2013年6月の読了本

 先月は「物語強調月間」だったが、今月の個人イベントは「ノンフィクション強調月間」(笑)。いつもよりノンフィクションの比率をちょっと高めにしてみた。7月はどうしようかな。

『ジャガイモの世界史』 伊藤章治 中公新書
  *副題は“歴史を動かした「貧者のパン」”となっている。かつてインカ帝国の発展を支
   え、その後スペインからヨーロッパ全土へと広まったのちアジアやアメリカ合衆国など
   世界中へと伝えられたジャガイモの歴史は、そのまま紛争と革命とそして救荒の歴史に
   重なるもの。本書によれば英国支配下のアイルランドやフリードリヒ大王のもと国力増
   強に努めたドイツ(プロイセン)、フランス革命前夜のフランスにデカブリスト(十二
   月党)らによる蜂起の起こった帝政ロシアといった国々で、貧しい人々の命をつないだ
   のはジャガイモだったのだという。栄養価が高くてたくさん採れるうえ、栽培の手間が
   要らずに寒い地域でも育つこのすぐれた農作物が歴史の裏で果たした役割を、丹念な
   取材で示した労作といえるだろう。日本における明治から昭和にかけての哀しい歴史、
   すなわち北海道入植や女工哀史、満蒙開拓団やシベリア抑留といった事柄にも多くの
   ページが割かれており、民衆からみた現代史としても読むことも出来る。
『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』 岡谷公二 河出文庫
  *「理想宮」とは19世紀後半にフランス南東部の小さな村に住んでいた一介の郵便配達夫
   が、33年という長い期間をかけてたった一人で作り上げた異様な建築物。世界中の建物
   や神話、更には心の奥底に眠る夢までを全てごっちゃにして、配達業務の傍ら拾い続け
   た石ころをコンクリートで固めたその外観は、どこか異国の神殿のような雰囲気さえ
   する。(日本ならば失われた怪建築「二笑亭」のようなものかな。)
   本書は、作者シュヴァルの死後にシュールリアリズムの芸術家たちによって絶賛され、
   近年ますますその評価が高まっている不思議な“宮殿”について、その成立過程と概要
   を紹介したもの。シュヴァルを“偉大なる日曜画家”であるアンリ・ルソーや、幻想小
   説『アフリカの印象』『ロクス・ソルス』の作家レーモン・ルーセルと並ぶ、「大無意
   識家」として論じた最終章は斬新。3人を互いにジャンルこそ異なるものの、いずれも
   (誰かの系譜の先ではなく心の赴くままに探求していった)ユニークかつ孤高の人物と
   して論じていて面白い。言われてみればなるほど納得。
『ミャンマーの柳生一族』 高野秀行 集英社文庫
  *著者は「早稲田大学探検部」出身の辺境探検ライター。破天荒でべらぼうに面白いノン
   フィクションばかりを書いている人物なのだが、今回は探検部の先輩でもあるミステリ
   作家・船戸与一氏の取材旅行のお供で「合法的」に軍事政権下のミャンマーを旅すると
   いう異色ルポ。軍政を徳川幕府に、泣く子も黙る軍情報部を柳生一族に、そして当時の
   情報部トップのキン・ニュンを柳生宗矩に喩えるというとんでもない荒業で、複雑怪奇
   なミャンマーの国政を一目瞭然にしてしまう手つきは鮮やかなものだ。話自体も爆笑の
   辺境珍道中記となっていて一気読みしてしまった。久しぶりに氏の本を読んだのだけれ
   ど、またハマってしまいそう(笑)。
『古代への幻視』 日本文化デザイン会議/編
  *梅原猛と中沢新一を始めとして、手塚治虫/高橋富雄(東北大教授・歴史学)/竹山実
   (建築家・武蔵野美大教授)/藤村久和(北海学園大学教授・アイヌ文化)/大須賀勇
   (舞踏家・白虎社代表)といった、総勢7名にも及ぶ錚々たるメンバーによるディスカ
   ッションを記録した本。前半部には梅原猛が代表をつとめた「日本デザイン会議」の
   一環として、81年と86年に開かれたパネルディスカッションが2本収録されている。
   ひとつめは梅原/高橋/藤村/竹山の各氏による「日本文化の源流としての縄文文化と
   アイヌ文化」について。ふたつめは梅原/手塚/大須賀/中沢の各氏による「古代への
   “幻視”による現代の逆照射と未来への展望」。話題は折口信夫やバリ島の影絵、熊野
   信仰について、そして手塚氏がインターン時代に体験した臨終の様子についてなど盛り
   だくさん。古代をどうとらえるか、そしてそれをいかに芸術なり学問に昇華していくか
   について書かれている。「古代を見るという事は、生きとし生けるものを慈しむために
   自らの思想を見直すということ。つまりは未来を考えることに他ならない」のだとか。
   そして後半はそれらを踏まえての、梅原と中沢の両氏による対談が2本。(ちなみに本書
   の題名にもある“幻視”とは、直感的に古代のビジョンが見えてくるという事であり、
   論理の手前の仮説になる前の段階のことを指すらしい。)
   梅原/中沢のお二人とも、題名のとおり自由な想像と直感による意見交換を愉しんでい
   る様子。例えば神道が古代のある時期においてアニミズムからシャーマニズムへと変化
   し、権力構造に親和性を持ったこと。それとともに本来はヒューマニズムであったはず
   の仏教が、逆にアニミズムの要素を加えていったのが日本独自の流れなのではないか?
   とか。(まさに「山川草木悉皆成仏」の世界。)また神道に「穢れ」の概念が入りこん
   だのは、もしかして中国の道教からの影響ではないのか?など。学術的にはどうだか知
   らないが、なかなか魅力的な仮説が開陳されている。何かを生み出すわけでも無く検証
   できるわけでもない「永遠の仮説」を語ることや、そして読者がそれを読む意味がどこ
   にあるのかと問われれば、凝り固まった思考を解きほぐすマッサージとでも答えたい。
『東北学/忘れられた東北』 赤坂憲雄 講談社学術文庫
  *雪景色に埋もれた、稲を作る常民たちの東北という、柳田民俗学への異議申し立てから
   始まった赤坂東北学のきっかけとなった本。本書によれば、実は東北の稲作の歴史は
   まだ浅い。米は西南日本に広がる温暖な大和の国においては古代から国家の租税対象で
   あり様々な欲望の対象でもあったが、関東以北に地ではそうではなかった。米をつくる
   ことを東北の地に人々が選択したとき、彼らは同時に日本という国と対峙することを
   選んだのだと著者はいう。東北の民はある時期に朝廷に支配された側でありながら、
   しかも自らを支配者側の視点から語る伝承しかもたない。柳田民俗学の「常民」とは、
   東北の人々のそのように屈折した意識・背景の上に作られた「幻想」であったのだと。
   文章が熱い。宮沢常一氏が『忘れられた日本人』で射程に捉えていた事柄を、そのまま
   東北の地に見出してやろうという、著者の気概がここからは感じられる。稲作以前の
   抹殺されてしまった東北と、かつてそこに住んでいた人々に思いを馳せる時、梅原縄文
   学やアイヌ学とも重なってくる視点といえるかもしれない。
『買えない味』 平松洋子 ちくま文庫
  *もとは雑誌『dancyu』に掲載されたエッセイで、その中から50篇を選び編集し直した
   もの。さらりとキレがよくてほんのりユーモアもあって、こういう感じの文章は好きだ
   な。嵐山光三郎氏のエッセイ『素人包丁記』をもっと品良くしたような印象と言えば
   いいか。とはいっても本書は『素人包丁記』のように料理そのものを題材にしている訳
   では無くて、台所用品を中心とした生活用品が主なテーマ。おもわず真似をしたくなる
   ような著者の愉しい日常が紹介されている。お金を出しても「買えない味」というのは
   実は日常の中にある美味しさの事であり、ともすれば簡単に消えてしまう淡い味わいで
   もある事を、本書は気付かせてくれる。生活を愉しむ達人は世の中にまだまだ沢山いる
   んだなあ。それにしても、ちくま文庫のエッセイはどれもレベルが高いなー。
『奇跡の大河』 J.G.バラード 新潮文庫
  *ニューウェーブSFの立役者バラードによって1987年に発表された長篇小説。スピルバ
   ーグによって映画化もされた『太陽の帝国』の後に書かれた作品だが、一見まるで初期
   の幻想的な作風に戻ったかのような、幻の大河が生まれ消滅するまでを描いている。
   学生時代に初めて読んだ時は「地味な話だなあ」と思ったが、数十年ぶりに読み返して
   みて印象が変わった。これhなかなか一筋縄ではいかない小説だねえ。じっくりと時間
   をかけて考えてみたい。
『新・アジア赤貧旅行』 下川裕治 徳間文庫
  *著者はアジアを中心とした「貧乏旅行」をテーマにしたルポやエッセイを得意とするラ
   イター。せかせかした日本の空気からドロップアウトした「ゆるい時間」が読みたくな
   ると、ついこの人の本を手に取ってしまう。ただしアジアを見るということは、必ずし
   ものんびりした良い話ばかりでなく、辛くて哀しい話も同時に味わうことでもあるんだ
   けどね。
『日本SF短篇50 Ⅱ』 日本SF作家クラブ/編 ハヤカワ文庫
  *日本のSFの歩みを50人の作家による50の作品で振り返ろうという企画の第2巻。本書
   に収録されているのは1973年~82年までの10作品。山野浩一「メシメリ街道」/矢野
   徹「折紙宇宙船の伝説」/小松左京「ゴルディアスの結び目」は何度読んでもツボだな
   あ。あと気に入ったのは夢枕獏「ねこひきのオルオラネ」や大原まり子「アルザスの天
   使猫」あたりか。(もちろんどれも及第点はとれている作品ばかりだけどね。)後半は
   雑誌でリアルタイムで読んでいただけに「懐かしい」のひと言につきる。読むほどに
   学生時代の甘酸っぱい記憶が甦ってくるようだ。本で退官するセンチメンタル・ジャー
   ニーみたいなものか(笑)。
『ゴドーを待ちながら』 サミュエル・ベケット 白水Uブックス
  *1953年にパリで初演された不条理演劇の金字塔『ゴドーを待ちながら』。本書はベケッ
   トによって書かれたそのシナリオ。意外と新しい作品だったので驚いた。(ちなみに
   「ゴドーを待つ」という行為自体にはなんら意味は無く、2時間の舞台をただひたすら
   無意味に且つ興味深く過ごすための約束事に過ぎない。)超有名な作品なので何となく
   内容は知っていたのだが、それで分かった気になっているのは宜しくない。今回白水U
   ブックスに初めて収録され、入手しやすくなったのを機にさっそく読んでみた。で、
   どうだったかというと意外と中身はコミカル。構えて読み始めたのだが、「不条理」と
   いうほど難しいわけではない。エストラゴンとヴラジーミルという二人の男が、ただ
   ひたすらゴドーという男を待ちながら過ごす2日間を描いたものだ。他にはポッツォと
   いう威張ったおやじに“クヌーク”と呼ばれるよく解らない存在のラッキーという男、
   そしてゴドーの使いだという男の子が出てくるくらい。これらの人々があれこれ掛け合
   いのようなやり取りを、ただ延々と続けるだけの話なわけだが決して読み難くはない。
   誤解を恐れずに言えばディレイニーの『ダールグレン』にも似た「とりとめの無さ」
   がある。深読みしようと思えば幾らでもできるし、愉しみ方が色々あるという点では、
   やはり“古典”というに相応しいといえるかも。
『詭弁論理学』 野崎昭弘 中公新書
  *刊行から35年以上に亘って親しまれているロングセラー。書名からもっと堅苦しい内容
   を想像していたのだが、全然違った。自分の意見をゴリ押しする「強弁」と相手を丸め
   込もうとする「詭弁」。いずれも実生活でははなはだ迷惑なものではあるが、論理学の
   演習として考えると面白い遊びのネタになる。語り口にもユーモアがあってまるで多胡
   輝氏の名作パズルシリーズ『頭の体操』みたい。著者は数学的な論理の専門家なので、
   理屈の通らぬ「強弁」を扱った前半よりは、色々な論理が愉しめる「詭弁」や「矛盾」
   を扱った後半の方がより愉しめるかな。
『タタール人の砂漠』 ブッツァーティ 岩波文庫
  *士官学校を出て初めての勤務に心躍らせる青年将校ドローゴが赴任したのは国境線上の
   荒地に面したバスティアーニ砦だった。国境守備隊の人々はタタール人の襲来をいつま
   でも待ち続ける...。設定からはカフカの諸作品やベケットの『ゴドーを待ちながら』
   のような不条理小説を想像していたのだが、読んでみたら全然違った。不条理は不条理
   でもあえていうなら「世の不条理」。サラリーマンには身につまされる。
『やっとかめ探偵団危うし』 清水義範 光文社文庫
  *名古屋弁丸出しのユーモア推理小説の第2弾。今回は名古屋市西部に広がる田園地帯の
   富田町にあるスーパー銭湯で起こった連続殺人がテーマ。(ローカルだねえ。/笑)
   本書は以前ある方からお薦め頂いたのだが、今では新刊で手に入らないとのこと。仕方
   がないので古本を購入して読んだ。ミステリとしても骨格がしっかりしていて良く出来
   ている。(名古屋人には更に年寄りが使うディープな名古屋弁を味わうというお愉しみ
   も。)これだけ面白いのに今では入手困難だなんて、もったいないなあ。
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『「伝説」はなぜ生まれたか』 小松和彦 角川学芸出版

 久しぶりに小松和彦氏の新しい著作を読んだ。2008年の『百鬼夜行絵巻の謎』(集英社新書ビジュアル版)以来およそ4年半ぶり。(正確には2011年に『いざなぎ流の研究』というのが本書と同じ版元から出ているが、7000円近くするうえ専門書なので買ってない。)しかし何せ国際日本文化センターの所長をされているお忙しい方。たとえ期間が空いてでも、こうして読めるだけで有り難いと思わなくてはいかんね。
 さて早速だが、本書の構成は序章を入れて全部で6部からなる。序章は“「物語る行為」の宇宙”と題して、神話や伝説がいかに成立し、それが社会においてどのような意味を持つかについてを考察。本書全体をくくる総論となっている。続く第1章から第5章は日本各地の伝説の具体例を挙げ、「異界」「天竺」「龍神」「琵琶の精霊」「天皇(王権)」といったキーワードについて読み解いていく各論の形をとる。(*)

   *…第1章は能登半島に伝わる猿鬼伝説を取り上げる。第2章は天竺に対する日本人の
     典型的イメージを御伽草子に探り、四国に伝わる“いざなぎ流”におけるそれと
     比較。続く第3章では戸隠や箱根に伝わる九頭龍伝説、第4章は説話に出てくる琵琶
     にまつわる伝説を。そして最後の第5章は再び猿鬼伝説に戻って異界と天皇性の
     関係について語る。

 以前にも書いたことがあるが小松和彦氏は生粋の民俗学者ではなくて、もともとはお隣の文化人類学の出身。だからフィールドワークや構造主義といった文化人類学的な手法も熟知していて、それらの知識に基づいて民俗学に取り組んでいる。だからこそ旧来の民俗学の(狭小な)視点にとらわれず、自由闊達な見方でもって妖怪や異界といった日本文化の「闇」に焦点をあてた鋭い分析が出来たのだろう。従来の民俗学に散見される“ちょっと納得いかない結論”の押し付けに対しては、個人的に「?」と思うところも無くはないが、その点、氏の著作はいずれも論理的で納得のいく考察がなされており、気分よく読めるものとなっている。(それにしても小松和彦氏といい歴史学の網野善彦氏や東北学の赤坂憲雄氏といい、自分の好きになる著者がことごとく“異端”の香りのする人だというのは、いったい何故なんだろう。/笑)
 話を戻す。本書でもそんな著者の筆は冴えわたり、猿鬼や九頭龍の伝説についての詳細な分析は、読む者を飽きさせない。なかでも自分にとって最も読みごたえがあったのは、神話や伝説に関して著者一流の考察を施した序章(総論)の部分。以下そのあたりを中心に、簡単な感想と内容をご紹介しよう。

 本書によれば日本における従来の「神話学」というのは、各地に伝わる散文形式の物語群を、便宜的に「神話」「伝説」「昔話(民話)」の3つに分けて考えてきたそうだ。しかしそれは世界的にみると、実はあまり一般的な分け方ではない。日本以外では3つではなく、「神話・伝説」(=社会的には“真実”と受け止められている話)と「民話」(=明らかに“作り話”として了解されている話)の2つに分けられることが多いらしい。(著者が実地調査を行ったミクロネシアの島においても同じ。前者は“ウルフォ”、後者は“フィヨン”という名でやはり2つにわけられていたそうだ。)
 ではこれら「神話・伝説」はどのようにして作られてきたのだろうか。それは「神話・伝説」が「(社会的)真実」を「物語る」というところに秘密がある。例えば哲学者ベンヤミンは「情報」と「物語」の違いを次のように述べているそうだ。

 「情報はそれがまだ新しい瞬間に、その報酬を受けとってしまっている。情報はただこの瞬間にのみ生き、自己を完全にこの瞬間にゆだね、時をおかずに説明されねばならない」
 「物語は消耗しつくされることがない。自己の力を集め蓄えておき、長時間ののちにもまた展開することが可能」

 言い換えれば、情報とは一過性のものであり「真実」としての価値しかもたないのに対し、物語は(その源が真実であるないに関わらず)繰り返し語られることで価値を持つということ。出来事が起きてからかなり後になっても何度も言及されることにこそ、物語が語られる“意味”があるのだ。
 また科学史家の野家啓一氏によれば、「カタル(語る)」という言葉は、語源的にいうと「経験」を「カタドル(象る)」という意味が込められているのだそう。(ちなみにこの場合の「経験」とはベンヤミンがいうところの「情報」ではなく、何度も繰り返し再生されるもののこと。つまり真実に基づくかどうかは別にして、先ほどの「物語」のイメージに近い。)
 たとえば誰かが自分の経験したことを別の人に伝えたとしよう。もしくはどこかで伝え聞いた話を「事実」として語ってもいい。その場合の「こんなことがあった」という言葉は、単独ではあくまでもひとつの「情報」でしかなく、決して「物語」ではない。なぜならそのままでは、他の出来事との“つながり”がないからだ。それが「物語」になるためには、その社会における他の出来事との連鎖(因果)によって、その“ある出来事”の行方や結果が示される事が前提となる。そして単独の「情報」を因果によって「物語」に解釈し直すことが出来る人こそが、すなわち「語り手」と呼ばれる存在になるわけだ。
 更にこれらの「物語」が普遍性を持ち、長きに亘ってある社会に伝承されてきたとき、「物語」は「神話」へと変わる(**)。これが本書における小松流神話解釈の骨子である。いままで色んな神話学を読んできたけど、結構斬新な考え方で面白いと思った。

  **…なお社会における集合的記憶の媒体としては、「神話」の他に「儀礼」というもの
     もあり、互いが補完しあって社会を成り立たせているとのこと。これは文化人類学
     の世界ではお馴染みの考え方だよね。

 著者によれば「(神話あるいは歴史を)物語る行為」とは、「絶えざる過去の出来事の記憶の発掘と現在の状況に照らし合わせてのその再解釈、過去の再構築」であるのだという。つまりは歴史と神話の違いとは、「種類」ではなく「程度」に過ぎないといこと。なんてすごい(笑)。
 残念ながら今ではあまり顧みられることの無い神話研究。けれども実は神話の研究を行うことで、現代社会を論じる上で強力な武器となる「相対的な視点」を身に着けることが出来るのではないか?という指摘も、とても刺激的。猿鬼や天竺、九頭龍といった各論ともども、久々の小松節を堪能できた一冊だった。(^^)

『霊魂の城』 アビラの聖女テレサ 聖母文庫

 16世紀に生きたキリスト教の神秘家が書いた、神への信仰と祈りについての本。寡聞にして全く知らなかったのだが、“そちら”の世界ではかなり有名な人物のようだ。普通の書店で見つけることが出来なかったので、最終的には東京へ出張した時にたまたま見かけたキリスト教用品の販売店で購入。
 なぜこれまで聞いたこともない本を、そこまでして探して読もうと思ったのかというと、自分が好きなR.A.ラファティという作家の最新長編『第四の館』において、作品の重要な元ネタ(のひとつ)になっているという話を聞いたから。不謹慎にも“予習”のつもりで読み始めたというわけだ。
 だがいざ読み始めてみたところ、これはこれで中世ヨーロッパのキリスト教神秘思想の実践の書として面白い。購入までの苦労と合わせて、おかげでなかなか得難い経験ができてよかった。(もちろん引き続いて『第四の館』も読了。作品の土台に本書がどのように使われているかを味わいながら、こちらも愉しく読み終えることが出来た。)
 ではさっそく聖女テレサの神秘思想について簡単に紹介をしてみよう。

 キリスト教の世界観では人間には魂(本書では霊魂)があるとされ、肉体が滅んでも魂は不滅と考えられている。生前に心正しき人生をおくった者たちは、死んだのちに最後の審判を経て天国で永遠の安らぎを得る。しかし罪を犯したものたちは煉獄で悔い改める日々をおくるか、もしくは地獄で永遠の責め苦に苛まれることになる。
 本書は様々な罪や怠惰の誘惑にくじけそうな“弱い”人間が、いかにして清らかな心を保ち正しいキリスト者として生きていくべきかを、修道僧たちを対象に説いたもの。神によって導かれるべき霊魂を、たくさんの部屋(住まい)をもった「城」に喩え、信仰に無自覚で獣のような生活を送る段階から城(館)の中に入り、苦しみ悩みながらも城の中心にある第七の住まい(=神の御許)まで信仰を深めていくことの大切さが説かれている。
 キリスト教独特の価値観や考え方が興味深い。例を挙げると、一般の人が苦しむのは悪魔の誘惑に騙されて悪しきことをしたから。しかし敬虔な信徒が故なき苦しみを味わうのは、(仏教のように因果応報ではなく)神による「気まぐれな試し」によるものなのだそう。まさに『ヨブ記』の世界そのものだ。
 また先に書いたように、ベースにある霊魂と身体を完全に分ける考え方についてもしっかり述べられている。心身二元論はデカルトにより提唱されたものと思っていたが、その基本形はすでにキリスト教の信仰のなかにほぼ完成形に近い状態で組み込まれていたわけだ。(現実世界の苦しみに背を向け、霊魂による来世の救済を重んじる思想のこと。後にニーチェによって“ルサンチマンの思想”と非難されたものがここにある。)
 テレサは「神の御意志との一致」こそがすべての救いの源と説くが、不完全な人間からすれば「神の御意志」は計り知れないものであって、だとすれば人間が考えた「御意志」は所詮は“仮想の目標”にすぎないだろう。
 だとすれば、それを絶対的な価値と決めてしまったところに、「御意志」以外の価値の否定が始まる原因があったのではなかろうか。自らを「神の下僕」と断じることで、(神の前にはすべての民は平等かもしれないが、)自然界における階層は認めてしまう事になる。すなわち逆に絶対的なヒエラルキーの存在を認めることになるわけだ。平等が差別の元になるという、まさに観念の堂々巡りといえそう。

 閑話休題。本書で挙げられている心の七つの住い(館)についての説明に戻ろう。それぞれの特徴をまとめると、おおよそ次のとおりだ。
【城の外】
 信仰心のかけらもない獣のような世界。
【第一の住い】
 祈りと黙祷で霊魂の城(自己の信仰)の中に入ったばかり。まだ充分な信仰に目覚めていなくて目も耳も塞がった状態なので、却って「毒虫(≒信仰の妨げ)」に悩まされることがない。
【第二の住い】
 少しレベルがあがり、それがゆえ悪魔の攻撃(誘惑)に心さらされて苦しむ段階。まだ容易に無信仰に引き戻されてしまう。ただひたすら自らの知性や感覚に従って神への信仰を意識すべき段階。
【第三の住い】
 本人が後戻りさえしなければ、救いの確かな道に入り始める段階。しかしまだ容易に不安に苛まれるため、安らぎは無い。その悩みすら神が自分にあたえた試練と思って、ただひたすら信仰に邁進すべき時期とされる。
【第四の住い】
 いよいよ救いの道も本格的に。ここで注意すべきは、ここまで来たら「第二の住い」の時のように思考や知性には頼らないこと。ただひたすら謙遜し、「救いを求める事」すら意識しないように潜心の祈りに没頭すべきとされる。特に女性信者への注意として、祈りに没頭することで忘我の状態(宗教的エクスタシー?)になるのを戒める話も。これは「喜びへの浸し(アロバミエント)」ではなく「愚かなこと(バミエント)」と呼ばれる。
【第五の住い】
 霊魂は肉体のすべての作用から引き離され、ただ(神を)愛する状態になっている。(注:聖職者のレベルだろうかか?)この段階までくると知性は全く働いていない。また、神による啓示やそれによる転向の様子も語られている。蚕が繭を作って死ぬことで絹を(人間のために)作るという奇蹟が語られ、人もそれにならって信仰の中に自らの霊魂を完全に捨てさるることで、白い蝶(カイコガ)に生まれ変われるのだと説く。そしてそのためにはひたすら従順であれと。(しかし神による霊魂の救済がなされなかった人々は、死んで絹を奪われる蚕のように他の人への恩恵として使われるそうだ。なんてひどい。/苦笑)
 この「第五の住い」は花婿(イエス)との霊的結婚のための出会いの段階であり、自らを差出すことで主を喜ばせたいという思いしか持たぬ状態だそう。(いわゆる「神の喜びの機械」というやつか。)
【第六の住い】
 神の花婿しか迎えまいと固く決心した女性に降りかかる多くの危難。あまりにも信仰に熱心過ぎるが故の周囲の無理解(注:しかしこれって狂信的ということでは?)、そして自分に対する自信の欠如(注:神の前に自分を捨て去ることを善しとしているための必然か)、頻繁におこる大病(注:極端な信仰生活で体を壊したのでは?)、聴罪司祭による告解者の断罪...etc.これらの妨げによって、信仰を持つ者たちは神経症に陥り精神的な危機(メランコリー)に見舞われるが、突然の啓示という神秘体験と強烈な多幸感で救われる。このくだりは信仰告白の記録として貴重な物かも。(でも今なら新興宗教にどっぷりはまっている人の、心の内面を見せられているような感じに近いかも。/苦笑)
 ここにある「聴罪司祭を主の代理としてみなすように」という教えは、教団による体制化の仕組みとして面白い。しかし「神に対して理性を働かせてはならない」というのはすごいよなあ。
【第七の住い】
 「霊魂の城」の中心に位置するこの場所は主イエス自身の住いであって、信者が完全な「霊的結婚」をする前に導かれるところ。そこでは三位一体・三つのペルソナが霊魂の前に示され、神の愛の交わりを実感する(はずだ、という事になっている。…というのは、著者自身がまだその境地に至っていないから。)ここに至った霊魂にもまだ苦しみは存在するが、それが主の望むことと確信しているので信仰そのものに対する不安はない。嵐の中の平安のような精神状態がずっと続くとのこと。迫害されればされるほど喜びが深くなるとあるから、殉教者の境地であろうか。

 以上が信仰の階梯を描いた、霊魂の城における七つの住い(館)の全貌。こうまでして至高の存在への絶対的な帰依や信仰を求める熱情は、いったいどこからくるのだろうか。不信心な自分にとってはどうも理解できない不思議な感じだ。絶対に実現する事の無い観念を追い求めるがゆえに、精神の「結晶化作用」によってさらに熱情は燃え上がるということなのだろうか。だとすれば恋愛と同じことかもしれないね。(文中ではイエスとの「霊的結婚」の比喩もよく使われているし。)ともかくも本書を読んで、キリスト教においては「我らをお導きください」と他力本願で祈るのが良くないということは分かった。「すべてを御手のままに。従います」という主体的な全面降伏こそが良しとされる。なるほど、だからこそキリスト教徒は自分たちを「聖隷」と呼ぶわけなんだな。
 実をいうと本書は後半から最後の第七の住いに近くなるにつれ、まるでダンテ『神曲』の<天国篇>を読んだ時のような「つまらなさ」が徐々に増えていった。自己完結して満足しきった信仰者の告白は、キリスト教に限らずどれもこのようなものなのかも知れない。全体を通しての印象はある種の「自己啓発書」を読んだという感じ。いうなれば読むものを鼓舞し勇気づけ導くフィクションなわけだが、書き手自身がそれを信じきっている点が、ビジネス書とは違う点かもしれない。だってビジネス書の著者は自分で書いている事なんてこれっぽっちも信じていないだろうから。(ちょっと辛辣だったかな?/笑)

<追記>
 せっかくだから、本書を読むきっかけになった『第四の館』についても少し書いておこう。(以下ネタバレになるので未読の方は要注意。)
 題名にある『第四の館』とは本書にある「第四の住い」に等しいわけだが、訳者あとがきによれば「第四」とは人間が神に初めて出会う段階であるとのこと。本書を読む限りでも、確かにそれまでの段階(住まい)のように知識や理屈による頭でっかちな信仰ではなく、心からの純粋な信心に目覚めるのがここからのようだ。ラストで主人公のぼんくら新聞記者フレディ・フォーリーが「皇帝」に選ばれるエピソードが、”ユダヤの王たるイエス”を暗示しているのだとすれば、世界に隠れて生きる4種の不思議な”怪物たち”がそれぞれ「大蛇/ヒキガエル/アナグマ/鷹」と呼ばれるのは、「霊魂の城」の場内に足を踏み入れることすら叶わぬ獣たちであるから。(このあたりの世界観は『霊魂の城』に見事に符合している。)
 覚醒したフレディというこの世の神にまみえた我々人類は、ラストで「第四の住い(館)」へと進むことができた。(このあたりは進化SFとして読めなくもない。)しかしその先に待つのが第五の住まいへの更なるステップアップなのか、はたまた元の木阿弥となり城外へと逆戻りしてしまうのか、分からぬまま物語はその幕を閉じる。このあたりの”意地悪さ”がラファティのラファティたる所以、すなわち一筋縄でいかないところと言えるのかもしれない。(それがまた魅力でもあるのだけれどね。/笑)

山をつくる

 職場や家庭など自分の周囲には、今も昔も本の趣味を同じくする人がいない。そこで以前は黙々と、ひとりで本を読んでいた。新聞や新刊告知サイトで情報を得て本を買い、読み終えたら軽くメモをして次の本に移る。一年を通してその繰り返し。(言うなれば孤独な活字マニアといったところだね。/苦笑)
 しかしここ数年はインターネットネットを通じて大勢の本好きの方と知り合いになり、色んな情報交換が出来るようになった。読んだ本の感想やお薦め本、面白い本などの情報をやりとりして、読書の愉しみ方が何倍にも深まった感じがする。
 そんな中でよく話題として出てくるのは、「本の入手に関する悩み」というやつ。村上春樹のようなベストセラー本ならともかくとして、好みにうるさい”本好きたち”の読みたい本は発行部数が数千部と極端に少ないことも多い。手に入れるのも結構大変なのだ。たとえば地元の本屋には配本が無く、街の大きな書店にいかないと手に入らないなんて事はざらにある。もちろん大きな書店にだって必ずしもあるとは限らない。欲しい本を探して発売日に幾つもの書店を駆け回り、その挙句に入荷が次の日と聞いて落胆したりは、しょっちゅうのこと。かといってインターネットで予約注文しても安心はできない。発送日が未定のままで変わらず、結局リアル書店で探す羽目になったり...。お話を伺っていると、皆さん結構苦労されているご様子。(もちろん自分も似たようなものだが。)
 新刊書でさえこうなのだから、ましてや新刊ではない昔の本は言わずもがな。公共図書館を利用される方や古本屋を回る方など各自で色々工夫されているが、一度買い逃した本に再び出会えたらそれだけで基本的には僥倖(ぎょうこう)といっていいのかも知れない。
 「趣味は読書」というと、ぶらりと行った本屋で目に留まった本を買ってただ読むだけ――という楽な趣味と思われがちだが、こうみえて結構大変なのだ。ま、手に入れるまでの過程も、読書の愉しみのひとつではあるのだけれどね。

 次に多い話題と言えば、おそらく「本の置き場についての悩み」ではなかろうか。本を買うばかりで処分しなければ、当然のことながらどんどん溜まる。しかし読み終わって「たぶん二度と読まない」と思う本であっても、愛着が湧けば処分するのが忍びない。ついつい手元に置いておきたくなるのが人情というもの。雑誌などの資料類に至っては、なぜか処分するとその少し後に必要になるという変な法則があったりして(笑)、なかなか処分に踏み切れないのが実情だ。
 それでも百歩譲って読んでしまった本については、(心を鬼に出来さえすれば)古本屋に売ってしまうことができる。それよりもっと問題なのは、買ったはいいがまだ読んでいない本 (所謂「積ん読本」というやつ)がどんどん溜まってしまうことだ。(*)

   *…先ほども書いたように、本というヤツは一度買い逃したものを後から手に入れるの
     は至難の業。(ある程度年季のはいった本好きの人は、誰しも経験したことがある
     と思う。)そんな経験を積み重ねていくうちに、読みたい本を見つけたら「直ぐに
     は読めなくても取りあえず買っておく」という習性が、知らず知らずのうちに身に
     付いてしまうわけだ。

 こうして、買ったは良いがすぐには読めないという後ろめたさと、いつ読みたくなるか分からないからすぐ手の届くところに置いておきたいという気持ちがない交ぜになったまま、徐々に家の中の本が増えていく事となる。自分の経験からすると、おおよそ次の過程を経て本が増えていくのではないかと思う。

【本棚時代】
 1)本棚が上から下まですべて埋まる。
 2)1段分の本棚に、前後2列にして本を詰める。
 3)2列では足りず、1段分の棚に3列にして詰める。
 4)本の天(上部)の隙間にも横向きにして本を載せる。

 ここまで来ると【本棚時代】は終了し、次なるステージである【床・押し入れ時代】へと突入する。

【床・押し入れ時代】
 5)本が本棚には入りきらなくなり、押し入れや床を侵食しはじめる。
 6)最初はおずおずだった本の山が徐々に高くなっていく。
 7)積みあがった本が塔のようになり不安定になると、山の複数化が始まる。
 8)多くの山が山脈のように連なり、それが日常の風景になる。
   (自分はこれを秘かに「造山活動」と呼んでいる。)

 時折、プレートがずれて地崩れが起こるのも実際と同じなら、それによって下の地層が露出して今となっては入手困難で貴重な“化石(本)”が発見されるというのも同じ。(私の知っている本好きの方はこれを称して「発掘」と呼んでいる。)ここまでくると、買ったかどうか覚えてないのは当たり前で、ひどい場合は買った覚えのない同じ本が2冊3冊でてきたりすることすらある。
 でも逆に良い事だって無いわけではない。例えばツイッターのおしゃべりで昔の本が話題に上がり、仮に読みたくなったとしても大丈夫。そんな時でも慌てて本屋に走る必要は全然なくて、とりあえず自分の家で本の山を探すのだ。すると(なぜか)出てくることがあるから。…うーん、でもやっぱり家の中に活断層があるのは、何だか厭だなあ。(笑)
 
<追記>
 本文中では触れなかったが、実を言うと自分の場合「積ん読本」が増えていくにはもうひとつ別の理由がある。仕事が忙しくて本が読めない状態がしばらく続くと、ストレスが溜まりイライラしてくる。そんな状態がしばらく続くと、それを解消するためについ買ってしまうのだ。つまり「ストレス解消の1冊」というわけ。
 かといって順調に本が読めるときは買わないかといえば、やはりそうでもない。1冊読み終わると嬉しくなって、次に読む本をつい本屋で物色。どちらにしても増えてしまうのだ。かくして自分も日々「造山活動」に勤しんでいるというわけであります。(^^;)

2013年5月の読了本

 今月は個人的に「物語強調月間」というイベントをやっていたので(笑)、いつもより小説の比率が高め。6月はノンフィクションを中心に読み進めようかな。

『ドン・キホーテ後篇(三)』 セルバンテス 岩波文庫
  *岩波文庫版全6巻の最終巻。長かった物語もこれで終わり。数か月に亘ってちびちびと
   読んできたが後篇の面白さはまた格別だった。なんでも臆せず読んでみるものだねえ。
『死に至る病』 キュルケゴール 岩波文庫
  *19世紀に書かれたキリスト教的哲学の書。近代的知性による精緻な分析と神への絶対的
   な信仰のギャップがなんだか変な感じ(失礼!)で、読んでいて愉しい。(「愉しい」
   なんていうと不謹慎かな?一応褒めているつもりです。/笑)
『近代妖異篇』 岡本綺堂 中公文庫
  *「岡本綺堂読物集」の第3巻となる短篇集で、怪異譚を集めた『青蛙堂鬼談』の補遺
   という位置づけ。綺堂の怪談は基本的に因果物ではなく、原因も何も分からぬ状態で
   ぽんと放り出される感じが好きだ。どれも概ねいい味を出しているが、特に気に入った
   のは「こま犬」「停車場の少女」「鐘が淵」、それに「寺町の竹藪」と「龍を見た話」
   といったところか。
『「伝説」はなぜ生まれたか』 小松和彦 角川書店
  *人類学的な手法を民俗学に展開する著者の久しぶりの著作。氏の本は好物なので新刊が
   出るとすぐ買って読んでいるのだが、本書も相変わらずキレがいい。始めに神話あるい
   は伝説を「語る」という行為についての考察があり、ついで具体的な研究事例として
   能登の「猿鬼伝説」、高知の「いざなぎ流の祭文」、戸隠の「九頭竜伝説」に関する
   文章が続く。
『狂人の部屋』 ポール・アルテ ハヤカワ・ミステリ
  *フランスの本格ミステリ作家アルテによる代表作の一冊。不可思議な状況の提示とその
   合理的な解決が本格ミステリの魅力といえるが、本書でもディクスン・カーばりの怪奇で
   不可思議な事件が描かれる。アルテは殊能将之氏が一押ししていた作家で、まだ未読作品
   が多いのでこれからも愉しめるな。
『ミッドナイト・ブルー』 ジョン・コリア 扶桑社ミステリー
  *井上雅彦氏による新しいアンソロジー「予期せぬ結末」シリーズの第1巻。今どきコリア
   の新刊が読めるとは思わなかった。これまで読んだことが無い単行本未収録の作品なども
   多く、良心的な編集といえるだろう。このシリーズはこれからも期待できそうだな。
『人間和声』 ブラックウッド 光文社古典新訳文庫
  *ジョン・サイレンスのシリーズなどで有名な、イギリスを代表する怪奇小説作家の一人、
   アルジャーノン・ブラックウッドによる本邦初紹介の長篇。本書は“怪奇”というより
   は、カバラ思想を核としたSFばりのアイデアが炸裂する奇想・幻想小説と言った方が
   いいかも。『ゲド戦記』でもおなじみの「真の名前」が登場するといえば、読んだ人に
   はどんな感じか何となく想像がつくかな。
『闇の奥』 コンラッド 光文社古典新訳文庫
  *のちの文學や映画に多大な影響をあたえた問題作。(有名なところではF・コッポラの
   映画『地獄の黙示録』などもそう。)古典新訳のシリーズは読みやすくて好いね。
『第四の館』 R・A・ラファティ 国書刊行会
  *まさかのラファアティ連続刊行に財布のヒモもつい緩みがち(笑)。本書は彼の4番目
   の長篇で初期の代表作と言われているものだ。昨年に刊行予定の発表があってからここ
   まで長かったが、本書の訳者である柳下毅一郎氏によって“サブテキスト”とされた
   『霊魂の城』(アビサの聖女テレサ著/聖母文庫)まで読んで備えた甲斐があった。
   本書は“笑い”の成分がかなり抑えられている分、いつものラファティ作品とは若干
   毛色が違っており、その代わり彼のもうひとつの特徴である“カッコよさ”が際立って
   いる。すべてを語りきってしまわず、読者に対してある種の「不親切さ」を持つことで
   現れるカッコよさとでも言えば良いか。今までに読んだことがないラファティだった。
   ところで唯一無二の作家と言われるラファティだが、実は自分の中では彼と共通する
   カッコよさを持つ作家がもう一人いる。それは『虎よ、虎よ!』や『ゴーレム100』等
   を書いたアルフレッド・ベスターという人物。こちらもラファティと同じで全てを語ら
   ないのだが、彼の場合は文体がスタイリッシュなせいもあってとにかくカッコいい。
   (読者に全てが提示されないのは、よくある「神の視点」を排する事で、ある特定方向
   /視点からの描写しか行わないからではなかろうか。そして勝手な推測だが、ベスター
   の場合それはテレビ番組の制作に携わったことで培われた、カメラワーク技術からきて
   いるのかも知れない…なんて考えてみたりも。)ラファティの場合は何なのだろう。
   三人称で語られてはいるのだが、いわゆる「神の視点」というものではない。かといっ
   て登場人物の視点でもない。例えるなら「隠された第三者」の視点で語られているよう
   に思える。本書を読んで、もっと別のラファティ作品も読んでみたくなったよ。
『カムイ・ユーカラ』 山本多助 平凡社ライブラリー
  *アイヌに伝わる説話を集めたもの。動物の神々が語る様々な物語や、英雄神を主人公と
   する「カムイ・ラッ・クル伝」などを収録。アメリカの先住民の神話のようでもあり、
   アフリカの神話のようでもあり...。
『怪しき我が家』東雅夫/編 MF文庫
  *総勢11名による、「家」をテーマにした怪談競作集。いわゆる“実話系”の怪談が中心
   のアンソロジーだが、内容は千差万別でバラエティに富んでいる。個人的な好みでいえ
   ば皆川博子「釘屋敷/水屋敷」、南條竹則「浅草の家」、東雅夫「凶宅奇聞」などが特
   に好き。しかし他の作品もなかなか愉しめた。宇佐美まこと「犬嫌い」や金子みずは
   「葦の原」などは『厭な話』のアンソロジーに入れてもおかしくないほど後味が悪い。
   (怪談なのでこれは褒め言葉)ちなみに読んだのは昨年の夏に行った「ふるさと怪談」
   のイベント会場で買った本。東雅夫氏と朱雀門出(すざくもん いずる)氏のサイン入り
   なのでポイントが高いぞ(笑)。
『終わり続ける世界のなかで』 粕谷知世 新潮社
  *著者は「太陽と死者の記録」(後に『クロニカ 太陽と死者の記録』と改題して刊行)
   で、第13回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した人物。ただし本書はファンタジーで
   はなくジャンル的にはいわゆる「文学」になる作品。主人公は1969年生まれの女性で、
   彼女の小学校時代から2000年までの人生を描いた物語だ。『ノストラダムスの大予言』
   によって質の悪い終末思想を刷り込まれた子供時代から、高校・大学を経て社会人とし
   て暮らす毎日。そしてその間に彼女に訪れる出会いや別れ。生きる意味に悩むひとりの
   女性の苦しみと心の救いを綴ったものとでも言えばいいかな。―― うーん、誤解されず
   に中身を上手く説明することが出来ない。例えば筋肉少女帯の音楽が好きな大人だった
   ら、きっと好きになるかも。好い話だった。我々もまた本書のヒロイン岡村伊吹のよう
   に、永遠に終わり続ける世界のなかで生き続けていくしかないのだよなあ。
『ブランビラ王女』 E.T.A.ホフマン ちくま文庫
  *ドイツを代表する幻想文学の大家ホフマンが、死の1年前に出版した最晩年の作品。
   舞台はイタリア。三流役者ジーリオ・ファーヴァとお針娘のジチアンタによる恋の駆け
   引きが繰り広げられる。ただしそこはホフマン、ただの恋愛話ではない。二人の話には
   さらに魔法をかけられた王女ブランビラとコルネリオ・キアッペリ王子の物語や、さら
   にはオフィオッホ王とリリス女王の寓話に大魔術師ヘルモートの暗躍など、様々なエピ
   ソードが絡んで読者を翻弄する。途中は正直いって「なんだこれ?」とも思ったところ
   もあるが、錯綜した物語はラスト50ページに至って突如その姿を変え、一挙にその全貌
   があきらかになる。というわけで自分は本来おバカが主人公の物語は好まないのだが、
   この本はおバカが主人公である必然があったので問題なし(笑)。周到に張り巡らされ
   た伏線に気が付けば、もういちど読み返したくなるというものだ。よく仕掛けられた
   傑作だと思う。種村季弘氏の翻訳もgood。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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