『トポフィリア』 イーフー・トゥアン ちくま学芸文庫

 「現象学的な地理学(*)」の旗手によって書かれた、人間の空間認識と感情に関する一考察。ちなみに題名の「トポフィリア」というのは、「トポス(場所)」と「フィリア(愛好)」という2つの単語を合成した、著者による造語だ。
 アメリカの生物学者E・O・ウィルソンの著書『バイオフィリア』(ちくま学芸文庫)の題名も同様に「バイオ(生命)」と「フィリア(愛好)」の合成語であって、そちらは「生命と非生命を見分け、生物に対して関心や興味を抱く、生物特有の傾向」のことだった。てっきり本書も「なぜに人は砂漠の風景に心魅かれるのか?」といった、特定の場所への興味や偏愛についての考察と思って読み始めたのだが、ちょっと(いや大分)違った。(笑)
 原題が「トポフィリア ―環境に対する知覚・態度・価値についての研究」となっているように、著者がいうところの「トポフィリア」というのは、「環境に対する人間の情緒的な結びつき」という程度の意味。決して肯定的かつ積極的な関心の事では無い。「バイオフィリア」とはかなり意味合いが異なっていて、読み始めのころはかなり面喰った。空間認識に関わるありとあらゆる考察が、まるで“ごった煮”のように詰め込まれている感じ。
 最初は人間による空間認識の仕方について、現象学的な観点などから考察が行われていて、その後は徐々に色々な場所(空間)についての情緒のあり方へと話題が移る。ただし如何せん著者の文章は内容が分かり難い。『空間の経験』でもそうだったが、著者の本はどれも論旨がはっきりしないので、早急に結論を求める人にはちょっとストレスが溜まるかも。(^^;)
 ま、とりあえずは面白かったところを、かいつまんで紹介してみよう。

   *…1970年代の一時期に一世を風靡した学問ジャンル。「人間の主観を出発点として
     環境をとらえていこうとする地理学」なのだそうだ。

 まずは都市化の進展と、それにつれて大きくなる「田園」への想いについて。さしずめ日本ならば「田園」は「里山」にあたるだろう。都会の人々が漠然と抱く自然への郷愁とか憧れといったものだ。都市化が進んでいくにつれ、文学などで「田園」が徐々にクローズアップされていき、やがては理想の場所として結晶化する。しかしそれはあくまで都会の便利な生活を満喫していた人々に依るもの。決して本当の田舎暮らしをしたいわけではないだろう。このあたりは建築家のフランク・ロイド・ライトが理想とする「プレーリー(大平原)住宅」の理念にも重なる気がしないでもない。
 なお、トゥアンは更に「場所」の概念を拡張して、「国家」という概念も一種の「場所」として捉えているが、広範囲な「国家」というのは実態を伴なったものではなく、そのままナショナリズムに直結する恐れをはらんだ「抽象概念」に他ならないことを指摘しているのはさすが。では彼自身はどんな国家が良いと考えているのかというと、どうやらもっと小規模なもののようだ。ローカリティとか地域性とでもいうべきものか。
 結局のところ「場所に感じる情緒」であるトポフィリアとは、別に具体的な「場所」を対象にする必要はなくもっと抽象的なもののようだ。それは人間の頭の中に(だけ)浮かんだ指標や価値であって、二つの対象物(概念)が対比されることで初めて意識され得るものと著者はいう。
 なお、実は「田園」や「農場」といったものでは、「都市」の対立概念とするにはちょっと不足。究極的な対立概念(もしくは原理)は著者によれば「荒れ地」や「荒野」なのだそうで、「田園」や「農場」は単にそれらへと続く中間的な景観に過ぎないと揶揄されている。
 この「荒れ地」「荒野」というのは、西洋的な価値観の土台となるキリスト教的な視点でみた場合、エデンから追放された者たちが赴く場所のこと。当初は「試練」とか「悪魔」といった言葉に関連する、否定的なイメージだったはず。しかし都市化の進展とともに「世界と調和した至福の王国」という良いイメージが加わっていき、両義的なものへと変わっていったというわけだ。
 以上、本書の前半部分の結論をまとめると、「ある場所に感じる情緒」というのは、特定の時代や文化に属する人々によって重要視される概念が、自然環境の景観の評価へ反映されたものである ――というのが著者の見解のようだ。

 つづいて「第11章 理想都市と超越性の象徴」から後は、人工的な景観であるアメリカ国内の都市を中心にして、環境に対する人の意識についての考察。一部にはカルチュラル・スタディーズの「はしり」のようなところも見受けられる。先ほども述べたように著者は話題をきちんと整理して提示するのが苦手なようで、すっきりした結論は書かれていないのだが、とりあえず自分が読む限りでは、東洋と西洋における伝統的な都市感覚に違いがあるのは間違いないみたい。
 西洋では中心に「聖・善・高」といったものがあり、周縁に行くに従って「俗・悪・低」へと変わる同心円状の広がりが一般的だと思う。(例えば街の中央には教会があって、郊外に向かう程世俗的な街並みになっていく感じ。)比較して東洋の場合は、「方位(東西南北)」が重要な意味を持っていて、方形の碁盤目のような街づくりが基本。北の中央に皇帝が坐して南面し、それを基軸にして直角水平に街路が延びていく。(もちろんバリ島のように「高・聖(山)/低・悪(海)」と南北の方位が一致する地域もあったりして、多少のバリエーションはある。しかし概ね中国文明の影響を受けた地域では、どこも似たような感じの街づくりなのではないかな?)
 一方アメリカの場合、モータリゼーションの普及に伴う都市の大規模化によって、中心部のスラム化にともなう中流層の郊外への流出が起こり、ドーナツ化現象が顕著になっていった。(ちょうど本書が書かれた1974年当時は最も深刻な状況だった頃ではなかったかな?最近では再開発よる都市居住者の増加など、以前とはまた違った傾向も見え始めているようだが。)

 以上、感想も少しまとまりのない覚書きになってしまった。本書を全体としてみた場合、「トポフィリアについて書かれた本」というよりはむしろ、「本書自体がトポフィリア」又は「トポフィリアンである著者によって書かれた書物」と考えた方が良いのかもしれないね。全体を通してあれこれ論じるというよりは、個々の断片的な考察をその都度愉しめば良いのではないかな。

<追記>
 スラムなど下層の街では、住民が自分たちに都合の悪いことを「見なく」なる。そしてその結果、住んでいても悪い部分が全く気にならない。――という話などは、まるでチャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』(ハヤカワ文庫SF)の元ネタではないかと思ってしまった。(SF小説に興味のない方には、何の話かさっぱり分からない小ネタですいません。/笑)
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『自然の家』 フランク・ロイド・ライト ちくま学芸文庫

 建築分野にはとんと疎い自分でもライトの名前くらいは知っている。桂離宮を絶賛したというエピソードは聞いたことがあるし、彼の手による帝国ホテルを犬山市にある明治村まで観に行ったことも。でも恥ずかしながらそれ以上の事はよく知らない。(注:あれっ、桂離宮を褒めたのはもしかしてブルーノ・タウトだったっけ?/汗。 ま、自分の知識なんてそんなもんです。 ^^;)
 これまでの印象としては「なんだか平たい家を沢山作った人」という程度(失礼!)。正直なところどんな建築家だったのか見当すらつかない。
 というわけで本書は、ライトご本人が自らの建築理念を率直に語った、自分のような素人には全くもってありがたい一冊。(とはいえ「アメリカの建築の流れを分かりやすくまとめた入門書」というわけでもないので、そのあたりはライトの文章から何となく読みとっただけ。もしかして的外れなところがあったらご教授頂ければと、厚かましいお願いまでしたりして。/笑)
 ライトの建築理念については、結論から言えば究極の目標は表題のとおり「自然の家」ということ。もっと具体的には周囲環境(特にそれが建てられた大地)と一体化した家ということのようだ。ちなみに彼がこよなく愛する風景はアメリカの郊外に広がる「大平原(プレーリー)」。従って大平原からそのまま持ち上がったような平たい家こそが、彼の建築の持ち味となっている。自分の印象もまんざら間違ってはいなかったようだ。(笑)

 本書を読んでいると、かなりのページにおいて当時のアメリカ住宅に対する非難がされている。ライトが建築設計の仕事を始めた19世紀後半は、ヨーロッパの「新古典主義建築(*)」を真似た、いかにも大時代風なものが主流だったようで、窓が小さいため部屋の風通しが悪くて照度も不足していたとのこと。これを「住まい手にとって最も住みやすい家を作る」という形に変えたのが彼の偉いところ。いわば建築家の意識改革だったわけだ。
 ところで「窓が小さい」というのは、もしかしてアメリカの伝統的な住宅が「2×4(ツーバイフォー)」方式だからなのかな。2×4住宅では建物の構造的な強度を受け持つのは、柱ではなく住宅の四方を構成する外壁。従って“まずは壁ありき”であって、そこに穴をあけて窓をとりつける形になる。開口部は建物強度の関係から必要最低限の大きさになるので小さいし風通しも悪くなる。対する日本の伝統的な「木造軸組み工法」では、柱を立ててその隙間を土壁で埋める形が一般的。埋めていない部分は全て窓(開口部)として残ることになる。柱の間隔を広げれば旧家のように巨大な縁側を作ることだって可能だし、基本的に換気や光環境は抜群に良い。(その代わり冬場の温熱環境は劣悪になりやすい。)

   *…「新古典主義」といわれてもピンとこないのだけれど、Wikiで調べてみたらローマ
     や古代ギリシャの建築様式を真似た石造りの建物のことみたい。ホワイトハウスや
     国会議事堂みたいなもののようだが、それを真似た個人の住宅と言われても余計に
     分からなかった。

 それでもライトが目指しているのは、どうやら日本家屋に近い開放感を持った住まいのように思える。(ただしもっと工夫が施されていて、実際のしつらえや住みやすさは日本の家屋とは全く違う感じではあるが。)冒頭にも書いたように、彼が創ろうとしたのは、大地からそのまま立ち上がったような、そこに住む人をまるで包み込むような快適さをもった住宅。
 具体的な設計に際しては、鋼鉄やガラスやプラスチックといった「新素材」を積極的に用いながらも、石や木材や煉瓦といった従来素材も存分に活用する。いやむしろ特定素材に対するこだわりはなく、全ての素材の「声」に素直に耳を傾けるのが彼のスタイル。ガラスはガラスらしく煉瓦は煉瓦らしく、それらに「内在する様式」(特性)を住宅に活かしきる手法だ。最終的にライトが目標とするのは、素材の持ち味を生かすことで見えてくる自然な秩序と、建築家の意思が織りなす「建物と一体不可分となった装飾(パターン)」あるいは「(それ自体が)詩の水準にまで高められた建物」なのだ。
 彼が最も嫌うのは、ハリボテの不細工な構造躯体にとってつけたような装飾を施した個人住宅や、もしくはチューダーやローマの様式を真似た公共建築。「ホテルはホテルらしく」「銀行は銀行らしく」をモットーに、不必要な権威主義を否定した。「構造それ自体に自然なパターンを与える想像力」こそが建築家に求められるスキルなのだとライトは言う。(彼が近代建築のパイオニアのひとりと呼ばれるのは、ここに所以がある。)
 たしかに写真で見る限りでは、ライトが設計した住宅は開放的で機能的な空間設計がなされているようだ。(**)作業動線を考慮したキッチン設計も大変好ましい。子供の頃に『奥さまは魔女』などのアメリカ製TVドラマで憧れた、豊かな近代生活の原形がここにあるといえる。

  **…ただし吹き抜け空間は冷風が吹き下ろすので温熱環境は悪そう。ライトに抜け落ち
     ているものがあるとすれば、通風や換気設計を含めた温熱環境やエネルギーの最適
     な利用に関する知見なのだろうが、これは時代背景を考えると致し方ないこと。

 ライトの建築のキーワードを簡単にまとめるなら「機能美」と「統合性」。本書には「有機的住宅」とか「造形性」とかいう言葉も頻出するが、要するに「シンプルモダン」といったところだ。(無印良品のコンセプトに割と近い気が。)そしてこれらの理念を実現したのが、彼独特のデザインである「大地に水平に作られた大きくて平たい屋根(陸屋根)」と、「角まで大きくとられたガラス窓」というわけ。彼の好きな風景の名に因み「プレイリー(大平原)住宅」と言うらしい。
 外観は水平直角のデザインと直線を多用した近未来風に仕上がっていて、それでいて周囲の自然環境に妙に溶け込んだカッコ良さを実現している。著者によればあまりのモダンさに当時はかなり奇異な目で見られたようだが、さもありなん(笑)。他にも床暖房や間接照明にリビングダイニングなど、現在では当たり前のようになっている住宅の間取りや設備も彼が初めて取り入れたものらしい。
 ただしひとつ注意が必要なのは、これらの住宅はあくまでもアメリカの中西部に広がる大平原の風土に最も適したデザインだという点。彼自身も述べているように、別な気候に対してはまた別のアプローチが必要なのだ。当時のアメリカでもそのあたりを理解せず、見た目だけを模倣した住宅が乱立したようだが、ライトはそれらを痛烈に批判している。ましてや日本など全く違う気候風土の国においては言わずもがな。

 なお、なぜ彼が見渡す限り遠く広がるアメリカ大平原の地平線に魅かれ、自らが設計する住宅の「規範」としたのかについては、おそらくイーフー・トゥアン(『トポフィリア』『空間の経験』)やエドワード・レルフ(『場所の現象学』)といった地理学の論客たちによる、“ある種の”風景や土地に対する愛着の考察に入り込むことになることになるだろう。「お気らく読書」の範疇を遥かに超えることになりそうなので、とりあえず今回は止めておきたい。
 まとめると、それが建てられた自然空間(土地)と一体化し統合される、有機的な(自然な)家の実現。そしてその家によって、住む人の暮らしぶりや文化も周囲の自然と一体になれる――というのが、ライトの目指す「建築の理想」といえそうだ。

<追記>
 ずっと頭に引っかかっていた「新古典主義の住宅」に対する疑問が、訳者の富岡義人氏による解説を読んで氷解。ライトが目の敵にしていた古典主義的な住宅と、彼の手によるプレイリー住宅の違いが、イラスト入りで詳しく説明されていた。先に読んでおけばよかった。やっぱり開拓時代の雰囲気の住宅のようだ。これから読まれる方は、本文を読む前に末尾のイラストぐらいはざっと目を通しておいた方が良いと思うよ。

『冥途・旅順入城式』 内田百 岩波文庫

 ご存じ百鬼園先生の筆による幻想物語集。元は別々の出版だった『冥途』と『旅順入城式』がカップリングされていてお買い得。彼の恩師・夏目漱石の書いた『夢十夜』のごとき掌編が全部で47話収録されていて、まさに自分の“大好物”。岩波文庫版は現代仮名遣いなのでとても読みやすいので、本来ならガシガシ読み進むところ。ところが何故かそうはいかず、続けて読むことが出来なかった。

 「コレハ一体ドウシタコトカ?」

 ちょっと焦って(笑)、その理由を考えてみたところ、ひとつだけ思い当ることが。それは著者の幻想譚に共通する特徴というか、本書全体に通底音のように響くモチーフである「不安」に関することだった。
 全体を通して読むことで見えてくるのは、「怪奇」と「不可思議」と「憐憫」といったイメージ。そして何より強烈なのが、この「不安」という要素に思える。なお、ここで描かれている「不安」とは、子供の頃に見知らぬ場所で迷子になったり或いは母親から無理やり引き離された時に感じるような、幼少期に特有のものとは違う。もしそのようなものであれば、(例えば少年探偵団と怪人二十面相の物語や、知久寿焼の曲(*)の世界のように、)大人になってからノスタルジーにまで昇華されるのであろうが...。

   *…「さよなら人類」などで有名なバンド“たま”の元メンバー。
     代表作は「らんちう」や「夕暮れ時のさびしさに」など。

 百の「不安」というのはそのような類のものではなくて、大人が悪夢に見るような「不安」と言う方がしっくりくる感じ。例えば「周囲から感じる悪意」とか、「自らの“罪”(しかも身に覚えのない!)が発覚することへの恐怖」だとか ――そういった「不条理」に対する不安と恐怖を核に据えたのが、彼の幻想譚の特徴なのではなかろうか。(以前に読んだ「サラサーテの盤」なども、たしか同じような印象。)
 そんな訳だから、本書も読んでいて“居心地”がとても悪い。言うなれば脳内イメージであることを自覚している「幻想」より、むしろ「自分の感覚すら信用できない」という不安に苛まれる「幻覚」の領域に近い。
 そして(作者をモデルにした)語り手自身がその幻覚の当事者であるということは、これすなわちP・K・ディックの世界に繋がるものが。もしかして本書中の「山高帽子」「映像」「菊」「矮人」といった神経症を扱った作品群と、ディックの長篇『暗闇のスキャナー』あたりを並べて論じてみたら、結構面白いかも知れない。

<追記>
 本書で特に気に入った作品はざっと以下の通り。
  「山東京伝」…江戸時代の戯作者・山東京伝に弟子入りする話
  「件」   …ふと気が付くと人面牛体の化け物「件(くだん)」になっていた話
  「蜥蜴」  …不気味な見世物小屋に熊を見に行く話
  「疱瘡神」 …疱瘡にかかった妻をおぶって歩く話
  「映像」  …当事者の視点から描いた神経症の話
  「流渦」  …口の中に狼のような毛が生えた男の話
 どれも怖いよ(笑)。

『十蘭錬金術』 久生十蘭 河出文庫

 河出書房が得意とする、文庫オリジナル編集による久生十蘭の短篇集。今回は実際の事件や歴史上のエピソードに着想を得た感じの作品が多い。尤もこの作者のこと、どこまでが事実でどこからが創作なのか、虚々実々入り乱れていて良く分からない。(このあたりの愉しみ方は、山田風太郎の明治開化物にも似たところがあるかも。)
 冒頭の小編「彼を殺したが……」の不気味さにはいきなり驚かされる。他には、二人の男の複雑に絡み合った運命を描いて先ほどの山田風太郎を唸らせたという「勝負」や、太平洋戦争の南方を舞台にした「爆風」、それに「公用方秘録二件」に収録された二作品のうち「犬」も気に入った。(*)

   *…「爆風」が終戦前に発表されたというのは驚き。解説にもあったが、よく当局が
     許したものだと思う。また「犬」の方は、幕末に仏蘭西使節が連れてきた白犬を
     巡る、互いの国の威信をかけた駆け引きの話。

 例によって途中で“ブツリ”と切られるものとか、色んな種類の作品が入り混じってはいるが、どれも最後まで一気に読ませる力は相変わらず大したもの。もやもやした気分に“うっちゃりをかける”(by開高健)には、久生十蘭はなかなか向いている作家とみた。今回は私事で色々なことが重なったが、そんな時の憂さを晴らすという意味では、(翻訳家の西崎憲氏にお教え頂いた「怪奇小説が持つ“鎮静作用”」とともに)大変に活用させてもらった。なかなかどうして、音楽や活字のもつ力というのは侮り難いものですぞ、皆さん(笑)。

私事ですが

 昨日、午後二時ごろに、この春から下宿して東京の大学に進学した子供から「自転車でこけて骨折した」という連絡。交差点で派手に転んで大腿骨を骨折したとのことで、何と救急車で搬送されながらの電話だった。
 慌ててとるものもとりあえず新幹線に飛び乗ったのだが、そのときに車中で読んでいたのは翻訳家の鴻巣友季子氏が書いた『孕むことば』(中公文庫)というエッセイ。
 この本、生まれた我が子が言葉を「発見」していく過程を通じて、人が言葉を話すという行為について深い考察をした本なのだが、我が子がまだ小さかった頃の記憶とダブらせながら読んでいた。

 病院についてのドタバタはさておき、その夜9時過ぎに子供の下宿で夜を明かそうと、やっとたどり着いたところに今度は「祖母が亡くなった」との実家からの連絡。(祖母は102歳になる長寿だったので、いつかはとは思っていたのだがまさかこのような日に重なるとは...。)

 本日、朝から必要な荷物を届けたり入院手続きの続きをして、ひと段落ついたところで今度は名古屋にとんぼ返り。通夜に参列してきた。
 僧侶の読経が流れる中、1歳ほどの幼子が訳も分からず大声をあげている様子をみて、なんだか分からないが「この世界を次の世代に続けていくのが、生き物としての自分の役割なんだなあ」と妙に納得してしまった。

 というわけで、これから1週間ほどは子供の手術などでブログ更新が滞るかもしれませんので、あらかじめお断りしておきます。(先にあげた『行動経済学』の記事は事前に書いてあったものです。)
 それでは、またいつもの調子でお会いしましょう。

『行動経済学』 友野典男 光文社新書

 そうそう、こういう類の経済学がないものかと前から探していたのだ、やっぱりあるんだねえ。自分の不勉強を恥じる。―― と、のっけから突然こんな話をしてもさっぱり分からないですね、申し訳ない。(笑)

 以前から経済学に興味はあるのだが、とんと疎い。巷に溢れているビジネス絡みの解説書はちっとも面白そうじゃないし、かといって分厚い専門書を読んで一から勉強する気力もないし…。何せ、根が面倒くさがりなもので。(^^;)
 今の日本で主流になっている経済学は、一時期もてはやされた竹中平蔵の「新自由主義」を始めとして、ノーベル賞をとったアメリカの経済学者たちが数式を駆使して作り上げたもの――というイメージが自分にはある。数式を駆使して、高度で且つ美しい理論が展開されているのだが、その大元にあるのは実は「経済人(ホモ・エコノミカス)」という概念であるのをご存じだろうか。
 本書の言葉を借りれば、これは「認知や判断に関して完全に合理的であって意思は固く、しかももっぱら自分の物質的利益のみを追求する人」のこと。自分の嗜好が明確であって常に決断が揺らぐことなく、それに基づいて自分の効用(≒満足)が最も大きくなる選択肢を必ず選ぶ。その実行のためには自分の欲望を完全にコントロールできる。けれどもその半面で、極めて利己的で利他的な判断は全くせず、他人を顧みず自らの利益だけを追求し続ける。――そんな万能の神と冷酷な悪魔を一緒にしたような人物が現実にいるだろうか。 以前、佐和隆光氏の『経済学とは何だろうか』(岩波新書)を読んだ時、アメリカ経済学の根底にあるのが、この「経済人モデル」だという事を知ってから、持っていた憧れが一気に萎んでしまった。現役の経済学者で好いと思えるのは唯一、2008年にノーベル経済学賞をとったP・クルーグマン教授くらい。
 「全知全能の神」のような理想的な判断と、同時に血も涙も無い悪魔的な価値観を持つ人間がモデルの経済理論なんて、いかにも胡散臭いよね。哲学と同じで、実験による検証が出来ない学問の場合、自分で納得感が得られるかどうかが一番重要。まあ、心理的な要因や不合理な判断を加えてしまうと、“揺らぎ”が大きすぎて理論にならないのもわかるし、昔は他に「適当」なモデルが存在しなかったのも事実。止むを得ないところはあるけどね。

 ところが先日、ふとしたことから「行動経済学」という経済学の研究分野があることを知ってびっくり。まさに自分が疑問に感じていた上記の点にメスを入れようとするものだったのだ。完全にランダム(でたらめ)な判断をするわけではないけれど、完全に合理的&自制的な判断でもない。そこそこ合理的な判断をする一方で、間違えたり利他的な行動もする。それが現実の人間というもの。(*)
 そんな「実際の人間行動」を極力取り入れて経済理論を構築していこうというのが、1979年に生まれた「行動経済学」なのだそうだ。これら実際の人間行動を盛り込むためには、認知心理学や社会学、行動生態学に脳神経科学などなど、とても広範囲な学問との学際的な研究が不可欠になる。まさに自分が最も好きなタイプの学問というわけ。(笑)

   *…専門用語では「限定的合理性」と呼ぶらしい。

 本書は少し前の2006年に出版された本なのだが、行動経済学という新しい学問の基礎がきちんと抑えてあって、入門書として良くできている。本の帯の惹句によれば、どうやらロングセラーになっているようだ。
さっそく買ってきて一読したところ、期待通りに非常に面白かった。
 本書の結論を簡単に言えば、「経済活動には人間の感情による様々なバイアスがかかっている」ということ。そしてどのようなバイアスがかかっているのかについて、学際研究を通じてこと細かく具体的に検証していくのが行動経済学の目的なのだ。また、経済活動とはちょっと違うかも知れないが、たとえば東日本大震災の瓦礫処分を拒否する他の自治体の住民の行動や、消費税の増税論議に感情的な拒否反応を示すといった行動心理についても、ほぼ一通りは説明が付けられる気がする。対象にできる射程範囲はかなり広そう。以下、自分の覚書も兼ねて、本書で示されている「バイアス」の具体的な中身についていくつか紹介してみたい。(聞き慣れない専門用語が沢山でてくるがご容赦を。)

 まずは「プロスペクト理論」。これには大きく分けて「①価値」に関するバイアスと「②(発生の)確率」に関するバイアスがあるらしい。まずは「①価値」(正確には「価値観数」)の方から説明する。これには幾つかの特徴があるそうで、ひとつ目は「参照点依存性」というもの。「効用(≒価値)」は絶対量ではなく、評価の基準となる点(参照点)からの変化量で判断されるということだ。病気になって初めて健康のありがたみが分かるとか、高給取りと貧乏人では同じ1万円でも価値が違うという感じかな。
 もうひとつは「感応度逓減性」。損も得もどちらの場合も値が小さいうちは変化に対して敏感だが、値が大きくなると鈍感になっていくというものだ。(むかしライブドア社長だったころの堀江隆文が、金がある程度儲かると実感が湧かなくなると言っていたのを思い出した。)最後の特徴は「損失回避性」。これは簡単で、ある額を損することは同じ額を得する場合よりも強く効いてくるというもの。たしかに1,000円拾うよりも1,000円を落す方がショックは大きいものね。自分の経験に照らし合わせてみてどれも納得できる。
 もうひとつの「②確率」については、正確には「確率加重関数の偏り」という。発生の確率が小さい事象は過大評価され(例:BSEによる牛肉不買や放射能汚染に対する過剰反応)、大きい事象は過小評価される傾向(例:自分が癌や心臓病にかかる確率を低く見積もる)にあること。また、発生確率が1(=確実なこと)は特別に重要視する傾向もあるらしい。これって自分もよくやるように、「ポイントカード」が使える店で買い物をしてしまう心理が当てはまりそう。(笑)

 以上、まとめると次のような形に整理できる。
 ■利得を得られる確率が中~高の事象に対しては極力リスクを回避、つまり多少儲けが少な
  くても当たる確率が高い方を選ぶ。(その最たるものが微々たるポイント制に魅かれる
  心理。)
 ■利得を得られる確率が小の事象に対してはリスクを追求、つまりイチかバチかに賭ける。
  (例:当選確率が低いのに宝くじを買ってしまう心理。)
反対に
 ■損失を被る確率が中~高の事象に対してはリスクを追求、つまり確実に一定額徴収される
  より、ある確率で回避できる代わりにあたると沢山とられる方を選ぶ。
  (どうせなら“ダメモト”という心理?)
■損失を被る確率が小の事象に対してはリスクを回避、つまり極めて低い確率であっても、
 万が一にも当たるのを避ける。(例:さまざまな風評被害)

 本書には、他にも色々なキーワードが出てくる。例えば「保有効果」。簡単にいえば、ちょっとでも自分のものになったら、自分のものじゃないものに比べて執着心が湧くというものだ。これって「せっかくお金を出して買ったのだから、多少は不満があっても使い続けよう」といった、ケチケチ心理(失礼!)の一種かと思っていたのだが、実はかなり深い理由があるみたい。自分のものに対する「愛着」というのもそうだが、もらって僅か5分でも同じ効果が見られるようなので、別の心理も働いていると思われる。
 もしかすると、それは生物が生き残るための戦略だったんじゃないかという気もするな。今は取り敢えず生きてるんだから、「もっと良くなるから変えよう」といわれてもよほど良くなる効果が無けりゃ、失いリスクを高くみつもってしまったり。逆に今より悪くなる事にはすごい拒否反応がでてしまったり…。
 ま、いかなる理由にせよ既得権益に対する愛着は予想以上に強いということ。ちなみにこれを「現状維持バイアス」と呼ぶらしいが、これを使えば、日本の家電製品が国際社会でガラパゴス化している理由も、もしかして説明出来るのかな?(いちど便利になれると手放せない。でも使った事が無い他国では、そんな余分な機能を付けて値段を上げるくらいなら機能は要らないとか。)こうして「お客様は神様です」がどんどんエスカレートして、世界一甘やかされた消費者になってしまった挙句の果てがガラパゴスだったのかも。

 もうひとつのキーワードは「フレーミング効果」。これは何かと言うと、アンケートにおいて設問の仕方で回答が変わるように、初期値の取り方如何で人々の意思決定が影響を受けること。(フレームとは「問題が表現される方法」の意味。)
 例えば「生存率が90%」というのと、「死亡率が10%」というのでは効いた印象が違うので答えが変わってくる。前者は利得の取得、後者は損失のリスク回避が主眼に回答されるためだ。まさに「ものは言いよう」というわけだが、これは先ほども述べたように「参照点」の位置が変わる為のようだ。プラスαのサービスでつけてた利得が無くなるのは致し方ないと思えるが、標準的につけてた仕様を無くすのは「損した気分がするから駄目。また「損失額を減らすためにやむを得ず」は許されるけど、さらに得を得ようという欲が見え隠れすると拒否反応が激しくなる。(東京電力の値上げに対する反発はまさにその心理。)
 まとめると「心情的に重要視されるのは絶対値ではなくて参照点からの移動量。(もちろん利得か損失かが重要なポイント)、だから言い方で印象がガラリと変わる」ということだ。
 他にも「時間が価値判断に与える影響」とか(今の1万円の方が将来もらえる1万円より価値が大きくなる)とか、「選択の幅が大きすぎると人は却って選べなくなるし、その中から一つを選んだときの満足度も下がる」(6種類と24種類のジャムを選ばせる実験)とか、思わず納得するような話が次々と出てきて、まるで「○○あるある」の世界。どんどん面白くなる。

 脳科学と連携して研究が進んでいるので、「fMRT(機能的磁気共鳴画像法)」および「PET(陽電子断層撮影法)」をもちいて先述の行動と脳の活動部位の相関を調べたり、はては以前読んだ「ソマティックマーカー仮説」にまで言及されていて驚く。これまで挙げてきたような経済行動が、実は脳の思考形態から合理的に説明できるとは。経済学がここまで来ていたとは、恥ずかしながら不勉強で全く知らなかった。いやあ、お見それしました。
 少しだけさわりを紹介すると…。
 将来の効用の予測(決定効用)は、腹側線条体の側座核(報酬系とよばれる“快”の感覚を生み出す部位の一部)が活性化し、そして実際に利得を得た場合は前頭前内側皮質という部位が活性化する。また、自分で稼いだ貨幣を消費する場合は、他から労せずして獲得した貨幣を使う時よりも、線状体という報酬系の一部がはるかに活発に活動する事も分かってきたそうだ。まさに自分で稼いだ金は尊くて、逆に「悪銭は身につかず」というのは正しかったというわけ。
 また、将来に関するリスク等の状況が曖昧な場合は、眼窩前皮質という感情を司る部位と扁桃体という不安感に関係する部位が活性化し、たとえ大きな利得が得られる「可能性」があったとしても、それによって喚起されるはずの「快」が相殺されていることも分かってきた。
 近い将来の小さい利得と遠い将来の大きい利得に関しては、感情と認知(理性)の対立や葛藤が生じていて、感情が勝てば前者が、認知が勝てば後者が選ばれることになるそうだ。まさに、ダイエットや禁煙が失敗するパターンそのものといえる。(**)

  **…他にも、裏切り者への処罰を行ったり、逆に互いに報酬を得られる(互報酬)よう
     な協力行動をした場合などは、いずれも「快」の部位が活性しているとか、さらに
     協力行動にはオキシトシンというホルモンが関係しているとかも。このホルモンは
     副交感神経を刺激してドーパミンの放出を促し、協力関係によって「快」を生じさ
     せることで他者に対する信頼行動を促すホルモンだそう。

 まだまだ面白い話が載っているが、こんな調子で書いていると終わらなくなるので、これくらいにしておこう。この「行動経済学」というジャンル、まだしばらくは愉しめそうだ。

<追記>
 本書を読んでいて驚いたことがあった。行動経済学がサンタフェ研究所で研究されているとの記述があったのだ。サンタフェ研究所といえば、“カオス理論”華やかりし頃に、よくあちこちで取り上げられていたアメリカの研究所。その後まったく噂を聞かなくなってしまったが、まさか行動経済学に取り組んでいたとは。
 懐かしい昔のクラスの同級生に思わぬところで出会ったような感じ。こういうのは得した気分になれてちょっと嬉しいものだね。(笑)

『人間について』 ボーヴォワール 新潮文庫

 著者は実存主義の哲学者サルトルのパートナーで、フェミニズム論の古典と言われる『第二の性』を書いた人物。てっきりその手の観点から書かれた本なのだろうと思っていたのだが、読んでみたら全然違った。本書はジェンダーではなく、サルトルが得意とする実存哲学の視点で書かれた人間論。「自分」すなわち現実に生きている存在(=実存)が体験することこそが「世界」であるという、実存主義の見解を軸にして、人はどのように生きるべきかについて書いたもの。今ならさしずめ「自分探し」とでもいう感じか。
 ポストモダン思想の洗礼を受けた世代のひとりとしては、なんだか面映ゆいようなむず痒いような感じが何ともはや。(あ、自分が共感できるかどうか別として、真面目に考察した本なので好感は持てます。念のため。/笑)それにしても、この本の思想的な限界はそのままサルトルの思想の限界でもあったのだなー、なんて考えてみたりするのもなかなか興味深い。以下、本書で著者が述べていることの骨子について、簡単にまとめてみよう。(ただし自分流のかなり乱暴なまとめ方なので、多少ずれているところがあってもどうかご容赦を。)

 ■単独で成り立っている「自分」というものは存在しない。誰しも周囲(他人)との関係性
  によって逆照射され、初めて「自分」を作り出すことが出来る。
 ■「他人」という存在は自分から見ると、(自分の言う通りに出来ないという意味で)
  「絶対的」でありすなわち「完全無欠」な存在に等しいといえる。「自分」は「他人」
  が欲する事との関係性によって、初めて自分の要求が何かを知ることが出来る。
 ■極言すれば「自分」は「他人」の要求の実現に奉仕することでしか、自分の理想を突き
  詰めることは出来ない。ただし、それ(他人の要求を実現すること)を自分が心から
  欲する限りにおいてである。
 ■あくまでも「自分」の決断は「他人」によって強制されたものではなく、すべて自分の
  自由意思によるものである。(それが本来の意味での「自由」ということ。)
 ■しかし何でもかんでも自分の自由意思(自由)によるものであっては、周囲との関係性は
  意味をなさず、冒頭の話に逆戻りしてしまう。従って、「他人」への奉仕と「自分」の
  「自由」との両極端をいったりきたりして、そのつど決断していくのが人間である。
 ■それでは「決断」は何に対して行うべきなのか? それは「計画(目標)」に対して。
  先の前提に立てば「計画」は「自分」の為ではなく、あくまで「他人」の為に立てられる
  ものであるはず。しかしそれを突き詰めると、対象が際限なく広がっていき、全人類の
  ための「計画」になってしまうのでやはり無意味。(かといって「自分」ひとりの為に
  立てる「計画」では、何のための計画か判らない。)結局ここでも行ったり来たりが始ま
  ってしまう。
 ■この矛盾を矛盾のまま引き受けるのが人間であり、世界を生きていく道なのだ。

 ざっとこんな感じだが、どうだろう。かなりよく考えられているとは思うのだけれど、自分にしてみると何だか煮え切らない感じが残る。いちばん引っかかるのは、自分自身が本書に書かれているように感じながら生きてきた事は無いという点。(そういってしまうと実もふたもないが。/苦笑)
 哲学は客観的な検証ができない学問だけに、納得感が得られるかどうかが生命線といえる。だからこそ納得感がない主張は、詭弁のような気がしてきてしまうのダ。

 とはいいながらも、あちこちの章で繰り広げられる考察には結構面白いものも。たとえば上に書いたように「他人(つまり世界)」との関係性でしか自分は存在し得ないという考え方は、裏返せば自分が世界そのものであると言っているに等しいとも言える。これは唯我論というか青臭いというか、今で言うところの所謂「中二病」にも通じるものが。(笑)
 また、神についての次のような考察もなかなか好かった。「神が存在するのであれば、それは完璧な存在であるはず。完璧であるが故に、この世のあらゆるものが神にとって何らかの意味あるものといえる。従って人間がどんな事をしようが、それは全て神の意思にかなったことと言える。」
 ここから人間の「自由」についての考察へと繋がっていくのだが、これはつまり神なんていようがいまいが結果は同じといっているに等しいのではないかな。こんな由無し事をつらつらと考えながら、およそ150ページの小冊子、最後まで愉しく読み終えることができた。

<追記>
 蛇足になるが折角の機会なので、冒頭で少し触れた「自分探し」について、普段思っている事を書きとめておきたい。
 「自分探し」という言葉を聞くと、いつも「なんだかなあ」と思ってしまう。自分を幾らさがしたって何も見つからないだろうに、と。「自分」というものは玉ネギやラッキョウと同じであって、皮を剥いていくと最後には何も残らない。つまり果物の芯のごとき、確固とした「自分」などというものは元から存在しないのではなかろうか―― そんな気がしている。
 それでは芯も無いのに人はどうやって「自分」を作り上げていくというのか。それは小さな子供が初めて立ちあがる時と同じ。子供はまず最初に身近なもの(例えばテーブルなど)につかまり、それを支えにして立ちあがるはず。同様に「自分」の芯を作る時にも、まずは身近な考え方や価値観に寄りかかり(自分を投影し)、それを規範とすることで「自分」というものを作り上げるのではなかろうか。(それは父親や母親であったり、スポーツ選手でもマンガの主人公でも、何でも構わない。)また、成長につれて自己投影する対象は変わったり増えていき、それによって複雑で高度な自己を作り上げていくのだ。
 ところでマーケティング手法には心理学の「ペルソナ(仮面)」を応用した「ペルソナマーケティング」というものがある。まさに人という存在は「○○としての自分」という仮面をいくつも持っていて、場面に応じて様々な社会的役割(仮面)を付け替えることで「自分」を演じていると言って良い。こうして考えてみると、極論すれば「自分(自我)」というもの自体が、デカルトによって作り出され、その後の西洋で流布されてきた単なる“神話”もしくは方便に過ぎないとも言えるのではなかろうか。(*)

   *…実はこのあたりのテーマはSFが結構得意とするところだ。例えばJ・ヴァンスと
     いう作家が書いた『月の蛾』という中篇などまさにそう。他にもB・J・ベイリー
     の長篇『カエアンの聖衣』や、日本人では伊藤計劃の『ハーモニー』にも同じよう
     なアイデアが取り上げられている。探せばまだまだ沢山ありそう。

 そんな中でも、誰もがいちばん早く身につけることが出来、その後の自己を作り上げる上でもっとも強力な拠り所になるのが「男(もしくは女)としての自分」、すなわち性差/ジェンダーだといえるだろう。(だからこそ性同一性障碍というのは、極めて深刻なアイデンティティの阻害要因になるのだとも。)
 全てを抱擁して受け入れる優しい存在の“母性”と、全てを厳しく分割するとともに脅威から家族を守る強い存在の“父性”。これらふたつのイメージのいずれかに自分を同一化することで、子供は最初の自我を作り上げていくのではないか。そしてそれを核にして、まるで雪玉を大きくするように「日本人という自分」や「社会の成員としての自分」、もしくは上司であり部下である「中間管理職という自分」や、親や子供あるいは妻と夫といった「家族の一員としての自分」を積み重ねていくことで、人は自我を形成していくのだ。
 そう考えると「自分」というのは唯一つの確固としたものではなく、それら様々な価値観の総体と考えるのが自然ではなかろうか。つまり決して自分の内側を見つめ続ける事で見つけられる類のものではないのだ。外との繋がりも無いのに確固とした自分を持てる筈もなく、もしもそんなものを持っていると主張する人がいたらそれは単なる妄想に過ぎないはず。(でなければ神にも等しいほどの天才か。)つまり「自分」とは「自分探し」をするのを止めて世界と対峙した時に初めて現れてくるものなんじゃないだろうか。

<追記2>
 蛇足ついでに。
 社会は様々な価値観がモザイクのように組み合わさり、時に応じて組み換えられて出来あがる織物のようなもの。だとすれば「汝が良いと思う事を(人に)成せ」というキリスト教的な考えは、自分の価値観(のみ)を正統化して他者に強制することに繋がるわけで、正直いうとちょっと虫が好かない。自分にとってはそれよりも「自分がされて嫌な事は人にするな」という仏教的な価値観の方が、よほど楽に構えることが出来る。
 西洋的な「自我」のぶつかり合いではなく、東洋的な「自然」との一体 ――すなわち周囲との関係で自然に浮かび上がってくる「受動的な自我(?)」とでもいうものの方に魅かれてしまうのは、自分が東洋に生まれ育ったからなのだろうか。たったひとつの貧弱な自我にしがみつくよりも、色んな「自分」を場面に応じて置き換えることが出来るなら、その方がよほど気持ちよく人生を生きていける気がするな。ねえ、ボーヴォワールさん?

 実存主義に始まって、最後はなんだか変な話になってしまった。(笑)

2012年5月の読了本

『魔都』 久生十蘭 朝日文庫
  *著者の最高傑作とも言われる長篇小説。昭和9年の帝都を舞台にした、広義の推理小説
   とでもいえば良いのかな。色々なエピソードが入り混じって同時進行する作風は、
   ウイングフィールドの一連のフロスト警部シリーズを連想した。教養文庫・朝日文庫版
   はともに絶版なので入手するのに苦労したが、頑張って捜した甲斐はあった。
『セックス神話解体新書』 小倉千加子 ちくま文庫
  *ジェンダー論の解説本。『第二の性』よりはよほど読みやすくて好い。本書の主張の全
   てに手放しで賛同するわけではないけれど、自分が持つ「常識(と言う名の偏見)」
   に対する一つのアンチテーゼとすれば、かなり刺激的で面白い。日本語の「性」という
   言葉に3つの意味が混じっているという話は面白かった。まず生物学的・肉体的な性差
   である「セックス」。次いで社会・文化的に作られた、(いわゆる「男らしさ」「女ら
   しさ」といった)性差である「ジェンダー」。そして最後がセックスとジェンダーで
   出来あがっている人間が、(同性も含めた)他者の性別に対して抱く欲望と充足を巡る
   あらゆる行動、「セクシャリティ」。日本語ではこれらすべてが「性」の一言に込めら
   れているのだそう。この知識をもつだけでも考え方は変わる気がするな。
『オセロー』 シェイクスピア 新潮文庫
  *福田恒存訳。そのうち他の訳文と比べてみるのも面白いかも。
『もの食う人びと』 辺見庸 角川文庫
  *世界中を回って様々な「ものを食べる」シーンを取材したノンフィクション。著者は
   ソマリアやチェルノブイリなど過酷な状況で人々が「生きんがために食べる姿」を
   ひたすら“観る”ことに徹している。所詮自分は部外者に過ぎず、当事者たる彼らの心
   の奥底には入り込めない事を承知の上で、それでも感じたままに懸命に表現しようと
   する態度がすがすがしい。開高健の『ベトナム戦記』や『サイゴンの十字架』といった
   ルポルタージュや、松本仁一の『アフリカを食べる/アフリカで寝る』によく似た感じ
   と言えば良いか。スタンスは開高ほど文学寄りでもなく松本ほど社会派でもなく、丁度
   中間的な位置づけの印象。著者がまだ共同通信社に勤めていた頃に書かれた文章との事
   で、これだけの水準のものを毎週配信していたというのは大したものだ。
『ムーミン谷の冬』 トーベ・ヤンソン 講談社文庫
  *正統的な児童文学。原作版ムーミンは大人でも結構嵌まるね。
『私の少年時代』 澁澤龍彦 河出文庫
  *文庫オリジナル編集版のエッセイ集で、今回のテーマは子供時代のあれこれ。買って
   帰ってから裏表紙を見たら、著者の少年時代を書いたエッセイ『狐のだんぶくろ』の
   殆どを収録――ということが書いてあったのでちょっと焦る。さっそく『狐...』を棚
   から引っ張り出して調べてみた。結果、こちらに収録されていなかったのは「蘆原将軍
   のいる学校」「まぼろしのトンネル」「花電車のことなど」「東京大空襲」「帝都を
   あとに颯爽と」「戦前戦後、私の銀座」「私の日本橋」の6篇。一方で本書にしか収録
   されていないのは、「ある雨の日」「ツェッペリン幻想」「カフスボタン」など小編も
   含めて36篇という按配。というわけで、既に『狐のだんぶくろ』を持っている人が買っ
   ても別に損するわけではなかった。同じ文章をもう一度読んだって面白いしね。
   (あれっ、これってまんまと出版社の術中にはまってる?/笑)
『北越雪譜』 鈴木牧之 岩波文庫
  *江戸末期に越後(今の新潟県)は魚沼に住んでいた人物が記す、北国の冬の暮らしぶり
   についての本。
『完本 酔郷譚』 倉橋由美子 河出文庫
  *酒場とそこで供される「魔酒」を題材にした幻想小説。著者の遺作となった。
『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』水木悦子・赤塚りえ子・手塚るみ子 文春文庫
  *水木しげる、赤塚不二夫、手塚治虫の娘3人による「ガールズトーク」。いくつかの
   テーマが錯綜しつつ話は弾む。まずは「父と娘」という話題。娘からみた父親の家族観
   や女性観などについても容赦ない。次にお約束の「有名人を親に持つ子供」としての実
   体験。他には当然「ひとりの漫画家として」という視点も。水木作品における「タナト
   ス/死」に対して手塚作品における「エロス/生の躍動」を指摘するなど、意外にしっ
   かりとした(失礼!)作家論も繰り広げられる。最後は「仕事人(プロ)」として、
   尊敬すべき人生の先達としての父親像。気楽に読み始めたのだけれど、なかなかお買い
   得な本だった。
『旅する人』 玉村豊男 中公文庫
  *人気のエッセイストによる旅のエッセイ。著者がこれまで経験した様々な旅や、「旅す
   ること」についての断章・心象スケッチからなる。モロッコ・アルジェリア・チュニジ
   アの北アフリカ3カ国をヒッチハイクで旅した話や、パリへの留学(この体験はのちに
   『パリ 旅の雑学ノート』として著者のデビュー作となった)、ツアーガイド時代、
   ニューヨークや北京やフィジーなど場所も話題もバラエティに富んでいる。
『人間について』 ボーヴォワール 新潮文庫
  *サルトルの生涯のパートナーであった著者による、実存哲学の視点での人生論。
   (『第二の性』みたいなジェンダーの視点じゃなかった。)
『ポポイ』 倉橋由美子 新潮文庫
  *元首相の自宅へのテロを決行し、自決して介錯された生首「ポポイ」と、ひょんなこと
   からそれを世話することになった元首相の孫娘「舞さん」のなんとも不思議な物語。
   先ごろ読んだ著者の遺作『酔郷譚』に出てきたメンバーが総出演していたのが、なんと
   も嬉しかった。(もっとも、こちらの方が発表は先なんだけどね。)
   いやあ面白い。もっと早くに読んでおけばよかった。
『行動経済学』 友野典男 光文社新書
  *血の通わないロボットにような「経済人」のモデルを元にして作られたものでなく、
   もっと血の通った感情的な人々による経済学の構築を目指す「行動経済学」の入門書。
   概要が簡潔にまとめてあって分かりやすい良書といえる。
『路上探偵事務所』 林丈二 講談社文庫
  *路上観察の達人による「街の変なものカタログ」。この人、本業はイラストレータなの
   だが、それよりも「面白がり屋」と言った方がいい感じ。街を歩いていて気になるモノ
   を見つけると、トコトン食いさがって調べてみるという好奇心は、自分も見習いたい
   もの。『吾輩は猫である』のモデルになった猫の子孫を探したり、怪人二十面相が隠れ
   た(であろう)場所のマンホールを特定してみたり、放し飼いの犬の後を1時間半も追い
   かけたりと、エピソードはどれも大いに愉快。面白いネタを見つけ出す“嗅覚”は何せ
   素晴らしいの一言に尽きる。
『つぶやき岩の秘密』 新田次郎 新潮文庫
  *新田次郎が書いた唯一のジュブナイル。旧日本軍が遺した財宝を巡る一人の少年の成長
   と、彼を見守る大人たちの物語。『宝島』などと同じで、中学生の頃までに読んでおき
   たい一冊。そして大きくなってから池上永一の『ぼくのキャノン』を読めば、愉しさは
   2倍だ。(笑)
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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