『天体による永遠』 オーギュスト・ブランキ 岩波文庫

 19世紀フランスの革命家が書いた、革命とは全く関係の無い奇想の書。本書の著者であるオーギュスト・ブランキといえば、秘密結社による武装蜂起だの人民政府による独裁制だの、後の共産主義革命の思想的源流になった怖いヒト――というイメージばかりを持っていた。
 ところがつい先日、ツイッターのお仲間の方から「未読の人はぜひ読んでほしい」とのご推薦を頂き、さっそく本屋に。岩波文庫の新刊棚に1冊だけおいてあったのを見つけて手に取った。本文は僅か130ページしかなく、解説までいれても200ページあまりという薄い本。パラパラとめくってみると「水星軌道」や「カシオペア座」といった、革命とは全く関係ない言葉が躍っている。宇宙と天体を巡る思索を綴った本のようだ。「19世紀の革命家が綴った宇宙論(?)」とはいったい…。頭の中には沢山の疑問符が浮かんできたのだが、とりあえず買って読んでみたところが大当たり。自分の好みにぴったりあって大変に面白かった。

 全体は8章からなるが、内容的にみれば大まかに3つの部分に分かれている感じ。まず最初の第一部では、宇宙の大きさ(無限と有限の間の“無際限”)や宇宙を構成する元素について思いを馳せる。次は彗星の正体や恒星と惑星の起源について推察した第二部。しかし如何せん2012年現在では118種類を数える元素がまだ僅か64種類までしか発見されていなかった時代のこと。ビッグバンなどという概念も無く、「宇宙には始めも終わりもない」という“静止宇宙モデル”を前提に考察されている。当然、今の我々の目から見れば明らかな誤謬も散見されるわけだが、それがまた「疑似科学」を読んでいるようでなかなか味わい深かったりするのだ。(笑)(*)

   *…尤も本書に書かれている考察自体は、当時の知見からすれば最も合理的な推論と
     いって良いだろう。

 何よりも本書の魅力は、文章の端々に感じられる著者ブランキの(革命理論や幽閉された我が身といった)世俗的な事柄から離れて自由に空想の翼を広げた執筆姿勢にあるといっていい。印象としては、第一部では星座随筆の野尻抱影や『一千一秒物語』の稲垣足穂を、そして続く第二部では疑似科学ネタを得意とする奇想作家バリントン・J・ベイリーを連想しながら読んでいた。自分にとって非常に好ましいタイプの本だ。
 さらに驚いたのは第三部に入ってから。それまで考察されてきた「無際限の宇宙」と「有限の元素」という“事実”から、著者は驚異の「反復の無限」(≒無限複製)という結論を導き出す。一種のネタバレのようになってしまうので詳しくは書かないが、論理のアクロバットを駆使して一気に飛躍する恐るべき第三部は、まるでニーチェの「永遠回帰」を彷彿とさせる。(もしくは「現代最高のSF作家」と称されるグレッグ・イーガンの量子論SF『宇宙消失』といったところか。)読み終わった時は、正直言って少し茫然自失の状態だった。

 小説であれ学術書であれ、執筆時の著者の境遇と著作の内容をあまり重ね合わせて考えてはいけないとは思うが、本書の場合は解説を読んでさらに一種の“感動”を覚えた。ブランキはその生涯を通じて通算33年間にも及ぶ期間、幽閉されていたとのこと。そして本書もトーロー要塞の獄中という劣悪な環境下で書かれたものだったのだ。そんな境遇を微塵も感じさせぬ自由闊達な筆運びは、こわもてする革命家の中にも実はこのような心が潜んでいたという事を、気持ちよく実感させてくれた。
 子ども時代に「無限に広がる宇宙の深淵」に思いを寄せて、心震わせた少年少女であった人なら、一度読んでみて欲しい。きっと損はしないはず。そんな一冊といえる。

<追記>
 本書をご紹介して頂いた方によれば、本書は(その方にとって)「何があろうと一生付き合うことになる」「常にそこに書かれてあることに立ち返る」何冊かの本のうちの一冊とのこと。これは本書を読んだ今なら大変よく理解できる言葉。自分にとっても本書は今年の、いやここ数年の中でもかなりの収穫だった。このような出会いがあるから本はやめられないのだ。(そしてツイッターも。/笑)
 「すける」さん。最後になりましたが、本書をご紹介いただき本当に有難うございました。
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BOOK MARK NAGOYA 2012

 10月20,21日の土日に開催された「BOOK MARK NAGOYA 2012」に行ってきた。名古屋の広い地域で同時開催され、総勢50店舗・団体が参加する合同ブック・イベントだ。今年は名古屋まつりと会期が重なった事もあってか、非常に盛況だった。20日は名古屋駅をスタートする名古屋まつり恒例のパレードを横目にしながら、中心部の繁華街・栄までぶらぶら歩き。テレビ塔の下の久屋大通公園で開かれた「一箱古本市」を満喫ししてきた。
 アマチュア店主の個性がもろに出た、本やCDやアクセサリーに雑貨といった商品が所せましと並ぶ様子は圧巻。本やCDは特に買いたいものがあるわけではない。(既に持っているか守備範囲ではないかのどちらかが殆ど。たまに「好いな」と思うものは値段が折り合わなかったり。)でも、ひやかしでこまごましたブースを覗いて歩くだけでも充分に愉しい。特設ステージではギターの弾き語りによるミニコンサートや、小中学生によるJAZZバンドの演奏なんてのもあって、のんびりした休日を過ごすのに最適だった。行ったのは今年が初めてだったのだが、病み付きになりそうな気配(笑)。
 つづく21日は栄から少し東に位置する千種へ。JR千種駅からほど近いところにある名物書店・ちくさ正文館の2階ホールで開かれた「ふるさと怪談 トークライブin名古屋」という催し物に参加してきた。実はこのイベント、ホームページでは事前予約制になっていたので、ぎりぎりまで予定がはっきり出来ず参加を諦めていたもの。ところが当日朝になってホームページを見ると、急遽「当日券も販売する」という話に変わっているではないか。これは行かざるを得まい、とすかさず心を決めた(いや、単に行きたかっただけなんだけど/笑)。
 「ふるさと怪談トークライブ」というこのイベントは、昨年の東日本大震災で仙台の地元出版社「荒蝦夷(あらえみし)」が被災した際、存亡の危機を救おうと幻想文学研究家・東雅夫氏が発起人となって始めたものなのだそう。その呼びかけに立ち上がった全国の有志たちが、手弁当で地元の怪談を語る場を企画して、各地で「ふるさと怪談」という統一名称で行っているイベントなのだ。当日の参加費2000円は全額「三陸文化復興プロジェクト」に寄付されるとのことで、その意味でも行って良かった。

 プログラムは全部で4部構成になっている。総合司会は地元の私立中学・東海中学校で教員を務める傍ら、怪談に関する活動を行っている島田尚幸氏。(氏は全体の進行役を務める以外にも、第3部では怪談の朗読をしたり第4部のトークショーで司会を受け持ったりと、まさに八面六臂の大活躍だった。)
 まず第1部は東雅夫氏による基調講演。ひょんなことから始まった「ふるさと怪談」のイベントだが、実際に初めてみると予想以上の反響があったとのこと。怪談を始めとした地元密着型の伝承を掘り起こすということは、その土地土地のチカラを呼び覚まし活力を与えることに他ならない由。なかなか感銘を受ける講演だった。
 続く第2部は、金城学園大学で教鞭をとる現代美術作家・山田彊一氏の講演。演題は「尾張徳川殿の『落ちのび街道』はイコール名古屋の『妖怪街道』」とやたら長いが(笑)、要は名古屋のあちこちにある恐怖スポットの紹介。氏のエキセントリックで強烈な個性が光る。
 第3部は本日のメインイベントで、名古屋の地域性をモチーフにした伝承や創作怪談の朗読に合わせ、4人の“絵師たち”が物語に因んだ絵をその場で描いていくというライブパフォーマンス。”猫ヶ洞池”(注:そういう地名の場所があるんです)付近を舞台に、能の演目である『黒塚(安達原)』と民話『三枚のお札(ふだ)』や古事記『イザナギとイザナミ』を混ぜ合わせたような話があって、名古屋弁で怪談を語るという趣向が面白かった。他にも伊勢湾台風にまつわるちょっと悲しい怪異だとか、地元名古屋に密着した話が朗読された。
 プログラムの最後は関係者によるトークショー。東雅夫氏を初め、先ほどの「荒蝦夷(あらえみし)」代表・土方正志氏、会場を提供したちくさ正文館の店主である古田氏、渥美半島中央部にある田原市の中央図書館館長をつとめる豊田高広氏に、司会の島田尚幸氏も含めた総勢5名によるフリートークが花開いた。
 内容はこの「ふるさと怪談」が開催されるきっかけになった震災の復興状況の話から始まり(*)、イベントの発足の経緯や今の出版界を巡る状況(例えばコンビニまがいの品揃えではなく、ちくさ正文館のようなユニークな本屋があちこちにあれば本はもっと活気づくといった話)、それに東氏がかつて主宰していた『幻想文学』誌にまつわる話など、あちらこちらを縦横無尽に駆け回る。予定時刻をかなり超過しながらも盛況のうちに幕を閉じた。
 トークショーの中では、東氏が言われた「怪談は死と鎮魂に正面から向き合った稀有な文芸である。これまではそのことをことさらに主張するのはなんとなく気恥ずかしくて憚られたが、昨年の震災から意識が変わった。」という話が特に自分の印象に残った。

   *…テレビで放映されるような街の表面的な部分はともかくとして、日常に密着した所
     はまだ全くの手付かずで荒廃した状態のままらしい。被害の大きかった地域では、
     まだ復興の兆しすら見られないとこともざらのようだ。宗教哲学者・山折哲雄氏や
     民俗学者・赤坂憲雄氏らが現地を訪れた様子がビデオで流されたが、あちこちに
     残る震災の爪痕が痛々しい。

 もともと幻想怪奇小説は大好きだし東氏の泉鏡花アンソロジーを読んだりもしているのだが、「怪談」のイベントに参加したのは今回が初めて。どんな感じかと少し心配していたのだが、想像していた以上に面白かった。結局のところ、怪奇小説と怪談の最も大きな違いは、そこに「語り」という要素が加わる点にあるようだ。話者の語り口によって同じ物語が怖くも面白くもいかようにも変化する。「語り」はすなわち「騙り」であるということを再認識した次第。
 初日の「一箱古本市」といい2日目の「ふるさと怪談トークライブ」といい、まさに読書の秋を満喫した2日間。おかげで読書はあまり進まなかったが、それを補ってあまりある愉しさだった。来年もあるといいなあ。

『日本人のための日本語文法入門』 原沢伊都夫 講談社現代新書

 毎週末の恒例行事は、近所の本屋をぶらぶらと回ること。(まるで自分の縄張りを巡回する野生動物みたいだね。/笑) たまには街の大きな書店に行ってまとめ買いするのもいいけれど、こうして近所の本屋をうろうろするのも、これはこれで結構愉しいもの。あまり売れそうにない新刊本を確実に手に入れるには大きな書店の方が確実だが、さほど気に留めていなかった本でも実物を見たら予想外に良さそうだったりする。そんな時は配本の数が少ない近所の本屋の方が、(大量の新刊に埋もれてしまわない分)大書店より却って目に留まりやすいのだ。
 前置きが長くなったが、本書もそんな感じで手に取ったうちの一冊。講談社現代新書は全くノーマークだったのだが、新刊棚の前に立ったとき真っ先に目に留まり、ついでピピッときた(笑)。なんせ『日本人のための日本語文法入門』という、いかにも意味ありげな題名なんだもの。「国語」じゃなくてわざわざ「日本語」。しかも学校でさんざん文法を習ってきた「日本人」を相手に改めて「入門」させようという大胆不敵さ。よほど面白さに自信がなければこんな名前をつけるわけがない。そう推理してさっそく買ってきたところ予想はズバリ的中、気軽に読めてそれでいてとても愉しい一冊だった。
 中身はまさに書名が示すとおりで、日本語の文法構造について簡潔に解説したもの。それ以上でも以下でもないのだが、意外なことにそれがまた面白い。なぜなら自分達が国語の時間に習ってきた普通の文法(いわゆる「学校文法」)ではなくて、外国人が日本語を履修するときに習う実践的かつ客観的/合理的な文法解釈になっているから。したがって本書を読むと、学校時代にどうも釈然としなかった部分がすっきり。まるで長年患った宿痾(しゅくあ)がいっぺんに治ってしまったみたい。(笑)

 例えばこんな感じだ。
 ひとつ目。日本語の基本的な構成は学校で習った「主語 ― 述語」の関係ではなく、実は「主題 ― 解説」と言った方が正しい。文章中の「~は」という助詞は「主語」を示すのではなく、文章の「主題」を表すのだそう。主語(主格)を示すのは「~は」ではなくて「~が」の役割りであって、だからこそ「カレーライスは父が台所で作った」なんていう文章だって作ることが出来るのだ。(確かに「~は」と「~が」の違いなどは、学校の授業で今一つ理解できなかった事のひとつだよなあ。)
 ちなみに「~が」がついた単語は、(英語と違って)“文章の主語”ではあっても決して文の中心的な位置づけにはなく、単に主題を解説するための様々な「コト」のひとつに過ぎない。先ほどの文章でいえば、カレーライスが文の主題(≒話題の中心)であって、「誰が作ったか」という情報は「どこで作ったか」「辛さはどうか」などと同じく、カレーライスを説明するための因子というわけだ。
 「~が」と「~は」の使い分けについては後の方の章でも取り上げられる。どちらを使うかは、その文章の主格が聞き手にとって新情報か旧情報かによるというものだ。どういう意味かというと、昔話の桃太郎で冒頭「あるところにおじいさんとおばあさんが…」という文では、おじいさんとおばあさんは始めての登場(すなわち新情報)であるため「が」を使う。そして次の文章からは既知であるため「おじいさんは山へ芝刈りに…」とように「は」を使う。つまり英語でいう不定冠詞の“a”と定冠詞の“the”と同じような使い分けと考えると良いとのこと。
 本書にはこんな話が沢山、具体的な例でもって分かりやすく挙げられている。先ほども述べたように、ここに書かれた文法は学校で習うものとは違うものだそうだ。「学校文法」は古典とのつながりを重視した学問的なもののようで、我々が普段使用している言葉の仕組みを理解するには、むしろ本書に書かれている「日本語文法」の方が良い。

 ふたつ目に行こう。英語と比較した場合、日本語の動詞に「他動詞」よりも「自動詞」の方が多いのは、日本語(日本人)と欧米の自然観の違いによるものという指摘も興味深い。人が対象物に向かって何かを働きかける表現(=他動詞)が、欧米人の持つ「人間中心」の考え方に根ざしているのに対し、日本語で「自然と何かが起こる」という表現(=自動詞)が多いのは、「(人による)動作」ではなく「状態の変化」を重視しているからなんだとか。(*)
 「今度結婚することになりました」などの表現があるように、本来自分たちの意志による行動であっても“自然にそのようになった”という形とすることで、円滑に話が進むのは日本語ならでは。

   *…翻訳家の増田まもる氏がエッセイで以前書かれていたように、地震や津波といった
     人間の力で何ともならない圧倒的な自然災害を前にした無力さの克服(ひたすら
     通り過ぎるのを待つ我慢強さ)が生んだ日本人の特質や、もしくは四季の移り変わ
     りといった豊かな自然にはぐくまれた感性が、日本語の表現にも影響を与えている
     のかもしれない…なんて考えてみたり。

 3つ目の話。外国人にはとても習得が難しい「○○してあげる」もしくは「○○してもらう」という表現には、実は日本人が言葉に込めた「相手への思いやり」が隠されているという話も、言われてみればなるほど腑に落ちるといった感じだ。(**)
 例えば「花子が私に日本語を教えてくれた」という文章には、「花子が私に“日本語を教えるという思いやり”をくれた」の意味が込められているのだとか。

  **…昔会社で韓国からの研修生のお世話係をした時に、この表現の持つ意味について
     説明に苦労したのを懐かしく思い出した。こう説明すれば良かったのだな。

 他にも色々な話が盛りだくさん。日本人は「(私は)富士山を見る」といった、主体の意志がはっきりする表現より「(私に)富士山が見える」という自発的な状態を示す表現を好むとか、「~ている」と「~てある」の時制の違い。さらには「日本に来るときに、友達がパーティを開いてくれた」といった“複文”に見られる、文の前半と後半の時制が不一致になっている理由や、(「○○ましょうか?」とか「○○(だ)ね」というように)文の最後に付いて意志や感情を指し示す「ムード」という文法概念などなど。
 自分のようにお気らくな読者は、あまり細かすぎる専門書では疲れてしまうので、このくらいの本がちょうど好い。愉しかった。
 ところで小中学校でも本当はこちらの文法を教えた方が良いんじゃないのかねえ。分かりやすいよ。難しい文法は高校になってからで良いのでは?(どうせ前に習った文法なんて難しくてあまり覚えていないんだし。/笑)

『荘子 <内篇>』 福永光司 講談社学術文庫

 孔子の『論語』とならび、中国を代表する思想である老荘思想。その老荘の一方の雄である荘子の思想を伝える書物は「内篇(全7篇)「外篇(全15篇)」「雑篇(全11篇)」の三篇/全33篇からなるそうだ。そのうち「外篇」や「雑篇」は後年の門人たちによる文章が相当数含まれていて、荘子本来の思想をもっとも忠実に示しているのは「内篇」である、というのが一般的な説らしい。本書はその「内篇」の原文&訓み下し文に、さらに訳者による詳細な解説(解釈)がつくという、豪華版の本だ。
 『老子』は有名だし厚くないので、わりかし読んでいる人も多いと思うが、それに比べ『荘子』は何となく地味な印象があるうえ(失礼/笑)、ちょっと厚めなのでこれまで手を出さずにいた。気が変わったのは、あるとき聞いた『内篇』の冒頭と最後に出てくる逸話が偉く気に入ったから。「鵬(ほう)」という巨大な鳥が出てくる話と、「混沌(こんとん)」が体に7つの穴をあけられて死んでしまう話といえば、聞いたことがある方も多いかも。

 有名な冒頭の文章は、北の海に体長が幾千里もある巨大な「鯤(こん)」という魚がいて、やがて「鵬(ほう)」という巨大な鳥へと変化。まるで雲のようなその翼をつむじ風に乗せて南の海へ赴く―という壮大な話から始まる。この巨大な魚や鳥は俗世の小さな価値観や論理を遥かに超越した存在を意味していて、荘子の理想とする境地を象徴しているそうな。ニーチェの超人思想にも似たところがあって、「至人(=無己/すなわち自己にとらわれない者)」「神人(=無効/すなわち俗世の価値に左右されない者)」「聖人(=無名/すなわち名誉にとらわれない者)」という3種の者たちが、自然や宇宙と一体化した理想の姿とされる。これは最初の章である「逍遥遊」の最も重要なポイントであって、俗世を遥かに超えた存在である絶対者(超越者とも)の、“自由無碍(じゆうむげ)”の境地の実践について説明したもの。

 たしか白川静氏が言っていた事と思うけれど、実は『荘子』の方が『老子』よりも先に書かれたものではないか?という説もあるらしい。(ただし思想史には詳しくないので正しいかどうかは知りません。悪しからず。)『老子』の思想の方があまりにも整い過ぎていて、『荘子』に比べてかなり作為的なところがあるとの由。素人の目ではさっぱり分からないのだけれどね(笑)。また同じく『荘子』の方が、具体的な喩え話が多くて読んでいて面白い―という噂もあったが、これは実際に読んでみたら本当だった。(『老子』にも有名な「玄牝(げんぴん)」という谷神の話を始め、面白い逸話はもちろん多くあるけどね。)
 ざっと中身について説明しておこう。本書は第一章「逍遥遊篇」から始まり、ついで「斉物論篇」「養生主篇」「人間世篇」「徳充符篇」「大宗師篇」「応帝王篇」と続く、つごう全七篇からなる。おおまかな流れとしては、1)人として理想の生き方とは > 2)実際の人生における実践とは > 3)君子はどうあるべきか ――という、3つのステップで進む感じかな。奇数の付く章は比較的短めで偶数章は長めの構成だが、思想書としてのメインは最初のふたつの章(「逍遥遊篇」「斉物論篇」)にあるといって良いだろう。
 特に第二章「斉物論篇」は抽象論が多くボリュームもあるのでなかなか読みごたえあり。残りの章は例え話が中心となる。先ほどは「逍遥遊篇」のポイントについて書いたが、ついでに残りの章についても簡単に紹介を。

 まず「斉物論篇」だが、この章はいきなり難しい。先ほどの「自由無碍なる絶対者」を成り立たせる論理・根拠について説明しているのだが、抽象論なので文意を読みとるのが大変。(解説にかなり助けられた。訓み下し文だけではおそらく理解できなかったのではないだろうか。)
 それによれば、宇宙や自然と一体化して自己を感じなくするのが理想という事だが、これは西洋思想の大きなテーマであった「実存」に関する逡巡や苦悩を、克服するヒントにもつながるような気も。他にも「彼に非らざれば我なく、我に非らざれば取るところなし」という言葉が示すように、「(喜怒哀楽の心的現象を除けば)具体的な自己など何処にも存在しない」という主張があったり。これなどはフッサールが創始した「現象学」の根本理念にも通じるところがあって実に興味深い。
 ちなみに「現象学」では“情感”こそが人間の認識の根源であると規定されるわけだが、“情感”が生じる理由そのものについては、現象学ではそれ以上考察しない。しかし荘子は『内篇』において、その正体についても考察を述べている。すなわちその正体とは「情(まこと)ありて形(かたち)なき」はたらきそのものであり、「天(≒自然)」なのだとか。このあたりのくだりを読むと、まさに老荘思想の根幹に触れた感じがするな。
 すなわちまとめてしまえば、「どんな人間も生来もっている自然の心(成心)に従えば安らぎを得ることが出来る。無理に自己に固執するからこそ愚かな振る舞いを繰り返すのだ」というのが、彼らの主張という事になるだろうか。

 話は変わるが、老荘思想をもっとも端的に表現する「道(タオ)」という言葉。この「道」というやつがまた厄介で、何なのかいまいちよく分からない。それでも『老子』においては様々に説明を加えていた記憶があるが、本書ではよけい曖昧にされている。(もしかしてこのあたりの事を白川静氏は言っていたのかな?)
 まあ何せ「道」というのは人智を超えた何かであり、人によって「究める」ことなど出来はしないもの。太古の始原においてあらゆるものの元となった“全きもの”とでも言えば良いのかも知れない。
 荘子の説によれば、太古の世界においてはあらゆるものの区別がなく、全てが一体かつ完璧なものであったそうな。そこから「あちら」と「こちら」の区別が生まれ、さらに「良い(好い)/悪い」の判断が生じてこの世が生まれた。そしてそこからすべての苦しみが生まれたのだと。
 よって荘子によると「自己」というのは、全ての苦しみの根源であるらしい。(西洋思想は根本から否定されているね。/笑) 本書を読む限りでは、これが荘子の考えの根本にある「道(タオ)」の価値観のようだ。しかし自分というものを捨てて、大宇宙と一体化することが人として生きる理想の姿だといわれてもなあ。何が自然の心なのか、修行の足りない自分にはとんと見当もつかぬ(笑)。
 荘子もそのあたりは心得ていたようで、次には「人間の妄執を超克するための仕組み(*)」を明らかにしようとしてくれている。(しかしそれもまたすごい展開に。解ったような解らないような話で、何だかはぐらかされたような気がしないでもない。/苦笑)

   *…この世の実在の真相を明らかにする絶対の智恵を「明(めい)」と呼ぶ。冒頭に挙
     げた「絶対者」の事を、「明」を体得した存在と言い換えてもいいかも知れない。

 まあとりあえずその一端でも。
 世の中に“始め”というものがあると認めるならば、もうひとつ遡って、まだ「“始め”すら無かった頃」があったと言えるはず。そしてその「<“始め”すら無かった頃>すらなかった頃」が…と考えていくと、簡単に無限循環論法に陥ってしまう。逆に“始め”など無かったという仮定からスタートしても同じで、「“始めなど無い”」が無かった頃…となってやはり循環に。結局のところ、何も表した事にはならないのだと荘子は述べる。ではどうすべきかというと、それらすべてを呑み込んで「渾沌(こんとん)」を生きること。そしてそのために「体験そのものの世界に止まること」が重要なのだとか。
 このあたりの話が本書の一番の山場と言えるかもしれない。いい加減、抽象的で難しい内容なのだが、それに輪をかけて福永氏による解説が大変なことになっている。あまりにも「格調が高すぎる」のだ。もしかしたら訓み下し文自体より解説の方が表現の難しいところさえあるかもしれない(笑)。正直いってここらを読むのには結構苦労した。(ちなみにかの有名な「胡蝶の夢」の説話は、この「斉物論篇」のラストに出てくるもの。本書を読むまで恥ずかしながら知らなかった。「目から鱗がおちる」という表現が新約聖書に由来するのを知らずに、読んでびっくりしたのと同じ。古典は現代にもまだまだ生きているんだね。)

 ともかくこのようにして1、2章では、人が理想とすべき姿(=精神的な「絶対者」)が明らかに。続いて荘子は実社会における「絶対者」の姿を述べようとし、それが次の「人間世篇」の主題になるというわけだ。
では実社会において、精神的な「絶対者」はどこにいるのだろうか。荘子によれば、彼らは(老賢人のごとく)俗世を離れた山の奥や竹林に人知れず住んでいるわけではない。むしろ彼らは人々とともに、街の中に暮らすのを旨としたのだそう。
 当時の中国社会というのは権力者が臣民の命を奪い、そして国家同士も互いに戦うという、まるでホッブスの『リヴァイアサン』のような世界だったようだ。荘子はきっと、人がそのような世界で如何に生きるべきかを語りたかったのだろう。
 もったいぶっても仕方ないので結論を言うと、それは「無用の用」ということ。何の役にも立たぬがために、切り倒される事もなく大木に育った櫟(くぬぎ)の逸話や、体が不自由であるがゆえに徴用もされず気ままに生きる支離疏(しりそ)という人物などを例に、道徳を振りかざして人に「正しい」道を説くことの愚を述べている。このような人物こそが陋巷に在る「絶対者」の姿であり、同時にまた君子の理想の姿でもあるというわけだ。

 荘子は次のように述べている。
 「国を亡ぼすも人心を失わず、利沢(めぐみ)は万世に施(およ)ぶも人を愛すと為さず」
 訳文)真の超越者/絶対者は自由無碍な心の働きを持つため、外界の事象に適時応接して極
    まり尽きることがない無心の境地に遊ぶ。したがって武力を用いて他国を攻め滅ぼそ
    うが、人民の信頼を失うことがない。また彼の恩沢は万世に及ぶほど広大無辺だが、
    その愛は無心の愛なので、彼自身、人民を愛していると意識することがない。

 ちょっと待て。これってただの夢に過ぎないのではないのか? もしもこれを理想とするならば、施政者はどこに自らの心の拠り所を求め、また人民は何をもって彼を信じれば良いのか。「自然のままに生きる」というが、生まれながらに徳をもつのでなければ、如何にすれば人はこのような存在に成れるというのだろうか?また自然に生きることが、すなわち宇宙と一体化する究極の状態であるとするならば、野生動物の世界は最も幸福な世界だとでもいうのだろうか。
 もしもこのような君主が実在したとすると、(人民と心の一致がなされない限りは)単なる暴君と区別がつかないに違いない。こうして考えると、荘子の思想は(ニーチェの超人思想と同じで個人が生活信条とするには素晴らしいものだが)、それを他人に強要したり社会共通の規範にしようとすると、いきなり大変なことになるような気がする(**)。

  **…これが『老子』のように机上の論理に終わる事なく実社会への応用に突き進んだ、
     荘子の危うさでもありまた面白さとも言えるのかも知れない。ちなみに余談だが、
     荘子の理想とする施政のあり方は、小野不由美による人気ファンタジーシリーズ
     『十二国記』の世界観にほど近い気がする。

 もう一度おさらいをしておこう。超越者/絶対者が尊ぶとともに体得している「無為自然の理(ことわり)」のことを「道(タオ)」という。荘子の思想は、(細かな部分で相違はあるにせよ)この無為自然を理想とする点においては、老子の思想と共通するものといえ、それが「老荘思想」と呼ばれる所以になっている。ちなみに自己と道がひとつに絡み合った状態を「えい寧」(注:えいは手偏に嬰)というそうで、結論としてはこれが老荘思想における理想の境地ということになる。
 では最後に「応帝王篇」に出てくる「渾沌、七竅(しちきょう)に死す」の逸話に触れて終わろう。この話、どこかで聞かれてご存知の方も多いと思う。目鼻口といった、人間と同じ7つの穴(=作為や分別を暗示)を7日間かかって体に開けられた渾沌が死んでしまうという逸話だ。渾沌は渾沌のままに、無為自然は自然のままにしておくのがいちばん…。結局のところ、それが荘子の最後に言いたかったことのよう。でも皆が好きにしたら上手くいかないからこそ、いろんな智恵を絞ってきたのだけれどねえ。

<追記>
 本書はあれこれ考えるところの多い本だった。思想としては不充分なところもあると思うが、それがまた本書を読む上での愉しさにもなっている。プラトンにせよ孔子にせよ、思想書というのは自然科学と違って古びないから好いね。今の人が読んでも存分に愉しめる。

『ボストン美術館 日本美術の至宝』

 先日、名古屋ボストン美術館に行ってきた。(なぜか名古屋は台湾ラーメンが名物だが、ボストン美術館まであるのだ。しかし「名古屋ボストン美術館」って…名古屋かボストンか、いったいどちらなのか良く分からない。/笑)
 目的は題にも書いた『日本美術の至宝展』の後期展示を見るため。別に「芸術の秋だから」という訳ではなくて、たまに発作的に美術展に行きたくなるのだ。ただし気が付いたら前期はすでに終わっていて、残念ながら大好きな長谷川等伯(はせがわとうはく)の『龍虎図』は入れ替えのために見られなかった。それでも今回、曽我蕭白(そがしょうはく)『雲龍図』の実物には会えたので大満足。
 日本美術で好きなのは何と言っても(今回見逃してしまった)長谷川等伯。国宝の『松林図屏風』は最高に美しい絵だと思うし、どことなくユーモラスな『枯木猿猴図』などもいい感じ。(とか言いながら、実物にはまだ一度もお目にかかっていないのだが。/苦笑)
 だから正直いうと、精細な図柄でちょっと不気味な感じの絵が多い蕭白は、それほど好きではなかった。(今回みた『雲竜図』だけは別。ちょっと寄り目の龍が何ともユーモラスで好い。)
 しかし今回実物を見て印象が少し変わった。『風仙図屏風』で、画面下で強風に吹き飛ばされる2人の人物のしぐさも面白いし、思っていたほど不気味に感じない。いちばん驚いたのは『商山四皓図屏風(しょうざんしこうず)』。秦の始皇帝の弾圧を避けて山奥に隠遁した4人の高士を描いた絵なのだが、大胆な構図と太い線描はまさに自分好み。左端の人物に至っては、まるで殴り描きに思えるほどの勢いと省略で描かれている。

 他にも目玉企画として、尾形光琳の『松島図屏風』(フルカラーで岩礁の緑色が強烈)や、『吉備大臣入唐絵巻(*)』に『平治物語絵巻』といった絵巻物の傑作、それに伊藤若冲の小品『鸚鵡(おうむ)図』など、フェロノサやビゲローらによるコレクションを中心に、ボストン美術館が収蔵する日本美術の(まさしく)至宝を現物でみられる良い展示会だった。以上、文章で読んでもよく分からないと思うので、興味のある方は一度ネットで検索されるといいかも。でもってこの後に大阪などを回るそうなので、出来れば足を運ばれては如何だろう。きっと面白いと思うよ。

   *…遣唐使・吉備真備(きびのまきび)が阿倍仲麻呂の幽鬼の力を借りて、唐人がだす
     無理難題を見事に突破する物語を絵巻物にしたためた物。平安時代の作。

 高いお金を出して美術展に足を運ぶ意義はどこにあるかというと、それは何と言っても現物がこの目で見られることではないか。自分が考えるに現物に出会うことの魅力は2つあると思う。ひとつは文字通り「原寸大」で観られるということ。大きいものは大きいままに見ることが出来るから、作者の意図したままに作品を味わうことが出来る。(作者は印刷で小さくなってしまうなんてことを想定していなかったからね。だから印刷物とのギャップが大きい、なるだけ巨大な絵の方が面白い。)今回の蕭白『雲竜図』なんてまさにそうだ。自分の体よりはるかに大きな襖に描かれた龍の姿は、現物を目にすると極めて圧倒的。視野の端っこまで映る龍の姿の迫力は、こじんまりと画集に納まったものを見ているだけでは、絶対に想像出来るものではない。
 現物で見ることのメリットその2は、描かれた様子が近くで確認できるということ。例えば以前に行ったマックス・エルンスト展。『百頭女』やその他のコラージュ作品の原画が何枚か飾られていたのだが、切り貼りや修正の跡が生々しくて面白かった。(**)
 油絵などでも思っていたより小さかったり、逆にちょっと大きかったり。さらに絵の具の盛り上がり方や筆使いをみるのも愉快。(いずれも決して印刷で再現できるものではない。うちの会社のデザイナーがよく言っているいわゆる”質感”というやつのこと。)今回の例でいえば絵巻物なんかがそうで、この場合は絵のサイズが必ずしも大きくなくてもよい。こちらの「原寸大」もまた、展示会ならではの愉しみ方といえる。

  **…もっと卑近な例でいえば、水木しげる氏の妖怪画集の原画などもそう。子供の頃に
     夏休み特別展でみたが凄かった。あの描き込みの凄さは実物を見ると印刷本の比
     ではない。

 活字中毒の自分がいうのも何だが、世の中には本だけではわからないことは沢山ある。たまには書をポケットに突っこんで町に出るのも良いかもしれない。(寺山修司のようには「書を捨てない」のが自分らしいところではある。/笑)

<追記>
 考えてみれば映画もそうだ。DVDで見るのが嫌で、どうせ見るなら映画館の大スクリーンでみたいのは、製作者が意図した通りの状態で愉しみたいから。そしてそれはひとつの「イベント」の記憶となって、後から何度も思い返すことになる。リアル体験というのは、思えば最高に贅沢なことなのかも知れないね。これからも活字とリアルの二刀流で愉しんでいけるといいな。

『中世日本に何が起きたか』 網野善彦 洋泉MC新書

 まるで網野史学の全体を俯瞰したような本で、入門書にちょうど良さそうな感じ。取り上げられているテーマは、著者の長年にわたる研究フィールドを網羅しているだけあって多種多彩。たとえば初期の著作である『無縁・公界・楽』(平凡社ライブラリー)から連綿とつづく、「市」「アジール」「境界」の話。そして「境界」についての研究から派生した、「河原者」など被差別民に関する考察。他にも、中世日本が「農民を中心とした産業構造をもつ封建社会だった」という定説を覆して、漁民や職能民、果ては「遊女」や「非人」まで巻き込んだ一種の「市場経済」が存在していた事について。さらには「悪党」が台頭していった様子や、鎌倉新仏教における「新しさ」と市場経済の関係性に、太鼓や梵鐘による「音」がもつ意味と「境界」とのつながりまで。細かなテーマを挙げていけばきりがない。原著は著者が2004年に亡くなってから2年後の2006年に出されており、氏が亡くなる前後の思い出を書いた保立道久氏の解説も、しみじみして何だか好い感じだった。
 冒頭にも述べたように本書は網野史学のエッセンスをまとめたような本なので、今回は細かな内容紹介をしても仕方ない。代わりに自分の控えを兼ねて、気づいたことについて「覚え」でも書いておこう。それでも氏の著作の雰囲気は分かると思うので、興味のある方は直接当たられるといいと思う。

 著者によると日本で使われる「公」という言葉には、西欧社会における「COMMON」とは少し違うイメージが付随する。後者(COMMON)は庶民や大衆というニュアンスを持つとともに、(本当の意味で)自立した個人が互いに関係をもつ世界――といった意味合いが含まれるのに対し、前者の「公」の場合には、国家(=歴史的には天皇や幕府)に代表される一種の「権威」といったイメージが強い。あくまでも庶民よりは上のステージの位置づけであって、中世の「市」や「アジール」とは異質で無縁なものという感じ。
 そして実はこのような(特に天皇による)「公」は、庶民同士の関係性の中にある自律的な「公」をひっくり返し天皇自らに吸収することで、成り立っているのだそうだ。わかりにくいけど、鵜飼の鵜匠みたいなイメージかな。これはいわゆる「お上」の概念についての、とても重要な指摘だと思う。
 次いでここからは個人的な推測。上記を踏まえ、日本で「COMMON」にあたるものは何だろうか。自分が思うに、それは「世間」なのではなかろうか。(ただし「世間」という言葉の持つ射程はCOMMONに比べてあまりにも短い。自らを中心とした地域社会に限定され、社会一般には届かないのが通例。)
 60年代ごろから進展した高度経済成長と都市化、そして核家族化などの社会変化は「公」と「私」の間をつなぐ「世間」を脆弱なものにしてしまった。それは結果的に、「公」に対して人々が持っていた対抗手段を奪ってきたと言えるのではないか。とすれば、最近の“ストリートの思想”や貧困デモなど若者の政治意識の高まりは、それに対する無意識の危機感から生まれた面も無きにしも非ずかも。

 また別の話。
 中世社会においては、「非人」と呼ばれた人々は、確かに一般人と区別されてはいたが、それは単に「天皇直轄である」という意味合いであって、畏怖はされども決して差別されていたわけではなかった。この呼称自体はその当時から使われていたが、差別的な意味合いは無く、彼ら自身も普通に用いていた。(「遊女」や「河原者」なども同様。貴族の出自を書いた文献にもごく当たり前に「遊女から生まれた」旨が書かれていた由。)
 ところが13世紀ごろから遊女が差別され始め、それとともに被差別民に関する記述も文献内に目立ち始める。それまでの畏怖が差別に転化する直接のきっかけは、著者によればどうやら後醍醐天皇の失脚らしい。それにより天皇の政治的な権威や支配力が落ち、生活の糧を得るためやむを得ず彼らの特殊技能であった「穢れ祓い(*)」を生業とすることになったのが契機であったようだ。(このあたり、正確な表現ではなく自分なりの要約なので、詳しくは原著にあたって頂きたい。)

   *…ちなみにここでいう「穢れ」とは、死や屠殺といった所謂「黒穢(こくえ)」と
     言われるものの事。話は違うが「赤穢(血の穢れ)」である女性の生理や出産など
     も、おそらく女性蔑視の原因のひとつではあるのだろう。

 ついでに言っておくと、少なくとも日本では9世紀ごろまでは、穢れの浄め(祓い)を特定の集団にさせることはなかったそうで、それどころかアイヌや琉球においては「穢れ」という概念そのものが存在しなかったとも。そうなると、「穢れ」自体も日本の伝統的な文化や価値観というよりは、過去の「ある種の政治的な意図」によるデマゴギーが定着したものに過ぎないような気も。さらに言えば「穢れ」という概念自体、どうやら西日本が発祥らしいし、なんだか貴族と武士のせめぎ合いに関係する、怪しげな謀略の気配が見えてくるようだ。ふうむ、興味深い。(なんて言ってしまうと不謹慎だろうか。)
 ちなみに鎌倉幕府(東国)は社会制度や文化的な面も、京を中心とした西国とは全く違っており、まるで別の「国家」と考えた方が良いという指摘もある。(日本は過去からひとつの国、というのは大きな認識不足。日本という概念自体が7世紀ごろに初めて西日本を中心に生まれたものであり、その後、東北や九州を侵略・征服することで列島の統一をはたしたということは、学校の歴史では教えていないが網野史学ではお馴染みのものだ。)
 閑話休題。今日の歴史学会では、先に述べた「穢れ」の概念と関連して差別の発生があったというのは、既に広く認知されている見解らしい。穢れを浄める仕事に携わる人々が「穢れ多し」とされて集落をつくり、周囲から疎外されるようになっていく構図はあまりに痛々しい。しかし人が考えた事ならば、同じように人によって変えていくことも出来るはず。現在のおかしなナショナリズムの高揚も同じことではなかろうか…なんて考えてみたり。

 網野善彦氏の著作はどれも自分にとって、目から鱗がポロポロと落ちるようで、読んでいて心地がいい。それまでの常識に挑戦するよう大胆な仮説に対して、学会における反発や批判も多かったようだが、門外漢からみればこちらの方がもっともな話に思えてくる。本当かどうかの検証は一介の素人には無理なので専門家に任せるとしても、少なくとも読んで面白いことは間違いない。まだ買いだめしてあるのが何冊か残っているので、気が向いたら愉しませてもらおう。(人はそれを積読本ともいう。/笑)

『屍者の帝国』 伊藤計劃/円城塔 河出書房新社

 日本の長篇SFを読んだのは、ずいぶん久しぶり。(と思ってざっと調べてみたら、同じ伊藤計劃氏の『ハーモニー』を読んで以来、およそ1年4か月ぶりだった。長いこと空いたものだねえ。)
 夭折した作家が冒頭部分だけ遺した作品を、友人である芥川賞作家が書き継いで完成させたという、刊行の経緯もさることながら、どちらの作家も熱狂的なファンをもつ実力派だけに前評判も高い。今年一番の話題作とあってこちらの期待も充分だ。値段は結構高かったが折角の機会なので、久しぶりに「イベント」に参加させていただくことにした。(笑)
 で、読んだ感想だが、これが大正解。まさに自分の好みの「いろんな読み方/愉しみ方」ができる作品に仕上がっていた。個人的には今年の国内SF作品の中ではおそらくNO.1になりそうな気配。それでは自分なりに「こんなところを愉しんだよ」というところを、いつものようにご紹介しよう。(他の方の印象とは違うかもしれないが悪しからず。)

 まず一番の特徴として挙げられるのは、実在の人物やら小説のキャラクターやらが、虚実入り乱れて登場する点だろう。だいだい主人公からして、S・ホームズの相方たるジョン・H・ワトソンだし、彼をイギリスの秘密機関である「M機関(ホームズの兄であるマイクロフトの頭文字)」へと引き込んだのは、B・ストーカー『ドラキュラ』に登場するヴァン・ヘルシングとジャック・セワード。(またM機関の隠れ蓑になっている「ユニヴァーサル貿易」は、007ジェームズ・ボンドのネタだ。)伊藤計劃自身が書いた冒頭部分からして、いきなりこんな調子。
 かと思えば、本書のメインアイデアである「死者の甦り」を科学的に描き、B・オールディスによって「世界最初のSF小説」と称された『フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス』自体が、作者のメアリ・シェリーの名とともに小説内で言及されている始末。(ちなみにこの世界では、フランケンシュタイン博士が創造した“怪物”は実在しており、創造主であるヴィクター・フランケンシュタインを殺して姿をくらました伝説の存在となっている。)さらに第1部で主人公たちがアフガニスタンの奥地まではるばる出かけていく目的は、カラマーゾフの兄弟たちの行方を探るためときている。まだある。『風と共に去りぬ』のレッド・バトラーはメインキャラのひとりとして登場するし、ワトスンについて回る書記係の屍者の名前は『ロビンソン・クルーソー』と同じフライデーときている。
 次いで「虚実入り乱れて」の“実”の部分でも同様。メスメルが提唱した動物磁気といった疑似科学から、ニコライ・フョードロフという19世紀ロシアの思想家、それに第18代アメリカ大統領のユリシーズ・グラントまで。日本関係でも明治政府の駐露特命全権公使・榎本武揚や、同じく警視庁制度の創始者たる大警視・川路利良、さらには大村益次郎に澁澤栄一にシーボルトまで。まるで山田風太郎の『明治開化シリーズ』のように、フィクションとノンフィクションがうまくブレンドされて読む人を飽きさせない。
 もっとも物語の芯の部分は、今あげたような登場人物たちと直接の関係はないので心配ご無用。歴史や小説にさほど詳しくなくても充分に愉しめる。いってみればこれらはディズニーランドの園内のあちこちに隠されたミッキーマウスのシルエットを探し出すようなもの。たとえ見つけられなかったとしても、ディズニーランド自体の面白さは変わらないのと一緒だ。
 SF小説としてのアイデアについては少し「こなれた人」向けかも知れないが、「荒唐無稽な物語」の面白さに浸りたい人には、お勧めの一冊といえるだろう。

 とまあ、ここまでがネタバレなしの感想。ここからはネタバレありの少し細かな話に移る。これから本書を読もうという方はよくご注意を。

 
 では登場するキャラクターについてもう少し続きを。先ほども書いたように、本書が持つのは山田風太郎の『明治開化シリーズ』を換骨奪胎したような「外連味(注:褒め言葉として使ってるので念のため)」をもった面白さ。荒唐無稽さでは『忍法帖』にも似た香りもする。(笑)
 先ほどはこれら“キャラクターの遊び”と物語自体とは直接の関係はないと書いたが、実のところ若干は無いこともない。例えば途中でワトスンたちに絡んでくる謎の女ハダリーは、リラダンの『未来のイヴ』(映画『メトロポリス』の原作)にでてくる人造人間の名前。(それを知っているとハダリーが出てきた瞬間に、重要な役割を果たしそうなことは推測がつく。)
 他にも、世界に名だたる私立探偵事務所(実在)のピンカートン探偵社(PNDA:ナショナル・デテクティブ・エージェンシー)が、私設軍隊派遣会社(PMC:プライベート・ミリタリー・カンパニー)として登場したり、「しってる人だけ愉しめればそれで良い」といった感のくすぐりがそこらじゅうに用意されている。おそらく自分が気付かなかっただけで、他にも数多くのネタが盛り込まれていると思われる。なんせあの註釈だらけの短篇「つぎの著者につづく」や中編『烏有此譚』を書いた円城塔だものね。(笑)

 なお、本書があちこちから拝借しているのはキャラクターばかりではない。アレクセイ・カラマーゾフがアフガニスタン奥地に築いたとされる「屍者の帝国」。それを探し求めていく第1部の設定はコンラッド『闇の奥』そのものだし、西域の荒野をワトスン/フライデー/バーナビー/クラソトーキンの凸凹4人組が旅する様子は、もしかしたら『西遊記』のパロディなのかも知れない。
 まだある。第2部から第3部にかけて、主人公が世界を股にかけて飛び回る様子は、まるでヴェルヌの『八十日間世界一周』を彷彿とさせる。(イギリスから出発して世界を一周した上、最後にまたイギリスに帰るのも同じ。さらには途中で日本に寄港するところまでそっくり。)また彼らがイギリスに帰る時に乗り込む潜水艦の名はノーチラス。同じくヴェルヌの『海底二万里』というわけだ。
 
 これらを踏まえて、本書は「フランケンシュタインの小説」ではなくて、実は「小説のフランケンシュタイン」なのではないかという仮説を立ててみた。M・シェリーが書いた小説『フランケンシュタイン』において、主人公ヴィクター・フランケンシュタインは、解剖台や屠殺場から選りすぐりの「材料」を集めることで、およそ8フィートの巨人を作ったのではなかったか。とすれば本書における甦りのシステム、すなわち死者に「霊素モデル」を吹き込むことで甦るというのは、「フランケンシュタインの怪物」というよりむしろ、土くれの代わりに肉塊で作られ、パンチカードの呪文で動き出すゴーレムもしくはゾンビにほど近い。(そして生者に忠実に従うその姿は、アシモフの“ロボット3原則”を吹き込まれたロボットにもダブって見えたりして…。)
 だとすれば”材料の集合体”という、「フランケンシュタインの怪物」のもうひとつの特徴はどこにあるというのか?それは物語の中身にではなく、本書の小説構造そのものに表れているのではないかと思うのだ。
 原作では、死者から集めた個々の構成部品が、元の形を保ちつつ有機的に結合をはたして動き出す。これは様々な文学作品や歴史上の人物から借用したエピソードを、「元の形がわかる程度に」粗くつなぎ合わせて見せた本書、『屍者の帝国』そのものといえるのではないだろうか。元の形が二重写しで見えているだけに無気味な部分もあるが、見た目よりはるかに滑らかに動くそのさまは、まさに小説版「フランンケンシュタインの怪物」といっていい。もしくは我らが子供の頃に胸を熱くした、冒険や秘境を題材とする物語のトリビュート。
 
 以上、軽快で滑稽な表面上の作風とは裏腹に、重みのあるテーマや物語の基本骨格はまさしく伊藤計劃のものといえる。屍者の人為的な生き返りというモチーフを使って、「生」や「死」や「魂(≒自意識)」とは何か?をストレートに問いかけてくる。氏の第2長篇『ハーモニー』の構想段階での仮題は、なんと『生者の帝国』だったという話を読んだことがあるが、まさしく本書はテーマからすれば『ハーモニー』の陰画であり対になるものと言えるのかも。
 それでは円城塔らしいところはどこにあるか、本書を読みながら考えてみた。作中に明示されてはいないのだが、二人の作者の作風から推測してみるに、それは本書のラストで明かされるSF的な大ネタではなのではないかという気も。冒頭で説明され、物語の基本設定になっている「霊素」というものがあるが、これなどはエーテルやフロギストンのような架空の粒子がもしも実在したら?という発想でかなり面白い。しかし最後にはその設定までも吹き飛ばしてしまう、驚愕の「真実」が語られることに。
 そのくだりを読んだ時は、I・ワトスンの『マーシャン・インカ』やB・J・ベイリーの『カエアンの聖衣』といった奇想小説を思わせる、あまりにも奇天烈な展開にしばらく開いた口が塞がらなかった。(アミガサダケといえば古参のSFファンなら分かるはず。こういうの大好き。/笑)

<追記>
 妄想ついでにもうひとつ仮説をご披露したい。主人公ワトスンの冒険に影のようについて回り、最後には「魂」を得たフライデーにまつわる仮説を。
 『ロビンソン・クルーソー』の原著におけるフライデーは、食人種の餌食になるところをクルーソーにより間一髪助け出された。そこで彼に一生の忠誠を誓うとともに、「キリスト教の信仰(プロテスタント)」という新たな生を得た者。いわゆるヨハネ福音書にある「イエスを知ることで、永遠の命が得られる。」というやつだ。(もっとも最終的には続編である『その後の冒険』(1971)の中で、カヌーで襲撃してきた「野蛮人」の矢を浴びてあっけなく死んでしまうのだが。/苦笑)
 『屍者の帝国』におけるフライデーは、遥かなる過去から伝わる「ヴィクターの手記」によって新たな「生」を得た。その後、物語では「ヴィクターの手記」はヴィクター・フランケンシュタインが書いたものではなく、古の過去から伝わる作者不詳の謎の書であるという「事実」が語られる。だとすれば、まことの命を授ける「ヴィクターの手記」を(プロテスタントにおける)聖書と同じと考えれば、「書に書かれている事だけが真実であり、書を信じることで救われる」ということを実践した本書のフライデーは、プロテスタント信仰に目覚めた原作版フライデーのパロディとして読むことも可能かも知れない。そう考えるのは少し穿ち過ぎだろうか。
 以上、お粗末様でした。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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