『超解読! はじめてのフッサール「現象学の理念」』竹田青嗣 講談社現代新書

 竹田青嗣氏の現象学の本を久しぶりに読んだ。本当のことを言うと、最初はこの本を読むつもりは無かった。この現代新書から出ている『超読解!』のシリーズは、竹田氏が講談社選書メチエから出している『完全読解』の簡易版のような位置づけなので、本当はメチエを読むつもりだったのだ。(*)

   *…『完全読解』は有名な哲学書を原書にあたって詳細に読み解くというシリーズ。
     これまで『ヘーゲル「精神現象学」』『カント「純粋理性批判」』『カント「実践
     理性批判」』と、『フッサール「現象学の理念」』の4冊が出ている。竹田ファン
     を自認する立場としてはもちろん全部買ってはあるのだが、なんせ“完全解読”
     だけあってボリュームもなかなかなもの。時間がかかるのでこれまで『ヘーゲル』
     しか読めていないという体たらく。(笑)

 ところが本屋でまえがきを立ち読みしたところ、「完全解読版に関していくつかの点で修正すべきところが見出され、それを超解読版で改訂したい(後略)」と書いてあるではないか。まだ当面完全解読版のフッサールは読めそうもないので、せめて超解読版くらいは読んでおこうとあっさり心変わりをしたというわけ。(なんせお気楽なので、その時の気分で方針はコロコロ変わる。/笑)
 以前、カンブリア紀の生物大爆発について読んだ時も、スティーブン・ジェイ・グールドの名著とされる『ワンダフル・ライフ』(早川書房)よりもむしろ、現代新書からでたサイモン・コンウェイ・モリス『カンブリア紀の怪物たち』の方が面白かった覚えがある。なかなかどうして、現代新書は意外と侮れないのだ。

 で、読んだ感想だが、ひとことで言うと「懐かしかったー」という気持ち。そもそも竹田青嗣氏を知ったのも、現象学という哲学ジャンルが好きになったのも、氏が書いた『現象学入門』(NHKブックス)を初めて読んだのが始まり。基本的には当時からスタンス(見解)に大きな変化はないため、おかげで本書の内容もすらすらと頭に入ってくる。(『現象学入門』はとても分かりやすいので、竹田氏の哲学や現象学に興味のある方にはお薦め。一方の本書の場合、フッサールに興味はあるけど難しそうなのでちょっと…という人にはお勧めだが、現象学自体にさほど詳しくない方には少しわかり難いかも。)とてもじゃないが自分には原著を読み通す気力は無いので、本書のような解説書は大変にありがたいのだ。(**)

  **…そもそもフッサールの著作は同じ概念を異なる言い回しで書いたり、周りくどい
     書き方をしてみたりで、理解しにくいこと甚だしい。専門家の間でも解釈の仕方で
     意見が割れるのは当たり前。それが後年の研究者による誤解を生み、それにより
     現象学への批判を招く原因になってしまったのは残念なことだ。

 その点、著者が書いた現象学の本が画期的なところは、ひとつの「仮説」(補助線)を立てることでフッサール現象学の解釈に一本の筋を通した点にある。詳しくは氏の著作に直接当たってもらうとして、ここではごく簡単にそのエッセンンスだけを紹介したい。

 ■現象学は西洋哲学の難問である「主観と客観」の問題、すなわち「(主観による)絶対的
  に正しい客観認識や真理の存在は可能か?」ということに、最終決着をつけた学問で
  ある。

 ■ただし「絶対的に正しい認識」の基礎づけをするわけではなく、その反対に1)なぜ「絶対
  的に正しい認識」が不可能なのか、2)にもかかわらず何故「妥当な認識」(≒正しいと
  いう確信)がもてるか、という事を証明する学問である。

 ■その為にフッサールが行ったのは、デカルトの「方法的懐疑」の徹底。すなわちあらゆる事
  を徹底的に疑い、絶対に疑い得ない事だけを取り出すことで、それを問題解決の基礎に
  しようとする方法。(それをエポケー/判断留保という。)

 ■デカルトは「(色んなことを疑う存在である)“自分”の存在自体は疑い得ない」と結論
  付けた。しかしフッサールはそれを不徹底として退ける。彼が疑い得ないとしたのは、
  たとえばリンゴ(のようなもの)を見た時に「赤い」「丸い」と感じた気持ち。(赤く感じ
  たのは光線の具合だったかも知れず絶対的な認識とは限らないが、そのとき自分が「赤い」
  と感じた事だけは間違いない。)

 ■それを突き詰めると、そのとき「リンゴだ」と感じた(主観による)判断自体も、疑い得な
  いものとなる。(たとえその判断が「リンゴの模型」による間違いだったとしても、その
  瞬間にそう信じたことは疑い得ない。)

 ■すなわち「客観それ自体」とされてきたのは、実は「内在(≒主観)」において形成された
  「対象(があるという)確信」つまり「世界確信」に他ならない。

 どうだろう? 少なくとも自分にはとても納得できる考え方だと思うのだが。
 ちなみに竹田氏による「仮説」というのは、上記の一番最後に書かれた「(客観とは)主観の中に成立した世界確信」という部分。フッサールの著作では先ほども書いたように用語の不統一や混在による解釈の違いが存在していて、このような解釈はこれまでされてこなかったようだ。詳しくは触れないが、本書を読むとこれまでの解釈よりもこちらの方がはるかにしっくりくる気がする。
 フッサールが創始した現象学は、その後ハイデガーやサルトル、メルロ=ポンティといった錚々たるメンバーに引き継がれ、20世紀の西洋哲学の礎となった重要な学問。その後はポストモダン思想家たちによって「時代遅れ」とされ、目の敵のように批判されてきたが、筆者はそれを難解さ故の誤解(誤読)によるものとして退け、現象学の復権を目指している。(自分も基本的にはその考えに賛成。)
 今回はちょっと手抜きして『超解読!』なんていう裏ワザを使ってしまったけど、いつか時間のある時に『完全解読』の方でじっくりと思索に浸ってみたいものだねえ。
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『青蛙堂鬼談』 岡本綺堂 中公文庫

 趣味全開の選書でアイドリング読書中の日々。フルパワーで読めるのは果たしていつの日か。
本書は前々から読んでみたいと思っていた怪談集であり、長らく入手困難になっていたもの。今回めでたく中公文庫から『岡本綺堂読物集』シリーズの一冊として復刊された。(題名は「せいあどうきだん」と読む。)
 話は江戸時代からの伝統である百物語の形式をとった全12話からなり、古き良き時代の雰囲気を色濃く残す、まさに「いぶし銀」とでもいうべきもの。怪奇と幻想をこよなく愛す”夜の種族”たる管理人としては、きわめて満足のいくものだった。さらに本書には単行本未収録だった2つの短篇まで収録。幻想的で魅力的な表紙のイラストに加え、収録作「笛塚」を描いた口絵も嬉しいボーナスとなっている。
 収録作はどれも水準以上の出来で甲乙つけがたいが、あえて自分の好みでいえば「兄弟の魂」「猿の眼」「蟹」あたりだろうか。へんてこりんな「一本足の女」も悪くない。

 ところで先に書いた「江戸時代からの伝統」というのは、何も百物語という形式に見られるものだけではない。物語そのものにも近代以降に書かれた西洋的な怪奇小説とは一味違う仕掛けがあるのだ。それは何かというと、中国伝来の「志怪小説」に由来するもの。(おそらく東洋の怪談に独特のものなのではないかと。)
 千葉俊二氏の解題によれば、岡本綺堂は中国の説話集『捜神記』を評するに当たり、次のような言葉を遺しているそうだ。

 「総て理屈もなく、因縁もなく、単に怪奇の事実を蒐集してあるに過ぎない。そこに怪談の価値がある(後略)」

 これこそが江戸の怪談噺に共通し、本書にも当てはまる特徴といえるだろう。『御伽婢子(おとぎぼうこ)』などを読むとよくわかるが、恐ろしい化け物が人を襲うのに理屈などない。話にオチも何もなく、ただひたすら不思議な出来事が起こるだけ。『日本霊異記』などに見られるような説教臭さもなくポーンと突き放したような語り口が、好きな人には堪らない魅力となっている。本書に収録された作品の元ネタがあるのかどうかは不勉強なので良く知らないが、千葉俊二氏によれば『閲微草堂筆記』を始めとする中国古来の説話に着想の多くを依っているらしい。まさに古典や志怪小説に精通した筆者ならではの作品といえるだろう。ホジスンやブラックウッドらによる西洋風の幻想怪奇も捨てがたいが、東洋のしっとりした物語を読むのもまた乙なもの。露伴や鏡花の作品とともに、お気に入りの一冊が増えたのは喜ばしい限りだ。

<追記>
 そうそう、ひとつ書き忘れていた。怪奇小説(ないし怪談)が何故に面白いのか?という点について。
 以前、作家にして翻訳家の西崎憲氏による「怪奇小説には鎮静作用がある」という言葉をご紹介したことがあるが、自分が思うに怪奇小説の面白さもそれに通じるものだと思う。それは何かというと、「どんなに怖い物語でも、物語である以上は必ず終わりがある」ということ。(当たり前といえば当たり前だが。/笑)
 予定調和の怖さとでも言えば良いだろうか。本のページを閉じれば、また平穏無事な日常生活に戻ってこれるということ。だからこそ逆に現実の世界で大きな悲しみが起った時、怪奇小説を読むことによる予定調和の怖さこそが癒しとなり、また鎮静作用をもつ事になるのだろう。(SF好きの方なら読まれた方もおありかもしれないが、それはまたジーン・ウルフの「デス博士の島」という短篇に共通するテーマでもある。)

本が呼ぶ日

 日々暮らしていると、ときおり「本が自分のことを呼ぶ日」というのがある。何となく本屋に行きたくなる日だ。行くのは新刊書店だったり古本屋だったりとその時々で違うのだが、いずれにせよ何となく掘り出し物に当たるようで落ち着かない気持ちになる。そんな日は買うかも知れず買わぬかも知れず、一応財布の中には何がしかの準備を怠りなく家を出るのだ。
 たとえば、念のために足を運んだ少し離れた古本屋。店先の均一台を見ると、それまで長いこと探していた本が何気なく突っ込まれていたりする。他の古本屋に売ってはいても数千円もするので諦めた絶版本が、僅か数百円で手に入る。そんな時は内心「ああ、おまえが呼んでいたのか」とつぶやくことも。(*)
 何故だろうかね。不思議なもので本好きな人のエッセイを読むと、多かれ少なかれ誰しも同じような経験があるようだ。(なんでもこういった現象を“引き寄せ”とかいうらしい。別に神秘体験とかに結び付ける気はさらさらないけどね。/笑)

   *…均一台とは限らないが、こうして我が家に来た本を挙げるならば例えば次のような
      ものがある。いずれも咽喉から手が出るほど欲しかった本だ。
       山口昌男 『本の神話学』
       グリオール『青い狐』
       西崎憲  『世界の果ての庭』
       小松和彦 『説話の宇宙』
       レヴィ=ストロース&中沢新一『サンタクロースの秘密』
       『江戸怪談集(上)』 etc.

 話は古本屋ばかりではない。新刊書店でも同じことがある。例えばちくま文庫とか中公文庫の中には、発行部数が少なくて街の大きな書店に行かないと手に入らない新刊も存在する。近所の郊外型書店にはもともと配本されてこないのだ。でもそんな本でも、仕事帰りにぶらりと立ち寄った(普段は行かない)本屋で、念のために覗いた棚にさりげなく置いてあったり。(最近では『「カルト宗教」取材したらこうだった』とか『松丸本舗主義』といった本がそのパターン。)
 気分良いよね、こういうのって。こういうことがたまにあると、家に積まれた本の山が多少増えようが、「また買おう」という気になる。(笑)
 しかし、これは果たして「活字の神様」が自分を好いてくれているのか、それとも「活字の悪魔」がせっかくの獲物を逃がすまいと企んでいるのか、はたしてどちらなんだろうか(^^;)。

疲れた時は…

 夜、仕事を終えて職場を出る。職場の裏の駐車場まで暗い道を5分ほど歩く。気にかかる仕事の事を考えることもあるが、うまく仕事が回った日には好きな本のことを考えながら歩く。すると朝からギリギリと巻かれていたゼンマイが徐々にほどけていくのが判る。
 疲れた時に読む本は、なるべく現実離れしたものが好きだ。東洋ならば、怪異におののき山吹色の幻想に遊ぶ鏡花の世界。はたまた幽鬼や仙人が暮らす『聊斎志異』や『神仙伝』の世界。西洋に目を転じれば、H・P・Lによる宇宙的な恐怖に戦慄する旧神たちの物語や、ブラックウッドにジェイムズにマッケン、ホジスンらの怪奇で幻想的なエピソードもいい。
 SFならば時間が衝突したり結晶化したり崩壊したりといった奇想天外な話や、宇宙の彼方で繰り広げられる絢爛豪華な復讐劇が向いている。ファンタジーでは闇夜にカーニバルが現れ巨人殺しのジャックが活躍し、妖精たちが笛を吹くタイプのもの。あまり現実的なものは遠慮しておきたいね。やたら長いのもこの際は願い下げ。そういうのも嫌いではないけれど、読むのはもっと元気がある時までとっておこう。
 そんなことをつらつら考えながら夜道を歩く。そしてやがて“夜の種族”と化していく。それが自分の精神衛生を保つために必要な、毎日の儀式のようなもの。

 うってかわって翌朝は、早めに家を出て夜明けの道にクルマを走らせる。時間に余裕をもって着いた会社では、駐車場に止めたクルマの中でゆっくり読書タイム。そんなときに読む本は論理明晰なものがいい。学術書で頭のエンジンを全開にすると、始業からのスタートダッシュも利くので一石二鳥だったりする。現実的な物語を読むのもそんな時。(逆に幻想怪奇な物語は朝から読まない方が良い。鎮静作用があるから。)

 こうしてまた一日が回り始めるのだ。

<追記>
 ではミステリや長いエピックファンタジーはいつ読むのがいいだろう。自分の感覚では、それは休日の昼下がり。ゆったりした気分で読むのが良いようだ。もしくは出張に向かう新幹線の中など、他にすることが無く集中できる時間帯でも良い。いずれにせよ心にゆとりを持つことが重要とみた。
 こうしてみると、活字本は自分にとって知識の源泉であり必須栄養素であるとともに、嗜好品であり気の置けない仲間であり、そしてまた心理カウンセラーでもあるのだな。何となく納得。(笑)

中入り/御礼申し上げます

 本日、カウンターが無事に30000の値を超えました。

これも日頃ご訪問いただいている皆さまのおかげと、
この場をお借りしまして管理人より厚く御礼申し上げます。

このところ仕事が忙しくて読書もブログ更新もままならない時がございますが、
毛頭店じまいするつもりはございませんので、ご安心いただけますよう。

そしてつまらぬ雑文ではございますが、
毎度ご贔屓いただけますよう、
これからも宜しくお願い申し上げます。

『松丸本舗主義』 松岡正剛α 青幻社

 2012年9月30日をもって東京駅・丸の内にあった本屋「松丸本舗」は3年間のその活動の幕を閉じた。始まりがあれば必ず終わりが付きものとはいえ、それにしても早すぎる。そしてあまりにも唐突だった。
出張の帰りに丸の内の商業施設OAZO(オアゾ)内にある丸善へと向かい、店内を素通りしてそのままエスカレーターで4階奥の松丸本舗で新幹線チケットの予約時刻までを過ごす―というのが今までのパターン。それが出来なくなったので、仕事帰りがずいぶん淋しくなってしまった。

 本書は松丸本舗の閉店が7月16日に松岡氏によって公表されてから発売になった、3年間の活動の記録だ。(実際には1年ほどまえから本書の企画が出ていたようだが、もたもたしているうちに時間が過ぎて閉店が決定し、急ピッチで製作して9月30日の松丸本舗での販売開始にぎりぎり間に合った、といういわくつきの本。)
 中身は松岡氏が松丸本舗誕生までの内幕を語る文章を始め、店舗作りと品揃えの“編集”の秘密。それに「本の福袋」などこれまで行ってきた全イベントの記録や、果ては松丸ゆかりの人々(総勢43人!)による寄せ書きの文章などがびっしり。棚の写真も含め500ページを超える分厚い書影の中には、文字通り松丸本舗の「すべて」が詰まっているといっていい。(*)

   *…あとがきで松岡氏自身が書いているところによれば、著者名についている「α」
     には、松丸本舗のスタッフやメッセージを寄せてくれた人たちとの共同作業による
     本なのだという、著者の思いが込められているそう。言われてみればたしかに著者
     名の横には「α」の文字が。そして「+minna(みんな)」とルビが振ってある。

 自分にとって本書を読むのは、これまでの松丸本舗の思い出を追体験するようなもの。「ああ、そうだった。」「へえっ、あれってそんな意味が…。」というつぶやきとともに読み進む。まるで誰かの家を訪問して本棚を拝見しているような感覚や、本同士が互いを呼び合うような棚つくりといった、松丸独特の店内の様子が鮮やかに甦ってくる。
 この松丸本舗の3年間の活動は、画期的な取り組みとしてきっと「伝説」になっていくに違いない。かつて池袋リブロにあった今泉棚は残念ながら実見できなかったけれど、松丸での濃密な時間は誰にも自慢できる良い思い出となった。これからもしっかりと心に留めておきたいと思う。(万が一記憶が薄れてきても大丈夫。本書があるから。/笑)

 以上、今回は本の感想というよりも、松丸本舗の思い出話に終始してしまった。ちょっと感傷的になってしまったね。セイゴオ氏の言葉をいくつかお借りして、一言だけつけ加えて終わりとしたい。

 「さらば松丸本舗。そしていつの日か見事に捲土重来を期さんことを!」

2012年10月の読了本

 ※相変わらずの忙しさにかまけて、なかなか本の数が増えていかない。買いたい本はあるの
  だが、むやみに買っても積まれていく一方なのでそうそう買うわけにもいかず、困った
  ものだ。(結局買っているわけだが。/笑)

『“謎の文明”マヤの実像にせまる』 青山和夫 NHK出版
  *「NHKカルチャーラジオ」のテキスト。ラジオ番組自体はタイミングが合わないので
   聴くことが出来ないが、活字としてならいつでも読める。ここ20~30年で飛躍的
   に進んだ中南米の古代文明の研究を、ざっと俯瞰するのにちょうどいい一冊。
   子供の頃に刷り込まれたイメージが、次々に書き換わっていくのが快感でもある。
『新編 SF翻訳講座』 大森望 河出文庫
  *SF翻訳家にしてアンソロジストの著者によるエッセイ。もとは専門誌の『SFマガジン』
   に連載されたものだけに、かなり”濃い話”がふんだんに出てくる。翻訳家のエッセイ
   は昔から好きだし、そこに好きなSFの話が加わるので余計に愉しい。まあ自分にとって
   は、まるでおやつみたいな本と言えるかも知れない。(笑)
『中世幻想世界への招待』 池上俊一 河出文庫
  *悪魔や魔女が跋扈した中世ヨーロッパ。今からすれば「迷信」のひと言で片づけられて
   しまうそれら”中世ならでは”の幻想について、当時の人々の暮らしぶりから成立の背景
   を鮮やかに浮かび上がらせる。(具体的には人狼伝説に象徴される自然へのイメージや、
   ミサの時に起こる「聖体の奇蹟」すなわちキリストの肉とされるパンから血が出たり、
   そこにキリストの姿を幻視すること。泉についてのイメージの変遷。イスラム教徒や
   ユダヤ人や癩病患者といった、社会的な「他者」に対する幻像。そして「死後の世界」の
   イメージに「煉獄」が加わっていく経緯などなど。)こういう歴史学と文化人類学が混じ
   ったような本は愉しい。
『アメリカ版 大学生物学の教科書/第1巻』 D・サダヴァ他 ブルーバックス
  *MIT(マサチューセッツ工科大学)を始めアメリカの大学で広く使われる『LIFE』と
   いう生物学の教科書を翻訳したもの。全3巻の第1巻で本書のテーマは「細胞生物学」。
   細胞内の小器官(細胞核/ゴルジ体/細胞膜/葉緑体など)の構造と働きを、分子式の
   レベルまで詳細に記載。学生だったらテストで問題を解かなくちゃいけないから覚える
   のに必死だろうが、お気らく読者はただ「ふーん、なるほど~」と愉しむだけだ(笑)。
   でも正直いうと先に『HSPと分子シャペロン』を読んでおいて良かった。本書の前提と
   なる「生命活動はタンパク質の合成と分解によるエネルギーの授受のこと」というのが
   理解できていないと、ちょっと難しかったかも。またそのうち第2巻(分子遺伝学)を
   買ってきて読もう。
『日本人のための日本語文法入門』 原沢伊都夫 講談社現代新書
  *外国人に日本語を教えるという仕事についている著者が、これまで自分が学校で習って
   きた「学校文法」でなく、もっとグローバルな「日本語文法」について解説した本。
   前者が古典の文章との整合性を重んじるために、ややもすれば解りにくくなりがちなの
   に対して、後者は(外国人に理解してもらうため)合理的で実用的な文法にアレンジを
   施してある。「は」と「が」の違いなど、積年の疑問が氷解した。
『狐媚記』 澁澤龍彦 平凡社ライブラリー
  *我らが澁澤龍彦氏の幻想小説にイラストレーターの鴻池朋子氏が絵をつけた本。
   「ホラー・ドラコニア少女小説集成」の1冊。
『天体による永遠』 オーギュスト・ブランキ 岩波文庫
  *19世紀フランスの革命家が書いた、宇宙と天体を巡る奇想の書。今年の収穫の一冊。
『松丸本舗主義』 松岡正剛+α 青幻社
  *9月30日をもって3年間の営業に幕を下ろした東京駅の名物書店「松丸本舗」。本書は
   その始まりから終わりまでとこれからの展望を主宰・松岡正剛氏が自ら綴ったもの。
   なるべく早い時期に「捲土重来(けんどじゅうらい)」を望みたい。
『クールな男』 マルセル・エイメ 福武文庫
  *フランス人作家エイメによる、」バラエティに富んだ中短篇を7篇収録した作品集。
   エイメといえば『壁抜け男』に代表される“不思議な話”の作者というイメージが
   強かったが、本書の収録作を読むと久生十蘭に似た資質もあるようだね。サーカス団の
   芸人を主人公にした「こびと」や、ドイツ占領下のパリを舞台に肉の密売をする男たち
   の一夜の話「パリ横断」あたりが、かなり好み。他にも、1年を24か月にする法案が
   通ったことで年齢が半分になった老人たちと、子供に戻ってしまった若者たちの戦いを
   描く「ぶりかえし」など、奇妙で皮肉が効いた話が沢山。仕事で疲れた時にちょっと
   読むのも好い感じ。
『老人のための残酷童話』 倉橋由美子 講談社文庫
  *著者の「残酷童話」のシリーズの一冊で、「老い」をテーマにした作品を集めたもの。
   基本的には様々な説話をベースに独自の味付けをした軽い読み物なのだが、ちょっと
   思いつかないような残酷で美しいイメージは著者の真骨頂。バベルの図書館のような
   建物と書物魔の老人が登場する「ある老人の図書館」、著者の残酷趣味が全開になった
   「姥捨山異聞」も好かったが、一休を彷彿とさせる老高僧と魔性の美女の物語である
   「老いらくの恋」が中でもかなり面白かった。
『ナイトランド 創刊第3号』
  *定期購読中の「幻視者のためのホラー&ダーク・ファンタジー専門誌」の創刊第3号。
   あいかわらず面白い。特に気に入ったのはサイモン・ストランザスの「黒いモスリン
   の小さな穴」に、追悼特集のレイ・ブラッドベリ「死びと使い」の2篇。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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