的な連作短篇集『夢幻諸島から』の著者プリーストによる作品を集めた、日本オリ
   ジナル編集の短篇集。およそ半分が夢幻諸島シリーズに属する短篇4つ(「赤道の時」
   「火葬」「奇跡の石塚」「ディスチャージ」)で占められていて、久しぶりに読み返し
   たら世界観が頭に入っているのでとても面白かった。もちろん独立した短篇としても読
   めるのだが、連作は出来れば合わせて読んだ方がいいね。他の作品では何と言っても
   表題作が好き。この頃(初期)のプリーストはどことなくバラードを思わせる感じがし
   ないでもない。
『アンティシペイション』 プリースト/編 サンリオSF文庫
  *上記と同じくプリースト関連。こちらは本人が編集したイギリス人SF作家によるオリジ
   ナルアンソロジー。夢幻諸島シリーズの短篇「拒絶」が入っているので数十年ぶりに読
   み返したのだが、いや、この本自体が傑作だった。特に好かったのは「拒絶」の他、ワ
   トスン「超低速時間移行機」/バラード「ユタ・ビーチの午後」/オールディス「中国
   的世界観」など。(オールディスはとりわけ圧巻。)
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プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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