『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』 竹内整一 ちくま新書

 言語学の本かと思ったら全然違っていた。でもこれはこれで大正解。いろいろと考えさせられるところの多い本だった。本書のテーマは言語学ではなく死生学。すなわち「究極の別れ」である死について、「さようなら」という別れの表現を軸に、様々な角度から分析する試みの本だ。
 「さようなら」もしくは「さらば」という挨拶は、意味的にみて世界的に見ても大変ユニークなものらしい。意味は「そうであるならば(さようならば)」が縮まったものであり、そのことについてはかなり早い段階で説明がなされる。ところが「へえ、そうなんだ」と感心するのもつかの間、実は本書の本題はそこから始まるのダ。(笑)
 その後は、「日本人にとって死とはどのようなものであったか?」について、古典文学における別れの表現について分析がなされる。そしてみえてくるのは、日本人にとって「今」という瞬間がどのような意味を持ち、そして世界のなかで「自分」というものがどのような意味を持っていたかということ。かなり乱暴な要約ではあるがそれは次のようなことだ。
 まずは古来日本人にとって「今」がどのような意味(価値)を持っていたかについて。著者によれば日本人の「今」というものは、現在のこの「一瞬」であるとともに、“過去”から連綿と続いてきた物事の結果としてあるものなのだという。(そしてまた“未来”を確定させる原因としても…。)「今こそさらば」とか「いざさらば」というのは、そのような「今」を前提にして初めて見えてくる「別れ」の言葉なのだとか。これが日本人独特の死生観のひとつ。
 うーん、ちょっとわかり難くて申し訳ない。いわゆる松岡正剛氏がいうところの「デュアルスタンダード」というヤツに近いのではないかと思うのだが、松岡正剛氏の著作を読んでいない方には何のことか分からんですね。(苦笑)
 本書に出てくるほかの表現で書いてみよう。たとえば「自分」というものについて。
 日本人にとって「私」とか「自分」というものは、西洋における「自己」についてのセルフイメージとは、全く違うらしい。世界を大河に例えるならば、「私」とは過去から現在に向かって営々と流れる大河の一滴のごとき(とるに足らない)存在でありながら、なおかつ同じものは今だかつて(そしてこれからも)存在し得ない唯一無二のもの。そんな「絶対矛盾的自己同一」(by西田幾太郎)をそのままの形で引き受け、日々の営みを繰り返してきたのが日本人であるのだとか。これは「一隅(ひとすみ、いちぐう)」と呼ばれる考え方につながるものでもあるのだという。(*)

   *…字は違うけど「千載一遇」の「一遇」とも何か関連があるのかな?発音が同じだけ
     に気になる。

 本書ではこれらの価値観の大元についても考察がなされている。それは「結婚することになった」とか「感じられる」といった日本語独特の用法にある、というのが著者の主張。学校の古典の授業でならった「る/らる」や「す/さす/しむ」のように、「受け身」とも「自発」とも「可能」ともとれる独特の表現が原因なのだとか。
 すべての意味がないまぜになり容易に判別が出来ない(=実はすべての意味を持つ?)、日本語独特の用法が原因というのも、「言語が思考を決定する」という考えからすれば至極納得がいく説ではある。そして日本人は不幸な境遇に陥ったとしても、「(その状況が)自ずから成った」という感覚からくる“諦め”を感じてしまうのだとか。これもまた納得。
 諦観によりすべての境遇を「運命」として甘受すること。これは地震や津波などの天変地異により全てがご破算になるという不幸を、過去何度も経験してきた民族に特有の大変ユニークなものなのかも。それは例えば先の震災の時に海外メディアによって絶賛された、驚異的な我慢強さやマナーの良さにつながるものである反面、「お上」や「ご時勢」という言葉で強権力による理不尽な動きを、なし崩し的に認めてしまう“腰の弱さ”にも通じるものがある気がする。
 地味な主題ではあるけれど(失礼!)、かなり色々なことを考えさせてくれる本だった。
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本が読めないとき

 7月に入ってから職場の人事異動と組織変更があって、これまでの仕事に加えてほかの部署の仕事も引き受けることになった。しかも業務の引き継ぎ開始のタイミングに合わせるように、節電のための7:30勤務も始まり、そこへ持ってきて6月からの子供の入院と祖母の法事の対応も。このところコマネズミのように忙しい日々を送っている。
 10年ほど前から自分に課してきた「月の読書量10冊以上」というノルマも危ういほど、本を読む時間が取れない状況。うーむ、もしかしたら今は我が読書ライフ最大の危機的な状態といえるかも。(笑)
 でもまあ、こんな時は焦ったって仕方がない。毎日とりあえず数ページだけでも読んでいるので、「飢餓状態」には陥らずに済んでいるだけマシと思うしかないだろう。

 思い返せば、本を思うように読めなかったのは、わが人生でこれまでに2度あった。それは大学受験を控えた高校3年の年と、会社に就職したばかりの最初の年。前者はもちろん自ら一時的に活字を絶ったのだけれど、その反動で大学入学が決まってから、街に出て10冊以上の本を一気に大人買いするという暴挙にでた(笑)。後者は正式配属前の実習が肉体的に大変だったのと、慣れない環境で精神的にも余裕がなく、年間80数冊しか読めなかった覚えがある。(それ以降は年間120冊以上はキープ…って、スポーツじゃあるまいし一体全体どんな記録だ?/笑)
 それに比べると今回の「谷間」は、多少の人生経験を積んだせいか(?)以前ほどの心の焦りはない。焦りはないのだが、しかしその代わりに面白いこと。それは何かというと、本屋に足を向ける頻度が確実に落ちているのだ。何故かと考えてみるに、買っても読めないので新刊棚をみてもさほど「心がときめかない」からみたい。「本は読むより買う方が面白い。それよりもっと面白いのは、次に読む本を選んでいるとき」というのは、以前から自分が秘かに感じていたことなので、これは自分でも意外だった。今回の事を機に改めて「本は読んでなんぼ」というのを実感した次第。たしかに沢山読んでいる月ほど、買っている数も多い気がするなあ。

 さて、それでは本を読めない間は一体どのように憂さを晴らしているか?
 頭に浮かんでくるのはやはり「お気に入り」の作家や作品のこと。通勤途中や会社の駐車場についてから気分転換に考えるのは、たとえば澁澤龍彦とか開高健、稲垣足穂に泉鏡花たちなど概ね決まっている気がする。未刊行になったままの本(*)がいつ出るか?なーんて事に思いを巡らせるのも愉しい。
 こうして考えてみると、今まで自分の前を通過していった数多くの本は、間違いなく自分の中で何かしらの「蓄え」になっているのではなかろうか。憧れの地に旅行に行ったときの記憶や素晴らしい人に出会えた時の記憶は、もちろん自分の中で財産となっているが、本との出会いも同じくらい大事なひとつの「経験」と呼べるのでは。(ほかの方はまた違う感想をお持ちかもしれないが、少なくとも自分にとってはそのような感じ。)もしもこの世に本が無かったとしたら、自分の人生がいかに無味乾燥で詰まらないものになっていたかと思うと、空恐ろしいものがあるね。
 それでは引き継ぎ業務に慣れるとともに子どもや祖母の件も落ち着いて、またゆっくりと本のページを繰る日が一日も早く訪れることを祈りつつ。

  *…ポーランド作家スタニスワフ・レムの『レム・コレクション』が完結するのは、
    果たしていつの事か。

<追記>
 そんなに本が読みたいのならブログなんて書いてないで、その時間で少しでも読めばいいのに―― という言葉が聞こえてきそうな気も(^^;)。しかし自分にとってはこのような文章を書くという行為も、ストレス解消の一環なので、どうかご理解いただきたい。(笑)

『みみずく偏書記』 由良君美 ちくま文庫

 いやあ、びっくりした。こんな凄い人がいたなんて今まで全然知らなかった。まだまだこれから、新しい事に出会うチャンスがあるなんて、嬉しくなってくる。(などと自分の不勉強を棚に上げて能天気に喜ぶ。/笑)
 昔から紀田順一郎や出久根達郎ら、いわゆる“読書の達人”たちの本が好きで、本屋で新刊を見かけると読んでいる。(鴻巣友季子や岸本佐知子ら翻訳家の書いたエッセイを、好んで読むのも同じ理由から。)本書を新刊棚で見かけた時も、「みみずく」という響きと「偏書」とわざわざ断っているところに引っ掛かりを感じて、まったく予備知識なしで購入した。扉の見返しにある著者近影をみて「言われて見ればたしかにミミズクに似た風貌だなあ」と思った程度の印象(失礼)。
 従ってさほど読みたいわけでもなく、買ってからも何となくひと月ほど放っておいたのだが、ある日、ふと軽めのエッセイでも読みたくなった。そこで「そういえば…」と積読本の中から引っ張り出して読み始めたところ、いきなり冒頭の「書狼に徹して書物漁り―当分」でびっくり。ついで柳田国男とオスカー・ワイルドの関係やラヴジョイの観念史学会の話で唸らされ、ウィリアム・ブレイクや偽書「フランケンシュタイン日記」で完全にノックアウト。あとは居住まいを正して最後まで一気読みだった。
 何と言っても、本書でとりあげている著者/著作も渋い。気に入ったのを思いつくままざっと挙げてみると、「白樺の玩具箱を蹴かえした小男-郡虎彦讃美」「夢野久作の父の文学的足跡―この父なくしてこの子なし」「メスメリズム断想(*)」などなど。
 とくに素晴らしいのは自らの読書体験を綴った一連のエッセイ。「消えた三つの至福の部屋」をはじめとして、「ニュー・スクール、バーク、スロチャワー」や「CROSS-MODALな書誌を」などは圧巻。まさしく学際的な研究がもつワクワク感を如実に示してくれる。(もっとも、著者はこの「学際的」という言葉は好きでないそうで、本書では代わりに“CROSS-MODL”という言葉を使っている。)

  *…「動物磁気説」という如何わしさ満載の疑似科学で有名なメスメルと、その著作の
    本邦への紹介を巡る話。

 本書はこれまで聞いたこともない名前が続々と出てきて大変に「刺激的」。『オーデン わが読書』という本についての書評の中に―「それにしても、これは辛い行為である。読者の学力などは問題にせず、いきなり対象の本質に切り込み、(中略)知的宇宙の地図の中の等高線に、どんな対象も作図しおおせてしまう」という文章があるが、まるで本書自身のためにあるような言葉だ。(笑)
 でも心配はご無用。次のような言葉も出てくる。マイケル・オーショットという人の言葉らしいが、「そもそも人文系の学問を、知識を蓄えるためにするのは邪道」だそうだ。たとえ自分が知らない人の話だろうが、たとえ読んだ後忘れてしまおうが、そんなこと構わないから、読書の瞬間をただ驚きとともに愉しめばいいのだと思うよ。そうすれば「知識として大脳を富ませてくれるというより、知識以前の漠たる形で意識下に沈む事柄の方が多い。そうでないと読書はどうも愉しくない」という境地にたどり着けるから。(この意見には全面的に賛成! ただ自分の場合は沈みっぱなしで、二度と浮かび上がってこないことが多そうだが。/苦笑)
 「これだけ多様な対象である、どの読者の興味にも、どれかは必ず引っかかってくるだろう」という心強い言葉も出てくるが、これもまた事実。まさしく「全人間的関心の領野にわたる読書」であると言える。(**)
 他にも随所に、つい記録しておきたくなる文章が。たとえば“諷刺”とは「現状を笑う立場」であり、“幻想”とは「現実から一歩離れなければ成立しない虚偽の構築」、そして“ユートピア”は「現実にないリアリティの様相をもつ描写であり可能性の唄」だとか、これら“諷刺/幻想/ユートピア”の3者がつくる三角形こそが、現実を超越するための想像力の根拠なのではあるまいかという仮説とか。(この著者の主張には個人的には大変賛同できる。)

  **…以上の引用はすべて『オーデン わが読書』の書評文から。

 いやしかし、こんな凄い人を“探書アンテナ”から完全に取りこぼしていたなんて、勿体ないことだ。一読して、山口昌男の『道化の民俗学』や澁澤龍彦の『黒魔術の手帖』に、初めて出会った時のことを思い出した。(いい年したオッサンがちょっと感激してしまったヨ。)
 ネットで著者のことを調べてみたら、澁澤龍彦や種村季弘と並び称される「脱領域」の知性と書いてあって妙に納得。本職は「コールリッジを中心とした英国ロマン派文学」の研究とのことだが、ベースにあるのは哲学であり、はたまた幻想文学への造詣も深いとのこと。いわゆる「碩学」というのは、このような人のことを言うのだろうね。著作はあまり多くなくて、今では入手困難なものが殆どのようだ。本書を読み終えた直後に、平凡社ライブラリーから『椿説泰西浪曼派英米文学談義』が復刊されたので、さっそく買ってきた。勿体ないから少しずつ読んでいくことにしよう。

<追記>
 初めにも書いたけど、幾つになってもこういう体験が味わえるからこそ、読書はやめられないのだよね。明日からも自信をもって言わせてもらおう。「趣味は読書」と(^^)。

本を愉しむ

 少し前になるが、ミシュラン2つ星のフレンチレストランで、フルコースのディナーをご相伴にあずかる機会があった。食文化を研究している大学の先生や、京都の老舗料亭の若主人にご一緒して、オーナーシェフ自らが料理のコンセプトを語るのを聞くなんて、もちろん生まれて初めて。おそらくこんな機会はこれから一生ないだろうし(笑)、せいぜい楽しませていただいた。
 さすが皆さん話題が豊富。3時間もの長丁場ということで、話すことが無くなったらどうしようと心配していたのだが(なんせ小心者なので/笑)、幸いにして退屈することなど全く無かった。ただし困ったのは、自分がこういう席で話せる話題があまりないこと。普段から良いもの食べつけてないと、こういうところでツケが回ってくるわけだ(笑)。とりあえずはひたすら聞き役に回ることに。
 一通り食事も終わりコースがデザートに差し掛かったころ、話題がワインとチーズの「マリアージュ」(*)の話になった。そこでふと思いついて、自分のフィールドである本の話題を振ってみることに。
 それは何かというと「本と本のマリアージュ」と「本と音楽のマリアージュ」。前者は複数の本を併読すると、個々の本が思わぬ広がりをもつ場合があるという事。そして後者は読書の際のBGMが、時に本の面白さを増幅させる効果を生むという話だ。(結構ウケたのでほっとした。/笑)
 ディナーの席ではあくまでも軽い話題の提供だったので、それ以上深い話はしなかったのだが、実は「本と本」もしくは「本と音楽」の組み合わせは、以前からちょっと気にしていたこと。そこで今回はもう少し詳しく触れてみたい。

   *…マリアージュとは仏語で「結婚」のこと。2つのものを食べ合わせることで、
     それぞれを単独に味わうよりも芳醇な香りや味を楽しめるという意味。

 まずは「本と本」の組み合わせについて。前にも一度書いたことがあるかも知れないが、普段から3~5冊の本を並行して読むことにしている。小説を読み続けるのに疲れたらエッセイを読み、学術書に飽きたらまた別の本というように、いろいろなジャンルの本を併読することで、常に新鮮な気持ちで読書を愉しむことが出来るというわけだ。
 ところがそのうち、全く違う種類の本がまるで共振しあうかのように、互いに繋がりを持ちはじめることがあるのに気が付いた。(先ほどのディナーの際には、それをとっさに「マリアージュ」に例えてみたというわけ。)わざと意識して読む本を組み合わせてみてもダメで、むしろ予期しなかった組み合わせの方が、突然の驚きをもたらしてくれることが多いようだ。
 比較的最近の例でいえば、A・ネグリ/M・ハートによる『マルチチュード』という本を読んでいた時の事。この本は、国際社会を取り巻く「新しい潮流」に関する、政治社会系の固めの本なのだが、それを読んでいる途中で何気なく大好きなJ・G・バラードの新作長篇『千年紀の民』を読み始めた。すると驚いたことに、両者が前提とする問題意識やテーマが見事にシンクロ(**)しているのだ。ユングならさしずめ「シンクロシニティ(共時性)」というところではないか。(^^)

  **…しかも調べてみたところ、ネグリらによる『マルチチュード』の前著である
     『<帝国>』が欧州でベストセラーになったのは、バラードが『千年紀の民』を
     書く数年前。そこで「バラードは『<帝国>』を読んで『千年紀の民』を書いた
     のか?」という仮説を当ブログで披露したら、なんと翻訳者の増田まもる氏ご本人
     からも自説へのご賛同をいただくという余禄まで。とっても嬉しかった。

 次は「本と音楽」について。本を読むときのBGMについては、高校生の頃から割と意識して選んでいる。ボーカル付きの曲だと歌詞が邪魔で本に集中できない場合があるので、インストゥルメンタルを流すことが多い。読書に意外と合うのが、少し古めの映画音楽。それもなるべく意表を突いたものの方が、上手くハマった時に気分がいい。(***)
 イメージ的に言うと、映画『2011年宇宙の旅』で「ツァラトゥストラはかく語りき」とか「美しく青きドナウ」が、宇宙空間の場面にぴったり合っていたときの感激。あるいはベトナム戦争をテーマにした『地獄の黙示録』で、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」やドアーズの「ジ・エンド」が効果的に使われていたようなものだ。
 (かなり昔になるが、)実際に自分が経験した例を挙げてみると、冒険作家アリステア・マクリーン原作でテロに襲われた豪華客船の物語を映画化した『黄金のランデヴー』のテーマ曲が、SF作家A・C・クラークの『渇きの海』というサスペンスSF(月面観光船の遭難と救出劇を描いたもの)のBGMにぴったりだったというのがある。(ちょっと古すぎるか。/苦笑)
 比較的最近のケースなら、先ほども出てきたJ・G・バラードの『殺す』という中篇作品を、キング・クリムゾンの『太陽と戦慄 part1』という曲をかけながら読んだところ、見事にマッチしてより一層愉しめた事とか。(これも古い?)

 ***…最近のはロックやポップスがテーマソングに使われることも多くなり、昔ながらの
     いかにも「映画音楽」という曲が減ってしまったのがちょっと残念。

 うーんと。古い譬えしか思いつかないので(笑)、少し視点を変えてみよう。
 実は先日、愛知県美術館で開催中の「マックス・エルンスト展」に行ってきた。この人は知る人ぞ知るシュールリアリズム系の画家。小説だけでなく絵画でも奇想系が好きな自分としては、これだけでも充分に愉しめたのだが、実は活字好きとして秘かにもうひとつのイベントも企画していた。それは何かというと、M・エルンストが制作した“コラージュ小説”(?)の本を買って読むというもの。
 コラージュ作品といっても大判の画集ではない。『百頭女』『慈善週間』『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』という3つの作品があり、どれも河出文庫から出ている。展覧会の余韻に浸りつつさっそく『百頭女』を購入し、電車の中でページを繰りつつ帰るのが堪らなく心地いいひと時だった。これも広い意味では「本と絵画のマリアージュ」と言えるのではないかな。
 その日はさらに欲張って、もう一つのイベントも企画していた。実は展覧会の後にそのまま、同じ会場内で開かれていた名古屋フィルハーモニー交響楽団(名フィル)の、ファミリーコンサートにも出かけてきたのだ。ひょんなことからチケットを譲って頂く機会があり、演奏曲目もよく調べずに出かけたわけだが、何とプログラムの特集が自分好みの「真夏のホラー・ミュージック」。サン=サーンスの交響詩『死の舞踏』や、グノー『操り人形の葬送行進曲』などを堪能することが出来た。
 特に『死の舞踏』という題名は、自分が好きなマーヴィン・ピークという作家の作品名でもあったので、ピーク独特の作品世界を思い出しながらオーケストラを聴くという、大変に贅沢な時間を過ごすことが。これも広い意味では「本と音楽のマリアージュ」といえるのかも。

 以上、いろいろ書いてきたけれど「本と本のマリアージュ」とか「本と音楽のマリアージュ」とか言うのは要するに、「読書という体験そのものを愉しむ」ということなのだと思う。“本の中身”だけでなく、“本を読むという行為自体”を愉しむ姿勢で常に接していれば、併読している本や音楽ばかりでなく、自分の身の回りのありとあらゆることが、より豊かな読書を味わうきっかけになるという事なのかもしれないね。

『よいこの君主論』 架神恭介/辰巳一世 ちくま文庫

 以前マキアヴェリの『君主論』を読んだ時から、いつか読んでやろうと楽しみにしていた本。裏表紙の説明には「マキャベリの名著『君主論』を武器にクラス制覇へと乗り出した小学五年生のひろしくん。だが、彼の前に権力への野望を持つ恐るべき子供たちが立ち塞がる!『君主論』はひろしくんを覇王へと導くことができるのか?」とある。『君主論』が名著かどうかには異論があるとしても、なかなか面白そうな本でしょ。(笑)
 読んで感心したのは、本書が単なる原著のパロディというだけでなく、巷にあふれるビジネス書のパロディにもなっているという点。この『よいこの君主論』という本自体も、(読もうと思えば)帝王学の分かりやすい指南書として使えるわけだから、セルフパロディになっているとも言えるだろう。
 古典作品から都合のいいところだけを切り取ったノウハウ本だとか、「マンガで読破○○」の類を飛ばし読みしてそれで読んだ気になるというのは、以前から「どうだかなー」と思っていた。(読書を楽しみのためでなく何かの手段としてしか考えていない人は、それで構わないのだろうが、それでは何だか寂しくないかね。)
しかしそれを正面切って批判するのではなく、思いきり茶化してしまおうという本書のようなスタンスは、自分も見習いたいもの。

 というわけで、本書をとことん楽しむにはまず原著を読むに越したことはないのだが、まあとりあえずここでは、本書のもとになった『君主論』の内容について軽くおさらいするくらいにしておこう。
 『君主論』が書かれたのは15世紀のイタリアはフィレンツェ。当時権勢をふるったメディチ家に仕えていた書記官のマキャベリが、若党首のロレンツォ・デ・メディチに捧げた書だ。内容はといえば、列強の周辺諸国からフィレンツェが侵略・蹂躙されないために、君主が心得ておくべきノウハウとでもいったもの。「君主が目指すべき理想の姿とは?」みたいな机上論ではなくて、「国家において最も重要なのは軍事であり、君主は軍事(防衛と侵略)のことだけ考えていればいい」という著者の主張が盛りだくさん。様々な君主のタイプや防衛と侵略の方法別に(*)、マキャベリなりの判断が下されている。まさにホッブスの『リヴァイアサン』を地で行くような時代の産物といえる。

   *…君主のタイプというのは例えば親から領地を受け継いだ世襲君主。もしくは臣下が
     クーデターを起こして新たな君主になる場合や、大国による傀儡国のやとわれ君主
     など。防衛と侵略に関しては自国軍と傭兵、他国の支援軍のメリットとデメリット
     が比較される。他国を占領した場合の統治の方法なども事細かく説明あり。

 さて、それでは本書の内容について。
 物語の舞台は目立(めだち)小学校の5年3組。主人公の「ひろしくん」という生徒を軸に、「りょうこちゃん」や「まなぶくん」といったひと癖もふた癖もある面々が、リーダーの座を巡って覇権を争う様子が描かれる。
そして各章の最後には「ふくろう先生」が「たろうくん」と「はなこちゃん」という2人の生徒に向けて、「ひろしくん」たちのとった作戦の出来不出来に関する解説をするという「入れ子」の構造。要するに子ども向けの学習読み物の体裁になっているというわけ。
 具体的には、「世襲君主」になぞらえた有力な兄貴をもったダメな弟の哀れな末路だとか、、もしくは「征服した他国領土が征服者の風習と異なる場合」の支配の難しさを、女子グループを仲間に加えて自壊した男子グループのエピソードで語るなど、『君主論』の内容に合わせてとても分かりやすい(笑)喩えがなされている。リーダー/君主としては、平民/グループメンバーから怖がられる統治は良いが、恨みを買うような統治はいけないとか、はたまたリーダーたるもの常に不測の事態(優しい担任が産休で突然休むなど)に対する備えを怠らないこととか、笑いながら読み終えることができた。
 先ほども述べたように下手くそなビジネス書を読んでいると、原著の内容を無批判に(まるで金科玉条のようにして)奉ることへの気恥ずかしさが先に立つ。しかし本書においては「子どもの読み物」という体裁のおかげで、気恥ずかしさは笑いへと昇華されているため、読んでいてさほど抵抗はない。(イラストがちょっと恥ずかしいくらいか。/笑)
 今ちょっとネットで調べてみたら、やはり本書はビジネス書としても推薦されているようだ。ま、確かにスカスカの抜書き本を読むよりは、本書の方が遥かに役に立ちそう。(少なくとも頭には入りやすい。)
 ただ自分としてはそんな読み方は嫌だなあ。そんな目的で読書をしたって勿体ないし詰まらない。著者らの意図とはもしかいたら違っているかも知れないが、自分としては本書を「君主論をネタにしたパロディ」として読む事を、もしくは「君主論をわかりやすい喩えで説明した、若干毛色の変わった解説書」として読む事を是非ともお勧めしたいな。

<追記>
 本書のようなパロディではなくて、『君主論』の世界観に真面目取り組んだ物語としては、ジョージ・R・R・マーティンのファンタジー大作『氷と炎の歌』のシリーズあたりが頭に浮かんでくるな。いろんなタイプの小君主や陰謀と裏切りが入り乱れ、まるでマキャベリズムの見本市のような人間不信の世界が描かれる。すごく面白いんだけれども、その代りすごく心が痛むよ。(^^;)

本の「ブランド」

 ※今回は雑文です。

 「ブランド」と聞くと、普通はどんなイメージを思い浮かべるだろう。ルイ・ヴィトンやプラダといったファッション関係の高級品?(いわゆる“ブランド品”というヤツね。)それともベンツやフェラーリといった高級外車? はたまた京都の老舗料亭とか?…いずれにしても、何となく「高い」というイメージを持つような気がする。
 自分の場合はメーカー勤めのサラリーマンということもあって、すぐに頭に浮かぶのは家電品などの日用品のブランド。もちろんオーディオ機器の分野でいうところの「バング&オルフセン」とか、調理器具の「ル・クルーゼ」のように“高級ブランド”と言われる商品も無いではないが、どちらかというと「信頼の証」みたいなイメージが強い。
 本来の意味をネットで調べてみたところ、「自社の製品を他社の類似品と区別するための目印」とあった。多くの場合は、消費者からみた商品価値(たとえばデザインや付加機能、それを所有することで得られるステイタスなど)の違いを明確にアピールするために用いられるものだ。すなわち「高いんだぞ、いいだろ!」というのもブランド価値の一つで間違い無いわけだが、もっと広く解釈すれば「その名前(ブランド)がついた商品を買っておけば“間違いない”と、買い手に思わせる手段」というところではないだろうか。

 のっけから小難しい話になってしまい申し訳ない。なんで急にこんな話を始めたかというと、つい先だって講談社ブルーバックスの新刊で『HSPと分子シャペロン』という本を読んだ時にあることを感じたからだ。それは何かというと、「本の場合にも“ブランド”というのは確かに存在する」ということ。
 『HSPと分子シャペロン』などという、それまで聞いたこともないヘンテコな書名を見て、それでも買ってみようと決心したのは「ブルーバックス」という科学叢書に対する、それまでの信頼の蓄積があったからに他ならない。最近はPHP研究所まで「PHPサイエンス・ワールド新書」などという科学専門の叢書を創刊したり、幻冬舎新書(例えば『宇宙は何でできているのか』)や光文社新書(例えば『深海のパイロット』)までもが科学系の本を出しているが、やはり「ブルーバックス」と聞いた時の安心感には特別なものが。(笑)そう考えてみると、いろんな叢書にはそれぞれ得意な分野があって、それが自分の中で一種のブランドになっている事に気が付いたというわけ。
 それでは思いつくままに、自分の中での色々なブランド叢書について挙げてみよう。

 まずは自分が好きなSFや幻想系のジャンル小説について。
 誰しもぱっと頭に浮かぶのは、早川書房と東京創元社の2社ではないだろうか。ハヤカワ文庫や創元推理文庫の二大叢書に対しては、高校・大学のころは全幅の信頼を置いていたものだ。(ハヤカワ文庫はここ数年、自分の好きなタイプの作品が出ないので、ちょっとご無沙汰気味だが。)
 ひと昔まえならば、サンリオSF文庫という今でも語り草になるほどのマニアックなシリーズがあったのだが、今ではその路線は国書刊行会が「未来の文学」や「レム・コレクション」といった叢書でしっかり踏襲してくれている。(ハードカバーで値段が高いのが玉に瑕だけど。)

 学術系のブランドは沢山ある。文庫版なら講談社学術文庫とちくま学芸文庫がしのぎを削っているし、選書では社会学系に強いNHKブックスとか、「選書の価格破壊」と呼ばれたほどお買い得品が目白押しな講談社選書メチエなど。もはや出版社自体がブランドと化している法政大学出版局とか、みすず書房なども絶対的な信頼を置いている。(値段が高くておいそれとは手が出ないが。)
 新書だったら岩波新書とか中公新書あたりかなあ。ちくま新書や平凡社新書も結構いい企画をだしてくれるブランドだと思う。(あ、そういえば平凡社ライブラリーを忘れていた。)
 このあたりはどれも自分にとってはテッパンの叢書ばかりといえる。

 ちょっと変わったところでは、双葉文庫が『沖縄にとろける』とか『沖縄暮らしの家族ごはん』といった、ディープな沖縄本を意外と沢山出しているので要チェック。双葉文庫は他にも『なまら北海道だべさ!!』といった北海道のご当地ものも出したりして、結構侮りがたい。(この文庫では小説は殆ど読んだことがないのだが。/笑)
 新潮文庫や講談社文庫、文春文庫や角川文庫などの各社売れ筋文庫を、仮に(何でも売ってる)スーパーマーケットに例えるなら、今あげたような叢書の場合は、それぞれに個性を磨くことで差別化を図るセレクトショップみたいなものと言えるのかもしれない。
 他の方にとってはどのようなものが「ブランド」なのだろう? もしもお気に入りの「お店」(叢書)があったら一度お聞かせいただけると嬉しいですね。(^^)

『HSPと分子シャペロン』 水島徹 講談社ブルーバックス

 まるで呪文のような文字が並ぶヘンテコな書名。新刊予告では全くのノーマークで、新聞広告を見て初めて知った。書名を見てもジャンルすら推測できないというのも珍しい。しかしこういう時って、却って興味がわいたりするのだよね(笑)。
 さっそく本屋で現物を確認してみたところ、どうやらタンパク質とか医学に関する本だということは分かった。これまでの経験からすると、このような場合は2つのパターンのいずれかになることが多い。すなわち「狭い分野の些末な議論を繰り返すつまらない本」か、もしくは「今まで知らなかった新しい世界を見せてくれるとても愉しい本」のいずれか。
 ここのところ読む本の量よりも買う量の方が増えているので、わざわざ読んでみて詰まらなかったら…と、少し迷ったのだが、自然科学系の本に飢えていたこともあって結局購入、さっそく読んでみた。結果としては、幸いにも後者の「新しい世界」を自分の前に広げてくれる本だったので大満足。世の中には自分の知らないことがまだまだ多くあるのだねえ。興味は尽きない。(^^)
 それではざっくりと内容のまとめを。

 先ほども書いたように、本書はある種のタンパク質について書かれた本。著者は大学で創薬に携わる研究者で、(現在はまだ馴染みが薄いが今後とても重要になっていくと思われる)「HSP」と呼ばれるタンパク質について、一般人にも分かりやすく紹介した入門書だ。
 「HSP」というのは「Heat Shock Protein」の頭文字をとった略語で、日本語では「熱ショックタンパク質」と呼ばれるもの。1962年にリトサ博士によって発見されたそうだ。名前は博士がある生物に「急激な温度変化」(=熱ショック)を与えたときに、細胞内でこのタンパク質の量が増えることを発見した事に由来する。(*)

   *…ちなみに工学系の分野ではHeat Shockの事を「熱衝撃」とか、もしくはそのまま
     「ヒートショック」と呼ぶことが多い(と思う)。科学でも分野が変われば呼び名
     も変わるということか。こうしてジャーゴン(業界用語)が出来ていくわけだね。
     (笑)

 実際のところは「ストレスが生物に加わった結果として出来るタンパク質」ではなくて、「ストレスによって損傷した細胞を修復する目的で増えるタンパク質」というのが正解らしい。ひとことで言うと、HSPというのは体内に存在する様々なタンパク質を治したり世話したりする“お世話係”なのだ。(自身もタンパク質のくせして、周囲のタンパク質をお世話するためだけに存在するなんて面白い。)
 また書名にある「シャペロン」というのは、本来はフランス社会においてお嬢様の身の回りの世話を行っていた人のことだそうで、そこからHSPのことを「タンパク質(という箱入りのお嬢様)をお世話する分子」という意味で「分子シャペロン」と呼ぶのだそうだ。
 ちなみにHSPは分子量や働きに違いがあって、HSP90(分子量9万)やHSP70(分子量7万)など大きく分けても10種類、細かく分けると100種類以上が存在するとのこと。「形がおかしくなったタンパク質を元の形に戻す」「細胞を保護する」「コラーゲンという特殊なタンパク質が正しい形をとれるように手助けする」など、様々なタンパク質を「お世話する」働きを担っているらしい。会社でいえば総務や庶務など“間接部門”に所属するタンパク質というわけ。

 話がつい先走ってしまった。一応、タンパク質そのものについて簡単におさらいをしておこう。
 人間の体の中にはタンパク質が満ち満ちている。ひとつの細胞の中だけでおよそ80億個のタンパク質が生成/消滅を繰り返しているそうで、約60兆個の細胞からなる我々の体の全体では、何と48×10の22乗ものタンパク質がある計算になるらしい。
 ちなみにタンパク質という物質は、アラニンやグルタミン酸といった20種類におよぶ「アミノ酸」が「ペプチド結合」という緩やかな結合によって繋がったもの。人間の体にあるタンパク質は約4万種類(!)とも言われていて、生命活動の中心を担っている大事な存在。細胞核の中にあるDNA(**)という「設計図」に従って必要な時・場所に応じて作られているというのは、生物の授業などで聞いたことがあるだろう。

  **…デオキシリボ核酸。A/アデニン、T/チミン、G/グアニン、C/シトシンと
     いう4種の塩基が二重らせんの紐状に繋がったもの。1953年にワトソン博士らに
     よって発見され、博士は1962年のノーベル生理・医学賞を受賞した。

 タンパク質はアミノ酸同士の結合が弱いうえ、疎水性と親水性のアミノ酸が組み合わさった複雑な構造をしている。そのため熱や化学物質といった外的ストレスで簡単にダメージを受け、つなぎ目がほどけて変性してしまうことがままある。(***)なんと心理的なストレスによっても変化してしまうとのことだ。
 一旦そうなってしまうと自力で元の姿に戻ることは難しく、構造変化によってタンパク質が本来持っていた性質(つまり生体維持に欠かせない機能)も失われてしまう。それら「変性したタンパク質」を正常なものと区別・発見し、さらに修復まで行うのがHSPのもっとも重要な役割なのだ。まさに生命維持はHSPによって行われているといっても過言ではない。(とか偉そうに書いているけど、本書を読むまで全然知らなかった。全部受け売りです。^^;)
 ストレスをかけられた細胞の中では、ダメージを受けたタンパク質たちがHSP(分子シャペロン)によって次々と修復されるほか(=具体的には胃潰瘍にならずに済んだり)、ストレスの無い普段の時でも「タンパク質の細胞内での輸送」を受け持ったり「変性したタンパク質を除去するための目印」になったりと、このHSPという奴、なかなかのスグレモノなのだ。

 ***…たとえば卵を茹でると透明でドロッとした状態からカチカチの白い塊りに変化する
     のもそのひとつ。

 本書では前半がこのすぐれた性質を持つHSPについて、そして後半第4章からは、HSPの応用研究によって拓けようとしている二つの“新しい世界”について語られる。
 “新しい世界”のまず一つ目は、体内で特定のHSPを増やすことで、タンパク質変性に起因する難病に対し、効果的で副作用の心配がない治療が行える可能性。アルツハイマーやBSE(狂牛病)、白内障、ハンチントン舞踏病、肺/肝/腎繊維症、潰瘍性大腸炎など、現在は有効な治療法が無い疾病の進行を遅らせたり、治すことができるなんてまるで夢のようだ。(癌の治療の可能性も示唆されている。)
 二つ目の応用分野はガラリと変わって化粧品。HSPがもつ、紫外線によるダメージを修復してシミを防いだり、メラニンの増加を防いだりする効果を使い、効果的な日焼け止めクリームが開発された話。(熊本にある有名な某化粧品メーカーから、すでに発売開始されているそうだ。)他にもシワの防止(正確にはシワを防止するコラーゲンの生成を手助けする)効果があるということなので、アンチエイジングにも有効となれば、今後ますますその重要性は高まっていくに違いない。
 こうしてみると、HSPの働きはほとんど万能に思えてくるね。呪文のようなヘンテコな名前なんて言って失礼しました。(笑)

<追記>
 本書は殆ど知らない世界の話だったので、あれこれ考える前にひたすら「へえー」と感心するだけで終わってしまった。したがって今回の記事は単なる薀蓄のご紹介です。ま、たまにはこんなのも良いかな。化粧品の話だけはちょっと某メーカーに対するリップサービス的な面が無いでもないが、概ねHSPの広報マンとしての役割に徹していて、なかなか愉しい本だった。

『おばけずき』 泉鏡花 平凡社ライブラリー

 泉鏡花をこよなく愛す東雅夫氏によるアンソロジー。これはいい本だねえ。副題に「鏡花怪異小品集」とあるように、鏡花が遺した膨大な文章の中から、小説だけでなく随筆や談話など様々なジャンルにおける「怪異の神髄」を精選して収録。特に本書の半ばに収録された随筆は、全集でもなければなかなかお目にかかれないもの。特に関東大震災後の様子を描いた3編は貴重。これを読めただけでも本書を買った甲斐があったかな。(これらの随筆を読んでいると、鏡花が「おばけずき」であった理由が何となくわかる気が。)
 鏡花が潔癖症であって、生の食べ物による感染症を病的に恐れていたという事は知っていたが、この随筆を読む限りにおいて、その他にも地震やネズミなど彼の恐怖の対象はいろいろあったようだ。要は「おばけずき」というよりも、生来の「こわがり」だったということかな(笑)。
冒頭の「おばけずきのいわれ少々と処女作」にあるように、人智の及ばない怪異「鬼神力」を恐れるが故、その対抗として「観音力」の福徳を信じるのだという。そのあたりに鏡花が怖い話を求めた“心理的な何か”がありそうだ。

 東雅夫氏は巻末の解説で、岩波文庫版『鏡花短篇集』の編者・川村二郎氏の「(鏡花の小品の特徴は)凝縮した幻視のきらめきを核としている」という言葉を引用しているが、これなどまさに言い得て妙。自分も鏡花の怪談の怖さは“一瞬の描写にこそある”と信じるひとりなので、この意見にはしごく納得がいく。東氏は先述の解説において本書収録の短編小説のうち、「夜釣」のラストシーンの仕上げ方や「怪談女の輪」の中で亡霊の踵だけが見えるシーンを絶賛しているが、自分もこのふたつは背筋がぞくっときていた部分であり、賛同を得たようでなんだかうれしかった。(^^)
 作品が短いからと言って決して怖さが減ずるわけではなく、むしろ話がコンパクトな分だけストレートに伝わってくる感じ。鏡花の作品における特長として、久生十蘭の(うまく仕上がった)短編と共通する “切れの良さ”をぜひとも提案したい気がするな。

2012年6月の読了本

『エドガー・アラン・ポー 文学の冒険家』 巽孝之 NHK出版
  *NHKカルチャーラジオ 2012年4月~6月の放送用のテキスト。数年経つと増補改稿して
   NHKブックスとして出版されることが多いのだが、リアルタイムで読むのはまた格別。
   それにしても、生誕200年を過ぎてからまだ新事実が発見され、それによって作品評価が
   180度ひっくり返るとは。ポーはやっぱり凄いなあ。巽さんの文章も相変わらず切れが
   良くて愉しい一冊。
『自然の家』 フランク・ロイド・ライト ちくま学芸文庫
  *アメリカの近代建築の礎を築いた建築家が、晩年に自らの建築理念と平易に説いた本。
『孕むことば』 鴻巣友季子 中公文庫
  *『嵐が丘』の新訳で話題を呼んだ翻訳家によるエッセイ。幼い娘が「言葉」というもの
   を新たに発見して紡いでいく様子に絡めて、翻訳の面白さと難しさを語る。
   『全身翻訳家』で大ファンになったのだが、今回も期待にたがわず好かった。
『エドワード・ゴーリーの愛する12の怪談』 河出文庫
  *ブラックウッド「空家」、ディケンズ「信号手」ジェイコブズ「猿の手」などの有名作
   も収録。このあたりのいわゆる名作といわれるものは、前にも読んだことがあるけど、
   何度読んでもやっぱり面白い。個人的にはM・R・ジェイムズ「古代文字の秘宝」が
   すごく好み。ゴシックホラーの入門書みたいな感じで、どなたにもお薦めできそう。
『十蘭錬金術』 久生十蘭 河出文庫
  *河出文庫オリジナル編集による、物語の名手・久生十蘭の短編集。
『壁抜け男』 エイメ 角川文庫
  *早川書房の『異色作家短編集』のシリーズにも選ばれている、“奇妙な味”の仏作家
   マルセル・エイメの短編集。訳者の中村真一郎氏は『モスラ』の原作者だそうな。
   壁を通り抜ける能力をもった男(表題作)とか、同時に何人にも増えることができる
   女性(「サビーヌ」)とか、一日おきにしかこの世に存在しない男(「死んでいる時
   間」)とか、摩訶不思議な登場人物たちが摩訶不思議な物語を繰り広げる5編を収録。
   少年の冒険を描いた「七里の靴」はとってもいい話。(「変身」と「七里の靴」は
   早川版に未収録だそうなので、古本屋で見かけたら買っても損はしないと思うよ。
『虚構の大地』 ブライアン・W・オールディス ハヤカワ・SF・シリーズ
  *経済学者マルサスの『人口論』(世界に住める最大人数は食料供給の上限値に比例し、
   繁殖の限界値を決めるのは極貧だけ。だから人間はつねに飢餓の線上に生きることに
   なる…という趣旨の本らしい)を、そのまま物語にしたようなディストピア小説。
   『暗い光年』といい『地球の長い午後』といい、この頃のオールディスの作品には救い
   の無いものが多い気が。しかし本書がさほど深刻な雰囲気にならないのは、行き当たり
   ばったりでご都合主義的な主人公ノーランドの存在に依るものが大きい気がする。
   この男のダメっぷりは、イアン・サンソムの『蔵書まるごと消失事件』に出てくる青年
   イスラエルにも匹敵するな(笑)。
『ムーミンパパの思い出』 ヤンソン 講談社文庫
  *ムーミンの原作シリーズを、この年になって順番に読んでいる。本書はムーミンパパが
   自分の若かりし頃の思い出を子供らに語り聞かせるもの。奇想天外な冒険が楽しくて、
   ラストのサプライズもgood。
『差別語からはいる言語学入門』 田中克彦 ちくま学芸文庫
  *差別語をネタに言語学を語った一種のエッセイ。飄々とした語り口だが内容には結構深
   いものが。言葉(単語)自体はある意味を表す手段に過ぎないわけだが、その元には、
   その言葉を使う人の思想がある。さらには言語体系そのものがもつ根本的な物の見方す
   ら関係する場合も。「オトコとオンナ」という言葉すら差別的意味を持つことがあると
   いうのは興味深い。また「片(カタ)○○」という表現がウラル・アルタイ語族に特有
   のもので、単に「ひとつの」という意味ではなく「(本来揃っているはずのものが欠け
   ていて)半分しかない」という意味というのには驚いた。「欠如」という意味合いを
   強力にもつ、英語などでは表現しづらいニュアンスを持った言葉なのだそうだ。
   (「片手落ち」という言葉が「片方の手が落ちてしまった」の意味ではなく「中途半端
   な手落ち(しくじり)」だというのにはなるほど納得。)
   他にも「ハゲ」や「メクラ」「屠殺」といった、かなり慎重に使う必要がある言葉が
   次々と俎上にあげられ、言語というものの多義性が解説される。
『冥途・旅順入城式』 内田百 岩波文庫
  *内田百の代表的な幻想作品。不気味な話がこれでもかと収録されている。(笑)
『トポフィリア』 イーフー・トゥアン ちくま学芸文庫
  *現象学的地理学者を標榜する著者による、人と環境をめぐる考察。題名の元の意味は
   「トポス+フィリア」。直訳すると「場所愛」となるが、著者は「人が特定の場所に
   感じる情緒」の意味で使っている。
『おばけずき』 泉鏡花 平凡社ライブラリー
  *泉鏡花をこよなく愛す東雅夫氏による名アンソロジー。小説や随筆、談話など様々な
   ジャンルの「小品」を収録。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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