幻想と怪奇についての覚え書き

  ※今回は趣味のマニアックな話題が全開ですので、あしからず。

 日頃から読書については「広く浅くお気らくに」がモットーなので、本のジャンルにこだわりは無い。小説/学術書/エッセイなど、何でもごちゃ混ぜにして読んでいる。中でも小説については幻想や怪奇、それにSFやファンタジーといった、不思議や奇想を売り物にしたものが好きでよく読んでいる。ミステリも割と好きだが、そちらでもハードボイルドや警察小説よりは、“名探偵”が登場して不可能犯罪の謎を解く「パズラー」と呼ばれるタイプが好み。
 そこで今回はいつもと趣向を少し変えて、これら“不思議系”の小説の中で特に「幻想」と「怪奇」について、自分なりの考えをひとつご紹介したい。

 「幻想」ないし「怪奇」という小説のジャンルは、すこし難しい言い方をするならば、どちらも日常生活に感じる「世界とはこういうものだ」という確信を、わざと揺らすことで愉しむものといえるだろう。その揺らし方や狙いの差異でジャンルが異なるというのが自分の解釈。ロジェ・カイヨワが『遊びと人間』で示した分類でいえば、いずれも“ilinx”(イリンクス/眩暈)を愉しむたぐいの娯楽ともいえる。

 まず「幻想」についてだが、その本質は「主観による世界確信のゆらぎ」にあると考える。幻想小説においては、通常の生活では起こりえない不可思議な状況が主人公の身に降りかかる。ここで重要なのは、その異常な現象に対して、必ずしも合理的な解釈は必要ないという事だ。(*)
 どういう事かというと、「幻想小説」というジャンルの小説は「世界確信のゆらぎ」の効果を文章で表現することを主眼においたものというわけ。例えばこの理屈に従うならば、『ドグラマグラ』は(ミステリではなく)幻想小説の範疇に入ることになる。

   *…ここらへんが「論理」と「分析」の娯楽であるSF文学と、幻想文学の最も大きな
     違いではなかろうか。

 一方で「怪奇」とはいったい何か。それは前述の「世界確信のゆらぎ」により起こる、“漠とした不安”や“恐怖”という「心情」の原因となるものといえる。つまり怪奇小説はその心情を積極的に味わう文芸ジャンルだ―というのが自分の解釈。(対する幻想小説の場合、ゆらぎによる「眩暈」や「失見当識」はあっても「恐怖」はあまり意識されない。)
 なお余談になるが、怪奇小説とホラー小説は「死への恐怖」という点では共通していても、本質的には似て非なるものであると思う。ホラーは死への恐怖さえあれば成立するものであり、必ずしも「世界確信のゆらぎ」は前提にならない。例えば連続殺人鬼に襲われる物語は、ホラーではあっても怪奇にはならないわけだ。(ただしその殺人鬼が何度でも甦ってくれば、それはそれで怪奇にはなるかも。)

 話を戻そう。幻想と怪奇の間の線引きを示すには、泉鏡花の作品を例にするのが分かりやすくて良いかも知れない。
 彼の小説は随筆「おばけずきのいわれ少々と処女作」の中でも述べられているように、「観音力」による不思議を描いた作品と「鬼神力」によるそれを描いた作品に分けられる。いずれも現実世界を破って「向こう側」にあるものが垣間見えるという点では同じだが、前者がまるで観音様の慈愛のような“奇蹟”を描いて不思議な余韻を残すのに対し、後者はあくまでも登場人物を襲う“理不尽”の描写が主眼。これすなわち自分の中では、先ほど述べた「幻想」と「怪奇」の違いに他ならない。(**)

  **…観音力の例としては「薬草取」「草迷宮」「化鳥」など、鬼神力の例としては
     「眉かくしの霊」「海異記」あたりが挙げられるだろう。もしもご興味ある方は
     岩波文庫などでどうぞ。

 SFの場合、その愉しさは「論理のアクロバット」だったり「壮大な奇想」だったりして、まるで遊園地に遊びに行くような感覚に近い。しかし遊園地は身体が元気な時はいいけれど、疲れがたまっている時などはちょっとしんどい。(家族サービスの親御さんはお疲れ様です。/笑)
 逆に心が疲れた時などは、じんわりと沁みてくる幻想・怪奇な物語が意外と心地よかったりするのだ。自分にとってこの手の小説は、ちょっとした「読むクスリ」といった感じなのかも知れない。(あれ、このフレーズ前にも描いたことあるかな? まあ色んなクスリを使ってるということで。/笑)

 以上、今回はこんなところで。(気ままな覚え書きなので、ちゃんとした結論がないのはご容赦いただきたい。)またSFやファンタジーやミステリの愉しみ方の違いについては、いずれ機会を改めて書いてみたい。
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『ニュー・アトランティス』 ベーコン 岩波文庫

 16世紀半ばに活躍した「イギリス・ルネサンス期」の知の巨人フランシス・ベーコン。本書は彼が晩年(1627年)に書いた未完の書で、社会と科学に関する自らの理想を描いたもの。いわゆる「ユートピア物」に分類される、短めのフィクションだ。
 舞台は太平洋の真ん中にある島国・ベンサレム。そこに漂着したイギリス帆船の乗組員が見聞する驚異の数々と理想郷の姿―― という話。本書ではかつて「大アトランティス」と呼ばれた国が北アメリカ大陸にあった設定になっていて、大アトランティスは“神の怒り”にふれて滅びてしまったが、その跡を継ぐ「ニュー・アトランティス」こそがベンサレムというわけだ。

 まずはこの国の特徴をざっと挙げてみよう。
 国民はみな敬虔なクリスチャン。国民性は穏やかで誠実であり、たとえば役人は給与以外に報酬(賄賂)を受け取らない。帆船の乗組員たちに対しても謙虚で慎み深い態度を示し、誠実で礼儀正しいやりとりをする。
政治は仁徳にすぐれた王による統治が行われていて、公衆衛生の体制も充実。社会的な相互扶助とトラブル解決(調停)の仕組みがある。性による不平等がなく家族制度は一夫一婦制。貞節が守られており、一夫多妻や娼婦は禁止されている――。ふむふむ。土台がキリスト教と王権性にあるというのはご愛嬌として、社会制度については「なるほどねえ」といった感じだね。
 しかし本書の白眉はこの先。科学研究の実用化の様子が語られる部分こそが面白い。これもざっと挙げてみよう。人工金属/健康維持&長命/医学・薬学・生命科学/建築/塩水濾過/気象の予報と制御/動植物の品種改良/工芸/バイオマスを含むエネルギー技術/光学・音響・動力などを含む物理学的な研究/永久運動/数学...。思いつく限りのありとあらゆる科学の驚異が、次々と紹介されていく。(中に永久機関まで入っているのは、本書が書かれたのが17世紀初めなので致し方ないところか。)
 ちなみにこれらは全て「サロモンの家」と呼ばれる教団による研究の成果ということになっている。この教団は学府と研究機関を兼ねており、政府(国王)から独立した組織になっているとのこと。(むしろ位置づけとしては政府組織よりも上位。)
 教団の元になっている教えは、どうやらキリスト教系の神秘主義らしいのだけれど、肝心のところで物語が中断してしまい、そのあたり詳しく説明されないのがとっても残念。個人的には一番興味があった部分なんだが。

 解説によれば、ベーコンはアリストテレスの哲学を嫌悪していたようだ。その理由は「論争と抗弁の術として使われるのみ」だからだそう。そこでベーコンは自らの求める理想を、「人間の生活を益するものの生産をもたらす哲学」としたのだそうだ。なるほどそう言われてみると、本書で紹介される様々な社会システムや学問領域がいずれも「人間の生活を益するもの」で、きわめて功利的なものばかりなのも納得できる。
 この国についてはどうしても、ユートピアにありがちな「聖人君子の退屈な国」という印象が否めない(苦笑)。でもそれはそっくりそのまま、当時のイギリス社会の裏返し、すなわち実際に社会に欠けているとベーコンが感じていたものであると言っていい。そう考えるとちょっとステレオタイプな社会描写も、それなりに納得感をもって読むことが出来る。(本書はそんな読み方の方が面白いかもしれない。)
 「幸福は一様だが不幸にはさまざまな形がある」と書いたのは、たしかトルストイだったっけ? してみると、色んな話で描かれた理想郷がどれも似通ってしまうのは、ある意味仕方ないのかもしれないね。でもって、そこでの生活が愉しそうに感じられないのは、自分が不謹慎だからかな(笑)? 
 ダンテの『神曲』でも<地獄篇>は生き生きしていたけど、<煉獄篇>を経て<天国篇>になるといかにも退屈そうな生活だったものなあ。自分はきっと理想郷には住めそうもないな。もっと猥雑で活気があった方がいいや。

『同時代ゲーム』 大江健三郎 新潮文庫

 今さら恥ずかしいのだが、大江健三郎はやっと2冊目。学生時代に、短篇集の『空の怪物アグイー』に手を出して以来だ。由良君美氏じゃないけれど、随分と「偏書」な読書子を自認するだけあって(笑)、いわゆる著者の代表作と呼ばれるものは一切読んでない(^^;)。
 そんな自分が何で本書を読む気になったかというと、筒井康隆氏が自らの読書遍歴を綴ったエッセイ・ガイドブックの『漂流』で取り上げられていたから。今手元に本がないのでうろ覚えだが、(筒井氏いわく)神話をテーマにした大傑作で、世間的には失敗作と言われているとの事。(失敗しているところが好いとか何とか、良く分からない。/笑)もともと神話的な話は大好物だし、失敗作だとか傑作だとか言われて俄然興味が湧いた。
 で、読んでみた感想を率直に書くと、たぶん学生時代に読んだら挫折しただろうなーという感じ。失敗作と言われた理由も自分なりに理解できたし、逆に筒井氏が大傑作といった理由も何となく想像がついた。いや、決して面白くない訳じゃない。ただ面白さがわかるのにかなり苦労する ――そんな感じの本だ。

 物語の主要舞台は、かつて「壊す人」と呼ばれる人物に率いられて山奥に移り住んだ人々(創建者)によって作られた村。(創建当時のことはすでに神話と化している。)
 その後の「自由時代」を経て、隠れ里であった村は江戸時代には藩体制に組み込まれるも、それなりの独立性を保ちつつ時代が過ぎる。しかし明治になり近代的な国家体制が整えられるにつれ、彼らは徐々に追いつめられることに。実際の人口の半分しか戸籍化しないという奇策をもって「大日本帝国」の制度から逃れようとするが、やがて壮絶な「五十日戦争」を経て瓦解していく…。
 ――以上、設定だけ書くととても面白そうに聞こえるし、自分の好きな神話的題材にも事欠かない。なのになぜ本書がこれほどまでに読みにくいのか? なぜ「失敗作」と言われるのか? それはおそらく本書が、通常の神話が持つ枠組みや語りを否定した構成をとっているからではなかろうか。

 語り手は舞台となる「村=国家=小宇宙」で、“最後に生まれた子供”と呼ばれている双子の兄妹の兄(露己/つゆき)。村の神話と歴史の語り手になるべく「父=神主」によってスパルタ教育を受けて育てられた彼は、留学先のメキシコから、同じく「父=神主」により巫女として育てられた妹(露巳/つゆみ)に向け、自らの近況とともに村の歴史を手紙に綴って送り続ける。本書は兄が妹に送った6通の手紙という形式をとっており、全てが兄のひとり語りで会話文は皆無、すべて地の文なのだ。本書のとっつきにくさは、まずここにある。村の歴史と現在が入り混じって渾沌としてくるところは、ガルシア=マルケスの『族長の秋』にも共通する“読みにくさ”と言えるかも。
 一方で、作中に出てくるエピソードはどれも大変に魅力的だ。100歳を超えても生き続け、それどころか徐々に巨大化し続けた創建者たち。事故に遭った後、ミイラ化して仮死状態を保ち続け、やがて胎内で犬ほどの大きさまで回復したとされる「壊す人」。かつて「牛鬼」と呼ばれ、村の祭りで黒牛の山車になったとされる原重治という人物。そして「村始まって以来最もいかがわしい人物」と蔑まれたトリックスター・亀井銘助と、彼が神格化され信仰されるに至った「暗がりの神/メイスケサン」など。神話的かつ不思議なエピソードが多層的に繰り返し現れる。(他にも双子の天体学者であるアポ爺にペリ爺や、大日本帝国軍に虐殺された「木から降りん人」と呼ばれる逆立ち老人というのも登場。ヘンテコで魅力的なキャラには事欠かない/笑)
 このように抜群に面白くなりそうな素材やエピソードを扱いつつ、敢えて物語性を否定しようとするその姿勢。それは著者の狙いが、「非神話/アンチロマン」を通じて「国家」という幻想を語ろうとするところにあるからだろうか。そんな気もしてくる。(事実、本書を読んでいる間中、頭の中に「国家とは何か?」という問いかけがモヤモヤと浮かんでは消えていた。)

 話は戻るが、本書の“読みにくさ”についてもう少し。それは先に述べたような、全てが地の文で構成されていることの他に、もうひとつある。何かというと、本書は「神話」を語っているにも関わらず「事実」としての直接記述でなく、すべて語り手である兄が「父=神主」から聞いた「伝聞情報」であるという点だ。その結果、(奇想天外な話であるにも拘らず)すべてが真偽不明な「聞いた話」になってしまい、衝撃度が限りなく弱まることに。
 であるからして、本書の物語としての面白さは前半の「神話」の部分にはなく、むしろ後半の「歴史」の部分、すなわち大日本帝国軍との「五十日戦争」であるという逆説も起きてくる。(神話性が薄れるほどに物語としては面白くなっていくというのは何だか不思議な感じだ。)
 ラストにはオーギュスト・ブランキの『天体による永遠』と見紛うようなビジョンも出てきて驚かされる。とにかく色んなものを凝縮して、渾沌とした「森と再生」の物語を紡いでいるのが、本書の魅力といえるのかも知れないね。

 「あったか無かったかは知らねども、昔のことなれば無かった事もあったにして聴かねばならぬ。よいか?」

 「父=神主」が、語り手である「僕」に対して叩き込んだ上記の教えが、そのまま本書の多重性を示しているようでなかなか。手ごわい本ではあったが、小説の虚構性をライフワークとする筒井康隆氏が絶賛したのも、むべなるかな。ふむ。

あけましておめでとうございます

 昨年はぎりぎりまでどたばたしていましたので、年末年始はゆっくりと休養をとりました。遅い新年のご挨拶になりましたが、あけましておめでとうございます。

 年末年始は子供が帰省する為どこへも行かず、おかげで本がたくさん読めました。今日現在読みかけの3冊は含まずに休み中に8冊ほど読了。まるで活字欠乏症に罹ったようで(笑)、読んでも読んでも読み足りない ――そんな感じでした。(昨年は結局のところ150冊読んだことになります。)

 決して冊数を増やすのが読書の目的ではないですが、一冊でも多くの良い本との出会いをしたいものだと思います。「少年老いやすく、本読み難し」小さな活字が見えにくくなってきた昨今、余計にそんなことを思ったりもする今日この頃です。

 それでは今年も皆様に良い本との出会いがたくさん訪れますよう!
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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