本屋巡回

 皆さん新刊書店にどれくらいの頻度で行かれるのだろうか。自分の場合、休日には必ず1日1回は覗くのと、たまに週の途中にも顔を出すことがあるので、概ね週に2~3回といったところ。行く店は近所の郊外型書店が多いので、あまり頻繁に寄っていると棚に変化が無くて飽きてしまうのだ。そうかといって、本屋通いに変化をもたせるため(だけ)に、さほど食指が動かない本ばかりたくさん買っても、積読本が増えていくばかりだし。
 世で本好きと言われる人の中には、毎日本屋へ行かないと気が済まないという方もお見えかもしれない。あ、逆に本好きの人は、もしかしたらリアル書店に行くよりネットで買ってしまう場合が多いのかな?
 でも実物の本を手にとって眺めるのが好きな自分としては、これからもネットではなく本物の店で買う事に拘っていきたいなあ。読書の愉しみは本を選ぶところから始まっているような気がするし。まあ何だかんだ言って、自分の場合は今くらいのペースがちょうどいい感じだ。

 本屋に行くとまず向かうのは新刊文庫のコーナー。主要な文庫の発売日は大体頭に入っているし、新刊情報も前月にはチェックを済ませて買う本を大体決めてはあるのだが、やはり店頭で実物をみると印象が違う。題名と著者名だけではピンとこなかった本でも、表紙に魅かれて裏の解説を読むと、俄然興味が湧いてくる場合があったりするから要注意だ。
 文庫の次に向かうのは新書の新刊の棚。こちらは文庫以上に中身のチェックが欠かせない。地味な題名でも意外な掘り出し物があったりするから。(それでも結構取りこぼしがあって、1年くらいしてから1冊の本を探してあちこちの本屋を渡り歩くこともしばしば。それもまた愉しいんだけど。/笑)
 こうして毎回の「儀式」である新刊チェックが一通り終わると、あとは既刊の棚を見て回り、読んだ本や読んでない本、面白そうな本や興味のない本など、フラフラ眺めて時間をつぶす。(*)日によっては雑誌のコーナーやNHKテキストのコーナーに足を運ぶこともあって、所要時間は全部で小一時間くらいだろうか。週末における気分転換のひとときになっている。

   *…以前はこのタイミングで適当に目についた本を買うこともあったのだけれど、
     今では積読本が増えてしまったので控えるようにしている。

 ただ、やっぱり近所の本屋ばかり回っていると、品揃えが物足りなくてそのうちに我慢できなくなる時がくる。必ず来る(笑)。出張が多い月は、帰りに東京駅・丸の内にある丸善(かの有名な松丸本舗のあるところね)に寄ったり、名古屋駅でジュンク堂に寄ったりしてストレス発散をしているのだが、世の中そんなに都合よくいく時ばかりではない。
 結局そんな日がしばらく続くと、ある日発作的に電車に飛び乗って街の大型書店に足を運ぶことに。(こうなるともう止まらない。)すでに自分の中ではひとつのイベントと化しているので、ジュンク堂や三省堂、丸善といった大型店舗を軒並み渉猟するまで気が済まないのだ。なんと因果な性格と自分でも呆れているのだが…。
 大型書店の場合に回る順路も、近所の本屋の場合と概ね似たようなものなのだが、違うのはその品揃え。文庫や新書の量からして圧倒的に違うので、棚を眺めているだけでうきうきしてくる。新刊コーナーにざっと目を通した後は、近所に置いていない平凡社ライブラリーや岩波・ちくま学芸・講談社学術などの棚をじっくりと見て回り、そして文庫と新書のコーナーを堪能した後は、さらに単行本のコーナーへ向かう。
 単行本では、まずは文芸書から攻めるのがパターン。日本作家にはあまり興味がないので、外国文学とミステリ・SF系の棚をうろうろすることが多いのだが、眺めているうちにどれも欲しくなってきて困ってしまう。(笑)
 哲学・思想や心理学に文化人類学など人文系の棚では、値段が高くて手が出ないフーコ-やレヴィ=ストロースの本を手にとって眺めてみたり、社会学系で面白そうな本が無いか物色したり。はたまた講談社選書メチエやNHKブックスに筑摩選書といった大判の選書のコーナーへも。かくして帰りの電車ではずっしりと重くなった袋と、それに比例して軽くなった財布を抱えて帰路につくことになるのダ(笑)。
 一点だけ気をつけなければならないのは、大型書店に行くのは時間にかなり余裕がある時に限るということ。なぜなら2時間くらいはあっというまに過ぎてしまうので。人との待ち合わせなどで1時間くらい寄る事もあるのだが、その程度では時間が足りず、却って欲求不満になることも。自慢じゃないが大型書店だったら半日は時間をつぶせる自信があるぞ。(どんな自信だ。/笑)

 「本を選ぶこと」と「本を読むこと」、そして「本を反芻して感想をしたためること」――自分にとって、この3つの行為は、「読書」という大きな括りで見た場合、ワンセットになっているのでどれも欠かすことは出来ない。だからこそ最初のステップである「本を選ぶ」という行為も、せっかくなのでじっくりと愉しみたいもの。そう考えると、本屋巡りはこれからも自分にとって大事なイベントで有り続ける気がするな。

<追記>
 本当は新刊書店以外に近場の古本屋巡りというのも加わるのだが、話がややこしくなるので今回は省くことにした。古本屋巡り(あるいは「古本を巡る冒険」)については、またそのうち日を改めてということで。
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『民族とナショナリズム』 アーネスト・ゲルナー 岩波書店

 ※今回は長いです。申し訳ない(^^;)。

 ナショナリズム研究の“基本文献”として、B・アンダーソン著『想像の共同体』と並び称される本なのだそうだ。『想像の共同体.』は目からウロコが何枚も落ちるほど面白かったので、本書も期待して買ってきた。アンダーソンは政治学者なので、その著作も社会学的な観点からのアプローチ。対して本書の著者ゲルナーは哲学者なので、もっと哲学的な考察が色濃いものになっている。(かと言って、危惧していたようにそれ程とっつき難いわけではなく、論旨も明快なので読み易かった。)
 繰り返すが著者の専攻は歴史学や考古学とは違って哲学。なので、本書においても具体的な文献や事物に基づいて、厳密な検証を行っている訳ではない。書かれているのはあくまでも思索であり仮説にすぎない。そこが弱いと言えば弱いのだが、しかしその分自由度が高い考察がなされていて(なんせ著者は思索のプロ/笑)、いろいろな示唆に富んでいるともいえる。まあこの手の本は各人が読んでみて、それなりに腑に落ちるところがあればそれで良いのではないかな。少なくとも自分はかなり納得がいった。
 ということで早速本書の紹介に入ろうと思うのだが、まずその前に理解を深めるため、『想像の共同体』のおさらいをしておきたい。(2010年10月9日に記事をアップしているので興味のある方はそちらもどうぞ。)

 アンダーソンが『想像の共同体』で書いていた事をざっとまとめると、次のようなことになると思う。
 ■「国家」や「国民」という概念は、様々な理由があって作り出された架空の概念であり、
  「ナショナリティ(国民としての帰属意識)」とは、ある規模をもった集団が、自分たち
  の団結を促すために作り上げた思想的な枠組みである。
 ■ナショナリズムは、発生のメカニズム(きっかけ)によって2種類に分けられる。ひとつ
  は民衆運動から生まれた「民衆ナショナリズム」というもので、もうひとつは政府が大衆
  を煽ることで生み出された「公定ナショナリズム」。
 ■世界で最初のナショナリズムが生まれたのは南米。植民地生まれの白人(クレオール)達
  によって、ヨーロッパ本国からの独立のために作り出された。(民衆ナショナリズム)
 ■次にナショナリズムが起こったのはヨーロッパ。南米の独立運動に伴うナショナリズムの
  高まりを受け、ヨーロッパでも民衆の間で国民運動が盛んになった。危機感を覚えた支配
  階級は、自分らに都合の良い体制を残そうと画策し、当時の政治的枠組みを残す形のナシ
  ョナリズム運動を煽った。(公定ナショナリズム)
 ■その後、ヨーロッパ列強がアジア進出を果たすとともに、アジア地区でも雨後のタケノコ
  のように様々な形のナショナリズム運動が乱立した。
 ■いちど生まれた概念は自己強化を図るもの。ナショナリズムも例外ではなく、「国家」や
  「国民」という概念があたかも遥か昔から存在したようなふりをして、それぞれのナショ
  ナリティを強固なものにしつつ現在に至る。(実際には18世紀末に作り出された、歴史の
  浅い概念に過ぎないのだが。)

 『想像の共同体』における論理はとても明晰であり、ナショナリズムが「どのようにして(How)」生まれたかを、歴史分析によって見事に浮かび上がらせている。ただしナショナリズムが「なぜ(Why)」生まれたのか、つまり発生の(仕組みではなく)根本原因については、割とあっさり流していたような記憶がある。
 『民族とナショナリズム』が力を入れているのはまさにその部分。本書が追求するのは「なぜ人はナショナリズム運動を求めずにはいられないのか?」という“Why”であって、その分“How”については若干考察が甘い感じがしないでもない。つまりこの2冊は互いに補完しあうような関係にあるといえ、両者を合わせて読むことで、現在でも国際社会を席巻するナショナリズムというモンスターについて、さらに理解が深められる気がする。さて前置きはこのくらいにして、いよいよ本書の中身について紹介を。

 著者によれば、ナショナリズムの定義は「民族的な単位(国家)と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する、一つの政治的原理」なのだそう。他者によってこの政治的原理が侵されると、過激な反対運動を惹き起こすある種の「怒りの感情」が生みだされるわけだが、その成立には「国家」と「民族」という概念の成立が前提(必要条件)になる。それでは「国家」や「民族」をかけがえのないものとする価値観は、何に起因するのか?
 「国家」「民族」という概念自体は、近代社会ではどの国にも存在するものであって、別に特殊なものではない。“それだけ”ではナショナリズムが起こるきっかけ(十分条件)に成り得ないとすれば、他に一体何が必要なのか? 本書を愉しむポイントは、まさにその謎とき部分にあるといえるだろう。
 もったいぶらずに先に言ってしまえば、「あるひとつの社会において「社会文化」と「社会制度」がある条件を満たした時、ナショナリズムが発生する」というのが本書の結論。条件の組み合わせは幾つかあり、一例を挙げてみると――
 一部のエリート階層と一般階級(庶民)が社会的・文化的に分断されている国において、読み書きの技能が教育によって一般階級にも浸透したとき、且つ庶民の間に「自分たちが虐げられている」という認識が生じた場合、彼らは互いの結束を強めてエリート階級に抗うため、所属するグループを何らかの固有な特徴(民族や言語や文化など)でもって定義づけようとする。それがナショナリズムの核になる。(要するに、「抽象的で統一的な価値観が広い社会に浸透し、且つある階級が不満を持った時」というのがナショナリズム発生条件の一つという感じ。)

 分かり難いかな。もう少し補足しよう。
「抽象的で統一的な価値観」というのは、例えば「我々は同じドイツ語を話す集団だ」とか、「同じ日出国(ひいづるくに)に生まれた者たちの子孫だ」とかいうものがそう。このように抽象的で普遍的な概念は、教育制度が発達して誰もが均一な高等教育を受けられるようにならないと、多くの人による支持を得る事が出来ない。。したがって前近代の農耕社会などにおいては、ナショナリズムは起こり得ないことになる。(農耕社会では村々など小さな集団が分断され互いに反目しあっており、知識の共有よりはむしろ知識の秘匿が推奨されていた由。)
 ところが社会が農耕中心の社会から、蒸気機関の発明などを経て産業中心の社会に移行すると、産業の永続的な成長を実現する為に、職業や仕組みの変化(*)が意図的に行われるようになる。なぜなら産業社会においては一生をかけて親方の下で修行するといった形態ではなく、様々な職業に就くことが出来る一定レベルの基礎教養と、それによる人々の流動化が必要とされるから。そこで社会の成員に対して教育・訓練が一律に実施され、ある種の“レベルの均一化”が図られることになる。(それに伴って労働の形態も、肉体労働から読み書きを基本とした頭脳労働へと変化を遂げていく。)

   *…ふと思ったのだが、これってレヴィ=ストロースの言うところの「冷たい社会」
     から「熱い社会」への位相変化に近い気がするね。農耕社会=安定的、産業社会
     =流動的という意味で。

 更に言えば、このように均一かつ効率的な教育を社会の成員全員に施すことが出来るのは、「国家」という仕組みを置いて他には無い。故に“同一文化(=成員の皆がその中で呼吸し/話し/生産出来る文化)”であることと、それを供給できる“国家という組織”が一体化し、これすなわちナショナリズムの誕生に繋がっていくというわけだ。以上が本書で著者の主張するところの、ナショナリズム発生の大まかなメカニズムということになる。(**)

  **…ただし実をいうと、このあたりについては少し引っかかりが無いわけでもない。
     「大規模かつ均一的な高度文化教育」というのは確かに“公共サービス”の一種
     ではあるわけだが、それって「国家」という単位でなければ本当に実現できない
     ものなのだろうか。たとえば江戸時代の寺子屋は幕藩体制によって体系立てて運営
     されたものではないと思うが…。国家なくして同じような状況が生まれている社会
     は本当にこれまで存在していないのだろうかね。ちょっと疑問。

 閑話休題。これまで詳しく触れなかったが、本書によれば、ナショナリズムが発生するためには、「社会文化」と「社会制度」が満たすべき“ある条件”が必要だと先ほど述べた。ここからは、それについてもう少し触れておきたい。
 その考察が為されているのは本書の第7章。そこではナショナリズムの類型(モデル)を考える上で不可欠な3つの要素(因子)と、その組み合わせによって導き出せる8つの社会モデルについて考察が為されている。
 モデル考察に不可欠な要素とは「権力の集中の有/無」「高等教育の実施の有/無」に「文化的な同一性/多様性」の3つ。それぞれの要素において、「有り」「無し」2つの条件を掛け合わせると組み合わせは2の3乗となり、全部で8つの社会モデルが考えられるというわけ。著者によればそのうち3つの社会モデルこそ、ナショナリズム発生の可能性があるのだそう。以下、順に説明していこう。
 ひとつ目は『ハプスブルグ家(そしてその東と西の突端)のナショナリズム』と名付けられたモデル。支配者層(貴族諸侯)と被支配者層(一般民衆)という2つの社会層のいずれか片方に権力と教育が集中し、そうして誕生した「もつ者」と「もたざる者」が互いに異なる文化に属する場合だ。
 ふたつ目は『古典的でリベラルな西欧のナショナリズム』と呼ばれるモデル。高等教育の機会は2つの社会層に対して平等に与えられているが、権力は一方(支配者層)に集中しており、それぞれが異なる文化を持っている場合がそれに当たる。19世紀イタリアやドイツでおこったナショナリズムのパターン(***)なのだそうが、今の日本におけるワーキングプアの人々の“怒り”に繋がるものがあるかも。
 そして三つ目は『ディアスポラ・ナショナリズム』と名付けられたモデル。支配者層は旧態依然とした古い教育制度にどっぷりと浸り、非支配層がむしろ新しい教育の洗礼を受けている状態で、それらが異なる文化に属している場合だそうだ。これは日本の開国前夜の状況に似ているといえるかな? 無能な支配者に対する民衆の怒りは頂点に達し、社会的には末期的な状態と言えるかもしれない。

 ***…これがイタリアとドイツというのがどうも引っかかる。この手のナショナリズムは
     ファシズムにつながりやすいという事はないのだろうか。もしそうだとすれば、
     社会に対する民衆の絶望感からくるものか、それとも元々がファシズムに転じ易い
     特性をもっているのか、とても気になる。昨今の東京都や大阪市の状況を見ている
     と、単に「衆愚政治」というだけでは済まされない何かがあるような感じも。

 さて、このような社会モデルのひとつにおいて、ある固有の文化を共有する人々によって、彼らと同様の文化を共有する人々との統合が望まれた時、集団は巨大化するとともに先鋭化して政治体と化していき、やがてナショナリズム運動へと変貌を遂げる。そのような政治体は自分らの文化が及ぶ限りの範囲まで境界を伸ばそうと画策し、やがては自分たちの文化を権力によって保護・強制しようとする意思が働きだす。政治体と文化が完全に一体化するとそれは「規範」となり、過去に遡って“民族”の伝統や誇りや歴史が捏造・強化されていく。(この辺りの話については『想像の共同体』が詳しい。)我が国の場合を例にとって具体的に説明してみよう。
 高度成長期を経験した日本ではもはや「兎追いしかの山」や「小鮒釣りしかの川」が消滅し、今では日本中どこに行っても“ミニ東京”と化した地方都市があるだけ。故郷(ふるさと)はもはや人々の思い出の中の風景になってしまった。――そうなると、失うまでは(空気みたいに)ことさら意識などしなかった過去の文化や出自に対して、人々が自らのアイデンティティの拠り所を求めようとする意思がはたらきだす。もしも故郷の喪失によって疎外感を感じている人々が存在し、彼らが団結を始めるとき、「ナショナリズム」の萌芽が見えるというわけだ。原発事故で故郷を失った福島の人々や、基地問題で苦汁をなめる沖縄の人々などが自らの団結を意識し出したら、それはナショナリズムの始まりといえるのかも知れない。(とすれば、一概に「ナショナリズム=悪」とは言えない難しさがあるわけで、このあたりは非常に難しい問題だなあ。)
 このストーリーが示すのは、「ナショナリズムが標榜するものは虚構に過ぎないものの、それが生みだされるに至った根本原因はホンモノでありとても根深い」ということ。高度な学校教育が広く普及して初めてナショナリズムの欺瞞が可能になるというのは、なんだかとっても皮肉だなあ。ツイッターやメールが災害時の強い味方であると同時にデマ拡散装置でもあるというのと同じで、何事にも光と影があるということなのかも。

 なお、ナショナリズムに結びつき易い社会特性として「民族」というのがあるが、著者はそれについても考察を加えている。著者によれば「民族性」を形作るキーワードは「意思と文化」とのこと。「意思」というのは、自分たちの選択(意思)によって、ひとつの共同体を存続させようとすることだそうだ。一体感や連帯感、または常識(コモンセンスつまり”共通認識“と言った方が良いか?)などを基にして、絶えず自らを再確認する自発的な行為が「民族性」の正体というわけ。W杯や五輪における国歌斉唱を考えるとイメージが浮かびやすいだろう。(なお「文化」は言語や昔から続いてきた風習など後天的なものなのでまだマシだが、これが「人種」とか「宗教」による差異と結びついてしまうと、ことは深刻さを増すことになる。)
 ナショナリズムに関する自分の最も大きな疑問は、なぜにこれほどまでに他者・他文化に対して非寛容を示すのかということ。それを解き明かすには、もっと貧困やルサンチマンに関する哲学的な掘り下げが必要となる気がする。暴力を巡る一連の思想を分析すれば何か見えてくるのだろうか。(ルネ・ジラールとかジュリア・クリステヴァとか読まなきゃいけないのかな? うーん、なかなかヘビーな取り組みになりそうだな。)
 とりあえず大切なのは、他者の否定につながる「負のナショナリズム」の発生を食い止める手段について考えることではないかという気がする。「民族」(ナショナリズム)でなく別の形で結晶化させることが可能なら、テロやホロコーストは起こらないのではなかろうか。そんな事を夢想してしまった。
 してみるとイスラム原理主義によるテロを無くすには、ブッシュのように軍事力で押さえつけるのでなく、アラブ諸国の社会格差をなくして貧困層を救済するのが良いという話は、とても正しい気がしてくる。ナショナリズムはルサンチマン(=もたざる者の妬み)から起こるのだ。
 地球上には数えきれないほどの多様性をもった人々が住んでいる。グローバルとは決してそれらをひとつのカラーで埋め尽くそうとすることではなく、本来ローカリティの集合体であるべきだろう。日本文化も他の文化と全く同じレベルで見つめる視点こそ、わが国でも今まさに広がりつつあるナショナリズムに対する、もっとも効果的な処方箋なのかもしれない。

 本書の話にもどろう。面白かった点がひとつある。それは「資本や富の所有」というのは、(マルクス主義が主張するように)ナショナリズムの発生要因ではないという点。著者によれば、ナショナリズムの元である疎外感や反発心をおこす「両極化」の原因は、富の集中ではないそう。本書でもその点については考察から意図的に外してあるとのこと。
 ゲルナーがそのように考えた理由は実は良く分からなかったが、たとえばアメリカンドリームなんかを考えてみるといいかもしれない。「もしもその人に能力さえあれば、誰にでも成功のチャンスは与えられている」という言説が、(それが真実かどうかとは関係なく)とにかく社会的に信じられている限りにおいては、人々の意識は”競争”へと向かうことはあっても”共闘”へ向かう事はないはずだ。富は確かに社会的に成功した集団にあつまる傾向があるけれど、必ずしもその集団(だけ)に固有のものではないといえるものね。
 それより気になるのは、(最初に挙げた例のように)高水準で包括的な教育を受けた「ある種の集団」に固有の性質が、彼らに対する社会的な差別や富裕/貧困の違いによるルサンチマンと結びついた時に、ナショナリズムが発生するというモデルについて。
 もしそれが正しいとすれば、学校で国語(日本語)教育や社会(歴史や地理)の教育を施すこと自体に、ナショナリズムの一番深い根っこがあることになる。政府や行政が推し進める「グローバル社会における日本のあるべき姿」などという教育は、かえって強固なナショナリティを作り出す原因を作ることになりかねないのでは。
たとえば植物でも野生種と栽培種が異なるように、ことによると「自然発生的な」(ローカルな)文化と、教育によって画一的な価値観の形成を目指して意図的に「栽培された」文化では、大きな違いがあるのかもしれない。知らず知らずのうちにナショナリズムを生み出す土壌を耕しているような事にならなければいいのだが。

 さらにひとつ。先ほども述べたように、ナショナリズムが生まれるもうひとつ重要な条件には「(潜在的な)社会の流動化」というのがある。これを保つには匿名的で個人主義的ないわゆる「大衆文化」というのが、社会文化の主流であり続けることが必要となる。そういった意味でも、ナショナリズムというのはまさに近代社会が生み出した「鬼子」であるといえるのかも知れない。
 もしそれが本当であるとすれば、中国の「蟻族」や日本におけるロスジェネ世代のワーキングプアといった、現在世界各地で進行している“もたざる高学歴貧困層”の出現は、新たな「ナショナリズム」を生み出す可能性があるということになるだろう。事実、雨宮処凛らのスタンスはそれに近い気がしないでもない。まあ、中国や日本という「国家」からの独立運動にまで発展することは無いと思うけど...。(そういえば井上ひさし『吉里吉里人』はまさにそんな話だった。)
 本書の結論をそのまま受け取るなら、高等教育を受け、且つ社会のマジョリティ(多数派)とは異なる文化・習慣をもつ者が虐げられた時、ナショナリズムの発生は不可避ということになってしまうが、決してそんなことはないと信じたい。もしかして違っているかもしれないが、おそらく条件が「権力」「教育」「文化」の3つでは足りない事になってしまうのであるまいか。本書の中にも同じような事を述べている箇所があったのだが、ここらへんの理屈は正直いって良く分からなかった。理解不足を実感したが、そろそろ頭が限界なのでそれ以上の突っ込みは止めておきたい。(笑)

 長くなったのでそろそろ最後にしよう。個人的には本書で一番気に入ったのは第8章の「ナショナリズムの将来」。もしも産業化が進んで2つのグループにおける生活水準の格差がなくなっていったら、もしくはある絶対水準を超えて充足感が得られるようになったとしたら、果たしてナショナリズムは消滅することになるか否か? 著者は執筆当時の世界情勢などをもってして、考え得る限りの「外挿法(Extrapolation)」による推測を行っている。
 そしてその結果、いずれにせよ何かが起こるとすればナショナリズム以外の何かであろう、と結論付けた著者の意見はおそらく正しいと思う。それをゲルナー自身は「貧しい者のインターナショナルな連帯」かも知れないと述べているが、これはその後A・ネグリらによって『<帝国>』と『マルチチュード』にまとめられた概念に他ならない。また、ここ十年余りの間に起こったイスラム金融の急速な台頭も、西洋的な思考の枠組みでは納めきれない、(つまり単なる「権力」「教育」「文化」の違いでは説明がつかない)別次元に起因する出来事であるような気がする。うーん、奥が深いよなあ。

<追記>
 ふと思いついたのだが、ナショナリズムというのは2つのグループ間にできた“気圧“の差により生み出された突風もしくは台風のようなものなのかも。巨大な力でもって吹き荒れて、周囲に大きな被害をもたらす点などもそっくり。たとえ発生原理は判っても、人間の力で止めることは出来ないというところも似ている。ある社会の間に差ができる限りは世界のそこらじゅうに発生の芽があるといえるし、それが大きく育つのをを食い止めるのは至難の業なのかも知れない。
 せめて「自らを守らんとして他者を相対的に貶める」といった安易な道に走らないよう、自戒していきたいもの。まさに「強くなければ優しくなれない」というのは至言だよなあ。

『北越雪譜』 鈴木牧之 岩波文庫

 たまに古典と呼ばれる本を無性に読みたくなる。岩波文庫でいえば背表紙が黄色に色分けされているような本。といっても内容があまりにも高尚で難しいのは読めないので(苦笑)、なるだけ易しいやつがいい。たとえば江戸時代も後期あたりの通俗的なものとか。本書は明治開化の20~30年ほどまえに書かれたものだから、そういう意味では丁度いい頃合い。前に松岡正剛氏の千夜千冊で取り上げられ、いつか読もうと買っておいたうちの1冊で、特に理由はないのだが先日ふと読みたくなり、本棚から引っ張りだしてきた。

 本書は豪雪地帯・越後は魚沼に住む著者が、雪国の自然や暮らしの風物について書いた図譜。初編(巻之上/中/下)と、二編(巻之一/二/三/四)よりなっている。
 東北や北陸に関する本といえば、有名な『奥の細道』をはじめとして数多く存在するが、いずれも他の土地の人が旅して書いたものであり、旅が可能な夏の季節が中心となる。まさに「雪まっさかりのシーズン」の雪国を描いたものは、(本書の著者曰く)実は皆無とのこと。魚沼の名士(豪商)であり、俳諧や絵画も玄人が裸足で逃げ出すほどの腕前だった教養人・鈴木牧之という人はそこが不満。それなら自分で書いてしまおうという事になったようだ。
 雪国の住民が自ら書いただけあって、生活の描写はとても生き生きしていて素晴らしい。実は自分も小学生のころの4年間を新潟で過ごしたことがあって、雪の中の生活がどんなものか凡そ想像がつく。昔を思い出しては内容にいちいち頷き、最後までとても愉しみながら読み終えた。以下、中身の話題について順不同にざっと挙げてみよう。

 ・雪の季節ならではの暮らしの知恵(雪を踏み固めて雪道を作るなど)
 ・雪靴や橇といった雪中歩行の道具について
 ・雪の季節の愉しみや遊び(祭や芝居、年越しや“雪ン堂”(かまくら)など)
 ・猟師による雪山の熊狩り
 ・雪崩と吹雪の実態(雪国のひとが一番恐れるもの)
 ・冬のシーズンの地場産業である縮(ちぢみ)織物について
 ・鮭の遡上に伴う鮭漁と鮭料理(雪が降り出すまでの季節が旬)
 ・気象や自然現象について(ツララや天然ガスによる自然発火「雪中の火」など)
 ・夏まで氷室に残した氷を使ってつくる“削氷”(かき氷)

 なかには奇談・綺譚も載っている。
 ・弘智法印の木乃伊(ミイラ)について
 ・狼に襲われた一家の話や、逆に遭難して熊に助けられた話
 ・白熊(アルピノのツキノワグマ)の話
 ・浮嶋(浮き島)の話
 ・「化石谷」(水につけると石灰成分が付着して石化する場所)について
 ・「土中の船」(土の中から発見された謎の船)について

 ところどころには幽霊や妖怪についての話も載っていて、民俗学的な興味以外に幻想怪奇小説のファンとしても愉しむことができた。(今でもUMAとか宇宙人を信じている人がいるように、当時は幽霊や妖怪について「さもありなん」といった感じで、何となく信じられていたのだろうか?)これについても題名をざっと挙げておこう。
 ・「御機屋(おはたや)の霊威」
 ・「狐火」
 ・「雪中の幽霊」と「関山村の毛塚」(女性の幽霊)
 ・「夜光玉」(夜になると怪しげに光る石)
 ・「無縫塔」(変わった形の石が見つかるとなぜかある寺の住職が死ぬ話)
 ・「北高和尚」(葬儀を襲う大猫の妖怪・火車を追い払った僧)
 ・「異獣」(猿に似た謎の生物)

 不勉強の為これまで全く知らなかったのだが、この本はその筋ではかなり有名な本らしいね。文もこなれていて読みやすく、地味だけど(失礼)とても面白い本だった。今度はどんなものを読もうかな。そのうちまた衝動的に読みたく時がくると思うから、今のうちに「とっておきの一冊」を買っておかなくては。(それでは岩波文庫の『江戸怪談集』の上巻が早くリクエスト重版されることを祈りつつ...。/笑)

『完本 酔郷譚』 倉橋由美子 河出文庫

 昔から何となく、様々な人やグループの残した所謂「白鳥の歌」にあたる作品(*)に、好きなものが多い。本人たちが意識していようがいまいが、いずれの作品も傍から見るとどことなく「終焉の予感」に満ちた気がするのは不思議。それまでの彼らの煩悶や苦闘がまるで嘘のように消えて、吹っ切れた感じになっている。(大袈裟に言えば悟りを開いたような。)澄み切った空のような静謐感と、それでいてどことなく寂寥感も感じさせるところが何とも言えず好きだ。

   *…人であれば亡くなる前。グループであれば解散や活動停止になる前に出した
     作品のこと。

 自分の好きなロックを例に挙げるなら、例えばザ・バンドの『ラストワルツ』やキング・クリムゾンの第2期ラストを飾る秀作『Red』。それにRCサクセションが活動停止前に発表した『Baby A Go Go』なども。小説の世界に目を転じれば開高健『珠玉』や、澁澤龍彦『高丘親王航海記』などがそれにあたる。
 そして本書『酔郷譚』もまさにそんな感じ。倉橋由美子はこれまで『スミヤキストQの冒険』しか読んだことが無く、とても偉そうなことは言えない。ワキ目でちらちらと気にしている程度の存在だった。ところが先日、ふらりと立ち寄った本屋で何気なく本書を手に取ったところ、ウラの紹介文の「亡くなる直前まで執筆していた珠玉の連作綺譚シリーズ」という言葉に、探書アンテナがピピッと反応したというわけ。で、さっそく読んでみたところこれが大正解。鉱物的で硬質な文体も、抑制され乾いた感じも自分好みで、とても気に入った。(あまりにも感情むき出しの激しいのや、水がぽたぽた垂れるような艶めかしい文章はちょっと苦手なのダ。)

 元はサントリーのPR誌「サントリークォータリー」に掲載された作品だそうで、目次を見るといかにも意味ありげな題名をつけられた22編の掌編が並んでいる。いずれも主人公は「慧君」という青年で、彼がカウンターバーで飲む一杯の「魔酒」に導かれて、幻想とも現実とも知れぬ異界を訪れ、そこで様々な女性と「歓を尽くす」というのが大まかな粗筋。(まあ、こんな風に言ってしまえば身もふたもないが。/笑)
 登場人物はかなりの曲者が揃っている。まず主人公の慧君からしてそう。彼は“神童”とも呼ばれる若者であり、ネットワークを使った“宗教ともビジネスともわからぬこと”で莫大な財産を築き、今は毎日を遊び暮らすディレッタント。他には慧君の祖父で元総理大臣の入江さんや連れあいの桂子さん。それに慧君に魔酒を供するバーテンダーの九鬼さんなどなど。(この人などは、数千年も生き続けていたり何度も死んでは蘇った節があるなど、まさに謎の存在といえる) ひと癖もふた癖もある人物が大勢登場して、まるで酒場を舞台に繰り広げる幽玄絵巻とでもいうべき作品に仕上がっている。そうそう、入れ替わり立ち替わり慧君のお相手をする女性たちも個性的だ。彼女らも当然“常人”では無く、冥府の女性や樹木の精、月の世界の住人などさまざま。

 「陶酔」という言葉があるが、酒呑みの人の理想は(昔の中国の詩人が言ったように)、一日中とろとろと夢と現実の境目を漂うみたいに酔い続ける事ではないかという気が。自分もお酒は好きなのだが、体質的にアルコールに弱いので、とても一日中飲み続けるなんてまねは出来そうにない。(かわりに一日中とろとろと活字の海を漂うのは大好きだから、まあ似たようなものか/笑)
 酒の愉しさを語った文章を読むのも好きで、南條竹則『酒仙』とかオマル・ハイヤーム『ルバイヤート』なんかはとても好み。本書も雰囲気的にはそれらの本の延長上にあるといえるが、違うのは飲んでいるものがもはや通常「酒」と言われる飲み物の域を超えている点。(まさに「魔酒」としかいいようがない。)
 書名にある「酔郷」とは酔う事で迷い込む桃仙郷のごとき場所を示すのだが、それはこの世ではなく冥府であったり雪と氷に覆われた異界であったりと、まるでスウィフト『ガリバー旅行記』の如き趣き。

 最初のうちは肩肘ついて気楽に読んでいたのだが、物語を読み進むうちに段々と幻想の凄みが増していき思わず興奮。とくに「広寒宮の一夜」以降の6作品などは、もう完全に「あっちの世界」に行ってしまっている気が。ジェンダーとかセクシャリティのレベルを遥かに超え、性を描きながら性にまったく囚われていない。生の躍動感と死の官能性に満ちあふれ、そこに酒の愉しみを加えた大人の読み物に仕上がっている。解説で松浦寿輝氏も書いているが、「男女の性」に拘らないのでなく逆にとことん拘りぬくことで、単なる「男女の性」といった視点では書けない普遍的な「性」そのものを描くことに成功している。(うーん、これでは何を言っているのか分からないな。すいません^^;)
 ジェンダー論という立場よりも、もっと高い位置からの視点でないと到底書き得ない凄みがあるとでも言えば良いのかな。かなり自分好みだ。

 この作品を読んで改めて感じたのは、「性」とは本来「生(エロス)」や「死(タナトス)」に直結するものだということ。アプローチの仕方こそ全くの逆とはいえ、本書はまさに澁澤龍彦の遺作『高丘親王航海記』と「対(つい)」の作品と言って良いのかも。たとえるならば、麓から違う道を辿りながらも最終的には「同じ高峰の頂き」まで達し得たという感じかな。(もしかするとどちらか片方の作品は、湖水に裏返しに映った“逆さ富士”なのかも。もしそうだとしても、どちらが逆さかは敢えて言わないでおこう。/笑)
 聞くところによれば著者には慧君の祖母の桂子さん自身を主人公にすえた、ファンの間で「桂子さんシリーズ」と呼ばれる小説が4つほどあるそうな。倉橋ファンの方には「何を今さら」と思われるかもしれないが、是非そのうち見つけて読んでみたくなった。

<追記>
 ちなみに書名に「完本」とあるのは、全作品が1冊に収録されたのはこれが初めてだから。「酔郷譚」という題名で雑誌連載されていた途中で、1~15話までが『よもつひらさか往還』という題名で出版されてしまった。そしてその後、著者の急逝で途絶した16~22話までが『酔郷譚』という名で出版社を変えて書籍化されたため、これまでまとめて読むことが出来なかったそう。こんなに面白いならもっと早く読みたかった気もするが、やはり今の方が良かったかな。(笑)

ノンフィクション系

 普段読んでいる本の節操のなさには、我ながらいつも呆れている。しかし同じジャンルの本ばかり読んでいると飽きてきてしまうので、こればかりは致し方ない。数冊の本を併読しているも同じ理由だ。ノンフィクションに飽きるとエッセイをかじったり、気分が乗ればとっておきの小説を引っ張り出したりして、その時の雰囲気で読み分けている。(おかげでカバンの中にはいつも3~4冊の本が入っているので、重たくてしょうがないが。/笑)
というわけで今回はこれまで読んだ本の中から、ノンフィクション系(≒小説以外のもの)について、これまでの記憶から思い入れや印象の強いものを、かいつまんでご紹介してみる。

 注)出版社に関しては自分が読んだものか、もしくはその後に文庫化されたものを、知って
   いる範囲で記載してある。ただし古い本も多いため、現在は入手困難なものや版元が
   変わっている本もあろうかと思う。最新情報についてはネット検索等でご確認頂けると
   幸い。

<哲学・思想系>
『テロルの現象学』笠井潔/ちくま学芸文庫/哲学
『虹の理論』中沢新一/講談社文芸文庫/思想・評論
『森のバロック』中沢新一/講談社学術文庫/評伝・思想
『緑の資本論』中沢新一/ちくま学芸文庫/思想・評論
『ニーチェ入門』竹田青嗣/ちくま新書/哲学
『現象学入門』竹田青嗣/NHKブックス/哲学
『マックス・ヴェーバー入門』山之内靖/岩波新書/思想
『隠喩としての病』スーザン・ソンタグ/みすず書房/思想・評論
『新教養主義宣言』山形浩生/河出文庫/思想・評論
『山水思想』松岡正剛/ちくま学芸文庫/思想
『連塾 方法日本(Ⅰ~Ⅲ)』松岡正剛/春秋社/思想
『ニッポンの思想』佐々木敦/講談社現代新書/思想紹介・評論
『探求(Ⅰ・Ⅱ)』柄谷行人/講談社学術文庫/哲学・思想
『身体感覚で「論語」を読みなおす』安田登/春秋社/思想
『神話学講義』松村一男/角川選書/思想紹介

<医学・心理学・自然科系>
『精神と物質』立花隆・利根川進/文春文庫/医学・生理学
『プルーストとイカ』メアリアン・ウルフ/インターシフト/医学・生理学
『進化しすぎた脳』池谷裕二/講談社ブルーバックス/医学・生理学
『日本人の脳に主語はいらない』月本洋/講談社選書メチエ/医学・言語学
『知覚の呪縛』渡辺哲夫/ちくま学芸文庫/心理学・思想
『ユング心理学入門』河合隼雄/岩波現代文庫/心理学
『創造する無意識』ユング/平凡社ライブラリー/心理学・芸術
『深海生物学への招待』長沼毅/NHKブックス/生物学
『生命はなぜうまれたのか』高井研/幻冬舎新書/深海生物学
『カンブリア紀の怪物たち』サイモン・モリス/講談社現代新書/古生物学
『不均衡進化論』古澤満/筑摩選書/生物学
『真空とはなにか』広瀬立成・細田昌孝/講談社ブルーバックス/物理学
『質量はどのように生まれるのか』橋本省二/講談社ブルーバックス/素粒子物理学
『ハッブル望遠鏡が見た宇宙(正・続)』 野本陽代/岩波新書カラー版/天文学・写真解説
『エレガントな宇宙』ブライアン・グリーン/草思社/宇宙物理学
『極限の科学』伊達宗行/講談社ブルーバックス/物理学
『複雑系』M・ミッチェル・ワールドロップ/新潮文庫/カオス理論
『アフォーダンス入門』佐々木正人/講談社学術文庫/アフォーダンス理論
『サル学の現在』立花隆/文春文庫/動物学

<社会学・人文系>
『異人論』小松和彦/ちくま学芸文庫/民俗学
『悪霊論』小松和彦/ちくま学芸文庫/民俗学
『百鬼夜行絵巻の謎』小松和彦/集英社新書ビジュアル版/民族学
『妖怪草子』荒俣宏・小松和彦(対談)/学研M文庫/民族学
『定本 二笑亭綺譚』式場隆一郎・他/ちくま文庫/建築
『建築探偵の冒険』藤森照信/ちくま文庫/建築・博物学
『江戸の想像力』田中優子/ちくま学芸文庫/江戸文化
『日本の書物』 紀田順一郎/ちくま文庫/書籍ガイド
『本朝幻想文学縁起』荒俣宏/工作社/文学ガイド
『理科系の文学史』荒俣宏/工作社/文学ガイド
『書誌学の回廊』林望/日本経済新聞社/人文研究
『犬は「びよ」と鳴いていた』山口仲美/光文社新書/言語学・文学
『文明の生態史観』梅棹忠夫/中公文庫/歴史学
『定本 想像の共同体』ベネディクト・アンダーソン/書籍工房早山/社会学
『群衆』松山巌/中公文庫/社会学・評論
『キリストと聖骸布』ガタエノ・コンブリ/文庫ぎんが堂/歴史学
『百鬼夜行の見える都市』田中貴子/ちくま学芸文庫/民俗学
『学問の春』山口昌男/平凡社新書/学問全般
『文学全集を立ち上げる』丸谷才一・三浦雅士・鹿島茂(対談)/文春文庫/文学

<芸術・芸能、時事・風俗系>
『東京ミキサー計画』 赤瀬川原平/ちくま文庫/芸術
『超芸術トマソン』赤瀬川原平/ちくま文庫/芸術
『龍安寺石庭を推理する』宮元健二/集英社新書/建築・歴史
『幻想の中世(1・2)』 バルトルシャイティス/平凡社ライブラリー/ゴシック芸術
『能楽への招待』梅若猶彦/岩波新書/芸術・芸能
『東京路上博物誌』藤森照信・荒俣宏/鹿島出版会/博物学・建築
『闇に消えた怪人』一橋文哉/新潮文庫/ノンフィクション(グリコ森永事件)
『地球の上に朝が来る』池内紀/ちくま文庫/芸能史
『ほぼ日刊イトイ新聞の本』糸井重里/講談社文庫/ノンフィクション(ネットビジネス)

<書籍系>
『書店風雲録』田口久美子/ちくま文庫/ノンフィクション(リブロ)
『ボン書店の幻』内堀宏/ちくま文庫/ノンフィクション(ボン書店)
『女子の古本屋』岡崎武志/ちくま文庫/インタビュー(古本)
『ブックライフ自由自在』荒俣宏/集英社文庫/稀書コレクション
『稀書自慢 紙の極楽』荒俣宏/中公文庫/稀書コレクション・写真解説
『新版 古書街を歩く』紀田順一郎/福武文庫/エッセイ(古本)
『探書記』横田順彌/本の雑誌社/エッセイ(古本)
『ブックハンターの冒険』牧眞司/学陽書房/エッセイ(古本)
『編集狂時代』松田哲夫/新潮文庫/自叙伝(筑摩書房)
『ビールと古本のプラハ』千野栄一/白水Uブックス/エッセイ(紀行・本)
『本棚探偵の冒険』喜国雅彦/双葉文庫/エッセイ(古本・コレクター)
『古本道場』角田光代・岡崎武志/ポプラ文庫/読書ガイド・古本
『こちら本の探偵です』赤木かん子/ちくま文庫/エッセイ(古本・児童書)
『全身翻訳家』鴻巣友季子/ちくま文庫/エッセイ(読書ガイド)

<その他(評伝・紀行・エッセイなど)>
『オーパ!』開高健/集英社文庫/紀行・釣り
『パリからのおいしい話』戸塚真弓/中公文庫/食・紀行
『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』石井好子/河出文庫/食・紀行
『沖縄にとろける』下川裕治/双葉文庫/紀行
『けものづくし』別役実/平凡社ライブラリー/エッセイ(ノンジャンル)
『鳥づくし』別役実/平凡社ライブラリー/エッセイ(ノンジャンル)
『素人庖丁記』嵐山光三郎/講談社文庫/食
『白川静』松岡正剛/平凡社新書/評伝・思想
『悪党芭蕉』嵐山光三郎/新潮文庫/評伝・文学
『外骨という人がいた!』 赤瀬川原平/ちくま文庫/評伝・エッセイ
『大東亜科学綺譚』 荒俣宏/ちくま文庫/科学評伝
『僕の叔父さん網野善彦』中沢新一/集英社新書/評伝・エッセイ
『わたしの開高健』細川布久子/集英社/評伝・私的思い出
『赤めだか』立川談春/扶桑社/自叙伝・落語

 ふう、お疲れ様でした。まだまだあるけど切りがないのでこれくらいで。
 しかしこうしてみると、我ながらノンフィクション系といえど、各ジャンルとも趣味が偏っているなあ(苦笑)。他の人が読んで自分と同じように面白いか保証の限りでは無いけど、「ふーん、こいつはこんなのを読んでるんだな」という程度でご笑覧いただければありがたい。(笑)

『火の賜物』 リチャード・ランガム NTT出版

 昔から、人類の進化に関する学説は数多く存在する。いわく「直立歩行を始めたこと」や「両手を使うようになったこと」から、「道具を発明したこと」「火を使うようになったこと」、はては「肉食を始めたこと」まで、挙げていけばきりが無いほど。それが原因なのか結果なのか良く分からないものや、因果関係がはっきりしないのも含めて、これまで様々な説が唱えられてきた。

 まあぶっちゃけた話、本書も人類進化の新説に関する本なわけだが、本書が目新しいのは、副題にもあるように「ヒトは料理で進化した」というところ。料理による人類の進化というのは、さすがに今まで聞いたことが無いなあ。結構斬新な切り口。(*)それではさっそく、著者が述べるところの“料理による人類進化説”とは一体どんなものか、その概要をまとめてみよう。

   *…ただし正確に言うと、本書で「料理」というのは“食材の加熱調理”という程度の
     意味。味付けや盛り付けといったものまで連想して読むとちょっと違う。「料理」
     という言葉をその都度頭の中で、「炎による加熱調理」と置き換えながら読んだ方
     がしっくりくる。

 ■人類の脳は約120~130万年ほど前に、ホモ・ハビリスが火を使い始めたときから進化を
  始めた。おそらくその頃に樹上生活をやめて地上に降り、同時に火を使って料理(食材の
  加熱調理)を始めたと思われる。
 ■加熱された食材は消化吸収が良いため、負担が少なくなった胃腸の容積が小さくなる。
  胃腸が小さくなると消化に必要なエネルギーも減るので、それで養えるサイズまで脳の
  容量を大きくできた。
 ■食事とその後の消化に必要な休憩にかける時間が短くて済むようになり、且つ炎の明るさ
  で夜に食事が取れるようになったため、狩猟や採集といった昼間の活動に費やす時間が
  多く取れるようになった。
 ■こうしてホモ・ハビリスはやがて、脳が大きく直立歩行に適した身体をもつホモ・エレク
  トスへと進化した。
 
 著者はなかなか用意周到に自説の根拠を示す資料を準備している。たとえば最初にでてくるのは、「動物は生の食材しか食べない。本当に加熱調理した食材は消化吸収が良いなんていえるのか?」という異議への反論。
 自分は知らなかったのだが、著者によれば世の中には、生のものしか口にしない極端な自然食主義者が、けっこうな人数いるらしい。彼らの主張に従うなら「人類も最初は生食に適した消化器官をもっていたが、火を使うようになってから加熱された食材の消化に適した身体に変化した」ということになり、著者の説は成り立たない事に。そこで著者は「動物は生の食材を食べるが、生食が体に良いなんて嘘。どんな生き物にとっても、加熱調理した食材の方が栄養の吸収効率が良い」ということを逐一反証していく。それはたとえば次のような話だ。

 人間は生食ばかり食べていると痩せてしまう。(また火を使って調理をしない民族は、世界中どこを探しても存在しない。もともと乏しい食料しか手に入らない自然界では、生食主義を無理に貫こうとすれば栄養が不足して生命の危険すらあるためらしい。)理由としては、仮に同じ食材であっても「生の塊り」とそれを「粉砕したもの」さらに「加熱された」ものでは、消化酵素の働きも違ってくるし胃腸が消化(蠕動運動)に必要とするエネルギー量も全く違うためのようだ。加熱調理すると食材の組織が分解し、柔らかくなって咀嚼もしやすくなるし、消化液も混ざりやすいというのは、なるほど理解出来る。その結果、栄養を吸収できる効率が大きく異なってくるようだ。
 事実、動物実験でも加熱調理した餌を与えて育てた個体は、生の餌を与えたものより大きく育つそう。つまり動物も生食に向いた身体を持っているわけではなくて、加熱によって栄養の吸収が良くなるのは皆同じというわけ。

 さらに本書によれば、人間の口やアゴや胃腸は既に“調理済みの食物の摂取を前提としたもの”に変化してしまっている。体重と消化器官の大きさの比率について調べると、なんと他の霊長類のわずか60%しかないとのこと。そして解剖学的にこれらの特徴が顕著にみられるようになったのは、先に述べたようにホモ・エレクトスになってからなので、火の調理が人類進化のきっかけだとすれば、そのタイミングは前段階のホモ・ハビリスにあったはずというのが著者の理屈。ここはポイントになるところなので、かなり詳しく説明されている。
 ホモ・ハビリスはまだ類人猿に近い骨格や臼歯を持っていたが、ホモ・エレクトスになると木登りに好都合な肩・腕・体幹の形が変化して地上生活に相応しい体型に変化を遂げる。(すなわちこの頃から、夜は樹上では無く地面の上で寝るようになったと思われる。)
 またエレクトスはハビリスに比べて胸部や骨盤が小型化し、胃腸の容積が減少して代わりに脳の容積が42%も増加しているという。当時の地上生活の環境を考えると、炎なしでは夜間に野生動物から身を守ることが出来ないはずで、それと同時に胃腸の小型化が進んだという事は、同時に炎による調理が始まったからだと考えることも可能。すなわち加熱されてエネルギー効率が良い食べ物を摂取することで、消化器官の容積が小さくて済むようになる。そして余ったエネルギーは全て脳に回すことが出来るため、今のような大きい脳が実現可能となったのではないか?という、先に述べた仮説になる。
 体の解剖学的な特徴について、これまでのように「人間が進化して火を使った料理をするようになったから」(=結果)ではなく、「火を使った料理を食べるようになったから」(=原因)であると考えれば、色々な面で説明がつけやすいというわけだね。

 以上が本書の前半の話。後半からは少し内容が変わる。冒頭にも書いたが「加熱調理」である限りは、話はあくまでも生物学や医学・生理学の範疇に留まる。しかしそれが本来の意味での「料理」となると、“文化”すなわち社会学や文化人類学的なテーマが入り込んでくる。そこで本書の後半は「なぜ世界中の殆どの社会で女性が家族の料理を作る役割を担っているのか?」についての考察へと移っていく。
 料理は生命維持と言う点ではたしかに画期的な発明といえる。しかし著者によれば、大きな「欠点」がある。それは料理を作るために大変な手間がかかるということ。料理を作るには労力がかかり、かつ作っている間は周囲に対してあまりに無防備になってしまう。そのため単独の個体が野生の状態で料理を行う事は不可能であり、他の個体との協力が必要となる。著者はここから男女の性別による分業が始まったのではないかと推測する。
 たとえば男性は狩りから腹をすかせて帰った時に、確実に食べ物が確保されていると分かっていれば、安心して狩りに行くことが出来る。また女性にとっては男性パートナーとペアになることで、不得手な狩猟を行う必要がない。さらにその男性との関係を集団内で認知させることで、料理中の無防備状態でも食糧を他のメンバーに奪われることなく、安心して確保しておくことが出来る。このような事情により、人類は特定のパートナーとのペア化と分業(つまりは婚姻制度)を始めたのではないかというのが、本書における著者のもうひとつの仮説だ。まさに料理にかかる手間こそが、男女の分業と社会ネットワークを作る基になったというわけ。
 火を使った調理すなわち「料理」が人間を動物から進化させた直接原因になり、更には「文化」を作り出す原動力にもなったという本書の結論、なかなかに面白い。こうして考えると、レトルト食品やスーパーの総菜など、調理済みの食料を調達する手段が様々にある現代社会において、「なぜ女性が料理を作らねばならないのか!」という意見が出てくるのもごもっともな話。まさか加熱調理がジェンダー論に発展するとは思ってもみなかったな。

 本書は以前に読んだ大塚信一著『火の神話学』(平凡社)の中で取り上げられていたもの。面白そうなので買ってきた。ネットサーフィンならぬブックサーフィンというわけ。もっとキワモノじゃないかと思って少し心配していたのだけれど、ちゃんとした本で良かった(笑)。こういう買い方をすると外れた時のショックが大きいけれど、面白い本にあたるとすごく得した気分になれる。本書の場合は、いちおう出した金額分の元は取れたかな。

<追記>
 本書を読んで「料理」というものについて改めて考えてしまった。そこで内容と直接関係はないがオマケとして、文化としての日本料理と調理器具の今後について私見を述べておこう。
 例えばサトイモの煮っころがしからカツオのたたきまで。とろ火でコトコト煮込む料理から、強火でさっと処理をする料理まで。はたまた昆布や鰹節でとるダシの旨さと奥深さ。――そんな「文化」としての日本料理が今後も世代を超えて伝えられるのであれば、熱の供給源としてもっとも優れたユーザーインターフェースである「炎」は、そして「炎」を使うガスコンロは、おそらくこれからも家庭や食堂の厨房で使われていくことだろう。
 火力調節の直感的な分かりやすさや素早さを考えた場合、(特に日本料理に対する)「炎」のメリットは電気ヒーターやIHなど他の熱源を圧倒していると言えるものね。
 しかし単に食材の加熱だけが目的というのであれば話は変わってくる。とにかく一定時間加熱さえすればいいのであれば、電熱ヒーターやIHでも全く問題はない。むしろ家庭の台所で優先度が高い清掃性や安全性ではそれらの方が優れている。そうなると一概に優劣はつけがたく、最終的な勝敗の行方を占うのはガスや電気という「エネルギーインフラ」の優位性でしかないことに。
 そうなってくると気になるのは、今後の料理文化の行方だ。今後も調理性が重視されるのか、それとも調理性は二の次になり、とりあえず温めることさえ出来ればいいのかによってコンロ勝負の行方も決まる。
 それどころか、多くの人が出来合いの総菜を食卓に並べたり、レトルト/インスタント食品やファーストフードがメインの食事になっていくのであれば、「日本料理」という文化の将来も怪しくなる。日本という国と文化を大事にしたいというのであれば、どこかの自治体みたいに国旗掲揚とか国歌斉唱を強制するより先に、子供たちに伝統的な食文化の良さをもっと学ばせた方が良いのではなかろうか? お節介かもしれないが、そんな事を考えてみたりもして。(笑)

『三教指帰』 空海 角川ソフィア文庫

 ソフィア文庫お得意の「ビギナーズ・クラシックス」の1冊。このシリーズは、これまで読んだことがない古典へのとっかかりとして、時々利用させてもらっている。『徒然草』や『枕草子』のように教科書に載るような有名どころはもちろん、本書のようにマイナーな作品もラインナップされていて、かつ値段もそう高くないから結構重宝している。おそらく本書などは、仏教に興味がある方くらいしか知らないのではないか?(知っていたら申し訳ないが。/笑) 一応知らない人が多いことにして、内容について紹介していこう。

 題名の『三教指帰』は「さんごうしいき」または「さんごうしき」と読む。真言宗の創始者であり日本仏教界を代表する“スーパースター”の弘法大師・空海が若かりし頃、まだ渡唐する前の24歳に書いたとされる一種のマニフェストだ。これから一生をかけて追求しようとする「仏教」の素晴らしさを、儒教や道教と比較しながら説いていき、自らの意気込みを宣言したものだ。
 かといって内容自体は全然難しくない。主たる部分は物語形式になっている上(*)、ビギナーズ・クラシックスの場合は訓み下し文と現代語訳が併録されているので、苦労して漢文を読む必要も無くサクサクとページが進む。自分のようなお気らく読者であっても敷居はたいして高くない。(ただし空海が書いた原文のリズム自体を味わいたい人は、違う版を探して読んだ方がいいかも。)
 読む際にひとつ注意が必要なのは、本書における儒教や道教の考え方は、あくまで執筆当時の空海が解釈したものに過ぎないということ。全体的に思想の掘り下げがちょっとあまく感じられるのは、“青年空海による若書き”といことで止むを得ないだろう。

   *…物語の前に、空海自身の思いをつづった序文がついている。

 物語は兎角公(とかくこう)という貴族が、著名な儒教学者である亀毛先生(きもうせんせい)に相談を持ちかけるところから始まる。相談というのは、公の甥であり放蕩三昧にあけくれるダメ男・蛭牙公子(くつがこうし)の去就に関して。何とか彼を説得して更生させて欲しいという公の懇願に対して、最初は固辞していた亀毛先生もついに折れ、儒教の忠孝の教えを教授することになる。色んな事を述べているが、まとめると要するに次のような内容。

■亀毛先生 要旨
 「忠孝」を尽くして「学」に精進すれば人々から尊敬される。上から重用されれば出世でき、一族郎党が将来にわたり繁栄する。それが幸せと言うものだ。だから怠けることなく親に仕え、真面目に生きなさい。

 これを聞いた蛭牙公子は感激して心を入れ替えることを誓うのだが、しかしそれだけで話は終わらない。その場に同席していた道教の道士・虚亡陰士(きょぶいんじ)が、亀毛先生の主張に異議を申し立てるのだ。(どんな展開だ...。/笑)彼いわく、現世の幸せなど如何ばかりのものかと。そして次には道教の教えが開陳される事になる。昔話でよくあるような繰り返しのパターンだね。

■虚亡陰士 要旨
 例えば高価な服を着ようが大きな家に住もうが、所詮は寿命が来るまでのことに過ぎず、死んでしまえば皆同じ。世俗的な喜びには限界がある。それよりも仙道の教えに従い、過度な感情の高ぶりを抑えて修行を積めば、月にも行けるし空も飛べる。長い寿命を得ることだって可能。儚い命にしがみつき、ただひと時の喜びや悲しみに翻弄されるなどつまらないこと。世俗の喜びを捨てて、天上の楽しみを求めるのが本当の道である。

 これを聞いた蛭牙公子はまたまた感激し、同じく感激した亀毛先生と二人そろって道教に帰依することを誓う。(こんなのばっかり。/笑)
 そして最後に登場するのが、仏教の求道者である仮名乞児(かめいこつじ)。彼はぼろぼろの着物を着て冴えない格好をした修行僧。日々の食べ物ですら事欠く始末。しかしそれをつらいとも思わず、厳しい修行の生活に満足している。彼は青年空海の分身ともいえる人物で、実は内心「親や親族を捨てて出家することは、大変な親不孝なのではないか。それで人の幸せを求める修行などしても無意味では」という悩みを持ったりもしている。そんな彼が先の面々に対して述べた意見は概ね次の通り。

■仮名乞児 要旨
 儒教も道教も素晴らしい教えであるが、いずれも仏教の教えの一面を表したものでしかない。この世のあらゆるものは、「六道」を巡り転生を繰り返す儚いものに過ぎず、この世はまさに諸行無常。無常と言う“暴風”は貴賎の区別なく命を奪いさる。何人も「死」だけは避けることが出来ず、財宝をもって償う事も権勢で押し返すことも出来ない。また神仙や仙薬を用いたとしても、最終的に全てが失われるのを(遅らすことは出来ても)止めることは出来ない。その中で両親への忠孝や個人的な栄達を求めて何になろう。人生の目標はそうではなく、涅槃の境地に達することにあるのだ。

 死にゆく者たちを待ち構える恐ろしい運命を、執拗に描写する仮名乞児。その話に亀毛先生と虚亡陰士は心底震え上がってしまい、救いの方法を教えてくれるよう懇願する。そこで仮名乞児が述べるのは、「生死の海」に満ち満ちているこれらの苦しみを脱し、安らかさを得るためには、仏教の戒律(**)を守るべしということ。また先ほどの自らの悩みであった「出家して仏門に入ると捨てられた親兄弟が苦しむ。それは忠孝に反するのではないのか?」という問いに対しても、(儒教のように)両親に対してだけでなく、衆生一切に対する忠孝を示すことで、もっと大きな「大孝」や「大忠」を実現できるのだと言い切ってしまう。(これはきっと空海自身が、思い悩んだあげくに出した結論でもあるのだろう。)
 これを聞いていたその場の人間は皆、心を入れ替えて仏教に帰依することを誓って幕が下りる。最後が少しあっけないし浅い感じはするけど、これが空海の思想遍歴のスタートだったのだと思うと、それなりに感慨深いものがあるね。やっぱり古典って面白い!

  **…五戒や十善戒、六波羅蜜や八正道など、守るべき様々な教えのこと。

<追記>
 兎角公とか亀毛先生というネーミングがどうも引っかかったので、何かの当て字かと思って調べてみた。すると、どうやら元は仏教用語の「兎角亀毛」からきているもののよう。その意味は「兎(うさぎ)の角」や「亀の毛」など、現実には存在しないものの喩えのこと。さすがは教養あふれる空海らしく、数多くの文献から引用されているようだ。他にも思わぬ言葉が隠されているかもしれないので、その手の遊びがお好きな方はいちどご自身で調べてみても良いかも?

『ラピスラズリ』 山尾悠子 ちくま文庫

 著者は独自の抒情性をもつ作品で根強いファンをもつ幻想小説家。元本は2003年に国書刊行会から出された書き下ろしの連作中短篇集で、このたび補筆改訂して文庫化された。どこがどう変わったのか比べてみようと思ったのだが、前の本をどこにしまいこんだか、とんと見つからない(苦笑)。仕方ないのでもう一度新たな気分で読み直した。

 本書はプロローグでもあり全体のフレームを提供する小編「銅版」ではじまる。ついで不思議な屋敷に住まう人々を描く「閑日」と「竈の秋」、そしてガラリと舞台を変えた「トビアス」と「青金石」という4つの話が続き、全部で5つの物語で成る。「閑日」と「竈の秋」以外は物語の舞台も登場人物もまったく違うが、ゆるやかに結び付けられて美しい細工物のような構成を形作っている。まさに書名にもあるように、美しい鉱物のような幻想譚だ。
 本書全体を貫く設定は「冬眠者」と名付けられた人々の存在。冬になると眠りにつく彼らを巡る物語が、やがて大きなビジョンを垣間見せて、気持ちの良い余韻とともに幕を閉じていく。
うーん、久々に読み返したがやっぱり良い作品だなあ。

 本書のメインパートは何といっても中篇「竈の秋」とその前日譚である「閑日」。この2作に共通する設定「正体の知れぬ巨大な屋敷に住まう一族とその使用人たち」といえば、幻想小説好きにはすぐにイギリスの作家マーヴィン・ピークが書いた『ゴーメンガースト』のシリーズ(*)が思い浮かぶだろう。もちろんピークの作品と同様、本書にも不気味だったりひと癖もふた癖もあったりと、味わい深いキャラクターたちが大勢登場する。
 たとえば当主一族の娘ラウダータや姉のアダーテや、同じく一族の双子の老女マルタとグレタと生意気な使用人たち。他にも数百体にものぼる不気味な人形たちや、屋敷のあちらこちらに出没するゴーストなど。(この中篇はまさしく『ゴーメンガースト』に対するオマージュとして書かれたのではないかと思ったのだが、違うかな?)
 物語は徐々に不穏な動きを見せつつ、破滅への緊張を孕んで進んでいく。異常気象の為に冬越しの準備が遅れ、慌てて作業を進める屋敷に広がる熱病と使用人の反乱、そして明かされる真実...。ジーン・ウルフの諸作品にも似て、様々な登場人物たちの目まぐるしく変わる視点を丹念に読み解くことで、隠された「世界の真実」が徐々に見えてくる仕組み。幻想小説ファンはこの2作品を読むだけでも本書を買う価値ありと言ってしまおう。

   *…『タイタス・グローン』『ゴーメンガースト』『タイタス・アローン』の3部作から
     なるダークファンタジーの傑作。戯画化された不気味な登場人物たちや、彼らが
     住まう巨大屋敷ゴーメンガーストの描写が他の小説にはない独特の雰囲気を醸し出
     している。創元推理文庫から。

 謎は本書全体にも隠されている。「竈の秋」のあとで「トビアス」を読み始めると、一見それまでとは全くつながりがない物語が始まって少しびっくり。それでも慌てずじっくりと味わってほしい。じっくり読んでいくことで、世界の隠された仕組みが少しずつ見えてくるのだから。
 ただし仕組みは徐々に明らかになってはいくが、本書を読み終えても完全に読み解くことが出来るわけではない。心に染みるラストとともに余韻が残るまま始めから何度読み返してみても、全てが理解できたとは到底思えない。でもそれでいいのだろう。「秋の枯れ葉に始まる春の目覚め」に意味を求めても仕方がない。その心地よさを愉しめばいいのだ、そんな気持ちになってくる。

 とまあ、以上がネタバレ無しの感想。しかし先ほど「ジーン・ウルフ(**)」などという大風呂敷を広げてしまったからには、自分が本書をどのように読んだかについて触れないわけにはいかないだろうね、やっぱり(苦笑)。
 そこでここからは野暮を承知で、この重層的な物語の愉しみ方の一例を紹介してみたい。(これから本書を読みたいと思っている方はご注意を。)なおこれらは作者によって作中に明示されている訳ではないので、あくまでも自分の解釈に過ぎないことを予めお断りしておく。的外れなところがあるやも知れぬがご容赦頂きたい。

  **…アメリカのファンタジー・SF作家。代表作は『新しい太陽の書』のシリーズや
     『ケルベロス第五の首』など。物語の設定は作中では明示されず、物語のあちこち
     に散りばめられたヒントによって、読者が読みとらねばならない。
     かなり“読み達者”な読者向けといえるかも。



 それでは早速、冒頭の「銅板」という作品から。
 物語の舞台は現代のいずれともしれぬ町。ある物語のシーンを描いた銅版画が題名とともに提示される。(それは「閑日」と「竈の秋」の2作品であったことが後で分かる。)プロローグとしてこれから語られる(であろう)世界が暗示されるわけだが、実際に語られることになるシーンの他、実は最後まで語られないシーンがあったことが、後で本作を読み返すと分かってくる。

 続くは「閑日」と「竈の秋」。
 「冬の館」の主たちは、冬の期間は閉ざされた館の中で深く長い眠りにつく者たち。(なぜ彼らだけがそのようになったのか、一切の説明はない。)
 冬支度で大慌てしている使用人たちの姿はとても面白いのだが、複数の視点で語られる多くのエピソードが並走して進み、最初のうちは何だかさっぱり分からない。しかしラスト近くになり、それまでは言葉の端々で触れられるだけだった“森の住民”が、実際に姿を現すと事情が一気に判明する。最初の短篇「銅板」で紹介された3枚の銅版画のうち、「使用人たちの反乱」の銅版画が暗示していたのは、実は今の支配者一族というのがかつて館の使用人だったということ。そして反乱により元の主たちを森に生き埋めにして、彼らにとってかわったのだという「真実」に他ならない。それでは眠っている間に森に生き埋めにされた冬眠者たちは果たしてどうなってしまったのか? 冒頭の「銅板」で主人公が抱いたまま、宙ぶらりんに放置されていた疑問の答えは、ここにきて初めて読者の前に示される。腐敗した身体を引きずって木々の間を彷徨い歩く“森の住民“は、実は自分たちの屋敷へと戻ろうとする嘗ての支配者たちだったことが、「竈の秋」の最後のカタストロフィで明らかにされるのだ。
 それでは死者のもうひとつの姿である“ゴースト”とは一体何か?「閑日」では全く分からないままであるが、次の「竈の秋」においてある程度判明する。長年に渡り館にしばりつけられている彼らも、自らの<定め>を知ることによって、光り輝く存在となって昇天していく事ができるのだ。(それが「閑日」のラストに出てきた“冬の花火”の正体ではないかと思われる。なお彼らの本当の姿を知るには、最終話の「青金石」まで待たなければならない。)

 次の「トビアス」は、どことも知れない未来の話。人類が滅びつつある世界に、女性だけが集い暮らす屋敷がある。(どうやらそこに住むものたちが冬眠者らしい。)世界にいったい何が起こったのか? 話は進めど、それが明らかにされることはなく、本書の中でもっとも謎が多い物語となっている。
 本作と次の「青金石」については冒頭の「銅板」にも全く出てこないため、初読の際は綺麗に閉じた世界に綻びが生じたように感じて、正直戸惑いを覚えた。ちなみにトビアスというのは、物語にでてくる犬の名前。キリスト教の説話で「大天使を道連れにして、それと知らぬまま旅をした幸せな少年」からとった名前だそう。このあたりから物語は宗教(というよりもっと原初的な“信仰”とでもいうもの?)の色合いが強くなり、掌編「青金石」へと続いていくことに。

 そしてラストの「青金石」。物語の舞台は1226年の過去へと一気にとぶ。主人公はこれまでとはうって変わり、歴史上の実在の人物である「アッシジの聖フランチェスコ」。“聖なるもの”と“信仰”についての静かな物語で静かに本書の幕引きがなされていく。本作と「トビアス」とがセットになって、本書全体のテーマが徐々に見えてくる仕掛けだ。
 本作では冬眠者と光り輝く“天使”の出会いが描かれることにより、ゴースト/冬眠者/天使という三者の関係が、立体的な構造をもって立ち上がってくる。さらには最初の「銅板」でさりげなく語られていた、見知らぬ乗り換え駅の駅舎にあった円天井。そこに描かれた聖母被昇天の図とつながることで、本書の全貌が明らかとなり、一旦は際限なく開いてしまったかのように見えた世界は、再び大きな円環を描いて美しく閉じる。

 どうだろうか、こんな風に読んでみたのだけれど...。仮に誤読であったとしても、漠然と読んでいるよりは面白いんじゃないかな? 違う読みかたもできるよ!と言う方は是非教えてください。よかったら楽しくお話しましょう(^^)。

2012年4月の読了本

 4月は珍しく出張が全くなかったので、身体は楽だったが読書量が減ってしまった。出張が無いというのも痛しかゆしのところがあるね。(笑)

『ムーミン谷の彗星』 トーベ・ヤンソン 講談社文庫
  *ムーミンの原作本を読んだのはこれで2冊目。宇宙から彗星がやってきて世界が滅亡の
   危機に...という話だが、それが徹頭徹尾、子供たちの視点で描かれていて巧い。
   自分が小さかった頃、遠くまでひとりで出掛けて夕暮れになってしまった時の不安な
   気持ちや、見覚えがあるところまで帰りついたときの安堵感などを思い出した。
   冒頭の「ひみつ」ごっこのシーンも愉しい。ほんと、子供というのは「ひみつ」が
   大好きだよね。それにしても、もしもそれを守れなかったら「谷底に落とされてもいい
   くらいのひみつ」って言い草は大袈裟で、いかにも子供が言いそうな...(苦笑)
『ラピスラズリ』 山尾悠子 ちくま文庫
  *一部に熱狂的なファンを持つ幻想小説の書き手による連作短篇集。元本は国書刊行会
   から書き下ろしで出されたものだが、およそ20年ぶりの新作ということでファンの
   間でかなり話題になった。「冬眠者」と呼ばれる人々を巡る物語で、独特の雰囲気が
   味わい深い。
『僕の妻はエイリアン』 泉流星 新潮文庫
  *アスペルガー症候群(高機能自閉症)の夫婦の日常生活を、夫の視点から書いたノン
   フィクション。あとがきまで読み進んでちょっとびっくり。ネット上のカスタマー
   レビューを見ると評価が割れているが、こういった本が手軽に読める出版環境というの
   は、総じて良いことだと思う。
『オブ・ザ・ベースボール』 円城塔 文春文庫
  *いまや芥川賞作家となった著者の出世作となったもので、「文學界」新人賞を受賞した
   作品。個人的には、併録されているもうひとつの短篇「つぎの著者につづく」がとても
   好みだった。巻末につけられた膨大な注釈を眺めるだけでも愉しいのだが、雑誌初出時
   にはこれが一切なかったそうで、よほどの本好きでないと作中に出てくる単語は全くの
   意味不明になりそう。著者が狙いとするメタフィクションの仕掛けを愉しむところまで
   辿りつけないおそれは多分にある(笑)。
『微視的(ちまちま)お宝鑑定団』 東海林さだお 文春文庫
  *いつもの調子の軽いエッセイです。やはり著者の食べ物系のネタは抜群に面白いね。
『民族とナショナリズム』 アーネスト・ゲルナー 岩波書店
  *ナショナリズムに関する研究書としては、B・アンダースン『想像の共同体』とならび
   “必読書”とされる本。前書が社会学者の視点で分析されたものとすれば、本書は哲学
   者の視点でナショナリズム発生の原理を考察したものといえそう。
『闘うレヴィ=ストロース』 渡辺公三 平凡社新書
  *文化人類学者C・レヴィ=ストロースの生涯と思想を丁寧に解説。新書と思い侮って
   読むと、密度の濃さにたじたじとなる。
『テネブラ救援隊』 ハル・クレメント 創元推理文庫
  *異星を舞台にしたハードSF『重力の使命』(別題:重力への挑戦)で有名な著者の、
   高重力惑星テネブラを舞台にした冒険小説。いわゆる「古き良き時代」の作品なの
   だが、ご都合主義的な展開に鼻白んでしまうかというと、決してそんなことはない。
   確かに今の目から見れば「どうだかなあ」という点も散見されるが、それもひっくる
   めて広い心で素直に愉しむ事が出来た。発表当時はリスク管理とかシステム工学とか、
   学際研究といった考え方は浸透していなかったろうし、非常に高度な自然科学とあま
   りにも粗野な社会科学のアンバランスさが見受けられるのは致し方ない。(科学技術
   をもった野蛮人みたいな感じ。)いや、むしろそのようなアンバランスさこそが、
   この時代のSF小説を読む醍醐味だったりして。(笑)
『火の賜物』 リチャード・ランガム NTT出版
  *副題に「ヒトは料理で進化した」あるように、人類進化の引き金が(従来言われていた
   ような)「肉食の開始」や「道具の使用」ではなく、「料理(炎による加熱調理)」に
   よるものとした論考。
『三教指帰』 空海 角川ソフィア文庫
  *「さんごうしいき」あるいは「さんごうしき」と読む。空海が唐に渡る前の青年期に記
   した、仏教に人生を捧げる宣言書のようなもの。とはいっても全然堅苦しくはなく、
   物語の形式をとっている。儒教も道教も実は仏教の一部でしかなく、仏教こそが一生を
   かけて追求すべき価値のあるものだという著者の主張が、端的に著されている。
『乱視読者のSF講義』 若林正 国書刊行会
  *著者は京都大学大学院の教授で専門は英米文学。単なる象牙の塔の研究者ではなく、
   翻訳や本の解説なども書かれる実践派で、自分にとっては高山宏氏などと同様、無防備
   に浸りきって読める“安心印”の人。本書はSFについての文章だけを集めたもので、
   取り上げられている本はちょっと中上級者向けかな。内容自体は論旨もしっかりして
   とても分かりやすいのだが、なにぶんにも対象となった本を読んでいないと興味がわき
   難いと思う。自分は幸いにも殆どの作品を読んでいたので大変に興味深く読めた。特に
   ディレイニーやル=グイン、ディッシュ、レムに関する文章は面白い。またG・ウルフ
   についての文を集めた一章は圧巻。(なんて、SFに興味ない人には何の話か判らんで
   すね。すいません^^;)
『生命の劇場』 J・V・ユクスキュル 講談社学術文庫
  *岩波文庫『生物から見た世界』の著者による、生命哲学に関する本。大学の理事/宗教
   哲学者/画家/動物学者/生命学者の5名が集まって議論をするという物語形式で、
   著者の見解を分かりやすく説明。基本的には動物学者(生命=機械論者)と生命学者
   (著者の分身)の理論対決で、「ダーウィン学説vsヨハネス・ミュラー説」、あるいは
   「生命機械説vs生命主体説」の闘いといった感じ。
   議論が精緻になればなるほど、古臭い感じがしてきてしまうのはやむを得ない。なんせ
   原稿が書かれたのは著者が亡くなった年(1944年)なのだから。DNAすなわち本書で
   いうところの生命の形態を指揮する“総譜(設計図)”も発見されてはおらず、「アポ
   トーシス(細胞の自死)」も発見されていなかった頃のことだ。この時点で生命現象の
   本質にこれだけ肉迫したのは大したもの。(福本伸一氏が『生物と無生物のあいだ』等
   で記した「動的平衡」を思わせるような概念まである。)それにしても「環世界」とい
   う考え方は、後のアフォーダンスの先駆けともいえるもので、実に素晴らしい。邦訳が
   『生物から見た世界』と本書の2冊しかないというのは返すがえすも残念だ。(ただし
   進化論による適者生存の原理を完全否定して、生命体系の永続を主張したのはちょっと
   首肯しかねるけど。)“はしがき”によれば、著者本人が書き上げたのはどうやら8章
   まで。急逝した著者の代わりに遺稿を整理して残りを完成させたのはユクスキュルの妻
   と息子だそうなので、もしかしたら彼らの考えが混じっているのかな。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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