2012年12月の読了本

『製鉄天使』 桜庭一樹 創元推理文庫
  *推理作家協会賞を受賞した『赤朽葉家の伝説』の中から生まれたスピンアウト小説。
   『赤朽葉…』は鳥取で製鉄業を営む一族の、女性3代にわたる物語。その2代目に当た
   る赤朽葉毛毬は中国地方の暴走族(レディース)の頂点を極めた存在だが、彼女のエピ
   ソードをベースにしてファンタジー色も加え少しライトノベル風味も加えたのが本書。
   (登場人物の名前も微妙に変えてある。解説で大森望氏も書いているように、)前作が
   小説としての「リアルっぽさ」を追求したのに対して、こちらは更なる「フィクション
   らしさ」を追求した感じ。京極夏彦などもそうだが、一気読みできる本を書けるという
   のは、それだけで大した才能だと思うよ。
『本にだって雄と雌があります』 小田雅久仁 新潮社
  *デビュー作『増大派に告ぐ』で日本ファンタジーノベル大賞を受賞した著者が、満を持
   して放つ力作ファンタジー。「書物と書物を不用意に並べると交わってみたこともない
   新しい本がこの世に生まれる」というアイデアも面白いし、装丁もユーモアあふれる
   文体も相まって、最初のうちは軽い話かと思っていたが、なかなかどうして。
   実は『百年の孤独』と同じように、政治学者・深井與次郎を中心に深井家6代にわたる
   歴史を描いた物語でもある。ファンタジーとしての味付けもどちらかと言えば魔術的
   リアリズムの雰囲気に近い。笑いありジンとくるところありの、読み応えある良質な
   エンタメ小説だった。書物と「物語の魔法」を愛する全ての人にお薦めする。
『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』 菊地達也 講談社選書メチエ
  *スンナ派とシーア派の成り立ちを中心にして、イスラム教が宗教としての体裁を整える
   経緯を考察。キリスト教の歴史を知ることが現代のヨーロッパ社会を理解する上で必要
   不可欠なのと同様に、現代のイスラム社会を深く知るには格好の本。
『フランクを始末するには』 アントニー・マン 創元推理文庫
  *特に気に入ったのは「マイロとおれ」「フランクを始末するには」。「豚」の不気味な
   夫妻や「契約」「凶弾に倒れて」の後味の悪さもなかなか良い。(これは“奇妙な味”
   の短篇に対しては褒め言葉ととって頂こう。)
『逆光のなかの中世』 阿部謹也 日本エディタースクール出版部
  *様々な雑誌に発表されたものを集めた、バラエティに富んだエッセイ集。阿部氏が結構
   SF好きだったことがわかって意外だった。
『珠玉』 開高健 文春文庫
  *癌の手術後に小康状態の中で書かれた著者の”白鳥の歌”。ときどき無性に読み返した
   くなるのだよなあ。
『知の考古学』 ミシェル・フーコー 河出文庫
  *ポストモダン思想を代表する思想家の「最重要著作」という、帯の惹句もあながち嘘で
   はない。フーコーがやろうとしていた事、並びにその方法が余すところなく披露される。
『書国探検記』 種村季弘 ちくま学芸文庫
  *書物を偏愛する人の本はそれだけでハズレがない気がする(笑)。冗談はさておき、
   本書はドイツ文学研究の泰斗による方のおらないエッセイ集。なんで「学芸文庫」の方
   から出されたのかな?
『地底大陸』 蘭郁二郎 桃源社
  *著者名は「らん いくじろう」と読む。海野十三(うんのじゅうざ)などと同じく、戦前
   から戦中に活躍した探偵&科学小説系の作家。本書はS46年に桃源社からでた復刊企画
   「大ロマンの復活シリーズ」の一冊で、第1部は大人向けの科学小説の中短篇、第2部は
   子供向けの長篇科学小説である表題作、そして第3部は変格探偵小説の長篇『夢鬼』と
   短篇「魔像」を収録する。1部と2部は発表時の軍国主義的な時代背景もあり流石に古さ
   は否めない(笑)。子供の頃に見ていた「テレビマンガ」の雰囲気を思い出しながら、
   懐かしく読んでいた。第3部はいずれも大乱歩や夢野久作を彷彿とさせる作風で、他の
   小説とのギャップにちょっと驚き。実はこの本、先日実家に行ったときに発掘してきた
   のだが、何故こんな本が実家にあったのかは不明。小学生の頃に隣に住んでいた若夫婦
   に押井春浪『海底軍艦』をもらった覚えがあるので、その時一緒に貰ったのだろうか?
『アラビア・ノート』 片倉もとこ ちくま学芸文庫
  *1960年代後半に著者が実施した、ベドウィン(砂漠のアラブの民)への住込み調査から
   生まれたフィールドノート。今から50年近く前のことであって、おそらく宮沢常一著
   『忘れられた日本人』ならぬ『忘れられたアラブ人』なのだろう。以前読んだ著者の
   『イスラームの日常世界』などで知った、ムスリムたちの価値観や生活信条にもとづく
   日常生活が活写される。
『丸かじり劇場メモリアルBOX』 東海林さだお 文春文庫
  *東海林さだお氏のエッセイは、たまに発作的に読みたくなるのだ。本書は『丸かじりシ
   リーズ』の既刊本6冊からの傑作選。680ページもあるが、あっという間に読めてしまう
   軽さと、「あるある」&「細部へのこだわり」で気張らない愉しい読み物に仕上がって
   いると思う。(なーんて小難しく言う必要は全然ないんだけど。/笑)
『ナイトランド創刊第4号』
  *今回の特集はオカルト探偵物。ホジスンの往年の名作「カーナッキ・シリーズ」を復活
   させた作品を始め、愉しい作品が4篇。年間定期購読者の特典として、表紙イラストの
   カードセットが貰えたのも好かった。
『同時代ゲーム』 大江健三郎 新潮文庫
  *大江健三郎が神話的な題材でひとつの村の創生から消滅までを描いた作品。概要だけ聞
   くと『百年の孤独』のような感じもするが読後感はかなり違う。「国家」「森と再生」
   などがテーマかな。
『ニュー・アトランティス』 ベーコン 岩波文庫
  *16世紀イギリスの“知の巨人”が書いた未完のユートピア小説。今の眼から見て理想的
   な社会システムかどうかはさておき、当時の人が自分らに欠けていると感じていたもの
   や、あったら良いと夢想した様々なアイデアがわかって面白い。  
『巨匠とマルガリータ』 ブルガーコフ 河出書房新社
  *池澤夏樹個人編集の「世界文学全集・第5巻」。露作家のブルガーコフは『悪魔物語・
   運命の卵』も『犬の心臓』も読んだけど、最高傑作と言われる本書だけは未読だった。
   だって分厚いうえにハードカバーなんだもの(笑)。年末年始のまとまった休みを利用
   して今回やっと読了したが、これまでまった甲斐があった。『ファウスト』に出てくる
   メフィストフェレスを思わせる魅力的な悪魔ヴォランドが登場し、モスクワの街を舞台
   にロシア版百鬼夜行が繰り広げられる。今年読んだ本のなかでもかなりの上位に位置す
   る一冊。年の最後にこんな面白い本が読めて良かった。

【中入り】
 今日で2012年もおしまい。日本はもちろん激動の時代を迎えているが、活字の世界にも電子書籍という黒船が訪れて泰平の眠りが覚まされんとしている様子。一読者としては、面白い本が一冊でも読めるようになれば、どんな媒体であっても有り難いのであるが。
 さて今年一年、お気楽&気ままな拙ブログにお付き合い頂きまして、まことに有難うございました。来る2013年が皆様にとって良い年となりますよう、お祈り申し上げます。これからも宜しければお付き合いください。
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My Choice/2012年印象に残った本

 今年一年の印象をひと言でいえば、良いことも悪いことも沢山あった波瀾万丈の年だった。まず年明け早々に庭で転んで、メガネを壊し手首の骨にヒビがはいるという流血の惨事。春には無事に大学に合格した息子が下宿を始めたかと思えば、自転車で転んで太ももの骨を折る大ケガ。慌てて飛んで行った晩には、祖母が亡くなったと聞きとんぼ返り。職場でも仕事内容ががらりと変わり、忙しくなって本を読む時間が取れなくなったりと、公私ともども大変だった(苦笑)。来年はぜひとも良い事だけが沢山あるよう、そして本をたくさん読めるよう期待したい。
さて、そんなわけで、今年の締めくくりとして恒例の「印象に残った本」をざっと挙げてみよう。

<新刊部門> ―今年出版された本―
『贈与の経済学』 桜井英治 中公新書
  *中世日本の社会経済を題材にして、「古代=贈与/近代=市場」という一元的な図式で
   は計り知れない実態を紹介。目から鱗が落ちる好著。
『完全言語の探求』 U・エーコ 平凡社ライブラリー
  *『薔薇の名前』や『フーコーの振り子』といったミステリでも有名な言語学者が、欧州
   における「完全言語」または「普遍言語」に対する探求の歴史をひも解いていく。
   まさに完全言語探求の百科全書。
『ラピスラズリ』 山尾悠子 ちくま文庫
  *著者は日本には珍しい、硬質な幻想を紡ぎだす幻想作家。本書は彼女が2003年に発表
   した連作短編集の文庫化だが、久しぶりに読んだらやっぱり好かった。
『完本 酔郷譚』 倉橋由美子 河出文庫
  *『スミヤキストQの冒険』しか読んでいなかったので、「なかなかヘビーな幻想小説を
   書く人」という印象しかなかったのだが、本書をよんでまったく変わった。一杯の魔酒
   に導かれて異界を訪れる主人公と彼を取り巻く人々の作り出す雰囲気は、まさに大人の
   ための幻想譚。
『孕むことば』 鴻巣友季子 中公文庫
  *翻訳家の著者が、初めての子供の成長とともに感じた、言葉についての様々な思いを綴
   った本。子供の大けがや祖母の葬儀と重なって特に印象深い一冊となった。
『みみずく偏書記』 由良君美 ちくま文庫
  *著者は澁澤龍彦や種村季弘とならぶ碩学だったそうだが、不勉強でこの本を読むまで
   全く知らなかった。何気なく読んでみたらあまりの面白さにびっくり。専攻はロマン派
   文学だそうだが、氏の考察の領域はボーダーレス。是非ともこれから再評価されて欲し
   い人だ。
『飛行士と東京の雨の森』 西崎憲 筑摩書房
  *ページの間から音楽が聞こえてくる、ジャンル分類不能な名短篇集。今年の収穫の
   ひとつ。
『天体による永遠』 ブランキ 岩波文庫
  *19世紀フランスの革命家による「永遠」についての奇想の書。宇宙について子供の頃に
   夢想したことがある人なら堪らない一冊になるのではないか。
『青蛙堂鬼談』 岡本綺堂 中公文庫
  *百物語の形式をとった古き良き怪談集。昔から有名な本でぜひ読みたかったのだが、
   中公文庫の一冊としてめでたく復刊された。本書といい『酔郷譚』といい、今年は幻想
   怪奇のジャンルに好いものが多かった。

<既刊部門> ―古本・絶版とりまぜて今年自分が読んだ本―
『身体感覚で「論語」を読み直す』 安田登 春秋社
  *能楽師であり漢字研究者でもある著者が、孔子の時代に使われていた漢字の成り立ちに
   遡ることで、『論語』の真の意味するところを考察した本。学術系では初めてとなる
   「100点満点」をつけさせてもらった。
『民族とナショナリズム』 ゲルナー 岩波書店
  *ナショナリズム研究の基本文献として『想像の共同体』(B・アンダーソン)と揃って
   取り上げられることが多い本。『想像…』が社会学的な見地からナショナリズム発生の
   メカニズムを考察したものだとすれば、本書は哲学・原理的な見地から考察したもの。
『行動経済学』 友野典男 光文社新書
  *アメリカで発達した従来の経済学が、人間をモデル化/単純化することで数式化に成功
   した反面、現実の経済活動との乖離が問題になってきたのに対し、人間本来の心理学的
   な反応をもとに経済活動を考察しようという一派が「行動経済学」。本書はその新たな
   経済学の一般向け入門書。
『忘れられた日本人』 宮本常一 岩波文庫
  *日本民俗学におけるフィールドワークの巨人の代表作。戦中から戦後に日本全国を股に
   かけて歩き、失われつつあった風俗の記憶を土地の古老に聞き取りした貴重な記録。
   これがまた滅法面白い、まさに今では「失われた」日本文化であり日本人といえる。
『巨匠とマルガリータ』 ブルガーコフ 河出書房新社
  *モスクワを狂乱に陥れる悪魔ヴォランド。彼ら一行と作家”巨匠”ならびにその愛人
   マルガリータが織りなす蠱惑的な物語。ロシア作家ブルガーコフの代表作。

 今年は本を読む時間がなかなかとれず、新刊を追いかけるのがやっとだったような印象があったが、こうしてみるとそうでもないようだね。フィクション全般を見た時には、自分がこよなく愛する幻想怪奇のジャンルに活気があったような気がする。2013年もこの調子で沢山でてくれると嬉しいなあ。

『知の考古学』 ミシェル・フーコー 河出文庫

 ※今回は長くて申し訳ない。

 M・フーコーはいわゆる「ポストモダン」という言葉で括られる思想家のなかでも、デリダやドゥルーズらと並ぶビッグネーム。(もっとも彼ら自身は「ポストモダン」と呼ばれるのをとても嫌ったそうだが。)
 そして本書は彼の著作のなかでも重要作のひとつに数えられる一冊。なにしろ彼の著書である『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『言葉と物』『監獄の誕生』『性の歴史』などはどれも、全てがハードカバーでしか出ておらず値段も結構なもの。しがないサラリーマンの小遣いでは、気軽に買えるものではない。そんな中、本書が文庫化されるというニュースを聞いた時はとても嬉しかった。これまで河出文庫からはフーコーの『ピエール・リヴィエール』や、ドゥルーズ/ガタリの『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』なども出されており、哲学思想系の供給源として重宝している。(河出は哲学思想系だけでなく海外文学の分野でも面白い作品を出していて、イキのいい出版社のひとつ。本読みにとっては良い本を出してもらうことが、何よりも元気の源。その意味で大変に有り難いことです。^^)

 さて前置きはこれくらいにして、さっそく本書の中身について。
 原著の出版は1969年で、時期的には『狂気の歴史』(1961)、『臨床医学の誕生』(1963)、『言葉と物』(1966)という初期重要著書の後にあたる。内容としては、それらの著書で実践した自らの思索の方法について、詳細な分析を施したもの。その方法というのが題名にもあるように「知の考古学」というわけだ。
 主著と呼ばれるものを殆ど読んでいないので偉そうなことは言えないのだが、これまでフーコーに対する印象は、他の“ポストモダン思想家たち”(本人は嫌っているが面倒なのでこの言葉を使わせてもらう)に対するものとは違っていた。本のテーマを見る限りでは、監獄に狂気に医学と何だか脈絡が無い感じで、彼の提唱する“思想”というものがいまひとつ掴みきれなかったのだ。本書を読んだ結果、そのあたりが氷解したことはとても嬉しい。
 本書による彼の「思想」のポイントをひと言でまとめてしまうと、「過去の思想を研究するために開発された新たな技法」とでもいう感じ。思索方法に対する思索とでも言えば良いのかな。つまり『狂気…』『臨床医学…』『言葉…』の3冊は、取り上げられたテーマそのものに研究の主眼がある訳ではなかったのだ。(フーコー自身も、それらを研究対象に選んだのは“たまたま”という趣旨のことを述べている。)
 具体的にはどんな方法かというと、狂気や臨床医学や文法の概念(*)が成立する過程について、当時そのままの姿で様々な事象の関係性を明らかにしていこうというもの ――といってもわかり難いねえ。思想に対する思想、つまりは「メタ思想」の一種なので少しややこしいものなあ。本書の流れに沿って順に説明していこう。

   *…正確にいえばフーコーは「概念」ではなく「言説」という別の定義をもつ言葉を
     使っている。しかしとりあえずここでは“概念”としておく。

 これまで為されてきた一般的な「歴史」の研究では、たとえば世紀や時代など、「時間」の流れを尺度に世界を区切る。一方「思想史」の研究の場合は時間ではなく、海路や穀物といった個々の概念や出来事をある基準で切り取り、「○○の歴史」として再構築することが多い。ついでに言っておくと、その際に問題にされるのは過去の記録/ドキュメントが真実であったかどうかではなく、当時そのように信じられたり語られていたのは何故か?ということ。そしてその結果、どのような世界が形作られたのかについて考えるわけだが、そうすることで全体的な社会の動きを漠然と見ているだけでは見えてこないような、新しい概念が見えてくるのだ。(**)

  **…個々の事案を考えた場合、それらに共通のモノサシは存在しない。したがって概念
     の数だけ複数の「歴史」が語られることになる。例えば科学の概念(≒パラダイム)
     の変遷や、文学や美術の分野において集団に共通する特徴を取り上げて「○○派」と
     いうひと括りで扱う方法は、研究においてかなり有効な手段といえるだろう。

 ただし従来から行われてきたこの研究方法にも欠点はある。いくら研究者が客観的に判断しようとしても、如何せん過去の出来事。多くの記録が失われてしまっており、分析に必要な情報が充分に手に入るわけではない。そうなると研究者は自らが知る(もしくは知りたいと思う)事実にのみ依拠しがちで、研究者のもつ仮説や概念が先行した形になりかねない。知らず知らずのうち今の感覚による色眼鏡でみてしまう恐れもある。(フーコーいわく、歴史学が行っているのは「ドキュメントをモニュメントに変換する」作業ということらしい。)
 自分が思うにこの「概念」というものは、捉えどころのない実世界について考える際、大きな皿(世界全体)から自分の食べやすい量だけ小さな皿に取り分けることに近い。そうなるとモデル化やパターン化やそれに伴う簡略化といった一連の作業は、さしずめ食事の時に使うナイフやフォークと言えるのかも。(当然のことながら、道具には卵の殻むき器みたいに他に使い道のない特殊なものあれば、ハンティングナイフのように様々な用途に使える万能な道具もある。また“切り分け方”(研究者の技量)によって料理の質が変わったり、見た目の美しさと実際の“味”(納得できる結論かどうか)が違うのも同じ。
 ふむ。してみるとモデル化/パターン化というのは、人間が世界を認識する上で大変便利で強力な道具ではあるが、同時に認識を誤らせるウィークポイントにもなり得るということかな。
 これらの課題を踏まえ、フーコーは過去の思想を研究する上で別の方法をとることにした。それは記録に残されたありとあらゆる出来事(正確には「語られた概念/アルシーヴ」)を出来る限り洗い出して、それらの関係性について調べるというやり方だ。
 例えば「臨床医学」というそれまで無かった新しい言説(≒概念)が形成するにあたっては、1.病院/2.民間医療(注:当時は病院治療よりこちらの方が盛んだった)/3.研究所(注:大学や個人の研究機関)/4.図書館あるいはドキュメント類…といった様々な関連領域が関与する。これらの領域は当時の社会において微妙に関連しつつも独自の発達を遂げていたわけだが、フーコーはこれらの領域の実態について、当時の文献や記録といった“状況証拠”を丹念に積み上げることで明らかにしていく。そしてそれらが複雑に絡み合うことで、それまで存在していなかった「臨床医学的言説」というものがこの世に誕生することに。その過程を示したのが『臨床医学の誕生』だったという訳。フーコーも言っているように、「臨床医学」は死体解剖など当時実践されていた即物的な技術の延長から生まれた物ではないのだ。(それはそうだよな。ちょっと考えただけでも、器官としての身体の“発見”だとか、都市化の進行と伝染病の流行や衛生観念の浸透など、色々な要素が頭に浮かんでくるもの。)
 著者に言わせれば「言説は、互いに区別された諸々の場所のひとつのフットワークが繰り広げられる外在性の空間なのだ」そうだ。話はそれるが、社会で規範とされる「理念」というものも同様で、誰かがある日突然作り出したものではなく、このようにして出来上がってきたのだろうな。
 なおこれらの作業で気を付けなければいけないのは、近年に成立した概念のカテゴリー区分をそのまま過去の時代に適用してしまわない事。仮に似た単語が用いられていたにせよ意味が違う可能性だってあるし、当時なかった概念が新たに付与されることだって考えられる。(考え方の基準が異なるものを今の基準で判断することの問題については、「パラダイム」という概念の提唱者であるクーンツも指摘していたはず。)
 こうして過去の思想を「考古学」の視点で改めて見つめ直すことで、歴史上の「概念の“非連続点”(=パラダイムの変化が起こった時点)」は、ひとつの時代の終わりや節目としてではなく、逆に新たな言説の誕生の瞬間、すなわち歴史が分別されていく重要な点として注目されるようになる。(フーコーはそれを「言説の可能な回折点」と呼んでいる。)

 以上、分かりにくくて申し訳ないが、フーコーが提唱した「(知の)考古学」と従来の歴史学・思想史学との違いが、何となく理解頂けただろうか。繰り返しになるが、重要なのはそれぞれの区分(アルシーヴ)の絶対的な価値基準を決めることではなく、区分それぞれの相対的な違いを明確にしていくこと。(余談だがこのような視点に立つと、ヘーゲルに見られる世界意識の統一といった、包括的な歴史認識は成り立たないよね。)

 次にフーコーはこの手法を「臨床医学」や「狂気」といった狭い領域ではなく、「科学」「経済学」「哲学」「文学」といったもっと大きな尺度の対象にも適用し、その有効性について検討する。対象をこのように大きな学問領域にした場合は、また違った分析要素が必要になるようだ。それは(従来の歴史学で用いられていたような)「時間」という視点。ある時代に生まれた諸概念が、次の時代に新たな文脈で捉え直されるのを踏まえた分析だ。(当然、時代遅れで廃棄される思想も、逆に復活する思想もあるだろう。)
 「科学の歴史」や「経済学の歴史」といった様々な「○○の歴史」の間にはたしてどのような関係性が成り立つのか。そしてそれらが互いに関係しあってどのような「一般的歴史」が成立していくのか。フーコーが本書で構想するのは、新たな歴史の創出とでもいうべきとても壮大な内容。(もっとも本書執筆の時点では、それらの詳しい分析方法についてフーコーにもまだ全体像が見えてきてはいないようで、大まかな方向性が示されているだけとなっている。)
 ここでは「博物学」を例に、宇宙論/地球史/哲学/聖書釈義/数学などの学問分野との関係性を見ている。結果、同じ「博物学」であっても16世紀と19世紀では全く異なる様子が示される。確かにそうだ。進化の流れを示す「樹形図」のように、それまで無かった新しい表現方法が開発されることで新たな学説が生まれる事だってあるわけだしね。
 なお本書のキータームである「言説」については、「概念」とほぼ同義、という説明しかこれまでしてこなかった。ここでは詳しい説明がなされているのでついでに説明しておこう。
 フーコーによれば言説を生み出す4つのシステム(≒諸規則/方向性)というのが存在する。それは何かというと「諸々の対象」「言表行為」「概念」「理論的選択」というものだそう。これらが互いに作用しあうことで、言説が生み出される前提が準備されるようだ。(例えば経済学においてなら、よく言われるような「重商主義的選択」か「効用主義的選択」という二者選択ではなく、背景にある4つのシステムの相互作用でもって次代の資本主義経済が生まれてきたという感じ。)―― うーん、わかり難いね。どう説明したらいいものかな…。フーコーはデリダやドゥルーズに比べればまだ分かりやすいとは言え、このあたりはメタ構造についての抽象的な議論がずっと続くので論旨が追いにくい。ま、これら4つのシステムによって区別をつけられる境界のことを「言説」と呼んでいる、という程度の理解で取りあえずは良しということで。(笑)

 フーコー自身ももっとちゃんと説明しておく必要があると思ったのか、第3章「言表とアルシーヴ」に入るとひたすら記号論的な分析が続く。ここでは「言説」を形成する要素である「言表」とは何か?とか、文法および文章の意味や位置づけや、語る主体と「言表」の関係性とは何か?など、記号論的な詳しい分析が行われていて読み進むのに少し時間がかかる。本書を読み通すにはここが一番のヤマかも知れない。(ものすごく簡単に要約すると、「ひとつの言表を成り立たせるのは、その周囲にある他の言表との意味的な差異である」というのが結論みたい。なんだかソシュールの言語理論みたいなんだけど。/笑)
 ちなみに先ほど挙げた言説形成のための4つのシステム「対象/行為/概念/選択」は、言表機能が作用するために必要な“領域”となる「座標系」「主体」「関連領野」「物質性」の4つにそれぞれ対応しているとのことだが…やっぱり良く分からんですね。説明が下手ですいません。興味のある方は本書に当たって頂くという事で。(^^;)

 気を取り直してもう一度ざっとまとめてみたい。
 フーコーが「言表」と名付けた、種々の意味を持つ“言語データ(文法や語彙の集合)”を分析すると、ある時代や地域などに特徴的に表れる、「言説」と名付けられたひとつの“概念の集合体”が立ち上がってくる。それはフーコーが自ら実践したもので言えば「臨床医学」や「狂気」といった、心理的や社会的または経済的な区分において独特な意味を持つ、ひとかたまりの規則である「アルシーヴ」なのだ。そしてそれを解き明かしていくのが、彼がいうところの「考古学(アルケオロジー)」の取組みなのだとか。(えーと。こんなところで合っているのかな?)

 記号論的な考察による準備を経て、次の第4章「考古学的記述」ではいよいよ思想史家としてのフーコーの本領発揮。(いや思想史家というよりは、思想史否定家とでも言った方が良いのかな?)思想史をいかに読み解いていくかについて、方法論が滔々と述べられていく。
 例えばひとつのテーマを巡る矛盾について。生物分類における「博物学/リンネの不変説」と「生物学/ダーウィンの進化説」というのがある。従来の思想史ではこれらを互いに矛盾し相容れない説として捉え、最終的にはどちらかの勝ち負けで結着をつけようとする。対してフーコーが提唱する「考古学」では、両者の矛盾(「内部的対立」)を「終着点」としてではなく、2つの言説が発生する「始まりのポイント」とし、そのままの状態で差出す事とする。このように単純化や統合などははなから考えず、むしろ正反対の多種多様な衝突として捉えることで、矛盾は矛盾でなくなるというのがフーコーの主張。これはパラダイムシフトが起こる過程やきっかけを特定の人物やエピソードに帰することなく、等身大のドキュメントとして描き出そうとする試みと言っても良いだろう。
 ただしそこから何が見えてくるかは予想すらつかない。(というより予想することの禁止から、フーコーの方法論が始まっているといっていい。)その結果として見慣れた「歴史」の概念が覆り、そこから新しい“何か”が見えてくるかも知れないし、収束せず分散して、収拾がつかなくなる恐れだってある。まさにその先の展望は“神のみぞ知る”だ。ことによると「網野歴史学」みたいな新しい視点が出てくる可能性だってある。
 以上が自分なりにまとめた本書の概要だがどうだろうか。本書を読んで、フーコーの本が面白いと言われる理由が少し分かった気がする。それはきっと彼の著作が本書のような構想に基づいてテクスト成立時の状況を丸ごと浮かび上がらせるから。それであたかも全体小説を読んでいるかのような、見通しの良い世界が開けるからではなかろうか。
 本書の最後でフーコーは、これら言説形成のためのシステムなどあらゆる「諸機能」の総体を「知」と名付ける。すなわち本書の題名でもある「知の考古学」の誕生を宣言するわけだ。彼の思想は“学際”というか“越境”というか、とにかく従来の学問体系に囚われない自由さを前提としているのは間違いない。

 ただ本書を読んだことで、ポストモダン思想の弱点も少しずつ見えてきたように思える。確かにこれまでのやり方の欠点を明らかにして正しい(と思われる)分析の仕方を提示したのは偉い。でも竹田青嗣氏も以前述べていたように、ポストモダン思想では往々にしてその先の展望が示されない。さらに言えばフーコーの場合その原因は、彼の取った方法事態に内在するものだったのではなかろうか―― そんな気がしている。なぜならフーコーが行ったのは、世界全体を“そのまま”の姿で示そうということに他ならないから。
 「概念」とは世界を単純化/シンプル化して理解しようとした結果、生まれてくるもの。だとすれば、その境界をどれだけ広げていこうとも、“世界そのもの”にはなり得るはずもない。(そのためはリアルな世界に匹敵するスケールと複雑さをもった概念が必要になる。)結局のところ、線引きはどこまでいっても恣意的なものでしかなく、どれだけ本物に“似せた”モデルを作れるか?という議論でしかないだろう。そう考えると、従来の歴史・思想史との違いというのも、所詮はレベルの差に過ぎないのではないかと思えてしまうのだ。(少しトートロジーっぽい感じもするし。)
 フーコーによれば分析をする際の取りあえずの出発点として、まず「科学史に基づく区分」と「今までに使われておらず手垢がついていない新たな“○○史”の区分」を考えて「おおざっぱな見積もり(=目安)」を作ればいいらしい。その後は(分析の経過に従って)区分を適宜付け加えたり差し替えたりとのこと。しかし原理的に先ほど述べたような課題がある以上、どれだけ対象を広げて深く分析するかの問題のような気もする。課題の存在を否定することは自己撞着に陥るしかなく、それを回避するには敢えて目を背けるしかあるまいとも思う。
 この事はフーコーも自覚していたジレンマなのではないだろうか。だからこそフーコー自身も本書において「~である」と言い切ることができず、「~ではない」の連発で間接的/消去法的にポイントを指し示すことが多かったのではないか…そんな気さえしてくる(***)。単に本人の文章の癖なのかも知れないけどね(笑)。

 ***…実は「~ではない」という文章の頻出が、本書を読み難くする一因にもなってい
     るのだ。

 話は変わるが、ドストエフスキーとバルザックを例にして「書物」について取り上げた文章も、同様の話が言える。フーコーは「書物の中に語られた事と語られなかった事という“2つのテーマ”による提示を放棄しなければならない」と述べている。つまりは顕在化している二者択一ではなく潜在的な複数の要因の影響を探れという意味だが、ではその先には何が見えるというのか?「言説的出来事の記述」を、書物や出来事(すなわち諸々の統一体)を取り扱う上での“地平”として捉える必要があるとの主張だが、その時代の考え方や社会背景の全体を把握するのが前提であれば、それが果てしのない探求になることは間違いない。(まさにイバラの道といえる。)これらの戦術をとることで、フーコーはいったい何をしようとしたのだろうか。
 訳者解説によれば、「ポスト構造主義者」とも言われる彼は、これらの手法をまずは構造主義への批判として構想したようだ。C・レヴィ=ストロースに始まった構造主義も長年の“手垢”がつき、強引なモデル化などの弊害が見え始めていたという事らしい。つまりフーコーが行おうとしたのは(哲学用語を借りれば)「超越的」ではなく「超越論的」な考えに対する批判ということ。
 著者が言う「思想の歴史をその超越論的隷属から解放すること」というのは、物事をありのままに見るという事だろう。ありのままに見ることでたしかに見えてくるものがあるだろう。しかしそこから何が生まれてくるかは分からない。それは現状に対する批判にしか過ぎず、何かを生み出すものではないからだ。可能性は指し示されるにせよ、そこから何を読み取り何を生み出すかは、我々自身にかかっているといえる。繰り返しになるが、そこがポストモダンの強みであるとともに限界であるとも言えるのではないだろうか。

 うーん。ちょっと厳しめの感想になってしまったかな。翻って言えば、それだけ本書が全体的に分かりやすくて刺激に満ちた内容だったとも言える。ポストモダン思想の弱点はここに露呈しているが、でもすごく面白い。そんな矛盾した気持ちがない交ぜになりながら、愉しく読み終えたのであった。(笑)

<追記>
 本書を読んでいて懐かしかったのは、何十年ぶりかで目にする単語が続々と出てきたこと。先に挙げた「知」もそうだし、他にも「知によって生じる科学的な諸関係の総体、あるいは認識論化された言説」を意味する「エピステーメー」という言葉や、本書を読んでもやっぱり何だかピンとこなかった(笑)「ポジティビティ」だとか。
 これらの言葉、ひと昔前にかなり流行ったよねー。学生時代にワクワクしたものと久しぶりに再会できて、(こういうのも変だけど)何だか嬉しくなった。

いよいよ年末

 今年ももう終わりが見えてきた。今のところ読んだ本は143冊(12/16現在)。取りあえず「月に10冊以上」というのをノルマにしている他は何でもOKの読書生活なので、読了した本の書名を見返したら相変わらず節操がないこと甚だしい。(苦笑)
 実は学生時代から読んだ本の記録をつけているので、棚から引っ張り出してこれまで読んだ本の数を調べてみた。(ただし手元にある分だけ。昔のものは実家にあるので確認できず。)

 1991年:104冊、1992年:113冊、1993年:134冊、1994年:110冊、1995年:120冊
 1996年: 94冊、1997年: 91冊、 1998年:113冊、1999年:111冊、2000年:126冊
 2001年:171冊、2002年:165冊、2003年:189冊、2004年:145冊、2005年:127冊
 2006年:144冊、2007年:139冊、2008年:126冊、2009年:155冊、2010年:192冊
 2011年:231冊、2012年:143冊(12/16現在)

 こうしてみると96、97年は100冊に達してないんだねえ。みているうちに、だんだん思い出してきた。たしか2年続けて100冊読めなかったので、次の年から年間100冊をノルマにしたのだった。月平均なら8冊強。中堅どころとなって仕事が忙しくなり学生時代のような読み方は出来ないにせよ、それくらいなら何とかなる。そう思って決めたんじゃなかっただろうか。
 次に気が付くのは2001年から急激に冊数が増えている点。おそらく仕事の内容が変わって出張がやたら増えたから。このころから、月に10冊をノルマにしたのじゃなかったかな。2010年からはブログを始めたおかげで一気に読書熱に火が付いた感じ。昨年はついに念願の200冊を突破したのもつかの間、今年からまたまた仕事の中身が変わって(正確には仕事が増えて)忙しくなったので、なかなかこれまでのようには読めないかも。
 しかし本を読めば読むだけストレス解消になって、その分仕事も頑張れる。そう思うと、休日や平日の僅かなな時間をやりくりしながら読み続けていく気力が湧くというもの。であるからして、朝の駐車場や昼のデスクでの僅かな読書タイムも、あだおろそかにはできないのダ(^^)。

 さて来年はどんな本に出会えるかな?(でもその前に積んである本もなんとかせにゃ。/笑)

<追記>
 本の記録と言っても、大学ノートに書名と読み始め/読み終わりの日付けが書いてあるだけの簡単なもの。でも今になって読み返すと、色んな記録が蘇ってきて結構愉しい。意外と当時のことを憶えているのに驚いた。自分にとってはノートが『失われた時を求めて』のマドレーヌのようなものかと。(笑)

『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』菊地達也 講談社選書メチエ

 イスラム教シーア派(中でもイスマーイル派寄り)の視点から書かれた、7~11世紀の初期イスラム教を巡る歴史の解説本。題名からは誤解を受けるかもしれないが、本書の主眼は「何が“正統”で何が“異端”か」を語る事にはなくて、あくまでも「(“正統”と“異端”の解釈に彩られた)イスラム教の変遷を描く」という事。これまで馴染みのない、(しかもよく似た)名前が頻出するので理解に少々手間取るが、イスラム教の歴史背景が良くわかり頭の中がすっきりして気分がいい。
 今の西洋社会を理解するには、キリスト教と西洋哲学の知識が不可欠と思う。同じ意味でイスラム社会を理解するには、預言者ムハンマドに始まる過去からの系譜を知るに越したことはない。そんな訳で今回はまさに“お勉強”だったわけだが(笑)、本当の勉強とは眉間にしわ寄せてやるものじゃなくて、このようなものを言うんじゃないのかねー。

 本書には632年にムハンマドが逝去してから、イスラム教が宗教としての思想や体制を整えていく11世紀くらいまでの、渾沌とした時期の史実が列挙されている。その歴史をざっと通してみた時、もっとも強く印象に残ったことをまとめてみると大体次のような感じ。(ただし個人的な印象なので異論はあろうかと。)

 ■神は絶対的な存在だが、預言者はあくまでも人間(神の代理人)であって神ではない。
  したがって最後の預言者(ムハンマド)亡き後、「神の預言者の代理人」を選ぶのは、
  後世の人々の判断による。(すなわち預言者自身のように、神によって選ばれし者では
  ない。)

 神への信仰は一貫してゆるぎないが、それを実行する現実的なシステムの部分は“ただの人”が担うため、時の権力争いや様々な解釈の仕方によっていかようにでもなってしまう。例えばクルーアン(コーラン)には矛盾した表現や後世の社会変化に合わない点があるが、それらを“比喩”として現実に即して解釈するか字義通りに解釈するかで、実行の内容がまったく異なってしまうとのこと。またアラブ社会では伝統的に「父―息子」というつながりが重んじられたが、預言者(ムハンマド)の息子の夭折によりそれが途切れてしまった点も混乱を招く原因に。すなわち娘の血統を正と認めるかどうかで様々な分派が生まれることになった。(*)

   *…現在の最大宗派であるスンナ(スンニ)派と、イランを中心に広がるシーア派に
     おける最大の違いも、預言者の正統的な後継者(正統カリフ)として誰を認めるか
     という見解にあるそうだ。

 結構面白いところなので、もういちど本書に書かれた内容を自分なりに整理してみよう。

 ■イスラム教は「セム的一神教」という括りでユダヤ教やキリスト教と系譜を同じくする。
  しかし砂漠という厳しい環境の中で信仰された関係で、行動などの実効的な面が強く意識
  され優先されたため、教義の解釈といった思想面の発達はかなり遅くなった。

 ■思想整備が遅れた関係で、イスラム教の初期には多くの分派が起こる事に。その原因は
  当時の覇権を握った者たちが、互いに自らの預言者の後継者(=カリフ/イマーム)と
  しての正統性を主張するのに都合のいい解釈を施したから。(現在少数派であるシーア派
  もその中の一派であり、それに賛同しなかった多数派がやがて緩やかな連合を作り現在の
  スンナ派を形成した。)

 ■スンナ派とシーア派のいずれも、「ムハンマドの娘婿であったアーリを最後とする4人の
  カリフから後は、イスラムの教えに基づく理想的な統治の時代は終わりをつげた」という
  認識。その後は「逸脱」の時代がずっと続き、残された人間による様々な解釈によって、
  「正統カリフ時代」に近づく努力が繰り返されている。

 ■これらの混乱の元は、天上的/宗教的な権威と世俗的/政治的な権力が結び付くという、
  イスラム社会の伝統にある。これは強力なカリスマ性をもつムハンマドにより、氏族間の
  争いでイスラム教徒の集団が連戦連勝を続けたため。(このあたりは、少なくとも初期に
  おいては政治権力に迫害される立場だったキリスト・ユダヤ教と違う点といえる。)
  イスラム教ではこの事により宗教指導者と政治権力者の一致が起こり、ムハンマドの没後
  にそれらの継承がイスラム独特の課題となったというわけ。

 ムハンマド(預言者)が直接統治した「啓示の時代」の後はカリフ(預言者の代理人)による統治となる。イスラム社会(スンナ派)はムハンマド没後、最初期の632~661年に統治した4人のカリフによる体制を「正統カリフ時代」と呼ぶ。もはや預言者が現れることの無い今の時代にとって、当時こそが理想/規範とすべき体制というわけだ。孔子が周の時代を理想としたみたいな感じだね。
 ただし本書によれば正統カリフ時代も決して順風満帆だったわけではない。後継者を一人に絞り込めなかったことによる内部分裂が、後の世に遺恨を残す結果にもなっている。ちなみにシーア派は4人目のカリフであるアーリとその血統しか正統な後継者として認めておらず、残りの1~3代のカリフは「簒奪者」という見解。ここがスンナとシーアの決定的な違いであり、決して相容れない点なのだそう。

 「すでに理想的な時代は終わりをつげ、失われてしまった叡智を見定めて後世の者たちの指針とすべき」――という構図は「唯一の正しい考え」があることが前提となり、解釈争いの無間地獄に陥ることが必然。それを避けるためには、正統的な解釈を多数派の意見としてまとめ、そこから外れるもの異端として常に排除する仕組みが必要となる。(あまりに大きな“逸脱”は一律に「極端派」と名付けられ排斥されることに。)
 啓典である「クルーアン(コーラン)」とは別に、聖典「ハーディス集」が編纂されたのもその理由だ。ハーディス集とは口承によって伝えられた預言者ムハンマドの言行録で、クルーアンを補足するものとして扱われるもの。9世紀にはハーディス学者によって、「真正」と認められた伝承のみを集めて『真正集』が編纂され現代に至っている。(ただし学術的には真偽のほどは不明。)
 キリスト教でもほぼ同様のことがされている。11~16世紀には「正統」であるローマカトリックと「異端」であるカタリ派やワルド派らとの争いがあり、カトリック側による凄惨な異端裁判によって彼らが排除される事で現在に至っている。(しかし「異端」も大きな勢力となって潰すことが出来なくなると、プロテスタントのように新たなグループとして独立することになる。本書でも述べられているように、所詮「正統」と「異端」なんて相対的な力関係で決まるものに過ぎないのだ。)

 少し話題がずれるが、ムハンマド亡き後の中東世界の歴史をみていると、様々な思惑を持った集団が離散集合を繰り返しながら、宗教の名を借りた権力闘争を繰り広げてる様子がよくわかる。ウマイヤ朝にアッバース朝、ファーティマ朝にセルジューク朝など、高校時代に世界史で習った単語が沢山でてくるが、(昔と違って)そのあたりの様子がリアルに立ち上がってくるのが、年取ってから歴史を学ぶ醍醐味といえるかも知れない。
 本書を読むと、宗教と政治が結び付く事により極めて強力で絶対的な権力が生じてしまう様子がまざまざと見えてくる。更にはそこへ「父から息子への正統性の継承」という血統の話までが加わり、世襲による権力継承や男尊女卑といった弊害が制度として固定されていく様子も。
 預言者に神性を認めなかったのはイスラム教の優れた点だと思うが、しかしそれが故に却って、「権威の継承者は誰か?」という世俗的な争いになったことを考えると複雑な気分。しかも思想としての整備が遅れたためにキリスト教やローカル伝承との混淆がおこり、本来は「正しい理想の支配者(≒ムハンマドの正統な後継者)」という程度の意味であったマフディー(カーイム)という存在が、やがて違った意味で使われるようになっていく。そうなるとマフディーを「神の預言者の代理人」ではなく新たな「神の代理人」として崇めたてたり、ひどい場合は「真理を得た者」としてイスラーム法を否定・無視できる資格を持つことの容認や、メシア(救世主)として再臨を待望するといった本末転倒も発生。何でもアリの状態になっていく。(笑)

 話を戻そう。
 これではいかんと当時のイスラム法学者たちも考えたのだろうね。先に書いたように、やがて極端な思想は異端として排除されていき、現実的な妥協点を見出す形で現在のイスラム教の体制が完成する。いうなればカリフ/イマームがもつ宗教&政治権力の根拠をどこに求めるか?というのがポイントとなる。その中でカリフの権限は政治や軍事に限られて、宗教的な権限はウラマー(法学者たち)に委ねられるという現在の姿が出来上がってきた。(その礎が形成されたのはおよそ10~11世紀のこと。)
 そして理論整備が進むにつれ、シーア派に与しなかった多数派はやがて緩やかな連帯で、スンナ派を形成するわけだ。スンナとは預言者の慣行(スンナ)を重視する宗派という意味で、現在は4つの法学派と2つの神学派に集約されるらしい。それぞれの学派の見解はかなり大きく違う点もあり、人間理性を広範囲に行使することに批判的で現在のイスラム原理主義の源流ともなっているハンバル学派から、現実問題に柔軟に対処する傾向が強いハナフィー派まで様々。
 以上、ざっと本書の内容について述べてきたが、全体を通して見えてきたのは、(本書の「おわりに」にもあるように)イスラム教とは結局のところ定義など無いということだろうか。敢えて言うなら「セム的一神教に属する宗派のうち、キリスト教でもユダヤ教でもないもの」とでもするしかないほど、教義は多様性に富んでいる。
 無知は恐怖に通じるという。日本人にはイスラム教というと「何となく怖い」というイメージを持つ人が多いのではないかと思うが、イスラム原理主義もイスラム教全体から見れば、極端なナショナリズムの一形態に過ぎない。本書を読む限りでは、伝統的な多数派の流れからは逸脱したものであるようだ。
 今の日本の政治が極右化していくことに対して危機感をもっている人が大勢いるように、イスラム社会も色々な人々がそれぞれの考えをもって生活している。一概に宗教観で決めつけるのでなく、むしろ貧困や差別といった政治・経済の問題として捉える方が建設的だし前向きな気がするな。

2012年11月の読了本

『怪異考/化物の進化』 寺田寅彦 中公文庫
  *著者は言わずと知れた物理学者にして漱石門下の随筆家。本書は著者の数多くの文章の
   中から、ふるさと高知に伝わる怪異の考察や子供のころの神秘体験など、不可思議な
   出来事について書いたものばかりを集めた文庫オリジナル。先に出た『地震雑感/津浪
   と人間』と同じく『寺田寅彦随筆選集』の一冊だが、好みの題材ばかりなのでなんだか
   お買い得な一冊だった。
『やし酒飲み』 エイモス・チュツオーラ 岩波文庫
  *ナイジェリア作家の著者が52年に発表した代表作。ひとことで言えば「神話的」という
   のがぴったりくる作品で、人類学とか神話学に興味がある人や、技巧を廃した「物語の
   根源」みたいなものに惹かれる人ならきっと面白い。現代の作家が書いたとは思えない
   ような、まさに“アフリカ的”とでもいうべき作者不詳の伝承の香りが漂ってくる。
   ただし「香り」自体はアフリカらしさが強くても、物語の芯の部分については世界中の
   神話に共通するもの。(ローカリティを突き詰めると普遍に至るという話を、本書にお
   いても確認することができた。)
   たとえば本書において生者と死者の住む世界を厳密に分かち、それらが別個に成立して
   いるという世界観は、日本神話のイザナギ・イザナミやオルフェウスの物語を始めとし
   て世界中に見られるものだ。他に特徴的だったのは、人界から離れた森の中(=異界)
   に住むものは、味方になってくれるモノ(者・物)と敵意をもって害を加えてくるモノ
   の二つに明確に分けられるという点。森が「常に恐ろしいところ」と位置付けられて
   いるのも、なんだか印象的だった。
『大阪アースダイバー』 中沢新一 講談社
  *前著『アースダイバー』は東京を題材にして歴史の古層を掘り下げたが、本書では舞台
   を大阪に移して同様の試みを実施。『週刊現代』に連載されたものなので若干の「筆の
   軽さ」は否めないが、途中の怪しげなところを何とかギリギリ踏みとどまって最後には
   上手く着地した感じ。関西といえば避けては通れない同和問題についても、逃げずに
   ちゃんと触れているところは偉い。
『虫の生活』 ヴィクトル・ペレーヴィン 群像社
  *『宇宙飛行士オモン・ラー』に続いて2冊目のペレーヴィン。人間と虫の存在が入り混
   じり、時間と空間とプロットとか複雑に入れ子構造になったメタフィクションっぽい
   連作短編集。14の短篇にエピローグ(エントモピローグ)を加えた全15篇からなる。
   前作もそうだったが、著者の作品は普段読みなれているSFやファンタジーとは一線を
   画す、独特の雰囲気がある。魔術的リアリズムとはまた一味違う不可思議な作品世界が
   繰り広げられ、ロシア・ファンタスチカとはこういうものか…と感じ入った次第。
『化石の分子生物学』 更科功 講談社現代新書
  *副題は「生命進化の謎を解く」となっている。要は化石やはく製、琥珀の中の昆虫など
   “新鮮でない生物痕跡“から遺伝子解析をする、古今東西の研究者による試みについて
   紹介した本だ。著者は正直に書くことを心がけているそうだが、そのせいで大体が失敗
   事例なのが面白い(笑)。話題はあちこちに飛んで少しまとまりに欠けるきらいはある
   が、気軽に読める科学読み物として良いのではなかろうか。ブルーバックスからの刊行
   でないところも興味深い。
『粋で野暮天』 出久根達郎 文春文庫
  *著者お得意の古本エッセイ。ネタが古本だけに刊行後どれだけ経っても内容が色あせな
   い。(当たり前か/笑)
   ちなみにこの本は、10月に開催された「BOOK MARK NAGOYA 2012」というイベント
   の「一箱古本市」で買ったもの。色んな人が持ち寄った古本を眺めているだけでも愉し
   くて、また来年もあればぜひ行きたいものだ。
『青蛙堂鬼談』 岡本綺堂 中公文庫
  *日本最初の捕り物帳を書いた著者による怪談話の傑作。(岡本綺堂は東西の怪奇小説に
   対しても造詣が深いのだ。)本書はながらく入手困難だったのだが、このたびめでたく
   復刊された。
『超解読! はじめてのフッサール「現象学の理念」』 竹田青嗣 講談社現代新書
  *自分が日本の哲学者の中で一番好きな竹田青嗣氏が、自らの哲学の根本に置く現象学。
   本書はその現象学の開祖フッサールの主著を、一般読者にも分かり易しくひも解いた物。
   久しぶりに氏の現象学講義に接することが出来て懐かしくも嬉しかった。
『昔には帰れない』 R・A・ラファティ ハヤカワ文庫
  *唯一無二の作家ラファティの短篇集。本当ならもっと前に刊行されているはずだったの
   だが、なぜか延び延びになってやきもきさせられた。(別の出版社からもあと2冊出る
   予定なので、楽しみにして待とう。)
   中身については折り紙つき。へんてこりんな話が好きな人間としては、長いこと待った
   甲斐があった。まずはヒューゴ賞受賞作「素顔のユリーマ」で幕開け。愚鈍であるが故
   満足に何もできない主人公アルバートが、自分の代わりに様々なことをしてくれる驚異
   的なマシンの数々を発明するという、いかにもラファティらしい作品だ。
   本書は2部構成になっていて、第一部は訳者のひとりである伊藤典夫氏による“シンプル
   な小品”を集めたパート。たしかにラファティにしては比較的あっさりして判りやすい
   作品が多い気がする。次の第二部にはもうひとりの訳者・朝倉久志氏によるものも交え、
   ラファティが本領を発揮したひと癖もふた癖もある作品が並ぶ。「ユリーマ」以外で気
   に入ったのは、第一部からはブラックで怖い「パイン・キャッスル」と表題作の「昔に
   は帰れない」。第二部からは“ドィーク=ドクター”がエイリアンの診察をする「忘れ
   た偽足」や世界の“祝祭”の日を描いた「すべての陸地ふたたび溢れいづるとき」が面
   白い。中でも“失われた歴史”についての比類なき作品である「行間からはみだすものを
   読め」は最高に気に入った。
   作品によってがらりと作風が変わるのもラファティらしいが、どことなくジョン・スラ
   デックを思わせるような作品もあるというのは初めて知った。まさに変幻自在で、フラ
   ンク・ザッパのような作家といえるかも。
『日本文化論』 梅原猛 講談社学術文庫
  *1976年に刊行された古い本で、富山大学で行われた講演を書き起こしたもの。内容的に
   はいつもの梅原節で首肯できるところも多いのだが、それより本書を読んでいて思った
   のは中身よりも別の事。それは「”国家”を政治の主体や主題にすえる時代は終わった
   のではないか」ということだ。日本を含め今の国際社会を吹き荒れる、悪しきナショナ
   リズムの風を目にするにつけ、そんなことを考えてしまう。
『なんらかの事情』 岸本佐知子 筑摩書房
  *翻訳家の方のエッセイはどれも面白いが、岸本氏は鴻巣友季子氏と並んで自分が最も気に
   入っている方。本書は『気になる部分』『ねにもつタイプ』(講談社エッセイ賞受賞)に
   続く3作目で、前作からなんと6年ぶりとのこと。これだけ面白いのだからもっとペース
   を上げて出していただけると嬉しいが、如何せん本業の傍らの執筆なので致し方ない。
   相変わらずの虚実入り乱れた不思議な話や爆笑必至の話が盛り沢山でとても愉しかった。
『堤中納言物語』 岩波文庫
  *平安時代の貴族の日常生活を、断章スケッチとして切り取った短篇集。全部で10の物語
   が収録されているが、思ったより「読み応え」があった。なんせ風習やものの考え方が
   今とは全然違う上、書かれている多くの話が当時の色恋沙汰。恋愛話にはもともと興味
   が無いのできついのだ(笑)。自分が特に気に入ったのは「あしながおじさん」めいた
   “ちょっといい話”の「貝合(かいあわせ)」と、現代風の考え方がとても魅力的な
   (当時の)異端児を描いて有名な「虫めづる姫君」の2篇あたりかな。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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