2012年3月の読了本

 今朝、息子が東京の大学に進学する為に家を旅立った。昨夜は会社を退職して大学で学問の道へと進む元部下と、久しぶりに再会して酒を飲んだ。いずれも少し寂しい気持ちはあるが、次に一回り大きくなった彼らと再会する時を愉しみにして、明日からの日々を新たに刻んでいこう。
 春は別れのシーズンだが、別れがあればまた出会いも。職場にもそろそろ新入社員の初々しい顔が並びはじめた。気がつけば自分は上から数えた方が早い年齢になってしまったが、まだまだどうして、好奇心やワクワク感には結構自身があるぞ(笑)。人や本との新たな出会いはこれからも続いていくんだから。
 と言うわけで3月に読んだ本は以下の通り。

『謎の物語』 紀田順一郎/編 ちくま文庫
  *はっきりとした結末を示さない物語(リドル・ストーリー)のアンソロジー。これまで
   に読んだ作品も多いが、何度読んでも相変わらず面白い。マーク・トゥエインの「恐ろ
   しき、悲惨きわまる中世のロマンス」や、ストックトン「女か虎か」。C・モフェット
   「謎のカード」に、B・ペロウン「穴のあいた記憶」。そして小泉八雲「茶わんのなか」
   や、ダンセイニ「野原」、ブッツァーティ「七階」といった傑作が目白押し。
『巨流アマゾンを遡れ』 高野秀行 集英社文庫
  *世界の辺境・秘境を旅する冒険ライターの、船旅によるアマゾン川の遡航記。著者にし
   てみれば観光旅行なみの平凡な旅らしいが、自分からみればとんでもなく無謀なことを
   沢山していて、結構ハラハラどきどき(笑)。
『治癒神イエスの誕生』 山形孝夫 ちくま学芸文庫
  *イエスや使徒たちによる病気治癒の逸話が、キリスト教の浸透にいかに影響があったか
   について、当時の民間信仰や異教との関連から分析した好著。
『吾輩は猫の友だちである』 尾辻克彦 中公文庫
  *「尾辻克彦」は、芸術家・赤瀬川原平氏が小説を書く時のペンネーム。良くある猫好き
   のエッセイと思って読んでいると、いつの間にか著者独特の摩訶不思議な世界観が見え
   隠れ。嘘か真か分からぬ話で徐々に煙に巻かれてゆく感触が心地いい。
『旧約聖書 ヨブ記』 岩波文庫
  *旧約聖書の中でも異彩を放つ、敬虔な信者の受難と救いの物語――なーんて思って読ん
   でみたところ、構成のあまりの破天荒さにぶっとんだ。やっぱり古典は面白い。
『十蘭レトリカ』 久生十蘭 河出文庫
  *「ジュラネスク」「万華鏡」「パノラマニア」に続く文庫版傑作選の第4弾。中でも
   「花賊魚(ホアツオイユイ)」と「亜墨利加討(あめりかうち)」の2中篇が圧倒的。
   (前者は日中戦争の中国を舞台に、日本料理店を経営する老婆が、拉致された息子の為
    に激流の長江を遡る話。後者は幕府崩壊という時代の波に翻弄される元侍の太鼓打ち
    の運命を描く。)
『後藤さんのこと』 円城塔 ハヤカワ文庫JA
  *先日、SF作家として初の芥川賞を受賞した著者による短篇集。さほど長くは無いが、
   中身はぎゅっと詰まっていて、ひと癖もふた癖もある作品ばかり。著者の作品は初めて
   読んだが、結構自分との相性はいいかも。そのうち別の作品も読んでみようかな。
『蔦屋重三郎』 鈴木俊幸 平凡社ライブラリー
  *江戸の出版文化の仕掛け人ともいえる版元、初代・蔦屋重三郎の評伝。
『アイヌ神謡集』 知里幸恵 岩波文庫
  *アイヌ民族に古くから伝わる神謡(ユーカラ)を、平易な日本語に初めて翻訳/紹介。
   言語学者の金田一京助氏による解説を付す。
『アフリカにょろり旅』 青山潤 講談社文庫
  *著者は東京大学海洋研究所助手(当時)。ウナギの世界的権威・塚本教授の下で研究に
   没頭する日々を送っている。そんな著者が世界に生息する全18種類のウナギのうち、
   研究所が唯一採集できていない「ラビアータ」をもとめて、アフリカ奥地を旅する爆笑
   ノンフィクション。(ただし後半はかなり悲惨な状況にも。)
   「これは冒険記の傑作!高野秀行に匹敵する!」とおもったら、解説を高野氏が書いて
   いた。(笑)
『西洋中世の罪と罰』 阿部謹也 講談社学術文庫
  *日本と西洋の「罪」に対する概念の違いを、キリスト教成立以前のヨーロッパ社会まで
   遡って考察した力作。
『天ぷらにソースをかけますか?』 野瀬泰申 新潮文庫
  *元は日本経済新聞社のホームページ「NIKKEI NET」の連載「食べ物 新日本奇行」。
   読者にWebアンケートを実施して、日本中の様々な食文化の境界線(もしくは分布図)
   をまとめたもの。テーマは「天ぷらはソースか天つゆか?」「ナメコの味噌汁を飲む
   か?」「肉まんか豚まんか?」「冷やし中華にマヨネーズをつけるか?」など15種類。
   更には東海道を旅して“食の境界線”を実地に確認した紀行文がつく。解説を書いて
   いるのが椎名誠氏といえば、なんとなく全体のトーンは想像がつくかな。
『ナイトランド vol.1(創刊号)』
  *怪奇小説ファンには堪らない「幻視者のためのホラー&ダークファンタジー専門誌」が
   今この時代にまさかの創刊!値段は高いがさっそく年間購読を申し込んでしまった。
   創刊号の特集は「ラブクラフトを継ぐ者たち」といい、後代の作家たちによって書かれ
   たクトゥルー神話を取り上げている。編集子による巻頭言の意気込みも熱くて、これか
   らも期待できそう。雑誌形式を取ってはいるが、内容のまとまり方からすれば、書籍に
   限りなく近い雑誌といえる。(雑誌に限りなく近い文庫である河出文庫の『NOVA』
   と好対照かな。)
『お好みの本、入荷しました』 桜庭一樹 創元ライブラリ
  *活字魔の作家による読書日記の第3弾。読むジャンルは文学やエンタメ形の小説が中心
   だが、水のように空気のように読書を愉しむ姿勢が気持ちいい。このシリーズ、読んで
   いるとさらに本が読みたくなってくるのがちょっと難点だ。(苦笑)
『三文オペラ』 ブレヒト 岩波文庫
  *メッキー・メッサー(匕首“ドス”のメッキー)という盗賊団の親玉と、彼に愛娘の
   ポリーをたらしこまれた乞食集団のボスのピーチャムによる争いを、オペラ仕立てに
   した1928年発表の風刺劇。(当時大ヒットを記録したらしい。)ちなみに本作にヒント
   を得て開高健が書いた長篇が『日本三文オペラ』。そして更にその設定を借りて小松
   左京が書いたのが『日本アパッチ族』。これで全部読んだぞ。(笑)
『異界を旅する能』 安田登 ちくま文庫
  *能楽師である著者が、自らが演じるワキの視点からみた能の世界を、「異界」をキー
   ワードにしてひも解いていく。
『新潮日本文学アルバム 泉鏡花』 新潮社
  *近代の代表的文学者の生涯を豊富な写真と評伝で紹介する、全31巻のシリーズの1冊。
スポンサーサイト

『後藤さんのこと』 円城塔 ハヤカワ文庫JA

 円城塔という作家については、以前から気にはなっていたのだが、これまできちんとした形で読んだことはなかった。図書館で『オブ・ザ・ベースボール』をパラパラと斜め読みしたり、本屋で短篇をいくつか拾い読みした程度。なんせこの著者ほど毀誉褒貶が激しい作家も珍しい。どうしようかと迷っているうち、何となく機会を逸してしまっていた。
 そうしたら何と第146回の芥川賞を受賞とのこと。「ああ、どうしようか」と迷いつつ本屋にふらりと立ち寄ったら、ちょうど本書の発売日だったというわけ。新刊売り場の棚で出会ってしまったのも何かの縁と、今回初めて購入してみた次第。物事は何でもタイミングが大切だからね。題名も他の本みたいに強面(こわもて)のする英語の題名では無くて、「後藤さん」なんていう柔らかい響きで初心者にはぴったり。(←意味不明/笑)
 割と短めの話が多い。ページをめくってサクサク読み進む。時々ううーんと唸ってみたりもする。短めだけど、どの話もぎゅっと中身が詰まっている。詰っているから意外に疲れる。疲れるけど面白い。
 それでは初めて読んでみた感想(というか覚書)を。

 ひとことで言うならば、この本は「判じ物」。何をネタにしているかは、(少なくとも本書に限っていえば)幸いにも凡そ想像がついた。もし著者の他の作品もこれと似たような感じだとすれば、この人、自分とは結構相性がいいかもしれない。(ただし読むのに集中力がいるからそんなに続けては読めないけど。/笑)
 「判じ物」として本書を見た場合には、作品が示すモノ(意味)の謎ときが出来れば愉しく読めるわけだが、もしも出来なかった時には、読者の反応は2つに分かれるようだ。ひとつはあまりの取りつく島の無さに、文学的な感動すら覚えて大好きになる人。そしてもうひとつは読者に対するサービス精神のあまりの欠如に、怒り心頭となって罵倒する人。どちらの態度をとるかはもちろん読者の自由。
 ただしきちんと判じ物を読み解いてみたい向きには、“理系”の学問とSF小説に通じていた方が、より愉しめるのではないかと思う。(欧米のナンセンスやメタフィクション系の文学作品の知識もあった方が良いかな。)
 理由としては、その類のジャーゴン(業界用語・専門用語)がかなり多用されるから。色んな専門用語を知っているのと知らないのとでは、愉しみ方の度合いが当然違ってくる。さらに言えば同じ理系の中でも「工学系」より「理学系」に詳しい方がいい。本書ではざっと次のようなあたりのネタが目についた。
 自然科学系の、特に量子力学とか素粒子に関すること。古代生物学などに関する科学トピックス。ルイス・キャロルなどのナンセンス文学。ヴィトゲンシュタインなど論理哲学や数学的な素養。R・A・ラファティやバリントン・J・ベイリーに代表されるSF系の奇想小説の系譜などなど。(*)

   *…逆に言えばこれらの用語やジャンルに通じていなくて、メタフィクションや前衛的
     な小説も好きではない読者(たとえば伝統的な外国文学ファンの方など)にとって
     は、この作者の本は苦痛以外の何物でもないはず。このあたりが、円城塔の評価が
     真っ二つに分かれる一番の原因であるような気がするね。

 以上、ごちゃごちゃと書いてきたが、次に自分として本書に何を「判じた」のかについて、簡単にご紹介。
 自分が見るに、本書の中には大きく分けて「奇想」「ナンセンス」「パロディや遊び」の3つの位相が認められた。(複雑に組み合わせっているので一概には決めつけられないが、自分としては少なくともその3つは読みとれたように思う。)
 具体的に何を判じたかは収録作によって様々。例えば表題作の「後藤さんのこと」では、素粒子物理学(統計/重ね合わせ/確率/色価など)のアイデアが“後藤さん”というメタファーに放り込まれることで、強烈な異化作用を生み出している。(自分はたまたまそちら方面の本にも興味があったので、元ネタも大体想像を付けることができた。しかし文系の人の感想をネットで探して読んでみたところ、解釈に戸惑っている様子がありあり。そう考えると、やはりここらへんの知識はあるに越した事は無いのかな?とも。)他にもバージェス頁岩で発見されたカンブリア紀古生物群など、自然科学系のネタが満載だ。
 続く「さかしま」ではガラリと変わって、ルイス・キャロルばりの言語感覚(遊戯)が炸裂。全体を貫くトーンはナンセンスと奇想。ネットでは孤高のSF作家R・A・ラファティとの類似を指摘する声も見受けられたが、なるほどという感じだ。
 あ、ひとつ言い忘れた。たしかに自然科学や情報工学など理系の知識があった方が愉しめるのは事実だが、どうせ意味は異化されてしまうので、意味が分からなくとも言葉の雰囲気を愉しめさえできれば大丈夫、問題はない。(平沢進の幾つかの曲の歌詞にも似た感じといえばピンとくる人もいるかな? それとも却って分かり難いか。/苦笑)しかし作者もよくこんなことを思いつくなあ。

 次に自分なりに工夫してみた本書の愉しみ方について。この作家は普通の小説のように「文章のひとつひとつの意味を追うような読み方」ではなくて、「文の連なりを使って何が行われているか?」を読み解くような愉しみ方がよさそう。もっとも、行われている事(=作品の狙い)も“論理のアクロバット”や言葉遊びであったり、もしくは奇想天外な科学理論であったりと様々なので、読み解くのも結構大変だったりするわけだが。
 仮に数学の式に譬えるなら、X/Yの代わりにA/Bを使っても論理としては同じ意味になるようなもので、個々の言葉の意味を考えるより、文章同士の関係性に目を向ける事といってもいい。但し、X/YではなくあえてA/Bを使った作者の意味を深読みして面白がったり(その深読みがあってるかどうかは別)、作者のセンスの良さを愉しむのはまたまた各自の自由だ。
 もしくはもう少し“文学的”な譬え方をするならば、織物において一本ずつの糸を見るのでなく、それらが織りなす布地の模様をみようということか。もちろん糸の光沢や肌触りに着目して愉しむのが自由なのは言うまでもない。

 まあ総じて言えば「円城塔は読む人を選ぶ」というのも、あながち間違いではない気が。数学や論理的な遊びに慣れているか、もしくは(それらの意味が分からなくても)全体をひっくるめて美しいと思える感性を持ち合わせている人にはお薦めといえる。
 以上、何だか偉そうに語ってしまったが、なんせまだ一冊しか読んでない初心者。次に何を読むかはまだ決めていないが、ここで書いた話が全くの的外れでない事を祈ろう。(笑)

<追記>
 それにしてもこのような作品が評価されて、順調に売れているという日本という国は、(R・A・ラファティがまったく売れない)アメリカより、よほど「民度」(by開高健)が高いのかも知れないな…などと考えてもみたりして。

『蔦屋重三郎』 鈴木俊幸 平凡社ライブラリー

 「蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)」という名前をご存じだろうか。江戸の文化に興味のある方ならよくご存じと思うが、東洲斎写楽や喜多川歌麿らの浮世絵、それに山東京伝の戯作などの出版元として有名な存在。もしかしたらCD/DVDレンタル会社TSUTAYAの社名の由来として記憶している方もお見えかもしれない。本書はそんな江戸を代表する出版文化の仕掛け人に焦点をあてた評伝だ。
 江戸時代の本屋といえば、本の企画と製作(印刷)、それに店舗での販売までを一手に行っていたわけで、イメージとしては70年代の角川春樹氏や、80年代の西武セゾングループを率いた堤清二氏と重なる点が多い。(*)

   *…自分としては角川春樹氏よりも堤清二氏の方が、よりイメージが近いかな。PARCO
     (商業施設)やリブロポート(出版者)とリブロ(書店)を通じた文化活動で、
     まさに当時の日本文化を牽引した感じがする。リブロポートから出された人文及び
     社会学系の本は、文庫や古本で結構愉しませてもらっている。なお「池袋リブロに
     あった伝説の今泉棚」をはじめとした書店リブロの隆盛については、田口久美子著
     『書店風雲録』(ちくま文庫)などにも詳しい。

 蔦屋重三郎、略して「蔦重(つたじゅう)」は正確には三代目までがいるそうだが、本書で取り上げられているのは初代・蔦重のこと。名前はよく目にするのだがその割に詳しいことを知らずにきたので、近刊予告で本書を目にした時に、丁度いい機会と読んでみることに。
 で、出たらすぐに買ってきたわけだが、てっきり江戸の文化を作り上げた敏腕プロデューサーの評伝だと思って読んでみたところ、予想と全然違っていた。「文化人」としてではなく、流通や商材、そしてなにより出版事業の主としての蔦屋、つまり「商売人」としての活動に焦点を当てたものだった。これはこれで興味深くて面白かったのだがいかんせん内容が地味(笑)。また初心者向けというよりも、若干中級者向けといった内容。たとえば「吉原細見(さいけん)」や狂歌/俳諧の「連(れん)」といったことばが、何の説明もなく次々と出てくるので、自分と同じく軽い気持ちで読まれる方がいたら、ちょっと注意した方がいいかも。
 でも出てくる人物名は江戸時代の文化の綺羅星が並び、まるで野球のオールスター戦を見ているかのよう。スポーツではなく本の譬えで言うならば、筑摩書房の名物編集者・松田哲夫氏の『編集狂時代』や、文化人類学者・山口昌男氏の『敗者の精神史』を始めとする人脈シリーズを彷彿とさせる。まさに「江戸の香気に想いを馳せる」とでも言えば良いか。
 以下、蔦重の活動を本書の内容に沿ってかいつまんで紹介しよう。

 時は天明。寛政の改革による締め付けが始まる少し前、田沼意次の治世のころ。
 江戸最大の歓楽街であり文化の発信地でもあった吉原の出身で、吉原細見(**)の出版から身を起こした蔦屋重三郎は、その後の「天明狂歌」の一大ブームを仕掛けることで、江戸を代表する出版元に成長していった。その方法は、狂歌師や俳諧師と「連」や「会」を通じた交流を行う事で、戯作者や摺物師たちとの一大ネットワークをつくるというもの。そしてその人脈を使い、粋な物が大好きな江戸っ子たちの間に、狂歌を使った洒落本の大ブームを引き起こしていったのだ。

  **…「さいけん」といい、今で言うガイドブックみたいなもの。遊女や揚屋などが記載
     されている。

 蔦屋重三郎自身も自らの雅号をもち、積極的に連や会に参加していたようだ。(といっても、もっぱら世話人としてのようだが…。)ちなみに彼の雅号は「蔦唐丸(つたのからまる)」。他にも、本書に出てくる狂歌師たちの名前が洒落っ気があって好い。ざっと挙げてみると、「臍穴主」「何多良(なんたら)法士」「酒呑親父」「酒上不埒(さけのうえのふらち)」「物音響(ものおとひびく)」「加保茶(かぼちゃ)元成」「地口有武(じぐちありたけ)」「大曾礼長良(おおそれながら)」「宿屋飯盛」「元木網(もとのもくあみ)」「竹杖為軽(たけつえのためかる)」などなど。字面を見ているだけでも、当時の“サロン”の雰囲気が何となく思い浮かぶようだ。

 しかし天明期に華開いた江戸の狂歌や戯作といった江戸文化だが、田沼意次の失脚後は寛政改革下で倹約の風潮とともに急激に縮小していく。(出版事業の狂騒に巻き込まれた狂歌師達が、これ以上金儲けに振り回されることに嫌気をさしてきたことも背景にはあったらしい。)
 そこで蔦重が企んだ次の手が浮世絵(錦絵)。天明時代に彼が手掛けた「絵本(*)」において、北尾重政らとともに力を発揮した絵師が喜多川歌麿。その歌麿に美人画を描かせたらそれが大当たりして、その後は芝居絵や相撲絵を中心に規模を広げて売りさばいていった。
 次はもうひとつの柱であった戯作について。寛政改革の影響は大きく、狂歌の自粛と同様に戯作についても中心になっていた武士作家たちが手を引くことに。困った蔦重が自前で育成したのが山東京伝や曲亭馬琴などの新人作家たちで、これがまた大当たりだった。(しかしあまりにふざけが過ぎたのか幕府に目を付けられ、山東京伝の本が元でとうとうお上からのお咎めを受け、身代を半分に減らされるなどの処分を受けるなど散々な目に。)
 その後も名古屋の新進の本屋との取引で互いに売りさばいたりと活発な活動は続けていたようだが、盛時の姿はもはや見るべくも無い。それでも名古屋との取引が軌道に乗っていよいよ、というところで持病の脚気がたたったか、僅か47歳でその寿命を閉じた。―― とまあ、以上が駆け足で辿る初代蔦屋重三郎の生涯。いやあ、知らなかったなあ。勉強になった。思わず“お気らく”どころか一生懸命に読みふけってしまったよ(笑)。

 ***…現代の絵本とは違って、絵を売り物にした当時の書籍の1ジャンルのこと。

 最後になるが本書を読んで感じた印象をすこし。
 著者は数多くの蔦重本を徹底的に調べ上げて比較して、数百年も前に生きたひとりの人物の意図を読み解いていく。その様子はまるで「人文系の学問研究の見本」のよう。その結果、例えば次のような事も分かってくる。
 一般向けに大部数を一気に摺りあげる本は、当たれば大きいが反対に売れ残った時のダメージも大きい、いわばハイリスク&ハイリターンの商品。そこで蔦重は「摺物」と呼ばれる本を多く手掛けることでリスクを減らそうと考えた。これは何かと言うと、特定の好事家に費用を出してもらって小部数の特注品を確実に売るという、今で言うところの自費出版に近い商売。人気作家の本を数多く出していた頃でも、陰ではそのような堅実な商売を続けていたという。(冒頭で派手な「文化人」としての活動ではなく、「商売人」としての活動に焦点をあてると書いた理由がおわかりだろうか。)著者はこれを、数多くの異本を丹念に比較したり、時系列で奥付を調べていくことで検証していくのだ。
 最初に考えていたのとは違っていたけど、なかなか興味深くて良い本だった。

『ヨブ記』 岩波文庫

 旧約聖書は全く異なる多くの文献から成り立っているが、本書はその中でも創世記などと並びとても有名。ヨブという敬虔な信者に降りかかる様々な苦悩を通じて、「信仰」の在り方を描いた宗教上とても重要な一節とのこと。
前からすごく興味はあって、いつか読もうと思ってはいたのだが、あまり重苦しいのもどうかと躊躇していた。ところが――
 実際に読んでみたら想像していたのと全然違ってこれは面白い(というか可笑しい)。自分のようなお気らく読書にぴったり。ヨブに課せられた苦難についての重苦しい描写が延々続くのかと思いきや、そんなものは冒頭の僅か5ページだけ。あとはプラトンの哲学書みたいに、交互に弁論大会が繰り広げられる。しかもその様子も、形だけ見れば何だか掛け合い漫才みたい。この感じ、以前どこかで読んだと思ったら思いだした。『パヴァガット・ギーター』を読んだ時の読書感にそっくりだ。
 古典と呼ばれる作品には、臆せずトライしてみると意外に読みやすくて面白かったりする場合があるが、本書はまさにそのパターン。(テーマは結構シビアなんだけど、今の自分たちの眼からみて書き方がちょっとヘン...なんて言うと怒られるかな。/笑)本書の場合はざっと次のような感じ。

 まずヤハウェの神の敬虔な信者にして裕福な一族の長であるヨブに対して、突然の災い(重い皮膚病)が降りかかる。(*)しかし実はこの病、ヤハウェ神が悪魔の挑発にのってわざと悪魔にやらせたもの。敬虔な者に対して過酷な試練を与えても、神への信仰が揺らぐ事がないかどうか賭けをしたのだ。(「過酷な試練を与えてみよ、ただし命まではとるな」というヤハウェの神の言葉が、そら恐ろしい。)

   *…山形孝夫氏の『治癒神イエスの誕生』などの著作によれば、紀元前後の頃のユダヤ
     の人々にとっては、悪魔憑き(精神疾患)や皮膚病(ハンセン病や象皮病)は
     「神による呪い」であると理解されていた。すなわち神から何らかの罪を犯した人
     に対して下される罰であって、今の我々が考える以上に酷く忌諱されていたよう。

 こうしてヨブは財産も家族も全てを失うわけだが、先ほども述べたようにそこまでは単なるプロローグに過ぎない。本題はこの後に始まる「意見陳述」。(以下はその大まかな内容。ただしかなり「意訳」して且つ端折ってあるので悪しからず。興味のある方はぜひ直接本書にに当たって頂きたい。)
 まずはヨブの告発から。彼は神に対する信仰を失ってはいないが、絶望のあまり自暴自棄になってしまっている。

【ヨブ】
 なぜ何の咎(とが)も無いこの身が、このような仕打ちを受けねばならないのか見当もつかない。こんな目に合わせるためなら何故に生まれてすぐに命を奪ってくれなかったのか。(神に対して恨みはないが、)いっそ早く殺して欲しい。

 次にビルダデ/エリパズ/ゾパルという、町に住む彼の知人3名によって、ヨブに対する反対の意見陳述がなされる。その後、エリスという若者も意見を述べて合計4人になるが、内容はまあどれも似たようなもの。まとめるとこんな感じ。

【4名の知人】
 ヨブに咎が無いなんてことはありえない。本人が気づかないだけか、そうでなければきっと家族が何かやったに違いない。咎なく神の怒り(呪い)が下ることはないのだから。そのような弱音を吐くな。神がすることには必ず深い意味があり、人間なんぞが神の行為の意図を問うなんて不敬極まりない。とりあえず神に陳謝して、その上でどんな罰でも黙って有難くお受けしろ。

 次はヨブによる再びの反論。

【ヨブ】
 おまえたち、したり顔で俺に偉そうに言うな! なぜ悪人が栄えて善人が(このように)ひどい目に逢わねばならぬのか。神が考えていることは人間には理解はできぬことは承知の上。そんなことくらい、お前たち以上に敬虔な信者の自分が分かっていないとでも思ったか。しかしいくらお願いしても訴えても、答えを返して下さらないのが辛いからこそ、このような言葉を言って何が悪い!

 とまあ、6ページ目からずーっとこんな感じ。「掛け合い漫才」と言った意味が、何となくおわかり頂けるだろうか。そして「こんな調子で続いていくと一体どうなってしまうの?」と、いい加減心配になってきた頃に新たな驚きが襲ってくる。それはなんと神の降臨(!)。ヤハウェ神が雲の彼方から突如現れて、意見陳述の場に参加してしまうのだ。しかもとんでもなく“上から目線”の偉そうな態度。(当り前か。/笑)

 【ヤハウェ】
 この世のすべては自分が作り出したものである。単に私の被造物に過ぎぬおまえごとき、自分に比べれば何も知らぬちっぽけな存在に過ぎぬ。(そりゃそうだね。/笑)
 私はこの世の動物たちに要らぬ智恵を授けなかったが、それにはちゃんとした理由がある。それすら判らぬ人間ごときの分際で偉そうなことを言うな。分相応にしておれ!

 このくだりは、ヤハウェからヨブに対して次から次へと「おまえは○○ができるか。出来もしないのにそれが出来る俺のやることに口出しするな!」のオンパレード。何だか大人げないなあ(苦笑)と思いつつ読んでいくと、それを受けたヨブはひたすら「ごめんなさい。言いすぎました。悔い改めます。」と謝るのみ。それで神は気をよくしたのか、ヨブを元通りに治してやるとともに、先ほどの知人たちに対して「敬虔なヨブを祝福する為、彼に自分らの財産を分け与えよ」と命ずるという、とんでもない“大岡裁き”。しかもヨブはその後、病気もせずに140歳まで生きて、一族も栄えたというオマケつきだ。最後のページを読み終わった時には、あんまりビックリしたので開いた口が塞がらない状態だった。
 本書は同じく旧約聖書に収録の「創世記」とは構成からして全く違っている。機会が無くて旧約聖書はまだ通しで読んだことはないのだが、本書を読むと「旧約聖書っていったい全体どうなってるの?」という感じ。これだけ毛色の違うものが一堂に集まっていると、正直言って新約聖書以上にまとまりがなく、まるで「ごった煮」という印象。この調子だときっと「出エジプト記」なんかも、また全然違うんだろうな。読みたいような読みたくないような、でも気になる。謎は深まるばかりだ。(笑)

<追記>
 ふざけてばっかりも何なので、ちょっとだけ真面目な話もしておこう。
 「人類にとって宗教とは何か?」について前に考えたことがある。その時出した自分なりの答えは、宗教とは「病気やケガや死といった理不尽な運命や苦痛への不安を無事にやり過ごすための発明」だったのではないかということ。
 古代の人々は自分らの理解の埒外にあるもの、すなわちヴィトゲンシュタインが「語りえぬもの」と名付けたようなものを、「神」と名付ける事で心の安寧を得た。それは、理不尽な苦悩に対するやり場のない怒りを、諦観や許容へと変えるためのメカニズムであり、人類史の中でも特筆すべき発明だと思う。でもユダヤ/キリスト/イスラムという一神教のように、神に人間と同じ「人格」を与えてしまったのは、個人的にはちょっとどうかと思う。人格を与えてしまった時点で、結局のところ人間の理解の範疇を超え出ていないのではないかと。本書のように人間と同じレベルまで降りてきてしまうと、何だか有難みが無い気がするのは、果たして勝手な我がままだろうか(笑)。
 なお、西洋歴史学者の山形孝夫氏が言われていた、「ユダヤ教におけるヤハウェの神は基本的に“殺す神”。たまに“救済する神”にはなるが限定的で、キリスト教におけるそれとは根本的に性格が違う」という言葉が、本書を読んでかなり実感できたのは収穫だった。

『ホフマン短篇集』 岩波文庫

 著者のE.T.A.ホフマンは19世紀の初頭に活躍したドイツの作家。小説以外にも音楽や絵画など多彩な分野で才能を発揮したが、現在一番知られているのは、やはりロマン派の幻想小説家としてではなかろうか。
 彼が活躍した19世紀初頭といえば、ヨーロッパではイギリスに端を発した産業革命が進行中であり、自然科学の専門家した個別分野が生まれscienceが複数形sciencesになった時代。そんな頃、まるで時代に逆行するような空想の翼を広げ、数々の作品を発表したのがホフマンだ。本書はそんな彼の作品から「砂男(*)」や「廃屋」などの有名な作品を精選した作品集。―とまあ書誌的な内容はこれくらいにして、早速中身について。

   *…これまでホフマンを読んだことがない人のために補足しておくと、砂男とは昔から
     ドイツに伝わる化け物の名前。子供の目の中に魔法の砂を投げ込み、目を見えなく
     してしまう怖い奴だ。

 ひとくちに幻想文学といっても色んなタイプがある。同じドイツのロマン主義に属する作家でも、例えばノヴァーリスとシャミッソーとホフマンでは、作風も受ける印象も全く違う。自分も偉そうに言えるほど沢山読んでいる訳ではないのだが、それでもホフマンの作品で描かれる神秘は、自分がイメージするロマン主義系の幻想小説の理想に一番近い気がする。「人智を超えたもの」と言うか、はたまた「隠された叡智」とでも言おうか、何かそのようなもの。
 ホフマンを読んで思うのは、科学により迷信や蒙昧のたぐいが払拭される前、人間の生と世界の神秘がまだ地続きだったころの感覚は、きっとこのようなものだったんじゃないかと言う事。(まるで狂王ルードヴィヒ2世が夢想した世界のように。)勿論、自分だってその頃生きていた訳じゃないから、実際にはどんなだったか知る由もないのだけれど。(笑)
 おそらく19世紀ともなれば、単純に魔法や悪魔なんてものの実在を信じているわけじゃなかったはず。そこでホフマンが用いたのが(やがて100年後にフロイトによって体系だてられることになる)「精神」という名の暗黒大陸だったのではないか、そんな気がする。(もちろん異論はあると思うが、)自分が「砂男」あたりの作品を読んだときに受けた印象は、夢野久作の『ドグラ・マグラ』なんかにも近いものがある。もしくは人生の機微や複雑な人生模様については、久生十蘭なんかを連想したり。(もっとも、仮にそれがもしあっているとしたら、逆に彼らの方がホフマンに影響を受けたからだけどね。)
 ところで、本書を読んでつくづく思ったのは、自分にとって幻想・怪奇の物語は、日常生活の憂さを晴らす一服の清涼剤みたいなものだということ。「不思議な話」ってやっぱりやめられない。(笑)

<追記>
 本書の作品の中では、画家の数奇な運命を描いた「G町のジェズイット教会」も、実話をもとにした(はずの)「ファールンの鉱山」も、そしてもちろん代表作の「砂男」もどれも好み。しかし一番気に入ったのは、(実は幻想味がなくて)まるでポーの「群衆の人」を思わせるような「隅の窓」だったりする。地味な作品だけど好きだなあ、コレ。

『治癒神イエスの誕生』 山形孝夫 ちくま学芸文庫

 宗教人類学者である著者が原始キリスト教について考察した本。山形氏の著作は『聖書の起源』(ちくま学芸文庫)と『砂漠の修道院』(平凡社ライブラリー)に続いてこれで3冊目だが、この人の本はどれも面白いね。
 まず視点がユニーク。ユダヤ教の単なる一宗派に過ぎなかった原始キリスト教が、なぜ広く信仰されるに至ったのか? 著者はその理由を、イエスや使徒たちの「病気の治癒能力」に求める。キリスト教と聞いて頭に浮かぶ一般的なイメージとあまりにかけ離れていて、最初は何のことかと戸惑うのだが、内容を読めば納得できる。それは凡そ次のような話だ。

 イエスおよびその意思を継いだパウロらによってキリスト教団がスタートしたのは、紀元前後のパレスチナを中心とする地中海地域だった。最初のうちは辺境の小さな宗派に過ぎなかったキリスト教は、やがて「ミラノの勅令」を経て、4世紀末にはテオドシウス帝によりローマ帝国の国教になり、盤石の態勢となった。教団内部において教義の解釈の違いによる争い(異端審問)もあったが、10世紀過ぎには概ね現在のローマカトリックの形が固まった。 ―以上が、大筋の歴史といっていいだろう。ここからも分かるように、キリスト教の生き残りの重要なポイントは、紀元前後から4世紀までにあるといって間違いない。
 本書によると、キリスト教が始まったころには、人々が神を信仰する理由のひとつとして、「病気の治癒」への期待というものがあったらしい。そして当時もっとも篤く信仰されていたのは「アスクレピオス(*)」という神。この神は特に外科的処置を必要とする病気やケガに効果があるとのことで、かなり広範囲に信仰されていたようだ。そこに現れたのがキリスト教団。新訳聖書の記述によれば、彼らがそれまでのアスクレピオス神と違っていたのは、「悪霊憑き(=精神疾患)」やハンセン病や象皮病といった皮膚病など、ユダヤ社会では従来タブーとされてきた疾患に暖かい手を差し伸べた点。

   *…この神、現在では全く知られていない。なぜかというと、キリスト教がその痕跡を
     この世から完全に抹殺してしまったからなのだそう。再び知られるようになったの
     は、近代になり古代の遺跡後が発掘されてかららしい。

 著者によれば、ユダヤの民にとってそもそも砂漠とは、特別な意味をもつ場所なのだそうだ。荒野や荒れ地を意味する「シェマーマー」という単語は、動詞としては“麻痺する”ことを意味し、転じて、人間の霊魂が衰えて活動停止に陥った状態、すなわち(精神が荒廃して)「呪われた/罪をもった人間」という意味になる。従って古代ユダヤ社会においては、悪霊に憑かれたり皮膚が爛れたりした人間は、現代の我々からは想像もできないほど過酷な迫害を受けていたとおぼしい。イエス自身や、彼の教えに忠実にしたがった使徒たちは、そのような人々を治療する行為を行っていたのだ。(弱者を中心にして、キリスト教の教えが急速に広まったのは、ある意味で当然ともいえる。)
 しかし隆盛を誇ったアスクレピオス教団との戦いに勝利してからは、「治療神」としてのイエスの姿は徐々に失われていき、やがてローマ帝国の権力と一体化したキリスト教は、「治療」という即物的な奇跡(御利益)から徐々に魂の救済へと軸足を移し、今の我々が良く知っている世界宗教へと、大きく変貌を遂げていくことになったというわけ。

 以上の話から見えてくることがある。それは初期のキリスト教に、当時信仰されていた様々な宗教の痕跡が紛れ込んでいるということ。つまり原始キリスト教は、はじめから今のように洗練された思想だったのではなく、もっと土俗的な信仰に近かったということだ。著者は様々な宗教との比較を通じて、それらの痕跡を更に追求していく。
 例えばエジプト神話のオシリス神や、カナン地方で信じられていたバァール(バアル)神。これら古代の神々に多くみられる特徴として、以下の4つがある。

 1)処女降誕(すなわち処女から生まれた)神であること。
 2)母子神であること。
 3)死と再生を体験すること。
 4)遊行(≒放浪)する神であること。

 「処女降誕」と「母子神」といえば言うまでもなく、現在まで根強い人気を誇る「聖母マリア信仰」そのものだし、「死と再生」はイエスの磔刑とその後の復活を、そして「遊行神」というのはイエスと使徒が悪魔憑きや皮膚病を治癒する為に各地を放浪したエピソードに合致する…とまあ、(荒唐無稽というか非科学的というか)聖書の中でも特に異彩を放つこれら4つのエピソードだが、なぜだか見事に古代の神々の特徴にぴったり当てはまってしまうのだ。これにはびっくり。一般的には、これらの奇跡をそのまま受け入れるかどうかが、キリスト信仰に対する試金石となるわけだが、まさかそれらが実は過去から各地の民族に広く浸透していた宗教観だったとは。

 またユダヤ教の神であるヤハウェは、旧約聖書の記述では、敵対する者や不服従の者に対して死や病を投げつける「殺す神」の色合いが強い。それに対してイエスの場合は、先ほども述べたようにアスクレピロス神と同様の「治癒する神」の役割を演じている。そう考えるとキリスト教というのは、「絶対的な一神教」というユダヤ教のコンセプトは踏襲しつつ、周囲の宗教から有効なコンテンツを吸収して、大きな転換を図ったものだというのが良く分かる。だからこそ、まだ教団が若く脆弱だった頃にも、幾多の強力なライバル(宗派)に負けることなく、無事に生き残ることが出来たのだろう。
 先ほどの繰り返しになるが、人類に古くからある「大地母神」の信仰においては、永遠に若さと美しさを保つ花嫁(=月の満ち欠けによる再生に由来)と、めぐりくる年ごとに死んで再生(復活)する神の子としての花婿が登場するのがパターン。この花婿神としての役割を、神の呪いをも打ち消すことができる治癒神という役割と合わせて演じきることによって、救世主イエスの姿は民衆にすんなりと受け入れられていったのだといえる。

 次に今までの話からは少し逸れるが、キリスト教の元となったユダヤの神について少し補足を。なんでも旧約聖書には、「砂漠への行進」と名付けられた難解なパートがあるらしい。(無責任な表現で申し訳ないが、旧約はまだきちんと読んだことが無いので悪しからず。/笑)
 著者によれば「砂漠への後進」とその後に続く「神による勝利」の挿話は、“砂漠(=呪われた死の土地)”からの再生の儀礼を意味しているそうだ。こうして考えると、本来のヤハウェの神は、一種のシャーマニズム的な特徴も備えた、かなり土俗的な神であるといえそう。
 またヤハウェ神とバァール神が争った理由についても、ヤハウェ神を信仰していたのが遊牧民であるのに対し、バァール神は農耕民に信じられていたという推論がなされていて、なるほど納得感がある。労働というものは、かたや遊牧民にとっては(牛や羊といった)家畜が担うべきものであって人間がするものではない。労働は楽園を追放されたアダムとイヴの末裔に強制された苦役なのだ。かたや農耕民にとって労働とは、神事すなわち神から委託された祭祀を意味する。こうして見ていくと、カナンの地で繰り広げられた民族紛争に勝利したユダヤ人たちの神ヤハウェの姿が浮かび上がってくるようだ。そして本来「殺す神」であったヤハウェを「治癒する神」につなげていく装置として、大地母神信仰から借りた設定にイエスを位置づけたキリスト教という構図も。
 うーん、キリスト教、まだまだ奥が深いぞ。(笑)

<追記>
 本書は上記に挙げた話の他にも、柳田國男の『桃太郎の誕生』や石田英一郎の『桃太郎の母』で提唱された「小さ子」説話との共通性を考察したり、巻末には梅原猛や河合雅雄らとのシンポジウムの様子も収録され、内容は盛り沢山。自分にとってはストライクゾーンの話題が多く、かなりお買い得な本だった。

『草枕』 夏目漱石 岩波文庫

 冒頭のセリフ「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」があまりにも有名だが、白状すると、実はこれまで本書を読んだこと無かった。
主人公は都会生活に疲れた画工(えかき)。彼が“草を枕にした”気ままな旅路をもとめ、ひなびた温泉旅館に逗留した顛末を描く。「ファウスト」や「ハムレット」よりも、むしろ王維や淵明の境地が心地よい―と独白する主人公は、作者の分身というよりは、急激な西洋化と伝統的な価値観との狭間で悩む当時の文化人のモデルに思えた。
 物語は特に起承転結というものもなく淡々と進むが、何とは無しに心地がいい。もしも学生時代に“ソウセキの文学”として肩肘張って読んでいたら、きっとこんな風には愉しめなかったかもしれない。そう思えば、年取ってから読むのもそんなに悪くないかも。(文学ファンの皆様、このように「自由奔放」な感想で申し訳ありません。/笑)

 ところでこの主人公、わずか30歳そこそこの年齢らしいのに、難しい言葉をすらすら使いこなし、漢詩をたしなむうえ英語の小説を原書で読み下す。果たしてこれほどの素養があるのが、当時の知識人の一般的な水準なのだろうか。だとすれば、今の日本人は間違いなくレベルが低下してるよね(苦笑)。主人公がどうやって日々の糊口をしのいでいるのかも分からないし、これがもしかして「高等遊民」というやつなのだろうか。

<追記>
 旅館の女将の那美さんというキャラが気に入った。今でいえば歌手の戸川純とかお笑いタレントの鳥居みゆきのような感じといえばいいだろうか。そりゃあ明治の社会では浮くよなあ(笑)。

『完全言語の探求』 ウンベルト・エーコ 平凡社ライブラリー

 原題は『ヨーロッパ文化における完全言語の探求』という。旧約聖書にあるバベルの塔の逸話を皮切りに、「完全言語」もしくは「普遍言語」と呼ばれるものに対する、ヨーロッパの人の探求の歴史をひも解いていく。
 著者は『薔薇の名前』や『フーコーの振り子』といったミステリで有名な言語学者のU・エーコ。題名が妙に格好よかったので(笑)、予備知識なしで衝動買いして読んでみた。そしたら「完全言語」というのは、「神の意図」やこの世の「あらゆる事柄」あるいは「哲学的なあらゆる論理」を、“完全に”表現することができる言語のことだった。ちなみに「普遍言語」というのは、異なる言語を話す世界中の人々が理解可能な単一の言語のこと。完全言語とは微妙にニュアンスを違えつつも、ときに混同され時に区別されながら探求されてきたものであって、本書では両者あわせて取り上げている。(ただし何故ふたつがセットになるのか理由はよく分からない。「神の言葉であれば全ての人に理解できるはず」というキリスト教的な考えによるものなのか、はたまた「完全なるものは普遍性をもつ」という理屈によるものなのか…。)
 話を戻そう。本書は何しろとんでもない労作。本文は511ページもあり、遥か中世のカバラー(*)から20世紀のエスペラント語までを網羅、膨大な数の事例が紹介されている。前半はカバラー学者など中世の神秘主義者や夢想家たちが考えたことの一大カタログになっていて、後半は近代ヨーロッパにおいて(「神の叡智」を示す必要がなくなった代わりに)「哲学的な真理」を余すところなく示せるものとして、同じく「完全言語」を探求し続けた人々の歴史を描く。まるで百科全書のような著者の博識に眩暈を覚えながらも、結構愉しむことが出来た。(おそらくこの時の知識が元になって、『フーコーの振り子』が書き上げられたと分かったのは、本書を読んだ思わぬ余禄。個人的には後半の方が好みだが、中世神秘主義に興味がある人には前半は堪らなく面白いのではなかろうか。)以下、自分の印象に残ったところをごく一部、かいつまんで紹介しよう。

   *…ユダヤ教に端を発した神秘思想。キリスト教的なオカルト思想の源流のひとつに
     なっている。

 カバラー学者たちが完全言語を探求した目的は、簡単に言ってしまえば、神の叡智を完璧に理解できうる言語(すなわちアダムが話した言語)を見つけ出すため。完全言語の探求とは、バベルの塔崩壊の時に失われてしまった神の叡智を、再び取り戻すことに他ならない。彼らによればヘブライの言語(文字)というのは、神が作り出した「この世を構成する“成分”」に等しいらしい。したがってヘブライ語では言葉(文字)自体が「力」を持つという考えが、カバラー学者たちの間の基本認識となった。またそのためヘブライ語こそが、天界の力(神)に自分たちの思いを届けられる唯一の言語ということにも。
 やがてルルスにより発明された「同心円状の円盤を重ね合わせてアルファベットの組み合わせを作り出す」という手法と結びつくことによって、「この世に存在するあらゆる個物の真の名前を名付けられるだけの単語を作り出せる」という人工の言語(=完全言語)が夢想されることに。(ここらへんの話は、聞いたこともない知識がてんこ盛りなので、読むのにちょっと手間取った。)
 もしもこれらの文字を全て収納する事が出来る図書館があるとすれば――などという話も出てくるが、これってボルヘスの「バベルの図書館」の先取りということではないだろうか。コロンブスが新大陸を発見していた頃、その裏ではヨーロッパでこんな世界史が繰り広げられていたとは、なんて面白い。

 お次はエジプトのヒエログリフ(象形文字)に対して、アタナシウス・キルヒャー(**)がみた幻想を。彼はヒエログリフが担っているのは「聖なるもの」の象徴機能であり、その意味は人間が話すような所謂「言語」ではなく、符牒/図解/記号などを通じて総合的に伝達されるものと見做した。しかしシャンポリオンがロゼッタ・ストーンを使ってヒエログリフの解読に成功する前とはいえ、いくら何でも深読みのし過ぎではなかろうか(笑)。
 漢字(=意味)と仮名(=音)を同時に駆使する日本人からすれば、別に驚くほどの事でもない気もするが、ヨーロッパの人々にはヒエログリフが(あの意匠と相俟って)とんでもなく神秘的に思えたのだろうね。まさに当時のヨーロッパで流行った寓意図の世界そのものといえる。

  **…17世紀ドイツのイエスズ会司祭にして、あらゆる知識の領域を渉猟した中世最後の
     大知識人(「遅れてきたルネサンス人」とも)。膨大な量の著作を残したが、今の
     我々の目から見ると結構トンデモネタも混じっている感じ。(笑)

 ちょっと辛口になってしまったが、しかしキルヒャーが完全言語を求めた目的はいたって真面目なものだった。彼は三十年戦争を始めとする戦乱によりずたずたになったヨーロッパ社会を、もう一度以前のようにひとつに繋ぎたいと思っていた。そのためには、聖なる知識の源泉(であると彼が信じた)古代エジプトの言葉を読み解くことで、「神の大いなる叡智」を知る必要があったのだとか。
 また、キルヒャーのように、異国の言語に自らの夢を託しすぎた人々の妄想がやがて独り歩きを始め、肥大した妄想がおかしな領域に入り込んでいく様は、まるでマニエリスム芸術の発展を見ているような印象も。これらの「(図)像からなる完全言語」を突き詰めていくと、最後には特徴や外観がよく似た物を使って病気を治す「類感呪術(魔術)」の世界へと行き着くことになる。
 キルヒャーの後は「ステガノグラフィー/秘文字術」つまり「文章をある規則に基づいて暗号化(コード化)する技術」を逆に用いて、どんな言語でも暗号を解くように解読(デコード化)してしまおうという「ポリグラフィー(万人に開かれた国際語)」の話題となり、中世から近代へと時代が移っていくことに。(これでやっと本書の半分。普通の本なら2,3冊は書けそうな量の知識が詰っているので、読み進むのに結構なパワーが要る。)

 後半の第十章からはいよいよ神秘主義から離れ、「哲学的な完全言語」の探求について。“哲学的”とはどんな事かと言うと、冒頭にも書いたように、「世界の事実と思想をあますところなく記述できる言語」のことだそうだ。
 ここではジョージ・ダルガーノ、ジョン・ウィルキンズといった人々による取り組みが語られるが、はっきりいって全く知らない人ばかり(笑)。彼らの基本的な取り組みは、あらゆる事物を系統樹的に分類していこうとする方法の開発なのだが、大きな問題がある。それは区分の仕方が恣意的なところと、そして天使や思考など「想像や観念的なもの」と動物など「現実界にあるもの」をごっちゃにしてしまっている点。
 実際には現実世界にあるものに「区分」など存在せず、すべてが連続しているはず。区分というのは人為的・作為的に行われるものに過ぎない。(例えば複雑で多様な人間の性格というものを、たった4つの「血液型」というパターンに無理やり押し込めてしまおうというのと同じこと。)微分やフラクタル図形の概念を改めて持ち出すまでもなく、世界を分けるには無限の区分が必要なことは直感的にも理解が出来ると思う。それをタルガーノらのように僅か数十パターン(!)で分けようとすれば、本書で語られたように無理や例外事項が溢れかえり、破綻する破目に陥ることになる。
 彼らの取り組みが失敗したあとは、ライプニッツといった大御所まで登場したのには驚いた。ライプニッツもダルガーノらと同じように、一旦は哲学的な論理を全て記述できる言語を夢想したらしいのだ。しかし流石はライプニッツ。やっぱり後世に名を残す人は一味違う(笑)。あやしげな領域からは早々に離れ、哲学者・ヴィトゲンシュタインへと続いていく「記号論理学」へと考察が進んでいくのはさすが。

 ちなみに傑作だったのは、19世紀初頭のアンヌ=ピエール=ジャック・ド・ヴィスムらによる、「音階言語」という取り組み。これは“言葉”を言語ではなく音階で表現することによって、異なる言語の間でも意味を伝え合えるという考えなのだが、ここまでくれば筒井康隆の奇想小説「関節話法」や「クラリネット言語」の世界に、あと一歩というところだ。(***)

 ***…SFなどによく出てくる超能力にテレパシーというものがある。本書を読んでいて
     気がついたのだが、実は異なる言語の間ではテレパシーも全く通じなくなるのでは
     なかろうか? 例えば職場でパワーポイントというプレゼンテーション用ソフトを
     使うことがあるのだが、作った資料をヴァージョンが古いソフトで再生しようと
     すると文字が判別できなくて、画面が「?????」の羅列になってしまう事が
     ままある。もしもテレパシーなるものが存在したとしても、おそらくこれと同じ
     状態になってしまうのではないか。もしも言語学におけるサピア/ウオーフらの
     仮説が正しいとすれば、言語とは単なる「思考の器」ではなく「思考そのもの」
     であるとのこと(詳細説明は省く)。とすれば、言語が変わればその人の思考の
     枠組み自体も違ってくるわけで、思考形態が違うもの同士が仮にテレパシーで
     直接会話できたとしても、意味不明の概念が流れ込むだけに終わるはずではない
     だろうか。…なんだか子供の頃の夢が消えていくようで寂しいなあ。(苦笑)

 かくして20世紀に入ってからは、とうとう「完全言語や普遍言語の実現は無理」という結論が下されることに。しかし世界中の人が互いに意思疎通を図りたい、という夢まで潰えた訳じゃない。かといって、ヨーロッパ全体が(ラテン語のように)死語となった中立的な言語に戻るというのも不可能とすれば、あとは「デファクト・スタンダード」すなわち「事実上の標準化」しかないだろう。デファクト化は特定の言語を利用する人の数の多さとか、経済的な影響度の大きさで決まるので、もしも可能性があるとすれば、中国語か英語といったところになるだろうか。
 中立的な言語の試みとしては、ザメンホフによるエスペラント語の開発の取り組みも記載されている。エスペラント自体はある程度の市民権を得られたようだが、RとLの発音が区別できない言葉をしゃべる民族のひとりとしては、ヨーロッパ基準でその条件(RとLの区別)を前提にされてしまうと、結局のところ英語をマスターするのと手間が変わらないのであまり習得のメリットはない。

 同じ言語を話す社会の中でも、意思疎通がうまくいかずトラブルになることは日常茶飯事。そう考えると、大切なのは完全言語や普遍言語といった魔法の道具にたよるのでなく、異なる価値観の人への“共感”を日々重ねていき、言葉なんか無くても「スマイル」で分かりあえる事なのではなかろうか。そんな気がしてくるぞ。

<追記>
 本書でも少し触れられているが、ある概念・論理を“完璧に”表現する体系としては、数学で用いられる数式がそれに最も近い。でもそれとてゲーデルが不完全性定理で証明したように、ひとつの論理体系の中では自分が正しいか正しくないかは原理的に知ることができないわけで、完全なものではない。
 そう考えると、本書で語られる完全言語の探求というのは、(「愚行」とまでは言わないが)人類の大いなる「徒労」の歴史とはいえそう。いやホント、これらの言語を探求した人も大変だったと思うが、その歴史を探求してこのような本にまとめあげた著者もお疲れさまでしたと言いたい。(ついでにそれを読んだ自分も。/笑)

3年目です

 ふと気がついたら、ブログを始めてから2年が過ぎ、3年目になってしまっていました。(2月28日にスタートだったのですが、先日の2月29日は出張だったのでそのまますっかり忘れて今頃気が付きました。)
 あれこれ書こうと思っていたのですが、タイミングを逸してしまったのでやめときます(笑)。こんな能天気でお気らくな管理人ですが、これからも宜しくお願い致します(^^)。

『犬の心臓』 ブルガーコフ 河出書房新社

 前から一度読んでみたかった一冊。1971年の刊行後、長らく絶版状態になっていたが、このたび漸く復刊された。少し値段も高いのでどうしようか迷っていたのだが、近所の本屋で見かけてつい衝動買い。こういうちょっとひねった奇想小説にはどうも弱い。(笑)
 作者のミハイル・ブルガーコフといえば『巨匠とマルガリータ』が何と言っても有名で、ソビエトでは不遇を託ったため著作としてはさほど多くはない。幻想系の作品としては他に岩波文庫『悪魔物語・運命の卵』があるくらい(*)。そちらを読んだ感じでは、ぴりっと風刺が効いて面白い作品を書く人という印象だった。(『巨匠とマルガリータ』も買ってはあるが、こちらはまだ今後の楽しみに残してある。)

   *…正確には『アダムとイブ/至福郷』(群像社)というのもあるが、こちらは戯曲。

 本書の印象をひとことでまとめるなら、「犬人間」(by沼野充義氏)あるいは「現代にあらわれたホムンクルス(錬金術による人造の小人)」の物語といえばいいだろうか。一匹の野良犬がある医学博士によって拾われたのち、生体実験の対象にされた顛末を描き、ソビエト社会に対する痛烈な風刺というスパイスも加えた、グロテスク且つユニークな戯画といった趣き。確かにこんな作品を書けば、当時のソビエトで弾圧を受けたのも理解できる。ただし作者の意図はそこよりも「科学の進歩と人の幸せ」といった、哲学的な考察に主眼があるような感じが。思わず笑ってしまうようなドタバタのくだりも多々あって、最後は後年のある有名な小説にも似た皮肉な“ハッピーエンド”。(ネタばれになるので書名は自重しておこう。)
 うん、悪くないです。

2012年2月の読了本

『身体感覚で「論語」を読みなおす』 安田登 春秋社
  *『論語』を孔子が生きていた時代に使われていた言葉(漢字)で読み直すと、はたして
   何が見えてくるか...。期待していたより遥かに刺激的で面白い本だった。
『小鼠 ニューヨークを侵略』 レナード・ウイバーリー 創元推理文庫
  *アメリカ在住のアイルランド作家による奇想天外かつ痛快な風刺小説。ピノー(白)
   ワインしか産業のないヨーロッパの小国が、いかにして世界でもっとも重要な国になり
   えたのか。その顛末を描く。
『銃・病原菌・鉄(上/下)』 ジャレド・ダイヤモンド 草思社文庫
  *ヨーロッパ文明が世界を席巻した真の理由を探ったベストセラー。
   98年度ピューリッツァー賞受賞。
『犬の心臓』 ミハイル・A・ブルガーコフ 河出書房新社
  *『巨匠とマルガリータ』でしられるソビエトの作家による幻想小説。生体実験により
   知能を持った犬が引き起こすグロテスクで滑稽な騒動。
『完全言語の探求』 ウンベルト・エーコ 平凡社ライブラリー
  *ヨーロッパにおいては、過去から多くの人によって「完全言語」や「普遍言語」と呼ば
   れる物が探求されてきた。(例えば神やこの世の心理を余すところなく伝えることが
   できる言語であり、あるいは異なる言葉を用いている世界中の人々にも、完全に意味が
   伝わる言語のこと。)世界的ベストセラー小説『薔薇の名前』でも知られる言語学者
   U・エーコが、それらの探求についての全容を明らかにした労作。
『ホフマン短篇集』 岩波文庫
  *ドイツの著名な幻想小説家による作品集。「砂男」た「廃屋」といった代表作も収録。
『新訳 君主論』 マキアヴェリ 中公文庫
  *15世紀のイタリア。仏語でいうところの「ノブリス・オブリージュ(高貴なるがゆえの
   責任)」という言葉がぴったりくる時代に書かれた君主の心得。(イタリアなのに仏語
   というのも変だが。/笑)ただし提唱されているのは“君子”であることではなく、
   “弱肉強食の世界の王者”になること。当時の時代背景を頭に置きながら読むと、なか
   なかに面白かった。
『草枕』 夏目漱石 岩波文庫
  *今さら紹介するまでもない明治の文豪の作品だが、『坊っちゃん』のすぐ後に書かれた
   とは知らなかった。伝統的な日本の価値観と西洋文化との狭間で揺れ動く、明治期の
   人々の悲喜こもごも。
『忘れられた日本』 ブルーノ・タウト 中公文庫
  *著名な建築家であった著者が、日本の建築および文化について書いたエッセイ。タウト
   が称賛するのは桂離宮と伊勢神宮であり、簡素にして清冽な日本独特の美意識。
   (あまりに手放しでほめられると、日本国民としてはなんだか面映ゆい。/笑)逆に
   批判の的になっているのは、秀吉の茶の趣味や徳川の日光東照宮。また、民芸風に見せ
   かけた日用品や、古民家風に作られた現代住宅のしつらえもそう。作為的で豪奢なもの
   や、自然に見せかけた偽物といったものを徹底的に嫌っている。残念なのは(題名から
   もわかるように)、その価値観は既に日本から失われて久しいと著者が感じている事。
   1933年の時点でそう感じられたということは、今は一体どうなってしまっているのだろ
   うか。考えるだに恐ろしい。
『葬儀と日本人』 菊地章太 ちくま新書
  *位牌と葬儀の起源を儒教/道教/仏教まで遡って解き明かし、日本人の死生観について
   考察した本。
最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR