『私は幽霊を見た』 東雅夫/編 MF文庫

 副題には「現代怪談実話傑作選」とある。たとえば前にベストセラーになった『新耳袋』などをイメージしてもらえばいい。古くは泉鏡花が熱心に行った「百物語」にも通じる怪談文芸のアンソロジーで、エッセイとも小説とも言い難いちょっと変わったタイプの本だ。
執筆者の顔ぶれがなかなかすごい。ざっと名前を挙げてみると、阿川弘之/火野葦平/佐藤春夫/三浦朱門/遠藤周作/柴田錬三郎といった名だたる作家たちの他、民俗学者の池田彌三郎や詩人・フランス文学者の平野威馬雄といった“お化け好き”、それに徳川夢声や稲川淳二などの芸能人や超常現象研究家の中岡俊哉まで非常に多彩。(中には石原慎太郎の思い出話という変わり種まで。)これら様々な人たちが自ら体験したり当事者から直接聞いた、23篇の“怖くて不思議な話”がぎっしりと詰まっている。
 時代は戦中戦後の混乱期から昭和後期が中心だから、自分にとっては親から聞いたり子供のころに過ごした時代の息吹が感じられて妙に懐かしい。「実話」とあることからわかるように、作家が書いた文章であっても必ずしも「文学」にまで昇華されているわけではなく、もっと生々しい感が強い。普段はこの手の文芸ジャンルをさほど読むわけではないのだが、本書は中身が“古い”ところが気に入った。今の時代をリアルタイムで評価できるようなモノサシはあいにく持ち合わせていないのだが、これくらい前の話になれば一歩引いたところで眺めることが出来る。当時は気づきもしなかったものが、実はその時代独特の意識だった事がわかったりして何とも面白い。(*)

   *…たしか荒俣宏氏も「新刊は生々しくて読めない、数年寝かしてしっとりしたところ
     で読む」という類の話を、『ブックライフ自由自在』か何かで書いていたのでは
     なかったか。

 冒頭に収録された平山蘆江によるエッセイ「怖い・凄い・不気味な」は特に気に入った。エッセイの棹尾を飾る「さてもさても人生には夢がほしい。淋しく暗く怖ろしい夢ほど恋しい。」という文章が、本書のような文芸の目指す方向を端的に示しているようで好ましい。まるで大乱歩の「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」を彷彿とさせるようではないかな?
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“本”本位制

 普通の方は、道を覚えるときに何を目印にするだろう。ランドマークを何にするかで、その人の趣味や性格が結構わかるような気がする。我が家の相方の場合はもっぱらケーキ屋かパン屋(笑)。「どこそこのケーキ屋の角を北に行ったところ」とか言われても自分はちんぷんかんぷんなのだが、本人はそれで理解できているらしい。
 それでは自分はどうかといえば、勿論のことそれは本屋。(ご期待のとおり/笑)例えば「名古屋駅のジュンク堂を通り過ぎて、一本目を左に曲がったところの居酒屋」という風に覚えている。名古屋の街中はだいたいそれでわかるのではないかな。

 本にまつわることが基準になっているのは他にもある。実は金銭感覚もそう。おおよその場合は、本を基準にして考えている気がする。例えば外出先で昼食をとる場合は、定食屋やファミレスなどで7~800円のランチを食べるケースが多い。もしくはベーカリーショップでハード系のパンを買ったり(好きなんです。ハード系のパン^^)。その時に基準としているのは「文庫本1冊」。それがこじゃれたカフェなどで1300円のランチになると、「単行本1冊」となって財布の紐もなかなか硬くなるというわけ。
 会社の飲み会は5000円くらいのコースになることが多いが、考えてみるとアルコールの席というのはかなり割高だよね。もちろん交際費として必要なお金だから、この場合は金額についてあれこれ考えることはない。いや考えないようにしているというのが正解かも。なんせそれだけのお金があれば国書刊行会の本が1冊買えてしまうわけで、考え出すときっと悲しくなるに決まっている。
 自分がタバコやギャンブルをやらないのも同じ理由だ。2日で1冊分の文庫を灰や煙にしてしまうと思うと、とてもじゃないがタバコに手を出す気にはなれない。ましてギャンブルは言わずもがな。パチンコで7000円負けたとか競馬で2万円すった…なんて話を聞くたび、もしも自分だったら気が狂いそうになるんじゃないかと思う。「それだけの予算があれば東洋文庫でも買えちゃうよな」なんて(笑)。

 かように自分の中では本が貨幣価値を決めるもっとも基本的なものになってるため、「金本位制(*)」に倣って、秘かにこれを「“本”本位制」と呼んでいる。慣れるとなかなか便利だ。先ほども書いたように、単位は「文庫○冊」とか「単行本○冊」というのが基本。それぞれ7~800円と1500円程度を意味している。
 またそれを補完する単位として、たまに「みすず書房の本」や「国書刊行会の本」といった、5000円~10000円レベルの本を使うことも。(他には「平凡社ライブラリ○冊」とか「講談社選書メチエ○冊」というのが無いでもない。)

   *…ウィキペディアの記述には、「一国の貨幣価値(交換価値)を金に裏付けられた
     形で金額で表すものであり、商品の価格も金の価値を標準として表示される」と
     ある。「”本”本位制」というのは、金ではなく本(書籍)が商品の価格を表す
     基準になっているという程度の意味。

 しかし最近は「“本”本位制」も揺らぎつつあるのが実情。それは何故かというと、ブックオフを始めとする新・古書店の台頭に最も大きな原因がある。なんせきれいな本でもどれだけ価値の高い本であっても、発行日が古いというだけでドンドン105円の棚に放出してしまうのだ。「文庫本1冊」のつもりが、ある日突然「文庫本8冊」になると思った瞬間、勿体なくてうかうかランチも食べられなくなる。
 この超インフレに対抗するには、新刊書店で手に入れてでも読みたい魅力的な本が、沢山出てくれるのを期待するしかないのだろう。ただしそうなったらなったで、次には積読本が増えるという別の問題が発生することに。どうにも困ったもんだね。(苦笑)

『忘れられた日本人』 宮本常一 岩波文庫

 フィールドワーク型の民俗学における“巨人”の代表作。原著は1960年の刊行。戦中から戦後にかけて日本全国を歩き、土地の古老に聞き取りを行った記録なのだが、これがまた滅法面白い。江戸末期や明治維新のころの庶民の暮らしぶりが、彼らの記憶の中から鮮やかに蘇ってくる。
 村の寄りあいの様子/農民の日々の生活/新しい漁師村の開拓の歴史といった、教科書に出てきそうな話もあれば、「ばくろう(馬喰/博労)」や「世間師」といった、今では消えてしまった人々の思い出、それに頻繁にあった夜這いや子供の養子縁組の話など、まさに当事者でなければ語れない貴重な話題が満載。
 自分はどちらかといえば、閉塞感のある民俗学よりも視野が広い文化人類学の方が好み。でも本書を読むと、ついつい民俗学の“魔力”に魅入られそうになってくる(笑)。「神は細部に宿る」ではないけれど、今を生きる我々からすればまるで異界のごとき“失われてしまった時代”を再現するには、何気ない日々の暮らしを克明に記したこのような記録こそが、最も強力であるとともに且つ唯一の方法ではないかと思える。
 思えば、民俗学の本を読む時の愉しさやワクワク感を生み出すためのポイントは、時間や空間を超えた“ある社会”との遭遇にあるといえる。すなわちその社会のあり様が、まざまざと眼前に立ち現われてくることへの驚きこそが、愉しさやワクワクの正体ではないかと思うのだ。そして今の自分たちが持つ価値観が、実は明治期以降に成立したものであったり、極端な場合は高度成長期になって初めて培われたもの(*)に過ぎないという気付きこそが、民俗学を知ることの醍醐味なのではなかろうか。そんな気がする。

   *…たとえば「専業主婦」などの概念もそう。

 文化人類学との比較でいえば、文化人類学という学問には空間的なアプローチが不可欠であるのに対し、「民俗学」においては、(少なくとも日本においては)ただ時間的なアプローチこそが重要であったといえるかも。そしてそれに異議を申し立てたのが、網野善彦氏(東西文化の比較論)や、赤坂憲雄氏(東北学)であったというのが自分なりの理解の仕方。本書を読んだ印象では、宮本常一という人物は彼ら新しい民俗学への道を拓く礎になった人という感じがするな。他の著作は『塩の道』(講談社学術文庫)くらいしか読んだことないけど、もう少しきちんと付き合ってもいい人かも知れない。
 
<追記>
 このところ忙しくて本を読めなかった反動で、長期の休みになってから集中的に読んだ。その中に民俗学者の宮本登氏の『はじめての民俗学』という本があり、久しぶりに氏の本を読んだら事のほか面白かったので、続けて読んだのが本書というわけ。興が乗ったときにはこうして同じジャンルを大量摂取することもあるが、そんなときには部屋の積読本の山を漁れば、大抵なにか見つけることが出来る。これは喜んでいいのか悲しんでいいのかよくわからないが(笑)、便利ではあるよ。(^^;)

『今日の芸術』 岡本太郎 知恵の森文庫

 生前はちょっと変わった人物としてばかり取り上げられた感がある岡本太郎だが、ここ最近は「芸術家」としての再評価が著しい。本書はそんな彼が1954年に書いた芸術論。序文の横尾忠則氏によれば、当時は新書(カッパ・ブックス)で出されたとのことで、そのせいか当時はベストセラーになったようだ。変に気取らず、常に真っ直ぐに生きた著者らしくて好い感じ。
 中身は自らの芸術論を語ったマニフェストであるとともに、人生をいかに生きるかについて読者に熱く語ったアジテーションとなっている。晩年のエキセントリックなパフォーマンスだけが印象に残っている人にとっては、驚くほど理路整然としてしっかりした本書の文章は驚きかも。この人、本当はすごく頭のいい人だよね。
 著者は本書の中で惰性で生きる人生を否定し、「自分自身に充実」してための方法として“芸術”を規定する。自分自身の求めるものを象徴的に自分の姿の上に表すこと、それこそが「芸術」の本質であるとのこと。「失われた人間の全体性を奪回しようという情熱の噴出」とか、ちょっと時代がかった表現はされているが、言っていることはいたってまともだ。レトリックや韜晦に満ちた今どきの本に慣れてしまっている自分からすると、ストレートで力強い著者の文章は少しまぶしいくらい。

 岡本太郎氏の芸術論のポイントをまとめると、要するに頭や心に染みついた既成概念を捨てて、ありのままの自分をさらけ出そうということに尽きる。既成概念で図ることが出来ない「芸術」は、当然のことながら観る者の心にさざ波を立てる。

 今日の芸術は、
 うまくあってはいけない。
 きれいであってはいけない。
 ここちよくあってはいけない。

 彼が目指すのは、お仕着せの評価や権威の完全否定。芸術は常に新しくなければならない。既存の概念で評価できてしまえるものは、しょせん真の価値/新しさをもった芸術ではない。――それが彼の主張だ。したがって彼の作り出す作品は、自然と前衛的で抽象的なものになるというわけ。(こんなに分かりやすい芸術論を読んだのは、おそらく初めてかもしれない。)誤解を恐れずに言えば、G・ホッケが『迷宮としての世界』で述べたところの「マニエリスム(*)」を否定する事だと言い換えてもいいかも。さすが、子どもたちが描いた絵を絶賛していた著者らしい。

   *…通常理解されている「マニエリスム」とは少し意味が違うので注意。
     興味のある方は、以前書いた文章が本記事と同じ「建築・デザイン・芸術」
     のジャンルに入れてあるので、そちらをどうぞ。(^^)

 芸術はすべからく「新しく」なければならない。これは岡本氏の強い確信によるものだが、ただし生活にぴったり寄り添いズレや裂け目を感じさせない、「モダニズム(もしくはデザイン)」の価値を認めていない訳ではない。それらは“日常生活”を送るのに必須のものとして、芸術とはまた別に重要視している。
 “芸術”と、日本文化における”芸事”の違いについても面白かった。芸術は前述のように常に新しさを求める。新しくなければ価値はない。それに対して芸事の場合は逆で、伝統からの逸脱をもっとも嫌う。繰り返し鍛錬を積むことで、昔からの伝統を寸分たがわず再現できることが美徳とされる。
 しかし著者によれば、これは所詮「過去の新しさ」であって、今の時代に即したものではないのだとか。過去を守ることは重要だが、それを現代(そして世界)に通用する芸術的価値をもったものと思うのは大きな勘違いだそうだ。(このあたりの記述は権威主義に対する強烈な批判だね。)

 まあもっとも、著者の意見に若干思うところがないわけでもない。既成の価値観をすべて捨てて、自らの思うところをそのまま表現せよ!なんていわれても、そもそもが「物事の考え方の規範」自体を誰もが生まれながらに持っている訳ではない。伝統文化なりジェンダーといった、既成の考え方に寄り添うことで自分を作り上げている以上、何が「自然な価値観」といえるかは、非常に微妙なところだろう。でもこんな考えを持つことさえちょっと恥かしくなるくらい、純粋で気持ちがいい芸術論が展開されている。
 もしかしたら岡本太郎のこのように自由な発想は、母親である作家・岡本かの子の奔放さによるものなのかなー?なんてことを考えながら、気持ちよく読み終えることが出来た。好著。

<追記>
 夏季休暇が終わると、またドタバタした生活が戻ってきます。それまではしばしの休息。ちょっと変則的なブログの更新になっていますがご容赦ください。

『ゆたかな社会 決定版』 ガルブレイス 岩波現代文庫

 カナダ出身でアメリカの経済学の重鎮であった著者が、経済学の求める「ゆたかさ」について考察した本。(正確には考察ではなく総括と言う方が正しいかな。本人の意見のとりまとめというより、過去の経済学者たちが「ゆたかさ」について考えてきたことのあれこれが、上手くまとめられている。)本書は言うなればマクロ経済学系の本なわけだが、数式はひとつも出てこないので読みやすい。むしろ少し硬めのエッセイといった印象。

 なお誤解の無いように補足しておくと、著者は本書において、経済学者を仲間意識でもって擁護しているわけではない。むしろその逆。「主流派経済学」の理論における前提条件や考え方が、実際の経済や人々の生活とずれていることに注目し、その違いがどれ程のものであって何に起因するのかを考察した文章になっている。少し物足りないとすれば、戦後に関する記述の殆どがアメリカ経済学の話に終始してしまっている点。過去の部分は割とバラエティにとんでるのだけれどね。おそらくヨーロッパの経済学は、戦後の発展もアメリカ経済学とはまた違ったものになっているだろうから、読んでみたかったなあ。
 ちんみに著者により提示された疑問については、個人的には概ね賛同できる。結局のところ、ある考えが多くの人に受け入れられたり人気があるのと、その考えが「正しい」のは違う。物理学などの自然科学とは違って経済学は自由度が高いが故に、却って一義的に“正/誤”を決めることなど、本来は誰にも出来やしない。(だからこそ隆盛を誇るアメリカ経済学の考え方についても、時代とともに移り変わっていくひとつのパラダイムに過ぎないと考えた方が良い。)独創性のある新たな提案が、既存の枠組みから反発を受けるのは致し方ない。でもそのせめぎ合いの中からこそ、次代を担うアイデアが必ず生まれてくるはずだから。

 以上、本書を読んで頭に浮かんだことを、そのままだらだらと書き連ねてしまったが、何のことかわからんですね。申し訳ない(笑)。自分は「心の豊かさ」とか「人の幸せな暮らしぶり」といった広義の「ゆたかさ」について、経済学者が書いた本だと思って読み始めたのだが、ちょっと違っていたのでその点は残念だった。どうやら経済学者の考える「ゆたかさ」とは、金銭など数値化して目に見えるものの量に限定されているようだ。(考えてみれば当たり前なんだけどね。生活の質や心の持ちようなどという数値化し難いものは、学問の対象にはなりにくいから。)そう割り切って感がると、本書もそれなりに面白い。経済的な豊かさを万人が享受できる社会を作るためには、どのような社会であるべきか?というのが本書の主題。古今の経済学者が追及してきた「ゆたかな社会」の紆余曲折が、わかりやすく語られてる。
 本書によれば、経済学が誕生するに至ったそもそもの「きっかけ」があるようだ。それは「産業」の発達によって資本主義が生まれ、貧富の差や経済の好不況によって不幸になる人が大勢生まれたこと。経済の仕組みを解き明かし、不況を防いだり貧困層の生活を改善することによって、不幸な人を少しでも減らそうというのが、経済学本来の目的だったらしい。本書を読むまでは全くもってそんなこと、思いもよらなかった。(*)

   *…でもそう考えれば、ノーベル賞に経済学賞があるのも何となく理解できるね。
     要は人々が平和に暮らせる世界を築くという経済学の目的が、ノーベル賞の理念に
     合致するということだろう。

 ところで昔の経済学においては、経済に好景気/不景気の循環があるのは(貧富の差があるのと同様で)「自然の摂理」であり、人間が何をしても変えられるものではない…という考えが主流だったらしい。
 社会的不平等(経済構造)を「社会の発展に不可欠なスパイス(の役割り)」だなんて。今の目からみたら、「いったいどういう量見なの?」と言いたくなるような考えがまかりとおっていたようだ。その意味では、ペシミズム(悲観主義)に彩られた、不平等/貧困/階級闘争の3点セットを前提とした経済理論から、大きくパラダイムシフトすることが出来たのは、何にせよ良いことだったと思う。(しかもその“常識”を覆したのがケインズの経済学理論やマーシャルプランの実行だった――なんて話を聞くと、ケインズが何だかすごく素敵な人に思えてくるな。/笑)
 そしてその次に出てきたのが、経済格差はやむを得ないとして認め、そのうえで最下層の人々が経済的にボトムアップされて「ゆたか」になりさえすれば、不幸な人はいなくなる…という考え。富裕層がさらに豊かになれば、経済格差は一向に解消されないわけだが、しかし彼らはそれでも一向に構わない。「幸せ」と「すごく幸せ」の違いはあるかも知れないが、少なくとも不幸は無くなるわけだから。
 ではそのために政府は何をすべきか? 経済学者たちが考えたのは、社会全体の経済を底上げして、最下層の人々にまでその恩恵が行き渡るようにするという政策。具体的には「生産性拡大(経済成長)」の実施が最優先かつ不可欠な事項であって、そのため実業家たちが思う存分自由に活動でき、成長が出来る社会環境を作ることが肝心だというのが、アメリカの経済学者の「共通認識」なのだそうだ。はたしてこれが本当に「正しい」ことなのかどうか、判断を下せるだけの素養もないけれど、何となく違和感を覚えてしまうなあ。
 先ほども述べたように、結局のところ経済学者の考える「ゆたかさ」の正体を端的に言ってしまえば、それは「カネ」につきるということなのだろう。(あくまでも本書の見解によればだけど。)金銭的なインセンティブが充分に与えられる社会が「ゆたかな社会」というわけ。ここらへんに何となくアメリカ自由主義の根っこがあるような気がする。
 どうやら著者もその点にひっかかりはあったらしく、経済学者による暗黙の了解事項である「人は物質的/経済的な豊かさを求める存在である」という前提が、普遍的にどんな時でも有効なのか?という疑問を述べている。貧困で明日をも知れぬ暮らしを強いられる社会においては、たしかに「カネこそ一番」という話も成り立つ話かもしれない。しかしある程度豊かになった国、もしくは(先進国のように)高度な消費社会を実現した国においてはどうなのだろう。
 「ゆたかさ」とはいったい何なのか? そのような社会において経済学を学ぶことに、果たしてどんな意味があるというのか? コマーシャルによって消費欲望をかき立てられては購入に走る人々に、本来の意味での「ゆたかさ」は存在し得るのか? 色んな疑問が浮かんでは消えるのだが、本書の中にその答えはない。(尤もこれを突き詰めていった先にあるのは、もはや「経済学」と呼べるものではない気もするが。)

 違ういい方をすれば、アメリカの経済学者が信奉しているのは、経済活動の“自由”と持続的な“成長”であるとも言えるだろう。(この意識については、いかに本書の著者であるガルブレイスと言えど、逃れきることは出来ていない気がする。)経済学者たちはもしかしたら無意識なのかも知れないが、他国の人間からすると彼らの考えには結構なバイアスがかかっているように見える。政府による経済政策というのも、金融政策にせよ財政政策にせよ(**)、巨大なエンジンを積んで生産拡大に向かってひた走るモンスターマシン(市場経済)を、直接ハンドルを握ることなく後ろから押したり引いたりすることで、行先を自在に操ろうというのに等しいのではないかという気が。どう考えても無理っぽい感じがしてならない(^^;)。

  **…金融政策市場とは公定歩合の操作による金利の変動でインフレを抑制しようとする
     もの。財政政策とは公共投資の増加による市場にテコ入れしたり、逆に増税する事
     によって市場抑制などの操作を行うこと。

 それに連邦予算における国防費の扱いにも疑問符が。アメリカでは、連邦政府が年度予算を決める際には、まず国防費として一定の額を割り振ってしまい、殆ど「聖域」のような位置づけにしてしまうそうだ。しかもそれを正当化するのに、いかにも“もっともらしい”理屈をこねくり回していて笑える。どんなのかというと「民間による研究開発はどうしても利潤追求型の(悪く言えば)近視眼的なものになりがち。その点、軍事費というのは採算度外視で国防のために役に立つと思うことを行うため、基礎研究を推進する原動力となり、未来への投資になっている」というもの。そう強く言われてもなあ。このくだりを読んだとき、まるでアメリカが古代ギリシアの都市、スパルタのように思えてきた。
 本書で議論されている「経済学者の見解」というものには、必ずしも全面的に首肯するわけではないが、少なくとも「(アメリカの)経済学がどんな考えを基盤としているか」については、よく解することができたと思う。キーワードとしては、貧富に対する不平等感の改善という意味で「平等」とか、経済的な保障の欠如に対する解決策としての「生産性の増大」(不況対策、失業対策、経済成長など)が挙げられてるが、それを覚えておくことだけでも、経済学に対してこれまでと違う見方ができる気がするね。

<追記>
 余談になるが、山形浩生氏によればダニエル・C・デネットは彼の著書『自由は進化する』のなかで、「自由とはシミュレーションのツールだ」ということを述べたらしい。本書の内容によれば差し詰め「経済的な豊かさとは自由の手段だ」といえるのかも知れない。

薪能(たきぎのう)

 今回はちょっと趣向を変えて、先日見てきた『第十一回 名古屋名駅 薪能』について書いてみよう。以前から能や歌舞伎といった伝統芸能にはとても興味があって、実際に見る機会はなかなか無くても、時々テレビでやるのを観たりしていた。このブログでも前に安田登著『異界を旅する能』(ちくま文庫)を取り上げたことがあるが、他にも世阿弥『風姿花伝』とか、本で読んでも面白い。是非ともいつか生の舞台を見てみたいものと思っていた。
 そんな折、たまたま名古屋駅を歩いていたら、JR高島屋に般若の面の大きなポスターが。何気なく近寄って見てみると、大きく「薪能」と書いてある。薪能というのが、薪の灯りで行う野外能という事くらいは知っていたので、興味津々でじっくり読んでみた。すると次の日曜日にJR高島屋・タワーズガーデン特設会場で開催とのこと。しかも「入場無料」とあるではないか(ここが肝心/笑)。その言葉を見た瞬間に心の中は決まっていた。
 家に帰ってホームページを調べてみたところ、残念ながら600名分の整理券の申し込みはすでに終了。あとは当日、先着順で配られる自由席の券を獲得するしかない。しかも昨年の公演の写真を確認したところ、広い会場は人で一杯の様子。自分は全く知らなかったのだが、かなり人気のある催し物だったようだ。「能なんて人気ないだろうから大丈夫だろ」と思っていた自分の甘さを思い知った。
 色々あった家の用事をやりくりして事前に済ませ、気合を入れて名古屋駅に着いたのは午後4時。開演の午後6時まで充分に時間はある。開場は1時間前の午後5時なので、どこかで軽く食事でも済ませてから並ぼうと思っていたのだが、念のために会場を覗きに行ったところびっくり。すでに300人ほどの人が炎天下に列をなして並んでいるではないか(汗)。慌てて地下街のパン屋にパンを買いに行き、とりあえず列の最後尾に並ぶことに。いやあ、おそるべし薪能人気。(*)

   *…その後、その列は事前申し込みで整理券が当たった熱心なファンの列だったという
     ことが判明。当日券の人は結構ギリギリになってから来る人が多く、幸い椅子席に
     座ることが出来た。

 終了は午後8時から8時半とのこと、待ち時間も入れると4時間以上もあるためトイレを心配していたのだが、どうやら半券さえ持っていれば席に荷物を置いて自由に出入りできることがわかり、時間まで駅ビル内にある本屋をうろうろしたり恒例の献血をしたりして時間をつぶし、会場に戻ったのは5時40分。すでに会場は立ち見(階段)席も含め、ほぼ満席になっていた。整理券が600人で当日券が600人ということだから、当日はおよそ1200人が見に来ていたことになる。(ちなみに観客の平均年齢は高い。たぶん60歳は超えていたのじゃないかな。なんせ自分が若い方だったから。でも中にはちらほらと浴衣姿のお嬢さん達も見受けられたりして、これなら伝統芸能もまだ大丈夫かな――という気がした。)
 先に開かれていた「全国学生能楽コンクール」の表彰式と上位校のエキシビジョン演技を見て待つことしばし。心配されたにわか雨も降ることなく、やがて演奏を受け持つ“囃子方(はやしかた)”と「謡(うたい)」を受け持つシテ方が登場すると、会場は一気に期待と高揚感に包まれる。最初の演目である『絵馬(えま)』が始まると鼓や笛の音が鳴り響き、その後はおよそ2時間、駅前のビルの谷間に伝統芸能の空間が現れたのだった。

 当日の番組(演目)は次の3つ。
  ■舞囃子『絵馬(えま)』
  ■狂言 『六地蔵(ろくじぞう)』
  ■能  『小鍛冶(こかじ)』

 最初の「舞囃子」というのは、能のクライマックスだけを抜き出して演じる略式演奏らしい。(よく知らなかったので、あとで調べたらそう書いてあった。)能面や正式な装束はつけず、紋付き袴と裃(かみしも)のままで演ずるもの。ストーリーは当日渡されたパンフに書いてあったので、予め目を通しておけば凡その流れは見当がつく。今回演じられた『絵馬(えま)』というのはだいたい次のような話だ。
 ―― 帝に仕える臣下が勅命により伊勢神宮参詣へ。一行が伊勢に到着すると丁度その日は節分の日。やがて老人夫婦がやってきて、伊勢では節分に絵馬をかける風習があるとのこと。姥は雨の占方を示す黒い絵馬を、翁は日照りの占方を示す白い絵馬をかけようとして互いに争う。そして最後には仲良く黒白ふたつの絵馬をかけ並べ、自分たちの正体が伊勢の二柱の神であると明かすとともに、雨も降らせて日も照らし、人民が喜んで暮らせる世界にしようと言いつつ消え去っていく。

 次の演目の狂言『六地蔵』は、なんと野村萬斎が出演していた。どうやら会場の何割かはこれが目当てで来たようで、狂言が終わるとぱらぱらと帰っていく人がいたのは残念。しかし話自体は爆笑につぐ爆笑で、現代にも通じる普遍的な「笑い」を満喫できた。ストーリーは凡そ次の通り。
 ―― 田舎者が地元に地蔵堂を建立し、そこに安置する6体の地蔵を手に入れようと、都へ仏師を探しにくる。それをこっそり見ていた都の「素っ破(詐欺師)」が、仲間のゴロツキを地蔵に化けさせて金をだまし取ろうと画策するが、やがて正体がばれて仲間ともども追い立てられる。

 やがてあたりが薄暗くなった頃、いよいよ最後の『小鍛冶(こかじ)』が始まった。薪は本物ではなく電気式だが、それでも能舞台の両脇で煌々と周囲を照らして雰囲気は十分。さて物語の内容は…
 ―― 帝が不思議な夢をみて、当時の鍛冶の名工に御剣を打たせようとする。鍛冶師はすぐれた相槌を打てる者がおらず、自分ひとりでは打てないと辞退しようとするが、帝の勅命とあって無碍に断ることも出来ず、仕方なく引き受けることに。途方に暮れて稲荷山の稲荷明神に祈願をしたところ、一人の童子が現れる。彼に草薙の剣を始めとする和漢の名剣の故事を語って聞かせ、その上で力を貸すことを約束する。(実は童子こそが稲荷明神の使いである狐の化身であったのだ。)後日、壇をしつらえて仕度を整えた鍛冶師が待ち構えていると、稲荷明神の使わせた白狐が現れて見事な相槌を打ち、御剣を打ちげて帝の勅使に捧げたのち、再び稲荷山へと帰って行く。

 ひとつめの『絵馬』、ふたつめの『六地蔵』も好かったが、この『小鍛冶』はまさに圧巻。中入りが終わって白装束に身を固めた狐の化身が現れ舞を踊り始めた瞬間、真夏というのに腕に鳥肌が。高層ビルの下というのに、確かに舞台の上に見えたのは狐の姿。面をつけて頭には狐の形の飾りをつけた能楽師が、その間だけはたしかに稲荷明神の遣いとなってそこにはいた。名古屋駅の喧噪が嘘のように消え、夢幻が目の前に現出した瞬間だった。

 初めて体験したのだが、やはり生の能鑑賞は格別。すべてが終わり会場を後にするときには、来年も来ようと心を決めていた。来年は事前申し込みで何としても整理券を手に入れ、もっと前の席に座らなくては。それとも前席の人のようにオペラグラスでも持参するかな。(笑)

2012年7月の読了本

『虫づくし』 別役実 ハヤカワ文庫
  *劇作家によるちょっとかわった超・博物誌の一冊。他にも『鳥づくし』とか『けもの
   づくし』とか色々あるが、どれも現実にはいない生き物や実際とは違う生態が描かれて
   いる。このシリーズは好きでよく読んでいたのだが、久しぶりに読み返したらやっぱり
   面白かった。
『HSPと分子シャペロン』 水島徹 講談社ブルーバックス
  *「熱ショックタンパク質(HSP)」なる、体内の“お助けマン”のようなタンパク質
   に焦点をあてて、その驚くべき役割やHSPの応用が拓く医療・美容の未来について
   語った本。
『ナイトランド創刊2号』
  *本邦初のホラー&ダーク・ファンタジー専門誌の創刊第2号。特集が「ネクロノミコン
   異聞」と「モンスター・ゾーン」だと聞けば、何となく雰囲気は分かるかな(笑)。
   ちょいと値段が張るのが玉に瑕だが、このような果敢な取り組みはぜひとも応援を続け
   ていきたい。
『よいこの君主論』 架神恭介/辰巳一世 ちくま文庫
  *マキャヴェリが封建君主に対して説いた統治の指南書が、かの有名な『君主論』。
   本書はその舞台を小学校にうつし、生徒たちがリーダーの座を争い覇権を競うパロディ
   作。いつだったか、高校野球の女子マネージャーがドラッカーを読んで、マネジメント
   の勉強をする話がベストセラーになった。本書も同様にビジネス書として使えなくは
   ないが、どちらかといえば『君主論』のパロディとして愉しんだ方が良い気がする。
『みみずく偏書記』 由良君美 ちくま文庫
  *著者は1990年に亡くなった英文学者。本読みの達人であり、澁澤龍彦や種村季弘らと
   ならび称された碩学だったそうだが、寡聞にして全くしらなかった。いい年のオヤジに
   なってからでも、まだこのように凄い人とのファーストコンタクトがあるなんて嬉しい
   なあ。まだまだ人生捨てたもんじゃないね。
『百頭女』 マックス・エルンスト 河出文庫
  *シュールリアリズム系の画家が手掛けた、コラージュ技法による物語(?)集。本書は
   3冊あるうちの1冊目で、愛知県美術館のマックス・エルンスト展を見た帰りに、早速
   購入して読み始めた。このようにイベント連動型の読書も結構愉しい。またそのうちに
   企画してみたいものだ。
『遊戯の終わり』 コルタサル 岩波文庫
  *南米の「魔術的リアリズム」の作家たちの1人、コルタサルによる短篇集。印象として
   は「奇妙な味」のちょっと手前。もうちょっとのところで「不思議」には成りきれない
   感じ。「変な小説」というのが一番ぴったりくるかな。収録作はリアルなものから幻想
   (というかシュール)なものまでバラエティに富んでいる。
   リアリスティックなタイプでは、繊細な少年少女の心とほろ苦い体験を描いた表題作や
   「殺虫剤」、それにボクサーの末路の「牡牛」などが好かった。奇想系のタイプの作品
   では、服をうまく着られない男が妙におかしい「誰も悪くはない」や、オーケストラに
   起こった異常な出来事「バッカスの巫女たち」あたりだろうか。
『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』 竹内整一 ちくま新書
  *「さようなら」や「さらば」といった日本語独特の「別れの挨拶」に隠された、日本人
   の死生観をとことん追求した本。
『ムーミン谷の夏まつり』 ヤンソン 講談社文庫
  *火山による大洪水に突如襲われたムーミン谷と、漂流する大劇場で開かれたムーミン
   パパ原作の演劇を描く。
『ペテルブルグ物語』 ゴーゴリ 群像社
  *ロシアの文学者ゴーゴリの代表的な短篇「鼻」と「外套」に加え、同じくペテルブルグ
   を舞台にした「ネフスキイ大通り」を収録。編者はフェルマリズムの文芸学者である
   エイヘンバウム(初めて聞いた名前。/笑)
   「鼻」や「外套」は他にも多くの文庫で読むことができるが、この本のウリは何と言っ
   ても作品の舞台となったネフスキイ大通りの詳細図をはじめ、ペテルブルグの市街地図
   が載っていること。(それに、味のある挿絵も。)
   鼻が消え失せたり、死んだ男の亡霊が外套を奪い取るといった、幻想味のある「鼻」や
   「外套」の2作品に対して、「ネフスキイ大通り」は結構リアルな話。しかしどれも
   全体を包む雰囲気には共通するものが。
   いみじくも訳者が解説で「幻想的リアリズム」という矛盾した表現で呼んでいるが、
   それも尤もな話。完全な幻想とも言い切れない生々しさもあって、「幻想的」と言い
   切ってしまうよりも、「現実からちょっと足を踏み外してしまった」とでもいう表現
   の方がしっくりくるかな。自分の印象としては(同じロシア出身の画家)シャガール
   の作風に重なるところが多い。ことさらに幻想を強調するのでなく、恋人たちが気が
   付くといつの間にかフワフワと空に浮かび上がってしまったような感じ。
   全編に漂う、両者のそこはかとないユーモアもよく似ている気がするな。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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