2012年9月の読了本

『椿説泰西浪曼派文学談義』 由良君美 平凡社ライブラリー
  *著者はイギリスのロマン派文学を専攻とし、澁澤龍彦氏や種村季弘氏にも並び称される
   ほどの碩学。枠に囚われない自由な発想と幻想文学への嗜好で、19世紀ロマン文学を
   紹介した愉しい一冊。
『ダンディズム』 生田耕作 中公文庫
  *何となく「かっこいい」とか「イギリス紳士」とかの言葉が浮かんでくるが、知って
   いそうで意外と知らない「ダンディズム」。17~18世紀のイギリスに実在した
   “稀代のしゃれ者”ジョージ・ブランメルの生涯を軸に、ダンディズムとはいったい
   何か?という疑問に答えた本。
『ロビンソン・クルーソー』 デフォー 河出文庫
  *本書は1719年に出版された完全なフィクション。(あまり知らない人も居るかも知れ
   ないので念のため。)「無人島たったひとり」という設定は、ベルヌの『十五少年漂流
   記』とともに昔の我が心を大いに魅了したもの。子供の頃にリライト版で夢中になった
   本を大人になって原著で読むと、いろいろ失望する点もないではないが、そこはそれ、
   変わりに色んな愉しみ方をすればいい。苦労して家や食料を整えていく場面は、昔と
   変わらず面白く読めたので好かった。
『フェッセンデンの宇宙』 エドモンド・ハミルトン 河出文庫
  *著者はスペースオペラ小説『キャプテン・フューチャー』で有名だが、本書はスペース
   オペラ以外の作品を集めた日本オリジナル短編集。いかにも古き良き時代を彷彿とさせ
   る感じが好い。ヴィンテージ物とでもいえば良いかな。単行本で以前出された「奇想
   コレクション」の文庫化に際し、新しく3篇をボーナストラックとして加えている。
   火星から帰ってきた男についてのビターな話「向こうはどんなところだい?」、生命を
   持つ風と少女の交感「風の子供」、時空の外の歩廊と世界の危機に立ち向かう気概を描
   いて感動的な「世界の外のはたごや」、現実世界ともうひとつの世界を行き来する男
   「夢見る者の世界」などが好み。
   表題作は改訂版に加えて旧版も新たに収録されているが、読み比べたところでは自分は
   改訂版の方が好きかな。
『飛行士と東京の雨の森』 西崎憲 筑摩書房
  *詩と日常と幻想のはざまを揺れ動く、ほぼ全編描き下ろしによる短篇集。
   前作の『ゆみに町ガイドブック』もそうだったが、どんどんジャンルの垣根を壊して
   何とも表現しようのない、それでいて堪らなく心地いい西崎ワールドが出現している。
   小説好きだけでなく音楽好きな人にも是非。
『荘子 <内篇>』 福永光司 講談社学術文庫
  *老荘思想としてひとからげで語られることが多い『荘子』だが、喩え話を駆使したり
   して結構面白い。後世の人の解釈が多くまぎれている「外篇」「雑篇」はともかくと
   して、荘子の思想がかなりストレートに出ていると言われる「内篇」ぐらいは読んで
   おきたいと、今回初挑戦。訳者による詳細な解説も読みごたえあり。
『私の戦後追想』 澁澤龍彦 河出文庫
  *形而上を愛し「体験」を嫌った澁澤だが、その著者の「体験」に関する文章ばかりを
   集めた文庫オリジナル編集のエッセイ。
『「女らしさ」の社会学』 高橋裕子 学文社
  *アメリカの社会学者ゴフマンが提唱した概念を、ジェンダー論に応用した考察。政治的
   なパフォーマンスが目立つある種のフェミニズムとは一線を引いた、学術的で冷静な
   視点がなかなか。
『「今泉棚」とリブロの時代』 今泉正光 論創社
  *80年代に一世を風靡した「堤王国」と、その文化的な活動の一端を支えた書店リブロ。
   (今のリブロは経営譲渡された全くの別物)本書は今や伝説となった池袋リブロの中心
   人物へのインタビュー。書店や出版業界の専門用語が注釈なしにどんどん出てくるの
   で、業界人でない普通の読者にはちょっと読みづらいかも。(なぜか自分は殆ど理解
   できたのだが。/苦笑)浅田彰や中沢新一に端を発した当時の“ネオアカブーム”の
   裏側が、ブームを仕掛けた当事者によって語られる。
   実を言えば、本書は松丸本舗が閉店する前に出張で寄れる最後のチャンスに買った。
   せっかくなので何か一冊…と選び迷って、目に留まったのがこの本。自分では、松丸で
   最後に買うのにふさわしい本だったのではと思っている。きっと松丸本舗もあと何年か
   したら、この当時の池袋リブロと同じく”伝説”になるのだろう。今回はその現場に
   自ら立ち会うことが出来て良かった。
『日本中世に何が起きたか』 網野善彦 洋泉社MC新書
  *まるで網野史学の全体を俯瞰したような本。テーマは「市」や「悪党」といったものか
   ら、「被差別民」「宗教」まで多種多彩。著者が2004年に亡くなって2年後に新書で
   復刊された本らしく、解説の保立道久氏の文章が心を打つ。好著。
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『「女らしさ」の社会学』 高橋裕子 学文社

「性差」というものに前から興味がある。(エッチな意味じゃないよ!/笑)
 ものの本によれば、性差には3つの水準があるそうだ。ひとつ目は遺伝子やホルモンによる身体的・生物学的な性差(=性徴)。ふたつ目は社会的・文化的な性差(=ジェンダー)。そして三つ目は、いわゆる性的な魅力(=セクシャリティ)というやつ。自分が興味があるといったのは、これらのうち二つ目のジェンダーについてだ。
ファッションに興味があるとか、ロマンより実利に重きを置くとか、はたまた“地図が読めない”だとか、巷で言われる「女らしさ」とは一体何なのか? そこに興味があるので、手ごろな本を見つけると目を通すようにしてきた。(ボーヴォワール『第二の性』を読んだりしてきたのもその一環。)
 ただ、社会的な視点というのは容易に政治的な視点に転化しやすい。性に起因する差別に対して無関心なわけでは決してないが、主義主張を声高に叫ばれるのは“お気らく読書”としてはちょっと重たい。これでいて「手ごろな本」な本というのは意外と見つからないのダ。
 本書を本屋で初めて見かけたのは、そんな感じでふらふらと本屋を物色していた時のことだった。副題には「ゴフマンの視角を通して」とあるが、ゴフマンというのが何のことやらさっぱりわからず、もしかして「ご不満」の意味?などと思ってみたり。よくよく調べてみたところ、ゴフマン(E・Goffman)というのはアメリカの社会学者の名前であって、どうやら同じく社会学者のデュルケーム(E・Durkheim/仏)の流れをくむ人らしい。(詳しい方からは何を今さら言っているんだ、と笑われてしまいそう。/苦笑)
 本書はどうやら、ゴフマンの理論をジェンダー論に応用して、「女らしさ」の正体について考察したものらしい。ゴフマンという人物にも興味が湧いたので、さっそく読んでみたというわけ。
 読んでみた結論からいうと、本書で述べられている「女らしさ」の内容自体はそれほど難しいものではなく、それなりに納得できるものだった。簡単にまとめると、凡そ以下のような感じ。

 ■「女らしさ」というのは「男らしさ」と同様、何ら生物学的なものではない。社会的に作ら
  れた価値観(分類図式)の一種に過ぎず、「男性=上位者・女性=下位者」というイメージ
  とセットになっている。
 ■この分類図式による抑圧は多くの女性が感じているものではあるが、一方で「生まれ変わる
  としたら男性/女性のどちらがいい?」というアンケートとると65%の女性が「女性」
  と答えたという結果も。このことからしても「女性らしさ」は必ずしも抑圧の源泉である
  ばかりではなく、生きる“歓び”の元にもなっているともいえるのでは。
 ■通常言われる「女らしさ」(「男らしさ」)は、社会通念になってしまっているので、
  なかなか覆すことは難しい。その理由は受益者である男性ばかりでなく、女性自身ですら
  (時に抑圧を感じながらも)時には積極的にその分類図式を利用することで、図式自体を
  追認/再生産することに一役買っているから。
 ■「女らしさ」はある固定されたイメージ/枠の中で生きている分には、極めて快適で安逸
  なもの。しかし女性がその枠を超えて自己実現する決意を固めると、途端に大きな壁と
  なって立ちはだかる。そうなった時、女性は性差による抑圧を目の当たりにすることに。

 とまあ、ざっとこんな感じ。そして今あげたような分析を行うのに著者が用いたのが、先述したゴフマンの社会理論というわけだ。例えばゴフマンによる「女らしさ」「男らしさ」の定義は、『あるコンタクトの間に、行為者が取るであろうと他社が仮定している立場にしたがって、彼が効果的に主張する肯定的な社会的価値』もしくは『承認された社会的属性という観点から描かれた自己イメージ』となるらしい。
 「○○らしさ」というセルフイメージには、「性差」の他にも「社会的な地位」や「家庭での役割」など様々なものがあると思うが、いずれにせよ周囲から要請された(と自分では見做している)役割りに準じて生きることに他ならない。(ゴフマン用語ではそのことを「儀礼」という。)その役割を周囲からも評価される事により自尊心が保たれ“歓び”が見出されるという理屈だ。

 ゴフマンは先にも述べた「男性=上位者・女性=下位者」という社会的なイメージの知見をどこから得たかというと、それはどうやら「広告の徹底分析」からであるらしい。そこには「大きい/高い/感情表現の抑制/守る者/主導者/公領域/タフ」といった「男らしさ」のイメージと、そして「小さい/低い/感情表現の強調/守られる者/追従者/私領域/デリケート」といった「女らしさ」のイメージが横溢していたそう。
 先ほども述べたように、これらのイメージは女性の自由を縛る足枷にもなり得るし、同時に(期待されるその役割を演じている限りにおいては)、「自然体でいられる」もしくは「本当の自分が出せる」くつろぎと安らぎの空間の元にもなるのだという。
 周囲から配慮をもって丁重に扱われたいのであれば、女性は「女らしさ」の儀礼コードに則った行動をする必要があるし、そしてそれによって丁重に扱われることで自尊心が保たれる。「ワンランク上の女」「仕事のできる年上女」「甘えん坊な妹」といった様々な「女らしさ」を、女性なら誰しもTPOに合わせてうまく演じ分けられることが、すでにして「女らしさ」が社会的な行為の一種であることを示しているわけだ。具体的な事例として「外務省機密漏洩事件」なる事件をとりあげて、これらの理論を説明していくくだりはなかなか興味深い

 以上が本書の前半部分。この時点で自分の「女らしさ」に対する好奇心はそれなりに満たされているのだが、本書には実はもう一つの柱があった。それは(ジェンダー論の研究者の間では何故かあまり評価が高くない)ゴフマン理論そのものの再評価。著者によれば、ゴフマンはC・レヴィ=ストロースの構造主義を批判しつつ、独自の「構造」と「主体」の概念を作り上げて社会分析を行ったそう。そんなゴフマン独自の構造理論を、ジェンダー論を語る上での強力な道具として用いる有効性が、本書後半の主題となる。
 ゴフマンによれば「主体(≒自己)」というのは、「1.自我アイデンティティ」「2.社会的アイデンティティ」「3.個人的アイデンティティ」という、3つの概念の集合として成り立つとのこと(*)
 そしてこれら3つのアイデンティティは、いずれも「社会的状況から独立して成立しえず、何らかの形で社会的状況とかかわることによってのみ生成される」ものだそう。これなどは「自己の確立」を存在の根本におくことを基本とする欧米人には、容易に受け入れがたい考えかもしれない。ゴフマンの評価があまり高くないのはそのあたりにも一因があるのかな? だとすれば、むしろ日本人の方がすんなり受け入れやすいのかもしれない。

   *…本論とずれるので詳細な説明は省かせていただく。どのみち自分も充分理解できて
     いるわけじゃなく、本書の受け売りになるだけだし(笑)。

 過去、女性たちは「女らしく」あることを、社会によって強いられるとともに自らも進んで「女らしく」あろうとしてきた。もちろん「男らしさ」にも別な意味での息苦しさと歓びがあるわけだが、いずれにせよ性差による役割りや意識の違いによる差別というのが厳然として存在し、女性を始め“ある種の人々”が「男性社会」の中で不利な役割を押し付けられてきたのは事実。その意味でも、ジェンダー・マイノリティが社会の表に出てきて発言しているのは、非常に良いことだと思う。
 なにしろ「性」に関する問題は一筋縄ではいかない。なぜなら最も身近に存在する権力構造のひとつであるから。とすると(自らもゲイであった)M・フーコーが、ライフワークである「権力」の思想的探究の矛先を、最終的に「性」へと向けていったのは、ある意味当然のことなのかも知れない。本書の後半を読みながら、ぼんやりそんなことを考えていた。

 あとがきによれば、本書は博士論文に加筆したものだそう。どうりで論旨の繰り返しや若干回りくどい表現など、読みにくいところが無きにしも非ず。しかし「男女差別の批判」という安直な図式に向かわず、真摯にジェンダー論を語ろうとする著者の心意気は買う。まずもって学術的なそのスタンスは好感が持てる。不満と不信をぶつけ合うだけの非建設的な議論なんて不毛なだけだしね。これからも本書のように冷静な取り組みこそが、差別の撤廃につながるもっとも有効な道なのではなかろうか。そしてそうした声を上げ続けていくことにより、少しずつではあっても世の中は変わっていくのだと思うよ。少なくとも自分はそう信じたい。

『飛行士と東京の雨の森』 西崎憲 筑摩書房

 フィクションを読むには実は結構なエネルギーが必要という事をご存じだろうか。たしかに軽いエンタメ作品を斜め読みしている分には何ら深く考える必要などない。しかし良くできた作品にきちんと対峙しようとするならば、もしくはその作品と堂々と切り結んで味わい尽くそうとするならば、生半可な学術書よりよほど精神的な負担が大きい場合も多い。
 自分が思うに、優れたフィクションと凡百のそれを分ける境目は、読み終わった後にあるのではないだろうか。優れた作品の場合は、読んでいる間にその本に注入したエネルギーを、読了後に何倍かにして投げ返してくれるような気がする。逆に“ハズレ”を引いた時の消耗といったら無い。(なぜなら自分にとって読書とは、作者との真剣勝負のようなものだから。)時間とお金を無駄にしたという精神的なダメージが大きいからこそ、安易にベストセラーに飛びつくことなく、自分が納得したものだけを読むようにしている。その点でいえば、本書の著者・西崎憲氏の作品は、自分にとってはどれも安心のブランドといえるだろう。氏は文学とエンタメ(幻想・ファンタジー)の境界上に位置する不思議な物語を得意とする作家であるとともに、カーシュやチェスタトンなどを手掛ける翻訳家でもある。更には音楽家でもあるというとてもマルチな才能の持ち主。
 本書はそんな氏の「作家」としての4作目の著作であり、7つの作品を収録したオリジナル中短編集。一作を除いて全て描き下ろしになっている上、先に雑誌発表された一作も大幅に加筆されているとのこと。殆ど全編が描き下ろしといっても良いだろう。作風としては、詩情性豊かな前作『ゆみに町ガイドブック』からファンタジーらしさを若干抜いて、代わりに文学性を高めた感じ。
 2作目『蕃東国年代記』がファンタジーの文脈で捉えやすい作品だったためか、前作は某サイトのカスタマーレビューを覗くと毀誉褒貶が甚だしいようだが(笑)、好みがはっきり分かれるというのは、(中途半端に可もなく不可もなくという評価よりも)よほど作品として優れていることの証拠ともいえる。既存のジャンルに当てはめるとすれば、文学とエンタテイメントのちょうど中間あたりに位置するイメージか。本書は前作『ゆみに町ガイドブック』と同様、いやそれ以上にボーダーレスな作品群に仕上がっている。好きだなあ、こんな感じ。

 少し話は変わるが、実は自分は「詩」が苦手だったりする。散文であれば大抵のものは苦も無く読みこなせるのだが、極限まで研ぎ澄まされ凝縮された詩の文章を目の前にすると、リズムが狂ってなかなか読み進むことが出来ないのだ。もしかして「詩情」というものが自分には理解できないのではないか?と、最近では半ば諦めかけていたのだが、本書を読んで気が変わった。散文であれば自分にも、「詩情」が充分に理解できるのがわかったのだ。
 自分が思うに「詩」という文学ジャンルは、言葉にすると消え去ってしまう儚い価値を、象徴や暗示によって示そうとするものではなかろうか。直接示すと変質してしまうものは、その周りをデッサンの描線で埋めていき、「描かれないもの」として空白の形を浮かび上がらせるしかない。クロウリーの傑作ファンンタジー『リトル・ビッグ』がそうだったように、西崎氏の作品にも同様の”技”が用いられている気がしてならない。
 『ゆみに町ガイドブック』が合わなかった人は、おそらく「描かれたもの」を一生懸命読み取ろうとした時、「何も描かれていないこと」にがっかりしたのではなかろうか。しかしそれは違う。直接描かれなかったからこそ、馥郁たる香りと芳醇な味わいが引き立つことがあるのだ。喩えるならば「甘味」とか「塩味」といった分かりやすい味付けでなく、上質な材料でしっかりととった一番だしの「旨み」に近い、そんな味わいを持った作品といえるのではないか。その点は本書も同じ。ジャンクフードのようなつもりでつまんでも、この本の面白さは見えてこないと思う。

 詩情とミステリのもつ抒情がとても幸福な形で融合した「理想的な月の写真」とか、J・G・バラードの廃墟趣味を思わせるような「淋しい場所」(*)。 じわじわと滋味が効いてくる表題作や「ソフトロック熱」に、”奇妙な味”のショートストーリー「紐」。そしてひとつのプロットをアレンジを変えて“演奏”した、音楽的な作品「都市と郊外」等どれも自分好み。読み終わるのが勿体ないのにどんどん読み進んでしまう。

   *…何気ない特定の風景になぜか気を惹かれるという点では、バラードよりもむしろ
     銀林みのる氏のファンンタジー作品『鉄塔武蔵野線』に通じるものもあるか。

 作品の主題については、ある方が本書を称して「居場所を探す物語」と言われていたが言い得て妙。もうひとつ付け加えるならば、「音楽が聴こえてくる物語」というのも当てはまるだろう。様々なアレンジを施したソフトロックもしくはAORを聴いているような感覚で愉しむといい。
 但しその調子で最後の作品「奴隷」に差し掛かると世界は一気に暗転する。読んでいる間中、鳴り響いて離れない不協和音。心に生まれるこのザワザワした感じは一体何か。とても苦いくせにずっと心から離れていかない。心の整理がつかないままに本を閉じる。
 ジンに一滴、ドライなベルモットを垂らすと、ほどよい苦みがマティーニ全体の味を引き締めるようなものか。これはすごい作品集だ。(ただし好き嫌いの振れ幅は大きいかもしれない。心して読まれんことを。)

<追記>
 私事で恐縮だが、自分にとってこの本はさらに特別なものになった。読了後にひょんなことから著者の西崎氏と直接お会いする機会があり、ご本人から様々なお話を伺うことが出来たのだ。プライベートな話なので詳しくは書かないが、おかげさまで一生の思い出になる時間を過ごすことができた。それらもひっくるめて、本書は最高の読書体験を味わわせてくれた一冊となった。

『ロビンソン・クルーソー』 デフォー 河出文庫

 イギリスの作家デフォーが1719年に発表した小説。今さら改めて紹介する必要もないほど、あまりにも有名な本だよね。誰しも子供の頃に一度くらいは目にした事があるのではないだろうか。ただしスウィフトの『ガリバー旅行記』やペローの『長靴をはいた猫』などと同じく、子供向けの簡略版ではない原著を読んだことがある人は、意外と少なかったりする。自分も「船乗りが嵐で無人島に漂着し、いろいろな工夫で生き延びたうえフライデーという原住民まで助けて家来にして、一緒に故国に帰る」という粗筋くらいは知っていたが、それ以上となるとちょっと心もとないところが(笑)。
 昔の古典や名著といわれる本を、大人になって改めてきちんと読むというのも、それはそれで愉しいもの。これまでも『白鯨』や『神曲』、『論語』に『新約聖書』などを読んできたが、なかなか面白い発見があったりして結構好いものだった。(いつか『ドン・キホーテ』や『紅楼夢』にも挑戦してみたいが、『源氏物語』や『失われた時を求めて』はさすがにどうしようかと思案中^^)
 さて、それでは本書はどうだったか。ストーリーとしては、無鉄砲な若い船乗りがアメリカ大陸はオリノコ河流域で嵐にあい、ただひとり無人島に漂着して28年間を過ごすというもの。言ってしまえばただそれだけなのだが、実は原題がやたら長いとか第3部まで出版されていたとか、今回初めて知ることも多い。本編とは違うこところでもかなり楽しむことが出来た。(*)何でも臆することなく現物には当たってみるものだね。(笑)

   *…正確な原題は『ヨーク出身の船乗り、ロビンソン・クルーソーの人生と不思議で
     驚くべき冒険:アメリカ大陸の沖合、巨大なオリノコ川の河口に近い無人の島に
     たった一人で、20と8年生活した記録/船が難破して岸に打ち上げられたが、
     彼のほか全員が命を落とした。/および、海賊から彼がついに救われるに至った
     不思議ないきさつの記述』というものでむやみやたらに長い。テレビでやってる
     サスペンス劇場のドラマ以上。(笑)
     また、一般によく知られているのは第1部に過ぎず、本書が好評だったため、
     大金持ちになった主人公が世界中を旅するという第2部や、ロビンソンの内省録の
     体裁をとった第3部がその後出版された。
 
 物語の眼目は、無人島に漂着したクルーソーが盤石な生活基盤を作り上げるまでのサバイバルと、焼き物を作ったり大麦を育ててパンを焼くといった工夫によって、徐々に生活レベルを上げていく(まるでRPGのような)面白さにある。
 しかしそれらは全体のボリュームからするとわずか半分程度に過ぎない。残りの半分は何かというと、親不孝な放蕩息子であった主人公が過酷な試練を経て信仰に目覚め、敬虔なクリスチャンとなっていく様子。そして彼による信仰の告白が事細かく語られている。(作者デフォーの主眼はむしろそちらにあったような気配すら。)
しかしその部分は今の我々の目からすると冗漫に過ぎ、話の腰を折られるようで正直あまり頂けない。純粋に物語として愉しむのであれば、子ども用のリライトでも充分のような気がする。(**)

  **…出版当時には作者デフォーの名を伏せて、ロビンソン・クルーソー自身が書いた
     ように見せかけた「実録もの」だったようだ。その為なのかは知らないが、とり
     わけ格調高い文章で書かれているわけでもなく、「文学」として読むには本当は
     ちょっと物足りない。

 では本書を簡略版ではなく原著で読むときの面白さはどこにあるか。自分が思うにそれは17世紀後半から18世紀にかけてのヨーロッパ社会の情勢や、奴隷貿易を是とする当時の人々の価値観に宗教観など、物語を成立させている「背景の部分」に思いを馳せるところにあるのではないかと。中世ヨーロッパに伝わる民間伝承の『ティル・オイレン・シュピーゲルの愉快ないたずら』(岩波文庫)の愉しみ方とまさに同じといえる。
 そしてその意味でも、本書の巻末に付された詳細な解説はとても嬉しい。山師のようなデフォーの生涯だとか、本書の出版を巡るトラブルだとかを読んでいると、本編に散見される細かな不整合やマラリアがタバコのヤニで治るといった科学的に変な記述についても、作者が自分を愉しませるためにわざとちりばめたギミック(仕掛け)に見えてくるから不思議なものだ。(笑)

<追記>
 まだ読んでいない古典は星の数ほどあるので、その意味では老後の暇つぶしのネタに困ることはなさそう。ただし古い岩波文庫の場合、字が細かすぎて読めない恐れが多分にあるので要注意。(^^;)

『ダンディズム』 生田耕作 中公文庫

 このブログを始めるときに「前口上」でも書いたのだが、自分は粋(いき)な物や粋な人についつい惹かれる性分。九鬼周造の『いきの構造』にも、なるほど感心する事しきり。氏によれば「粋」というのは「媚態」「意気地」「諦め」という、3つのキーワードが交差するところに生まれるひとつの価値観であり、且つ生きざまであるようだ。(歌舞伎の演目にある『助六』とか、江戸時代の“通人”を思い浮かべれば、イメージが浮かびやすいかな。)
 そして、仮に東洋の“かっこいい”を代表するのが「粋」であるとするならば、西洋の“かっこいい”を代表するのはきっと「ダンディズム」に違いない ――とまあ、そんな風にアタリをつけていたのだ。機会があればダンディズムについて“お勉強”してみたいと思っていたのだが、いざ読もうと思うと意外に見つからないもの。そんな折、つい先日本書を発見してすかさず手に取ったというわけ。
 裏表紙の内容を見ると、本書は17世紀後半から18世紀前半のイギリスに実在した、稀代のしゃれ者(ボー/Beau)であるジョージ・ブランメルという人物の生涯を軸に、「ダンディズム」とは何かについて考察したものらしい(*)。まさに自分の目的にぴったりの本といえる。

   *…この人物、フランスの小説家バルベー・ドールヴィリーにより「ダンディそのもの」
     と絶賛されたらしい。いわゆるダンディの「メートル原器」のような人(喩えが古
     くて申し訳ない/笑)であって、詩人バイロンをして「ナポレオンになるよりも
     ブランメルになりたい」と言わしめたそう。なかなかなものだ。

 では早速本書の内容に従い「ダンディズムとは何か?」についてざっくりまとめてみよう。
 本書を開いてまずいきなりでてくるのが、ダンディとは「演技」だという話。すなわち“ある目的”を持って自らを装う行為こそが、ダンディの正体というわけだ。しかし装うといっても、いったい何を装うのかというと、まずは本書に出てきた次のキーワードを見て頂きたい。

 ・“不惑無覚(ニル・アドミラリ)”の姿勢
 ・人工性への執着
 ・寸鉄人を刺す逆説的警句
 ・無関心さと高慢な言説(計算的な侮蔑)
 ・自惚れ(ナルシシズム)
 ・非の打ちどころの無い身だしなみ
 ・冷ややかで物憂げな立ち振る舞い

 どうだろう。何となくイメージが浮かぶのではないだろうか。要は一般に“軽佻浮薄”とみなされる一切のもの――すなわち衣服・立居振舞・社交などに関して、逆に堂々とそれらが「最も重要なもの」である、と見做す(ふりをする)のがダンディズムということらしい。しかも更に凄いのは、それら「外観」にまつわるもろもろの特質を、「知性」「精神」「才能」といったいわゆる内面的な特質よりも上位に位置づけている点。一種の「開き直りの美学」とでもいえばいいのだろうか。こうなると強い。(笑)
 そしてダンディズムにまつわるこれらの基本ルールを体現し、たったひとりで作りあげてしまったのがこのブランメルという人物なのだそうだ。(ファッションの中心はフランスであるというのが常識だが、唯一、紳士のファッションだけはイギリスが本場と言われているのは、どうやらそれが理由らしい。)では何故ブランメルはダンディであることに拘ったのか。本書では彼の生い立ちを語ることで、そのあたりの理由についても明らかにしている。
 ブランメルはもともと庶民階級の出身で、学校こそ名門イートン校からオックスフォードを出たが、資産も周囲の貴族たちに比べると、ごく慎ましやかなもの。そんな彼が上流階級の仲間入りをするには、出自にも資産にも頼ることなく自分の才覚だけで何とかするしかない。とすれば、人一倍プライドが高く見栄っ張りな彼にとっては、使えるものは目に見えない価値観のようなものしかなかった。彼にとってダンディズムを極める事は一種のレゾンデートル(存在理由)であり、そしてまた処世術でもあったのだ。だからこそ彼は、まるで求道者のようにダンディズム精神を自らの中に結晶化していったのだろう。

 スノッブであること。それこそが一生を賭けて追い求める価値のある唯一のもの。それまで主流だったルイ14世やマリー・アントワネットのようなフランス貴族の装飾過剰な服装はもう時代遅れであって、これからは黒を基調として、都会的で洗練されたスリムなファッションこそが美しい。――そんな価値観を世の中に定着させるにはそれなりの努力が必要となる。肉体にフィットした美しい服装を身に着けるためには、肥満を避ける涙ぐましいまでの節制と自制が前提となる。極論すればダンディズムとは見栄と独創性に裏打ちされた「自覚的で恣意的で誇張されたスノビズム」といえる。そしてその上にニヒルで冷ややかな物言いが組み合わされことで、初めてダンディズムの理想が完成するのだ。言ってみれば、傾向は違えど一種の“傾奇者”といえるのかも知れない(**)。それとも自ら成った「裸の王様」とでもいえばよいか…。

  **…ただし彼らは本邦の傾奇者とは違い、ファッションのセンスについては中庸を良し
     とした。猩々緋や錦糸のように派手で意表を突く色彩を使ったり、大胆な裁ち方を
     した服装を身に着けて街中で目立つことは、彼らにすれば耐え難い悪趣味。あくま
     でも洗練を旨とするのが基本なのだ。また流行には敏感だが単純に追い求めるので
     なく、寧ろ流行に反応して独創的で新しい流行を自ら作り出すことを主眼とした。

 「粋(いき)」との比較で言えば、「媚態」「意気地」「諦め」の特質のうち最も異なるのは「媚態」の部分だろう。ダンディズムの場合、粋とは違って異性に対する熱心さを見せることは望まなかった。(むしろ“泰然自若の理想”を脅かすものととらえていた節が。)女性は自然であるが故、人工的な美学であるダンディの対極に位置する存在なのだ。同じくダンディズムの信奉者であるボードレールに、女性を冷淡に扱う傾向があったのはそのためとのこと。ただし(女性に限らず)他者からの賞賛と崇拝を得ることはダンディズムの大きな目的のひとつ。したがって女性から憧れの的になることは必須であるというからややこしい(苦笑)。
 たとえば女性にもてることが目的であるしゃれ者は、外出の時だけ鏡の前に立って身だしなみを整える。それに対してダンディは外出の有無に関係なく四六時中、鏡の前に立つ。よく似た両者ではあるが、厳密に言えばそのような違い(ただしブランメル達とっては大きな違い)があるとのことで、言ってみればダンディズムの原則は媚態というよりは完璧主義であると言えるのかもしれない。

 本書には他に『ヴァテック』の作者として知られるウイリアム・ベックフォードの小伝や、18世紀末はフランスの作家バルベー・ドールヴィリーの詳伝「老いざる獅子」、それにブランメルからボードレールを経てロベール・ド・モンテスキューまで様々に形を変え受け継がれる「ダンディズムの系譜」などが収録されている。秋の夜長、このような“お勉強”をして過ごすのもまた一興かも。(何かの役に立つかと言われれば言葉に窮するが、とりあえずは面白い。)

<追記>
 本書を読むと、ちょっと年季の入ったSFファンなら、奇想作家バリントンン・J・ベイリーの『カエアンの聖衣』を思い出して懐かしく感じるかも。カーライルの「衣裳哲学」などという言葉も出てくるし、ブランメルが述べた次の言葉など『カエアンの聖衣』にでてくる世界観そのものではないかという気もする。

 「動き、話し、歩き、食べる以前に、人間は衣類を身に着ける。おしゃれに属する諸動作、立居振舞や、会話は、つねにわれわれの服装の結果でしかない。(中略)われわれはだれしもみな衣裳の影響をこうむっている。」

 まさしく、身だしなみを整えるのに毎日2時間を費やしていたという、伊達者の面目躍如といったところではなかろうか。

『椿説泰西浪曼派文学談義』 由良君美 平凡社ライブラリー

 「すこしイギリス文学を面白いものにしてみよう」なんて書き出しからして好い感じ。たまたま読んだ『みみずく偏書記』(ちくま文庫)が思いのほか愉しい本だったので、ほぼ同時期に復刊された本書もさっそく買ってきた。長い題名だが「ちんせつ・たいせい・ろまんは・ぶんがくだんぎ」と読む。前にWikiで調べてみたところ、著者の大学での専門は「コールリッジを中心として英国ロマン派文学」だったそうで、その他、哲学や幻想文学にも造詣が深いとのこと。前書は余技にあたる後者の話題が中心になっていて、まさしく“越境的”な話が刺激的なエッセイだった。本書の場合は、自身の専門である「イギリスにおけるロマン派文学」が主題となっているので、前著以上に期待できる。というか、面白くない訳がない。(笑)
 元は雑誌『ユリイカ』に連載されたものだそうで、連載時の名前は「ミソ・ウトポス」。“どこにもない場所の神話”という意味らしい。また単行本はその後増補改訂版が出され、6編がボーナストラックとして追加されているが、本書はもちろんそちらが種本。追加された「伝奇と狂気」「ヴィクトリア時代の夜」「ロマン派音楽談義」などの文章は、本編と論旨は違えどこれまた愉しい一文になっている。
 内容は『老水夫の唄(老水夫行)』などで有名な詩人コールリッジや、画家であり詩人でもあったウィリアム・ブレイク(作品は『天国と地獄の結婚』など)を中心に、18~19世紀の英国ロマン派文学について語ったもの。
しかしさすがは碩学。有名どころの作家だけでなく、例えばウェインライトといった、今では忘れ去られたマイナー作家などにもしっかりと言及。またロマン派の運動を詩や小説に限らず絵画も巻き込んだ一大潮流と捉え、イタリア出身の画家ピラネージ(代表作は『幻想の牢獄』など)からフュースリー、はてはスペインの国民的画家であるゴヤを経て風景画で有名なターナー(英)へと続く「<崇高>なるもの」の探求の歴史を辿って刺激的だ。(*)

   *…「ロマン派」を巡る著者の言説は膨大な分野にまたがるため、すべての話題を書き
     出すことは到底無理。例えば当時の文学者やディレッタント達の間で流行した阿片
     が与える幻想や、幻想に付きものの「恐怖」「苦痛」「驚嘆」「畏怖」に関する
     考察など。それにアメリカの「サスケハナ」の地にユートピアを作ろうとした、
     コールリッジとサウジーらの試みと挫折まで、非常に多岐に亘っている。
     この手の越境的な考察は論旨の要約などとても無理なので、今回はとりとめの無い
     感想になってしまうと思うが、どうかご勘弁頂きたい。

 さらにはコールリッジやブレイクらが影響を受けた源流思想まで話は進んでいく。それは何かというと、17世紀にイギリスで一世を風靡したのち弾圧を受けて消滅した宗教セクト「ランターズ」や、さらにその大元となったドイツの神秘主義者ヤーコプ・ベーマ(ジェイコブ・ベーメン)。(何とスウェーデンの大神秘家・スウェデンボリまで登場したのには驚いた。)
 特にベーメのくだりは自分の好みにぴったり。先に挙げたブレイクの『天国と地獄の結婚』における神秘思想の特徴について、ベーメの神秘思想と比べ論じていて大変に面白い。変わったところでは、コールリッジの友人であった詩人ワーズワースとスペインのゴヤを関連付けて語ったりといった、非常にアクロバティックな技の披露も。(とか言いながら、実際には名前しか知らない人や、名前すら聞いたことがない人の方が多いんだけどね。/笑)
 してみると新古典主義からロマン主義への移行というのは、国や地域といった地理的条件、または文学や音楽・絵画といったジャンルの垣根を越えて、ヨーロッパ全体で緩やかに、しかし着実に進行していった意識革命だったと言えるのかもしれない。これなどは頑迷に「イギリス文学」だけに固執しているだけでは到底見えてこない、とても斬新な視点ではないかと思うな。「イギリス文学を面白いものにしてみよう」という冒頭の宣言に違わぬ、まさに著者ならではの大変に愉しい本。

 話は進み本書の中程にある「幻想の地下水脈」から後半の章になると、いよいよ幻想好きの著者の本領が発揮される。わが偏愛するジャンルの話に突入してこちらのワクワク感も一気にヒートアップ。神話学者エリアーデの研究に依りながら、両性具有のイメージを考察した「ヘルマフロディテの詩学」の章は、澁澤龍彦か種村季弘が書いたと言われても、思わず納得してしまいそう。
 また、ある「特徴」をもった小説群が、“幻想文学”という名前でひと括りに論じられるようになったのは、わずか1970年ごろ(T・トドロフ『幻想文学序説』)からだったという指摘には大変驚いた。ヨーロッパで17世紀まで幅を利かせていた「通時的実証の空間」が破綻したあと、それを補うものとして、時代や国・地域を超えた「共時的思考の空間」を肌で味あわせてくれるものとして登場したのが、一連の「特徴」であったのだそうだ。
 「恐怖(テラー)」「戦慄(ホラー)」「幽霊(ゴースト)」「無気味(アンカニイ)」といった形容を関する文学。あるいは「超自然的(スーパーナチュラル)」と「ゴシック」という二つの形容詞が交差するところに生まれる文学。これらを“幻想文学”というジャンルとして捉えるようになったのが、わずか40年ほど前のことだったなんて。(目から鱗が2,3枚落ちたような気がする。)

 こうして由良君美氏の本を続けて読んだところでは、氏に対してまさに「知的アスリート」といった印象を持った。スポーツに例えるならば、オリンピックのフィギュアスケートや体操競技において、代表選手たちの自由演技を見ているようなもの。いい本を読むといつも、感嘆と羨望とワクワク感がないまぜになったような感じがしてくるのだが、本書もまさにそんな感じだった。
 雑誌への連載時期を見てみると、著者が活躍したのは自分が『ユリイカ』に親しんだ頃よりもう一昔前にあたる。『みみずく偏書記』をたまたま読んでみるまでは、恥ずかしながら存在すら知らない人だったわけで、(リアルタイムで著作に接していた人ならともかく、)自分のように普通の読者にとっては、今回の再刊が無ければ一生出会うことがなかった著者に違いない。きっと世の中にはこのような人が、他にも沢山いるのだろうなあ。自分が知らぬだけで。
 思い返せば、澁澤龍彦や種村季弘といった著述家の文章に触れたのも、最初は河出や中公あたりの文庫だったはず。してみると、若い世代の人が過去の名著を“再発見”する機会を増やすには、今回のように手軽に買える値段で、出来るだけ長く出し続けてもらえるのが有り難い。山口昌男の著作も今ではかなりが手に入らなくなっているようだが、また再び新しくどこかの文庫で再刊してもらいたいものだ。次の世代の人たちのために。(そして個人的には、フーコーとレヴィ=ストロースの本が次々と文庫化されるのを強く希望。/笑)

メジャーとマイナー

 「メジャー」や「マイナー」といっても野球の話ではなく、もちろん本の話。毎年年末になると「今年のベストセラー・ランキング」なるものが発表されるが、これまでランクインしている本を読んでいた例(ためし)が殆どない。またそのリストを眺めていても、改めて「あ、これ読みたい」と思う本がない。これは自分に限った話ではなく、周囲にいる「筋金入り(笑)」の本好きの方には、どなたにも共通した傾向のようだ。
 それは何故かとつらつら考えてみるに、小さいころからの読書習慣に理由があるのではないだろうか。大人になった今でこそ読みたい本があれば好きなだけ買うことが出来る。(もちろん限度はあるが。/笑)しかし子供のころは少ない小遣いはお菓子へと消え、本を買えるのはお年玉をもらった時か、親戚のおじさんおばさんが遊びに来た時くらいしかない。したがって普段は自然と図書館を利用することになる。前にも書いたように、小中学校のうちは、学校の図書館で毎日借りて読み、その上、市立図書館にも毎週出かけては本を借りていたものだ。
 子供が本を選ぶときには、当然ながら「今流行っている本」などという情報は持ち合わせていない。友達と1冊の本について感想を言い合うこともない。ただひたすら自分が読みたいと思う本を読むだけだ。そうなると何を基準に本を選ぶかというと、頼りは「題名や表紙が面白そうなこと」しかない。すこし年齢が上がると「前に面白かった本の作者」や「面白かった叢書」に目が行くようになり命中率も多少上がるようになったが、いずれにせよ自分の感性を磨くしかない。
 そんな生活を大人になるまで続けていれば、「今売れているから」とか「世間で話題になっているから」という理由で本を選ぶ気がなくなる、というのもお分かりになるだろう。かくして世間の流行りとは無縁の「マイナー街道まっしぐら」の人間が出来上がり―というわけだ。(笑)
 しかし「判官びいき」というか「へそまがり」というか、要するにマイナー好きの兆候はすでに小学生のころからあった。小学校のクラスではテレビドラマ『猿の軍団』で盛り上がる級友をしり目に、ひとりだけ『宇宙戦艦ヤマト』を見ていたし(*)、中学時代には少年JUMPに連載中の『サーキットの狼』や『ドーベルマン刑事』が流行っていたころ、ひとり諸星大二郎の『暗黒神話』を読みふけっていたものだ。(笑)

   *…初回放送時は、松本零二のファンくらいしか観ていないマイナーな番組だったよう
     に記憶している。

 ただ、ベストセラーになった本をあとから読んだのでなく、自分が読んだ本が結果的にベストセラーになったという経験なら、無いこともない。赤瀬川原平『老人力』とか東野圭吾『探偵ガリレオ』、最近では三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』などがそうだ。
 自分が読むより先にベストセラーになってしまうと、先ほども述べたような天邪鬼な気風が頭をもたげてきて読む気が失せてしまうので致し方ない。それに過去に何度かベストセラーの本を手に取ったことはあるのだが、どうも自分の感性には合わない感じ。M・エンデ『はてしない物語』やル・グィン『ゲド戦記』などは大変面白く読めたので「ロングセラー」なら大丈夫そうなのだが、一時的なベストセラーには本の面白さとは別の要因が強く働いているよう。どうも信用がならない。おそらく「話題だから読む」という動機づけとは、一生無縁で過ごすことになるのだろうね。自分で選んだ本なら、もしも詰まらなかったとしても「騙された!」なんて腹を立てることなく諦めがつくだろうし。(笑)

<追記>
 しかし世の中よくしたもので、ここ最近ネットを活用するようになってから、読書を巡る環境が大きく変わってきた。こんな(マイナーなジャンルの本を好き勝手書いている)ブログでも、ご訪問いただける方は少しずつ増えてきているし、ツイッターでも自分と同レベル、いやそれ以上に本好きの方とお知り合いになることができつつある。そしてそんな皆さんから教えていただいた本は、かなりの確率で「アタリ」であることが多いのだ。ここ最近は仕事が忙しくなってきて、残念ながら本を読む時間が減ってしまっているにも関わらず、いやだからこそ余計に、自分にとって皆さんとのやりとりがこの上ない滋養になっているのを、より一層実感しているところ。いや本当に。(書いているうちに何だか変な話になってしまった。/笑)

 では最後に改めまして、いつもお越しいただき有難うございます。(^^)

2012年8月の読了本

 公私ともどもドタバタが収まらず、更新がすこし遅れ気味になっております。しかし本読みは自分にとって呼吸や食事と同じ。やめることはございませんのでご心配なく。これからものんびりお気らくにやっていきますので、今後ともお付き合いのほどを宜しくお願いします。
 では早速8月の読了本について。

『慈善週間または七大元素』 エルンスト 河出文庫
  *シュールリアリズムの画家であるマックス・エルンストが製作した3冊の「コラージュ
   小説」のラスト。ストーリーはあって無きがごとしだが、不思議なイメージが横溢する
   ゴキゲンな1冊。
『ゆたかな社会』 ガルブレイス 岩波現代文庫
  *著者はカナダ出身でアメリカで活躍した経済学の大御所。経済学で考える「ゆたかさ」
   ―すなわち好不況や経済格差の不平等の解消について、これまでどのような考察がなさ
   れてきたかを俯瞰した本。
『書斎のポ・ト・フ』 開高健/谷沢永一/向井敏 ちくま文庫
  *博覧強記の3人による自由奔放な文学談義。筑摩はこういう古い本を発掘しては文庫化
   してくれるから嬉しいね。(その代り、売れないと絶版になるのも早いけど。/苦笑)
『日本幻想文学集成 泉鏡花』 国書刊行会
  *編者は歌人であり幻想小説も手掛ける須永朝彦氏。鏡花が言うところの怪異の2種類で
   ある「鬼神力」と「観音力」のうち、後者を中心に編んだアンソロジーになっている。
   同じく鏡花のアンソロジーで知られる東雅夫氏のセレクションとも違っていて面白い。
   他では読めないものばかりを集めたとのことで、さすがは『日本幻想文学史』を書かれ
   た著者ならでは。存分に愉しむことが出来た。収録作はどれも秀作なのだが、敢えて
   その中から特に気に入ったものを選ぶとすれば、「処方秘箋」「二世の契」「貴婦人」
   「伯爵の釵(かんざし)」「光藍(こうらん)」あたりか。いや素晴らしい。
『古本屋探偵登場』 紀田順一郎 文春文庫
  *活字好きの先達として昔から敬愛する著者が、古本をテーマに書いたミステリシリーズ
   の記念すべき第一作。古本屋探偵・須藤康平が活躍するこのシリーズは、すごく好きな
   のだがひとつだけ問題が。それは何かというと、出てくる「書痴」たちがあまりにも
   世間離れし過ぎて鬼気迫るものがあり、愛書家に対するイメージがかなり悪くなる事。
   (しかもどうやら現実にいるらしいから余計に...。/苦笑)。とくに第2話の
   「書鬼」に登場する矢口老人はすさまじい。
『地下鉄のザジ』 レーモン・クノー 中公文庫
  *著者は実験的な作品で知られるフランスの作家。訳はボーヴォワール『第二の性』を
   初めて日本に紹介した仏文学者の生田耕作氏によるもの。ボーヴォワールを読んだ時に
   も思ったことだが、残念ながら如何せん訳が古い。これは今こそ新訳で読むべきだよな
   あ。(光文社の古典新訳文庫あたりに期待したいね。)
   内容は全編ギャグで、エスプリというよりも天真爛漫な女の子に翻弄される大人たちの
   ドタバタ。ラストにはまるで『耳らっぱ』を思わせるようなシュールなシーンが突然に
   登場して、なんだか不思議な小説だった。流石は奇妙な小説として名高い『はまむぎ』
   の作者だけはあるね。(『はまむぎ』は高くて読んでないけど。^^;)
『今日の芸術』 岡本太郎 知恵の森文庫
  *「太陽の塔」や「明日の神話」などで広く知られる芸術家の著者が、1954年に書いた
   非常に真っ当な芸術論。当時はベストセラーになったそうだが、なるほど、氏の誠実で
   熱い思いが伝わってくる文章。決してエキセントリックな本じゃないよ。(笑)
『はじめての民俗学』 宮田登 ちくま学芸文庫
  *元は「ちくまプリマーブックス」から出された本。原題は『怖さはどこからくるのか』
   といい、このたび改題のうえ文庫化された。尤もこの人の場合、題名どおりにきっちり
   考察された本は見たことがない(笑)。テーマがあちこちにとび、結論もないまま何と
   なく終わるものが殆どなので、本書も民俗学の入門書と思って読むとまた肩すかしを
   食うことに。こちらも気楽に読んでいくことにする。
   中身は色々だが、どれも自分好みの話題。例えば柳田国男が「民俗学」という言葉で
   構想していたのが、今でいう文化人類学に相当する“世界的民俗学”だったとは知らな
   かった。また日々の生活を「ハレ(晴れ)」と「ケ(褻)」に分けるのでなく、第3の
   軸として「ケガレ(穢れ)」をおいた一節は斬新だった。(ケガレは日常だけでなく
   非日常にもかかわる概念で、いわゆる「聖」の一種でもあるとの由。その場合、ハレは
   “浄”の属性をもった聖でありケガレは“不浄”な聖となる。)
   題名通り「怖さ」について書かれた文章ももちろんある。思うに小松和彦氏らによる
   妖怪文化研究が生き生きとして優れた研究になっているのは、現代にも「異界」を信ず
   る人が相当数いるからに違いないのではないだろうか。
   (以上、とりとめのない感想で申し訳ない。)
『「カルト宗教」取材したらこうだった』 藤倉喜郎 宝島社新書
  *「ほぼ日刊カルト新聞」というウェブサイトを運営する著者が初めて書いた、カルトな
   団体との丁々発止のやりとりの記録。怖いものみたさもあって、おっかなびっくり読ん
   でみたが、これは良書。堅苦しくないし、本として普通に面白い。多くの人が読むと
   いいんじゃないかな。
『忘れられた日本人』 宮本常一 岩波文庫
  *日本民俗学の泰斗による代表作。今では忘れられてしまった古い日本の習俗を、村々の
   古老に聞き歩いて集めた貴重な記録。
『倉橋由美子の怪奇掌編』 倉橋由美子 新潮文庫
  *同じ著者による河出文庫『完本 酔郷譚』が気に入って、古本屋で旧著を大量に買い漁
   ってきたうちの1冊。独特のムードが相変わらず好い。特に自分好みの作品としては、
   骨になる奇病に罹った子供の話「事故」や、『酔郷譚』を思わせる「幽霊屋敷」、それ
   に(かなり怖い)「鬼女の面」あたりか。
『私は幽霊を見た』 東雅夫/編 MF文庫
  *「現代怪談実話傑作選」という副題が示すように、古くは泉鏡花が熱心に行った百物語
   にもつうじる「怪談文芸」の傑作選。名だたる著述家たちが自らの怖い体験を語った
   文章を集めたアンソロジー。
『屍者の帝国』 伊藤計劃/円城塔 河出書房新社
  *惜しくも若くして逝った盟友の構想を、『道化師の蝶』で芥川賞を受賞した円城塔が
   完成させたSF巨編。フランケンシュタインを題材に、死者の甦りが日常的となった
   世界を描く。テーマはまさしく伊藤計劃のものだが、作品としてはしっかり円城塔の
   テイストが堪能でき、近年読んだ奇想小説の中でもかなりの傑作。
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