『新訳 君主論』 マキアヴェリ 中公文庫

 15世紀ルネサンス華やかりし頃の、イタリアはフィレンツェ共和国。メディチ家の絶頂期を支えた大ロレンツォ亡きあと、仏国王シャルル8世の侵攻やミラノ公国/ベネツィア共和国/ローマ教皇領/ナポリ王国といった周辺諸国とのせめぎ合いの中、国土は混乱と荒廃の一途をたどる。そんな頃にフィレンツェの書記官だったマキアヴェリが、「この危機を救えるのは新たな君主の誕生のみ」とばかりに、僅か5ヶ月で一気呵成に書き上げ、大ロレンツォの孫である同名のロレンツォ・デ・メディチに捧げたのが本書の成り立ち。
 それ迄にも幾多の君主論が書かれてはいたが、いずれも君主が備えるべき理想の資質を説いた「君子論」だったようだ。しかし本書の場合、国を治めるにあたっては権謀術数を巡らし、必要に応じて残虐行為や裏切りも辞さないという、全く新しい支配者像を提示して異彩を放つ。恥も外聞もなく、考え得る全ての手を尽くして国土維持に努めようというその姿は、後年「マキアヴェリズム」と呼ばれて非難の的となったのも納得できるほどドライなものだ。

 この本、初めて読んだわけだが、印象を率直に言えば「君主のためのノウハウ本」みたいな感じ。構成としては「その手」の本によくあるように、まずは「現状分析」から始まる。当時の君主国について、成立経緯ならびに維持の仕方による分類というのがなされているが、さすがは有名な本だけあって分析もなるほど精緻なもの。ひとくちに君主国といっても、親から代々うけついだ世襲制もあれば、臣下がクーデターを起こして新たな君主になる場合や、大国による侵略でできた傀儡国のやとわれ君主など形態は様々なようだ。
 こうして君主国の分類が終わると、次は国土の防衛と他国への攻撃(侵略)方法についての考察。国の防衛手段=軍隊(特に歩兵隊)と規定した上で、自国軍/傭兵軍/他国による支援軍という3つのパターンに分け、それぞれが防衛と攻撃に与える効果の分析がなされる。いずれの場合も最も有効なのは自国軍であり、傭兵軍や他国による支援は百害あって一利なしと手厳しいが、どうやらこれは当時彼が見聞きしたことから得られた知見のよう。なお国家において最も重要なのは軍事であり、君主は軍事(防衛と侵略)のこと「だけ」を考えていればいい、というのが著者の主張。しかし国政を放り出して戦争に明け暮れてばかりいる君主というのも、果たしていかがなものか。(笑)
 著者のように軍隊を法律よりも上位に位置づけるのは、幾らなんでもやり過ぎの気がするが、古典は今の視点で論ずるのではなく、書かれた当時の背景を理解すべし、という原則も重要。そう考えると15世紀のヨーロッパは、それほどまでに「弱肉強食」の世界であったということなのかも。(なんせ占領した国では、旧体制側に与した上層部をなるべく早い時期に根絶やしにすべきとか、かような外科処置はもたもたせず一気にやれとか、書き方もかなりあけすけで物騒なものが多い。)

 とまあ、色々と物議を醸しそうな内容ではあるのだが、自分はこの本の愉しみかたとして、次に挙げる2つの視点を往ったり来たりしながら読んでみた。
 まずひとつ目は「市井の庶民の眼」。現代の法治国家に暮らす一般市民の眼で見て、いかに当時の君主が非道いことを行っていたかをじっくり考えてみる。人権という概念そのものがなかった中世は、逆にいえばそれだけ簡単に疫病や飢饉で人の命が失われる時代であったとも言える。そんな背景を頭の片隅において、悪辣で冷酷な君主の姿を批判的に“愉しむ”というちょっと意地の悪い読み方である。
 もうひとつの視点は「君主の眼」。君主が持つべき幾つかの資質である、「格好をつけて散財するより吝嗇(ケチ)であること」「平気でうそをついたり残虐になれること」「貴族より民衆の心をつかむこと」などを駆使して、ある意味「理想的な君主」を目指すという、経営ゲームとしての愉しみ方。なお繰り返しになるが、ここでいう理想的な君主とは「聖人君子」のことではない。
 弱肉強食の世界でいかにして生き残るか?という戦術論として、自分が君主になったつもりでシミュレーションしてみる。(まるでPCゲーム「信長の野望」みたい。/笑)ちなみに本書を読んでいるうちに、マキアヴェリの提唱した価値観が、現代でもそのまま受け継がれているところがあるのに気がついた。すでにお気づきかもしれないが、それは軍事の領域。きれいごとでは済まされない、ぎりぎりの攻防線が繰り広げられていたのだろうねえ、当時は。
 ただし、ここに書かれた内容を字義どおりに受け取るのでなく、一種の比喩として読めば、「統治のための技術論」もしくは「国家維持のための戦略論」として読めなくもない。また、経営者からみた理想的な経営組織というのは実は軍隊組織だという話を、いつか聞いたことがある。そう考えると、本書なんていかにもどこかの経営コンサルティングあたりがネタにしそうな本といえるのではなかろうか。

<追記>
 時おり本屋で見かける本にちくま文庫の『よいこの君主論』というのがある。前から気にはなっていたのだが、「ラノベでドラッガーを勉強する」の類と同じで、元本を読まずにいきなりそちらに手を出すのも気が引けていた。
 これで晴れて(?)買うことが出来るわけだが、そうなればなったで、今度は他にも読みたい本が山ほどあるので、果たしていつになることやら。(苦笑)
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作家の名前を漢字になおす

 今回はちょっとばかり遊んでみたい。
 シェイクスピアのことを「沙吉比亜」とか「沙翁」と漢字で書いたりするが、外国人の名前を漢字になおすには、万葉仮名みたいに文字の意味ではなく発音だけを使う場合と、意訳をする場合がある。先日、ツイッター上で外国人作家の名前を漢字にする遊びを見かけたので、真似して自分でも色々考えてみた。(*)
ただし取り上げるのは割とマニアックな作家が多いので、知らない人には大変申し訳ない。(笑)

   *…そもそも自分の「舞狂小鬼」という名前からして、マイクル・コーニイ(コニイ)
     という作家のもじり。単純に漢字にするだけではなくて、日本語としても意味が
     通じるので結構気に入っている。

 先日のツイッターでは、翻訳家の増田まもる氏がイアン・ワトスンという作家を、「慰安倭都寸」と変えていた。それを受けて(かな?)、作家の伊東麻紀氏が考えたのが「江戸無頼暗徒(エド・ブライアント)」という名前。(ちなみにどちらも、かなり通好みの作家だ。)
 SF作家つながりだと、昔、マンガ家の吾妻ひでお氏が、映画『2001年宇宙の旅』の原作者アーサー・C・クラークや、『夏への扉』のロバート・A・ハインラインという作家をもじって、それぞれ「朝苦楽」とか「杯雷・ん」といったキャラを登場させていた。(後者は結構ムリがあると思うが。/笑)。それで自分でも御三家SF作家の残るひとり、『わたしはロボット』のアイザック・アシモフについて、「麻縞布」なんてオリジナルを考えてみたりして…。
 それでは自分が考えた作家の漢字、まずはSF系から順に挙げていこう。(後ろに書いたのは主な作品名。)

  ・阿修羅 瑠倶印/アーシュラ・K・ル=グイン 『ゲド戦記』『闇の左手』など
  ・棲谷洲話富 零無/スタニスワフ・レム 『ソラリス』『完全な真空』など
  ・舞狂 僧正/マイクル・ビショップ 『焔の眼』『樹海伝説』など
  ・炉邪 是螺頭似/ロジャー・ゼラズニイ 『光の王』『地獄のハイウェイ』など
   (なんだか原発事故みたいな名前になってしまった。)
  ・塵狼/ジーン・ウルフ 『ケルベロス第五の首』『拷問者の影』など
   (「寺院 売譜」や「遺伝子 狼」なんてのも考えてみた。)
  ・乱愚頓 如怨頭/ラングトン・ジョーンズ 『レンズの眼』など
   (さすがにこの作家を知っている人は少ないだろうな。)
  ・中国 見栄建物/チャイナ・ミエヴィル 『都市と都市』など
   (なんだか中国にケンカを売っているみたいな。/苦笑)
 うーん、ル=グインかレムくらいしか知らない人も多いかも。(もしそうだったらごめんなさい。)中にはゼラズニイみたいに結構苦しいのも混じっているが、概ね何となく意味がありそうな感じには出来たかな?(笑)

 ミステリ作家では、とりあえず有名どころを3人だけ。
  ・亜雅沙 栗巣亭/アガサ・クリスティ 『オリエント急行殺人事件』など
  ・偉利 女王/エラリー・クイーン 『エジプト十字架の謎』『Yの悲劇』など
  ・木偶寸 伽/ディクスン・カー 『火刑法廷』『三つの棺』など
 他にも作家を思いつくままに書き出していったら、「短刀徒穢府数寄(ドストエフスキー)」とか「案奴隷震沌(アンドレ・ブルトン)」といったのも出てきたが、さすがにくたびれてきたのでここらで打ち止め。あとはノンジャンルということで、4人ほど挙げて終わりにしよう。
  ・波風呂 比過疎/パブロ・ピカソ
  ・新智慧/ニーチェ
  ・鰓棲巣/エラスムス
   (中世ヨーロッパの神学者ですな。)
  ・無頼庵 笛吏/ブライアン・フェリー
   (ロックバンドROXY MUSICのボーカル。ファンなんです。)

 以上、お粗末さまでした。またいつか気が向いたらやってみよう。

<追記>
 書いているうちに思ったのだが、これって何だか渡辺一夫氏の訳した『パンタグリュエル』とか柳瀬尚紀氏の『フィネガンズ・ウェイク』みたいだ。昔から「ガイブン(外国文学)好き」に許された秘かな愉しみだったりして。(笑)

『身体感覚で「論語」を読みなおす』 安田登 春秋社

 とても面白い本だというご紹介を頂き読んでみた。話に違わずとんでもない“オモシロ本”だった。内容は題名にある通りで、従来とは異なる視点で『論語』を読んでみたら、全く違う姿が見えてきたというもの。ちなみに春秋社は自分が好きな松岡正剛の本も何冊か出している版元で、本書の帯にもセイゴオ氏の推薦文が書かれている。本屋で手に取った瞬間になんとなく自分好みのニオイが漂ってきて、何も考えずそのままレジに直行した。こういう時の勘は結構あたるのだ。(笑)

 では早速、本書の中身について。
 『論語』は孔子が直接書いたものではなく、後年になって門人たちが伝聞をまとめたもの。とすれば、孔子本人の意図とは異なった伝わり方をされている言葉もあるのではないか?というのがそもそもの発端。ひとつ例をあげると、「心」という漢字は孔子の時代にはまだ存在していなかったそうで、「四十にして惑わず」という有名な言葉も孔子が説いたのは別の字によるもので、もしかすると本来まったく違う意味だったのかもしれない。では代わりに使われていたのはどんな文字だったのか?――といった感じ。
 著者は『論語』のひとつひとつの文章について、個々の漢字の起源まで遡ってしらべていく。(白川静らの研究もどんどん出てくるので、その手の話が好きな人にもお薦め。)その結果見えてきたのは、あっと驚くような分析&解釈だったというわけ。どう、面白そうでしょ。(*)

   *…一体どんな著者なんだろうと、見返しにある略歴を何気なく読んでみてびっくり。
     著者は何と能楽師なのだ。専門家も裸足で逃げ出すほどの博識ぶりに「何でこんな
     に詳しいの?」と思ったら、実は大学時代は中国の古典や古代哲学を専攻し、若い
     頃には漢和辞典の編纂にも関わったとのこと。現在は東京で論語と謡曲を中心に
     した寺子屋「遊学塾」を主宰するなど、まさにマルチな才人といえる人。

 先ほどの話の続きに戻ろう。著者のスタンスの基本はおおよそ次のような仮説だ。
 人間に「心」すなわち現代で言うところの「自我(“自分”というもの)」というものが生じたのは、今からおよそ3000年前に過ぎない。なぜなら中国の文献には、それを意味する文字が存在しないから。(このあたりの論旨も、他にミズンの『心の先史時代』など様々な研究を引き合いに出してきちんと説明されており、説得力がある。)では「心」が出来るまで、いちばん近い概念は何だったのかと言うと、著者によればそれは「命(めい)」なのだとか。この字は普段は“いのち”という意味で使われることが多いが、「宿命」「命令」「運命」といった言葉に使われているように、本来は人間の意思で何ともならない”決まり”のようなものを意味したものだとか。自分の周囲に在る「世界」と言い換えてもいいだろう。
 もしも人に「心」がなかったとすれば、嬉しいとか悲しいとかいった”情動”はあっても、そこに「自分」というものはない。人生も動物のそれと同じように、受動的で単純なものだったに違いない。(半導体などにおいて、電子子の抜けた穴(すなわち「空孔」)が、まるでプラスの電荷をもった粒子であるかのように振る舞うのと同じと考えると、比較的イメージが浮かびやすいかも。)
 「心」(自我)の発見のおかげで飛躍的な進歩があったのは認めるとして、それとともに精神的な不調など、それまで経験したことのなかった新たな苦しみも生まれたのもまた事実。著者曰く、『論語』という書物は孔子の時代に新たに生まれたそれらの苦しみを克服するための、孔子なりの“処方箋”だったのではないかと。
 では孔子が提唱したのは具体的にどのようなことだったのか。ここからは本書の解釈に基づいて、孔子が『論語』で述べていることについて順に説明していこう。
 ひとことで言ってしまうと、それは「心(自我)」と「命(世界)」を「礼」で取り持つということだ。「命」は宿命であり天から与えられた運命でもあって、人間にはどうしようも出来ないもの。しかし「礼」という“生きるための手段”を学ぶことによって、人は世界と自分の心の間に折り合いをつけ、苦しみを少しでも和らげることができるのだ。孔子と弟子たち(孔子学団)が追い求めた「礼」とは、きっとそのようなものであったに違いない…。なんとまあ魅力的な仮説だろうか。(**)

  **…ひとつ補足しておきたいのは、あくまでも著者は「このような読みをすることも
     できるよ。面白いでしょ。」というスタンスだということ。別に大上段に構えて
     「これこそが正しい。他の読み方はみんな間違いだ!」なーんて言っている訳では
     決してない。押しつけがましい書き方ではないので、じっくりと腰を落ち着けて読
     むことで、この壮大な仮説に基づく解釈を存分に愉しむことができる。

 孔子による教えの中でまず最初にあるのは、「前・学」という段階。「孔子学団」では「礼」を学びやすくする為に、手順をマニュアル化しているのだが(これを曲礼という)、それらを表面的になぞるだけでは本当の「礼」を身につけることは出来ない。孔子の時代における「学」とは、現代における学校の授業のようなものではなく、身体を使って覚え込む「秘儀」のようなものだったのだ。(著者が演じている能を始めとして、歌舞伎や落語といった日本の伝統芸能においては、「芸を盗む」という表現があるが、まさにそれと同じといえる。)マニュアルを使って正しく「学ぶ」には、まず本人にそのための“素地”が無ければならない。(これって「カイゼン」や「カンバン方式」など、トヨタの生産システムの導入と同じ話かもしれないな。他の企業が表面的な仕組みだけを真似しようとしても、上手くいかないのだよね。いわゆる「トヨタのDNA」と呼ばれるものを理解せず、マニュアルだけ似せてみても駄目という話に近い。)
 学びを始めるための“素地”を身につけるにもまずは修行から。その過程を称して「前・学」というのだそう。ちなみに「前・学」で身につけるべき素養とは、具体的には「孝弟」と「信愛」をベースにした行動のことだそうだが、長くなるのでここでは省く。

 「前・学」を終えた者はいよいよ「学」の段階に移る。先ほども述べたように、孔子の時代には「学」というのは“秘儀の行法”のようなもの。
 孔子にとって「詩書」とはただ単に「読む」ものではなく、声に出して謡うものだ。謡うことの本来の目的は、”神霊”(=古代において「命」として理解されていたもの)との交感に他ならない。舞(まい)を舞ったり色々な通過儀礼を行う「詩書と執礼」の実践を通じて、弟子たちは世界/命と自分/心を結ぶ秩序について、長い時間をかけて学んでいく。著者が膨大な漢字研究の成果を踏まえて、これらの内容を順に解き明かしていく様子はまさに圧巻のひとことにつきる。(口調は軽やかだけどね。)
 印象に残った話をいくつか紹介していこう。例えば次のような話。
 弟子のひとりが問いかけた「人が一生行うべき徳目とは?」という質問に対して師匠(孔子)は答える。それは「恕(じょ)」だと。「恕」とは読んで字のごとく(笑)、まさに「如く(ごとく)」という字の下に心がついたもの。ところが孔子の時代には「心」という字がない。とすれば、「心」がつかず発音も同じ「如(じょ)」という文字が使われていたのではないか。これが著者の推理。
 これはすなわち、“相手の心のごとくになる”(相手に共感し相手の身になって考えてみる)ということだ。それこそが「己の欲せざるところ、人に施すこと勿れ」という言葉の真髄なのだと著者はいう。今まで自分が『論語』に対して持っていた解釈がことごとく覆されていく快感。読書の醍醐味とはまさにこのような事をいうのに違いない。
 著者の本職である能楽師ならではの視点も、本書の説得力を増すのにまた一役買っている。たとえば上記の「恕」を身につける方法だが、まず「型」から入る事が肝要なのだとか。理屈ではなく形をひたすら模倣し続けていると、心はあとから自然に付いてくる。だからこそ修行の間は迷いを捨てて、ひたすら師匠の言うことを愚直に守るべし。まさしく芸能や技能の真髄だとおもうのだが、まさか『論語』と繋がっていたとは。
 話はとぶが、「天」という漢字を語源に遡ると、本来は「人」の中に入り込んだ超越者(神、命、上帝)を意味するらしい。仏教用語でいう「真如一体」の境地にほど近いわけだ。著者によれば「天」とは本来自分の中に探すべきものであるとのこと。儒教といえばやたら礼儀や形を重んずる堅苦しい学派だとばかり思っていたのだが、なんだか違うみたい。秘儀だとか芸能だとか心の処方箋だとか、全く違う視点で読み解く事で、『論語』の古臭くて余分な記述と思っていたところが、鮮やかに甦ってくる。目からポロポロと何枚もウロコが落ちた。(笑)

 またこんな話も。
 心を明らかにして「仁」(***)に近づくための方法として、『論語』では身体を動かす「学」とは別に、「思(し)」という修行を行う事を勧めている。「思」とは静かに座って沈思黙考することであって、「学」で学んだことを自分の中で静かに熟成させていく過程のことだ。「学んで主わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」という言葉もそのような前提で読んでいくと、今までとは違った印象に見えてくる。
 冒頭でも述べた「四十にして惑わず」という言葉の解釈も面白い。「惑」という字も孔子が言った言葉ではなく、本来は「心」がない「或」という言葉だったのではなかったかと。とすれば、「或」の原義である「境界を引いて限定すること」という意味からすれば、この文は本来「四十代というのは自分を限定してしまわず、もっと可能性を広げるべきだ」という意味に解釈できる。今までの「四十になって迷いがなくなった」なんてものとは180度違ってくる斬新な解釈。(たしかに自分を翻ってみても、とても四十代で煩悩を吹っ切れるわけがないと思うし、まだまだ修行中の年代と言われたほうが納得がいく。)

 ***…「仁」とはすなわち「(他)人に対する思いやりの心」のこと。親族に対するもので
     ある「親しみ」の心とは違い、他人に対して行うものなので、ある節度をもってする
     のだそう。そのもっと先には、物(=禽獣草木)を大切に思う心である「愛」を
     もってする、世界との接し方が続いている。

 思えば今の日本、「礼」を無くした人達が如何に多いことか。すぐキレル老人や傍若無人にコンビニ前にたむろする若者など、年齢には関係なくそこらじゅうに存在する。都市化の波で地域の共同体が崩壊したところを中心にして、壊れた世界は増え続けている。これは日本に限った話ではない。驚異的な経済成長を続ける中国を始めとして、アジア地域の新興国に目を転じても、全く同じことが言えるだろう。自分がその中で”生かされている”環境で(=自然や社会といったもの)に対して「礼」を失ってしまった人は、年々増え続けるばかり。孔子の時代よりもむしろ、今の時代にこそ「仁」が求められているのかもしれない。(ちょっとジジイの繰り言になってしまったかな。/笑)
 正直いって学術書でここまで充実した読書体験は初めて。『論語』を読んだことがある方は、是非とも本書を一読して頂くといいかも。まだ『論語』を読まれたことが無い方も、一度目を通されてから本書にトライしてみてはいかがだろう。きっとそれだけの価値はある、愉しくて充実した「活字のひととき」が味わえると思うよ。

<追記>
 本書を読んでみて今回初めて分かったことがある。それは学術書において自分が求めていた「理想」というものが、小説に対するそれとは違っていたということ。どうやら小説の場合に高得点をつける条件は”茫然自失の読後感”と、作品の中にひとつの”閉じられた完全なる世界観”が得られることのよう。対して学術書の場合に重要なのはそれとは逆で、“読んでいる間のワクワク感”と、そこから得られる”現実の世界へと広がる解放感”なのだった。この本、自分としては学術書で初の記念すべき「100点満点」を付けることにした。このあたりの感覚を頼りに本を探せば、まだまだ面白い学術書に出会えそうな気がするぞ。

『小鼠 ニューヨークを侵略』 レナード・ウイバーリー 創元推理文庫

 これは愉しい。著者はアメリカ在住のアイルランド作家。フランス近く、北アルプス連峰のほど近くに位置する人口6000人足らずのグランド・フェンウィック大公国。輸出品といえばピノー(白)ワインしかないこの小国が、第二次世界大戦後の冷戦期に(こともあろうか)核爆弾を有する超大国アメリカにつきつけた宣戦布告を巡る顛末を描いた痛快作だ。
 武器といえば16世紀以来の伝統である大弓と槍しか持たない彼らが、小国なりの矜持を忘れず、わずか20名の遠征隊でニューヨークのど真ん中に侵攻していく様子は、判官びいきの自分のような人間にはぴったりといえる。ジャンルとしては風刺小説やユーモア小説の仲間に分類されるのだろうが、架空の究極兵器「Q爆弾」が出てきたりと、SFやファンタジーの要素もある。元が創元推理文庫の「帆船マーク(怪奇や冒険)」に分類されていたくらいだから、いずれにせよジャンル横断型の作品であるのは間違いないだろう。
 本書が面白いという話は昔から聞いていたのだが、正直ここまで愉しいとは予想していなかった。今まで読まずにいて、もったいなかったな。全体を貫くトーンは小中学校の頃に夢中になった推理作家・加納一朗の、子供向けユーモア小説(*)を彷彿とさせる。後半からの展開も、ブラウンの短篇「地獄の蜜月旅行」やエールリッヒの長篇『巨眼』といった作品を思わせて、とっても自分好み。―といっても分かる人いるかなあ(笑)。このへんの作品を読んだことがあるのは、かなり年季の入ったSFファンだと思うので、今さらネタバレにはならないよね。

   *…『透明少年』や『夕焼けの少年』『イチコロ島SOS』に『怪盗ラレロ』など。

 『ピンク・パンサーシリーズ』などで有名なコメディ俳優のピーター・セラーズが主演して、映画化までされていたというのも、実をいうと本書の解説で初めて知った次第。いや、お恥ずかしい。続篇も2冊あるようなので、古本屋でぼちぼち探して読んでみようかな。

『迷信博覧会』 種村季弘 ちくま文庫

 種村氏の本は正直いって結構読みにくい印象があって、今まであまり手を出してこなかった。しかしいざ本腰を入れて読み始めてみると、心配していたほどでもない。さくさく読めていい感じだった。これまで読まずにいてちょっともったいなかったかも。(でもこれから読みたい本が増えたと考えるのが、いかにもお気らく読者らしいでしょ。/笑)
 本書は博覧強記の独文学者である著者が、古今東西の「迷信」について蘊蓄を傾けた、肩の凝らないエッセイ集。名付けて「迷信おもしろカタログ」といったところか。ところで「迷信」とはそもそも何ぞや?ということだが、本書によれば大雑把には「今、信じられているのとは違う信念や信仰」のことのよう。個人的にはこの“信念や信仰”というのがポイントだと思う。科学的に根拠がない事柄という訳だから、時代や社会の違いによってガラリと基準が変わってしまうことになる。だからこそ今の目から見て“変”だとか“非科学的”となるわけだが、我々だって血液型占いだの今日の運勢だの言っているのだから、似たようなものだ。
 取り上げられている迷信は、江戸時代の「本所の七不思議」とか食べ物の「食い合わせ」、それに「丙午の女」「初夢」「四月馬鹿」「厄年」など様々。
 この手の本は、何といっても中に挟み込まれている小ネタが面白い。ひとつ例を挙げてみると、「Friday(金曜日)」の語源はゲルマン神話にでてくる愛の女神フリヤー(FrijaまたはFrigg)なのだそうだ。全然知らなかった。また「昔の人だって迷信を頭から信じていた訳ではない」という話もなるほど納得。現代人だって家を建てる時には鬼門の方角を気にしたり、神社で厄払いのお参りしたりはするが、それをあたまから信じている訳ではないものね。本書で引用されている話によれば、「迷信」とは小さかったころの生活習慣に対するノスタルジーの一種なのだとか。これなんか、なかなかの卓見だと思う。

 種村さんの本は折に触れ買いためておいたストックが他にも何冊かあるから、まだしばらくは愉しめそうだ。

書物の栄養素

 「本はこころの栄養」だとか「読書はあたまの食事」だとかいう言葉を聞いたことがある。全くの同感、まさしくその通りだと思うが、今回はそれをネタにちょっと遊んでみようかと。すなわち、本を文字通りの“栄養”に譬えてみたらどうなるか?というお話。

 自分の好きな本のジャンルは、以前にも述べたように「人文・社会・自然科学などの学術書」「小説や説話などのフィクション」「エッセイや紀行文」の3種類。これらが自分にとってはどんな栄養素にあたるのか、それぞれ順番に考えてみた。
 まず「学術書」を何かの栄養素に譬えるならば、さしずめタンパク質やカルシウムに相当するのではないだろうか。いずれも筋肉や骨の材料になったりして、いわば身体を作る元になるものだ。同様に、学術書を読むことで得られる新しい知識や思想は、世界をこれまでよりも更に愉しむ為の、道具やモノサシになる。これらの知見が血となり肉となることで、今の自分の“カラダ”を作ってきたのだ。
 つづく「フィクション」は、活動するためのエネルギーになる炭水化物。この愉しみがあるからこそ、日々の生活で辛いことがあっても、何とか乗り切っていけるのだ。ちなみに同じフィクションでも小説ではなくマンガの場合、すぐに読めて即効性があるので炭水化物というより、むしろ“脂肪”と言った方がいいかも。ここらへんのジャンルは口当たりがよくて幾らでも読めてしまうので、気をつけないとつい“食べ過ぎ”て本棚の「肥満」の原因になりかねない(笑)。
 残る「エッセイ」については、カラダの材料にもエネルギーにもならないが、それでも自分にとって無くてはならないもの。というわけで、言うなれば身体の調子を整えるビタミンやミネラルのようなものか。

 調子に乗って(笑)、それぞれのジャンルについて昨年の“摂取量”を数えてみた。その結果は、学術系とフィクションがそれぞれ4割で、残りの2割がエッセイという感じ。適当に読んでいた割には、意外とバランスよく散らばっていたので正直おどろいた。特に意識はしていなかったのに「栄養バランス」が結構とれていたのは、我ながらエライ(笑)。
 おそらくこれは複数の本を併行読みしたせいもあるはずだ。本物の食事でもそうだが、栄養はただ取れればいいというものではなく、いかに美味しく摂取するかも大事なポイント。(サプリメントや栄養剤ばかりじゃそのうち嫌気がさす。)それには個々の本の「味」はもちろん重要として、さらに本を読む順番を意識したり、組み合わせて読むことでさらに「味」に深みが増すのを活用しない手はない。
 例えばの話、中世ヨーロッパの習俗について阿部謹也氏が書いた本を読んだとしたら、その次には中世日本について網野善彦氏が書いた本を読むとか。あるいは講談社ブルーバックスで最新宇宙論の本を読みながら、同時に野尻泡影氏の星座随筆を愉しむとか。それらの合間には、口直しで岡崎武志氏の古本エッセイを挟んだり、ホジスンやブラックウッドの怪奇小説に浸るのもいい...。
 きりがないのでこれくらいで止めておくが、他にも正反対のタイプの本を併読したりとか、組み合わせ次第で愉しみ方は無限にあるといってもいい。
 これからも“偏食”しないでバランスよく“栄養”をとることを心がけ、末長く健康的な「活字生活」を愉しみたいものだね。(笑)

『アイヌの物語世界』 中川裕 平凡社ライブラリー

 アイヌ社会に古くから伝わってきた口承文芸について、一般読者にも分かりやすく解説した入門書。「アイヌ」って名前は誰でも知っているけど、どんな生活をしてどんな文化を持っているかなど、意外と知られていないと思う。まさに自分がそうで、この年になるまで碌に勉強したことなど無かった。(イザベラ・バードの『日本奥地紀行』に出てくるのと、中沢新一の『カイエ・ソバージュ』で触れられているのをちょっと読んだくらい。)
 素人にも分かりやすく説明してくれる本がないものか、折にふれて探していたのだが、こんな時に頼りになるのが平凡社ライブラリー。調べてみたところ、やっぱりあった(笑)。
 ひとくちに口承文芸といっても、特徴によって大きく神謡・散文説話・英雄叙事詩の3種類に分かれるらしい。ちなみに“神謡(カムイユーカラ)”というのは、字に「神」が使われている事からも分かるように、「カムイ」(*)が主人公の話のこと。“散文説話”は「アイヌ」(人間の意味)に関するものが多いが、その他にカムイや和人(当時の徳川幕府体制に組み込まれた“本土”の人々)なども一部ある。“英雄叙事詩(アイヌユーカラ)”は日本神話における初期のスサノオのような破天荒な面と、南米神話のカラスやウサギのような文化英雄の面をもつ「超人」が主人公になっている。(本書で幾つかのあらすじを読んだ印象では、インドの叙事詩「マハーバーラタ」にも近い雰囲気もしたりと、何とも不思議な印象。)

   *…一般には「(八百万の)神」に似たものとして理解されている場合が多いと思う。
     しかし本書によれば、少し違うようだ。カムイとは単純に「神」あるいは「精霊」
     といった存在では無く、むしろ「アイヌ以外のもの」とでもいうべきもの。動物も
     そうだし火や雷のような自然現象の本質もカムイと呼ばれているらしい。自分たち
     の国(カムイモシリ)で見せる本来の姿は人と同じなのだが、そのままでは人の目
     には見えない。それぞれの属性を示す着物を着ると、熊や狼や炎になって見える
     ようになる。

 ここで紹介されるアイヌの人々の世界観は、なかなか素晴らしいものだ。人とカムイの立場は基本的に対等であり、いわばお互いに持ちつ持たれつといった感じ。カムイは人間に山や海の幸をもたらしてくれるし、お返しに人間からは、酒や御幣(イナウ)といった捧げ物が与えられる。まさしく”GIVE and TAKE”の関係なのだ。
 アイヌにとって「狩りの獲物」とは、自然界から奪い取るものではなく、カムイたちが自ら進んで与えてくれる施しといえるだろう。「イオマンテ」(**)といった風習も、このような背景から生まれたのだと思うと、すごく腑に落ちた。

  **…「カムイ送り」と呼ばれる儀礼。たとえば冬眠から覚めるころの母グマを狩りで
     仕留めると、あとには子グマが残される。アイヌの人々はその子グマを大きくなる
     まで手厚く育て、やがてカムイモシリ(カムイの本来の住処)へと返してやる。
     その儀式をイオマンテと呼ぶのだが、これすなわち(敬意を持って)命を絶つ儀式
     のこと。なおクマはカムイの代表格なのでイオマンテと言えば普通は「クマ送り」
     のことを指す。でもキツネやカラスなど、他のカムイに対するイオマンテもある
     そうだ。

 自分にとって、本書で紹介された3つの口承文芸なかで一番馴染みが薄いスタイルは、やはり”神謡(カムイユーカラ)”といえるだろう。実は岩波文庫で『アイヌ神謡集』が出ていることは前々から知ってはいた。しかし今まで手に取る勇気がなかったのは、自分が知っている一般的な文芸とはあまりにもスタイルがかけ離れていて、つい恐れをなして(笑)しまったから。でも本書を読んでみて、しごく納得がいった。以下、簡単にその内容についてまとめてみたい。
 神謡というのは、基本的には「物語をメロディにのせて謡っていくもの」と考えてもらって差し支えない。俳句や和歌は5・7・5といった(日本人にとっては)心地よいリズムで語られるのと同様に、神謡の場合は4または5のリズムで謡われる。また本文の頭や途中には「ホテナオ」とか「ワウォリ」といった「囃し言葉(“サケヘ”という)」を入れながら、カムイによる一人語りの形をとるもののよう。
 また本書を読む限りにおいては、この”神謡”にはアイヌの人々の世界観が最も特徴的に示されていると思う。まさにアイヌの人々が持つ豊饒な精神世界をストレートに表現した、代表的なアイヌの文芸と言えるだろう。

 ちなみに言えば、ふたつの文化が出会う時に最も大切なのは、「どちらの文化が優れているか?」という優劣をつけることではなくて、互いに相手の文化が持つ優れた点を認め合って、自らの立場を相対化することなのではないかと考える。(これはアイヌだけでなく琉球文化についても同じこと。)そういうのが本来の「異文化コミュニケーション」っていうものじゃないのかねえ、よくは知らないけど。
 また、(かつて梅原猛が『日本の深層』で夢想したように)アイヌの人々が縄文人の直系であって、縄文文化はアイヌ文化に極めて近いものだったと考えてみるのも愉快。そう考えると、今はやりの「エコロジー」とか「自然との共生」などという「手垢」のついた言葉ではなく、もっと根本的な部分で“自然とともに生きる”ことこそが、本来の日本人の姿だったのかも。

 話題を本書の中身に戻そう。
 次の散文説話を紹介するパートでは、アイヌの人にとって「夢」は「現実の体験」と全く同じ価値を持っているという話が大変面白かった。散文説話で語られる出来事は、たとえ物語であろうが夢であろうが全て「事実」として扱われる。(まるでオーストラリアのアボリジニの「ドリーム・タイム」を連想させる世界観。)このような話を読むと、日本にはないアイヌ固有の文化の真髄に触れたような気がして、思わずニヤリとしてしまう。
 ちなみに散文説話でよくあるのは、「正しい心をもった村人が苦難に巻き込まれるが、最後には幸せになる。」そして「悪人にはバチがあたって酷い目にあう。」という、いわゆる”勧善懲悪”の話だそうで、割と類型的かな。
 本書後半(第四・五章)には文法的な特徴からみた考察や、金田一京助氏ら著者の先達による研究紹介などもあって、アイヌ文化をもっと深く知りたい人へのフォローもばっちり。(もっとも自分としてはまだそこまで読み進むゆとりはないが。/笑)
 昔、別の本の記事でも書いたことだが、こういった良書が文庫や新書で簡単に(しかも安く!)手に入るというのは、改めて考えてみると凄いことだと思う。日本と言う国は、自分のような活字好きにとっては恵まれた国だなあ。

<追記>
 これくらいの予備知識があれば、岩波の『アイヌ神謡集』あたりなら割と気軽に手に取れそうな気がしてきた。取り敢えずは良かった、良かった。(笑)

2012年1月の読了本

『ムーミン谷のひみつ』 冨原眞弓 ちくま文庫
  *トーベ・ヤンソン作のベストセラー「ムーミンシリーズ」の世界観や、作中に登場する
   個性的なキャラクター達を紹介した入門書。実を言えばムーミンの原作は今まで一冊も
   読んだことなかったのだ。アニメ版は子供の頃大好きだったんだけどね。大人も夢中に
   なるというその話とはどんなものなのか、雰囲気だけでも一度掴んでおきたいと思い
   読んでみた。(そんなまどろっこしい事しなくても、とっとと本物を読んでしまえば
   良いのにねえ。我ながら何だかヘン。/笑)
『都市と都市』 チャイナ・ミエヴィル ハヤカワ文庫
  *同じ場所にありながら、お互いに「存在しないもの」として振る舞うことを強制された
   2つの都市ペジャルとウル・コーマ。そしてそこで起こった殺人事件を追う捜査官。
   ―― 奇抜な設定で展開する読み応え抜群のミステリSF。
『火の神話学』 大塚信一 平凡社
  *数多くの書物を渉猟して、「火」にまつわる思想・文化・信仰などをひも解く異色の
   人類史。
『失踪入門』 吾妻ひでお 徳間文庫
  *知らない人のために本書の背景を書いておくと、著者はかつてカルトな人気を博した
   ギャグマンガ家。突如失踪して路上生活を経たのち、その体験を書いた『失踪日記』が
   2005年にベストセラーに。本書は精神科医・香山リカの実弟である中塚圭骸氏が、吾妻
   の失踪時の体験についてインタビューする本なのだが、すっかり立ち直った吾妻氏本人
   よりも、様々な精神疾患や不安症を抱えているインタビュアーの方がよっぽどアブナイ
   という、とても不思議で異色な本に仕上がっている。
『鳥はいまどこを飛ぶか』 山野浩一 創元SF文庫
  *日本に「ニューウェーブSF」の運動を展開した立役者による、長らく入手困難だった
   作品を集めた短篇集。(全2巻のうちの一巻目。)
『秘書綺譚』 ブラックウッド 光文社古典新訳文庫
  *幻想怪奇小説の大家アルジャーノン・ブラックウッドの傑作集。ジョン・サイレンスと
   ならぶ代表的なシリーズキャラである、ジム・ショートハウスを主人公とする4短篇が
   全て収録されているのが嬉しい。訳者の南条竹則氏が選りすぐった作品だけあって、
   どれもテンポよくて面白い。特に好みなのは「空家」「秘書綺譚」「転移」、そして
   「小鬼のコレクション」(笑)。
『たのしいムーミン一家』 トーベ・ヤンソン 講談社文庫
  *『ムーミン谷の秘密』を読んだら無性に原作が読みたくなって早速買ってきた。全部で
   8冊でている原作本の第1巻。話には聞いていたが昔のテレビ版とかなり違う。後の方
   にあるという、もっと暗めの話も読んでみたくなった。
『女の人生すごろく』 小倉千加子 ちくま文庫
  *上野千鶴子氏の盟友である心理学者の著者が、フェミニズムの観点から分析した日本人
   の女性の人生。お手軽な日本版の『第二の性』といった感じか。なんせ元本が出版され
   たのがバブル期なので、描写されている女性の価値観がいささか古くなっている感は
   否めないかも。(しかし歴史の1シーンとしてみれば、それはそれで興味深いものでは
   ある。)巻末対談の相手であるマンガ家・西原理恵子氏の半生が凄まじい。
『贈与の歴史学』 桜井英治 中公新書
  *「中世日本=未発達な市場経済」というこれまでの画一的なイメージを覆し、現代の
   市場経済と見紛うまでに“ドライ”な「贈与の経済」が存在したことを説明。第一線の
   研究者が自ら筆をとり、一般読者向けに書き下ろした刺激的な一冊。
『殺人者の空』 山野浩一 創元SF文庫
  *『鳥はいまどこを飛ぶか』に続く、ニューウェーブSFの第一人者の短篇集第2弾。
   好きな作品は「メシメリ街道」「Tと失踪者たち」「殺人者の空」「内宇宙の銀河」
   あたりか。特に表題作と「内宇宙…」が好みだった。
『貧乏サヴァラン』 森茉莉 ちくま文庫
  *著者はかの有名な明治の文豪・森鴎外の長女。とんでもなく甘やかされて育ったが故、
   長じて自他共に認める「社会生活不適合者」になってしまった著者が、自らの生い立ち
   と日常生活をつづったエッセイ。(とはいっても嫌みな感じはない。)ちなみに一人の
   「キャラ」としてみた場合は極めて秀逸。最後まで愉しく読めた。
『アジアの旅人』 下川裕治 講談社文庫
  *元祖「貧乏旅行ライター」の東南アジア紀行。取り上げられる国や地域はラオス/ベト
   ナム/タイ/バリ島などで、内容は面白おかしい話ばかりじゃない。そこに暮らす人々
   の厳しい生活や、日本からドロップアウトした人々の様子なども赤裸々に。ツアー旅行
   では絶対に味わう事の出来ない“素”のアジアが興味深い。
『アイヌの物語世界』 中川裕 平凡社ライブラリー
  *アイヌ民族に伝わる口承文芸に関する入門的な解説書。
『長靴をはいた猫』 シャルル・ペロー 河出文庫
  *改めて説明するまでもない有名な童話だが、これはとても贅沢な作りの本だ。(なんせ
   澁澤龍彦が訳して片山健が挿絵を担当。)子供向けにリライトされたものではなく、
   ペローの原作をそのまま翻訳しているので、全体的にかなりビターな味わい。ちなみに
   表題作の正式な原題は「猫の親方あるいは長靴をはいた猫」だし、シンデレラの元の
   題名は「サンドリヨンあるいは小さなガラスの上靴」というらしい。初めて知った。
   他にも「赤頭巾ちゃん」や「眠れる森の美女」「青髭」など、全部で9篇を収録。
『迷信博覧会』 種村季弘 ちくま文庫
  *異色の独文学者による肩の凝らないエッセイで、各種「迷信」を集めた面白カタログ。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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