「読みたい本」を探すには?

 日頃から職場などで周囲に「趣味は読書」と公言していることもあって、ときどき質問を受ける。何かというと、読みたい本をどうやって探すのかということ。大抵の場合、本を殆ど読まない人がその質問をしてくる事が多い。読みたくても読めない「積ん読本」が山のようになっている人間に訊く質問じゃないとは思うけどね(笑)。
 それはさておき、改めてそう訊かれるとちょっと考え込んでしまう。普段意識した事もないものなあ。そもそも「読みたい本を探す」ってどういうことだろうか。読みたくて仕方ない本をどうやって入手するかということ?それとも自分にとって素晴らしい本との出会いを、どうやったら作れるかということ?
 そんなこと自分で考えなよーと言いたいが、それでは話が終わってしまうので、一応両方について考えてみた。

 まず前者の調達方法について。これには新刊書店と古書店を合わせて利用している。(本は直接手に取って選びたい質なので、ネット購入はしていない。)近所で良く行く本屋は新刊系が4店舗に古本系が2店舗の計6軒。それらの中から数店をその日の気分で適当に回っている。
 新刊の場合、買う本は本屋に行く前に予め決めてあることが多い。それだけを買って帰ればものの5分で用事は済んでしまう。しかしそれでは面白くないので、目当ての本を見つけたら取りあえず手に持ったまま店内をくまなく物色することに。
 この「買うかもしれず買わぬかもしれず」という中途半端なブラブラ歩きがとても愉しい。しかも愉しいだけではなくブラブラ歩きには大事な効能もある。たしか前にも書いたと思うが、それはそれまで知らなかった本との「思いがけない出会い」というやつ。これが自分の読書の幅を広げる上で、結構重要なポイントになっているのだ。新刊書店でさえそうなのだから、古本屋は言わずもがな。こちらは文字通り“一期一会”の本ばかりなので、店内は基本的に隅から隅までくまなく見て回る。
 以上が毎週の休日の習慣にしていること。頻度や滞在時間は別にすれば、普通の人の本の買い方とそう変わるものではないと思う。では次に「読みたくて仕方がなくなる本をどうやって見つけるのか?」ということ。でもこれが一番答えにくい質問でもあるのだよな。

 物心ついたころから本の虫だった自分には、「読みたい本」は見た瞬間に決まるもの。あれこれ深く考えたことがない。読んだら期待外れだった事なんて幾らもあるが、少なくとも選ぶ瞬間に限って言えば、純粋に「読みたい!」と思って手に取っている。
 子供のころはどうだったろう。おぼろげな記憶では、学校の図書室や町の図書館の棚を前にして、題名と表紙絵から直感的に選んでいたような気が。そうして手当たり次第に読んでいって、運よくポプラ社の少年探偵やルパンのような面白いシリーズに当たればしめたもの。全て読みつくすまで、立て続けに順番に借りていく。まるで回遊魚のような読書をやっていたというわけ。あかね書房など、同じ装幀で統一された所謂「叢書」というのも概ね参考になっていた。
 そうこうしているうち、お気に入りの著者というのが出来てくる。そうなると“回遊魚”から、その人の本を色んな文庫で探しては読むという“根付きの魚”のような読書をするようにもなったわけだが、そこから今のようになったのは、どうしてだったろう? 全く記憶が無い。
 
 大学生のころからは、もっぱら読む本を購入するばかりになった。図書館なら詰まらなければ読むのをやめて返せばいいが、自分で買った本だとそうはいかない。ハズレの時は余計にがっかりしてしまう。それで注目したのがお気に入り作者の文庫本の解説者。好きな人の解説を書く人の著作はどうか?自分とよく似た趣味の人ならきっと面白いに違いない ――そんな思い込みから始めた突撃読書だったが、勝率は五分五分といったところ。まあ行き当たりばったりよりはマシといった程度か。(*)

   *…ちなみに今ではそうした著者ネットワークのイメージ図というか相関図というか、
     そんなものが頭の中に出来上がっているので読む本を選ぶのに苦労は全くない。
     でも「読みたい本が見つからない人」にとっては、どれが自分の趣味に合うかなん
     て到底想像もつかないんだろうと思う。でもこればっかりは本人が試行錯誤で
     見つけていくしかないもので、如何ともしがたい。

 もしもこの方法をとらないのであれば、従来であれば先程の「思いがけない出会い」に頼るか、または新聞広告や雑誌のレビューに頼るしかなかった。(もしくは知り合いの口コミか。)余談だがベストセラーというのは、普段あまり本を読まない人がそのように“話題になっているから”という理由で手に取ることで、生まれていくものなのだろう。
 このようにして本を探す方法では、新刊情報を知るのが遅くて品切れだったり、もしくはせっかく買った本が趣味に合わないこともしばしば。自分もハズレに当たって閉口した覚えがままある。
 しかし今はいい方法がある。それはインターネット。例えば自分の場合は、「注目の新刊」とか「文庫発売一覧」といったサイトで数か月前から予定を確認。ツイッターでは日々おしゃべり仲間が本の情報を伝えてくれるので、面白い本や注目の本を見逃さずに済んでいる。信用のおける口コミのようなものか。(もっとも、その結果読みたくなってつい買ってしまい、積ん読本が増える結果にもなっているわけだが。/笑)

 以上、たまに訊かれる質問の回答としては大体こんなところだろうか。結局このブログも自分が読んだ本の感想を書き連ねているわけだし、今は情報がいくらでも巷に溢れている。だからその気になりさえすれば、自分が面白いと思える本を探すことは割合簡単なのではないだろうか。
 むしろそれより大事なのは、「たまには本の1冊でも読まなきゃ」といった義務感や見栄ではなく、「面白い本が読みたいー!」という気持ちで読書に臨むことなんじゃないのかね。

<追記>
 子供の頃に何度か、自分が読んで面白かった本を人に薦めて失敗したことがある。それに懲りて今では人に本を薦めることはしていない。面白いかどうかはその人次第だから。それどころか、読書自体を勧めることすらしていない。今は他にいくらでも面白い事があるんだし、義務的に読んだって愉しくもないだろうし…。
 いつかその人が自分で「読みたい」と思えば、自然に読むようになるに違いない。そしてもしも「この本読んだら面白かった。似たのは無い?」と訊かれたら、その時は喜んで答えてあげたいと思うな。
スポンサーサイト

『新しいウイルス入門』 武村政春 講談社ブルーバックス

 読書で人文・社会学系の本が続くと、無性に自然科学系に手を出したくなる。でも専門的過ぎるのは値段も高いし内容も“お気らく読書”に似つかわしくないので、結局は手軽に読めるブルーバックスあたりを物色することに。しかしブルーバックスはすでに目ぼしいタイトルは読んでしまっていて、選ぶのがなかなか難しいのだ。最新科学のものは数年たつとすぐに内容が古くなって面白くなくなるしね。
 そんなわけで、本書はじぶんにとってちょうどいいタイミングで出てくれた一冊。今一番面白い科学分野は素粒子物理学と脳科学と分子生物学だと思っているくちなので、ウイルスの最新状況を俯瞰できるのはとても嬉しかった。ということで、さっそく中身について。

 「限りなく生物に近い物質」とよばれ、様々な疾病の原因として忌み嫌われるウイルス。(この本を読んだのはちょうどインフルエンザが会社で流行っている頃だったので、余計に“旬”な話題だった。/笑)本書はそんなウイルスに焦点を当てて、その種類や増殖のメカニズムについて紹介した一般読者向けの解説書となっている。前半の2/3はこれまでも読んだことのある話で、生物学のおさらいといった感じ(ただし知らない人には分かりやすくて良い内容だと思う)。すでに概要について知っている人にとっては、残りの1/3になったあたりからが俄然面白くなる。
 寡聞にして知らなかったのだが、1992年にイギリスで冷却塔から採取されたアメーバの中から発見され、「ミミウイルス」と名付けられた“巨大ウイルス”がある(いる?)そうだ。何と光学顕微鏡でも観察でき、さらにはこのウイルスに感染する「ヴァイロファージ」という小さなウイルスまで存在するというから驚き。(更に2011年には、もっと巨大な「メガウイルス」なるものも見つかっているとのこと。)
 また本書では様々な特徴をもつウイルスを紹介しているのだが、これがまた面白い。例えば、細胞核ではなく細胞質の仕組みを利用して増殖するため、細胞核を必要としないウイルスである「ワクチニアウイルス」だとか、生物と同じ2本鎖のDNAを持つ「ポックスウイルス」というものまで。「ワクチニアウイルス」が細胞質内で増えるときには、まるで核膜のような組織を生成して塊(ウイルス工場)を作るそうで、掲載されている写真を見るとまるで細胞核が二つあるようにも見えて不思議な感じ。やはりこの手の本はビジュアルが多い方がいいよね。(その意味でも気楽な読書には専門書より解説書の方が向いている。)

 本書の「新しい」ところは、これらのウイルスの構造や巧妙な増殖の仕組みや、ゲノム解析によって得られた生物との類似点などを総合して、「生物」というものの再定義にもなりかねない壮大なビジョンを示すところ。なんせ「真核生物の細胞核はウイルスが起源である」という仮説まで紹介しているのだから。(なお生物の再定義の夢を語るにあたっては、レオ・レオーニの『並行植物』を例にとるなど幻想文学好きには堪らないサービスまで。/笑)
 まだ学術的にコンセンサスが取れているわけではないのだけれど、本書を読んでいると将来的には「真核生物/真正細菌/古細菌」という生物の大きな3つのドメイン(分類枠組み)以外に、「ウイルス」という新しいドメインが認められるような気さえしてくる。うーん、正直いって最近の生物学がこれ程までにスリリングだとは知らなかった。まさに「事実は小説よりも奇なり」とはよく言ったもの。素粒子物理学の世界でもヒッグス粒子やM理論がいよいよ普通に語られる時代になってきたようだし、奇想を売り物にしている小説家の人は、うかうかしてられないよね。(笑)

<追記>
 本書は章の終わりに幾つかのコラムが挿入されているが、それらも滅法面白かった。タバコモザイクウイルスの内部にある中空構造を利用して、均一なサイズのナノワイヤーを工業的に作り出す研究だとか、食品添加物(!)としてバクテリアに寄生するウイルスである「バクテリオファージ」がアメリカで認可されたとか。(なんでもハムソーセージの中に、食中毒を起こすリステリア菌に感染するタイプのバクテリオファージを添加するとのこと。)一体誰がそんなことを思いつくんだろうか。

『聖杯と剣』 リーアン・アイスラー 法政大学出版局

 副題は「われらの歴史、われらの未来」という。題名からはアーサー王伝説に題材をとったファンタジーか何かを連想してしまうが、さにあらず。中身はいたって真面目な学術書。本の中身をひとことで言えば“ジェンダー論の研究書”という事になるが、カバーしている分野はかなり広い。ジェンダー論の基本図書のひとつに数えられている本だそうだが、なるほど納得。
 著者が本書で述べていることはまとめると簡単な話で、凡そ次のようなものだ。
遠い過去には男女が調和をもって平等に生きる社会(「協調型社会」)が実現した時代があった。しかし長らく続いたその時代も、やがて歴史上のある時期・ある地域で性差に基づく支配、すなわち男が女に対して支配力を及ぼす社会(「支配者型社会」)が生まれるとともに終わりを告げ、そのまま現在へと至る。―― これは著者のアイスラーがたてた仮説であって、いわば「ジェンダー史観」とでもいうべきもの。
 著者は世界中の人類史を従来とは違った新たな目で検証し、そこに残る協調型社会の痕跡をひとつひとつ指し示していく。様々な考古学的な「証拠」が列記されるが、正直言って自分はそちら方面に詳しくないので真偽のほどは判断できない。若干「筆が走り過ぎかなー?」と思うところが無きにしもあらずだが、全体的にはとてもよく考えられた学説という印象をもった。(*)
 語り口はとっつきやすいが、カオス理論からオートポイエーシス(自己組織化)理論まで当時の最新科学理論 語り口はとっつきやすいが、カオス理論からオートポイエーシス(自己組織化)理論まで当時の最新科学理論を取り込むなど、学問の垣根を越えた論考はまさに縦横無尽。たとえばギリシアのミノア~クレタ文明なども解釈の仕方ひとつで全く違う様相が見えくるし、旧約聖書では歴史的な書き換えの跡を見つけることで、蛇/サタンの誘惑と知恵の実のエピソードが180°違った角度で見えてくる。まるでミステリの謎ときを読んでいるように刺激的で愉しかった。
 
   *…社会学に詳しいわけではないが、協調型社会から支配者型社会への移行がおこった
     とする仮説は、パラダイムシフトにも等しいくらいの画期的な説ではないのだろう
     か?

 以下、もう少し詳しくみていこう。まず「協調型社会」について。これは“宇宙を支配する神秘の力”の本質が、服従を強要したり罰し破壊することではなく「与える」ことにある ――という世界観を持った社会のこと。
 平塚らいてうじゃないけれど「古来、女性は太陽であった」というのは昔から良く言われ、先史時代の大地母神や女始祖などの女神信仰につながるものだが、著者によればそれは単に「神の性別が男ではない」ということではない。それが意味するのはリーダーが性別には無関係に選ばれるような、そして誰かが誰かを支配する形ではなく比較的緩やかな結びつきによって成り立つ社会のことなのだそう。
 まあ確かに「家父長制でない」からといってそれがイコール「女家長制である」必然性は無いよね。(話は逸れるが、このあたりがフェミニズム活動家やその批判者の間で、誤解やすれ違いが起きるポイントだったりして。「男性支配制」の視点をもつ人々は、「女性解放」という言葉を単に「支配権を男から女に変えるだけ」という意味で捉えてしまいがちなのかも知れないね。もちろん女性による男性からの権力奪取というだけでは、何の解決にもならないのは当然なんだけど。)

 ちなみに本書の題名にある≪聖杯≫というのは、マリア信仰を通じて大地母神の信仰と協調型社会につながるもの。すなわち育成して与える“実現的権力”の象徴なのだそうだ。それに対して≪剣≫というのは、奪い取り支配する権力の象徴という事になる。
 それではいつどうやって≪剣≫により≪聖杯≫からの権力奪取が起こったのか? 著者はそのきっかけを「北方の不毛な大草原と南方の乾燥した砂漠」から出現した「周縁孤立集団(**)」によるものとする。彼らに依ってもたらされた好戦的で他を支配する社会構造の概念は、瞬く間に母系社会中心の世界を席巻した。その結果、金属を「装飾品や食器や宗教用具」ではなく「武器(剣や戦闘斧)」の原料として用いる社会が出現。この時点をもって長らく続いた協調型社会はほぼ壊滅し、世界的な規模で男性優位の社会が開始されることに。

  **…セム族や、いわゆる“インド=ヨーロッパ語族”に属する民族であるクルガン、
     ドーリア人など。

 まるで後戻りできない化学反応のような決定的な変化。この時をもって体躯や腕力が基準となる世界、他者への欲望と猜疑が支配する世界が始まったのだ。(このスタイルはやがてユダヤの民による一神教の発明と“父なる神”の出現によって、さらに強固なものとなった。)
 たとえ“愛”の宗教を標榜するキリスト教であっても、男性優位の構図に違いはない。教皇を頂点とした男性による権力構造を持ち、女性は蛇/サタンとともにアダムを誘惑した罪深き者として扱われる。
このあたりのくだりは、男である自分が読むと何だか心が痛む。他者を屈服させ自分の思うようにする為の究極の手段が「暴力」であるとするなら、この本に書かれている事って「はたして暴力に対してどのような対抗が可能なのか?」という、「自由を守ること」についての本質的な問いかけを示唆している気がするな。(答えを持ち合わせているわけではないのだが。)
 まだ読んだことは無いが、クリステヴァやジラールはこのあたりをどのように考えたのだろう。うーん、気になる。そのうち読んでみたい本がどんどん増えていくなあ。(苦笑)

 閑話休題。こうして世界は支配者型社会へと移行したわけだが、その後も協調型世界の復活に向けた動きが無かったわけではない。著者がその例として取り上げているのは初期キリスト教だ。
 キリスト教にはかつて「異端」と呼ばれる宗派が存在したが、「正統」であるローマカトリックによって弾圧され歴史から消えていった。グノーシス派を始めとする数々の「異端」が信仰していた教義の詳細は長らく不明とされていたが、近年になって資料が新たに発掘された。その資料をみると初期のキリスト教は、ローマカトリックによって確立した現キリスト教とは全く異なるものであることが分かるとのこと。
 著者によればそこに書かれていたのは、マグダラのマリアを始めとする女性信者たちと親しく交わり、当時の社会通念であった男性中心の価値観を否定して、性差によらない平等社会を志向するイエスの姿だったのだ。しかしイエスの死後、ペテロたち男性使徒らは女性信者たちへの弾圧を強め、やがて司教たち(男性)を頂点とする教団のピラミッドが作られていったのだとか。このあたりの記述を読むと、これまでの自分の考えが揺さぶられひっくり返される快感が味わえる。
 とくに興味深かったのは初期のキリスト教がローマ帝国によって迫害された原因について考察したくだり。本書によれば、それは初期キリスト教徒たちがイエス本来の教えに忠実に従って、ローマやユダヤ社会がもつ(女を軽視し従属させるタイプの)当時の家族構造を侮蔑・拒絶したせいなのだとか。当時の施政者や宗教的権威たち(もちろん男)は、そのあまりに異質な考え方に本質的な脅威を感じたのだ。うーん、なるほど。
 これって今でも起こっている事だよね。男女間の差別を無くそうとする気運が高まるたび、伝統という名を借りた反動が(主に既得権益者たちから)巻き起こる。本書では例として、イランのイスラム原理主義の指導者であったアヤトラ=ホメイニ師やアメリカ合衆国のレーガン大統領、さらにレーガンの精神的な支えであったとされるキリスト教原理主義の説教師ジェリー・フォールウェルなどが挙げられている。概ね社会的に不安が高まると、虚無的で投げやりな心と過去の「古き良き時代」への郷愁から、男性支配への欲求が強まる傾向があるようだ。
 以上が本書の副題である「われらの歴史、われらの未来」のうち前半の「歴史」の部分。次いで後半では「未来」への展望が語られる。(***)

 ***…ただしその話の前に、本書で著者が定義している新たな用語について説明が必要だ
     ろう。先ほどから「協調型」とか「支配者型」とか、もしくは「母系」とか「家父
     長制」とか色々な呼び方を使っているが、著者が示そうとする概念を表現するには
     どうもしっくりこない。そこで本書の第8章で著者は、(手垢のついた従来の用語
     の使い回しではない)新しい用語の提案を行っている。男たちの力の行使や威嚇に
     よって支配される社会制度については、先ほどの“支配者型”とか“家父長制”で
     はなく<男性支配制(androcracy)>という名前を、そしてどちらか一方がもう
     片方を支配するのでなく、両性を結びつけて融解(あるいは解放)する社会制度に
     対しては、“女家長制”ではなく<女男結合性(gylancy)>という名前を用いる
     ことを提唱している。詩人ヴァレンティノスの言葉を借りれば「聖なるものは女性
     原理と男性原理の両者からなる<ニにして一なるもの>として、心に描くことがで
     きる」ということらしい。

 数千年にわたって浸透してきた<男性支配制>の社会。これを覆すのは決して容易なことではないだろう。現在の社会における既得権益者たちは「これは原始から近代へと社会が進化を遂げてきた結果であって、原始社会へ戻ることがないのと同じく不可避である」というかもしれない。
 しかし著者はいう。生物の「進化」とは違って社会には不可逆的な「進化」はない。時代によっては多少の揺り戻しはあろうとも、不断の努力を続ける人々がいる限り社会の全ての人々にとって、より良い世界へと少しずつであっても変えていけるのだと。(逆にナチスに代表される全体主義は、その支配方法と根本構造において<男性支配制>の形態が辿る究極の姿であり、なんとしても避けなければいけないものなのだとか。)
 「昔の技術的にも社会的にも進歩していなかった社会のほうが、数百万の子供たちが毎年餓死する憂き目をみているのに、数十億ドルという金がますます巧緻な手口で人を殺すために注ぎこまれている現代世界の高度技術社会よりも、ずっと進化していた」
 以上の言葉に、彼女の主張は端的に表現されているといえるのではないだろうか。

 ではそのような社会はどのようにすれば実現するのか。著者はそれらの動きの中核として、ウィーナーが創始したサイバネティクスの考えを借用している。「フィードバックを知覚すること」「それを正確に解釈すること」「それを使って変化する事」。これら3つのルールをうまく用いることで、社会を変えていくことが出来るのだとか。
 うーん、そういわれてみると、確かに少しずつではあっても世の中は「より良い方向」に変わってきている気がしないでもない。例えば(本書に書かれているように)イタリア・ルネッサンスもそうであったし、フランス市民革命やそれに続くアメリカ合衆国の独立運動、そしてベトナム戦争に反対する人々の運動などもそう。日本でも同じことだ。どこぞの自治体の首長が人格否定をする発言を繰り返しネット上でそれに追従するものたちが現れようとも、必ずそれに反対する者たちが声を上げる。ツイッターなどの新しいメディアにより、災害時の人と人との直接的なつながりと助け合いが生まれる。(同時にデマの拡散があるのは困りものだが。)…そういう社会であることを是非願いたいし、そのような社会こそが唯一健全な社会といえるのではないか、そんな気がする。
 いま世界中の人々が取り組もうとしている環境問題もまた「協調」の表れのひとつ。また全米ライフル協会の強硬な反対にも関わらず、銃を規制しようという機運がアメリカ全土で高まったり、黒人や女性の大統領が誕生することなども、全て同じ視点で語ることが出来るのものだ。
 征服や支配ではなく心づかいと提携を尊重すること。そして猜疑と防衛から信頼と成長へ目を向けること。いわゆる「男性的」といわれる競争原理から「女性的」といわれる協調原理への転換は、ビジネスの世界でいうところの“Win-Winの関係”と呼ばれるものに相違ない。本書の最後には、著者による理想を描いたビジョンが示されるが、そこでは心理学/社会学/政治学/経済学などが融合することで実現する、平和で繁栄にみちた世界が描かれるが、そこに敗者はいない。
 切り裂き支配する力の象徴たる「剣」から、調和と生産の象徴たる「聖杯」へ。―― 今はまだ夢かもしれないが、我々の不断の努力によってきっと実現できるという本書の主張は、「イマジン」でJ・レノンが歌ったように皆が信じさえすればいつか作り出せる世界なのかもしれないね。(ちょっとクサかったかな?/笑)

<追記>
 古い話で恐縮だが、2009年に公開された映画『アバター』にも良く似たアイデアが使われていた。かなり単純化されているとはいえ、本書と同様の「協調(惑星パンドラの生態系)」vs「支配(地球の巨大コングロマリット)」という図式。映画をこんな視点で見るのも面白いのではないかな。

2013年1月の読了本

『美術で読み解く新約聖書の真実』 秦剛平 ちくま学芸文庫
  *著者がどういう経歴の人か良く分からないのだが、文を読む限りではかなりエキセント
   リック。(美術大学の先生ってこういうタイプが多いのかな?内容は「宗教画の解説」
   ではなくて、宗教画に基づいて「イエスの生涯」に関する独自の仮説を開陳したもの。
   一応の説明はなされるのだが、歴史学的や文献学的にちゃんとした考証がなされている
   わけではなく、芸術家の感性によるものが大きいとみた。(題名にあるように「読み解
   いている」わけではない。)書きぶりもオヤジギャグと私見が満載でかなり好き勝手
   な感じだし、本書は「愉しい読み物」として読むのがいいのではよさそう。学芸文庫の
   一冊として出るのがふさわしいかどうかはまた別の話(笑)。文庫オリジナルだそうだ
   から、きっと編集の人も困ったことだろう(笑)。気楽に読む分には面白いから別に
   いいんだけどね。
『虎よ、虎よ!』 ベスター ハヤカワ文庫
  *何十年ぶりかで読み返したけどやっぱり愉しい! 荒唐無稽で絢爛豪華、たっぷりの
   冒険と悪趣味とアイデアを詰め込んだ贅沢なSF小説。
『ドン・キホーテ 前篇(一)』 セルバンテス 岩波文庫
  *いつかは読みたいと思っていたが、新年会がスペイン居酒屋だったのを機会に手を出し
   た。(我ながらなんちゅう安直な理由。/苦笑)前後篇を合わせて全部で6冊の大部だ
   が、これからゆるりと読んでいこう。
『僕僕先生 さびしい女神』 仁木英之 新潮文庫
  *中国の神仙が活躍する物語は昔から好きだ。『列仙伝・神仙伝』とか『捜神記』とか。
   最近はシリーズ本を殆ど追っかけていないのだが、本書は出るのを楽しみにしている数
   少ない1冊。
『幻想文学入門』 東雅夫/編著 ちくま文庫
  *全三巻からなる、文庫版オリジナルアンソロジー<世界幻想文学大全>の第一巻。本書
   は幻想文学に関する解説/評論を集めたもので、後に続く小説集の『怪奇小説精華』と
   『幻想小説神髄』の露払いをする役目。収録されている執筆者は次のとおりだ。
   (敬称略)澁澤龍彦/平井呈一/紀田順一郎/中井英夫/倉橋由美子/ノディエ/小泉
   八雲/ラヴクラフト/カイヨワ。
   特にラヴクラフトやカイヨワの文章がこれだけまとまって読めるのは貴重。幻想怪奇な
   物語のファンとしては、最近になって俄かに活気づいた出版状況はとっても有り難い。
『聖杯と剣』 リーアン・アイスラー 法政大学出版局
  *「ジェンダー論の基本図書」本とのこと。題名からはアーサー王伝説か何かを連想して
   しまうが、そうではなく協調型社会(聖杯)から支配型社会(剣)への転換と、それに
   伴い性差にによる差別が進行した過程について考察したもの。副題は「われらの歴史、
   われらの未来」。
『「紙の本」はかく語りき』 古田博司 ちくま文庫
  *冊子「ちくま」誌に「珍本通読」という名で連載された文章を編集しなおして、書き下
   ろしを加えた本。中身は色々な本についての感想や紹介だが、本の選び方や読み方の
   スタンスが自分に似ているところがあって共感できる。取り上げられている本は自分の
   守備範囲とは全く違い、これからもおそらく手に取る事は無さそうな本ばかり。でも
   それだから却って、著者のブラブラ散歩いや逍遥におつきあいして、「へえーっ」「ほ
   おーっ」と声をあげるような気楽さで付き合えるというわけ。全く違う世界の話だから
   自分からすると例えば明治や大正に書かれた随筆を読んでいるのと変わらないかも。
   (取り上げられている本は、それよりもっと古い時代のものが多いしね。)自分の中で
   は寺田寅彦氏やリンボウ先生(林望氏)の印象に近いかな。後半は由良君美氏とか。
『怪奇小説精華』 東雅夫/編著 ちくま文庫
  *<世界幻想文学大全>の小説篇。かつて本邦に紹介された怪奇小説の名作を選りすぐっ
   て、当時の名訳そのままで収録。未読や既読が入り混じっているが、特に気に入ったの
   は次の作品。(カッコ内は訳者名)
   ハインリヒ・フォン・クライスト「ロカルノの女乞食」(種村季弘)/エドワード・ブ
   ルワー・リットン「幽霊屋敷」(平井呈一訳)/W・W・ジェイコブズ(倉阪鬼一郎)
   ハンス・ハインツ・エーヴェルス(前川道介訳)「蜘蛛」/ジャン・レイ(森茂太郎)
   「闇の路地」。
   えらく細かな話で恐縮だが、「蜘蛛」に出てくる妖女の名前が、同書にも掲載されてい
   るゴーチエの短篇「クラリモンド」に出てくる妖女と同名なのに初めて気が付いたのは
   今更ながら収穫だった。
『欧州のエネルギーシフト』脇阪紀行 岩波新書
  *著者は朝日新聞の論説委員。EU諸国を中心にした欧州の発電事情に関するルポルター
   ジュで、話題の中心は原子力発電からの依存脱却と再生可能エネルギーへの取り組みに
   ついて。ひとことで欧州といっても国により事情は異なり、例えばスウェーデンでは
   水力発電が中心だし、デンマークでは風力発電に力を注ぐ。集約型の大きな発電施設
   ばかりでなく、コージェネレーションによる分散型発電の社会システムなども紹介。
   著者の書き方に少しバイアスがかかっている感じもあるが、直接現場を歩いて集めた
   関係者の声は貴重。色んな国の良いところはどんどん取り入れればいいんだよねえ。
   ホント。
『山頭火句集』 種田山頭火 ちくま文庫
  *村上護/編 昭和初期に活躍した漂泊の歌人、種田山頭火の句に小崎侃の版画、それに
   随筆を合わせた作品集。やっぱり好いなあ、山頭火。べたべたとした情緒を廃して、
   一瞬を切り取った素描が続く。今でいえば、ツイッターに投稿された風景写真のような
   感じか。でもそれでいて山頭火の心象が痛いほど伝わってくるのはさすが。気に入った
   作品をざっと書き出してみる。(やはり旅先で詠んだ句の方が好きだな。)
    「分け入っても分け入っても青い山」
    「うしろすがたのしぐれてゆくか(後姿の時雨て行くか)」
    「物乞ふもなくなり山には雲」
    「今日の道のたんぽぽの咲いた」
    「ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない」
    「百舌鳥のさけぶやその葉のちるや」
    「空へ若竹のなやみなし」
    「ひとりの火をつくる」
    「炎天のレールまっすぐ」
    「なかなか死ねない彼岸花さく」
    「ついてくる犬よおまへも宿なしか」
    「もりもりもりあがる雲へ歩む」
   思わず笑ったのは「ながい毛がしらが」。哀しい!これは哀しすぎるぞ。(笑)
   併録された随筆もなかなかに良い。句の生まれた背景が本人によって開陳されているの
   もだが、文章にぐっとくるものがある。気に入ったのはたとえば次のようなフレーズ。
   「余白といへば、私の生活は余白的だ」「私は水の如く湧き、水の如く流れ、水の如く
   詠ひたい。」あるいは「道は前にある、まつすぐに行かう、まつすぐに行かう」…
   文章のひとつひとつがまるで輝いているかのようだ。
『裸婦の中の裸婦』 澁澤龍彦/巌谷國士 文春文庫
  *西洋の芸術作品に取り上げられた裸婦について紹介した気楽なエッセイ。全10回のうち
   後半の3回分は、癌のために入院した澁澤に代わって巌谷が引き継いだため、本として
   は共著となっている。(作品自体は澁澤の選定によるもの。)ひと言でいえば平凡社ラ
   イブラリーの『フローラ逍遥』を裸婦でやったようなものといえるかも。バルチュス
   「スカーフを持つ裸婦」やヴァロットン「女と海」など、取り上げられている作品も、
   いかにも澁澤好みでシュールだったり無機質だったり不思議だったり。また絵画ばかり
   ではなく、両性具有のフルマフロディトスの大理石像や、四谷シモンによる球体関節の
   「少女の人形」なども紹介。
『アサイラム・ピース』 アンナ・カヴァン 国書刊行会
  *『氷』や『ジュリアとバズーカ』といった作品で一部読者に熱狂的なファンを持つ著者
   の第一作品集。アサイラム/asylumとは「精神病院」「避難所」「保護施設」という
   意味で、読後感はかなり重い。「絶対的な負の力」とでも言えば良いのか、ここまで圧
   倒的に「負であること」に価値を持つ本も珍しい。よくある自虐的なねちねちとした
   独白ではなく、突き放した客観的な描写が却って心に刺さってくる。本書が持つ”マイ
   ナス”の絶対基準は、これから生きていく上でいつか役立つときが来そうな気がする。
『宇宙になぜ我々が存在するのか』 村山斉 講談社ブルーバックス
  *素粒子物理学の理論研究の若手リーダーが一般読者向けに書いた素粒子物理学の解説書。
   最新のトピックスをふんだんに散りばめて、今の宇宙がどのようにして出来たかについ
   て語っている。中でも驚いたのは本書の平易さ。とても専門家が書いたとは思えない程
   文章がこなれている。素人にも理解できる書き方ではあるが、「最新書粒子論入門」と
   銘打ってあるだけあって、ヒッグスやLHC、超ひも理論やインフレーション理論など、
   最新トピックスにも事欠かない。「どこかで聞いたことあるよなー」という程度の話に
   ついて、全体を体系立てて分かりやすく説明するにはセンスがいるが、この著者は充分
   にセンスあるとおもうよ。いや本当に。
最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR