『蛇の卵』 R・A・ラファティ 青心社

 ※今回は一部の人にしか通じない、とてもマニアックな小説の感想ですいません。(笑)

 2002年に87歳で死去した不世出の天才(天災?/笑)SF作家R・A・ラファティ(*)が書いた、“執筆活動の最後期”の長篇作品。(書きあげられたのは1982年だが出版されたのは1987年らしい。晩年は出版の機会にあまり恵まれなかったと聞いたことがあるが、これもそうなのかな?)

   *…ラファティをご存じない方のために簡単に作風を紹介しておこう。一般的には『九
     百人のお祖母さん』という短篇集に代表されるように、「伝統的なアメリカの法螺
     話を基調としたユーモア作家」というイメージで語られることが多い。しかし本質
     はもっと複雑で、始原的・神話的で宇宙的な”哄笑”という感じ。(自分の感覚で
     はラブレーに通じるところもあるかな。)だから『九百人のお祖母さん』と同じ
     テイストを期待して他の作品集や長篇を手に取ると、ちょっと戸惑うことがあるか
     もしれない。

 前情報によれば本書は著者の集大成とも言える作品との事だったので、すれっからしのラファティファン(**)としては、たいへん心待ちにしていた一冊。しかし発売予定日(2012年 秋)も近くなってから突然の発売延期という情報が。しかも発売日が未定との事で一時はやきもきさせられたが、遅れる事およそ半年で何とかこの手に入れることが出来た。(しかも4月末にはもう一冊の発売延期本『第四の館』まで発売。日本に数少ない(苦笑)コアなラファティファンにとってこの上ない贈り物だが、財布には厳しい春となっている。/笑)というわけでさっそく感想なぞを。

  **…早川書房から出ている短篇集はもちろんだが、(短篇と違って)非常に難解だと言
     われるサンリオSF文庫の長篇『悪魔は死んだ』や『イースターワインに到着』から
     『トマス・モアの大冒険-パスト・マスター』といったマイナーなものまで、一応
     全ての邦訳作品は読んできた。(もちろん世の中は広いもので、自分など足元にも
     及ばない熱狂的なファンの方も沢山お見えになって、ファンサイトを立ち上げたり
     もされている。)

 物語は以下に挙げる12人(?)の子供たちが主人公だが、この顔ぶれを見るだけでも一筋縄ではいかない話というのが良く分かる。如何にも作者らしい、豊穣なのか過剰なのか良く分からない不思議な物語が冒頭から繰り広げられる。

 1)ロード・ランダル(人間の男の子)、
 2)イニアール(歩行型人間模倣タイプコンピューターの女の子)
 3)アクセル(類人猿「青い目をしたサル」「堕落せざる人々」のひとり)
 4)マリノ(オスのアシカ)
 5)ルアス(天使)
 6)ヘンリエッタ(人間の女の子)
 7)ルーティン(メスのニシキヘビ)
 8)ダブ(メスの熊)
 9)シンプ(オスのチンパンジー)
10)ガジャ(メスのインド象。母象の胎内にいてまだ生まれていない)
11)カルカジュー(オスのクズリにして半分悪魔)
12)ポップガイ(オスのオウム)

 彼らはいずれ劣らぬ超知性をもった子供たち。隔離された環境で彼らを使って、ある種の“実験”が行われていることが冒頭に説明されるのだが、それが何の実験なのかは結局最後まで分からなかった。このあたりの読者を煙に巻く感じ(というか、両手をもって思い切り振り回す感じ)に堪らない魅力を覚えるのか戸惑いを覚えるのかによって、ラファティの熱狂的なファンになるかどうかが決まるのかもしれない。
 話をもどそう。物語の前半は連作短篇のような形で進み、3人一組になった主人公たちの様子と珍妙なやりとりが笑わせる。(このあたりは『九百人のお祖母さん』にも通じる雰囲気で非常に読みやすい。)その途中で少しずつ本書の背景となる世界の成り立ちが明かされていくわけだが、とっつきにくさを感じるとすれば、それが直接語られるわけではなく、登場人物たちの会話などから読み取っていかなければいけない点だろう。(このあたりは同じく熱狂的なファンをもつジーン・ウルフの手法にも近いものがあるかもしれない。ファンにとってはその分かりにくさがまた魅力だったりするわけだが。)
 物語は後半になり、12人の子供たちが一堂に会するとともに世界を支配する秘密の存在「カンガルー」が登場すると急展開を遂げていく。人類の敵(蛇)になる前の”蛇の卵“を消し去ってしまおうするカンガルーと12人の子供らの死闘を軸に、仄めかしと暗示と笑いと奇妙な論理が錯綜して怒涛のラストへとなだれ込んでいくわけだが、やっぱり粗筋を説明しても分かったような分からないような...(笑)。
 ひとつ付け加えておくと、ラファティの物語は主人公にかぎらず登場人物がどれも魅力的。本書でもたとえば透明な体の“姿なきアルフレッド”とか、世界的な大富豪サットラップ・聖レッジャー、歩行型コンピューターのリヴィウス・セキュンダス、博愛の心を持つ自然愛好家カレブラ・イ・コルンバなどなど、脇役となる大人たちも一筋縄ではいかない者ばかりだ。海賊船のアナベラ・聖レッジャー号なんていう魅力的な小道具も登場するし、ラファティの世界に慣れ親しんだ人なら「いかにも」という感じで、とても愉しめるんじゃなかろうか。

 というわけで、ネタバレなしの感想は以上で終了。ここからは物語の詳しい設定にも触れるので、これから本書を読もうという方はご注意を。


 先ほど述べた話に少し補足。ラファティの小説はどれも登場人物がヘンなのだが、それはいわゆる「常識人」じゃないという意味。ディックのように壊れてしまっているわけではなくて、まるで今の現実の世界とは異なる論理に従っているかのように見える。これが始原的とか神話的と評される所以ではなかろうか。本書でも”隠された谷”とそこに住む”無垢の人”や、生物の種を超えた天才児に秘密結社などラファティお馴染みのモチーフがふんだんに出てくるが、それらが示すのは「現実世界のヴェールを一枚めくるとそこには全く違う世界が広がっていた」というドキドキするビジョン。しかもラファティの場合は単に現実が崩壊する不安ではなくて、現実の代わりに垣間見える”健全な別世界の論理”がセットになっているのが持ち味。(もちろん”健全”なのはその世界にたいしてであった、我々には毒であるケースも多いのだが。/笑)
 本書における別世界の論理とは、”蛇の卵”から生まれるであろう”第二の人間”を巡る議論となる。相変わらずだなーと感じたのは、カンガルーにとって”第二の人間”とはどのような存在で、なぜカンガルーがそれを阻止しなければいけないかなど、一番ポイントになる点が明確に書かれていない点。
 そもそもこの実験は誰が何のために始めたのだろうか。これほど大掛かりな実験であればカンガルーによって企画されるしか無理と思うのだが、その目的がカンガルーに代わる「世界の新たな支配者」を生み出すためであり、後にカンガルーによって阻止されるとなれば意味が通じない。また青い目のサルが一度眠りについてから3日後に目を覚ますのは、言うまでもなく”第二の人間”がキリスト教における救世主であることを示しているが、であれば目覚めを阻害しようとするカンガルーは、悪魔もしくはグノーシスにおける「狂った神」という位置づけになる訳で、結局のところ”実験”とは新たな神を生み出す実験だったという事なのだろうか。
 これらを仄めかしや暗示の中に読み取ろうと思ったのだが、どうにも良く分からなかった。(まあ、良く分からなくても別にいいんだけどね、ラファティの場合は。)

 物語も終盤が近づき、「カンガルーは誰を殺してどうなってしまったのか?」「本当に死んだのは誰か?」「結局のところ”蛇の卵”や”第二の人間”とはいったいなんだったのか?」という疑問符で頭の中をいっぱいにしながらラストにたどり着くと、そこには驚愕の事実が明かされていて天地がひっくり返ることに。まさかラファティに叙述トリックをかまされるとは(笑)。しばらくは自分がそれまで何を読んでいたのか分からなくなり、ボケッとしていた。物語自体の枠をとっぱらう――といった意味では、本書をメタフィクションと呼んでも良いかもしれない。

 そのうちもう一度読み返さなければいけないのかも知れないな。そしてもう一度考え直さねばならない。この物語がなんだったのか、そしてイニアールによって隠された真実とは何だったのか。うーん、深いぞラファティ(笑)。
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『死者たちの回廊』 小池寿子 平凡社ライブラリー

 中世ヨーロッパ社会にはどことなく死のニオイが付きまとう。カトリック教会による異端審問や戦争、それに疫病などによる大量の死者たち。古い教会の写真などをみていると地下に巨大な納骨堂があったり、もしくは壁に骸骨の絵が描かれていたり...。日本では世が乱れると『方丈記』や『平家物語』に見られるような“無常観”が広まったが、ヨーロッパでも事情はよく似たものがあったようだ。
 中世を代表する画家であるブリューゲルにも『死の勝利』と名付けられた不気味な絵がある。大鎌をもって馬上から襲いかかる骸骨と逃げ惑う民衆たち。圧倒的な死の力になすすべもなく連れ去られていく人々の絶望と焦燥の姿に、おもわずどきりとしてしまう。こういった「メメント・モリ(死を想え)」の思想がどこから来たのか以前から興味があったのだが、今回本屋で良さそうな本を見つけたので買ってみた。それが本書『死者たちの回廊』。

 著者の小池氏は美術史家であり「死の舞踏(ダンス・マカーブル)」と呼ばれる中世教会の壁画を研究している方だそう。本書の概要によれば、フランスとイタリアを回りながら各地に残された「死の舞踏」がどのようにして成立したかを語った歴史紀行であるとのこと。
 ただし実際に読んでみたところ、「紀行文」というにはすこし抵抗がある感じだった。旅先についての記述はさほど多くなく、その殆どは「死の舞踏」を始めとする数多くの“死の絵画”に関する考察に費やされている。さらに言えば著者の旅程とその章で考察されている地域がリンクしていないため、よけいに旅の流れが分かりにくいものになったきらいがある。(*)
 したがって本書は旅の本としてではなく、むしろ普通の研究書として読んだ方がいいのではないかと思う。それでも充分に面白いから。

   *…旅そのものは、北イタリアの中央部に位置するセリアーナ渓谷近くの都市・クルゾ
     ーネからスタート。その後は中南イタリアを調査したのちフランスへと赴き、バー
     ゼルからパリ近郊のシャルトルまで足を延ばす。自身はイタリア旅行中にも関わら
     ず考察はフランスにおける「死の舞踏」の歴史であったりして、次第にあたまが
     ごっちゃになってくる。

 本題に入る前に、そもそも「死の舞踏」とはどんな絵なのか? 若干の説明が必要だろう。
 簡単にいえば、腐乱した屍や骸骨の姿をした死者が、様々な階級の人々の手をとって墓地へといざなう様子を描いた絵画のことだ。(先にあげたブリューゲルの絵とは違って、こちらは死者が生者を襲うようなことはなく、友好的な態度をとっている。もっともいざなわれる生者の方は厭そうだが。/笑)生者と死者が交互に配置されるという構図はほぼ決まっているが、人数は十数人から三十人以上になる物もあるそう。
 死者により連れ去られる対象は王や枢機卿、司教や修道士、法律家に商人に道化や農民、はては異教徒や盲人まで様々。女性や幼児も分け隔てはない。列をなしていく様子があたかも舞踏を踊るようであるため、この絵は「死の舞踏(ダンス・マカーブル)」と呼ばれているそうだ。不気味かつどことなくコミカルな感じもする何とも奇妙な宗教絵画の一種で、15世紀を中心にフランスやイタリアに建てられた教会の回廊などに広くみられるものらしい。現在では美術史家や社会学者らによってその起源や文化的背景について研究が進められている。

 本書は話が錯綜して全体が分かりにくいところもあるため、全体を以下に整理してみた。大まかに言うと「死者」と「生者」の“交流”を描いた絵には次の3種類があるようだ。

<死の舞踏>
 15世紀フランスおよびイタリアの北部に見られる。複数の死者と生者が交互に列をなすスタイル。フランスの放浪詩人フランソア・ヴィヨンが、ペストの流行でパリの住民の半数が亡くなるという体験を経て書いた詩集『遺言』が直接の契機となって描かれたらしい。(ただしその元には後に述べるように数多くの元ネタがある。)やがてパリの出版業者ギュイヨ・マルシャンによって木版本として出版され、当時のベストセラーになった。

<死の勝利(凱旋)>
 フランスには見られないイタリア特有の画題で、画面中央に3人の骸骨が威嚇的に立つ姿を描いたもの。豪華な刺繍を施したマントをまとった中央の死者は、正面を向いて大きく広げた両手に銘文が書かれた巻布を持って高く掲げている。両側の死者は横を向いて、周りを埋め尽くす生者に向かって死の矢や鉄砲を撃たんとしている。(題名はブリューゲルのものと同じだが内容は全く違うもの。)

<三人の死者と三人の生者>
 13世紀ごろから15世紀ごろかけてヨーロッパ各地に流布した絵画。三人の死者と三人の生者が、対比されるように画面の右左に配置される。13世紀に北フランスで活躍した吟遊詩人ボードワン・ド・コンデとニコラ・ド・マルジヴァルによる、死者と生者の対話形式の詩が起源らしい。まず三人の生者が、ついで三人の死者が語り最後に結語でしめる。生の歓びに満ちた三人の若者がばったりと死者に出会い、若さや美もやがては失われていき、蛆に食われた醜い姿に変わってしまう。死者は自らの姿を示すことで生者に生の摂理と神への信仰の重要性を教え諭すというのがそのパターン。

 ちなみに「三人の死者と三人の生者」には、その元となった13世紀中南イタリアの壁画がある。それは三人の死者を前にしてひとりの修道士がおこなう瞑想の図。三人の屍は腐敗の三段階を示す「死者の三層」と呼ばれる姿が描かれていて結構グロテスク。日本にも「九相図(きゅうそうず/くそうず)」と呼ばれる壮絶な仏教絵画があるが、どんなに地位や名誉もある美しい人であっても死んでしまえば全て同じという思想は、世界共通のものであるようだ。
 三人の死者はその後の「三人の死者と三人の生者」のように動いて語りかける存在ではなく、あくまでも修道士の前に横たわった「物体」でしかない。本書によればこれは頭蓋骨や死体を前にして一人の生者が生と死を感想する「コントラスティ(対比)」とよばれる説教文の形式と同じだそう。おおもとを辿れば原始キリスト教の面影を今に残すエジプトのキリスト教「コプト教」の隠者(陰修士)が砂漠でひとり行う瞑想に似ている気がする。(**)

  **…このあたりの話は、同じ平凡社ライブラリーにある山形孝夫著『砂漠の修道院』に
     詳しい。さらに言えばキリスト教聖者の説話集である『黄金伝説』にも収録された
     「アレクサンドリアの聖マカリオス」の伝説というのがある。これは4世紀ごろに
     流布した説話で、陰修士マカリオスが死体を前に死や生の儚さについて思いを巡ら
     せるというもの。(やはり死者は語りかけることはない。)コントラスティの伝統
     は主にフランシスコ会士が一般に広めたとされる。

 死を観想するという行為には、また別の流れがあるようだ。それは北イタリアを中心とした鞭打ち苦行者の群なのだそう。「鞭打ち苦行」とは主イエスが味わったと同様の責め苦を自らに課すことで、イエスとの同一化を図ろうとするもので、13世紀半ばにはローマ教会によって異端として一度禁止されたものの、14世紀の黒死病の大流行を機に熱烈な支持者を得て復活したらしい。
 彼らは裸足に粗衣をまとっただけの姿で死を朗唱しながら各地を行進しながら日中には二度、そして夜間には一度、自らの体を鞭打つのを常とする。(S・コネリー主演のミステリ映画『薔薇の名前』にもちらりと鞭打ちのシーンが出てきたから、映画を見た人はイメージが浮かぶのでは。)「死の舞踏」の絵画にはこれら鞭打ち苦行者に特徴的な「赤い十字を腕や胸につけた白い長衣の外套」の姿が描かれているものもあるそうなので、モチーフのひとつとなったのは間違いないだろう。他にも「第二マカベア書」という文書に書かれた、7人の子供たちと母親の殉教をまねて「聖女フェリキタスの殉教譚」が『黄金伝説』に収録されたからだとか、墓碑彫刻として刻まれた「腐敗死骸像(トランジ)」の醜い姿と懺悔の銘文だとか、煉獄の概念が12世紀末にキリスト教世界に登場して、生前の所業を悔い改めることで天国にいけるという考えが広まっただとか、色々な話が書かれているが、一概にどれが直接的な源流ということではなく、これら全てが背景となって出来上がったのが「メメント・モリ(死を想え)」という考え方だったのではないだろうかね。
 思えば仏教でも、ブッダが出家するきっかけは「生老病苦」だったとされているわけだが、宗教は昔から死や苦痛に対する想いが育んできたといえるのかも。こうして考えてみると、「無情観」というのも別に日本の専売特許というわけではない気がするよねえ。みんな同じ身体をしているんだから、考えることも一緒というわけか(笑)。

<追記>
 話は変わるが最後にオマケとして「死の舞踏(ダンス・マカーブル)」という言葉の起源について。「死の舞踏」が元になったマカーブル(Macabre)という言葉は、今日では「忌むべきもの、波間に漂うもの、死に関わるもの」という意味で使われるそうだが、実は語源がはっきりしないらしい。
 本書の第7章「マカブレを追って」によれば、フランス国王シャルル5世の治世に仕えたジャン・ル・フェーブルという顧問官が書いた、『死の猶予』という詩が人口に膾炙した直接のきっかけらしい。詩の中に出てくる「我マカブレのダンスを為せり」という言い回しが当時の流行語となったためとの事だが、その「マカブレ」が何なのかが、また分からない(笑)。
 あれこれ推理がなされた結果、最終的にはユダヤ民族純血主義のシンボルである「ユダ・マカベア」という英雄の名前ではないか?という結論となるが、一介のお気楽な読者である自分にはその真偽のほどは到底判断がつかない。ただ「ふーん」と感心して読むだけだ。(他にはアラビア語で墓場(複数形)を意味する「マカビール」という言葉を語源とする説もあるらしい)

<追記2>
 話があちこちに飛んで申し訳ないが、またまた違う話題を。実は本書を読んでいる間中、モーリス・ルヴェルというフランスの作家が書いた短篇集『夜鳥』にでてくる「誰?」という短篇がずっと頭に浮かんでいた。(詳しい内容は省略するが、主人公がひょんなことから手に入れた頭蓋骨を前にあれこれ沈思するという趣向の話。ミステリや幻想小説がお好きな方なら知っているかな?)
 ヨーロッパの知識人の中には、書斎に(今の我々の目からすれば)ちょっと不気味な陳列物を集める習慣があったようで、昔の物語には頭蓋骨の他にも、絞首刑になった罪人の手首である「栄光の手(グローリーハンド)」などが出てきたりもする。(本邦では澁澤龍彦氏の書斎などが近い雰囲気だろうか。)
 死というのは結局のところ人間にとって永遠のテーマであるのだろうなあ。iPS細胞などによって不老不死が実現するか、もしくは全人格がコンピューターにダウンロードされる時代でも来ない限り。(笑)

『〈性〉と日本語』 中村桃子 NHKブックス

 これは面白い本だった。ひとことで言うと「日本語における“女ことば”と“男ことば”について分析した本」という事になろうが、話はそれに収まらない。我々が何気なく使っている言葉の端々に見え隠れする様々な社会意識を浮かび上がらせて、なかなか刺激的な内容となっている。
 例えば主語ひとつとっても、“I”ひとつで済ませてしまう英語に比べて日本語では「おれ/ぼく/自分/わたし/わたくし」など、はっきりと性別や年齢による使い分けがなされている。“YOU”でも同じ。「おまえ/きみ/あなた」など多種多様な言い回しを使い分けているのが日本語の特徴だ。問題は単に「男」ないし「女」という違いだけでなく、そこに「強さ」と「弱さ」や上下関係といった社会的・文化的な意味付けまでなされているという点にある。
 このあたりの事はこれまでも自分で何となく考えた事はあった。しかし本書ではもっと事細かく幅広い分析がなされている。本書の「ことばがつくる女と男」という副題が示すように、社会的・文化的な性差は実は言葉によって作り出されるものなのだ。

 本書によれば、ある人が持つアイデンティティが、その人の行う言語行為(話すこと)の“原因”だとする考えを「本質主義」と呼ぶらしい。例えば中年の男性や若い女性がそれぞれ特徴的な言葉を使うのは、それが「中年の男だから」もしくは「若い女だから」という考え方だ。
 それとは逆に、アイデンティティは言語行為の“結果”であるという考えもある。すなわちその時々の場面において選びとられる言葉が、やがてその人のアイデンティティを作り上げていくという考え方であって、それを「構築主義」と呼ぶらしい。ある種の言葉を習慣的に使用して、特定のアイデンティティ(性別や年齢、社会属性など)を繰り返し表現し続けることで、「自分は○○という人物である」というセルフイメージ(あるいは幻想)が出来上がるというわけだが、本書がテーマにしている「女ことば」と「男ことば」なんてまさにその典型といえるだろう。(ついでに「本質主義」と「構築主義」のどちらが正しいかについては、もちろん後者の方である事は明らかだ。)
 また、このようにTPOによって使い分けられる「言葉の特質」に特に着目した場合、それを「言語資源」と呼ぶそう。そしてこの「言語資源」は、テレビやラジオ、出版物といったマスメディアによって広まり定着するという側面を持つそうだ。(*)本書ではそれらの「構築主義に基づく言語資源」という観点から、小説や漫画やテレビドラマといった様々な題材における、言葉の選択について分析を進める。以下、具体的な例を挙げていこう。

   *…そういえば博士が「わしは○○じゃ」などという言葉を使う事は現実にはありえない
     が(笑)、これなどは『鉄腕アトム』のお茶の水博士によって定着したイメージ
     なのかも知れない。

 “男らしさ”を表現する場合に使われる言葉は時代とともに変化するらしい。明治期には書生が使う「君、僕」が男らしさを表すのに最も適した表現として定着していた。しかし60~70年ごろになり新たに用いられるようになったのは、スポ根マンガや青春ドラマに代表される「おれ、おまえ」といった表現。(これは同時に両者の上下関係やそれに基づく親密さを表すものでもある。)
 そして現在では再び「きみ、僕」に戻っているらしい。また、傷つくことをおそれて親密な人間関係を築かない人が増え、それとともに仲間同士でも敬語を使い合ったり、さらなる親密さを示すために語尾に「~さ」とか「○○っス」といった表現を付けるようにもなっているのだとか。
 このくだりを読んで思い当たったことがある。外国文学で昔の翻訳に目を通していて時に読みにくく感じることがあるが、これは上記のような呼称について無意識のうちに違和感を感じていたからなのかも。

 以上のように、本書をいちいち納得しながら読んでいくと、更に重要な指摘がなされていて衝撃的だった。それは何かというと、日本語においてこれら“男らしさ”“女らしさ”が強調された結果、現在の日本語にはデフォルトで「異性愛規範」が組み込まれているということ。つまり日本語をつかって“正しい”表現をしようとすると、自ずから「たくましく上位に立つ男」と「やさしく控えめである女」であることを強調せざるを得ないのだ。それはすなわち男と女というふたつの性を前提にしたものであり、日本語を使う以上はそこから自由であることは出来ないのだ。(本書では同性愛の人々の使う言葉や、少女がなぜ「わたし」ではなく「ぼく」という“男ことば”を使うのかについて考察がなされているが、ここでは省略する。)
 このあたりまでくるとセクシュアリティとも絡む問題なので、かなり奥が深い。これら言葉の使い方に関する価値観の事を、本書では「言語イデオロギー」と呼んでいるが、まさにある種の立場を表明したものであるのは間違いない。

 次に著者は「ピチレモン」や「ジュノン」といった少女向けのファッション雑誌における、見出しの表現方法について分析する。例えば直接話しかけるような親しみのある語尾(例えば「~たよね!」)の使用や、“みんな(=読者)”からの声を「大好き!」というようにカギ括弧つきで引用すること。あるいは(当時)新しく流行した髪型の名前である「シャギー」といった新しい言葉や「大人の顔」といった特殊な用語を駆使すること等々について。
 これらの分析を通して見えてくるのは、「話し手/雑誌」と「受け手/読者」の一体感を演出しようとする思惑だ。それら見出しの表現が想定している“読者”は、実際にその雑誌を買って読んでいる実在の少女たちとは違う。またそれらのメッセージの“発信者”も、実際に文章を書いている編集者やライター達とは違う。実は“読者”も“発信者”も、どちらも想像上の設定でしかないのだ。読者は想像上の“読者”に自分を仮託して誌面を読み、送り手も想像上の”読者”に対して語りかける姿勢を貫く。著者はこれらの集団を「雑誌共同体」と呼んでおり、まるでベネディクト・アンダースンの「想像の共同体」を思わせる。(そういえばわざとジャーゴン/業界用語を多用して仲間意識を作り出す手法は、色々な政治的グループが得意とするものでもあった。)ちなみに少女雑誌の「雑誌共同体」が実現しようとしているのは、上下関係がなく全員が横並びの仲良しクラブといった感じの、いかにも女性らしいグループ意識の醸成であるという。
 それでは一方、メンズノンノに代表されるような男性ファッション誌ではどうだろうか。結論をいってしまえば、こちらは仲間意識ではなく勝ち負けを強調していて、男性社会に特有の軍隊的な上下関係とそれに伴う親密さを強く意識した誌面つくりになっている。そして誌面は「お友達からのお薦め商品」ではなく、「勝つために必要なすべての知識」を網羅する百科事典的なカタログ方式なのだそうだ。(自分は読んだことが無いので、詳しくは本書をどうぞ。/笑)

 これらの考察を通して見えてくるのは、現代において「異性愛規範」がますます強固なものになっているという事実。それは資本主義社会/消費社会により積極的に利用(バレンタインデーやホワイトデーの狂騒、ダイエット産業やアパレル業界の隆盛など)されているからであり、その根本にあるのは、「異性愛規範」を隠しつつ強要する「日本語」という言語がもつ仕組みそのものなのだ。
 本書は後半さらに話を広げ、日本語と日本文化の関係についても言及していく。昨今の政治家や雑誌にみられる視点として、日本語を「伝統」の礎もしくは「日本固有」の文化としてみるものがある。例えば万葉~源氏物語の時代から「大和ことば」として長く伝えられてきたというものだ。これなどはまさに日本語を「日本という国家」(=想像の共同体)の象徴と見做しているといっていい。
 しかしこれはある意味、危険な考え方でもある。「日本語」を「教科書に載っている言葉(=標準語)」であるとする考え方からは、標準語は優れていて方言は劣ったものであるという立場が透けて見えてくる。(昔に比べると良くなって来てはいるが、まだまだ訛りを恥ずかしいと思う意識は根強いようだ。)また性的マイノリティの人たちが「異性愛規範」の言語である日本語を使うたびに、日々感じる違和感や苦痛は計り知れないものがあるだろう。(**)

  **…「正常」であることを重視する社会意識は、「異常」を排除しようとする動きに
     直結する。ツイッターで話題の「はるかぜちゃん」こと子役タレントの春名風花
     さん(現在中学1年生)が用いる「ぼく」という一人称や、彼女独特の「はるかぜ
     ちゃん語」における“言葉の乱れ”に対して、(一部の)大人が行った声高な非難
     が象徴しているのは、まさにそのような事だ。しかし何が正常で何が異常かの判断
     基準は、時代とともに変わる相対的なものでしかないことを肝に銘じておくべき
     だと思うよ。

 「日本語は日本人の守るべき伝統であって日本固有の文化である」という考え方にはあまり固執しない方が良い。そこにばかり固執していると、(意識的か無意識的かとは無関係に)「良い/悪い」という判断の強要に結びつくおそれが多分にあるから。日本語を「守るべきもの」として固定してしまうのは、社会変化に伴う新たな抑圧を作り出すことにもなりかねない。その結果、却って日本語の持つ可能性を奪うことになりはしないだろうか。そう考えると、むしろ変化こそが重要なのかも知れない。もちろん何でもかんでも変えれば良いというわけでも無いが、大切なのはそういった事に「自覚的」であるという事なのだと思う。
 一気呵成に読んでしまったが、非常に良い本だった。

<追記>
 著者によれば、最近の若者(もしくは女性、あるいは日本人)の言葉遣いが乱れてきているという意見は、源氏物語の時代から記録に残っているものなのだそう。つまり日本語は源氏物語の頃からずっとズレ続けてきたのだし、現在でもズレ続けているというわけ(笑)。太古の昔からずっと変わらずにいた「ザ・日本語」なんてものは、はなから存在していないのだ。その文章を読んだ時、何だか気分がすっと軽くなった。要はどこに基準を置くか?というだけの事に過ぎないのだよね。

<追記2>
 書き忘れていたことがひとつあった。日本語から性別の影響を取り払うとどうなるか知りたければ、一度ツイッターでおしゃべりを楽しんでみると良い。自分の性別を明かしていないアカウントの方と話をすることも多いが、ちょっと読んだくらいでは性別なんて全く判別できない。(日頃から言葉の端々にまで注意を払っていれば、時折つぶやかれる言葉をヒントにして分かる時もあるが。)
 それはツイッターに140字という字数制限があるため、極力飾りを除いた最低限の言葉しか述べられていないからだ。宙ぶらりんで不安になる事もあるかもしれないが、敢えて男とも女とも判断を下さず続けていくと、セクシャリティの虚飾を外したその人の“素”の姿が見えてくるはず。
 男女のどちらとも取れるペンネームを使っている作家のエッセイを読んでみるのも良いだろう。思わず足元をすくわれることもあるかもしれないが、普段いかに憶断をもって人に接しているかが良く分かる。
 以上、どちらも最近自分が意識して愉しんでいることなので、ご参考まで。

2013年3月の読了本

 相変わらずの忙しさは続いているが、なんとか本を読むことだけはできている。無理やりにでも短い時間をやりくりしながら読むことが、結果的には却ってストレス解消になっているんだよね。よしよし。

『もうひとつの街』 ミハル・アイヴァス 河出書房新社
  *2011年に高野史緒氏の編纂で『時間はだれも待ってくれない』という東欧SF・ファン
   タスチカのアンソロジーが出版された。本書はその中で「長篇の一部を抜粋して収録」
   という変則的な紹介をされたものの全訳。著者ミハル・アイヴァスは現代チェコ文学界
   で注目されている作家らしく、ナボコフやカルヴィーノの影響をうけた人物とのこと。
   (このあたりは解説の受け売り。/笑)
   現実の街の裏側に広がる「もうひとつのプラハ」をめぐる探索の物語。読めない文字で
   書かれた一冊の本から始まった好奇心は、やがて部屋の隅やクローゼットの後ろに隠さ
   れた通り道でつながった謎の世界へと主人公をいざなっていく。街には宙に浮かぶサメ
   やエイが跋扈し、図書館の奥に分け入るとやがてそこにはジャングルが広がる。書物に
   擬態するカタツムリや「卑猥」「青ざめる」「仲裁」といった保護色(保護文字?)を
   まとったイモリといった、シュールで幻想的な描写が幻想的で心地いい。重なり合いな
   がらも厳然と不可触を貫く二つの都市のイメージは、チャイナ・ミエヴィルの『都市と
   都市』にでてくるペジェルとウル・コーマにも近いかも。
   「奇妙な生命が宿り、私たちの街よりも古くから存在する、だが私たちがなにも知らな
   い世界」がごく身近に存在する設定が何とも言えぬ魅力だ。たとえば自動販売機と壁の
   隙間が入口になっていて“力ではたどり着くことのできない世界”である、ますむらひ
   ろし氏の「アタゴオル」なども同じ。英米の作品とは一味違う感触は、ストルガツキー
   兄弟の『滅びの都』にも通じるようなスラブの想像力の特徴なのかもしれない。
   こちら(現実)の街をテーゼとするならあちら(もうひとつ)の世界はジンテーゼ。や
   がてふたつは物語の中で止揚されていくことになるわけだが、あらゆる街が無限に連な
   り鎖状をなすというのは、レヴィ=ストロースの神話論理にもつながるものではないの
   かな?
『ミラノ 霧の風景』 須賀敦子 白水社uブックス
  *イタリア人の夫と長らくかの地で暮らした著者が、当時の記憶をつづったエッセイ。
   著者は本書で講談社エッセイ賞や女流文学賞を受賞している。「明るい太陽と陽気なイ
   タリア人」といったステロタイプとは違う静謐で知的なイタリアが垣間見られて満足。
『江戸を歩く』 田中優子 集英社新書ビジュアル版
  *江戸学者の田中優子氏と写真家の石山貴美子氏が東京のあちこちを歩き、そこに江戸を
   幻視するフォトエッセイ。しかし旅のスタートが千住・小塚原の回向院であることから
   もわかるように、決してお気楽な江戸情緒を愉しむばかりの本ではない。読み進むうち
   に、死や猥雑さや活気や荘厳をすべて呑み込んだ巨大都市・江戸の「記憶の風景」が、
   現代の東京に二重写しで見えてくる。好著。
『日本SF短篇50 I』 日本SF作家クラブ/編 ハヤカワ文庫
  *いやこれは懐かしい。瀬名秀明氏による巻頭言に続いては、いきなり光瀬龍による往年
   の傑作「墓碑銘二〇〇七年」。その後も「大いなる正午」(荒巻義雄)/「おれに関す
   る噂」(筒井康隆)/「およね平吉時穴道行」(半村良)/「鍵」(星新一)/「魔法
   つかいの夏」(石川喬司)といった、中学生の頃に夢中になって読んだ名作群を久しぶ
   りに堪能した。初読だったんだのは福島正美「過去からの電話」くらい。「ハイウェイ
   惑星」(石原藤夫)や「大いなる正午」などいくつかの作品が後述の『日本SFベスト
   集成』とかぶってしまっているのは多少勿体ないでもないが、まあ本書の性質上やむを
   得ないだろう。全5巻とのことだが、この調子なら次巻以降も愉しませてもらえそうだ。
『60年代日本SFベスト集成』 筒井康隆/編 ちくま文庫
  *これもまた伝説の名アンソロジー。ある年代より上のSFファンであれば必ず一度は目
   にしたことがあるのではないだろうか。本書の売れ行き次第ではこの後の70年以降の巻
   も出されるとのことなので、ぜひとも売れて欲しいなあ。
『短篇小説日和』 西崎憲/編訳 ちくま文庫
  *副題は「英国異色傑作選」。1998年12月から刊行された全3巻の『英国短篇小説の愉し
   み』から17作品を抜粋・改稿し、さらに新訳3篇を加えて再編集したもの。どれも粒よ
   りの作品ばかりで甲乙つけがたい。いずれも存分に愉しめたが、そのなかで特に自分の
   趣味によく合ったものを選ぶとすれば、ミリュエル・スパーク「後に残してきた少女」
   マーティン・アームストロング「ミセス・ヴォードレーの旅行」、W・F・ハーヴィー
   「羊歯」、キャサリン・マンスフィールドの「パール・ボタンはどんなふうにさらわれ
   たか」、H・E・ベイツ「決して」、マージョリー・ボウエン「看板描きと水晶の魚」
   T・F・ポウイス「ピム氏と聖なるパン」、ジーン・リース「河の音」、そしてアンナ
   ・カヴァン「輝く草地」あたりか。他もすごく好いんだけどね。
   巻末に訳者・西崎氏による三つの小説論を付す。「英国短篇小説小史」ではイギリスに
   おける短篇小説の変遷を、「ファンタジーとリアリティー」では現実と小説における
   リアリティとは何かについて、そして「短篇小説とは何か?」では長篇小説と短篇小説
   の比較を通じて、“短篇小説”のもつ愉しみとは一体何なのかについて考察する。
   本編と合わせて訳者から読者への優れた贈り物となっている。 
『ドン・キホーテ 後篇(一)』 セルバンテス 岩波文庫
  *いよいよ後篇突入。前篇の譫妄状態からは脱したものの、自らが瘋癲(ふうてん)であ
   ることを自覚しつつサンチョ・パンサを引き連れてまた旅に出たドン・キホーテ。
   この後の展開を楽しみに、ゆるゆると読み進めよう。
『〈性〉と日本語』 中村桃子 NHKブックス
  *普段は意識していないが、実は日本語に色濃く染みついている「性差」。新進気鋭の言
   語学者が「女ことば」と「男ことば」に隠された様々な社会意識を解き明かしていく。
『空間亀裂』 フィリップ・K・ディック 創元SF文庫
  *今もカルトな人気を誇るディックの本邦初紹介作。これまで訳されなかったのには理由
   があって、今の目で客観的に見た時にはアラも目立つし“傑作”かと言われると決して
   そうではない(苦笑)。しかし「1966年のディックが書いた本」だから面白い。だいた
   い昔のSF小説を読むと超科学とか未来の社会とかが出てくるが、そこで暮らす人々の価
   値観や倫理観は作品が書かれた当時のアメリカ社会そのもの。そのギャップが今の我々
   からすると大きな違和感の原因となって、物語に入りこむのを阻害したりもする。
   しかしディックの場合、それも含めて一種の「いかがわしさ」や「安っぽさ」が大事な
   魅力になっている稀有な作家ではないか。だからこそ本書は万人に薦められる本ではな
   いけれど、長所短所をひっくるめてディックの全てが好きな人にとっては、この上ない
   贈り物といえる。
『みみずく古本市』 由良君美 ちくま文庫
  *澁澤龍彦/種村季弘の両氏と並ぶ幻想と耽美とロマンの探求者たる著者による書評集。
   一度も読んだことのない専門書についての書評が殆どなのに、読んでこれほど面白いと
   いうのは驚異的かも。
『ねこに未来はない』 長田弘 晶文社
  *詩人・長田弘氏による猫エッセイ。猫嫌いであった著者が猫好きな奥さんと結婚して、
   如何に愛猫家に変わったかと、その後の猫たちとの別れを描く。角川文庫からも出てい
   るけど、ひいきのイラストレーター長新太氏によるイラストが載っているこちらの方が
   断然好み。古書市で見つけたときは嬉しかった。
『ムーミン谷の十一月』 ヤンソン 講談社文庫
  *最後までムーミン一家が登場しない異色作。心に傷をもった人(?)たちが織り成す、
   癒しと再発見の物語。子供向けにしてはかなりビターだが、これまで読んだ中では
   『ムーミン谷の彗星』の次に気に入った。
『子どもの王様』 殊能将之 講談社ノベルズ
  *2013年2月11日に死去した著者により、子供向けミステリ叢書『講談社ミステリーラン
   ド』の一冊として刊行されたもの。しかし「子供向け」といいつつ、正直いって子供の
   頃の自分だったら読みたくないなあ(笑)。内容はかなりヘビーで読後感も重い。
   いかにも著者らしい一筋縄ではいかない“ジュブナイル”といえる。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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