『貧乏サヴァラン』 森茉莉 ちくま文庫

 いやー、ムチャクチャ面白かった。といっても本書の中身のことではなくて、著者のキャラクターのこと。(失礼、別に中身も悪くはないよ。)
 本書は前々から本屋で見かけて気になっていたエッセイだった。書名にある「サヴァラン」というのは、もしかして『美味礼讃』で有名なフランスの美食家・ブリア=サヴァランのことじゃないか? としたら「ボロは着てても心の錦~♪」みたいな“食のエッセイ”なのかな――という風に思っていたのだ。でもあまりに美食家然とした嫌みな文章だったらいやだし、著者の森茉莉氏についても「たしか森鴎外の娘だよな」という程度の知識しかなく、今回読んでみたのもたまたま機会があったから。
 読み始めはごく普通の感じで、だいたい予想したとおりの雰囲気だった。ところが読み進むうち、何とも言えない違和感を感じることに。書かれている内容は、筆者が日常で出会った出来事についての、よくある食エッセイなのだけれど、著者の視点や価値観が何だかビミョーに自分とずれているのだ。(それもちょっとおかしな方向に。)具体的にそれがどことはわからぬまま、俄然この著者に対する興味が湧いてきた。中身そっちのけで著者の方にこれほどの興味を持ったのは、生まれて初めての事と言ってもいい。(笑)
 世の中便利になったもので、こんな時はネット検索ですぐに情報が手に入る。さっそく調べましたとも。そして分かったのは、この人物がとんでもなく「面白い」人物だったということ。まだまだ知らない事は多いね。以下に著者のプロフィールについて、自分なりにまとめてみる。

 森茉莉(もり・まり)氏は文豪・森鴎外の長女として1903年に生まれた。父鴎外は彼女を幼いころから溺愛し、「マリはいい子だ」と褒めるばかりのダメ親ぶりを発揮。その甲斐あってか(笑)、彼女は典型的なファザコン。(なんでも16歳まで父の膝の上に座っていたらしい。)
 食事の際も女中に箸で口元まで運んでもらうような生活をしていたため、やがて家事は一切できず世間一般の常識もない「生活能力ゼロ」の人間へとすくすく育ち、2度の離婚を経てひとり暮らしを始めてからも浪費癖は治らずお姫様生活は続く。
 しかし世の中そうそう上手く行くものではない。父・鴎外の著作権が(当時の基準である死後30年で)消滅すると、印税が入らなくなってたちまち困窮状態に。働きにでることも出来ない著者は見よう見まねで文章を書きはじめ、およそ50歳で遅咲きのデビューを果たす事に。幸いにも父親譲りの文才があったと見え、小説やエッセイストとして何とか一人で生活できるようになった。父との思い出を元にした耽美な小説や、家事の中で唯一著者が上手にできる“料理”についてや(飽くなき興味の対象である)“食べ物”に関するエッセイの他、テレビについて書き連ねた「ドッキリチャンネル」というエッセイでも有名。1987年永眠。

 とまあ、ざっとこんなところ。調べてみてすごく納得がいった。自分が感じた違和感は、著者の生まれ育ちに起因する(よく言えば)「天真爛漫」で「純真無垢」、もしくは(悪く言えば)「世間知らず」の「非常識」な価値観と物事の判断基準にあったようだ。今の人でいうと、日本画家・伊東深水の娘である女優の朝丘雪路みたいなものか。
 こうした情報を得た上で改めて本書の続きを読んでみると、自分の感じた違和感の正体がよく分かる。例えば著者が世の中の様々なことに対してつぶやく意見は、全てが「好き」か「嫌いか」で決まっていて、そこには理屈など存在しないのだ。少なくとも「大人の理屈」でないのは確かで、まるで「幼稚園児のような価値観で仕切られた世界」という雰囲気。お気に入りのバターがないといっては絶望し、挨拶の手紙を出しそびれたといってはしょげかえる。かと思えば大好きなビスケットと紅茶を食べて天国気分になるといった、その言動を苦笑とともに読んでいるうち、何とも言えない「“マリア”ワールド」が展開していく。
 さらに面白いのは、著者自身がこうした自分の生活能力の欠如について、充分過ぎるほど自覚している点。でも著者の頭の中には、それを改めようという気はさらさらないのだ。ダメ人間である自分を肯定しつつ、どんなに周囲との摩擦がおきて辛かろうが、腐らず生きていこうとする前向きな姿。どんなに我がまま放題を言おうがイヤミな文章にならないのは、きっと「子供がそのまま大きくなったような」、裏表のない彼女の性格によるものなのだろう。まさに自他共に認める、社会生活不適合の烙印をおされた「純粋培養のお嬢様」なのだ。それが分かってからは、世間と著者の考えのズレを味わいながら、最後まで愉しく読み終えることが出来た。
 うーん、こんな人も昔はいたんだねえ。いい勉強になりました。(笑)
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『贈与の歴史学』 桜井英治 中公新書

 中世の日本において贈与という慣習がどのようなものだったかを研究した本。網野善彦の著作を読んでいる時のように「目からウロコが落ちる」話題が多くて結構スリリングな読書体験。どんな話かというと、鎌倉から室町にかけての中世日本においては市場経済と贈与経済は一般に考えられるほど分離していなかったということ。人類学者モースの『贈与論』を始めとして、近代以前の社会では物と金の交換を基本とする“市場経済”ではなく、物にマナ(霊や魂のようなもの)が付いてまわる“贈与”が基本であったと考えるのが一般的。しかし実際には「贈与⇒市場」という形で直線的に進化した訳ではなく、なんども行き戻りをしているというのが徐々に分かってきた。現代よりよほどドライな価値判断をしていた例も多くあるようだ。
 贈与の種類(起源)は大きく分けると2種類になるらしい。ひとつは神仏(寺社)への贈与で、初穂(すなわちその年の初めての収穫物を神に捧げること)に起源をもつ「租」や「調」。これは時代を経るにつれて「上分」へと変化していった。もうひとつは人(将軍や幕府)への贈与。これも最初のうちは神への寄進の名目であったがやがて実質的に施政者により財源として利用されるようになっていった。
 これらが「有徳思想」や「先例主義」(*)、それに社会的な地位や席次に関する中世独特のこだわりと入り混じって、人から人への「つきあい」としての贈与が先鋭化するとともに慣例化・義務化が進み、正当な報酬として要求されるのが当たり前になったり、徐々に税へと転化していった。

   *…「有徳思想」とは金持ちが諸社の祭礼の費用を負担したり、貧者に施しをすること
     で徳が得られるという考え。「先例主義」とは先の例に従うのを善いこととして、
     前例のない新しいこと(新僕)は、一般的に悪いことと見做された慣習。
     (但し「新僕」もなんどか繰り返すと、結果オーライで先例のひとつとなる。)

 また、中世は自給自足が一般的で産業が発達していないというのも大きな誤りで、市場経済がかなり発達していたというのが今の定説なのだそう。ここに贈与の義務化と習慣化が進むことで、贈与と市場がかなりの部分で重なり合い区別できないほどの強い結びつきが生まれた。
 それではなぜ市場経済が発展したのかというと、どうやら「代納銭化」の制度のためらしい。日本では13世紀には年貢を物品ではなく銭で収める「代納銭化」の制度が確立した。それにつれ地方でも米や手工業品を一旦換金する必要が新たに生じることになり、「市場」の発展による市場経済化が一気に進むことに。
 さらに時代が進むともっとびっくりするようなこともあったようだ。贈答品には古くから折紙(目録)が付けられるのが習慣だったが、そのうちに現物に先行して折紙だけが送られるようになった。品物があとで届けられると、折紙は一種の受取証として花押を押したうえで送り主に返却されるのが通例に。ところがそこに(先述のような)身分に関するこだわりから、目下の者への贈答の際はわざと品物を送るのを送らせたり、もしくは経済的に困窮した貴族らにより品物を届けるのが滞ったりした結果、折紙の送付と実際の引き渡し時期の乖離が平気で数カ月、場合によっては数年にも亘ることが常態化するようになっていった。
 また市場経済との結びつきの影響もあって、贈答品の金銭価値が値踏みされるようになり、折紙には品目ではなく金額換算された数字だけが書かれるところまで進んでいた。これがやがて直接金銭そのものを贈答するという習慣となり(**)、その結果、折紙はまるで今で言うところの“約束手形”のような位置付けへと変化。折紙同士で相殺したりという、まるで架空の贈与経済が確立していたようだ。――何て面白いメカニズムだろうか。

  **…ちなみにこの習慣は今でも続いている。冠婚葬祭におけるご祝儀や香典などを想像
     してみれば分かるはず。ヨーロッパ人から見ると極めて不思議な習慣らしいが、
     我々からすると特に奇異な感じはしない。
 
 マルクスの『資本論』の影響もあってか、我々は「経済が古代から現代へと順に進化を遂げてきた」という意識を持ちがち。でも実際にはそうではなく時代の時々で先鋭化したり、逆にその時代の経済が様々な理由で崩壊することにより大きな揺り戻しがあったりと、非直線的な発達をとげて現在に至っているという見識は、本書を読むまで正直いって全く持ち合わせていなかった。昔の日本にもそのような時期が何度かあったらしく、本書で取り上げられた15世紀のおよそ100年間もそのひとつなのだそう。
 冒頭で掲げられた魅力的な謎である「ヨーロッパでは贈与が市場経済と切り離され”善い事”と見做されがちなのに比べ、なぜ本邦では損得勘定や義理それに賄賂といったマイナスのイメージが付きがちなのか?」というテーマについては、残念ながら結論は出なかった。しかしこれだけ贈与と市場が結び付いた時代が(少なくとも日本においては)かつて存在したのであれば、その痕跡が価値観として残っていても不思議ではない気がしないでもない。

 ところで現代の経済活動といえば、企業が中心になって行われている。日本における企業活動と神仏への贈与の関係は、それだけで充分に面白いテーマといえるだろう。蛇足ではあるが、ひとつ自分の身近にあった興味深い事例を紹介して終わりとしたい。 
 愛知県北東部に「大縣(おおあがた)神社」というところがある。(おそらく殆どの方はご存じないとは思うが。/笑) 聞くところによれば尾張の国の開闢の始祖を祀る由緒正しい神社だそうで、実は「尾張二ノ宮」といって熱田神宮よりも格が上なのだとか。境内には女性の守護神である「姫の宮」があって、毎年3月には近隣にある「田縣(たがた)神社」とセットになり男女のシンボルをかたどった神輿で練り歩く奇祭「豊年祭」が行われる。(この祭からしても、かなり古くから信仰を集める場所であることがわかる。)
 この豊年祭では地元企業により大鏡餅の奉納が行われる慣わしになっていて、小牧市ならびに犬山市周辺の企業が持ち回りで負担している。一回当たり数百万円もかかる費用は当然その企業の持ち出しであり、総勢百人以上かかる餅作りから奉納パレードの神輿担ぎまで、全てが社員のボランティア。本番の数週間前からは、土日の休日をつぶして行うことになる大変な作業なのだが、縁起のいい事なので喜んで引き受けている。
 大縣神社と企業の結びつきはこればかりでは無い。(直接現地に赴けばわかるが、)名古屋の名だたる企業による高額な寄進がなされている他、毎年正月には企業関係者が次々とお参りに駆けつける。――この例などは、まさしく市場原理と贈与が矛盾なく並立する、日本経済の不思議さを象徴するものではないだろうか。こうしてみると、中世日本にも現代のようにドライな市場原理があったと驚くよりも、むしろ過去か現在かを問わず贈与と市場は不可分と考える方が自然なのかも。
 網野善彦が明らかにしたところによれば、中世日本には時の権力者の支配を受けぬ自由領域「アジール」が存在したのだそう。この「アジール」の中心となったのは神社仏閣などの宗教施設。そして寺社は信仰の中心であるとともに、楽市楽座のような自由市場が生まれる礎にもなっている。(昔の市はだいたい寺社の境内を借りて決まった日に開かれたのが始まり。四日市とか八日市なんていう地名は全てその名残りだ。)
 きっとこのあたりの話を突き詰めていけば、「贈与=原始社会」「市場=近代社会」などといった単純で画一的な図式では語れない、経済の根本みたいなところにつながっていくのだろう。利子の概念を禁止するイスラム金融の例もあることだし、贈与と市場取引の関係はもしかしたら一枚のコインの表裏なのかもしれない。

 ――本書を読んでとめどなく妄想は広がり、こんなことを考えたりもしてはみた。しかし残念ながらこれ以上はお気らく読者の思考能力の限界を超えて智恵熱でも出そうなので(笑)、今回はこれくらいで。

マンガ・映画・音楽など_My favorite 21

 ※今回は昔の思い出にどっぷり浸かったマニアックな趣味が全開の話なので、興味のない方は
  どうぞ読みとばしてください。

 これまでの『My favorite』では活字本を中心に書いてきたので、今回は趣向を変えて活字以外の諸々について、気の向くままに書き連ねてみたい。もう何年も実家に置きっぱなしで、とんとご無沙汰しているものや、今でも時折手に取ってみるものまで色々あるが、いずれにしても他の人には理解頂けない話が多くなりそう。(笑)
<マンガ>
 ますむらひろしと諸星大二郎については以前に書いたことがあるが、小さい頃からマンガを読みまくっていたせいで、お気に入りだった作家は他にも大勢いる。思いつくままに挙げてみると、大友克洋・水木しげる・たむらしげる・鴨沢裕仁・村野守美・高橋葉介・森雅之・寺島令子・吾妻ひでお・つげ義春などなど。(きりがないのでこれくらいで。/笑)思い返してみると、高校から大学のころはマンガ雑誌に片っ端から目を通していた気がするなあ。ホントに勉強やってたんだろうか。(^^;)
もちろん少年誌に載った有名な作品も読んではいたが(*)、どちらかというと思い入れが強かったのは、『ガロ』や『まんが少年』など少し傍流(失礼)の雑誌に載っていたマンガ家の方。

   *…いわゆるジャンプ/マガジン/サンデー/チャンピオンの4大少年誌はもちろん、
     ビッグコミックやアクションといった青年誌まで、気になる作家は毎週一通り目を
     通していたはず。大御所では手塚治虫や永井豪に望月三起也といったあたりから、
     池上遼一(『男組』)や鴨川つばめ(『マカロニほうれん荘』)も大好きだった。

 先ほど名前を挙げたマンガ家には有名なのから“知る人ぞ知る”というのまで色々だと思う。わからない人にはつまらない話が続いて申し訳ないが(笑)、記憶の中からいくつか引っ張り出してみよう。
■大友克洋
  一般的には『AKIRA』や『童夢』といった長篇作品が有名だし確かに面白いのだが、
  初期の『ショートピース』や『さよならニッポン』といった短篇集の味も捨てがたい。
  「宇宙パトロールシゲマ」のとぼけた感じや、「聖者が街にやってくる」の感動が好きだ
  なあ。
■水木しげる
  今や押しも押されもせぬ大作家だが、自分が夢中になっていた頃はかなりマニアックな
  人気を誇っていた気がする。一番好きなのは『悪魔くん千年王国』と『墓場の鬼太郎』。
■たむらしげる
  昔「ブロードキャスター」というニュース番組の冒頭にかかっていたアニメを覚えている
  人はいるだろうか? もともとイラストレーターだけあり、透明感溢れるスマートな絵柄
  とファンタスティックなストーリーがマッチして好い雰囲気。『フープ博士の月への旅』
  とか『スモール・プラネット』『水晶狩り』などは何度読み返したことか。
■鴨沢裕仁
  『ビックリハウス』という雑誌の表紙に起用されていたので、絵を見れば思い出す人も多
  いはず。作風は稲垣足穂の影響をかなりうけているが、絵柄のせいで全体の印象はもっと
  ポップな感じ。『クシー君の発明』や『クシー君の夜の散歩』が好きだった。
■村野守美
  アクションに掲載されていた『オサムとタエ』のシリーズが甘酸っぱい感じで好きなのだ
  が、単独作品としては『スーパーマンの息子』という本に収録の「マイ・ドラキュラ」が
  最高。昔角川が作ったアニメ『カムイの剣』のキャラクターデザインの人といえば分かる
  かな?

<映画>
 映画は黒沢明など邦画の全盛期をしらない世代なので(あとでテレビやビデオでみた)、もっぱら洋画ばかり見ていた。監督や俳優にはさほどこだわりがなくて、面白ければアクション物でもパニック物でもコメディでも何でもOK。あ、でもアンドレイ・タルコフスキーやルイス・ブニュエルが監督した作品などは、新作が映画館にかかると大概は観に行っていたかも。スピルバーグやジョージ・ルーカスあたりの王道エンタメ作品も観ていたけど、マンガと同じく映画でも生来のマニアックな性格が見え隠れしている気が。
自分の場合、映画でいちばん基礎になったのはテレビの洋画番組。(**)いわゆる往年の名画といわれるものは、テレビで一通り観た気がする。『サウンド・オブ・ミュージック』『大脱走』『パピヨン』『アラビアのロレンス』『夜の大捜査線』『セルピコ』『イルカの日』『ブラザーサン・シスタームーン』などなど。今ではなかなか時間が取れなくて、じっくり映画を見る機会も減ってしまったけれど、大スクリーンでみるワクワク感はやはり捨てがたいものがある。TOHOシネマズでやっていた『午前十時の映画祭』のような企画はこれからも大歓迎。

  **…荻昌弘が解説をやっていた『月曜ロードショー』に始まり、水曜日は水野晴郎の
     『水曜ロードショー』。金曜日は高島忠雄の『ゴールデン洋画劇場』を見て日曜日
     に淀川長治『日曜映画劇場』で〆るというのが定番。昔はテレビで結構いい映画を
     やっていた。

<音楽>
 最後は音楽について。一番音楽を聴いたのは大学生および社会人になって数年の間だと思う。邦楽だと、ちょうどその頃のバンドブームで登場した中から、やはり例によってマニアックなのを(苦笑)聴いていた。例を挙げればテレビ番組『いかすバンド天国(イカ天)』でメジャーになった「たま」や「人間椅子」「ビギン」「フライング・キッズ」や、先回も取り上げた筋肉少女帯。そうそう、昔からのバンドではRCサクセションも大好きだ。洋楽は友人の影響で聴き始めたプログレッシブ・ロックが気に入って、キング・クリムゾンとかYES、EL&P、ジェネシスあたりは一通り。でも洋楽の場合は他にもレッド・ツェッペリンやドアーズ、ボブ・ディランにスティーリー・ダンまで節操無くなんでも聴く雑食系。その中でも好きなのはちょっとひねくれた感じのポップロックかな。一番好きなのはXTCというバンドで、他にもスクィーズやエルビス・コステロ、ロキシー・ミュージックやトーキング・ヘッズなどがお気に入り。(このあたりはいまだに通勤途中にかけたりもしている。)
 
 うーん、あんまり細かくして殆どの人に分からない話題を書いてもしかたないと思い、かなり大雑把にしたつもりだったのだが...。こうして改めて眺めてみると、なんとも偏った趣味嗜好だなあ。つねにメジャーな位置から外れよう外れようとしている自分が居るようで、読んでいて何とも気恥かしい。
 まあこんな人間でも、一応は普通の社会生活を送れている(と自分では思っている)のでご安心を。(笑)

『鳥はいまどこを飛ぶか』 山野浩一 創元SF文庫

 山野浩一の小説には高校から大学にかけてずいぶん嵌まった記憶がある。彼はイギリスのJ・G・バラードに象徴される「ニューウエーブ運動(*)」を日本でも強力に推し進めた立役者だが、作品については永らく入手困難な状態が続いていた。それがこのたび創元SF文庫から装いも新たに傑作選として復活。山野ファンとして大変に喜ばしいことだ。

   *…それまで子供向け冒険活劇としてしか見られていなかったSFというジャンルを、
     “Science fiction/空想科学小説”ではなく“Speculative fiction/思弁小説”
     として捉え直そうとした、文学運動の一種。フランス映画の「ヌーベルヴァーグ
     (新しい波)」から名前を拝借したという話を昔聞いたことがあるがホントかな?
     従来のSFが「外宇宙(アウタースペース)」を舞台にしていたのに対して、
     ニューウエーブSFは「内宇宙(イナースペース)」すなわち人間の精神世界の
     探求を主眼において、難解かつ魅惑的な世界を描いた。

 今回の傑作選は本書『鳥はいまどこを飛ぶか』と『殺人者の空』の2冊組の短篇集。昔、ハヤカワ文庫から出ていた『X電車で行こう』と『鳥はいまどこを飛ぶか』はともかくとして、『殺人者の空』や『ザ・クライム』などの単行本で出ただけのものは現在ではまず入手無理。従ってそれら単行本の収録作や、雑誌に掲載されたまま埋もれていた作品まで、積極的に収録した今回の2冊は大変にお買い得といえる。
 せっかくなので、山野作品について思っていることなどを少し書きとめておきたい。(“山野浩一論”などという大層なものではなくて、単なる印象に過ぎないけれど。)

 さていきなりで恐縮だが、筋肉少女帯というロックバンドをご存じだろうか。ボーカルの大槻ケンジが、若者に特有な有象無象の妄想(**)を高らかに歌い上げて、カルトな人気を博したバンドだ。(こんな紹介しなくても、このブログを見られている方は殆どがご存じかな?/笑) ちょうど山野浩一作品に入れ揚げていたのと時期を同じくして、よく聴いていたものだ。

  **…「妄想」といってもフロイト系のリビドー全開の性的妄想ではない。思春期に特有
     の「自己肥大」とか「劣等感」とか、もしくは漠然とした「不安感」といったもの
     が主体。そこに乱歩やジョージ・ロメオのゾンビ映画といった、アングラ系のサブ
     カルチャーが入り混じり、一種独特の不思議な雰囲気を醸し出しているのが特徴。
     曲目としては「くるくる少女」「221B戦記」「生きてあげようかな」、それに
     「蜘蛛の糸」あたりが典型的な作品といえる。

 今回久しぶりに山野氏の作品を読み返して思ったのは、彼の小説と大槻ケンジの歌詞のスタイルが意外と似ているんじゃないか?という事だった。ひとことで言えば「心身二元論」を妄想力で“正面突破”してしまおうという強引かつ純粋なところ。
 ちょっと難しい言葉を借りれば、デカルトは人間の周囲に存在する客観的な「世界」と、それを認識する「自分」というものの関係を深く追求し、「我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」という有名な言葉とともに自我の存在を規定した。それが近代の西洋哲学を席巻した「心身二元論」のそもそもの始まりとなる。(尤もこれはその後、様々な思想家たちによる批判にさらされることになるのだが...。ともあれデカルトの思想が西洋哲学の基礎となり、今の世界を形作る原動力になったのはまぎれもない事実。)
 山野氏の作品は内宇宙と外宇宙の出会いを描く「ニューウエーブSF」の中に位置づけられる。心を扱う小説の例にもれず彼の作品もやはり心身二元論をベースにしてはいるのだが、他と違うのは、それが単なる心(主体)と身体(客体)という図式を超えて、“思念”が現実世界を浸食するスタンスをとっている点。(大槻ケンジの歌詞ほどにはアクが強くはないけれど、両者ともに同じニオイがする気が。)
 このあたりは同じニューウエーブに属するバラードと異なる、彼独特の作風といえるのではないかと思う。バラードの場合は、まず前提として揺るぎない世界がある。そしてその上で異常現象やテクノロジーといった周囲環境が、徐々に人間の精神を変容させていくパターンの話が多い。しかし山野作品では妄想力が極めて即物的な形をとる。目に見えない「幽霊電車」は現実に人を感電死させるし、男は消え荒野が街中に現れる。これらは決して心の中の幻想ではなく、実際に起こっている出来事として描かれるのだ。思念は現実と同じように存在し、現実に物理的な影響を与える力さえ持つ。山野作品の特徴を語る際には、この“思念の力”というのがまず真っ先に挙げられるのではないだろうか。
 ちなみに同じく「精神による現実世界の浸食」を得意とするP・K・ディックの場合、浸食は現実世界がグロテスクな姿へと変容を遂げることが多いが、氏の場合はもっと乾いて荒涼とした感が強い。
 山野作品の特徴は“思念の力”だけではなく、まだ他にもある。それは妄想による現実の浸食が「消滅」もしくは「失踪」の形をとるケースが多いこと―― 当時流行った言葉でいえばいわゆる「蒸発」と言うやつだ。(***)

 ***…この事は山野氏自身も自覚していたようで、あとがきでも同様の話題に触れている。
     ただし彼がいうように第1巻だけが「失踪」をテーマにしている訳ではなくて、彼
     曰く「バラエティに富んでいる」という『殺人者の空』においても、表題作をはじ
     めとして「メシメリ街道」など他にも消滅・失踪ネタは数多い。(そういえば彼の
     連作短篇集『レボリューション』に出てくる「フリーランド」という場所だってそ
     うだ。)こうして見ると「消滅」ないし「失踪」というのは、彼の作品全般に共通
     するテーマであるといえそうだ。

 とにかく今の生活から脱出したいという閉塞感。いつの間にか消えさってしまいたいという主人公たちの潜在的な欲望を表現するには、やはり「消滅」という言葉がしっくりくる。(その雰囲気がもっとも分かりやすいのは、本書収録作では「虹の彼女」あたりだろうか。)
 また、主人公が「消滅」する契機となるのが「罪の意識」とでもいうべき感情であるのも、山野作品の特徴のひとつといえる。ここには大阪万博に象徴される見事なまでの戦後復興と、逆にそれが引き起こした公害など社会の歪みの狭間で揺れ動く、当時の人々の心の在り様が見て取れると思うのだが。ちょっとばかり勘ぐり過ぎだろうか。
 フラワーチルドレンにビートルズ、サイケデリックに学生運動...。高校生の頃に自分が感じた得体の知れぬ不安や焦りにも似た感覚にも似た、また筋肉少女帯の甘酸っぱさとほろ苦さがないまぜになった感覚にも似た、まだ世界が青かったころのタブロウ。それが本書には確かにある。自分が山野氏の小説に魅かれるのは、案外こんなところが理由なのかも知れない。

<追記>
 なんだかとりとめのない文章になってしまい申し訳ない。好きな作家についてはなかなかうまく書けないものだね。いつものように本書の収録作の中で好きなものを初読・再読は関係なく選んでみると、「鳥はいまどこを飛ぶか」「赤い貨物列車」「X電車で行こう」「カルブ爆撃隊」「虹の彼女」といったところか。
 まだ第2集の『殺人者の空』が残してあり、楽しみはしばらく続くので嬉しい。表題作とか「メシメリ街道」とかは以前から好きなのだが、他にどんな作品と出会えるのか今からワクワク。(笑)

 

『火の神話学』 大塚信一 平凡社

 火とはなにか? それは熱と光を与えてくれるもの。生ものを加熱して食べられるようにしてくれたり、夜間や冬の寒さをしのぐ暖かさを供給してくれたり、更には危険な猛獣からも身を守ってくれたりするもの。しかしその一方で直接触れると火傷を負ったり、ひどい場合は命にもかかわるという恐ろしさももつ両義性も持つものでもある...。
 
 本書の著者は岩波書店の元社長。書名は「神話学」となっているが、特に専門の研究者でもなさそうなので、いったいどんな本かと興味深々で購入。読んでみたところ、要は「火」に関するさまざまな文献を渉猟して、「人間にとって火とは何か?」を考察したブックガイド兼解説書だった。引用されている文献の数は100冊以上にも上る。自分も既に読んだり知っているものも混じっているので、それを元に判断するとなかなかしっかりしたセレクションではなかろうか。言及される書籍については著者や出版者などの情報もきちんと記載してあり、興味があれば直接原著にあたることも可能。
 内容的には神話に限っているわけではなく、民族学や歴史学から文学や芸術まで、人文系のあらゆる分野が網羅されている感じ。「火の神話学」というより「火の人類学」もしくは「火の人類史」と言った方がいいかも。ちなみに冒頭に挙げたのは、本書の「火」に対するスタンスをざっくりまとめたもの。基本的には「調理」「暖房」「照明」の3つが火の役割とされていて、それらに関する考察が中心になっている。
 自分としては「火」が人間にとってどのような象徴や意味をもつのか、もっと広範囲に且つもっと哲学的に探究したものを期待していたので、ちょっと残念。(自然科学系の内容とかね。)でも本書のように民族学や人類学的な話も好きだから、これはこれで別に構わない。
 記述は概ね時代別になっている。最初は人類が初めて火を手に入れたところに始まり、その後は順をおって旧石器時代や縄文文化におけるイエと火の位置づけ、世界の神話における火の扱われ方(古事記やプロメテウスなど)、炉やカマドに囲炉裏といった民族学的な内容へと展開。ゾロアスター教を始めとする世界の宗教における火の役割や、近代に至って照明が火(行灯やロウソク)から電気へと移行していった社会史、さらには芸術や宗教美術において焔や光が象徴するものなど多岐に亘る話題が語られる。

 自分が考えるに、火の物理的な特徴は熱や光以外にも色々ある。たとえば赤や黄色といった「色」や「揺らぎ」、パチパチという「音」、ものが燃える際の「ニオイや煙」等々。これらが複合的に合わさって一つの空間に現出するもの、それが炎ではなかろうか。そのように考えた場合、本書が熱と光の供給源としてだけ「火」を扱っている点には、若干の不満が残る。著者の趣旨は物理的な火(炎/焔)をめぐるあれこれというよりも、それが象徴する精神性の追求にあるようだし、まあ止むを得ないかな。(*)

   *…最終的には「火」を“制御し切れぬ自然力”の象徴として位置付けるとともに、
     それが精神性にまで深まっていくと、ひとつは宗教にもからむ“神秘性”や
     “崇高さ”といった上昇志向、そしてもうひとつは人間の情念に関係する下降志向
     になっていく、ということが結論のようだ。人間は自らの自然性を否定して火を
     制御することで文化を得ることが出来たが、それはいつでも隙を見つけては地の
     底から噴き出してくるモノということか。

 ここからはちょっと余談になるが、本書に倣って自分も現代の「火」を巡る諸事情についてあれこれ考えてみた。(とりあえずは本書と同様に「調理」「暖房」「照明」の分野における火の役割について。)
 まず真っ先に炎がその役割を終えたのは「照明」。キャンプファイヤー程度は別として、街や家庭ではガス燈による照明はほぼ消滅したといっていい。炎による明るさは電気照明に比べると圧倒的に弱いため、白熱電球や蛍光灯が発明されると全てとってかわられたのだ。(基本的には投入エネルギーが「熱(=赤外線)」でなく全て「光(=可視光)」に変換されるのがもっとも効率の良い状態わけだから、最近では更に効率の良いLED照明に切り変わりつつある。)
 次は「暖房」。エネルギー効率の観点から言えば、大きな空間より小さな空間を温める方が必要な熱量も少なくて済むし、放熱量も減るので効率的。その意味からすれば従来の日本家屋のように、コタツや火ばちによる「局所暖房」が最も効率的なのだろうが、残念ながら快適性は別。そこで現代の住宅では「家全体の断熱性を高めた上で居住空間を全て暖める」という方向に進みつつある。「暖房空間の大きさ」についていえば、人間の身体を包み込む衣服の中“だけ”が暖かくて部屋の温度は低いままというのが、快適性とエネルギー効率を両立させる究極の姿なのだろうが、さすがにそれはまだ空想の世界だ。
 単に部屋を暖めるだけなら「火」を使わなくても外気から熱を奪い取る「ヒートポンプ」の方がエネルギー効率が良い(**)し、手軽さという面では電気式の「セラミックヒーター」なども存在する。しかし即暖性や光熱費など使い勝手をめぐる様々な関係で、まだ木材ならびに石炭・石油やガスといった化石燃料を燃やす方式がまだまだ主流を占めているのが実情。今後も(衣服の中ではなく)空間を暖房する時代が続くかぎりは、まだ暖房における「火」の役割は無くなることはないだろう。
 しかし問題は「火」による暖房そのものに潜んでいる。ヒトが暖かさを感じるのは、必ずしも身体的・物理的なものばかりではない。たとえば揺らぐ炎とそれが作り出す陰翳、薪がパチパチとはぜる音なども、心に温かさとゆとりを生みだす大切な要因といえる。だとすればファンヒーターなどの「炎が直接目に見えず音も静かな暖房」が増えれば増えるほど、暖房が「火」である必要性は薄れていくのではないだろうか。
 セラミックヒーターの前面にLEDライトで炎の揺らぎを再現したという話を聞いたことがあるが、これなどはアフリカの密林探検を真似たディズニーランドのジャングルクルーズの如きものであって、物悲しいパロディでしかない。(あ、ジャングルクルーズ自体の能天気さは好きなので、決して誤解なきよう。/笑)

  **…なんせ投入したエネルギーが数倍になって返ってくる優れもの。

 最後は「調理」について。囲炉裏やカマドで薪を燃やすのは火加減の調節も結構大変。その後その手間を省く形で「灯油コンロ」なるものが登場したが、やがてガスコンロにとって変わられた。(灯油はやはり臭かったらしい。/笑)しかし現在ではここでも電気が台頭して、IH(誘導加熱)による「クッキングヒーター」が増えつつある。炎がないので安全だし掃除もしやすいというのがウリのようだが、調理に必要なのが「調理物への熱の供給」というだけなら、(照明が全て電気になったように)やがては調理も電気に変わっていくのは避けられまい。もしそうならない可能性があるとすれば、それは炎で調理した方が味が良いといった“質の違い”があるか、もしくは(調理における炎の演出など)熱以外の因子が重要な役割を果たす場合だろう。暖房における光や音の重要性と同じ話だ。世代交代による食文化の変遷で味覚オンチが増えていけば、将来はどうなるかわからない。

 以上、あれこれ考えてみたが、最後にもういちど本質に立ち返ってみたい。著者のように「火」を便利さと危険性の二面性で考えるばかりではなく、もっと様々なファクターが入り混じった一種のメタファーとして捉えることが可能なのではないだろうか。それも「熱」「光」「音」などといった個別の因子に分けるのでなく、それらすべてが同時に発生する「領域」として。
 現代は死や汚穢といった負の要素を日常生活から隠し追放することで発展してきた。しかしそれは本当に良いことだったのか。「死」が隠蔽され抽象化していくことで、同時に何か大切なものが失われてきたのではないかという議論がある。それと同じように「火」も我々の前から消えつつある。しかしひとたび自然界に出れば幾らでも“ナマの炎”は存在するわけだし、危険なものとどのようにつきあっていくか(***)を学ばずして、人間は本当に大丈夫なのだろうか。昨今の原子力発電所の一件を見るにつけ、一抹の不安が残る。

 ***…中沢新一によれば、ユダヤ・キリスト・イスラムなどの一神教こそが、「危険な
     もの(=神)」との付き合い方を知恵として作り上げてきたものに他ならないの
     だそうだ。

『都市と都市』 チャイナ・ミエヴィル ハヤカワ文庫

 ※ネタバレにならないよう配慮したつもりですが、一切の予備知識なしで本書を愉しみたい方は、念のため読了後にお読みいただく事をお薦めします。

 “うるさ型”のファンの間で最近話題になっているらしい長篇SF。このところハヤカワ文庫とはご無沙汰していたのだが、久しぶりに発売と同時に買うことにした。
 ペジェルとウル・コーマという、地理的に完全に重なりあった2つの都市。そこに住む住民はお互いを「そこに存在しないもの」としなければならず、姿を見ても声や生活音を聞いてもならない。そんな世界を極めてリアルに描いたらどうなるか。カフカのような不条理が現出するのか、はたまたダークファンタジーの様相を呈するのか? 何とはなしに、P・K・ディックの『高い城の男』を思い出しながら読んでいた。
 この小説の面白さを支えているのは、あたかも2つの都市が現実にあるかのように思えるほどリアルな描写。どうやら資本主義国家らしいペジャルと共産主義社会らしいウル・コーマ。ひとつの地域が2つに分断されている様子は、たとえばかつての東西ベルリンや現在のイスラエル/パレスチナの様子を連想させる。けれども同時に現実と微妙にずれた点も。たとえば資本主義のペジェルが経済発展から取り残されているのに対して、逆にウル・コーマは(「民警」への恐怖によって統制されるような国家にも拘わらず、)ペジェルに大きな差をつけて見事な経済発展を成し遂げている。現実には計画経済が上手くいったためしはないと思うのだが。
 しかし本書で最も魅力的なアイデアといえば、何といっても<ブリーチ>の存在だろう。何度かの悲惨な内戦を経て、ペジェルとウル・コーマの間には先ほども述べたように「互いに相手がいないものとして振る舞う」というルールが交わされた。相手の都市の住民と道ですれ違っても「存在しない」ようにしなければならない。もしも相手の存在を認める行為/ブリーチをした場合、謎の統治機構(これも<ブリーチ>という名前で呼ばれている)によりどこかに連行され、二度と戻ってくることはない。このルールはあらゆる社会ルールの上位に位置する絶対的なものであり、誰ひとり例外は認められない...。
 今まで数多くのSFを読んできたが、その中でも中でかなり奇妙かつ魅力的な設定と思う。しかしこの小説でSFと呼べるのは唯一このアイデアだけであって、物語の中身は、徹頭徹尾ビターな警察小説&ハードボイルドなのだ。

 思うに「SFミステリ」と呼ばれる小説は、例えばランドル・ギャレットの『魔術師が多すぎる』や山口雅也『生ける屍の死』のように、面白いミステリを作るための制約条件として、SFもしくはファンタジーというジャンルの独特な世界観を利用するのが一般的といえるだろう。なかにはアイザック・アシモフの『鋼鉄都市』のように、SFならではのテーマの掘り下げを行うための手段としてミステリを用いるケースもあるにはあるが。(*)

   *…『鋼鉄都市』では主人公であるニューヨーク市警の刑事イライジャ・ベイリが、
     ロボット刑事であるR・ダニール・オリヴォーとの合同捜査を経て、(種としての
     袋小路に陥っていた人類に対する)未来への展望を垣間見るところでおわる。
     SF作品としてこの作品を見た場合、ミステリ部分はベイリがオリヴォーとの関係
     を深める過程であると考えることも可能。

 しかして本書はどうか。物語としては明確に警察小説(ミステリ)の方に重心がある。SFとしてのアイデアは最初に開示されたものが全てであり、話は深くなることはあっても広がってはいかない。SFとしての質は、ザミャーチン『われら』やハックスリー『すばらしい新世界』などの系譜につらなる“アンチ・ユートピア小説”と言えるかもしれない。ラストに至ると全ての謎が明らかになりミステリとしては見事な決着がつく。けれどもそこに、一挙に展望が開けるようなSF的なカタルシスを期待してはいけない。自分を戸惑わせるのはまさにその点なのだ。SFとしてとても魅力的な設定にも関わらず、それは”単なる”背景として扱われ、話自体は極めてオーソドックスな謎解き小説に終始するという...。それはすごく贅沢な読書体験のようでもあるし、逆にすごくもったいないような気も。ついどなたかのように「本書の主人公は人間ではなく都市そのもの」とつぶやきたくなるのも、よく分かる感じがする。
 まぎれもない傑作で読後の満足感も高いけど、でも結構ヘビーに「大人の読後感」を味わう、そんな小説といえる。前半はかなりスローペースだが、半ばを少し過ぎたあたりから一気呵成にラストになだれ込むので、時間に余裕があるときに、どっぷりと世界に浸りながら読むことをお薦めしたい。

<追記>
 自分は本書をSFファンの立場で読んだので、以上のような感想をもったのだが、はたしてミステリファンからはどのように評価されているのだろう。ミステリ界では「居るのに見えない犯人」という心理トリックは、チェスタトンの時代からお馴染みのもの。(ただしそれを出発点として書かれた作品というのは今まで聞いた事がないが。)
 ミステリ界でも同様に高評価なのだろうか。それともミステリとしての出来は、割とよくあるレベルなのだろうか。ちょっと気になる。(笑)

『連塾 方法日本Ⅲ フラジャイルな闘い』松岡正剛 春秋社

 3年間にわたって追いかけてきたシリーズ、松岡正剛による全3巻の講義録『連塾 方法日本Ⅰ~Ⅲ』が本書をもって無事完結した。良い機会なので、今までの分もあわせて内容をざっと紹介しておこう。
 松岡正剛と聞いてまず真っ先に思い浮かぶのは、『千夜千冊』ではなかろうか。膨大な読書量と読解力をもって読む者を圧倒する驚異の書評群は、まさに「本読みの達人」の名が相応しい。あるいは雑誌『遊』の発行をふりだしに編集工学研究所やイシス編集学校へと続く、「編集者」としての彼を思い浮かべる人も居るかも知れない。
 セイゴオ氏にはそれ以外に「著作家」という貌もある。『千夜千冊』や編集工学に関する著作を除いたオリジナルとしては、タイプは概ね次の3つに分けられる。
 a)特定の人物に焦点を当てて生涯や思想を紹介する評伝
 b)若い人に向けて書かれた、生きていく上で大切なものの見方や知識(*)
 c)今まで「日本」が培ってきた優れた部分の分析と再評価

   *…ちなみにa)に当たるのは『白川静』『空海の夢』『法然の編集力』などで、
     b)に当たるのは『17歳のための世界と日本の見方』『わたしが情報について語る
     なら』など。

 この中でもっとも多くの種類があり内容も読み応えがあるのは、やはり何といってもc)のタイプ。(『日本という方法』や『花鳥風月の科学』といった書名が頭に浮かぶ。)本書もその流れに位置する講義録だ。以上、ずいぶん前置きが長くなってしまったが、折角なのでこの『連塾シリーズ』の背景についてもう少し説明をしておきたい。(説明しないと多分内容が少しわかり難いしね。)

 著者のスタンスを簡単にまとめてみると、「日本」を“主語”すなわち「国体や国民性といった“主体”」として捉えるのでなく、“述語”つまり「オリジナルの“方法/道具”」として捉えるということ。「日本とは何か?」や「日本人とは?」などという問い方をしてもそこに有意義な答えはなく、むしろキナ臭い話や宛ての無い自分探しに陥るのが関の山。すなわち従来の日本論は問題の立て方自体が誤っており、それより世界的にみてもユニークな日本の“方法”を有意義に活かすべき――というのがセイゴオ氏の持論だ。
 そう言われてみると確かに、近代になって西洋の列国を前に急拵えで作られたナショナリティより、古来から綿々と培われてきた伝統的な考え方/メソッドの方がよほど役に立ちそうな気もしてくる。「日本あるいは日本人は○○である」ということを追求しても、必ずこぼれ落ちるものがあるに決まっている。だからそんなことより「日本の“方法”は何に使えるか?」ということを考えた方がよほど建設的という意見は、ある意味納得できる。(少なくともその方が間違いなく面白くなりそう。)
 ちなみに彼が言う日本古来のメソッドには色々なものがある。一例を挙げると、たとえば“デュアルスタンダード”。「相反する価値観の並立」とでも言えば良いだろうか。キーワードとしては「てりむくり」や「合わせ/揃い/競い」といったものがある。他の例としては「負の思想」というのも。これは“余分なもの”を削ぎ落すことにより、直接的に表現できない儚さや豊潤さといった概念を暗示しようとするもの。キーワードは「枯山水」や「フラジャイル(こわれもの)」など。以上の具体例に関する詳しい説明は、いずれも『山水思想』『花鳥風月の科学』『フラジャイル』といったcタイプに属する著作で述べられているのだが、正直全部に目を通すのは大変だろう。そこでこれらの内容をざっくりとまとめた本が『日本という方法』(NHKブックス)として出されている。ここではこれ以上詳しく触れないが、興味のある方は一度読まれてみてはどうだろう。

 次は本シリーズの成立経緯についても少し補足を。
 日本という“方法”についてこれまで多くの考察をまとめてきた氏に対して、聴衆を前にまとまった形でその知識を披露して欲しいという声があがったのはおよそ9年ちかく前のこと。発起人たちはその為に「連志連衆会」という非営利法人を立ち上げ、「連塾」と名付けられた講義が2003年7月から2005年6月までの足掛け2年あまりに亘ってつごう8回開催された。ちなみに「連(れん)」というのは(江戸学者・田中優子氏の著作でも紹介されている)徳川時代にあった俳諧師のネットワークの名前。緩やかで自由なネットワークであり、有志による今回の活動に相応しいと名付けられたよう。講義の開催場所は毎回かわり、大きな貸ホールばかりでなくカナダ大使館や学士会館、根岸の西蔵院というお寺などでも開かれた。その都度趣向を変えた演出がなされ、かなり刺激的なイベントだったようだ。その様子は本書にも写真で紹介されているが、お金と暇があったら一度くらい参加して見たかったなあ。(なお、連塾自体は現在もすこし形を変えて続けられている。)
 本シリーズはその「連塾」という講義の記録集であり、第1巻『神仏たちの秘密/日本の面影の源流を解く』には第1回から第3回まで、第2巻『侘び・数寄・余白/アートにひそむ負の想像力』には第4回から第6回まで、そして最終巻には『フラジャイルな闘い/日本の行方』には残る第7回と第8回が収録されている。以下、少し長くなるが、目次から各講義の題目を抜粋してみる。

 第一講)日本という方法―外来文化はどのようにフィルタリングされてきたか
 第二講)神話の結び目―日本にひそむ物語OSと東アジア世界との関係
 第三講)仏教にひそむ謎―仏教的世界観がもたらした「迅速な無常」
 第四講)「文」は記憶する―インタースコアとインタラクティブの歴史
 第五講)日本美術の秘密―枕草子・枯山水・宣長・幕末三舟・イサムノグチ・三宅一生
 第六講)「負」をめぐる文化―引き算と寂びと侘び(夢窓・心敬から天心・九鬼へ)
 第七講)面影と喪失―なぜ日本人は喪失をもって面影としてきたか
 第八講)編集的日本像―メディアステートとしての去来日本

 今までに彼の著作を一冊でも読んだことがある方なら想像がつくと思うが、例によって話はとんでもなくあちこち飛ぶ。例えば第一講の主な話題は、和洋折衷にみられるような“相反するもの”の両立(絶対矛盾の自己同一)について。話題としてはサザンオールスターズの歌だとか内村鑑三の「二つのJ」、建築家ジョサイヤ・コンドルから小泉八雲まで様々な人やものが取り上げられている。このスタイルに慣れないうちは結構戸惑うと思うが、独特のドライブ感や視界が無理やり広げられていくような感覚こそが、セイゴオの醍醐味といえるかも知れない。

 第1巻と第2巻(第一講~第六講)については、割と今まで彼が書いてきたことのおさらいに近い部分が多い。従って松岡正剛に興味があるがどの本から手を出せばいいか判らない人には、話し言葉なのでわかりやすいし、入門編として良いかも知れない。それはそれで面白かったのだが、古くからのセイゴオファンである自分にとって、本シリーズの白眉は何といっても本書(第3巻)『フラジャイルな闘い』に尽きると言える。
 第七講で取り上げられるテーマは、徳川末期から太平洋戦争の敗戦に至る日本史の闇の部分について。なお先ほども述べたように、本書の主眼はあくまでも“主語”ではなく“述語”としての日本。本講では歴史のターニングポイントとなった出来事やその時の政治家の判断、さらにはその陰で暗躍した思想家・活動家たちについて濃密な講義が続いていくが、彼自身はそれらについて一切の判断を下さない。判断は聞いた各自に委ねられていて、ここではただ淡々と事実を述べていくだけだ。(**)大変に重い、しかし読みごたえのある章だった。

  **…本書を読んだ少し後に、テレビで司馬遼太郎『坂の上の雲』の最終話がちょうど
     放送されていた。本当に一切の美化も断罪もなく歴史の事実を描くことが可能なの
     か...などということを考えつつ、バルチック艦隊との日本海海戦のシーンでは
     日本海軍の活躍につい心が鼓舞される自分がいたのも事実。たしかにテレビドラマ
     としては近年稀に見る素晴らしい出来と思うが、ドラマである以上あの作品脚色が
     一切なかったといえば嘘になる。(そして司馬遼太郎の原作自体にも同じ事が。)
     そのあたりがフィクションで歴史を描くことの限界なのかも。司馬遼太郎は生前に
     『坂の上の雲』だけは映像化を許さなかったという話を聞いた事があるが、近代を
     テーマにする危険性を彼が充分に自覚していたことの表れなのだろうか。

 最後の第八講では自らの自伝的な話を織り交ぜながら、方法日本についての重要なキーワードがまとめて語られる。たとえば方法日本をグローバルな視点から見るためのフィルターとなる“五つの窓”はこれだ。
 1)generation(ゼネレーション)
   その時代や社会にあった変わりゆく「型」で概括的にものを見る。
 2)animation(アニメーション)
   マテリアルな「物(モノ)」とスピリチュアルな「霊(モノ)」の両方が動く
   「もの・がたり(物語)」の視点。
 3)representation(リプリゼンテーション)
   見立てや依代(よりしろ)による、実体の直接表現を避けた面影を感じること。
 4)penetration(ペネトレーション)
   数寄(すき)や本歌取りにみられるように、ある価値観が別のところに浸みいって
   いくこと。
 5)particularization(パティキュラリティ)
   「格別」や「とりわけ」といった言葉で示されるような、特有のこだわりに自分を投じ
   ていくこと。(アイデンティティや自分探しでなく、対象の中にこそ自分を探す。)

 また“五つの窓”と別の視点でまとめられた“メルクマール”(指標)も6つある。
  A=取り寄せ・見立て(寄物陳思・類館呪術)
  B=異種配合・共存(和光同塵・本地垂迹・公武合体)
  C=グローバル・ローカル(和魂漢才・コードとモード)
  D=セット・シリーズ・ゲーム
  E=表裏一体・間柄(あいだ・うつろい)
  F=物語・イコン・システム(仕組・仕立・仕事・仕様)
 詳しい説明は省くが、字からだいたい想像がつくと思う。これらも東アジア末端に位置し、日本という名で呼ばれる島国に「方法」として脈々と奥底に流れてきたものなのだとか。

 おもえば今までセイゴオ氏には、本を読むことの「本当の面白さ」について教えてもらったような気がする。読書の際に面白さを感じる点は人それぞれだろうが、個々の本がもつパフォーマンスをを最大限引き出して愉しむ方法として、彼のスタイルはかなり参考にさせてもらっている。本書を含む『連塾 方法日本Ⅰ~Ⅲ』のシリーズは、そんなセイゴオ氏が自らの読書体験で培ってきたものを使って、彼がもっとも興味をもつ対象「日本」について熱く語ったもの。まさに「著作家」松岡正剛に関する現時点での集大成と言えるだろう。

<追記>
 今の国際社会で自分が感じているのは、今日のような市場原理の急激な拡大&変化に対する統治方法として、従来の国家という枠組みがもはや有効で無くなっているということ。民族問題に端を発するテロ事件や一連の通貨危機などは、国の枠を遥かにこえたグローバルな問題であり、まさにA・ネグリが『<帝国>』等の著作で指摘したものと同じ。そしてその対抗手段として有効なのは、同じくネグリ(『マルチチュード』)や柄谷行人(『トランスクリティーク』『世界史の構造』)、竹田青嗣(『人間的自由の条件』)らによって提案された思想/行動原理なのではないかと個人的には思っている。
 実は松岡正剛が常々主張している「日本という方法」は、これらの原理を具体的な行動につなげる際のとても有効な道具(思考方法)になるのではないかと、密かに考えているのだ。もしそれが可能なら「日本」という国に生まれた自分たちが、いまや沈没しそうなこの国の枠を超えて国際社会に広がっていける可能性もなくはない。
(もっともその時には、「日本人」という言葉のもつ意味も今とは違ってくることになるだろうし、またなるべきと思っているのだが...。)

“積読本”を増やさないために

 新年明けましておめでとうございます。昨年中は当ブログにお付き合い戴きありがとうございました。本年も宜しくお願い申し上げます。今年が皆さまにとって良い年でありますように。では早速ですが、今年最初の更新をば。

 せっかく昨年の年末に「来年は読む量よりも沢山買わない」という目標を立てたのに、元旦から近所の古本セールにいって文庫本を15冊も買ってしまった。いきなり初日から危機的状況なのだが(笑)、なに、今年はまだ12カ月もある。慌てずそのうち挽回していこう。(でも、どんどん差が開く一方だったりして^^;)
 買う本の量が増えるほど、読まずに溜まっていく本の量も増えるのは当然のこと。本好き仲間ではそれを称して「積読本(つんどくほん)」というわけだが、数十冊程度の可愛いものから、中には1000冊(!)を超えるつわものまで様々。自分の場合も、半年以上は本を全く買わずにいて差し支えない程度には積んである。(笑)
 他の方はどうだか知らないが、自分の場合本をついつい買ってしまう理由は次の通りだ。――高校生になって図書館通いをしなくなり、新刊を本屋で買うことが多くなってから、一度買い逃した本を二度と見つけられないという経験を何度かした。その結果自分の頭に刷り込まれたのは、「本は一期一会」という言葉。大学生の頃には「見つけたらすぐ読めなくてもとりあえず買う」という習慣がすっかり身についてしまっていた。挙句の果て、少ない小遣いをやりくりして気になる本を片っ端から買っていくうち、本棚はおろかいつしか押し入れの中まで本が山積みに...。ご多分にもれず我が家にも“積読本”の誕生である。
 それでも社会人になってからは本を読む量が一時期めっきり減った事もあり(*)、買う量をかなりセーブするようになった。そのとき心に決めたのは「“いつか読みたい”という基準で本は買わない」ということ。それでもどうしても買ってしまう自分との葛藤があって、徐々にではあるが積読本の数は増えていった。

   *…それでも年間100冊を切ったのは一度だけなんだけどね。
     (どれだけ活字中毒/笑)

 問題になるのは未読の本ばかりではない。これだけ買っていると、読み終わった本の始末も大きな課題。どんどん溜まる本の山に、とうとう家人から「買ってもいいけど読み終わった本は処分して」と言われてしまった。でも読んだ本って愛着が湧いて、なかなか手放す気になれないんだよねえ。面白かった本はなおの事だ。

 「このままじゃいかん」と心を鬼にして、おそらく二度とは読まないだろう本から定期的に処分しはじめたのが今から5年ほど前。それからというもの本を買うときは、読了後に処分するかどうかについて頭の片隅でいつも考えながら買うようにしている。しかし読んだうちのいくらかは必ず残っていくわけだから、本の量は増えることはあっても減ることはない。いつしか積読本は本の山に埋もれて手が届かなくなり、余計に読む機会を失うという悪循環はつづく。
 考えてみれば当然のことだ。ダイエットでも同じで、いつもより多少余計に運動しようが、その分沢山食べ過ぎてしまえば痩せることはない。消費するエネルギーより摂取するエネルギーが多ければ、差し引きして多い分は脂肪になる。そこで新たなルールを決めることにしたのがおよそ2年前。ムダに“摂取”して結果「積読」になってしまう本の量をいかに減らすか?が眼目で、言ってみれば本を買う時の基準を設けたというわけ。題して「積読本を増やさない3カ条」という。(そんな大袈裟なものでもないが。/笑)

 1)その本を自分がどれほど読みたいのか考える
   「読んでもいいかな」という程度の思いで買ってしまうと、経験上ほとんどが積読に
   なる。本棚の空きを減らすだけの価値があるかどうか、それだけ読みたい本かどうかを
   もう一度考えてみる。
 2)それは今すぐ買ってでも読みたい本なのか考える
   衝動買いを防ぐのに有効。家に帰って冷静になると、さほど読みたくなくなることも
   多い。今ある積読本との優先度を考えてみる。
 3)本の価格とサイズにゲートを設ける
   即決で買っても良いのは2000円まで。それ以上は1)の基準の適用レベルが上がる
   ことになっている。また単行本は文庫本に比べてスペースを余分にくうので、同様に
   基準レベルは高くなる。

 当り前のことだが、要は読む本しか買わないということだ。新ルールを始めてみて良かったのは、本をよく選んで買うようになった事かな。結果的に「ハズレ」にあたる率も減ったし。それに、稀にハズレにあたっても「これだけ考えて選んだのだから」と多少は諦めが付くようになった。
 以前ざっと計算したところでは、残りの一生で自分が読める本の数は多く見積もっても3500~4000冊程度。多少煩わしくはあっても、少しでも充実した「活字生活」を送りたいので、これくらいの努力はしないとね。

<追記>
 最近になってもうひとつ増えた悩みが、昔買った積読本をどうするかということ。小さな字が見えにくくなってきたので、せっかく老後の愉しみにとっておいた本が読めなくなってしまうのではないかと戦々恐々。そのうち拡大鏡でも買わなくちゃいけないのかな。(苦笑)

 新年そうそう、明るいんだか暗いんだかよく分からない能天気な話題で申し訳ありません。こんな調子でいきますので、今年一年またお付き合いください。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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