読書と 「うとうと」

 最近、公私ともども忙しい日々が続いており、ベッドに入ってゆっくり本を読もうとするといつの間にか寝落ちしている事が多い。愉しみなのは週末。翌朝に慌てて起きる必要もないので、一度寝落ちしても、目が覚めてからまた読み始めたり(笑)。というわけで、今回はくたびれた時の読書について。

 冒頭でも少しふれたが、くたびれた時にする「うとうと読書」。これが最高に気持ちいい。寝るかもしれず寝ないかもしれず、途中で知らぬ間に寝てしまって翌朝気が付くのもまた乙なもの。(笑)
 「うとうと読書」には、果たしてどんな本が似合うだろう。気楽に手に取れるという意味で、短篇集はどうだろうか。内容がさほど重くなく、派手さは無いがしっとり良い気分になれる小篇とか。ダンセイニの『ペガーナの神々』に遊ぶもよし、タルホの『一千一秒物語』に浸るもよし。ちょうど先日読んだちくま文庫『短篇小説日和』(西崎憲/編)なんかも良いかもしれない。あまりハラハラドキドキが多い物語は却って目が覚めてしまうので、個人的にはあまり宜しくない気がする。(そういうのはもっとしっかり目が明いている時に読みたいもの。)
“奇妙な味”の作家は概して向いているかな。シオドア・スタージョンにロアルド・ダール、サキといったところはどれも良さそう。先日読んだジョン・コリア『ミッドナイト・ブルー』なんてかなりぴったりくる。
 意外と長篇小説も好いようだ。『ドン・キホーテ』なんか、気楽で好い感じがするなあ。物語の設定がいちど頭に入りさえすれば、どこでやめても大差ない分、短篇よりもっと気軽に読める場合だってある。ひとつの“大きな物語”でなく細かなエピソードの積み重ねであれば、「うとうと」のせいで多少記憶が曖昧になっても大丈夫だろうし。(笑)
 まだ読んだことは無いのだが、『水滸伝』なんかはどうだろう? 登場人物が多過ぎて、疲れた頭だと混乱してくるかな。(『戦争と平和』なんて、もっと酷いことになりそうな予感がする。)

 そうそう、大事なことを書くのを忘れていた。「うとうと読書」を愉しむには、BGMにも気を使った方がいい。自分の場合は、YOU TUBEで【作業用BGM】の中からJAZZや自然の音などをかけたり、もしくはネットラジオ”OTTAVA(オッターヴァ)”でクラシック音楽をかけたりしている。静かすぎる環境だとすぐに寝落ちしてしまうし、かといって歌詞付きの曲やあまり騒々しい曲では気が散ってしまい、本に集中できないのだ。
 同様にアルコール類も要注意。酒に弱い体質なので、晩酌で一杯ひっかけてからだとほぼ間違いなくアウト。1ページも進まないうちに寝落ちしてしまうのがオチだ。ストレス解消にお酒を愉しむこともあるが、「うとうと」を愉しむためにはぐっと我慢するしかない。(*)

   *…お酒と本を両方愉しみたい時は、本を片手に居酒屋などにひとりで行ってちびちび
     やりながら読む、というスタイルが自分にはいちばん合っているような気がする。

 朝起きてから夜寝るまで、息をするように水を飲むように本が読めたら、どんなにか幸せだろうと考える。そんな仙人もしくは老賢者のような生活ができたら死んだっていいかも。いや、死んだら本が読めなくなるからやっぱり厭だな。(笑)
 いつまでも健康で長生きして読書を愉しみたい。できればこれ以上老眼が進まず、昔買った本の小さな活字が読める状態でね。
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『死に至る病』 キュルケゴール 岩波文庫

 本書、キュルケゴール(キルケゴール)の『死に至る病』やゲーテの『若きウェルテルの悩み』、あるいは有島武郎『生まれ出ずる悩み』といった書名を聞くと、若き“青春”の頃が思い出されて、「何を今さら中年オヤジが」という気がしないでもない(笑)。しかし実をいうと“青春”のころは逆に「何を青臭いものを」とか思って敬遠してしまい、これまで読んだことが無かったのだ。だいぶん前に知り合いの方から、読んでみたら感想を聞かせて欲しいと言われていたのだが、生来のなまけぐせで随分と日が経ってしまい申し訳ない。キリスト教信仰そのものには興味はあるが、信仰告白の場合はちょっと説教臭いイメージがあって...。(単なる食わず嫌いですな。/苦笑) まあ、あっちこっち遊び歩く気ままなお気楽読書なので、気が向くまでなかなか手がでない性分と思ってご勘弁いただきたい。
 本書を読んでみてまず驚いたのは、書かれたのが19世紀半ば(1849年)だという事。こんなに新しい本だとは知らなかった。“キリスト教信仰と人生についての本”という程度にしか予備知識が無かったので、てっきり昔に書かれたアナクロな本だとばかり思い込んでいた。1849年と言えば日本では幕末の開国から明治維新のころにあたり、欧州に目を転じればマルクスが『共産党宣言』を書いて万国の労働者に団結を呼びかけ、一方アジアではイギリスとの阿片戦争に敗れた清が傾きかけていた。そんな激動の時代。そんな頃にわざわざ「教化と覚醒とを目的とする一つのキリスト教的=心理的論述」を書いたキュルケゴールは、時代遅れのアナクロニズムどころかまさに確信犯だったのだ。
 そういえば日本でも明治期には有名なクリスチャン思想家が輩出した。たとえば“Jesus”(ジーザス/キリスト教信仰)と“Japan”(日本/日本人としてのアイデンティティ)という「2つのJ」のはざまで思い悩んだ内村鑑三や、その内村に「モンク(修道士)」とあだ名を付けられた新渡戸稲造などなど。時代が大きく変化する時には、不安な心の拠り所を宗教に求める人が多く現れるのだろうかね。
 さて前置きはこれくらいにして、本書の中身について。全体は前後2つのパートに分かれた構成になっている。まず前半部にあたる第一編では「死に至る病とは絶望のことである」と題して、人が陥るさまざまな絶望のケースをキリスト教的な観点から分析。次に第二編では「絶望は罪である」と称し、同じくキリスト教的な観点から絶望の克服についての考察を繰り広げている。先ほども書いたように本書執筆の目的は「教化と覚醒」なわけだから、著者の主眼はどちらかと言えば分析そのものよりも、「いかに信仰を通じて絶望を克服するか?」の考察にあるようだ。
 全編を通して特徴的なのは、何と言っても自己認識についての精緻な分析と、それとは対照的なあまりに盲目的ともいえる彼の信仰とのギャップだろう。近代的な知識に裏打ちされた分析の前提になっているのは、キリスト教への全幅の信頼と教義の全面的な受け入れ。本人の中では何の違和感もなく溶け合っているであろうこれら二つの価値観は、自分からすれば水と油のようにも思えて正直戸惑ってしまう。しかしそれが却って本書の面白さだったりもするから、一筋縄ではいかないわけだが。(笑)

 なお、最初のうち少し理解に手間取ったのは、本書における「絶望」という言葉の持つ意味が普通と違っていた点。キーワードのひとつであるにも関わらずその点についてきちんとした註釈もないので、本書をこれから読まれる方は気を付けた方が良いかもしれない。
 本書における「絶望」とはいったい何かというと、「未来に希望が持てないこと」ではなく「自己(アイデンティティ)の統合における分裂状態のこと」であるらしい。別の言い方では「永遠なるものを喪失すること」とも書かれている。(*)
 著者のアイデンティティはあくまでもキリスト教信仰に基づき形成されたものであるため、拠りどころとなる信仰を失って自己の分裂に直面することがすなわち「絶望状態」ということになるのだろう。

   *…キュルケゴールによれば、「絶望」とは肉体的な病と違って、現実の各瞬間に
     “経験し続ける”ものなのだそうだ。自分などは“ずっと続く絶望”などと聞くと
     ついニーチェの永劫回帰を連想してしまうのだが、あちらは人生のあらゆる一瞬を
     肯定し続けるという建設的なものだったはず。どこかで両者を比較した文章があれ
     ば、ぜひ読んでみたい気もする。(言うばかりで自分では何らこれ以上分析もせず
     に、あくまでも他力本願に徹するのがお気楽読者のお気楽読者たる所以。/笑)

 ちなみに本書の説明によれば、「絶望」とは外部から襲い掛かってくるものではなく、あくまでも自分の心の中から発生するものだそう。「絶望」と「眩暈」の類似についても説明されているが、「眩暈」は実際に外界が揺れているわけではなく主観の問題なので、同じく主観的である「絶望」とは確かに似ているかも知れない。(ただしその主観の原因がどこからやってきたのかといえば、結局は外界によるものではあるのだが。このあたりはヨーロッパ哲学の伝統である心身二元論の考えを受け継いでいるところかも。)

 先ほども述べたように、キリスト教の教えからすれば肉体と魂を分けて考えるので、肉体的な死は本当の死(=魂の死)ではない。外部から肉体に与えられる死の恐怖は、敬虔なクリスチャンである著者にとって本当の「絶望」ではないということになる。キュルケゴールが恐れているのも、肉体的な分裂や喪失(つまり「絶望」)ではなくて、信仰に関わる喪失(絶望)であるというわけ。心を病んで身体が衰弱しながらもすぐに死に至ることはなく、絶望の過程を延々と体験し続けるという無限地獄。これはこれで辛いものかも知れない。無限に続く絶望状態を引きずるくらいなら自ら死を選ぶような気もするのだが、キリスト教ではそれもまた罪であるとされる。本書では書いてないが、それはもしかしたら(自分をこの世に生み出した)神の意志よりも自分(人間)の意思の方を優先することになり、すなわち神の否定につながるという事だからだろうか?
 以上のようにキュルケゴールの言いたい事は解らないでもない。しかし例えばナチスの絶滅収容所や満州の七三一部隊を考えた場合はどうだろう。“物”として扱われ、最期には粉砕されつくしたひとつの命が直面したであろう絶望。圧倒的な力で外部から襲い掛かる虚無に対しては、果たして抗う術はあるのだろうか。信仰による救済は本当に有り得たのだろうか。平和ボケしている自分には想像もつかない。
 キュルケゴールがその生涯の殆どを過ごしたコペンハーゲンの地で、僅か42歳で早逝したのは1855年のこと。ヨーロッパが体験する初めての絶滅戦争であった第一次世界大戦(1914年)まではまだ半世紀以上、第二次大戦に至っては100年近くの間がある。彼がもしその時代のような事態に直面したら一体どのように考えただろうか。気になるところではある。

 話を戻そう。「絶望」とは信仰の欠如により引き起こされる“ある種”の状態ということができる。そして著者によれば、「絶望」の状態には2種類が存在するらしい。まずひとつ目は、神による祝福に気づかず、無為に人生を送っている人間の状態。(更に細かくいえば自らが「絶望状態」にあることを自覚すらしていない最悪の状態と、自覚だけはしている多少ましな状態があるらしい。)
 もうひとつの「絶望」とは、有限なるもの(=自己)が無限なるもの(=神)を希求した場合に引き起こされる状態のこと。著者によれば“想像力/ファンタジー”とは、自らを無限に内省するための源泉であるそうだ。想像力が働くことによって、人間の持つ感情/認識/意志という三つの精神活動が世俗を離れ信仰にふさわしい「空想的」な状態になるわけだが、その程度が強すぎる自己そのもの「空想的」になってしまう。その結果として待ち受けるのは、自己の拠り所を失いふらつくことで陥る「絶望」状態。これを避けるには、ひたすら無限(神)を希求するのは止め、神の中に有限(自己)を位置付ける必要がある。そうすることで魂は解放され、“健康”な状態になれるのだそうだ。
 どうやら本書の思索の大前提に置かれているのは「自己は相互に止揚しあう有限性と無限性の統合である」ということらしい。有限性と無限性のどちらが欠けても、またどちらかに偏り過ぎても、最終的には自己喪失による「絶望」へと至る。極端ではなくバランスのとれた信仰こそが、絶望から逃れる唯一の道であるというのが、どうやら第一編の結論のようだ。(まあ当たり前といえば当たり前の結論だね。)

 本書で面白いのは、彼の基準があまりにも厳しすぎて、世の中には絶望状態ではない人間はごく僅かしかいない事になってしまっていること。しかし自らを幸福と感じている人を捕まえて、わざわざ「あなたは実は不幸なんです。絶望的なんです」というのが果たして良い事なのだろうか。ましてやその幸福な状態を「理念的な愚鈍」と呼ぶに至っては...(苦笑)。
 ところで本書のように“完全なる異教徒”よりも“キリスト教内の異教徒(=いわゆる異端)”に対してより厳しい判断が下されるのは、異端審問の時代からの「お約束」ともいえるわけだが、こうしてみるとクリスチャンであるのもなかなか大変そうだ。男女の違いによる絶望の違いを比較するくだりで「女性の本質は献身である」という表現が出てくるのも引っ掛かりがあるし、キュルケゴールの思想にはちょっと賛同しかねるところがあるのは事実。
 宗教家の人にはだいたい禁欲的で倫理観が強い人物が多いが、ここらへんのストイックさにきっと彼の思想のポイントがあるのだろう。この教条的なストイックさは、ある種の人(例えば思春期の若者など)にとっては麻薬的な魅力を伴って映るのかもしれない。しかし年取ってしまったオッサンには無理だ。これはまだ「大きな物語」が信じられていたころの思想だからかなのかなあ。どうか“幸せな異教徒”はこのままそっとしておいてほしい気がする。

 またまた脱線してしまった。
 あれこと文句は付けたが、基本的に第一編の論旨自体は嫌いではない。“無限性(≒神性)”と“有限性(≒人間性)”、“必然性(≒現在の自分)”と“可能性(≒未来の自分)”といった項目ごとに精緻な分析を行い、それらのベクトルが互いに逆向きに影響(相克)しあうことで自己が生まれるとした考察などは(キリスト教的な価値観に同意するかどうかは別にして)とても面白い。また余りに苦しみが大きくて救済の手を差し伸べられるのが遅かった場合には、苦しみに何らかの意味を見出そうとして救済を拒否する心理が働く場合もある等、かなりの深さをもった分析といえる。一方で、次々と繰り出される分析結果が全て絶望へとつながっていく展開は、感心するとともに思わず笑ってしまうほど。例えばこんな風だ。
 ――“有限性(人間性)”を欠いた極端な“無限性(神性)”の追求や、“必然性(現在)”を欠いた極端な“可能性(未来)”の追求は、果てしのない自分探しの旅という「魔境」へと人々を誘いやがて絶望に至る。逆に“可能性”がゼロで“必然性”しかなく、あるがままの自分を保ちつづける先に待つのもまた絶望。“可能性”には細かく分けると憧憬(希望)と不安(憂愁)の2種類があるが、そのいずれが強すぎても絶望。さらにはそんな事を一切考えず幸せな日常性と俗物性に埋没していても、ちょっとしたことで絶望的な状況にあることを自覚してひどい絶望へと至る。
 まだある。
 かようにして自分が置かれた状況そのもの(つまり地上的なるもの)に対する絶望と、そこから逃れられない自分(つまり永遠的なるものを持つ己)に対する絶望が発生すると、人はそこから逃れるため無関心(つまり日常性)への逃避を図る。あるいは永遠なるものに同一化しようとして、まるでイカルスのように無謀な試みを行う。しかしこれらは全て絶望の状態の一形式に他ならない。――
 以上、絶望に至る様々な例を紹介してみた。まあ結論からすると、どちらを向こうが何をしようが道は最終的に絶望へと通じるということ。彼に言わせればあらゆる営みは絶望へと通じ(**)、そこから救済されるには信仰の道しかない。有限たる自己の宿命から逃れるには、神が示す無限の可能性ことが救済であるのが結論となる。ちなみに次の言葉はとても有名だ。
 “誰かが絶望せんとしている場合には「可能性を創れ! 可能性を創れ!」と我々は叫ぶであろう、可能性だけが唯一の救済者なのである。”

  **…絶望へと至る道筋を示す著者の腕は冴えに冴えわたっている。もしかしてこの人は
     絶望について考えるのを愉しんでいるんじゃないの?という気すらしてくる。読ん
     でいるうち、苦笑しつつも秘かに著者に対して「絶望先生」なる名前を献上してし
     まった。(笑)

 さて、次は本書後半部にあたる第二編。ここからは絶望と罪についての考察がなされるとともに、いよいよ著者の信仰告白が全開となる。ここを「面白い」と感じるか「付いていけない」と感じるかによって、本書の評価は分かれるような気がする。なんせ冒頭いきなり「罪とは人間が神の前に(ないし神の観念を抱きつつ)絶望的に自己自身であろうと欲しないことないし絶望的に自己自身であろうと欲する事の謂いである。」なんて記述が出てくるのだ。要するに人間が様々な理由で絶望に至るのは仕方ない、しかしそれを克服するため神への帰依を拒否するのは「罪」なのだと言っているわけ。(他にも「あらゆる罪は神の前で起こる」とか「罪の反対は(徳ではなく)信仰である」という言葉があって印象がいきなり強烈。)
 ここをきっかけにして、キリスト教における「罪」とは何か?という考察が順になされていく。例えばソクラテスの「罪は無知である」といった定義を参照したり論駁したり。そして最終的には、「罪とは何か?」を顕わにするためには、「神による啓示が不可欠」との結論が導き出される。キリスト教において罪は「神から一方的に与えられる」ものであって、本人が欲するかどうかは関係ない。ウンもスンもなく啓示されるものなのだそうだ。
 「罪があるから人間は神による救済を求めなければならない」そして「罪とは神から一方的に示されるものである」。一見トートロジーにも似た感じもするが、この前提さえ丸ごと呑み込んでしまえば、あとは第二編も論理的に話が進む。この論旨はユダヤ/キリスト/イスラムと続くセム系一神教の伝統なのだろうか。彼らの信仰はまず無条件にヤハウェの神を受け入れるところから始まるから。
 ひとつ電気工学に喩えるならば、キリスト教的な絶対神の存在というのは「理想的なアース(地絡)」のようなものにあたるわけだろう。どれほどの急激な電流変化に際してもアースが常に0ボルトを保つように、人間の営みが作り出すねたみ・そねみ・うらみ・つらみ・喜び・悲しみといった感情の全てを受け止めて微動だにしない。神とはいわば絶対の安心感と信頼感の源のようなもの、という事ではないのだろうか。
 さらに考えてみると、自己(アイデンティティ)という観念自体がキリスト教的思考の産物なのかもしれない。絶対的な唯一神と対峙するにはちっぽけで有限なる自己がないといけないから。自己をもつことがキリスト教的な価値観から生まれたものであるとしたら、現代社会に蔓延する様々な病理もまた、キリスト教的な価値観によって生み出されたものであるのかもしれない。(たしか似たようなアイデアが伊藤計劃氏の小説『ハーモニー』の中にあったような気がする。)
 第二編における著者の考察をまとめると、「罪(倫理)の弁証法」と「思弁(論理)の弁証法」を対立させた上で、前者をとって後者を否定するという流れをとっている。結局のところ彼にとって大事なのは論理じゃなくて倫理、思想じゃなくて信仰なんだよね。そして最終的には「抽象論を捨てて個々の人間を神と対峙させるべき」という結論に。神は全能であってこの世のあらゆる隅々まで心を配ることができるから、全ての人々に対してカスタマイズされた対応が可能なのだ。だからこそ人は永遠にして絶対的な神に完全に身を任せることにより、神から直接的に罪を宥(ゆる)されることが初めて可能となる。これがキュルケゴールの考える、キリスト教思想の根本原理ということになるわけだ。これら「神と個人の関係」については佐藤優もかつて何かの本で述べていたと思うが、キュルケゴールが第二編で展開したのはまさにその点に尽きるといえそう。

 以上が本書を読んだ雑駁な感想。全体を通して感じたのは、近代社会が抱えた様々な軋轢を真摯に考え、信仰にその解決方法を求めた人物がいたということ。そしてそれらの問題は現代に至っても解決するどころかますます深刻になっているということだ。
 近代になってヨーロッパ諸国の人々が世界中の異質な文化に触れた時、それまで唯一無二と思われていた神に対する考え方が揺さぶりをかけられることになった。これは勝手な想像だが、そうなった場合にとれる方法としては、世界を全てキリスト教的な神の思想で埋め尽くすか、もしくは神という“特異点”に一切頼らない思想を作り出すことで神の信仰を守るしかない。そして後者を選択した人々によって近代の哲学が始まったのではないのだろうか。もしそうだとしたら、近代的理性を用いて神と人間の関係を極めようとしたキュルケゴールの思想は、哲学者たちにとっては超えていかなくてはならないメルクマール(道標)であったといえるのかもしれないね。

『世界の果ての庭』 西崎憲 創元SF文庫

 本書は「第14回日本ファンタジーノベル大賞」の大賞を受賞した作品でありながら、入手困難となっていたもの。今回めでたく文庫化されたので、すかさず購入して読んでみた。

 小説には読んだ後に、ああでもないこうでもないと分析するのが愉しい本と、ただ好きなところだけを語りたい本がある。たいていはこれら二つの要素が入り混じるのだが、西崎氏の作品はどうやら自分の場合、後者の割合の方が強いように思える。
 例えば家電量販店で売っているテレビを考えてみよう。機能や性能、それに重量や寸法といった数字で表せる特徴については、カタログ等で存分に調べたり比較することが出来る。しかし画質や音の良さをいくら数字で語っても、店頭で実物を見ないと理解はできないだろう。好き嫌いとはそういうもの。それを小説の「文学成分」と呼んでもいいかも知れない。言葉によって指し示すことが出来ない価値を、陰画のように浮かびあがらせる手法こそが文学。語り得ぬもののために文学があるとしたら、西崎氏の物語はエンタテイメントであるとともにまさしく本来の意味での「文学」と言って差し支えないのではあるまいか。
 本書は「ショートストーリーズ」という副題からもわかるように、独立した六つの短篇が細かなパートに分割された上、互い違いに組み合わされて同時進行していく構成をとっている。短いパートではときに、それが六つのうちどの物語なのかすらはっきりしなかったりも。そういった断章はまるで裸のまま、目の前にごろりと投げ出されたもののようにも見える。いうなれば語り手の素性も性別も、そして現実と幻想の区別さえない“なま”の物語。あるいは散りばめられた言葉によって作られるモザイク画といっていいかも知れない。
 収録されている物語はどれも印象的なものばかりではあるが、とりわけ異色といえるのは江戸時代に実在した皆川淇園(きえん)、富士谷成章(なりあきら)とその子息である御杖(みつえ)という3名の学者の系譜の物語。国学者であったり歌の専門家であったりした彼らの、言葉や詩歌に対する考えを淡々と語ることにより、作者は本書が依って立つものを暗示しているようにもみえる。「物語」としては評価が分かれる短篇かも知れないが、少なくとも自分にはこのパートが本書に一本筋を通しているような印象をもった。
 ちなみに本書における六つの物語とは次のようなものだ。

  1.リコというひとりの作家と、彼女が出会った不思議な詩。そしてスマイスという
    アメリカ人との物語。3.と並んで本書の中では「現実感」に溢れ、最も一般小説
    らしい。
  2.リコが書いている小説「寒い夏」の中の世界。“次第に若くなる病気”になって
    失踪先から帰ってきた母親とその家族を巡る物語。
  3.リコのかつての同級生で、今は大学の研究室を馘首になった女性による、英国庭園
    に関する記憶と考察。
  4.江戸の本所付近に出没する人斬りと、職場の嫌われ者の加納主計(かずえ)が登場
    する時代小説。
  5.戦争中にビルマの収容所から脱走した日本兵が、どことも知れぬ不思議な世界で
    体験する実存と「影」の物語
  6.江戸の学者、淇園・成章・御杖の伝記と思想を紹介するパート

 以上6つの短い物語が入り混じり、最初はバラバラであったものが、やがてひとつのセッションを繰り広げ始める。本書を音楽に喩えるならば上記の“1”は主旋律。そして“3”はリズムを担当している感じだろうか。
このふたつの短篇は、2012年9月に出版された作者の最新作である『飛行士と東京の雨の森』にも近い味わい。そして“2”と“5”は氏のファンタジー作品である『蕃東国年代記』や『ゆみに町ガイドブック』を思わせる。いうなれば本書はファンタジーと音楽と創作理論を煮込んだミネストローネスープといったところか。
 本書におけるキーワードは「庭」と「影」、そしておそらくは「不在」(または「欠如」)であるとみた。「不在」が持つマイナスがある一瞬を経てプラスに転じるとき、「不在」は「謎」へと変わり生きる糧となる。そういったものを感じられるから、自分はこの著者の本が好きなのだろう。

 以下、178Pより抜粋する。
 (富士谷御杖は)『直言(直接的な言葉)でない語、つまり、物事を間接的に表す言葉というものが倒語であると考えていたようである。物事の顕在化していない意味、関係性などを、仄めかす言葉、それが倒語であるのだ。
「倒語はいふといはざるの間のものにて(略)」という御杖の言葉は潜勢、暗喩、暗示、あるいは英詩でいう仄めかし(アリュージョン)といった語を連想させる。』

 この言葉、本書にそのまま当てはまる言葉なのではないだろうか。尤も、先ほどは「暗示」と書きはしたが、正直これが暗示かどうかも良く解りはしないのではあるが。(苦笑)
 氏はミュージシャンでもあるし短歌をつくる歌人でもある。とすれば、あるいはこれが歌もしくは詩というものなのかも知れない。散文による歌または詩というのもまた好い響きだ。

<追記>
 「散文でかかれた音楽」は自分が見る限り現代詩とかなり相性が良い気がする。そして現代詩は現代音楽にイマジネーションを提供する源でもある。してみると、本書を「読み解く」鍵は意外と現代音楽にあるのかも知れない ――なんて日曜日の昼下がりに夢想するのも、また愉しいことではあるね。

『ドン・キホーテ 前篇/後篇』 セルバンテス 岩波文庫

 言わずといれた世界文学の名作だが、実は前篇3冊に後篇3冊の都合6冊にもなる大著。今年の1/初から5/初までおよそ4か月間かけて、ゆるりと読んできた。自分は以前から「有名だが読んだことがない古典文学」というのを、少しずつ読むことにしているのだが、実際に読んでみると想像と違っていてそのたびごとに発見が多く面白い。今回はいよいよスペインの国民的文学への挑戦というわけだが、本書についても(これまでと同様)実におそまつな予備知識しかもっていなかった。それは「愛馬ロシナンテにまたがりサンチョ・パンサをお供に連れて、風車に突撃したおかしな人」というくらいの簡単なもの。(どう考えてもこれで全6巻が持つわけないよなあ。/笑)その他は、「エピソードは前篇の方が有名だけど物語自体は後篇の方が面白い」というのを噂で聞いていた程度だった。
 先に少し書誌的なことを補足しておくと、本書『ドン・キホーテ』はミゲル・デ・セルバンテスによって書かれた作品で、前篇が1605年、後篇が1615年に出版されている。(ちなみに当初セルバンテスは後篇を執筆するつもりが無かったようだ。ところが大評判になった前篇の人気を当て込んで贋物の続篇が出版されたため、怒った彼が、「こちらが本物!」とばかりに後篇を書いたというのが真相。出版に長い期間があいているのはそのためだ。)なお自分が読んだのは岩波文庫版だが、これにはギュスターヴ・ドレによる挿絵も収録されていて得した気分だった。さらに細かなことを言っておくと、前篇と後篇では題名が少し違っている。前篇は『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』で、後篇は『機知に富んだ騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』。(*)ま、郷士でも騎士でもやってることに違いは無いんだけどね。

   *…「デ・ラ・マンチャ」というのは、「ラ・マンチャ(地方)の」という意味。そう
     いえば『ラ・マンチャの男』という映画もあったなあ。

 実はドン・キホーテというのも主人公の本名ではない。本名は“善人”の異名をとるラ・マンチャの郷士アロンソ・キハーノ。当時人気の読み物であった“剣と魔法”の奇想天外な「騎士道物語」にどっぷりと浸かったキハーノが、譫妄状態となって自らを「愁い顔の騎士(もしくはライオンの騎士)ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」であると思い込んでの珍騒動 ――というのが全体を通しての流れ。
 近所の農夫であったサンチョ・パンサを従者として雇い入れ、彼は都合3回の遍歴の旅にでることに。(正確には一度目の旅はひとりで出かけ、僅か3日で連れ戻されている。サンチョが同伴したのは2か月におよぶ2度目の旅と4か月に及ぶ3度目の旅の2回だ。)
 彼らが道中の宿屋で出会う人々や、彼らを連れ戻そうと腐心する郷里の人々のエピソードが積み重なって出来ていて、大長篇ではあるがそれぞれのエピソード同士に特に関連はない。基本的にはどこから読んでも差し支えないともいえる。
 以上、概要紹介はこれくらいにして次には個人的な感想を書いてみよう。(印象は読む人によって変わるのが当然なので、あくまでも当ブログの管理人による個人的な感想と思っていただきたい。)

 いちばん有名な風車への突撃は、2度目の旅の始め(第1巻)に出てくるエピソード。こんなに早く有名なエピソードが出てしまって大丈夫かな?と思っていたのだが、その後も狂気の騎士とうつけ者の従者による珍道中が延々続いていくうち、1巻の後半あたりから正直少しだれてきた。自分が思うに、本来ドン・キホーテは狂言回しになるべき人物であり、狂気による滑稽な行動を愉しむにも限界がある。さすがにサンチョ・パンサと2人だけで行動している間の話がこれだけ長く続けられると...という事だ。(当時はユーモア小説としてそれなりに面白く読めたのだと思う。中世ドイツで人気があった『オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』みたいなものかも。)
 雰囲気ががらりと変わり俄然面白くなってきたのは、彼らの前に理性をもった常識人である司祭と床屋が現れて、物語に合流してから。そこにひとりの若者と女性についての恋愛を巡るエピソードが絡み、あとは一気呵成に物語の前半を読み終えることが出来た。前篇にはこんな感じで後篇にはない劇中劇のような短篇がいくつか挿入されており、単調になりがちな騎士と従者の物語に彩りを添えてくれている。やはり狂気はスパイスであって、適度に効いているくらいの方が良いようだ。
 ここまで読んで、自分の本書に対する印象が固まった。ドン・キホーテたちが泊まっている宿屋に次から次へと新たな人物たちが訪れて奇想天外かつ奇異な運命を披露する様子は、まるで吉本新喜劇と千夜一夜物語が一緒くたになったようなもの。(ちょっと涙ぐむような“いい話”で落ち着くところは、松竹新喜劇もしくは『裸の大将放浪記』と言ってもいいかも。)そこにときおり“愁い顔の騎士”ことドン・キホーテの狂気と従士サンチョの道化が顔を出し、うまい具合に花を添えている。
 文中では時に司祭や聖堂参事会員といった人物たちによる騎士道物語についての文学談義や、芝居に関する芸術談義も繰り広げられているが、その説明を読む限りでは、当時の騎士道物語は今のラノベみたいな感じで受容されていた様子。とすればドン・キホーテはさしずめ、ラノベにハマってコスプレに狂った中年オヤジといった役どころだろうか。(笑)

 本書が凄みを増してくるのは前篇も半ばを過ぎたこのあたりからだ。彼の狂気は理性と慈愛に満ちた周囲の人々によって相対化され、物語のスパイスとしてその本来の効果を発揮しはじめる。それを読んでいくうち心に思い浮かぶのは、「理性的」と思われた人々に見えてくるもう一つの狂気の姿。それは貴族と平民からなる絶対的な身分制度(封建社会)の論理という狂気であり、異端裁判に明け暮れた16世紀ごろのキリスト教世界という狂気でもある。誤解を恐れずに言えば、前篇を通して感じたのはメルヴィルの『白鯨』にも通じる百科全書的なメタフィクションの構図とも言えるだろう。(こんな本が17世紀初頭に書かれていたとは驚き。なんせ日本では関ヶ原の戦いがあった頃だよ。)

 ついで後篇にうつる。前篇がメルヴィル的であるとするならば、後篇は筒井康隆的なメタフィクションとでもいうべきだろうか。まず(これは全編を通しての仕掛けであるのだが、)本書はアラビア人の史家であるシデ・ハメーテ・ベネンヘーリが書いた原著を、セルバンテスがスペイン語に翻訳したという設定がある。このため物語のつじつまが合わなくなってきたりすると、セルバンテスは原著に書いてないとかいって話をリセットしてしまうのだ。(笑)
 後篇ではそれが更にエスカレートして、なんと作中で前篇にあたる『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』が出版(!)されたことになっている。登場人物の全員がベストセラーとなったドン・キホーテとサンチョ・パンサの物語を知っており、彼らがどんな人物かを知ったうえで接しているのだ。(中盤では彼らの大ファンである公爵夫妻がエピソードの中心となったりもする。)
 また、先に述べたように前篇の後には贋作が出版されたのだが、それについても作中で何度も言及されている。曰く格調のない文章だとかそんな旅はしていないとか、サンチョはそんな愚か者ではない等々、ドン・キホーテたち自身によって散々にコケおろされるのだ。贋作の一部が作中で朗読されたり、あまつさえ贋作の登場人物までが作中に登場してドン・キホーテと親交をあたため、贋作に出てきた主従2名を偽者と断じるなど、まさにやりたい放題といったところ。
 びっくりした事はもうひとつある。後篇の第60章には、当時実在したというロケ・ギナールなる山賊までもがゲスト出演で登場。このあたり、新聞連載とパソコン通信で虚構と現実をつないだ筒井康隆氏による快作『朝のガスパール』を彷彿とさせる仕掛けといえよう。(というかこちらの方が元祖か。/笑)

 後篇になると、ドン・キホーテのキャラクターについても複雑に変化している。彼は周囲の人々が自らのことを狂人と断じている事を知った上で、なおかつ騎士として行動しているのだ。前篇では風車が化け物に見えたり宿屋が城に見えたりと明らかな幻覚に囚われていた彼も、後篇になると宿屋は宿屋、執事は執事として正しく判別が出来ているように見える。そのうえで「魔法により正しい姿が消されそのように見えている」という判断を下すところなど、もしかして狂気を演じているだけではないのか?と思えることもしばしば。
 ドン・キホーテが周囲の人々に滔々と述べるセリフも素晴らしい。例えば公爵の計らい(からかい?)で島の領主となることになったサンチョに、ドン・キホーテがこんこんと説いて聞かせるのは、“理”ではなく“情”による統治を行うべし――という君主論。理路整然としたその内容は、素直に感心してしまうことしきりだ。思うに最初のうちは単に面白おかしいだけの人物であったドン・キホーテとサンチョ・パンサは、ここまで来ると人を写す鏡として捉え直された感じ。愚かだが純粋、公正にして誠実であるがゆえ、彼らを相手に邪な振舞をすればそれが己の醜い姿となって逆照射される事になる。逆に心優しく接した人々にはきっと幸せが待っているという、(先にも述べた)新喜劇の王道パターンだ。見事なアフォリズム(警句)を口にするドン・キホーテは風格さえ感じさせ、まさに「高潔の騎士我が道をゆく」といった趣き。

 以上、後篇では前篇以上に凝った仕掛が満載で、故郷に戻ったドン・キホーテが熱病にうなされながらも正気を取り戻し、“善人アロンソ・キハーノ”として騎士道物語を呪詛しながら死んでいくラストまで、存分に愉しむことが出来た。いやあ、確かに凄いわ、この本。特に後篇は驚異的ともいえる面白さだね。
 ウィキペディアによれば本書は2005年に世界の著名な文学者による投票で、「史上最高の文学百選」の一位を獲得したとのことだが、なるほどこれなら納得できるかも。

<追記>
 本書を読んだら、同じモチーフで書かれた他の作品も読みたくなってきた。そのうちまた殊能将之著『キマイラの新しい城』や矢作俊彦著『スズキさんの休息と遍歴 またはかくも誇らかなるドーシーボーの騎行』でも読むかな?

2013年4月の読了本

『死者たちの回廊』 小池寿子 平凡社ライブラリー
  *フランスとイタリアの教会の回廊に多く見られる壁画「死の舞踏」を始めとして、中世
   ヨーロッパに広まった死の思想を巡る紀行と考察。
『ユゴーの不思議な発明』 ブライアン・セルズニック アスペクト文庫
  *1年ほど前に『ヒューゴの不思議な発明』という題名で映画化されたから、もしかして
   劇場で観た人もいるかも知れない。帯によれば「アメリカでもっともすばらしい絵本に
   贈られる賞・コールデコット賞金賞受賞」とのこと。(絵本業界はよく知らないが。)
   題名からして、てっきりファンタジーだろうと思って読み始めたが全然違っていた。
   魔法は魔法でも“映画の魔法”というもの。映画(というよりキネマスコープといった
   方がぴったりくるかな?)が好きな読書人ならきっと気に入るに違いない。そんな物語
   となっている。映画は結局観ないで終わったのだけれど、こんな話だと知っていれば
   観にいっても良かったかな。
『西巷説百物語』 京極夏彦 角川文庫
  *直木賞も受賞した作者の代表作『巷説百物語シリーズ』の一冊。今回は舞台を江戸から
   上方に移し、これまでの「小股潜りの又市」に代わって狂言回しをつとめるのは「靄船
   (もやぶね)の林蔵」。本シリーズの最高作は2作目の『続巷説百物語』だと思ってい
   るくちだが、本作も負けず劣らずかなり愉しませてくれる。“京極”は久しぶりに読む
   とやっぱり嵌まるねえ。(笑)
『蛇の卵』 R・A・ラファティ 青心社
  *すれっからしのSFファンに愛されている作家はP・K・ディックやB・J・ベイリー、
   G・ウルフを始め何人もいるが、R・A・ラファティもそのひとり。本書はその作者の
   最晩年の長篇で、これまでの集大成のような作品となっている。連作短編のような作り
   で読みやすい前半もいいが、読む者を翻弄する後半のでたらめさ加減がかなりすごい。
   (褒め言葉です。/笑)
『マレー半島すちゃらか紀行』 若竹七海/加門七海/高野宣李 新潮文庫
  *ミステリ作家・若竹七海ら「3人の独身三十女」が旅するマレーシアの旅。つぎつぎと
   降りかかる旅先でのトラブルが前篇を貫くゆるさと相まっていい味を出している。
   この手の本は気分転換にいいね。
『ドン・キホーテ後篇(二)』 セルバンテス 岩波文庫
  *前後篇を合わせて全6巻のうちの5巻目。なんと本作では前篇の物語が作中で出版され
   ていてベストセラーになっているという設定。ドン・キホーテの奇行が周知となってい
   るのは読んでいても不思議な感じだ。ドン・キホーテとサンチョ・パンサの大ファンだ
   という公爵夫妻による歓待のエピソードを中心に話がすすむ。
『ナイトランド5号』
  *特集は「サイバーパンク/SFホラー」。電脳世界とクトゥルー神話が入り混じった
   短篇作品が4篇。エリザベス・ベア&サラ・モネット「ブージャム」がかなり好い。
   他にはロバート・ブロックのインタビューなど。増ページとなっていよいよ順調。
『世界の果ての庭』 西崎憲 創元SF文庫
  *第14回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した作品。副題に「ショート・ストーリー
   ズ」とあるように、複数の短篇が微妙に交差しながら語られる。読み解くことで面白い
   小説もあれば、感じることで愉しむ小説もあると思うが、本書の場合は明らかに後者だ
   ろうと思う。著者の西崎氏いわく「抽象画のような作品」とのお話だったが、なかなか
   どうして描写は具体的だし「抽象画」というよりはやはり「幻想画」と呼びたいかな。
   自分の感じだと、同じ著者の『ゆみに町ガイドブック』と『飛行士と東京の雨の森』の
   中間的な味わいの印象。
『霊魂の城』 アビラの聖女テレサ 聖母文庫
  *16世紀に生きたキリスト教の神秘家が書いた、神への信仰と祈りについての本。
   この時代に生きた人々の心の有りようがまざまざとわかって興味深い。
『大人のための残酷童話』 倉橋由美子 新潮文庫
  *古今東西の童話や小説、神話などを題材にしてエロチックで残酷な物語に仕上げた小品
   集。末尾につけられている人をくったような「教訓」が好い。題材はアンデルセンや
   グリムはもちろん谷崎の『春琴抄』に中島敦「名人伝」、日本昔話の「浦島太郎」や
   「猿蟹合戦」に今昔物語、さらにはギリシア神話やトルストイまで多岐に亘る。
『ジュリアとバズーカ』 アンナ・カヴァン 文遊社
  *昔、サンリオSF文庫で出た短篇集の復刊。発売の告知があってから実際の発売まで僅か
   2週間たらずしかなく、また予定外の散財となってしまった(苦笑)。しかし買って後悔
   はしていない。デビュー作『アライサム・ピース』と同様、薬物(ヘロイン)と離人症
   と不安とに苛まれる女性の孤独と幻想に満ちた断章群だが、前作が個人のいたたまれぬ
   程の悲痛な叫びだったとすれば、本書はそれが普遍的なレベルまで昇華されているよう。
   (読後も以前ほどの気分の落ち込みは無かった。)
   好きな収録作は多い。例えばアンリ・ルソーの絵画を思わせる「ある訪問」や“人形た
   ち”が不気味な「霧」、哀切の「メルセデス」に衝撃的ラストの「クラリータ」。
   「山の上高く」のヒロインは自動車の圧倒的な暴力に魅惑され、J・G・バラード『クラ
   ッシュ』の事故に取りつかれた男ヴォーンを思わせる。想像力の極北に近づく「失われ
   たものの間で」や、喪失感がつらい「縞馬」に連作小品の「タウン・ガーデン」「取り
   憑かれて」。そして圧倒的な絶望のラスト「ジュリアとバズーカ」まで、ページを繰る
   手を止めることが出来ず一気に読み切ってしまった。異なる世界/物語の中で形を変え
   永遠に苦しみ続けるヒロイン。孤独に屹立する冬の山に魅かれ、冷たく周囲を拒絶する
   彼女たちの生の否定と死への願望は、恐ろしくもあるが痛切に心をつかむ。
『夢の遠近法』 山尾悠子 国書刊行会
  *初期作品選。著者による自作解説を付す。収録作のうちページ数にして約6割強は以前
   読んだことがあるものだが、密度の濃い幻想は久しぶりに読んでも色あせることは無か
   った。再読した4作の中では「ムーンゲイト」「遠近法」が特に好い。(「遠近法」の
   狂気は筒井康隆著の傑作『驚愕の曠野』にも通じるものがある。)
   他には(思いのほか毒気の強い)「透明族に関するエスキス」や「眠れる美女」なども
   good。栞代わりに4篇のエッセイ(半分創作?)が付録として付くのも良いね。
『ロマネ・コンティ・一九三五年』 開高健 文春文庫
  *これまで本書を何度読み返しただろうか。自分にとっては折に触れて立ち返る、里程標
   のような本。「玉、砕ける」「飽満の種子」に始まり最後の「ロマネ・コンティ・一九
   三五年」まで6篇の収録作のすべてが珠玉。“充実した虚無”もしくは“乾ききった潤
   沢”とでもいうべき逆説こそが、彼の最大の魅力といえるのではないか。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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