『夢幻諸島から』 クリストファー・プリースト 早川書房

 著者のプリーストは映画化された『奇術師』や、『逆転世界』『魔法』『双生児』といった魅惑的な作品で知られるイギリスSF界の重鎮。本書は2011年に発表された彼の新作で、新刊予告が出てからずっと楽しみに待っていたもの。「“銀背”の復活」としてファンの間で話題になった「新☆ハヤカワ・SF・シリーズ」の第一期最終配本にあたるそうで、英国SF協会賞とジョン・W・キャンベル記念賞を受賞した話題の一冊となっている。
 少し背景的な話をすると、本書は著者が以前から書き継いできた「ドリーム・アーキペラゴ(夢幻諸島)シリーズ」と呼ばれる、どことも知れぬ異星の多島海を舞台にした連作のひとつに位置づけられる。(もっとも、それぞれ独立した話なので、旧作を知らなくてもなんら問題は無い。)中身はこれまでの集大成ともいえるものだそうで、夢幻諸島の全体について書かれた短篇ばかりを集めたオムニバス集となっている。SFに詳しい人なら、例えばブラッドベリの『火星年代記』などを想像してもらうと分かるだろうか。ただしただ単純に寄せ集めたわけではなくて、全体としては夢幻諸島の島々の自然や文化を紹介する「ガイドブック」という非常に凝った体裁をとったものになっている。(*)

   *…各エピソードは島の名前のアルファベット順で並べられていて、これがまた後にな
     ってから有効に効いてくる。モザイクのように入り組んだ記述を読んでいくうち、
     やがて世界全体の自然や社会の成り立ちがみえてくるとともに、作者が仕掛けた
     本書の物語としてのトリックも明らかになってくるというわけ。とても豊穣かつ
     贅沢に作られた本だと思う。

 ここに書かれた「赤道を南北からはさみ、熱帯、亜熱帯、温帯の緯度に広がっている」という夢幻諸島の設定だけ読むと、J・G・バラードの『ヴァーミリオン・サンズ』のような退廃的なリゾート地や、そこを舞台にした蠱惑的な物語を想像するかもしれない。でも実際に読んでみた印象は全然違った。島々は長らく交戦状態にある軍事国家同士の紛争に巻き込まれないよう、中立と自治を保障した盟約を取り結ぶことでようやく独立を保っている。結構過酷な状況なのだ。なかには軍事国家により事実上占拠され立ち入り禁止となっている島もあって、現実の世界にも似たシビアな感触となっている。その点では、雰囲気はバラードよりむしろアーシュラ・K・ル=グインの諸作に近いかも知れない。(このあたりの話、SFに興味の無い方には「何のことやらさっぱり?」ですね、すいません。^^;)
 本書には長短とりまぜて30以上もの章(物語)が収録されていて、その中身は非常にバラエティに富んでいる。例を挙げれば、最凶最悪の昆虫“スライム”の発見に至る記録や、パントマイム芸人の殺害事件の真相。もしくは夢幻諸島を代表する作家カムストンや画家バーサーストに、トンネル堀りアーティストのヨーや社会思想家のカウラーといった、様々な著名人にまつわるエピソードなど。それらがまるでモザイクのように絡み合って、やがてこの奇妙な世界の全貌がみえてくる仕掛けになっているのだ。訳者の古沢嘉通氏も解説で書かれているように、プリーストの語り手/騙り手としての技が存分に愉しめる一冊となっている。
 本書全体を数多くの章から構成された長篇として読むことも可能だが、それぞれの章を個別の短篇として愉しむことも勿論可能。そのようにみた時、自分が特に気に入ったのは
 「ジェイム・オーブラック(大オーブラック)」…スライムが怖ろしい
 「沈黙の雨(コラゴ)」…“不死”の島の物語
 「忘れじの愛(リュース)」…作家ケインが再登場する
 「たどられた道(ピケイ2)」…カムストンの秘密が明らかにされる
 「臭跡(ローザセイ2)」…ピケイ2と対になる中核の作品
 「死せる塔(シーヴル)」…不気味さは書中随一
 「古い廃墟/かきまぜ棒/谺のする洞窟(スムージ)」…ボーナストラックみたいな良い話
といったあたりの作品だろうか。

 プリーストは学生時代から読んでいるのだが、実は『ドリームマシン』といった初期作品を読んでいたころには、「少し文学寄りの(例えば村上春樹のような)作品を書く人」という印象を持っていた。ベイリーのように突拍子もない奇想小説が大好きな自分としては、「上手いけれどちょっと地味」といったイメージがあったのだけれど、それがいつの間にかエリック・マコーマックみたいな語り/騙りの名手に化けたのは嬉しい誤算。今では「出ると買う作家」のひとりになっている。
 本書の前に書かれた「夢幻諸島シリーズ」に属する作品は、これまでにも色んな形で紹介されてきた。プリーストの作品はだいぶ読んでいるはずなのだが、全く記憶にないのは困ったものだ。(歳のせいではないと思いたいが…。/苦笑)家の中を探せば出てくるはずなので、そのうち引っ張り出して読み返してみようかな。


 さて、以上がネタバレなしの感想。実は本書については色々と書きたいことがあるのだけれど、何を書いてもこれから読む人の興を削ぐことになってしまうので悩ましい。作者はもちろん明確に書いているわけではないので違っているかも知れないけれど、「自分はこんな風に読んだよ」というのを書いてみたい。ここから先を読まれる方は、中身に関する話がどんどん出てきますので、そのつもりで。


 本書における作者の“仕掛け(騙り)”に目を向けた場合、複数の章にまたがる形で隠されている物語がふたつあると思っている。ひとつめは注意して読んでいけばすぐ解るもので、大作家チェスター・カムストンと社会活動家エズラ・W・カウラーのふたりにまつわるエピソード。錯綜するエピソードを章の構成とは切り離して、作中の時系列順で並べてみよう。(注:カッコ内はエピソードが書かれている章の名前)

 1.ウォルター・カムストンとチェスター・カムストンが一卵性双生児として誕生
   (ピケイ2)
 2.大学生になったチェスターが劇場でアルバイトをしてパントマイム芸人と会う
   (グールン)
 3.作家としてデビューしたチェスターとカウラーとの、お互い無名時代のやりとり
   (ローザセイ1)
 4.カウストンとカウラーの恋愛の顛末
   (ピケイ2)
 5.カウストンの葬儀と、カウラーによる数十年ぶりのピケイ訪問
   (ピケイ2/ローザセイ2)

 この流れを柱として、殺人事件の容疑者ケリス・シントンに関する裁判記録(チェーナー)や、若い頃にカムストンに憧れ、やがて作家として大成していくモイリータ・ケインのエピソード(フェレディ環礁/リュース)が絡んでくる。他の細かなエピソードとしては、画家ドリッド・バーサーストを中心とした話の軸やトンネル掘りアーティストのジョーデン・ヨーの軸もあり、彼らが残した足跡とカムストンの人生があちこちで交差するあたりは、ちょっとヴォネガットを連想したりもした。
 混乱のもとになっている要因のひとつは、カムストンたちをリアルタイムで描いている話と、彼らの生きていた時から1世紀ほど下った時代のエピソードが混じっている点。さらに後世のエピソード(たとえば無人機と地図作りたちが出てくるミークァ/トレムの章や“死せる塔”が出てくるシーヴルの章)では、作中に出てくる謎に対して明確な答えはない。これらが混在しているのが物語の構成を分かりにくくするとともに、それを読み解くという本書の魅力になっているのではないかと思う。

 ふたつの隠された話のうち、以上がひとつめのものだ。もうひとつの隠された話というのは、すこし分かりにくいが、「カウラー自身」に関するものといえばいいだろうか。こちらも時系列順に並べてみよう。

 1.無名時代のカウラー
   (ローザセイ1)
 2.カウラーの20数年ぶりのピケイ訪問と彼女の心象
   (ローザセイ2)
 3.ダント・ウィラーとカウラーの出会い
   (スムージ)
 4.カウラー礼拝堂の設立エピソード
   (デリル/トークイル)

 1と2は先ほどのカムストンと重複する。ローザセイ訪問のあとにカウラーは(おそらくスライムにより)死亡したとされている。しかしラスト近くになってスムージの章になると、記者のダント・ウィラーが初めてカウラーと出合うシーンがあり、そこでは数年前にカムストンの葬儀のしばらくあとで死亡説が流れたとされているのだ。そしてダントはその後カウラーのアシスタントとなって、あちこちで替え玉を務めたとされている。
 ところがここでおかしなことが起こる。スムージの章のラストにおいては、ダントがカウラーと知り合ってから7年後に、彼女自身がカウラーの本当の葬儀に立ち会ったと書かれている。しかし一方で、カウラーが顕現したという「カウラー礼拝堂」の設立エピソードが紹介されるデリル/トークイルの章では、ダントは何年か前に死亡していることになっていて、彼女がカウラーの替え玉だった事を、当のカウラー本人がインタビューで認める話が出てくるのだ。―― これってどういうこと?
 まず考えたのは、(リーヴァーの章にあるように)夢幻諸島では時間が狂っているので、物語の時系列がおかしくなっているということ。(赤道近くの島リーヴァでは「時間の渦」が上空を1日2回通過するのが観察され、飛行機が静止したままゆっくりと西向きに横滑りしたり、上空高く螺旋を描く飛行機雲が見られるとのこと。ちょっと眉唾っぽい疑似科学は、同じ著者の『逆転世界』を思い出して懐かしかった。/笑)
 しかしそんないい加減な説明でお茶を濁すようでは、語り/騙りの名手と呼ばれたプリーストの名が廃るというもの(失礼)。何か隠された設定があるのではないかと思って最初からじっくり読んでみると、もうひとつの可能性があることに気が付いた。それはカウラーが不死人だったのではないかという事だ。最初の方にあるコラゴの章では、人を不死に変える医療処置の話が唐突に紹介される。後の方でも「コラゴ宝くじ助成金」などこの島に関する話題は時折でてくるのだが、不死の処置についてはこれっきりとなってしまっている。でもコラゴの章には「致命的な病気の明らかに奇跡的な治癒が起こった場合」は、「病人は、姿を消し、あらたな名前と身元で暮らしている」という事がはっきりと書かれている。これって、カウラーが不死人ということを暗に示しているのではなかろうか…というのが自分の読み。もしそうだとしたら、二重底になった物語を書くなんてプリーストも油断がならない。(笑)これからはジーン・ウルフを読むくらいのつもりで接した方がよさそうだ。

 以上、思いついたことをとりあえず書き出してみた。もちろん当たっているかどうかは分からない。「カウラー=不死人」というのは物語の中ではどこにも直接言及はされていない。本書には他にも解かれないままに終わる謎が沢山描かれている。例えば“死せる塔”の中から不安と恐怖を放射する存在とはいったい何だったのだろう。また、モリイータ・ケインが遺体を引き取りに行った「徴兵にとられ国境警備隊で死亡した友人の作家」とは、はたして誰だったのかも謎。ローザセイ2のラストで、カウラーがカムストンの幻影と出合った後に、煙が本物の血に変わるのも何だか意味深だ。(意味はよく分からないけど。)
 読んでいくうちにだんだんと物語の全貌が見えてくるのも愉しいけれど、錯綜する時間の流れと作者の思惑とに翻弄されるのもまた愉快。生者と死者が入り乱れ、過去と現在とが交差する不思議な空間がいつのまにか現出している本書のような作品は、自分のように「奇妙な話」をこよなく愛する読者にとっては、まるで宝箱のようなものといえるかもしれない。(ちょっと格好をつけすぎかな?/笑)

<追記>
 肝心な話を書き忘れていた。本書の一番の矛盾は、これらすべてが書かれた「ガイドブック」の序文を、チェスター・カムストン自身(!)が書いているという点。本人曰く「本書に書かれている事柄はどれをひとつとっても厳密な意味では事実に基づいていない」とのこと。そりゃそうでしょう、自分が死ぬエピソードまで描かれているんだから(笑)。この序文があることで、本書はメタフィクションとしても愉しめる”何度でも美味しい作品”になっているといえるかも。

<追記2>
 上記の文章をかいてから今日で3日目、まだ余韻は続いている。同シリーズに属する4短篇「赤道の時」「火葬」「奇跡の石塚(ケルン)」「ディスチャージ」(以前出た『限りなき夏』という短篇集に収録)を読み返したりして、色々愉しんでいる。(これらの短篇にはスライムや死せる塔といった本書と同じテーマも出てくるが、いずれも謎の答えが明かされるわけでは無い。夢幻諸島の世界により広く深く遊ぶ物語だ。)
 ツイッターでも友人知人との間で感想を言い合ったりしているのだが、そんなおしゃべりの中で、本書のもつ矛盾の理由を、所謂「信頼できない書き手」として考えるというアイデアを頂いた。要は(意図的かどうかは別にして)どこかに虚偽や錯誤が紛れ込んでいるということだ。これは面白い。どこが嘘と考えると一番しっくりくるか。
 色々と考えてみたのだが、自分としてはそもそも「序文」自体が嘘ではないかという結論(仮説)に落ち着いた。「信頼できない書き手」による文章が本書のどこかに紛れ込んでいるとするなら、それは全ての文章に可能性があるという事。もちろん序文とて例外ではない。「どれをひとつとっても、(中略)事実に基づいていない」と断言する当人こそが嘘であるというのは、「クレタ島人は嘘つきである」といっているようでなんだか変な感じもするが。(笑)
 序文を書いたのも当然カムストン本人とは限らない。カムストン自身が生きていた時代から少なくとも1世紀ほど後との時代に編纂されたガイドブックなわけだしね。そうなると序文を書いたのは誰か?という疑問が残る。自分が考える仮説はこうだ。
 ひとつは「作者自身」であるという説。「カウラー=不死人説」で一応は説明がつきそうな本文を全て否定することで、メタフィクションとしての面白さが生まれている。そう考えると、その向こう側に作者プリーストがニヤニヤ笑う顔が透けて見える気がしないでもない。(苦笑)
 あくまでフィクションとして結着を付けるのであれば、序文を書いたのは「自分が死んでいる事を知らないカムストン」という事もありうるかも。ミークァ/トレムの章で軍によりトマックに施されていた「人体実験」らしきものが、何らか関係している可能性もなくはない。
 うーん、謎は深まるばかりだ。まあ、べつに全部解ける必要はないんだけれどね(笑)。いずれにせよ後からこれだけ愉しめるってことは、本書が傑作であることの証拠。どうやら他にも同シリーズの作品があるようだし、是非とも本書がたくさん売れてそれらも訳されて欲しいなあ。
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『万国博覧会の二十世紀』 海野弘 平凡社新書

 19世紀から20世紀にかけて世界各地で開催された万国博覧会について、その背景や主催者、会場の様子といった概要をざっと俯瞰した本。自分はなんせ小学生のころに大阪万博に接した世代なので、「万博」という言葉にはめっぽう弱い。面白そうな本があるとつい手を出してしまうのだ。(笑)
 もっとも、大阪万博が開かれた時はちょうど新潟に住んでいたので、実際に訪れることはついに叶わず。したがってテレビや本でその雰囲気を想像するしかなかったのだが…。(その後、名古屋に引っ越して現在に至るわけだが、今なら間違いなく行っていただろうなあ。)

 最初のころの万博といえば何となくロンドンかパリというイメージ。本書で確認したところではやはり正しかったようだ。しかも19世紀から20世紀初頭の万博は今と違って「商業見本市と技術の誇示」が主目的。簡単にいえば「技術のオリンピック」みたいなものと考えれば良いかも。なお自国民に対する植民地の紹介も兼ねていたようだ。当然ながら国主導で開催されていた一大イベントだったわけ。パリ万博からは、商業と技術に加えてその国の芸術や文化を紹介する比率も増えたらしいが、いずれにしても国威発揚が主目的だった事に違いはない。
 やがて時代を経てアメリカが経済的な力をつけてくると、開催都市はロンドン・パリの2箇所だけでなくシカゴやサンフランシスコなど新大陸に広がりを見せるようになる。そうなるとさすがはアメリカ、万博はそれまでの国家主導イベントから民間主導のエンタテイメントなイベントへと変貌を遂げていくことに。(それにしても初期のアメリカ万博にディズニーが絡んでいたとは知らなかった。イッツ・ア・スモール・ワールドなどのアトラクションも、元々は万博で披露されたのが最初なのだそう。)
 本書では、こんな調子で2005年に愛知で開催された愛・地球博から2010年の上海万博まで、(国際博覧会条約で公式に認められたものからそうでないものまで)色々と駆け足で紹介されている。個人的にはもうちょっと個々の会場の見取り図やパビリオンなどの図版を増やして欲しかったが、それでも概ね愉しく読み終えることが出来た。

 最後に本書を読んで思ったことを少し。
 遊びに行く立場からすると、万博というのは世界各地の風俗や文化が一堂に会する、いわば「お祭り」のようなイベントといえる。しかし後になって昔の万博を振り返ってみた場合、その時代ごとの世相や文化を「層」として切り取り凍結保存したサンプルとも言えるのではないだろうか。例えば1900年のパリ万博ではパビリオンや展示装飾にアール・ヌーヴォーの影響が色濃くでているし、同じく1925年のパリ万博ではアール・デコの影響が明らか。また1939年は第2次世界大戦間際の緊迫した情勢だったため、参加国リストにもその状況が如実に反映されている。大戦後の復興が遅れ1958年にやっと開かれたブリュッセル博では、参加国や催し物に各国の力関係の変化や東西冷戦の構図がそのまま反映されている―― といった按配。
 こうしてみると、万博には経済効果や「国の威信をかけた」といった即時的な目的とは別に、時代のタイムカプセルといった役割もあるのではないかという気がする。(むしろ自分にとってはそちらの価値の方が重いのかも。してみると自分が昔の万博に魅かれるのは、単に“郷愁”という理由ばかりではないのだ。/笑)

中入り/いつもご訪問ありがとうございます

 気が付いたら、ゆうべブログへのアクセス数が50000を超えていました。いつもご訪問頂いている皆さんには大変ありがとうございます。また、初めてお目にかかる方にはどうも初めまして。(笑)

 自分が読んだ本の備忘録を兼ねて最初は細々と始めたブログでしたが、いつのまにかこんなにも大勢の皆さんにご訪問をいただけておりました。いつも気まぐれで好き勝手なことばかり(しかもとても偏った内容を)書いていますが、こうしてご覧いただけることが日々の励みとなっております。「そうそう、この本面白いよね!」などと気楽にお話しできるといいな~、などと考えながら。

 今後も10万、15万とアクセスが増えていきますよう、相も変わらずだらだらと続けていくつもりでおりますので(笑)、気が向いたらまた覗いていただけますと幸いです。

 まずは中入りのご挨拶まで。

『隠れていた宇宙(上・下)』 ブライアン・グリーン ハヤカワ文庫NF

 “〈数理を愉しむ〉シリーズ”の一冊。著者は物理学の専門家であり超ひも理論を研究している人。第一線の研究者でありながら平易な一般向けの科学解説書も書けるという多彩ぶりで、著作はどれも全米ベストセラーになっているそう。以前、一作目の『エレガントな宇宙』を読んだら面白かったので、本書も文庫化されたのを知りさっそく買って読んでみた。
 内容をひと言でいうと「最新宇宙物理学により明らかにされた“多宇宙”すなわち並行宇宙の世界観を紹介したもの」となるのだが、これだけでは宇宙に興味が無い人は何のことか分からないだろう。本書でも初めてこの手の話題に触れる人のため、全体の1/4ほどがこれまでの研究成果のおさらいにあてられている。なるだけ簡単にまとめてみよう。

 惑星の大まかな動きを記述するには、万有引力に代表されるニュートン物理学が役に立つ――というか、それだけでほぼ充分で、19世紀末まではその状態が続いていた。しかし少しずつ、つじつまの合わない現象が観測されるにつれ、ニュートン物理学を取り込む形でアインシュタインによる相対性理論が登場し、状況が一変する。相対性理論ではそれまで絶対的なものとされていた空間や時間が、観測者の状況によりいくらでも変化する相対的なものと定義された。そして一般相対性理論の解を求める過程で「ビッグバン」やブラックホールという、それまでに無かった新たな概念が生まれることに。
 一方ではミクロの世界をさぐる研究も順調に発展し、粒子と波の両方の特性をもつ「量子」という概念が生まれていた。量子の奇妙な振舞が実験で検証されていくにつれ、シュレーディンガーらにより量子力学という分野が確立。しかし不確定性原理により導き出された「観測者問題」というどうにも納まりの悪い概念は、解決不能な状態のまま現在に至っている…。(*)

   *…厳密にいえば解はあるのだが、それは我々にそっくりなものも含めた無限の宇宙
     (=「多宇宙」)が存在することを認めるというもの。自分のように「面白ければ
     何でもいい」というお気らく人間ならともかく、科学者の中にはそのような屁理屈
     は到底受け入れがたいという人もいて、数十年の長きに亘り論争が続いている。

 さてマクロな宇宙理論の方はビッグバンから更に研究がすすみ、「インフレーション理論」など様々な補正を加えながらも破綻なく発展し、大きな問題である「宇宙の始まりはどうだったのか」と「宇宙の最後はどうなるのか」にもメスが入れられるようになってきた。ビッグバンモデルによれば「宇宙の始まり」は限りなく小さな領域に閉じ込められる事になるため、先ほどの量子力学の力が無視できなくなってくる。すなわち相対性理論(マクロ)と量子力学(ミクロ)を矛盾なく結びつける理論が必要となるわけだ。(そのまま繰り入れると特異点というものが生じて式が成り立たない。)
 また、後者の「宇宙の最後」については宇宙が膨張し続けて発散するのか、それともいつか膨張が止まって収縮に転じるのかを決定するには、宇宙にある物質の総量がどれだけあるかの推定が重要なポイントとなる。しかしいくら調べても計算から導き出される質量の総量は、実際の観測から導き出される量に及びもつかない。これまでの宇宙モデルはこの点で破綻してしまっているのだ。従って新しい宇宙理論は量子力学とともに、この問題も解決できるものでなくてはならない。
 そんな中、1980年代から俄然注目を浴びるようになったのが、著者が専門とする「超ひも理論」というわけ。これは量子の正体が粒(点)ではなく「振動する小さな“ひも”」であると仮定し、しかも空間は通常考えられている3次元ではなく微小空間に閉じ込められた6次元を合わせて9次元(時間を入れると全部で10次元)であるという理論だ。一見、突拍子もない話に思えるのだが、これを基にした解析を行うとこれまでの色々な不都合(特異点の存在など)をうまく解消できることが分かっている。さらに現在では、何通りかあるひも理論の計算の仕方を全て包括する形で、「M理論」とよばれる次の展開も始まっている。現在最も有望な宇宙理論として世界中で研究が進められているのが超ひも理論なわけだ。
以上、大雑把な宇宙物理学の歴史のおさらい終わり。簡単にまとめるつもりが結構長くなってしまった。(苦笑)
 しかもこれが本書の主題というわけではなく、あくまでも前振りに過ぎない。全体の残り3/4あまりは、もっとややこしくてもっと不思議な話にあてられている。その話こそが、これまで出てきた様々な理論から合理的に導き出される、数多くの「多宇宙」の概念なのだ。
 紹介される「多宇宙」は全部で9つあるが、どれも基本的には「無限の数の宇宙が考えられるなら、そこには無限の組み合わせが存在する。従ってかならずどこかには、我々そっくりな宇宙も存在するだろう」という、ある意味アタマが痛くなるような内容。本書に書かれているのは、それを認めることが可能か?という思考実験といってもいい。(現在では真偽の検証方法が見つかっていないため、どれも間違いであるとは言い切れないのだ。)
 ちなみに多宇宙のアイデアは、例えば近代の宇宙理論から導き出されるもの(「パッチワークキルト宇宙」など)もあれば、ひも理論から導き出されたもの(「ブレーン宇宙」など)、さらにはコンピューターシミュレーションに起因するような、純粋に理論上のものまでさまざま。以下に紹介してみよう。

 1)パッチワークキルト多宇宙
   「無限の大きさ」を持つ宇宙の中では必ずどこかで同じ状態が繰り返されるという考え
   に基づくもの。(古くはブランキの『天体による永遠』でも披露されていたアイデア)
 2)インフレーション多宇宙
   永遠に続く「宇宙インフレーション」は互いに不可触な無数の「泡宇宙」を生む。我々
   の宇宙のその中のひとつに過ぎないというもの。
 3)ブレーン多宇宙
   ひも理論によれば我々の宇宙のある「3次元ブレーン」(brane≒膜の意味の造語)は
   さらに高次元の場所に浮かんでいる。とすれば、他のブレーンには同様に無数の宇宙
   が存在する可能性がある。
 4)サイクリック多宇宙
   上記のブレーン同士の衝突によりビッグバンのような状態がおこり、時間的に並行な
   無数の宇宙が生じる。
 5)ランドスケープ多宇宙
   これも同じくひも理論によるアイデア。ひも理論による「余剰次元」の考えを受け入れ
   るなら、色々な物理定数も現在の数値である必然性はない。従ってあらゆる定数の組み
   合わせの宇宙が存在する可能性がある。
 6)量子多宇宙
   量子力学で生じる矛盾について「コペンハーゲン解釈」(**)を受け入れる代わりに
   でてくる考え方。量子の確率波が収束する瞬間ごとに、無数の枝分かれした宇宙が並行
   して生まれ続けているというもの。1957年にエヴェレットにより提唱された。
 7)ホログラフィック多宇宙
   ホーキングのブラックホールのエントロピー(≒情報の蓄積)に関する研究から派生し
   た、数学的な多宇宙アイデア。遠くの境界面で起こっている状態が、我々の宇宙の時空
   内部に映し出されるというもの。(数学的に導き出されるな概念だが、難しすぎて正直
   よく分からない。/笑)
 8)シミュレーション多宇宙
   これも数学的アイデア。計算可能な宇宙群のシミュレーションは無数にあり、その中に
   我々の宇宙も必ず存在する。とすれば他のあらゆる宇宙も存在するだろうという理論。
   (我々が今いる宇宙もシミュレーションの結果でないとは言い切れないことに...。)
 9)究極の多宇宙
   数学の「背理法」を使ったような感じの、純粋に理論上から考え付く多宇宙。我々の
   住む宇宙が唯一無二(つまり特別な存在)である理由が説明できない以上、他のあらゆ
   る宇宙も実在しており我々の宇宙は「たまたまその中のひとつに過ぎない」と考える
   しかないというもの。非常に哲学的な考え方に思える。

  **…ごくごく簡単に言えば「矛盾については考えてはいけない。とにかく物理現象が
     説明できているんだから、その理由については触れないこと」という見解。
     コペンハーゲンのボーア研究所により提唱されたのでこの名がある。

 後ろの方の「シミュレーション宇宙」や「究極の多宇宙」まで行ってしまうと、もはや科学の領域を超えて純粋に思弁的な世界に入りこんでしまっている。「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」というのは、科学解説書も書いていたSF作家アーサー・C・クラークの有名な言葉だが、本書を読んでいるとまさに「充分に発達した科学理論は、純粋な思弁と見分けがつかない」とでも言いたくなってくる。
 本書はあくまでも一般向けの解説書であり、数式は殆ど使われていないのでとっつきやすい。(その割にはあまりに飛躍した概念にちょっと茫然としてしまうところもあるが/笑)
 暑い夏の夜、浮世のしがらみを離れて悠久の世界をネタに遊ぶには、ちょうどいい本かもしれない。“〈数理を愉しむ〉シリーズ”とはよく言ったものだと思うよ。

薪能2013

 昨年初めて行ったらすごく良かったので、今年も「名古屋名駅 薪能」に行ってきた。開催は7月28日(日)で、何と今年で通算12回目とのこと。JR東海を中心とした名だたる地元企業が協賛している立派なイベントなのだ。名古屋駅前のタワーズビル(JR名古屋タカシマヤの入っているところ)の屋外に特設ステージを作り、事前整理券600名分と当日先着600名分の計1200名に無料で能楽を愉しんでもらおうという、とても太っ腹な企画。能楽堂できちんとした公演を見ようと思えば軽く5~6000円は飛んでいくから、自分のような薄給の庶民にはとてもありがたい。
 昨年は気が付いたら事前整理券の応募締切日を過ぎてしまっていたので、当日早めに会場に行って当日券をもらった。(ただし当日券は席が後ろの方なので小さくしか見えない。)今年は前の方の席で観たかったので締切前に応募したのだが、残念ながら抽選はハズレ。結局昨年と同様に開場の1時間ほど前に行って当日券をもらうことにした。(後で聞いたところによると、事前整理券の競争率はおよそ10倍だったらしい。そりゃあ当たるわけ無いよな。/笑)

 時間までは例によって駅前のジュンク堂や三省堂をうろうろ。街でしか売っていない本を物色したりして時間をつぶし、会場に戻ったのは開演30分前の17時30分。全国学生能楽コンクールの表彰をみたり、河村市長のとぼけたコメントに失笑したりしているうちに、開演時間の18時となった。
 ちなみに当日の演目は以下のとおり。

 1.能  「鶴亀(つるかめ)」
 2.狂言 「盆山(ぼんさん)」
 3.能  「殺生石(せっしょうせき)」

 最初の演目「鶴亀」は、中国皇帝が新年に開く節会の儀式で、池に棲む鶴と亀が安寧を寿ぎ舞を献上したところ、喜んだ皇帝が国土の繁栄を祈って自らも舞を踊ったというもの。動物役の能楽師は頭にその動物の形をした印をつけ、面を被って登場する。衣裳までが鶴は白地、亀は亀甲模様が基調になっていて面白い。面や衣裳の様子からすると、鶴は若い娘で亀は老人に扮しているようだ。なにぶん能には素人なので、面を付けた演者が出てくるとついそちらがメインかと思ってしまうのだが、鶴亀の舞は比較的あっさりしたもの。むしろ面を付けずに素顔(*)で演じていた皇帝のほうがメインだった。
 
   *…素顔で演じることを「直面(ひためん)」というらしい。

 段々と昏くなる空をバックに、続いては2番目の演目の狂言「盆山」。当日配られたチラシによれば、題名の「盆山」とは盆栽に似た箱庭のようなもので、当時大流行した娯楽らしい。物語はさえない男が主人公。この男、盆山が好きで仕方ないのだが自分では気に入ったものを持っていない。そこで立派な盆山を持ちながら自分には見せてくれないケチな知り合いの家に忍び込み、こっそり持ち去ろうとするがあっさり見つかってしまう。そして懲らしめのために知人が「あれは盗人ではなく犬だ」「いや猿だ」とからかうと、その言葉の通りに鳴きまねを演じるはめに…。ちょっと『柿山伏』にも似た話だ。リクエストはどんどんエスカレートして最後は鯛の鳴きまねをさせられるなど、かなりナンセンスな話で気に入った。
 「伝統芸能」というと敷居が高い雰囲気があるが、実際には全然そんなことは無い。このように身近に観られる催し物がもっとあると、イメージも変わるのではないかねえ。

 さてすっかり日の暮れたころに始まるのは、本日もっとも楽しみにしていた最後の演目「殺生石」。
旅の高僧が那須野を訪れると、不思議な石「殺生石」を目にする。やがて現れた里の女(実は殺生石の石魂)に謂れ(**)を聞き、気の毒に思って供養をすると、晩になって白頭の狐(玉藻ノ前の亡霊)が現れる。狐は供養の礼を述べ、今後は悪事をしないと誓って消えていく。副題にあった「白頭」とは何のことか分からなかったのだが、どうやら玉藻ノ前の姿を意味していたようだ。なお玉藻ノ前は動物(九尾の狐)ではあるが怨霊でもあるので、「鶴亀」とは違って狐の印はつけてない。ぼさぼさの白い頭と怖ろしげな面をつけた姿で登場し、典型的な夢幻能の構成となっている。

  **…日本中世の妖怪史を代表する妖怪「九尾の狐」の伝説。インドや中国で世を乱した
     妖狐は次に日本に渡り、「玉藻ノ前」という絶世の美女となって帝に取り入った。
     しかしやがて正体がばれて逃亡し、那須野で退治され石と化す。その後も恨みは残
     り、近寄る生き物の命を奪うその石はやがて「殺生石」と呼ばれるようになった。

 話自体はこれまでお馴染みのものなので、説明なしに観ていてもストーリーが良く解る。妖怪好きな自分にとっては、「幽玄の世界」が反対に「一大スペクタクル」にも思えてきて愉しいのなんの。今回は抜かりなくオペラグラスを持参したので能楽師の人たちの細かなしぐさも良くみえて、心行くまで堪能することができた。
 ただひとつ残念だったのは、最後の最後になって急に雨がパラパラと降りだした事。ラストに狐が高僧に対して礼の舞を踊るのだが、それがえらくあっさり終わった感じだったのは、おそらく気のせいではないだろう。チラシにも雨が降ったら途中で終わる旨の事が書いてあったから、きっと途中で切り上げたのではなかろうか。
 こういったアクシデントがあるのが野外芸能の辛いところ。けれど、風が吹いたりステージの外の音が聞こえてきたりと野趣あふれる観劇ができるのは、薪能ならではの魅力といえるよね。
 チャンスがあればまた来年も行こうっと。

2013年7月の読了本

 月初は順調だったので今月はだいぶ読めるかと思ったが、ふたを開けてみるといつもと変わらずの低空飛行。(最低目標の10冊はクリアしたが、本当は月に15冊以上は読みたいところ。)読書時間がとれずに冊数が伸びないのはやむなしとしても、ぶ厚めの学術書に取り掛かれないのはつらい。しかし愚痴っていても仕方ない。まだ本を読む元気があるだけでも、よしとしておこう。盆休みにはたくさん読める事を期待しつつ...。

『ジンボー』 アルジャナン・ブラックウッド 月刊ペン社
  *幻想小説ファンにはかつて憧れだった「妖精文庫」の一冊。今回、わけあってたくさん
   (しかも安く)手に入れることが出来たので、その中からひとつ読んでみた。昭和54年
   と古い本なので著者名が「アルジャーノン」ではなく「アルジャナン」になっているの
   はご愛嬌だ。中身は『銀河鉄道の夜』や『肩甲骨は翼のなごり』を思わせるように、
   ひとりの少年の冒険を描く幻想譚。主人公の“ジンボー”ことジェームズを『銀河鉄道
   の夜』のジョバンニに喩えるとすれば、彼を導くミス・レークはさしずめカンパネルラ
   といえるかも。子供が主人公の物語はとても好きだ。
『増補版 誤植読本』 高橋輝次/編著 ちくま文庫
  *「校正」とは著者の原稿とのつきあわせによって誤植を無くすための作業のこと。内容
   は誤字の修正から年号や地名の間違いといった単純なものから、造語や送り仮名など
   著者の意図を組まなくてはならない高度なものまで多岐に亘る。作家にとっては誤植は
   恐怖であり編集者にとっては恥になる“負”の存在。しかし詩人にとっては同じ誤植が
   異化作用を生じさせ、新たなインスピレーションの源泉になったりと非常に奥が深い
   もののようだ。
   本書は総勢53人の著述家や編集者たちによる様々な文章を集めたもの。いずれも校正と
   誤植にまつわるものばかりだ。きっと本好きならば、うんうんと頷きながら読むであろ
   うエピソードが満載で愉しい。
『聖母マリア崇拝の謎』 山形孝夫 河出ブックス
  *著者は宗教人類学の研究者。神と子と聖霊の三位一体を基本とするキリスト教の世界に
   おいて、“イエスの母”に過ぎないただの人間であるマリアが、なぜこれほどまでに
   信仰を集めるのか。本書によればその陰にはキリスト教成立にまで遡る母性原理と父性
   原理との葛藤があるようだ。歴史系の本では世の常識をひっくり返すようなのがいい。
   個人的には網野善彦/阿倍謹也/山形孝夫といったあたりの著作がお気に入りだが、
   本書も期待に違わず愉しかった。
『ヨハネスブルグの天使たち』 宮内悠介 ハヤカワSFシリーズ Jコレクション
  *いわゆる「新作SF」って久しぶりに読んだ気がする。DX9なる量産型アンドロイドを
   軸に、世界各地でおこる様々な紛争と「生きる」ということをテーマにした連作短篇集
   で、内容はどれも重い。「ジャララバードの兵士たち」や「北東京の子供たち」が特に
   好きだな。帯に「伊藤計劃が幻視したビジョンをJ・G・バラードの手法で書く」と
   あったから読んでみたのだが、バラードとはちょっと違った。(伊藤計劃はまだ1冊し
   か読んでいないのでよく分からない。)でもそのあたりが引き合いにだされるくらい
   だから、出来は決して悪くない。こういう物語が書き続けられるなら、日本SFを時々
   読んでみてもいいかな、なんて思ったりも。(時間と小遣いの許す限りでね。/笑)
『黄夫人の手』 大泉黒石 河出文庫
  *著者の大泉黒石(こくせき)という人物のことは全く知らなかった。本書の解説によれ
   ば大正から昭和にかけて活躍した作家とのこと。本書は著者初めての文庫化であり、
   著作の中から怪奇系の物語を集めたものとなっている。ゴーリキーや久生十蘭、内田
   百閒や坂口安吾に石川淳といったあたりの雰囲気。一時は一世を風靡した作家のよう
   だし、ぜひ他の著作も復刊してくれないだろうか。
『隠されていた宇宙(上・下)』 ブライアン・グリーン ハヤカワ文庫NF
  *〈数理を愉しむ〉シリーズの一冊。最新宇宙物理学が示す「多宇宙」の世界観を紹介。
   以前同じ著者の『エレガントな宇宙』を読んでなかなか面白かったので、文庫化される
   のを待っていた。本書にも前著と同様に超ひも理論やM理論といった話題もでてくるの
   だが、むしろ古典的な無限空間の理屈から導き出される「ランドスケープ多宇宙」など
   も含め、今では全部で9つにまで膨らんだ多宇宙の概念について語ったものと言った方
   がいい。科学解説書というよりは、思弁の書といった方が良いかも。
『万国博覧会の二十世紀』 海野弘 平凡社新書
  *19世紀から20世紀にかけて世界各地で開催された博覧会を回顧することで、「20世紀
   において万博とはいったい何だったのか」について考察した本。著者は建築系の方なの
   で企画から建設に関する話題が多く、個々の万博の具体的な展示内容についてあまり
   詳しく書かれていないのが個人的には少し残念。(でも興味の対象が著者と自分では
   違うから仕方ないね。)20世紀初頭までの万博を牽引したイギリスやフランスの様子に
   始まり、その後の中心となったアメリカ各地での開催、そして大阪やハノーヴァーと
   いった他の国々についてコンパクトにまとめてある。大阪万博の世代としてはどうして
   も「万博は世界のお祭り」というイメージが強いのだが、実は万博といえども(いや、
   むしろ万博だからこそか)戦争や冷戦といったその時々の世相を、如実に反映している
   というのが判って面白い。
『折れた竜骨(上・下)』 米澤穂信 創元推理文庫
  *第64回の日本推理作家協会賞を受賞し、「本格ミステリ・ベスト10」「ミステリが読み
   たい!」「このミステリーがすごい!」といったランキングでも軒並み 1位か2位を
   とったという、2012年を代表するミステリ。12世紀のヨーロッパを舞台にした本格的
   な推理とファンタジーが融合した物語とのこと。「ソロンの領主を殺したのは誰か?」
   というミステリとしての謎解きも、「呪われたデーン人の襲来」というファンタジーの
   部分も良く出来ている。期待して読んだのだけれどとても満足できた。続きを読みたい
   気もするけど難しいか。もし書かれても世界観だけが共通で、きっと全然違った話に
   なるんだろうな。
『文豪怪談傑作選 小川未明集』 ちくま文庫
  *東雅夫氏の編集による「文豪怪談傑作選」の1冊。トラウマの児童文学として有名な
   「赤いろうそくと人魚」の著者・小川未明の怪談を集めたもの。「未明は怖い」という
   噂を聞いていたのだが、実際読んでみたところ確かに怖かった。何がと言って、主人公
   である子供が次々と容赦なく不幸に陥っていくのが怖い。一番怖い話は子供が死ぬ話だ
   と常々思っているのだが、そういった意味では楳図かずおの『漂流教室』や『恐怖』
   『呪いの館』といった一連の恐怖マンガと同じ質を持っていると言えるのかも。
   大人向けの話も収録されているが、こちらは善人を不幸にした街の人々を不幸が訪れる
   という物語が多い。しかし善人が救われるわけでは無くて、勧善懲悪のうち「懲悪」だ
   けなので明るさはない。なお、登場人物たちが感じるのは直接的な恐怖では無くて漠と
   した不安なのだが、それを読んだ読者が作品自体に恐怖するという不思議な構図。
   以下、随筆「夜の喜び」から一部抜粋する。少し長くなるが、未明の執筆に対する姿勢
   がわかって、なかなか興味深い。
   「私は、死は人間最終の悲しみであり、悲しみの極点は死であると思い、いかなるもの
   も死を免れぬという考えから、むしろ死に懐き親しみたいという考えが生じた。」
   「夜と、死と、暗黒と、青白い月とを友として、そんな怖れを喜びにしたロマンチック
   の芸術を書きたいと思う。」
『ルワンダ中央銀行総裁日記』 服部正也 中公新書
  *国際通貨基金の要請に応じて、1965年からの6年間アフリカの小国ルワンダで中央銀行
   の総裁を務めた著者による回想記。お堅い実録ものかと思ったらそうではなくて、
   『ロビンソン・クルーソー』とか『坊ちゃん』といった雰囲気も漂う冒険と爽快なノン
   フィクション。私腹を肥やそうとする現地の人々や、理解の無い先進国の担当者との
   激しいぶつかり合いも実名を挙げて赤裸々に語られているが、どんな時も著者の「ルワ
   ンダの人々のために」という熱い思いが伝わってきて、読んでいて気分が良い。良書。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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