『零度のエクリチュール』 ロラン・バルト みすず書房

 今回は本題に入る前に少し前置きが必要かも。本書に先立って、フランスの前衛的な文学運動〈ヌーヴォー・ロマン〉の旗手ロブ=グリエによる、『消しゴム』(光文社古典新訳文庫)という小説を読んだと思って頂きたい。その本自体は、ヘンテコな話をこよなく愛する人間として大変愉しく読んだのだが、ひとつ気になったのは解説の一文。『消しゴム』という作品は、フランスの批評家ロラン・バルトが主張した、“構造学的文学批評”の実践にあたるものだという趣旨の話が書いてあったのだ。
 解説によればそれは「人間的な主観性に汚染されない真っ白な無垢の文体」を理想とするとの事。分かったような分からないような定義だが、それをバルトが展開したのが本書「零度のエクリチュール」であるらしい。そして、そんな文章を書くのは実際には不可能であることを、実作者として知り尽くしているロブ=グリエが選んだのが本書『消しゴム』の手法。すなわち「既存の制度化された小説構造や文体を流用しながら微妙にずらしていく事で、小説を内部より解体する方法」だったとのことだ。
 そんなことを書かれたら、そもそもバルトの主張した「零度のエクリチュール」とはどんな概念なのか、すごく気になって仕方がない。しかも準備の良いことに、何故か我が家には当該書がすでに買って積んである(苦笑)。これは読むしかあるまい。いや、今を逃したら二度と読むチャンスは無いかも知れぬ。そんな固い決意で読み始めたというわけ。(笑)

 うん、予想以上に前置きが長くなってしまった。ではさっそく本書の中身について紹介を。
 本書にはふたつの評論が収録されている。まず前半が表題作でもある「零度のエクリチュール」であり、1953年に出版された著者の初めての著作らしい。そして後半は「記号学の原理」。これは「零度…」のおよそ10年後に書かれたもので、近代言語学の始祖ソスュール(ソシュール)の研究に則って、言語論とその延長上にある記号学(記号論)の概要を俯瞰したもの。読んでいくと前作「零度のエクリチュール」が構造主義に基づいた記号論の一視点で語られていたことがよく解り、前半部の補足的な意味合いもある。(*)ただし記号論を読んだことが無い方は今ではもっと分かりやすい入門書が沢山でているので、バルトの分かりにくい表現を無理して読む必要はないかも。そこで今回は前半部を中心に取り上げることにしたい。

   *…「記号学の原理」にはシニフィアン(能記)とシニフィエ(所記)、ラング(言語)
     とパロール(言)、シンタグム(統合)とシステム(体系・連合)といった、数十年
     前に記号論をかじった人間には懐かしい言葉が頻出する。内容も比較的入門的なもの
     であって、記号論のおさらいの意味では読んで良かった。

 とは書いたものの、バルトの文章はこれまでにもいくつか読んだが、どれも「文学的表現」に長けていて正直とっつきにくい。ぶっちゃけた話が回りくどくて修辞が多く、論旨が理解しにくいのだ。本書でも本題である「エクリチュール」自体の定義すらはっきりさせていないので、当初はかなり苦しんだ。(通常は仏語で「エクリチュール」といえば「書かれた文章が意味するもの」という意味合いだが、バルトは別の含みを持たせて使っている。従って出てくる箇所によって微妙に使われ方が違っていて、首尾一貫した意味になっていないようなのだ。)
 こうなったら、困ったときのウチダ先生(笑)。「内田樹の研究室ブログ」でバルトにおける「エクリチュール」の定義をすこしカンニングさせてもらった。以下はその内容の抜粋。

<内田樹研究室ブログの内容から>
 内田氏によれば、バルトは人間の言語活動を3つの層に分けて考察しており、いずれも個人では逃れがたいものだとしている。まずひとつ目が「ラング/langue」(本書では「言語体」と呼ばれている)。これは国語あるいは母語のことで、誰しもどこかの言語集団の子供として生まれる以上、そこで使われる言語を習得するしか選択の余地は無い。
 ふたつ目の層は「スティル/style」(本書では「文体」)。これは言語を使う上で現れる個人的な“偏り”のこと。その人自身に関わる文章の特徴や癖であって、文の長さやリズム、音韻、改行、余白の使い方といった諸々からなる。人により心理的・生理的な偏差があるのは当然なので、これもまた選択の余地がないもの。
 そして最後の三つ目が、本書のテーマでもある「エクリチュール/écriture」。これは「社会的に規定された言葉の使い方」の事だそうで、本人の社会的立場によって従うべき発話や語彙、イントネーションや感情表現、政治的イデオロギーといった種々の表明を意味する。(ちょっと違うかもしれないが、社会的地位の高い男性は“ヤンキー言葉”や“オネエことば”を使わないようなものなのかな?)
 我々に出来るのはどのエクリチュールを選ぶかという事だけであって、どのエクリチュールも選ばない(=どの社会的集団である事も表明しない)ことは不可能。また一度あるエクリチュールを選んだら、それに付随するあらゆる特徴からは逃れることは出来ないのだという。どうやら内田氏による解説を読む限りでは、バルトはエクリチュールを通常の「書き言葉」という意味ではなく、もっと一般的な言語活動の意味として使っているようだ。

 以上、バルトにおけるエクリチュールの定義が分かったところで(笑)、本書のテーマを簡単にまとめるならば、「政治や小説、もしくはある種の社会階級(例:ブルジョア)などに見られるエクリチュールの考察」といった感じになるだろうか。もっとも、それら様々なエクリチュールの中で特に詳しく述べられているのは、(当然のことながら)小説における「作家のエクリチュール」だが。
 バルト曰く、フランス語において小説家たちが現在形ではなく過去形を用いているのは、本来は作者の想像に過ぎない「物語」を「事実(≒歴史)」に見せかけるため、文に安定感をもたせているのだとか。また全般的に西洋の小説芸術では、作家自らが指し示そうとする事物(=テーマ)とともにそれを作り上げた自分の存在を、強くアピールしようとしているのだとも。(そしてそれに有効なのが「三人称」といった小説のエクリチュールなのだそうだ。)
 先に挙げたエクリチュールの定義からすれば、小説のエクリチュールとはその作家の社会的な立場に付随するもの。従って作家が何らかの立場をもつ以上は、「人間的な主観性に汚染されない真っ白な無垢の文体」というものも有り得ないということになる。
 そこで出てくるのがバルトの主張する「零度のエクリチュール」というわけ。それはエクリチュールの呪縛から逃れた「無垢」の状態のことなのだという。それは「非文体」であり「社会性から自由な口述的文体」でもあるそうだ。(付け加えると、後半の「記号学の原理」によれば「ゼロ度(零度)」というのはバルトの用語では「ないことが意味(記号作用)を持っていること」だそう。従って「零度のエクリチュール」には、あらゆる社会的しがらみから自由で純粋無垢な文章表現を積極的に目指す、という意味が込められているとも言える。)
 言い方を変えれば、「偏りがなく絶対的に均質な社会的状態の追求こそが、これからの作家が目指すべき方向である」というのが、本書におけるバルトの主張といって良いかもしれない。背景にあるのが、当時流行っていたサルトルやカミュといった実存主義の文学者による「純粋な人間存在」の追及。
 本書で著者が示したかったのは、そもそも「純粋な人間存在」など存在しない以上、それを理想とした「純粋な小説」も成り立たないという事ではなかったか。しかし小説(作家)が何らかのエクリチュールをまとわざるを得ない以上、「零度のエクリチュール」も決して辿り着けない理想であるというのも(おそらく)承知の上であって、その探求の過程こそが「文学のユートピア」であり新しい文学を生む源泉なのだ ――という主張もある意味頷けるものがある。

 以上、ざっくりと「零度のエクリチュール」とは何かについてまとめてみた。これを踏まえて今一度ロブ=グリエの『消しゴム』に戻ってみたところ、「人間的な主観性に汚染されない真っ白な無垢の文体」というのが何を意味するのか、分かった気がした。
 小説作品として読者に理解してもらうには、多かれ少なかれ小説の「約束事」を守らねばならない。しかしそれこそがエクリチュールであるとすれば、どんな表現を用いたとしても読み手に何らかの憶断を与えることになってしまう…。そこで実作者であるロブ=グリエの取った戦略は、『消しゴム』における「既存の制度化された小説構造や文体を流用しながら微妙にずらしていく事で、小説を内部より解体する方法」だったというわけだ。
 少しわかりにくいかな。えーと、乱暴な喩えをするなら、沢山のモンタージュ写真を合成して作った顔は平均化してしまって、特徴のないものになる事に近いかも。そしてその結果『消しゴム』に対してもった印象は、なんと「神話のよう」という事だった。個人のエクリチュールを極力排していく先に見えてくるのが神話だというのは、何となく納得できる気もする。
 そういえばバルトの著作には『神話作用』というのもあったけど、もしかしてそういう話なんだろうか。ちょっと気になってきたぞ。
うん、なんだか2冊の本の元は取れたような気はするな。(笑)

<追記>
 自分が今回読んだのは、みすず書房から出たハードカバー版だったが、他にはちくま学芸文庫からも『エクリチュールの零度』という題名で出ている。入手は多分そちらの方がしやすいかも。本書をこれから読もうという方のご参考まで。(ただし訳文の読みやすさについては知らないので悪しからず。/笑)
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『ルワンダ中央銀行総裁日記』 服部正也 中公新書

 著者は、国際通貨基金の要請に応じて1965年から71年までの6年間に亘り、アフリカの小国ルワンダで中央銀行の総裁を務めた人物。破綻寸前だった国の経済の立て直しと、その後の発展の道筋となる構造改革に取り組んだ。
 本書はその当時の事を綴った回想記であるが、予備知識もなく徒手空拳で現地に乗り込み、何もないところからひとつひとつ仕組みを作り上げていく過程がとても面白く、経済ノンフィクションでありながらも『ロビンソンン・クルーソー』のような冒険小説の匂いすら漂う。また、著者が赴任していた60年代といえば日本も高度経済成長期で勢いがあり、一方ではまだまだバンカラな気風も残っていた時代。自らの保身しか考えない現地の高官や欧米の経済人たちに業を煮やし、ルワンダ国民のために一肌脱ごうと啖呵を切る著者の心意気は、ちょっと『坊ちゃん』も連想した。(あくまで金融行政のインサイダーによる視点なので、SF好きな人には眉村卓氏の『司政官シリーズ』といえばピンとくるかもしれないね。)
 本編はまるで良く出来た爽快な小説を読むよう。最後まで気分よく読むことが出来た。こんな日本人がいたんだねえ。

 なおルワンダは著者が帰国した後も順調な経済発展をつづけたのだが、残念なことに90年ごろからフツ族中心の政府軍とツチ族によるルワンダ愛国戦線の間で内戦が勃発。94年には「フツ族によるツチ族の大虐殺」が発生し、今ではそちらの方が有名になってしまった。
 著者は赴任を終えて帰国した後も、各地の途上国に関わる仕事を続けていたため、その後のルワンダ情勢にも詳しかったようだ。本書には増補版として著者による1994年の論考「ルワンダ動乱は正しく伝えられているか」が付されている。さらには大西義久氏による1970年~2009年までの経済状況をまとめた小論も加えられていて、今でも使える資料的な価値も充分。
 ただ自分のような一般読者にとってはそれよりも、今後のルワンダが再び安心して住める国になるかどうかの方に関心があるなあ。いや住みよい国に戻れることを祈るよ、ほんと。

「世界を変えた書物」展

 今回は予定していた本の感想を延期し、昨日行ってきた展示会の話をしたい。それは9月13日から29日まで名古屋市科学館で開かれている「世界を変えた書物」展という催し物。金沢工業大学が所蔵する、数多くの科学・工学系の稀覯書や初版本をまとめて100点ほど一挙に公開するものだ。
 会場は地下2階のイベントホール。企画展自体の入場は無料で、要るのは科学館への入館料(大人400円)だけというのもいい。名古屋市科学館は世界最大の規模とクオリティを誇るプラネタリウムがあり、休みともなれば子供連れで朝早くから長蛇の列となる。しかし今回は展示室だけの入館なので、横の自動販売機でとっととチケットを購入、並ばずに入ることが出来た。
 さっそくエレベーターで地下に降り、イベントホール入り口でパンフレットと記念の絵葉書をもらう。図柄はレントゲンの『新種の輻射線について』(1895-96年)に掲載された手のX線写真と、ボイルの『空気の弾性とその効果に関する物理-力学的な新実験』(1660年)に乗っている真空ポンプの図版。なんだかわくわくしてくる。会場内は写真撮影もOKなのもよかった。(ただし書籍の保存のためフラッシュはNG)
 
 パンフレットを見てみると、会場は4つのエリアに分かれている。まず最初は「知の壁」のエリア。ヨーロッパの伝統的な図書室を模したようなインテリアに、16世紀初頭から20世紀にかけての世界各国の建築書がずらりとならぶ。子供でも観て愉しめるように面白そうな図版のページが見開きで並べてある。建築は全然詳しくないのだけれど、ウィトルウィウス『建築十書』とかパラーディオ『建築四書』なんていう本は、建築史を学ぶ人にとっては有名なのかも知れないな、なんて思いながら先に進む。
 次のエリアは「知の小径」。まず目を引くのは、部屋の中央に鎮座するレオナルド・ダ・ヴィンチによる「巻き上げ機」など2体の復元模型。そして目を上げると正面の壁にはデュフィが1937年のパリ万博のために描いた巨大壁画「電気の精」(1953年)を基にしたリトグラフが。神話の神々や神殿の周りに、古代から現代(当時)にいたる科学者や発明家の姿がカラフルな色彩で配置された愉しい一品だ。

 そこを抜けるといよいよメイン会場である「知の森」広い会場内は13の小エリアに分けられ、それぞれ「古代の知の伝承」「光」「電気・磁気」といった名称が付けられている。
 実は前日に行かれた方から「平日にも関わらず結構混んでいた」という情報をもらっていたので、朝一番の地下鉄で開場と同時に入場。そのおかげもあってまだ空いている会場内をゆっくりと見て回ることが出来た。以下、自分が興味深かった展示品をいくつか抜粋してみたい。(なお展示品は全て初版だった。世界を変えた思想や発見を著者が初めて世に問うた本という意味で、初版の収集に拘っているわけだよね。)
<古代の知の伝承>
 ■エウクレイデス(ユークリッド)『原論(幾何学原本)』1482年
  ギリシア幾何学の成果をイタリアでまとめた本。中世・近世には教科書として使われた。
<ニュートン宇宙>
 ■コペルニクス『天球の回転について』1473-1543年
  それまでの「天動説」にかわり「地動説」モデルを確立した記念すべき本。
 ■ニュートン『自然哲学の数学的原理(プリンキピア)』1686年
  「慣性の法則」や「万有引力の法則」などが書かれた彼の主著。
<解析幾何>
 ■デカルト『方法序説』1637年
  4つの章からなり有名な「われ思う故、われあり」が掲載の他、空間座標の定義なども。
 ■ライプニッツ『極大と極小に関する新しい方法』1684年
  ニュートンと同時期に微分積分の概念を完成させた書。
<物質・元素>
 ■ブルンシュヴィヒ『真正蒸留法』1500年
  外科医による真空蒸留法の薬剤製造法。化学の始まりだが手彩色の挿絵がとても綺麗。
<電気・磁気>
 ■クーロン『電気と磁気についての研究』1785-1789年
  クーロン力の発見で有名な科学者による。静電気発生装置の図版など。
 ■オーム『数学的に取り扱ったガルヴァーニ電池』1827年
  ご存じオームの法則で有名なオームによる著書。
<飛行>
 ■リリエンタール『飛行術の基礎となる鳥の飛翔』1889年
  ライト兄弟に先立ってグライダーによる飛行の研究を行い、不幸にも事故死を遂げた人物。
 ■ゴダード『液体燃料推進ロケットの開発』1936年
  “ロケットの父”によるロケット推進の基本書。
<電磁波>
 ■マクスウェル『電磁波の力学的理論』1865年
  「マクスウェルの法則」で有名。電磁気学を確立した最大の功労者。
<原子・核>
 ■ラザフォード『放射性変換』1906年
  核分裂による物質の変化を示した本。
 ■シュレディンガー『波動力学についての四講』1928年
  量子力学の一部である「波動力学」についての本。著者はこの後、量子力学を確立。
 ■湯川秀樹『素粒子の相互作用について』1935年
  「中間子」についての論文。この研究で著者はノーベル賞を受賞した。
<アインシュタイン宇宙>
 ■アインシュタイン『一般相対性理論の基礎』1916年
  特殊相対性理論の発表で世界を震撼させた著者が、さらに対象を重力にまで広げたもの。

 ふう、ざっくりと挙げるつもりが多くなってしまった。この手の話題にあまり興味の無い方には申し訳ない。他には「力・重さ」「光」「無線・電話」「非ユークリッド幾何学」などの分野があり、ホイヘンスやヘルツ、ロバチェフスキーにリーマンといった綺羅星のような名前が並んでいるが、挙げているときりがないので省かせてもらった。
 大学が書籍収集の対象としている分野や年代は非常に広く、15,16世紀から20世紀までの多種多様な科学・工学系の書籍が展示されている。たとえば中世の本は大きくて飾り文字に彩られていたり、ドイツとイタリアでは書体が違っているなど一種独特の雰囲気がある。(映画『薔薇の名前』に出てきた教会の図書館の本のよう。)でも所詮は学術書なので、宗教書や文芸書とは違って全般に地味なイメージは否めないかな(苦笑)。
 年代が下ると論文形式が増えてさらに専門的な感じに。図版も数学的なグラフ等が増えるので、本そのものが好きか、もしくはラベル解説を読んで面白いと思う人の方がお薦め。書籍そのものというよりはその本が持つ歴史的意味を愛でながら鑑賞する方が良い気がする。

 以上、「知の森」に展示された数多くの貴重な本を目にして、ぼうっとしたまま向かうのが最後の「知の地層」のエリア。ここでは展示書物に書かれていた発明発見についての解説が映像により流されている。日に2回、本展示会の監修者である金沢工大の先生(*)による解題・紹介もあるようだ。(もっとも自分はそれを知らずに、その前に出てきてしまったので聴けなかったが。)

   *…金沢工業大学ライブラリーセンター館長の竺覚暁(ちく かくぎょう)教授

 以上、科学史だとか教科書でしか聞いたことの無い人の本を、直に目に触れるにはとても良い(そして滅多に無い貴重な)機会なので、もし興味があればいちど覗いてみるといいと思う。最後になるが、ぜひともどこかの博物館で人文・社会学系の「世界を変えた書物」展を開催してもらいたいものだなあ。

SF/ミステリ/ファンタジー

 先日、あるパーティで出版社の編集の方とお話をする機会があり、『折れた竜骨』という本(*)の話題になった。作品自体は文句なくミステリの傑作なのだが、その人が気にされていたのは、殺人事件の舞台になった離れ小島に建つ城はどうやって作られたのか?という点。(詳しくは本書を読んでいただくと分かるが、資材を運んだり作業者の寝泊りや食事の手配を考えると、実際には建てるのがかなり難しそうな感じ。)
 「社内で多くの人に訊いたけれど、誰ひとりとして設定を疑問に思っていなかったんだよね。」
 うーん、正直言って自分も全く疑問に思っていなかった。(^^;) 言われてみると確かにそうだよねえ。

   *…米澤穂信(よねざわほのぶ)氏による、12世紀末のヨーロッパを舞台にした歴史ミ
     ステリ。2011年に発表され、同年の第64回日本推理作家協会賞を受賞したほか、
     翌年の「ミステリが読みたい!」「本格ミステリ・ベスト10」といった、名だたる
     ミステリ・ランキングで1,2位を総なめにした。「歴史ミステリ」といっても舞台
     は魔法が存在する架空のヨーロッパ。物語はファンタジーとミステリを融合させた
     ものとなっている。他のジャンルとミステリの融合といえば、古くはギャレット
     『魔術師が多すぎる』〔ファンタジー×ミステリ〕やアシモフ『鋼鉄都市』『裸の太
     陽』〔SF×ミステリ〕などが思い浮かぶが、本書もそれと同趣向の作品といえる。

 この件、パーティが終わってからもしばらく考えていたのだが、おそらくジャンル小説の特徴によるものではないかと思われる。(なんて大げさなものでもないけれど。/笑)
 たとえばSF。これは別名「理系の文学」とも呼ばれるように、やたら「世界の成り立ち」を示す(もしくは示したがる)のが特徴。架空の理論をでっち上げては、その奇妙な論理で摩訶不思議な世界を作り上げたりもする。世界を統べる仕組みはなるべく精緻に組み立てられ、一見して破綻のないものが望ましい。作中で詳しく説明されるか、もしくは読み進むうち暗示されるのが良しとされる。
 従って仮にどんなに魅力的な舞台設定であっても、その物語の主眼が「世界そのものの成り立ち」を示す点に無く、あくまでそこを舞台にした“冒険の描写”にある場合、「冒険SF」という特別なサブジャンルとして扱われることになる。(今はどうだか知らないが、昔「冒険SF」はSF文学としての”格”がおちるイメージがあったような気がする。)
 一方ミステリの場合はまず確固としたルールがあり、その中でいかにウラをかくかが問題とされる。少なくとも『折れた竜骨』のような本格ミステリの場合はそうだ。いわば仕組みそのものではなく運用上の話。(「人は壁を通り抜けられない」とか「同時に2箇所の場所にはいられない」といった物理的なルールから、「わざわざ危険を冒してまで行う動機がない」などの心理的なものまで色々ある。)
 逆に言えば設定がどんなに奇妙なものであっても、いったん「約束事」として受容されてしまえば、その件については一切が不問とされる。(**)いや、むしろ約束事があるからこそ、それをかいくぐる愉しみがあるともいえる。それが『折れた竜骨』において、設定の奇妙さを誰も疑問に思わなかった理由ではないのだろうか。ある意味ではミステリファンの方が、物語の設定に従順ともいえるかも知れない。歌舞伎や文楽といった伝統芸能にも、見立てや黙認があって初めて成り立つ部分があるけど、ミステリもそれと似たようなものなのかな?
 ところがどっこい、SFファンの場合はそうはいかない。物語がどんなに面白くできていても、設定に納得のいかないところがあるとイライラしてしまう。そのあたりがSFファンの面倒くさい点ではあるかな。理屈っぽいというか(笑)。
 でも、えてしてこんな話ってあるよね。ある人は殆ど気にもしていないことが、ある人にとってはすごく気になることだったり。あるいは些細な事ではあるが互いに好みを譲らなかったり。(目玉焼きにかけるのはソースか塩か?みたいな。/笑)

  **…例えば山口雅也氏は『生ける屍の死』で、死んだ人間がゾンビとなって甦る世界で起
     こる殺人事件を描いた。また『キッド・ピストルズ』シリーズでは、「探偵士」とい
     う架空の職業が警察よりも権限をもつ、パラレルワールドの英国を舞台にしている。
     いずれも傑作。

 ところでファンタジー好きの人の場合はどうなのだろう。妖精物語や“剣と魔法”の物語はあまり読んでいないのだけれど、少なくとも幻想怪奇小説ファンは、設定に多少の齟齬があっても平気なような気がする。極論すれば整合性や論理は二の次で、むしろ作品世界の雰囲気や情緒をこそ重んじるところがあるから。(それにそもそも18~19世紀の幻想文学って、物語の整合性なんてあまり気にせず書かれているところが無きにしも非ずで...。)
 だからこそファンタジーの場合、人によって作品の好みが大きく分かれるのかもしれない。SFにおける「世界の成り立ちという論理」や、ミステリにおける「約束事を守ったうえでの運用ルール」といった、共通の「評価基準」がないから。
 こうしてみるとこれらはエンタメ系の小説ジャンルとして割と良く似た位置づけにはあるけれど、特徴がそれぞれ微妙に食い違っていて面白いね。

2013年8月の読了本

 今月は盆休みがあったおかげでたくさん読めた。たくさん本が読めると何となく体調まで良くなる気がする(単純/笑)。いつもこれくらい読めるといいんだけどねえ。

『リンウッド・テラスの心霊フィルム』 大槻ケンジ 角川文庫
  *筋肉少女帯のボーカリスト・大槻ケンジによる初詩集(歌詞集)。きちんと読んだのは
   初めてだったのだけれど、後になってから曲として発表された作品がかなり初期の段階
   で書かられていたことに驚く。オーケンは最初からオーケンだったんだねえ。
『レストレス・ドリーム』 笙野頼子 河出文庫
  *書名にある“レストレス”とは「落ち着かない」「休めない」「たえず動き続ける」の
   意味。― たしかにそんな題名がぴったりくるような悪夢の連作短篇集。個人的には、
   筒井康隆著『驚愕の曠野』/安倍公房著『カンガルー・ノート』と合わせて、三大悪夢
   小説と名付けたい。悪夢を何かのテーマや手段にしているのでなく、悪夢を素材のまま
   ごろりと放り出したような感触。そんな小説。(実はそれが社会で女性の感じる閉塞感
   や焦燥感にもつながるものだったりも。)
『江戸の妖怪革命』 香川雅信 角川文庫
  *古くは『今昔物語』などにも書かれた怪異伝承は、近世になって大きな変貌をとげた。
   本書はその経緯について、(なんと)フーコーの「アルケオロジー/知の考古学」の
   手法をつかって分析していこうというもの。なお、あとがきによれば2005年に河出書房
   新社からでた同題の本を2章分削除のうえ、一部追加と修正を加えたものらしい。
   “改訂新版”のような感じかな。
   具体的には、江戸時代(18世紀)になると博物学の発達とともに、それまで姿かたちが
   無かった(=ビジュアライズされていなかった)「化け物」が、鳥山石燕の『図説百鬼
   夜行』などを契機に一気にカタログ化。それは同時に“表象化”“記号化”する事でも
   あり、やがてキャラクター化とともに庶民の娯楽として普及していったという事のよう
   だ。妖怪好きなら一度目を通しておくといいかも。
『どら焼きの丸かじり』 東海林さだお 文春文庫
  *いつものショージ君丸かじりシリーズの一冊。文庫落ちするとつい手に取ってしまう。
『古きものたちの墓』 ラムジー・キャンベル他 扶桑社ミステリー
  *副題は「クトゥルフ神話への招待」。H・P・ラヴクラフトが創始した“コズミック・
   ホラー”の体系であるクトゥルフ神話に則り、後年の作家によって新たに書かれた
   短篇を集めたもの。ラムジー・キャンベル/コリン・ウィルソン/ブライアン・ラム
   レイの3人の作家による4篇が収められている。
   特に好きだったのはキャンベルの「湖畔の住人」とラムレイの「けがれ」だが、ウィル
   ソンによる表題作もかなりの力作で面白い。表題作は本書中で最も長く、本家の「狂気
   の山脈にて」という短篇をベースにしてメタフィクションめいた仕掛けもある作品。
   後半の「遊星からの物体X」を思わせるくだりなどはかなり愉しめた。ただしリアルさ
   を追及しようとして盛り込んだオカルト系のネタの幾つかが、今からするとちょっと
   トンデモ系だったりして苦しいところも。一種の“問題作”といえるかも知れないね。
『一目小僧その他』 柳田国男 角川ソフィア文庫
  *日本民俗学の創始者による妖怪についての考察を集めた本。すでに何かの機会に聞いた
   事のある内容が多かった。柳田は「おばけ」の類を基本的に「零落した昔の神」である
   としている。たとえば一つ目小僧の由来では、神への生贄にする人が逃げられないよう
   にするため、片目を潰し片足を折る風習があったとの仮説を立てる。(根拠はよく分か
   らなかった。)そして殺されて神の眷属になった者たちが一目であったが故、いつの間
   にか一つ目小僧の伝承へと変わっていったのだと。(これなどは諸星大二郎のマンガの
   ネタで使われていた。)
   一つ目の由来を隻眼であるとするのは柳田のオリジナルなのかな? 他にも神が木の枝
   で片目を突かれたという伝承を始め、全国各地につたわる片目の鯉や蛇、はては武田の
   軍師・山本勘介や鎌倉権五郎まで引き合いに出しておびただしい例証を挙げているが、
   (本人も仮説と断っているように)残念ながら納得できるだけの根拠が無い。少し前の
   民俗学の本を読むと、このような感じで「あれ?」と思う説が割とよくある気がする。
『母の発達』 笙野頼子 河出文庫
  *子供の頃から、近代的・進歩的な価値観をもつ(そしておそらく性格障害を持った?)
   母親によって抑圧され、“毀れて”しまった娘「ダキナミ・ヤツノ」。彼女によって
   殺され再生されやがて共犯となった母親と、ヤツノにより繰り広げられる驚天動地の
   物語。「母の縮小」「母の発達」「母の大回転音頭」という3篇の連作短篇が収録され
   ている。本書におけるヤツノの境遇の悲惨さと“毀れ方”も尋常ではないが、対する
   母のデタラメぶりもすごい(←褒め言葉)。全体を通じて追及されるものは、がんじが
   らめになった「母」という存在と言葉がもつイメージの解体といえる。本書を読んだ
   女性がことごとく爽快感を味わったというのは何となくわかる気が。
   それにしてもやたら出てくる三重県人についての特徴には笑った。たとえば「三重県人
   は一般に温厚で八方美人だと言われている。(中略)三重県では常に人間は相手を思い
   やっていなければならないのだ」など、本当なんだろうか?何処までがネタなのか皆目
   見当がつかない。(笑)
『審判』 カフカ 角川文庫
  *不条理文学で有名な著者の代表作のひとつ。本書を読んでいるうち、「不条理」とは
   外部から本人に到来する状況のうち、本人が理解・納得できないものを指すのではない
   かと思えてきた。いわば生きている事自体がそもそも「不条理」の連続なのかも。
『宇宙創世記ロボットの旅』 スタニスワフ・レム ハヤカワ文庫
  *ポーランドの国民的なSF作家レムによる寓話にして、同じ著者の「泰平ヨン」のシリ
   ーズにも似た味わいのユーモア作品。中世に模した宇宙を舞台に、遥か昔に二人組の
   “宙道士”のトルルとクラパウチュスが繰り広げる旅の記録。第一の旅から第七の旅に
    加え、番外の旅2篇を加えた全9篇からなる。
   数十年ぶりに読み返したら、こんなに読みやすく愉しい物語だったかと驚いた。どれも
   面白いが特に気に入ったのは、量子力学ならぬ“竜子力学”が愉しい「竜の存在確率論
    ―第三の旅―」と、秘策“お役所仕事”を駆使して鋼眼機族の窮地を救うトルルの活躍
   を描いた「コンサルタント・トルルの腕前 ―番外の旅―」。それにマックスウェルの悪
   魔が二人の窮地を救う「盗賊『馬面』氏の高望み」の3篇あたり。吉上昭三・村手義治
   の両氏による凝りに凝った訳語も素晴らしい。こんな愉しい本がなんで品切れなんだろ
   うねえ。勿体ない。
『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』 ウェンディ・ムーア 河出文庫
  *18世紀ロンドンで活躍した天才外科医の評伝。彼自身ドリトル先生のモデルになったと
   も、彼の住む邸宅がジキル博士とハイド氏のモデルになったとも言われ、近代医学の礎
   を築いた人物にも関わらず、毀誉褒貶が著しい人物のようだ。本人が破天荒な人物な
   だけに評伝も面白い。18世紀の常識にとらわれない自由人だった彼は、過去からの因習
   にとらわれた当時の医学界と衝突を繰り返し、歯に衣着せぬもの言いは敵を多く作った。
   しかし後進の指導に熱心に取り組みことで医学教育にも革新を呼び、若い医学生たちに
   は慕われたようだ。(種痘で有名なジェンナーも弟子のひとり。)ちなみに墓碑銘には
   「科学的外科の創始者」とあるそうな。あくなき探究心をもつ彼は動物の解剖や標本に
   も興味を示し、解剖学を通じて「あらゆる生き物に共通する基本原則」を追求して博物
   学の面でも活躍。クック船長によるエンデヴァー号の航海にも関係していたらしい。
   本書を読むまで、こんなすごい人物とは知らなかった。
   なお気になったところがひとつ。本書は「ノンフィクション」となっているが、その割
   にはハンターやその周辺の人々の心理描写や当時の街の風景が、まるでその場に同席し
   ていたかのように描かれている。これってノンフィクションの手法としてはどうなのだ
   ろう。伝記や歴史小説の手法についてあまり深く考えたことが無かったが、一般的なの
   だろうか?
『現れる存在』 アンディ・クラーク NTT出版
  *認知科学の記念碑的な著作。認知科学は進歩が速い研究分野なので、1997年に書かれた
   本書の中には、今日ではすでに旧聞に属する内容も含まれていると思う。(もしくは既
   に当たり前になってしまっている内容というか。)生物のように「一見非常に乱雑で非
   直感的なシステム」をモデル化し、理解するというのが目的であり、そのためには医学
   に生理学やロボット工学、シミュレーションに哲学まで幅広いジャンルからのアプロー
   チが必要となる。その意味であらゆる関連分野の97年当時の状況を包括した本書は、
   ウィーナーの『サイバネティクス』と同様いつまでも色あせない本として繰り返し手に
   取られるのではないだろうか。
『市に虎声あらん』 フィレップ・K・ディック 平凡社
  *本当は文学作家になりたかったディックが、初めて書いた幻の長篇普通小説。結局どこ
   の出版社にも売れず、でたのはSF作家として有名になってからという曰くつきの作品
   らしい。山形浩生氏も書いているように「ディックの原石」ともいうべき異様なパワー
   を持つ怪作だった。
   自意識ばかり強いくせ自分は何をすべきなのか分からない主人公を始め、マッチョで
   粗暴な差別主義者の白人実業家に、主人公が勤めるラジオ店の典型的な俗物店主。はた
   また終末思想に染まった新興宗教にはまる花屋の店員に、その宗教の黒人教祖など、
   出てくるキャラはダメキャラのオンパレード。(後に彼が書いたSF作品の人物たちの
   造形にそっくり。)そんな彼らが500ページもの長さに亘って延々と鬱々したドラマを
   繰り広げるのだから、読むのがちょっとしんどかった。「ディックだから」という理由
   で買って読んだのだが、おそらくディックでなければ読まなかっただろう作品。しかし
   それでいて「ああディックらしい」と思ってそれなりに満足している自分も可笑しい。
   小説として好みかといえば決してそうではないが、それもひっくるめて面白がっている
   という、倒錯した愉しみ方に近いかな(笑)。ディックが本来書きたかったものがこれ
   なのだとしたら、読者としての勝手な立場から言わせてもらえば彼はやはりSF作家であ
   って良かったのだと思う。でれでも多かれ少なかれそうだが、自分のしたい事とやれる
   事って違うよねえ。
   それにしても題名を始めとする古色蒼然とした言葉が本文中にもあちこち出てくるのが
   謎。原文もそんな感じなんだろうか。因みに題名は親鸞の『教行信証』の中で、最澄に
   より書かれたとされる『末法燈明記』(偽撰?)に記された次の言葉が元。
   「末法の世には既に戒法が廃れきっているから、かかる無戒の世に持戒を唱えても意味
   がなく、かえって町中を虎がうろつくようなもので、誰が信じよう。剃髪、染衣だけの
   名ばかりの無戒僧(名字僧)こそ、世の導師にふさらしい」
   原題は“Voices from the Street“であって、さしずめ『雑踏からの声』ぐらいの
   意味か。ちょっと凝り過ぎではないかな?
『夢幻諸島から』 クリストファー・プリースト 早川書房
  *著者が長年に亘って書き継いできた「夢幻諸島(ドリーム・アーキペラゴ)」のシリ
   ーズ。渾身の傑作長編。どことも知れぬ星の上、南北2大陸の間に広がるミッドウェー
   海に点在する島々を舞台に様々な物語が展開する。ガイドブックの構成をとっていて、
   著者一流の語り/騙りのうまさには、相も変わらず唸らせられる。これは傑作。
『時を生きる種族』 R・F・ヤング他 創元SF文庫
  *気鋭のアンソロジスト中村融氏による時間SFのアンソロジー。あまり知られていない
   往年の名作を発掘して紹介するシリーズの1冊で、今回も安定して面白かった。中でも
   自分の好みはマイケル・ムアコックの表題作「時を生きる種族」、ミルドレッド・クリ
   ンガーマン「緑のベルベットの外套を買った日」、T・L・シャーレッド「努力」あたり
   か。特に巻末の中篇「努力」は素晴らしい。世界を変えようとする理想肌の人々の努力
   とその結末を描いた力作。こういうの好きだなあ。(何となくS・スタージョンの中篇
   「雷鳴と薔薇」を思い出した。)
『カミとヒトの解剖学』 養老孟司 ちくま学芸文庫
  *1988年から1991年にかけて季刊『仏教』に連載された「宗教の解剖学」を中心に、
   関連するテーマの文章を集めたもの。当時流行った「大霊界」の話など少し話題が
   古いところもあるが、臨死体験や死、霊魂(キリスト教における心身二元論)や仏教
   思想に禅など、西洋発祥の自然科学とは(一見)相いれないものについて著者が思う
   ところを、軽妙洒脱な語り口で存分に語っている。(ただし書かれている内容が簡単
   というわけでは無いので悪しからず。)
   取り上げられているテーマは様々で、たとえば「宗教体験が脳のどこで生じ、宗教が
   どのように進化してきたのか」とか「生物の“死”とはいつの瞬間をいうのか」といっ
   たもの。あるいは「日本における“神気”とは何か」や「(おそらく禅から発祥した)
   その思想がいかに日本人の価値観を規定してきたか」など、脈絡があると言えばあるが
   無いと言えば無い。なかでも言語がもつ情報を保存するために、最適な形式として発明
   されたのが「言行録」であったという仮説は面白かった。(だからこそイエスや釈迦や
   孔子といった人々が「喋ったこと」として記録にのこり、やがてそれが「古典」となっ
   ていったという指摘は斬新。本当にその人自身が語ったかどうかはどちらでもよくて、
   大事なのは「その人が語った」とされた事だけというわけだ。
   また幼い子供の頃に接した思想(例えばヨーロッパ人ならキリスト教、日本人なら仏教)
   が、本人も知らぬうちにア・プリオリ/先験的にその人の考え方の基本になるという指摘
   も。これは素直に実感として納得できる気がするな。また阿含経の教えによれば「苦」と
   いうのは〔自己の欲するままにならぬこと〕あるいは〔思い通りにならぬこと〕なのだ
   とか。まとまりが無い本だといえば確かにそうかもしれない。でも逆に言えば考えるタネ
   の宝庫とも言えるので、ふとした拍子に自分なりのヒントに出来るのならば、それが一番
   本書の読み方として似合っているのではなかろうか。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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