『闘うレヴィ=ストロース』 渡辺公三 平凡社新書

 このブログをお読みの方はよくご存じと思うが、自分はレヴィ=ストロース(以下L-Sと略す)が好きだ(*)。また本書の著者・渡辺氏は文化人類学の研究者であり、L-Sの訳書や解説書を何冊も出されている。前に他の著作を読んだ時の記憶では、結構しっかりした本を書かれる方という印象がある。

   *…ただしL-Sの本はかなり値段が高いため、主著である肝心の『親族の基本構造』
     や『神話論理』をまだ読んだことはない。ファンとしてはいささか肩身が狭いの
     だけれど(^^;)。

 本書はちょっと変わった題名に魅かれて手にとったのだが、よくある解説本のように単に『親族の基本構造』から『野生の思考』『神話論理』の内容や、“構造主義の創始者”としてのL-Sの功績を紹介するものではなかった。本書の狙いは研究内容そのものの解説よりも、それらの背景にある彼の思想そのものを明らかにしていこうというものだ。(その手の本なら著者自身が既に書いてしまっているし。)L-Sの解説としては、結構新しい試みといえるのではなかろうか。
 話はまず彼が学生時代に社会主義の活動家だったところから。ブラジルに渡る前の時代については、本書の約1/3もの分量を割いて、かなり詳しい掘り下げがなされている。(このあたりの話は「人類学者としてのL-S」だけに興味がある方には、正直ちょっと退屈かもしれない。)彼には研究者としての活動以外に、“ユネスコ社会科学国際委員会(ISS)”の事務局長就任などの公的活動の他、様々な政治的発言も少なくない。そんなL-Sの全体像をよく理解するには、社会主義活動の話は避けて通れない内容であったことが、本書を最後まで読んでみて自分なりに納得できた。(**)

  **…学生時代の彼がマルクス主義に傾倒していたことは、その後の挫折やキャリア的な
     回り道も含めて、彼の思想を形作るうえで大きな役割を果たしたというのが著者に
     よる仮説のようだ。

 本書によればL-Sが初期の著作である『親族の基本構造』から一貫して追い求めてきたのは、「西洋の文明こそが人類の進歩の最先端」だという、当時の世界の意識に対する異議申し立ての”根拠”であるという。(それは今でもあまり変わっていないかも。)書名に「闘う」とあり、果たして何と闘うのか?と思っていたのだが、つまりは“偏狭な西洋文明至上主義”が相手だったというわけ。
 そして先述の“根拠”というのは、構造主義によって明らかにされた「野生の思考」であり「神話構造」であったというのが大まかな結論。L-Sの著作に魅了されながらも、これまでともすれば豊潤な森の中で何度も迷いかけた自分としては、“木”でなく“森”を遠望してルートマップを作り上げようという本書のスタンスは、かなり役に立った。以下、かなり乱暴ではあるが骨子をまとめてみたい。

 L-Sが確立した「構造主義」とは何か。ざっくりと言えばだいたい次のような事だ。まずきっかけは彼がナチスの迫害を逃れて亡命したニューヨークにおける言語学者・ヤコブソンとの出会い。ヤコブソンが当時作り上げようとしていた「構造言語学」の中から「音韻論」(***)の発想を拝借し、全く別の分野である人類学に応用したのが構造主義というわけ。

 ***…言語の個々の意味でなくそれらを構成する「音素」に着目し、他の音との区別
     (すなわち二項対立的な組成の仕方)を「構造」として取り出す方法論。

 その最初の成果であって構造主義の始まりを高らかに告げたのが、世に名高き『親族の基本構造』。(まだ読んでないけど/汗)。ここでは先住民の交叉イトコ婚や平行イトコ婚などの複雑に入り組んだ婚姻規則に、すっきりとした規則性をもつ「構造」を見出し、しかもそれがインセスト(近親相姦)の禁止と表裏一体であることを示した。その意義を簡単に言えば、それまで個々の婚姻に意味を見出そうとして袋小路に迷い込んでいた人類学に、「個々の規則に深い意味はなく、それらが作り上げた構造そのものに意味がある」ことを明らかにして見せたということになるだろうか。
 さらに『野生の思考』を経て彼が明らかにしてみせたのは、この婚姻規則すらも「自然から文化へ」という、人間と環境との関わりにおける非常に大きな流れの一部でしかないということ。次にその実践としてL-Sが取り組んだのが、ライフワークの『神話論理』シリーズを構成する4部作(『生のものと火にかけたもの』『蜜から灰へ』『食卓作法の起源』『裸の人』)と、それに続く3部作(『仮面の道』『やきもち焼きの土器つくり』『大山猫の物語』)というわけ。(余談だがこれらの本も読んでないんだよね。みすず書房さん値段高過ぎ^^;)。

 著者の見解によれば、L-Sが南北アメリカ大陸の先住民に伝わる神話の詳細な分析から見出したのは、色々な二項対立の組み合わせによるヴァリアント(変種)なのだという。『神話論理』で明らかにされた二項対立というのは、例えば火の獲得や食材の調理方法に関する「生のもの/火を通したもの」や、「蜜/灰」(“生であり水で薄まるもの”と“火を通したものであり凝縮されるもの”の対比)、或いは「天上/地上」や「生/死」、「太陽や月」「大山猫とコヨーテ」等々いちいち挙げているときりがないほど。
 これらの項の組み合わせによって作り出せる神話の種類は2×2×2…となり、項の数によって累乗で増えることになる。ちなみに神話における個々の“神話素”の選ばれ方には実は大した意味はなく、自由にもうひとつの項と置き換えが可能。これらの特徴は個別の神話をそれぞれ眺めていても決して分からないものであり、周辺の神話をくまなく分析することで初めて分かる「構造」だといえる。
 ではこれらの構造をもって先住民たちが説明しようとしているのは、いったいどのような事なのだろうか。それはどうやら「火の起源」や「死の始まり」といった“世界の成り立ち”という事らしい。そしてこのために駆使されるのが「神話的思考」であり、また「ブリコラージュ(器用仕事)」とよばれる手法によって、身近なものを新たな「項」の素材として利用する“野生の思考”というわけだ。
 これまでのところをまとめてみる。
 「音声→音韻構造→言語音」というヤコブソンの音韻論を応用して、「生殖→親族構造→社会」という移行を説明したのが『親族の基本構造』だった。そして「自然→神話構造→文化」を説明したのが、彼が『神話論理』以降のライフワークということ。――以上が本書で説明されているL-Sの思想の見取り図といえる。

 ではL-Sはどこからこのようなビジョンを得たのだろうか。本書によればそのヒントは『悲しき熱帯』に書かれているようだ。
 フランスでの社会主義活動に疲れた彼が向かった先はブラジル。彼は赴任先の大学の休暇中に先住民・ボロロ族のフィールドワーク調査を行って、その内容を一時帰国したパリ人類博物館で発表した。結果的にはそのことが後の彼の人生を大きく変えることになったわけだが、その後で長期調査を行ったのが『悲しき熱帯』で描かれたナンビクラワの人々。彼らについては終始好意的に描かれている一方で、現地の白人に対しては辛辣かつブラックなユーモアでもって接している。
 本書によれば『悲しき熱帯』におけるナンビクラワの人々は、「素朴」ではあっても決して「人類の幼年期」の段階などではない。それどころか彼らの「野生の思考(神話論理)」こそが、西洋思想にも匹敵する全く別の思想体系なのだ。(「野蛮人とはなによりもまず、野蛮が存在すると信じている人」という発言からも分かるように、L-Sは未開と文明の区別を自明視する「白人」こそが、自族中心主義を生きる「野蛮人」であると見做していた。)
 もういちど最初の話に戻ると、マルクス経済学やそこから派生した社会主義というのも、所詮は全て西洋的な知の枠組みに過ぎない―という認識がL-Sにはあったのではないか。そしてその事が西洋文明に対するカウンターとして、「野生の思考」を見出させる原動力になったということなのかも知れない。
 もしそうだとすれば、C・レヴィ=ストロースの興味と自分のそれは、案外近いところに在るのかもしれないな。――なんて夢想してみたり。(それともこんなことを書くと、不遜だと怒られてしまうだろうか?)
 しかし結局のところ、「世界そのものを丸ごと理解して愉しみ尽くしたい」というのが自分の願望であるわけで、だからこそ世界そのものを説明しようとする仕組みである「神話的思考」と、それを見事に抽出してみせた構造主義に魅かれているのかも知れない。

<追記>
 本書は刊行された直後に買ったのだが、実際に読み始めるまでかなり時間がかかってしまった。その理由は発売後すぐにレヴィが亡くなり、彼の存命を前提に書かれた文章にどうしても抵抗を覚えたため。本書刊行直後の死亡ということであり、著者もさぞや残念だったろうと想像していたのだが、本書を読み終えてすこし考えが変わった。もしかしたら筆者は逆に、本書の完成が彼の存命中に間にあったことを、「良かった」と感じているのかもしれない。そんな風にふと思ってもみたり。
 厚い本ではないのだけれど、本書を読んで色んなことを考えてしまった。
スポンサーサイト

『僕の妻はエイリアン』 泉流星 新潮文庫

 アスペルガー症候群の妻を持つ夫の視点で書かれた、日常生活についてのエッセイ。単行本で出た時に買おうか迷ったのだけれど、結局買わなかった本。まさか文庫になるとは思ってもみなかったけど、それだけ話題になったという事かな。少なくともかなり人目を引く書名ではあるよね。(ちなみにアスペルガー症候群の当事者にまつわる本を読んだのは、ニキ・リンコ氏と藤家寛子氏の共著『自閉っ子、こういう風にできてます!』に次いで2冊目。)
 日本でも最近になって発達障碍やパーソナリティ障碍についての周知が進んできたけれど、普段そのような人たちがどのような生活を送っているのかについては、(自分も含めて)よく知らないことが多い。従って文庫化によって、大勢の人の目に触れる機会を増やしてもらえるのは、何にせよありがたい。

 詳しく知らない方のために少し補足しておこう。「アスペルガー症候群」というのは、知能指数や言語能力に支障はなくとも、コミュニケーション能力の面で自閉症のような特徴を示す人々のこと。自閉症に関する様々な症例を一括りにした「自閉症スペクトラム」の一部とされ、「高機能自閉症」あるいは「高機能広汎性発達障害」とも呼ばれている。
 先述の『自閉っ子...』という本の感想でもたしか書いたと思うけど、これは単なるコミュニケーションに関する障碍というわけではなくて、体温調節が出来ないとか身体感覚の把握ができないなどの、認識や感覚に関する何らかの障碍がまずあり、それがために脳にインプットされる情報量に制約をうけるという事らしい。本書でも感覚や認識に関するトラブルの記述が(本人たちはあまり意識していないようだけれど)さらっと書いてあって、さもありなんという感じ。
 文部科学省の調査によれば、普通学級に通う子供のうち約6%が、何らかの発達障害を持つと考えられるそうだ。(たしかに「何か変わった感じがする」子供って昔からいたし、職場でも何人か思い当る節のある人がいないでもない。)ちょっと個性が強いぐらいであれば生活を送る上で何ら問題ないが、もしもそのせいで本人が悩みを抱えたり、周囲との軋轢が生じたりするなら、それは改善が必要となる。このような”特性”を持つ人がいるのだという事を、皆が知識として知っているだけでも、世の中がもっとうまく回っていくことだってあるはず。(それが差別の原因になっては絶対にいけないのは勿論だが。)その点にこそ本書が文庫ででた意義があるというもの。(幸いにして、そこそこ売れたようなので良かった。)

 以下、本書を読んで思いついた事を少し。
 本書の「妻」は大学で言語学を専攻した人で、言葉に関する造詣も人一倍深い。本書における「夫」とのやりとりを見ても、極めてロジカルな考え方ができている。(ただし全体的に見るとどこかずれているんだけどね。)
それで分かったのは、「限られた情報のインプットからでも、常人並み以上の論理的な判断は可能」ということ。そう考えると「論理的な思考」というのは、実は脳にとってさほど難しい処理ではないのかも。(たしかに機械仕掛けのパソコンでも、四則演算に代表される「論理的」な処理は上手にやれるわけだし...。)
 アスペルガー症候群の人たちが苦手とすることは、むしろごく普通の日常生活におけるこまごました処理のほう。してみると、コミュニケーション能力というのは、感覚と判断能力の(極めて高度な)統合といえるのではなかろうか。
 論理化/モデル化というのは世界を単純化して「切り分ける」ための強い武器なわけだが、モデル化することで失われるものがあるということは、充分に自覚的であるべき。すべてをあるがままに理解するには、「論理」というものはおそらく不向きなのだ。考えてみれば当たり前のことだけれど、人間が考えるようなレベルを遥かに超えて、世界はもっと豊潤で素晴らしいということなのだろうね。

<追記>
 バロン=コーエン著『共感する女脳、システム化する男脳』(NHK出版)にも書かれていたように、コミュニケーションに不可欠なのは、論理やシステム化を行う能力ではなくて「共感する」という能力なのだと思う。そしてそれを司っているのが実はミラーニューロンなのではないか?というのは、イアコボーニ著『ミラーニューロンの発見』(ハヤカワ新書juice)から仕入れた知識。あちこちの本をつまみ食いしているうちに、ひょんなところで知識が繋がっていくのが堪らなく面白い。これだから本の“雑食主義”は止められないのだ。(笑)

『西洋中世の罪と罰』 阿部謹也 講談社学術文庫

 日本では何か問題を起こして謝罪する場合、「世間をお騒がせしたこと」に対してお詫びするケースが多い。何かをいさめる場合に使う言葉としては「世間体が悪い」という言い方も。これは日本における「罪」の意識というものが、共同体と結びつく形でしか見られないということを意味する。一方で西洋社会においては、個人の「罪」が社会や共同体との関連ではなく、時代によって変化することのない“絶対的な”基準に基づいているといえる。それは何故だろうか? 本書で著者はそう問いかけてくる。
 確かに言われてみればその通りだ。よく言われるように、キリスト教には犯してならない「七つの大罪(*)」という決まりがあって、その罪を犯したものには「罰」があたえられ地獄に落とされる。すなわちある決まりを破る行為が「罪」なのであって、それ以上でもそれ以下でもない。(もっとも「マナー」とか「常識(コモンセンス)」といった社会通念上のルールは、それとは別で存在するわけだが。
 一方で日本の場合、たとえ法律には抵触していなくても、世間から見て問題があると判断されれば、容赦なく断罪される。一概にどちらの社会が良いとは言えないが、少なくともベースになっている考え方が違うのは確かだ。

   *…もとは「贖罪規定書」の条文に定められたものだそうで、傲慢/嫉妬/憤怒/怠惰
     /強欲/暴食/色欲の七つの行為のこと。(なお贖罪規定書については後述。)

 話を戻そう。西洋では「罪」に対してそのような厳しい規定があるわけだが、ついうっかり罪を犯してしまった場合でも、「罰」を防ぐ方法が無いわけではない。それは犯した罪を自ら司祭に告白して許しを得ることで、それを「告解」という。先ほどの「贖罪規定書」というのは、告解のための手引書にあたるものなのだそう。そこには司祭が信者をうまく誘導して告白を引き出し、次いで彼らに「許し」を与えるための手順(=贖罪)が、事細かく規定されている。
 本書によれば、西洋においても罪や罰に対する意識は、かつては日本と同じようなものであったらしい。しかしキリスト教の普及とともに贖罪の手続きが徐々に浸透し、今のような価値観が形成されてきた。ローマカトリック教会が「国家」という世俗の権力と結びついて、個人の生活の細部まで指導する仕組みを作り上げ、それが数百年以上に亘って定着したが故のことだ。
 ちなみにその場合、社会の最上位に君臨する国王や教皇というのは、臣民に対して生きる上での規範をしめす存在ということになる。従って規範が守られない場合は、たとえばルターによる宗教改革やフランス国民による市民革命などのように、逆に庶民の側から強烈な「NO」を突きつけられる破目になるのだろう。(もしくはグノーシス主義のように「この世は悪しき偽物の神が作り上げた世界であり、肉体は悪。魂こそが清浄」という倒錯した観念に行きついたり...。)
 いずれにせよ、原罪のせいで楽園から追放され神の庇護がなくなってしまった我々人間にとって、代わりに「国家」というシステムが生きていく上で無くてはならぬものになった――というのが、西洋の考え方の基本らしい。

 また少し話が逸れた。著者によればキリスト教が伝わる前のヨーロッパというのは、たとえばアイスランドのサーガや北欧神話のエッダなど、ゲルマン民族に古くから伝わる伝承を読むことでわかるとのこと。そこでは生者と死者の世界は分断されておらず、死者は“生”を失った後も以前と同じように現世で活動する。(もちろん死ぬと食べ物や財産に対する慎み/抑制が無くなったり、いるだけで生者に死をもたらすなどの災いはあるのだが。)
 この根底にあるのは、“死”とは生命活動の停止ではないという考え方だ。個人の「栄光(ハイル)」と「名誉(エーレ)」が氏族の中に残されている限り、人は「死んでも生き続ける」というわけ。ちょっと違うかもしれないが、「人は死して名を残す」みたいなものかな。こうなると“死”とは、単なる身体の状態変化に過ぎないことになる。

 ではこのように現世で力強く元気(?)に暴れまわる死者たちが、なぜキリスト教布教後には地獄や煉獄といった「死者の国」から救いを求める弱々しい存在に零落してしまったのだろうか? 前置きがずいぶん長くなってしまったが、実は本書のテーマはその理由を明らかにすることであり、副題は「亡霊の社会史」という。そして著者はその原因を、先ほども述べた贖罪規定書と告解に求め、その根拠を丹念に解き明かしていくというわけだ。
 最初はノルウェーやアイスランドなど北欧は古代ゲルマンの死生観を、次いで南ヨーロッパからは古代ローマの死生観を探っていく。いずれにも共通するのは埋葬された後も死者は生前と同じように活動するという意識。一方キリスト教は「死後の救済」を謳い文句にして信者を増やしていく作戦だから、両者が合い入れるわけがない。キリスト教団は布教を推し進めるのに合わせて、当然ゲルマンの死生観を駆逐しようとするのだが、ところがどうしてこちらもしぶとく、そう簡単には無くならない。やむを得ず教団は異教の持つ強力なイメージを吸収、利用していく道を選ぶことになっていったわけだ。(キリスト教の教義に基づくかぎりにおいては、本来なら一旦死んだものはこの世に現れることはないはず。煉獄という、あの世とこの世を結ぶ中間的な概念が出来上がるまでは、死ぬと天国か地獄のいずれかに必ず行く他はなく、従って亡霊や幽霊は存在し得ないことになる。)
 しかるに古代のヨーロッパ人たちは、亡霊の存在を信じていた。そのため、キリスト教も亡霊に関して何らかの見解を示すほか無かったということらしい。
 ここら辺の話は、日本で仏教が信仰されていく過程に似ているね。様々に擬人化された神仏や、地獄と獄卒による恐ろしい刑罰が考え出されることで、本来は各自が悟りを開いて生の苦しみから解脱するための教えだったはずの仏教が、一般の信徒たちへも広まっていった。何事も「分かりやすさ」が大切ということかな。

 本書が取り上げる対象は多岐に亘っていて、ヤコブス・デ・ヴォラキネによるキリスト聖人たちの説話集『黄金伝説』なども分析の材料に。これらの説話では死者が現世に現れるのは、あくまでも生前の罪を悔いあらためて救済を得る為だったり、もしくは生者に警告や教訓を与えるため。古代に見られたように生前と同じ性格を引きずったり復讐などの利己的理由で関わりを持つことはない。粗野でたくましかった死者の姿はすっかり鳴りをひそめ、助けを求める哀れで弱い存在へと完全に変化を遂げている。(**)

  **…ただし注意が必要なのは、現代に残る文献はどれも当時の聖職者たち、すなわち
     「エリート」に向けたものばかりであって、当時の民衆に信仰されていた生の声は
     残されてはいないという点。しかもラテン語による聖職者向けの説教の中身は、
     今述べたような民衆向けの土俗的な内容とは違っていたらしく、むしろ民衆の言葉
     に翻訳してはいけないとされていたものもあるらしい。
     しかし当時の信仰の中身を知る方法が無いわけではない。聖職者向けに書かれた
     「民衆を導くための手引き」を分析し、彼らが導くべき“無知蒙昧な民衆”の信仰
     する迷信がどのようなものか、間接的に読みとればいいのだ。まさしく本書におい
     て著者はそれを行っている。

 本書で何といっても圧巻なのは、本書第6章で贖罪規定書の原文が主要な部分を丸ごと翻訳した部分。ちょっと抜き出してみよう。
 たとえば「お前は見栄のために飲み過ぎたことはなかったか。(中略)もしそうならパンと水だけで過ごす30日間の贖罪を果たさねばならない」とか「お前は嫉妬のために、他人の名誉を傷つけたり悪口をいったことがあるか。」といった道徳的な内容。また「運命の三女神が存在していると(中略)信じているか」とか「洗礼を受けずに子どもが死んだ時、(中略)子どもの身体を杭で刺して、そうしなければこの子は生き返り、多くの者に害をなす」もしくは「殺された男が埋葬されるときに(中略)死者の手に膏薬をもたせ」といった、呪いに関わることなど、微に入り細に入り100項目以上に亘ってびっしりと規定されている。
 これらの具体例を持って信者に懺悔をさせた上で、その罪を許すことがカトリック教会の秘蹟であり権力の源泉でもあったとは。そうであれば、例えば13世紀のラテラノ公会議で「成人は男女とわず年1回は告解すること」が定められたように、次々勅令を出して個人の罪を意識させることが教会によって強力に推し進められたのは当然のことだ。そしてその結果、ヨーロッパ社会には現在のような「罪」の概念が徐々に定着していくことになったのだという。

 なるほどねえ。氏族・血縁・部族により構成されていた古代の共同体を、いかにキリスト教の理念に都合の良いものに変えていくか。――そのような民衆と教団のせめぎ合いの中から、現在の西洋社会の個人主義の大元や、はたまた「助けを求める死者」のイメージまでもが生まれてきていたとは。
 自分の場合、西洋中世に関する本を読みたくなったら阿部謹也氏を選んでおけばまずハズレが無いけれど、本書も相変わらずいい感じだね。

<追記>
 余談になるが、理念の純化が進むとやがて倒錯へと行き着くのは世の倣い。「罪」と「罰」に関する教会の活動が最も盛んだった10~12世紀ごろは、ちょうど異端審問や悪魔狩りが真っ盛りだったころでもある。そう考えると、善悪にこだわり過ぎて、あんまり人を追い詰めるのもどうかと思うなあ。“お気らく人間”としては、何事ももう少し大目に見てもらえると有難い。(笑)

書名で50音

 つい先日、ネットのお仲間の方から面白い遊びを教えていただいた。本の題名で50音をつくるというものだ。(“猫のゆり”さん、ありがとうございました。)

 単に思いつく書名を並べるだけでは簡単に終わってしまうので、自分なりに4つの基本ルールを決めた。
  1)エンタメ系の小説から選ぶ
  2)翻訳作品と日本の作品をそれぞれ1作品選ぶ
  3)1作家1作品とする
  4)読んでいない作家・作品は除く
 本当はさらに「長篇から選ぶ」「濁音は対象外として清音のみとする」というのもあったのだが、やってみるとこれがとんでもなく難しい。慌てて4条件に修正した上で、それでも、ああでもないこうでもないと1週間ほど愉しむことができた。
 それではリストを発表しよう(笑)。ただしそんなわけなので、入れたかった作家がどうしても抜けていたり、本来選びたかった代表作が選べなかったりしているが、とりあえずご容赦いただきたい。また「を」と「ん」については、末尾にその字が使われているものを選んである。

 あ 『熱い太陽、深海魚』ジュリ/『赤朽葉家の伝説』桜庭一樹
 い 『犬の心臓』ブルガーコフ/『生ける屍の死』山口雅也
 う 『うたかたの日々』ヴィアン/『歌麿さま参る』光瀬龍 
 え 『エンジン・サマー』クロウリー/『fの魔弾』柄刀一
 お 『オズワルド叔父さん』ダール/『オルファクトグラム』井上夢人
 か 『カエアンの聖衣』ベイリー/『鏡の中は日曜日』殊能將之
 き 『キャッチワールド』ボイス/『狂風記』石川淳
 く 『黒い時計の旅』エリクソン/『グラン・ヴァカンス』飛浩隆
 け 『結晶世界』バラード/『血食』物集高音
 こ 『この狂乱するサーカス』プロ/『甲賀忍法帳』山田風太郎
 さ 『さらば愛しき鉤爪』ガルシア/『さようなら、ギャングたち』高橋源一郎
 し 『師匠たちと弟子たち』カヴェーリン/『神聖代』荒巻義雄
 す 『ストリート・キッズ』ウィンズロウ/『水域』椎名誠
 せ 『世界の合言葉は森』ル・グィン/『占星術殺人事件』島田荘司
 そ 『ソラリス』レム/『蕎麦ときしめん』清水義範
 た 『タクラマカン』スターリング/『探偵の夏あるいは悪魔の子守唄』岩崎正吾
 ち 『地球の長い午後』オールディス/『地球環』堀晃
 つ 『憑かれた女』リンゼイ/『ツングース特命隊』山田正紀
 て 『天の光はすべて星』ブラウン/『敵は海賊・海賊版』神林長平
 と 『トマス・モアの大冒険』ラファティ/『遠きに目ありて』天藤真
 な 『何かが道をやってくる』ブラッドベリ/『ななつのこ』加納朋子
 に 『ニューロマンサー』ギブスン/『日蝕』平野啓一郎
 ぬ 『盗まれた街』フィニイ/『ぬかるんでから』佐藤哲也
 ね 『猫のゆりかご』ヴォネガット/『ねむり姫』澁澤龍彦
 の 『ノーストリリア』スミス/『ノーライフキング』いとうせいこう
 は 『ハロー・サマー・グッドバイ』コニイ/『箱男』安部公房
 ひ 『百年の孤独』ガルシア=マルケス/『光車よ、まわれ!』天沢退二郎
 ふ 『不在の騎士』カルヴィーノ/『富士に立つ影』白井喬二
 へ 『平行植物』レオーニ/『ヘル』筒井康隆
 ほ 『星を継ぐもの』ホーガン/『ぼくのキャノン』池上永一
 ま 『魔法使いの弟子』ダンセイニ/『マインド・イーター』水見稜
 み 『みにくい白鳥』ストルガツキー/『乱れからくり』泡坂妻夫
 む 『ムーミン谷の彗星』ヤンソン/『産霊山秘録(むすびのやまひろく)』半村良
 め 『メデューサの子ら』ショウ/『メンタル・フィメール』大原まり子
 も 『燃えつきた橋』ゼラズニイ/『モッキンポット師の後始末』井上ひさし
 や 『闇よ落ちるなかれ』ディ・キャンプ/『八ヶ岳の魔神』国枝史郎
 ゆ 『ユービック』ディック/『夢十夜』夏目漱石
 よ 『幼年期の終わり』クラーク/『夜のピクニック』恩田陸
 ら 『ライト』ハリスン/『ラピスラズリ』山尾悠子
 り 『リングワールド』ニーヴン/『リンゴォ・キッドの休日』矢作俊彦
 れ 『レンズの眼』ジョーンズ/『レックス・ムンディ』荒俣宏
 ろ 『ロング・グッドバイ』チャンドラー/『六の宮の姫君』北村薫
 わ 『われはロボット』アシモフ/『嗤う伊右衛門』京極夏彦
 を 『きみの血を』スタージョン/『地には平和を』小松左京
 ん 『ダールグレン』ディレイニー/『ボッコちゃん』星新一

 以上、お疲れさまでした(笑)。有名どころからマニアックなものまで色々まじったものになったかな。リストに入れたかった作家はまだまだいるし、学術書やエッセイ、ノンフィクションでも挙げたかった本は沢山ある。いっそのこと小説も学術書も一緒くたにして“ジャンルフリー”としてしまえば、自分が好きな著作家のお気に入りの本だけで出来るかも知れない。そのうち気が向いたら挑戦してみてもいいかもね。

『異界を旅する能』 安田登 ちくま文庫

 著者は下掛宝生流の能楽師にして漢字や古典の研究家でもある人物。以前読んだ『身体感覚で「論語」を読み直す』がとても面白かったので、他の著作がないかネットで検索したところ、2011年にこんな本がちくま文庫から出ているではないか。灯台もと暗しとはこのことで、全く憶えが無かった(失礼/笑)。さっそく買ってきましたとも。

 本書は全部で4章からなる。前半は著者が演ずる能のワキというのがどのような存在かの紹介。彼らは普通の旅人であるにも関わらず、なぜシテ(亡霊)に出会う事が出来、かつ彼らの無念を晴らすことが出来るのかについての論考になっていて、題名にもある“異界”がそのキーワードだ。
 後半になると雰囲気がかわる。前半で紹介した「ワキの世界観」が、実は今の我々にも充分に関係するものであることを語っていく。松尾芭蕉の「風雅の誠」というキーワードや夏目漱石の『草枕』が題材だ。一種の人生ガイドのようなエッセイのような文章になっている。結構学術書のような内容であるのに、ちくま学芸文庫ではなくちくま文庫に収められたのは、後半部分のためだろうか?(でも最初は“ちくま”だった阿部謹也著『中世の星の下で』が、あとから“学芸”で出し直された例もあるし...。筑摩書房ではそのあたりの線引きをあまりはっきりしていないのかも知れない。)ちなみに自分としてはどちらかというと、読みごたえ抜群の前半の方が好み。だが気楽に読める後半も悪くはない。

 ではここからは中身について。
 能は物語の主人公である”シテ”と、物語のきっかけをつくる”ワキ”によって進行される。(シテとペアで出てくる”ツレ”というのが出てくる演目もあるが、基本はシテとワキでワンセット。)また、能は大きく「夢幻能」と「現代能」に分けることができ、前者ではシテが亡霊や精霊であるのに対し、後者では普通の生者である。(以上、偉そうに書いているが全部本書からの受け売り。/^^)
 能の世界では、常に注目を浴びるシテに対して、ワキはいかにも地味な存在ではあるが、著者によれば別に「脇(ワキ)役」の意味ではないのだそうだ。元は「分ける」の意味からきており、曖昧なものを仕分けして見えるようにすることから付けられた名前とのこと。――そうは云っても一体何を分けるのだろうか? 実はそれこそが本書のテーマである「異界」につながっていくのだ。

 夢幻能の場合は、まず舞台に旅の僧などがワキとして登場し、ある土地に差し掛かるところから始まる。俄かに雨が降り出して雨宿りに訪れた家などで出会ったその土地の人から昔話を聞くうち、実はその人物こそが当の本人であることが判明して前半が終わる。後半は世に想いを残して死んだシテが自らの正体を現して謡い、やがて思いを遂げて昇天してゆくというのが典型的なパターン。
 ワキとシテが出会う場所は色々な名所旧跡が多い。普段は何の変哲もないその場所が、シテが正体を現すとともに今と昔の境界も曖昧となって、俄かに異界として立ち現われてくるのが夢幻能の醍醐味といえる。
 ところで昔の人は、能のセリフや謡の言葉ひとつからでも、様々なイメージの重ね合わせが透けて見えたらしい。(今の自分たちには到底むりなことだが、当時の人々にとってはそれが基礎教養だったそうな。)ちなみにそれが可能となるのは、たとえば和歌に見られるように、掛詞や縁語といった日本独特の修辞法によるもの。
 単純なコノテーション(含蓄)を超えて、「歌語(かご)」という独特のもの(*)へと変化しているためであって、旅先で何気なく立ち寄った場所のそこかしこにこのような諸々のイメージを感じ取る力をもって、シテ(亡霊)の「残恨の思い」と交差するのが能におけるワキの役割なのだそうな。

   *…歌語というのは「記紀歌謡から万葉、古今、新古今を経て今に連なる連綿たる歌の
     歴史的記憶をその胎内に内在させ、ポンと歌の中に投げ込むだけで、その歴史的
     記憶を一瞬にして、今ここに開花させる」ことができる仕組みのこと。著者はそれ
     を水中花に喩えていたが、自分はお湯をかけるだけで出来るフリーズドライの
     お味噌汁を連想してしまった。(笑)

 話は変わるが、よく知られている日本人の価値観に「ハレ」と「ケ」というものがある。著者によれば「ハレ」の語源は「晴れ」や「祓う」であって、また「褻(ケ)」とは「離(か)れ」と結びついて「穢(けが)れ」にも通じる概念らしい。(ところで「穢れ」という概念がもとはヒンズー教からきているという噂を聴いた事があるが、果たして本当だろうか? 悪名高いカースト制における不可触貧民の話を聞くと、確かにそんな気もするが...。)
 昔から夏には日本各地で盛大に盆踊りが行われ、定期的に非日常的な空間が作られてきた。お盆の時には「地獄の釜の蓋が開く」というが、盆踊りによって人々はあの世(異界)とつながりを持つことで、溜まった「穢れ」を祓い自分を「リセット」していたのだ。(西洋においても、カーニバルには硬直した社会構造を一時的にひっくり返して混沌をひきおこす働きがあるというのは、山口昌男を読んだ方にはお馴染みの話だろう。)
 しかし社会が発展して「都会」が生まれてくるとひとつ問題が生じる。今の東京を考えてもらうと分かるが、都会ではいつもハレの状態が続いているのだ。常に非日常的な状態が続いていては、新たに特別なハレの時間を設けることはできない。「時」としてのハレのパワーがなくなると、新たなパワーを別の手段で求めていく必要がある。そしてそのひとつが、先ほどの「歌枕」と呼ばれる名所旧跡がもつ「場」のパワーなのだ。今でも各地の「聖地」と呼ばれるところは”パワースポット”とか言われて人気があるが、古くは昔から定められていた「歌枕」と呼ばれる名所旧跡がそれに当たっていたというわけ。例えば本書で述べられている、藤原実方が一条天皇の怒りを買い「歌枕見て参れ」と都を追放されるエピソードからは、昔の人は歌に詠まれた場所によく通じていたということが良くわかる。
 そして著者によればこの歌枕というのは、旅人が通過する際には土地の精霊を鎮魂するために歌を読まなければいけなかった場所なのだそう。すなわち昔の人にとって歌枕とは「聖なる場」であり、亡霊が立ち現れる「異界」でもあったのだ。

 それではなぜ通りすがりのワキだけが、この世ならぬもの(異界)に出会えるのだろうか? 著者はそれがかれらの特殊な「旅の仕方」にあるのだという。結論を言ってしまうと、ワキという存在は「欠落している自分」を認識している人なのだという。心理カウンセラーがクライアントに対してひたすら聞き役に徹することで、本人の自己治癒力を引き出していくように、ワキも「無力な自分」を認識してシテの語りをひたすら聞くことで、逆にシテの無念を晴らすことができるのだという。
 古来「旅」とは本来、自分に欠けているものを切実に乞い願う「恋(乞い)」の旅。住み慣れた場所を離れて何者かに「賜(た)び給へ」と懇願しなければならぬ欠落の旅こそが、異界に出会うための旅の基本なのだそう。
これがまさに釈迦やキリスト、孔子の放浪とも共通するものであって、彼らもワキと同じ乞食(こつじき)の旅を経験していたという話にまで至っては、なんだか壮大な絵物語が目の前に広がるような心持になってくる。

 以上、これまでは能を漫然と見ていただけだったが、本書を読むことで観賞ポイントを懇切丁寧に教えてもらえた気分。前書の『身体感覚...』に引き続いて、とても密度の濃い読書タイムを味わえた。この安田登という人物、オモシロ本の著者としては自分にとってかなりの注目株とみた。(笑)

<追記>
 先日、「SF Prologue Wave」というサイトのコラムで、翻訳家の増田まもる氏が書かれた「からっぽな宗教」というエッセイを拝読させていただいた。http://prologuewave.com/archives/1641
 そのエッセイでは、なぜ日本人が“神道”という(教義も倫理的な規範もない)「からっぽ」な宗教観を持つに至ったのかについて、その理由を日本列島で昔から多く発生した自然災害に求めるという、魅力的な仮説が提示されていて、個人的には全く同感。
 日本人は地震や台風などの理不尽な災害に襲われて、それまでの生活が一変してしまったとき、悲しみに覆われる自らの心に何らかの形で一旦リセットをかけ、その後はただ死者の鎮魂のみを願う事で心の平安を保とうとしたのではないだろうか。それは「災害が過ぎればまた最初から作ればいい」という考えによって裏打ちされていたはず。それが日本人のきっと伝統的な価値観だったのだろう。
 しかし昨年の東日本大震災とその後の津波によって起きた原発事故により、これまでの前提は根底から覆ってしまったという気がする。放射能汚染によって未来永劫、喪われてしまう故郷 ――そのおそるべき可能性を突きつけられ、「リセット」することなど出来ないことに気付いてしまった時、人々はこれまでのようなリセットではなくて、過去を永久に記憶する方向に向かっていくのかも知れない。(ただしこれは、西洋でユダヤ教を始めとする一神教が得意としてきたことでもあったはず。果たしてそれが日本人にとって一番よいことかどうかは疑問ではあるのだが...。)

 うーん、最後に重たい話になってしまって失礼。ともあれ本書はとても読み易くて良い本です。

『葬儀と日本人』 菊地章太 ちくま新書

 著者は東洋大学教授で比較宗教史が専攻の人。本書も副題が「位牌の比較宗教史」となっている。具体的なテーマとしては、本来の仏教には位牌とか先祖供養という概念はないのに、日本ではなぜ今のような葬儀の形になったのか?についての考察。(そんなこと今まで気にしたことすら無かったけど、言われてみれば確かにそのとおりだ。)著者はその疑問に答える形で、儒教・道教・仏教における位牌のルーツと葬儀の在り方を比較しながら、日本人の死生観について分かりやすく説明していく。
 本書によれば、日本人の死生観や葬儀の風習は、中国経由で伝わった仏教に儒教や道教といった様々な習俗が、混交して出来あがったものであるとのこと。結論から言えば、位牌や先祖供養もその過程で付け加わっていったようだ。(もっとも日本の葬儀のルーツは中国由来のものばかりではない。日本古来の精霊的な自然観も混じって今の形になっている。)
 「位牌は何が元になって出来たか?」みたいに具体的な話に興味がある方は、直接本書に当たって頂くとして、ここでは自分が感じたことなどをつらつら書きとめておきたい。

 まずは“心身二元論(*)”について。
 これはデカルトの専売特許かと思っていたが、東洋にだって古くから存在していたということに、今さらながら気がついた。「魂魄(こんぱく)」という言葉がそうだ。「魂魄この世にとどまりて、恨み晴らさでおくべきかあーっ!」というのは、『東海道四谷怪談』でお岩さんがしゃべる有名なセリフだが、この場合の「魂魄」という言葉は、何となく「霊魂」とか「幽霊」みたいな意味で理解されているかと思う。しかし本来はちょっと違っているのだ。東洋の心身二元論について説明するにあたって、まずは字の語源から簡単に説明しておこう。

   *…心と体を別物として見る考え方。典型的な例としては、キリスト教における天上的
     で高尚な“心”と地上的で動物的な“身体”といったイメージなど。

 まず中国では「鬼」という字の意味が日本と違う。よくある「虎皮を付けて角を生やした獄卒(**)」ではなくて、亡者全般を指す。(もっとも日本でも本来「おに」という言葉は、「陰(おん)」という発音から転じたものと言われていたんじゃなかったかな。だとすれば、地獄の獄卒のイメージが定着するまでは本邦でも中国と同じ意味だったのかも知れない。ただし生来のお気らく読者なので、これ以上調べるのも億劫だから(笑)この話はこれくらいでご勘弁。)

  **…「虎の腰巻と頭の角」のイメージ形成は丑寅の方角(鬼門)に関係するとか、
     これはこれで面白い話が多い。

 魂魄の「魂(こん)」は鬼の左側に「云」が付く。「云」は本来「雲」の意味で、形も無く宙にふわふわと浮かぶことから「精神」を指す。訓読みでも「たましい」と読むから日本でも同じ使われ方と思って良いだろう。
 問題は「魄(はく)」の方だ。日常ではまず使われない字なのでいまいちピンとこないが、よく見ると鬼の左に「白」という字がついている。この「白」という字が曲者で、白川静氏らによれば元々は“しゃれこうべ”を象ったものなのだそう。(亡くなった方の頭蓋骨が白く転がっている様子か。)とすれば「魄」は本来“身体”を表す。すなわち「魂」と「魄」のふた文字は、人の身体をつくるふたつの要素を示しているというわけ。まさに心と体を別々のものとみなす心身二元論そのものということになる。―ふう、前置きが長くなってしまった。ここからやっと本題に入る。
 なぜ心身二元論が東洋で考えられるに至ったのか? 著者が出した結論は、大事な人を失い悲しんでいる人々が思う気持ちが生み出したということ。すなわち「たとえ肉体は朽ち果てても、あの人の魂(こころ)だけは不滅でいて欲しい。どこへなりと自由に飛んでいってほしい」という慰めの気持ちから生まれたものではないか?著者はそのように推察する。
 ふむ、離別の悲しみが死生観を形成する原動力なのだろうか。うーん、確かにそうかもしれない。「“あの世”はある、ただし遺された者の心に」とはよく言ったものだね。

 また、(中国や朝鮮半島といった)東アジア地域では、血統一族が個人より重要という示唆も面白かった。これが「先祖に対する生身の窓口」として肉親を大事にする風習、すなわち「孝」の概念へとつながるのだという。(ここらへんがゴチャゴチャッとなり、最終的に位牌の話につながっていくわけ。)
 対する日本の場合に大切なのは、血の繋がりではなく「家」というもの。近代以前の日本では、実際の血縁関係にあまり重きは置かれていなくて、父系と母系が入り混じったり養子縁組やら婿入り婚と、中国の人たちからすればあり得ないほどのフレキシブル性(笑)をもつ。ここから日本人にとっての先祖供養は「宗教という言葉で言い表すものとはよほど違っている(中略)もっと生活感情に近いもの」という、著者独自の主張が出てくる訳だ。うんうん、これはすごく分かる気がする。

 ところで話は変わるが、著者は2004年に新潟でおきた中越地震の被災地の復興を、長年に亘り支援している方なのだそう。被災地である山古志地区においては、自分たちの生活すらままならない状況の中でも、倒れたり破損した墓を修復できないことに対して「ご先祖に申し訳ない」という声が多かったとのこと。なにぶん雪深い山の中の村落であって、春や秋のお彼岸に合わせたお墓参りは無理なので、年に一度だけ親族が集まってお参りするのが風習だったそうだ。
 そのためだろうか。先だって著者が山古志地区の人々に対して行った「先祖の墓」に関する意識アンケートでは、「墓」そのものよりも「故郷」を強くイメージした回答が多かったという。
 独文学者の種村季弘氏によれば、「迷信」とは過去の人が盲目的に信じ込んでいた“非科学的な信仰”ではなく、子供のころからの懐かしい記憶につながる“生活習慣”なのだそうだ。(by『迷信博覧会』ちくま文庫)
 もしそうなら、家の中では仏壇を前にして位牌を拝み、外では「先祖代々の墓」に参るという何だかよく分からない風習が根付いたのも、自分の生まれ育った家や故郷に対する郷愁によるものなのかも知れない。
 極論すれば、きっと「本当に仏教に起因するものであるかどうか?」とか「仏教の教えに即しているかどうか?」ということは、必ずしも本質的な問題では無いのだ。“仏教だと信じて”行われている、そのことだけに意味があるのかもしれない。――本書におけるこのあたりの話は、何だかとっても重要な指摘のような気がするね。

ご挨拶

 謹啓

 当ブログの管理人、舞狂小鬼であります。
 本や活字の事ばかり、好き勝手に書き散らしているこのブログですが、いつもお越しいただいている皆さま、そして初めてお越しいただいた皆さまも、本当にありがとうございます。

 一昨年に始めましたこのブログ。果たしていつまで続くものやらと思っておりましたが、おかげさまをもちまして、昨夜なんとかカウンターが2万を超えました。
 拍手やコメントを書きこんでいただくことは勿論の事、何よりご訪問いただけたというその事自体が、我が心の励みであり日々の暮らしのカンフル剤となっております(^^)。

 これからもマイペースで、思いつくまま書いた記事をぼちぼちアップしていきますが、よろしければ今後とも末長いお付き合いのほど、宜しくお願い申し上げます。

                                     店主敬白

雑誌の思い出

 雑誌については「迷い」がある。昔から迷っていたし今でも迷っている。何をそんなに迷っているのかと言うと、読んでしまった雑誌の置き場と処分の仕方についてだ。本だったら買うか買わないか、又は(積読というのはあるにせよ/笑)読むか読まないかを、キッパリと割り切れる。でも、こと雑誌についてはダメだ、そうはいかない。
 その理由は自分でも分かっているのだ。自分の場合、何となくヒマつぶしに雑誌を買うという事はまずない。読みたい特集記事や連載がある場合に買うのが殆ど。しかし雑誌全体が読みたい記事で埋まっているわけじゃなし、何度も読み返すわけでもないので、読んだ後には結構な場所ふさぎになることが多い。――かといって本と違ってあとから買い直すことも難しいので、思いきって捨てることも出来ないのだ。(苦笑)
 月刊誌を定期購読などしてしまうともう大変。面白い号もあれば興味をそそらない号もあるのは当然だが、欠号になるのが嫌で読みたくもない月もつい買ってしまう。そうしてだんだん買う事が惰性になってしまうのだ。毎月着実に増えていく量(もしくは直実に減っていく棚の空きスペース/笑)が気になりだすと、あとは適当なところで打ち切って、段ボールに詰めて押し入れに仕舞いこむ破目になる。面倒くさいので雑誌を定期購読するのはもう止めようと考えたりもするのだけれど、また何年かすると読みたい雑誌がでてきて同じことの繰り返しに...。
 ほんと、他の方はどうされてるんだろうか。そのまま廃品回収に出して読み捨て? それとも目的のページだけを切り取ってあとは捨てる? 好きで買った雑誌だからさすがに読み捨ても気が引けるし、かといって本にハサミを入れるのも抵抗があって駄目なんだなあ。どうにも困ったものだ(^^;)
 自分の場合は、押し入れにいれて暫く放っておくと、処分するのに心理的な抵抗が減ってくるので、ほとぼりが冷めた頃におもむろに処分するというパターンが多いかなあ。
 とまあ、そんな思いをしながら読んできた雑誌だが、指折り数えてみるとそれでも意外と色んなのを買っていたので我ながら驚いた。中学生の頃に初めて買った雑誌から、主だったものを順に挙げてみよう。短いもので3年程度、長いものだと8年くらいは買い続けてたんじゃないかと思う。

 ■月刊短波
   中学校のときに凝っていた「BCL(海外短波放送聴取)」の専門雑誌。初めて月刊誌
   を買うという経験が、何だか大人になった気分で気持ち良かった。でも内容は中学生に
   は難しく、日本語放送の番組表や読者ページくらいしか読んでなかったような。(笑)
 ■SFマガジン
   言わずと知れたSF小説誌の老舗。中学3年の時に市立図書館で偶然見つけて嵌まった
   覚えが。世の中にこんな面白い専門誌があるのかと、毎月少ない小遣いをやりくりして
   買っていた。(特大号や増刊号はいつもより高いので余計に大変だった。)それこそ、
   隅から隅までなめるようにして読んでいたものだが、会社勤めをはじめてからは徐々に
   疎遠となってしまった。後で古本屋を回って買い集めたバックナンバー共々、今でも
   実家の押し入れに大事にしまってある。
 ■アニマ
   平凡社から出ていた動物の専門誌。動物写真が満載で眺めているだけでも愉しい。当時
   はまだ『田中角栄研究』などの社会的なルポや評論で有名だった立花隆氏が、日本の
   霊長類研究の専門家にインタビューする連載が毎号楽しみだった。(後に『サル学の
   現在』という題名で書籍化。)休刊になったときは悲しかったなあ。
 ■OMNI(オムニ)日本語版
   旺文社が出していたアメリカの科学雑誌OMNIの日本語版。ほぼ毎号掲載されるSF短篇
   が目当てで買っていたが、肝心の科学記事自体は他の科学雑誌に比べて、少し見劣り
   していたような気が。(失礼/笑)
 ■rock‘in on(ロッキング・オン)
   渋谷陽一によって創刊された洋楽専門誌。大学時代の友人の影響で洋楽を聴き始めて、
   本誌も購読を始めた。本誌はいつしか買うのをやめてしまったが、洋楽はいまだに趣味
   で聴いている。
 ■トランジスタ技術
   会社の仕事の関係で「自己啓発」のつもりで買い始めたが、はっきりいって面白いわけ
   じゃなかったなあ。紙面の半分以上を広告が占めるという、まるでゼクシィのような
   (笑)、重たい雑誌だった。
 ■本の雑誌
   活字好きなら一度は手に取ったことがあるのでは? ぱらぱらと紙面を眺めているだけ
   でも愉しいのだが、集め出すときりがないので思いきってやめた。
 ■怪
   日本初の妖怪専門誌。水木しげる、京極夏彦、荒俣宏、宮部みゆきといった豪華執筆陣
   による季刊誌で、どうせ数号で廃刊になり幻の雑誌となるだろうと思って買ってたら、
   なぜか人気が出てしまった(笑)。リニューアルして特集が「緩く」なり、版型も大き
   くなって本棚で揃わなくなったのを機に卒業。
   (京極夏彦が直木賞をとった『巷説百物語』のシリーズが連載されていたのは本誌。)

 これ以外にも、特集が面白ければその号だけ買っていた雑誌には、『レコード・コレクターズ』『ミステリマガジン』『サライ』など色々あり。おそらく実家を探せばまだ残ってるんじゃないだろうか。
 そんなわけで、ここ数年は雑誌を買う事も殆ど無くなっていたのだが、今年になって久しぶりに定期購読を申し込んでしまったのが、3月に新しく創刊された『ナイトランド』という季刊誌。(なんと今どき「幻視者のためのホラー&ダークファンタジー専門誌」なのだそうだ。怪奇幻想小説のファンとしては、なんとしても応援せねばなるまい。)
 これが最後の定期購読になるのか、それともまだこれから驚きをもって買い続ける雑誌が現れるのか、楽しみなようでちょっと怖いようで...。果たしてどうなることやら。

<追記>
 余談になるが、河出文庫から大森望氏の編集による『NOVA』という本が出版されている。書き下ろしSF小説のオリジナルアンソロジーだ。2012年3月現在で第7集を数える人気シリーズとなっているようだが、編集の仕方といい発刊のペースといい、実はこの本、「広告が載っていない小型の雑誌」と考えても良いのではないのだろうか?
 そしてそれと好対照なのが、前述の『ナイトランド』。こちらは若干のエッセイや連載小説も載ってはいるが、書籍であってもおかしくないほど特定のテーマに絞り込んだ内容になっている。(広告も殆ど載っていないし。)
 このふたつを比べてみて、市場のパイが小さい特定ジャンルの小説については、色々なアプローチの仕方があるのだということに気がついた。河出書房新社のような大手の会社であれば、雑誌の代わりに文庫で出すという手もある。また『ナイトランド』の出版元であるトライデントハウスのように小規模な出版社は、どれほど売れるか分からない書籍で出すより、「定期購読」という安定収入を得られる雑誌形態で出した方が良い場合もあるわけだ。書籍だと割り切ってしまえば、『ナイトランド』が店頭売りで1700円、年間購読でも1500円という高価な値付けになっているのも、一応納得がいく。
 総合雑誌や中間雑誌の凋落が叫ばれて久しいが、これからは万人向けの幕の内弁当のような雑誌でなく、『NOVA』や『ナイトランド』のように専門店のこだわり弁当のような雑誌がオンデマンドなどで増えてくるのかもしれない。むしろその方が出版業界も活気づいて良いかもね。

『銃・病原菌・鉄(上/下)』 ジャレド・ダイヤモンド 草思社文庫

 ベストセラーの本、もしくはベストセラーになることが分かっている本を買うなんて久しぶり。2006年の『ダ・ヴィンチ・コード』以来だ。その前は『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』の2002年なので、10年も前になる。(なんせ「売れているから」という基準で本を選んだことが無いもので...。/苦笑)
 ジャンルとしては世界史もしくは人類史になるわけだが、著者は歴史学者ではなくて、意外な事にアメリカの進化生物学者。本書は98年のピューリツッアー賞を受賞しており、朝日新聞の「ゼロ年代の50冊」でも第1位に選ばれている。単行本は高くて買えなかったので、文庫になるのを長年待っていた本だ。
 で、早速読んでみたわけだが、やっぱりベストセラーの本は癖が無い半面、自分のような活字の中毒者にとっては少し物足りなさを感じる点も。多くの人が読んで満足がいく本なわけだから、「尖がったところ」がないのは止むを得ないところだろう。ただし1点だけ苦言を呈したい点が。この著者、残念なことに本の構成が上手くない。本書の内容自体はとても面白いと思う。それゆえ余計に、文章が悪くて面白さが充分に伝えきれてないことがとても歯がゆい。(これは訳文のせいではなく、原著の文自体が元からこなれてないため。)
 具体的には、途中で同じ話が何度もリフレインされるため少々くどいと思う。もっと文章を刈り込んで3分の2くらいにすれば、もっとすっきりした印象になる気が。ほんと、内容は面白いので余計にもったいないと感じた次第。(*)

   *…自分は数日で一気読みしたので、同じ話が何度もでてくると辟易してしまったが、
     毎日少しずつ読み進む方は前の内容を忘れているので、少しくどいくらいが却って
     分かり易くて良い、という意見があったことも付け加えておきたい。「ゼロ年代の
     50冊」は新聞社のセレクトだけあって、やはり活字マニアなどはハナから相手に
     しておらず、「一般読者にとって読みやすい」ということが最重要になっていると
     いうことなのかな?

 とまあ、文句はこれくらいにして(笑)、肝心の中身について紹介をば。
 本書の内容はまとめてしまえば簡単であって、要は「ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸など他の地域を征服することが出来たのは何故か?」というもの。直接的には本書の題名にもある「銃」「鉄」「病原菌」がその原因であって、本文の最初の辺りですでに種明かしが。「銃器や鉄製の武器や騎馬を利用した戦闘術などの“軍事技術”」「伝染性と致死性が強い“病気に対する免疫”」「集権的な政治機構」「記録を残せる“文字の発明”」といった因子に関する地域差(=持つ者と持たざる者)について、かなり懇切丁寧に説明されている。
 ただし本書の最終的なテーマ(つまり著者の狙い)はそこにはなくて、今挙げたような直接原因が何に起因するのか、すなわち根本原因を明らかにしようというもの。それは大体次のようにまとめることが出来る。

 最も大きな理由は、食料の確保に関する条件の違い。具体的には石器時代の食料調達の方法であった「採集」から、農耕による「生産」への移行によって、単位面積あたりで養える人口が増えた時期が早いか遅いかだ。食糧生産に余裕ができると、農耕に直接携わらなくても良い構成員(王侯貴族、戦士、職人、司祭など)が生まれる。そしてこれによって、文化的な優位性をもった社会が出来上がるのだとか。
 人口が増えて規模が大きくなるにつれ、社会はいくつかの特徴を持った構造に分かれていくが、本書では仮に4つの区分による社会構造の比較がなされている。(別に4つに確定と言うわけでは無いらしい。)
 ひとつ目は「小規模な血縁集団社会」で、「バンド」とも呼ばれるもの。ふたつ目は「部族社会」。先ほどの小規模血縁集団(バンド)の集合体で、「ビッグマン」と呼ばれる世話役が居る場合もある。三つ目は「首長社会」。ここで身分の差が発生する。数千人規模になり知らない人間同士が増え、親族や知り合いによる調停が不可能なトラブルが発生。特定の人物やグループにとりまとめを頼むことになる。やがて階級は固定化し、首長が「統治」する社会へと変化していく。そして最後の四つ目は「国家」の形態へ...。なお気をつけなければいけないのは、これは決して「進化」ではないということ。ただ単に規模の大きさにもっとも適した社会形態だというだけであって、構造自体に優劣はない。ただし社会の持つ“強さ”は区分によって違っていて、後者になるにつれて、社会としてはより強くなり、他の社会を併合しながら拡大していくことになる。(**)

  **…多様な人の数がふえるほど、その社会の潜在的なパワーが増すのだとすれば、現代
     における中国やインドの発展は当然の事といえる。出生率が低く若者が減った先進
     国が生き残る道は、手厚い教育などで効率よく知力の底上げを図るしかないという
     ことかも。ちょっと寂しいね。

 このようにして社会が大きくなり安定して“余剰”ができるようになると、お次にくるのは文明の発達のステップ。文字の発明や技術の開発は、その社会の優位性を更に高めていくのに大きな力を発揮する。ただし著者によれば、技術力の差はそれだけの要因では決まらないとのこと。個別の社会がもつ「保守性の違い」が大きな要因なのだそうだ。たしかに新しいものを面白がる気風がなければ組織が停滞するというのは、多くの企業や団体をみればよく分かる。新しいものを面白がる社会はすなわち新しい技術を発明する社会でもあり、そうでない社会に対して間違いなく優位性を持つことができる。
 以上が、技術の発達したヨーロッパ社会がそうでない社会を征服できた大まかな理由。(しかしそもそもなぜそのような気風の違いが出来るのか?さすがにその理由までは考察されていなかったのはちと残念。)

 ここまでで本書の話題のおよそ半分になる。これで話が終われば「よくできた歴史の本」で終わるのだが、本書にはまだ続きがある。(本書の特徴はむしろここから。)食糧の余剰生産によって人口が増え、それによって文明が進んだという仮説はとりあえずOKとしておこう。その前提に立って著者が次に考えるのは、「なぜヨーロッパ地区で食糧の生産がもっとも進んだのか?」という疑問。ここからはまさに生物学者の面目躍如というやつで、人類が栽培や飼育するのに適した野生の植物や動物が、「たまたま」どの地区にどのくらいの種類、自然発生していたかについて膨大なデータから解き明かしていく。
 食糧生産は世界のあちこちで年代もバラバラに自然発生したはずであって、そのときまではヨーロッパと他の地域による格差は生じていない。たまたま栽培に向いた植物が自然に生えていたか、飼育(家畜化)に適した動物がいたか、似たような気候で同じ栽培方法が使える地域が広く使えたか―― などの偶然によって、ユーラシア大陸の片隅に食糧生産に優れた地域が生まれたのだ。他の地域との違いが現れるのはそこから。
 ユーラシア大陸はアフリカ大陸や南北アメリカ大陸に比べて、南北よりも東西の方向に長い。緯度が変わると寒帯から熱帯まで気候が劇的に変化するので、人間に比べて環境適応力が低い動植物が伝播するのは容易ではない。従って家畜や農作物をそのまま移植するわけにはいかないのだ。
 しかしユーラシア大陸の場合は同緯度の地域が東西に長く広がり、気温差や降水量、雨季のタイミング変化などの気候差も(他の地域に比べれば)比較的少ない。そのため、栽培植物や家畜などの生き物をそのまま他の地域に持ち込める可能性が高かった。このように有益なものが早く広まることで、人口が増え社会が発展する可能性が増えていった...。以上、長くなってしまったが、これが著者の言いたかったことの大まかなまとめ。

 疫病についても同様のことが言える。気候によって異なるその土地固有の風土病的なものが、大流行を引き起こす恐ろしい伝染病の始まりと考えれば、食糧生産と根は同じとなる。病原菌は家畜由来のものが突然変異して人間にも感染するのが基本という話だから、人口密度が増えて家畜との接触が増えれば伝染病の発生頻度も増す。非衛生的な当時のヨーロッパの都市では大流行が起きるのも当然で、(皮肉なことに)その結果ヨーロッパの人々には天然痘などへの免疫力がついた。これがやがて新大陸侵略の際には、「予期せぬ先兵」として活躍し、免疫力のない先住民を絶滅に追い込むほどの猛威をふるったというわけ。少人数でインカ帝国を襲ったピサロたちにとって、銃や鉄以上の思わぬ僥倖(ぎょうこう)となったのは(ヨーロッパの風土病とも言える)天然痘の蔓延だったのだ。(***)

 ***…ただしこのあたりの知識については、実を言うとW・H・マクニール『疫病と世界
     史』(中公文庫)で既に了解済みの内容。自分にとって今回はおさらいといった
     感じだった。でも読んでいない人にはきっと斬新な見方なのではないかと思う。
     自分も『疫病と世界史』を初めて読んだ時には驚いたし。

 以上、駆け足でざっと本書の中身を紹介してみたがどうだっただろうか。話があちこちに飛んで申し訳なかったが、これでも自分なりに整頓し直したほう。本文はよく似た話があちこちに顔を出して、流れを堰き止めてしまうので、一気に読みにくいこと甚だしい。(苦笑)
 ただし構成の乱雑さは別の話として、全般的には「アメリカ人の本ってなんて主張が分かりやすいんだろう」という印象をもった。著者によってわざわざ「本書執筆の動機」が説明されているが、その内容もいかにもアメリカらしい。なんせその動機が、未だ根強くはびこる「白人を遺伝や民族的に特別視する風潮」、つまり優位性を生物学的・遺伝的な要因に求めることに対する反論の根拠を示す為だというのだから。
 世界中の大陸における文明の発展格差は「白人がもつ生まれついての能力や資質の結果による“必然”である」という見方が、アメリカの白人社会にはまだ根強くある。自分からしたら「何をバカな事を信じているのか」と一蹴したい気もするが、それでは解決にならない。しかしだからと言って、「それは白人が住んでいた場所と大陸の特徴による、単なる“偶然と幸運”の結果に過ぎない」と反論するため(だけ)に、これだけの本を書こうとするなんて、なんて純粋な人なんだろう。
 題名の意味については先ほども触れたが、思わせぶりな暗示でごまかしたりせず、「ヨーロッパ人が大陸を征服できた直接原因を凝縮して表現したもの」だと、本文中で懇切丁寧に説明してくれている。こうして見ると、アメリカ人ってもしかして純粋な人が多いのかね? 同時期に併読していたU・エーコの『完全言語の探求』なんかと比べると明らかに違う。これでもかというくらい一本調子で、「こんなに見方を単純化してしまっていいのかな?」みたいな感じ。
 ちなみにヨーロッパについていえば、「緻密だけどまどろっこしいドイツ」とか、「レトリックが美しくて詩的だけど装飾過剰なフランス」とか、地域や言語によって特色はあれど、概ね雑多なものをありのままに表現しようとしている気がする。曖昧で結論がないのが特色の日本といい、おそらく社会文化によるものなのだろうとは思うが、国や地域によって色んな違いがあって面白いね。

<追記>
 本書で感心したのは、太平洋地域を中心としたヨーロッパ系民族と非ヨーロッパ系民族の交流の記述に、かなり力を入れている点。具体的にはポリネシア諸島をモデルケースにして、気候、土壌、その他地理的な条件など環境の違いにより、元を同じとする民族がどのような社会変化をおこし、多様な仕組みが形成されたかを検証。非ヨーロッパ系同士の交流をもっと研究すべきだと述べているが、これはヨーロッパやアメリカの白人を中心とした今までの人類史にない斬新なところといえる。余談になるが、それを補完する一冊はおそらく『ナマコの眼』(鶴見良行著/ちくま学芸文庫)に違いないと今思いついた。忘れないうちに書いておこう。(笑)
最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR