My choice/2011年印象に残った本

 2011年のblogを締めくくるにあたり。昨年に引き続いて今年読んだ本の中から特に印象に残った本を挙げてみよう。今年の特徴としては、フィクションが例年になく充実した年だったと思う。(その分、散財もしたが。)
 個人的には山野浩一氏や水見稜氏など、昔夢中になった作家の作品が、装いも新たに再登場したのは感無量。

<新刊部門> ―今年出版された本―
『迷宮としての世界(上/下)』 グスタフ・ルネ・ホッケ 岩波文庫
  *マニエリスム芸術を総合的に解説した力作。松岡正剛により千夜千冊のキーブックスの
   1冊にも挙げられている。
『ミステリウム』 エリック・マコーマック 国書刊行会
  *摩訶不思議な作家のとっても素性が良いメタフィクション。デビュー作の『パラダイス
   ・モーテル』も復刊されてめでたい。
『千年紀の民』 J・G・バラード 東京創元社
  *いつしかSF作家の枠を超えて現代イギリスを代表する作家となったバラードの
   “到達点”とされる作品。現代の国際社会を予言するかのような切れ味を堪能した。
『ダールグレン(Ⅰ/Ⅱ)』 サミュエル・R・ディレイニー 国書刊行会
  *やっと(!)邦訳が叶っただけでもありがたい。とっても長くて値段も高いうえ、内容
   についても賛否両論ある作品だが、自分としては至福の読書体験だった。
『全身翻訳家』 鴻巣友季子 ちくま文庫
  *本エッセイとしては自分の理想に近いものかも。本棚にずっと取っておきたい本。
『本棚探偵の生還』 喜国雅彦 双葉社
  *本棚探偵シリーズ7年ぶりの3作目。ギャグ漫画家の著者による古本と探偵小説をネタに
   したエッセイで、相変わらずの面白さ。
『連塾 方法日本Ⅲ フラジャイルな闘い』 松岡正剛 春秋社
  *セイゴオが「日本という方法」について、自らの知識を惜しみなく語った連続講義録の
   最終巻。
『時間はだれも待ってくれない』 高野史緒/編 東京創元社
  *現代の東欧諸国のファンタスチカ(SFやファンタジーの総称)作品を紹介するオリジ
   ナルアンソロジー。これを編んだ編者も出版した出版者も偉い。
『ゆみに町ガイドブック』 西崎憲 河出書房新社
  *ジャンル分類不能の傑作小説。(じわーと心に染みてきて、いつのまにか大切な作品に
   なっていそうな予感。)

<既刊部門> ―古本・絶版とりまぜてとにかく今年自分が読んだ本―
『日本力』 松岡正剛/エバレット・ブラウン PARCO出版
  *東京在住の写真家・ジャーナリストであるブラウンと松岡正剛が、日本の文化や思想が
   持つ「力」について語った対談集。
『人間的自由の条件』 竹田青嗣 講談社学術文庫
  *現代国際社会が抱える、テロや民族問題といった難問を克服する根本原理について、
   哲学者である著者が古今の哲学思想をヒントに考察した画期的な著作。
『シャーロック・ホームズの記号論』 T・B・シービオク他 同時代ライブラリー
  *ホームズの推理方法を題材にして、記号論的な分析の実例を紹介する。
『ストリートの思想』 毛利嘉孝 NHKブックス
  *2000年ごろから顕著となってきた、社会運動と音楽などの文化と現代思想が一体化した
   形態を「ストリートの思想」となづけて紹介。この思想の特徴は、何といっても路上
   での実践にある。
『不均衡進化論』 古澤満 筑摩選書
  *ダーウィンの進化論が持っている違和感のようなものをすっきり解消してくれた本。
   もっと注目されて良いと思うのだけどなあ。
『白鯨』 メルヴィル 岩波文庫
  *高校時代の挫折体験から○十年。やっと念願かなって読破したが、聞きしに勝る傑作で
   大満足。
『生命はなぜ生まれたのか』 高井研 幻冬舎新書
  *地球生命の起源と目される深海熱水域を探査する研究者が、最先端の研究成果と自らの
   仮説を一般読者にも分かりやすく解説。自分は宇宙マニアであるとともに深海マニアで
   もあるので、本書はかなりツボだった。
『神話学講義』 松村一男 角川選書
  *捉えどころがない「神話学」というものをわかりやすく解説している基本図書。
『百鬼夜行の見える都市』 田中貴子 ちくま学芸文庫
  *「百鬼夜行絵巻」で有名な「百鬼夜行」という概念について、平安時代まで遡ってその
   成立を解き明かした画期的な論考。解説を京極夏彦が書いている。

【中入り】
 今年2011年は、東日本大震災や原発事故をはじめ、ビン・ラディンやカダフィ暗殺の暗殺、さらには金正日の死亡にタイの洪水など、とんでもない出来事が目白押しの1年だった。今年の出来事が決して収束したわけではなく、まだ来年も世界は続いていくわけだが、少しでも良い方向に進んでいく事を願ってやまない。
 ところで個人的には、年間に読んだ本が210冊を超えて、社会人になってからの最高を記録することができた。これは出張が多かったということ以外に、ブログを始めたことで弾みがついた為というのも理由のひとつ。別に沢山読むのが目的ではないが、結果としてよい本に出会えるチャンスが増えるなら、そんな有難いことはない。
 それでは来年もボチボチとマイペースでやっていきますので、宜しくお願いします。
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2011年12月の読了本

『ゆみに町ガイドブック』 西崎憲 河出書房新社
  *翻訳家かつアンソロジストにして、ファンタジーノベル大賞の受賞作家でもある著者が
   書いた、ファンタジーでもあり詩でもあり文学でもあるという、ジャンル分類不能な
   小説。少なくとも、普通の意味での「物語」では無い。好きだなあ、こういうの。
   小説と物語の違いとは何だろうか。終わりがあるのが物語で無いのが小説?それとも
   心の中に色んな思いが思い浮かぶのが小説で、波にのまれて流されて、何も考えられ
   ないのが物語?本書を愉しむと同時に、図らずも色々なことを考えてしまった。
『のんのんばあとオレ』 水木しげる ちくま文庫
  *マンガ家の水木しげるが少年期の思い出を語った自伝。「のんのんばあ」とは、氏が
   幼少期に近所に住んでいた“拝み屋”のお婆さんで、まだ幼かった茂少年に、様々な
   妖怪の伝承を刷り込んだ張本人のこと。でも題名にある「のんのんばあ」との思い出
   よりも、どちらかと言えば中身は小学校や放課後の「コドモ界」の話が中心だった。
   著者は子供の頃からかなり破天荒な性格ようだ。低学年までの様子は中勘助の名作
   『銀の匙』とよく似た感じだが、『銀の匙』の主人公が一念発起して、その後ぐっと
   成長していったのに対して、水木氏は全く変わらないまま大人になったよう。
   でも、だからこそあのような作品を描くことが出来たのだろうな。
『ヴェニスの商人』 シェイクスピア 新潮文庫
  *福田恒存訳。有名な物語なのに、裁判の話と婿選びの話が同時進行するとは全く知らな
   かった。やっぱりシェイクスピアくらいはちゃんと読んでおかなければ。(汗)
『澁澤さん家で午後五時にお茶を』 種村季弘 学研M文庫
  *「異端の独文学者」である著者が、「異端の仏文学者」であり朋友であった澁澤龍彦に
   ついて書いた文章を集めた本。書評や対談など内容はバラエティに富むが、澁澤龍彦の
   著作にある程度は触れていないとつらいかもね。しかし学研M文庫、渋すぎる!
『パラダイス・モーテル』 エリック・マコーマック 創元ライブラリ
  *傑作メタフィクション『ミステリウム』の作者・マコーマックのデビュー作。単行本が
   出た時につい見逃してしまい、今回文庫化されたのを機に読んだのだが、これも自分好
   みだった。ただし「痛い話」が苦手な人はちょっと注意が必要かも。
『魂にメスはいらない』 河合隼雄/谷川俊太郎 講談社プラスアルファ文庫
  *ユング派の分析心理学者と詩人による対談集。いや、対談というよりも、“心理学の
   素人”ではあるが“魂のプロ”である詩人が、心のことのあれこれについて心理学者に
   質問したという感じか。
   日本では「悪」という概念はあまりはっきりしておらず、代わりに日本にあるのが
   「穢れ(けがれ)」という概念だという指摘には感心。西洋(キリスト教)的な世界観
   では悪は神に敵対するものだが、日本では穢れであるため「水に流す(=禊ぎ)」と
   いうものが認められるのだとか。うーん、なるほど。
   谷川氏の詩を心理学的に解釈するというボーナス(?)が巻末についている。詩を分析
   した河合氏いわく、谷川氏は「鋼(はがね)のようなやさしさを持った人」なのだそう
   で...。いいなあ、あこがれるなあ。そんな人に自分もなりたい。(笑)
『アスディワル武勲詩』 C・レヴィ=ストロース ちくま学芸文庫
  *カナダの太平洋岸に住む先住民ツィムシアン族に古くから伝わる神話「アスディワル
   (アシ=ホウィル)武勲詩」。その神話に対して構造主義の第一人者である著者が
   構造分析を行った論考。後の大著『神話論理』へとつながっていく記念碑的な著作に
   なっている。漠とした神話のなかに構造のモデルを見つけ出していくその手際の良さ。
   自分にとってはまるで構造分析の“お手本”のような本といえる。
   一番単純な「構造」とは言うまでもなく二項対立だろう。「高と低」「男と女」
   「富と貧」など様々な二項が著者によって次々と明らかにされ、やがてそれが複雑に
   組み合わさってカレイドスコープのような美しい像を見せるようすは圧巻。
   やっぱりレヴィ=ストロースは面白いなあ。
『異界談義』 小松和彦/京極夏彦/池上良正・他 角川書店
  *2001年に国立歴史民族博物館で企画展示「異界万華鏡―あの世・妖怪・占い―」が開か
   れた。本書はその企画に関連して開催されたフォーラムや講演会の記録集。様々な種類
   の報告および対談が収録されていて内容は多岐に亘る。
『怪奇小説傑作集5』 エーベルス他 創元推理文庫
  *海外の怪奇小説を国別に集めた傑作選の5巻目で、本巻にはドイツ編とロシア編が収録
   されている。自分の一番のお目当てはロシア民話に題材をとったゴーゴリの「妖女
   (ヴィイ)」だったのだが、(当初の期待通り)本書でいちばん気に入った。他で良か
   ったのは、クライストの「ロカルノの女乞食」(正統的な幽霊譚ショート・ショート)
   に、レミゾフの「犠牲」(異様に明るい貴族に隠された不気味な謎)あたりか。悪魔と
   契約を結んだ盗賊の物語を描いた、ホフマンの「イグナーツ・デンナー」も悪くない。
『古本道入門』 岡崎武志 中公新書ラクレ
  *均一小僧の異名をとる著者による最新作で、著者の古本に関する蘊蓄の集大成。古本
   ライフの愉しみ方や、全国の有名な古書街の案内など、資料的な内容が初心者にも判り
   やすくまとまっている。
『ユダの福音書を追え』 ハーバート・クロスニー 日経ナショナル ジオグラフィック社
  *「イスカリオテのユダ」といえばイエスを金で売った裏切り者。新約聖書で悪名高い
   この人物の「ユダ」という響きが、ユダヤ民族の印象を悪くするのに一役かってきたの
   は間違いのないところ。実はそのユダの“裏切り”が「イエスを裏切ったわけでなく、
   イエスの望んだとおりにしただけ」であり、「使徒の中でユダだけがイエスの教えの
   真実を理解していたから」だとしたらどうだろう。そしてそのような教えが福音書の形
   で現代まで残されているとしたら。現在のキリスト教の世界観が文字通りひっくり返る
   ほどの大発見になることは間違いない。――そして2006年にそれは実際にあったのだ。
   (当時ニュースで見て大変驚いたのを今でも覚えている。)本書は「ユダの福音書」が
   発見されてから約30年間に亘る、数奇な運命を克明に追ったドキュメント。
   構成が悪くてちょっと読みにくいが内容は面白い。
『包まれるヒト』 佐々木正人/編 岩波書店
  *編者は『アフォーダンス入門』(講談社学術文庫)を書いている生態心理学者。副題に
   「<環境>の存在論」とあるが、執筆者は作業療法士や哲学者、写真家に小説化など
   様々に亘り、まさに理系と文系の垣根を超えた学際的な研究の書。題名にある「ヒトが
   包まれているもの」は何かというと、「サーフェス(≒森羅万象の表面の肌理)」や
   「空気(光、音、温度などの情報を運ぶもの)」。本書ではこれらを総称して環境と
   呼んでいる。
『先生と僕』 坂木司 双葉文庫
  *最近は『ビブリア古書堂シリーズ』のように、ブックガイドを兼ねたミステリが流行の
   ようだ。本書は大学生の“僕”と中学生の“先生”が登場する「日常の謎」タイプの
   ミステリで、同時にミステリガイドでもある。この手の本は気取らずさらっと読めて
   好い。(自分にとってはおやつみたいな感じ。)
『饗宴』 プラトーン 新潮文庫
  *誰もが名は聞いたことがある古代ギリシャの哲学者プラトンだが、(恥ずかしながら)
   著作を今まで一冊も読んだこと無かった。今回初めて読んでみたのだが、いやこれは
   面白い。哲学書というよりよくできた小説みたい。
『アダムとイヴ/至福郷』 ミハイル・ブルガーコフ 群像社
  *『巨匠とマルガリータ』などの作品で知られながら、ソビエト内で長らく不遇であった
   作家ブルガーコフ。本書は彼の戯曲2作を収めた作品集。1作目「アダムとイヴ」は、
   絶滅兵器による東西戦争が勃発した後の世界を描く。中盤の狂気じみた党員の態度も
   そうだが、ラストのとってつけたような労働者勝利によるハッピーエンドが、却って
   当時の共産圏の不気味さを物語って興味深い。2作目の「至福郷」は「時間飛翔機」を
   発明した天才技師が訪れた23世紀の世界を描くが、ユートピアであるはずの世界から
   脱出を望むヒロインの存在が何だか皮肉。
『食物漫遊記』 種村季弘 ちくま文庫
  *独文学者・種村氏による、食べ物をテーマにしたエッセイ集。『渋澤さん家で...』
   の余勢をかって、さほど期待せずに(失礼!)読み始めたところ、とんでもなく面白か
   った。食通が単に「美味かった」などとほざく文章は著者自身が嫌いだそうで、当然
   本書も普通の食エッセイの枠に納まるはずがない。古今東西の書物の引用やら、実話な
   のか著者の妄想なのかわからないような虚々実々の文章が目白押し。テーマも「美味い
   もの」ばかりでなく、「泥鰌(どじょう)地獄」という幻料理の追跡譚や、断食/絶食
   といったものまで取り上げられる。テーマの選び方は嵐山光三郎に似ているかも。
『私の好きな世界の街』 兼高かおる 新潮文庫
  *子供の頃は毎週のようにテレビで「兼高かおる世界の旅」を観ていた。本書は世界150
   ヵ国あまりを回ってギネスブックにも載ったことがある著者が、今まで訪問した中でと
   りわけ印象に残った街について書いたエッセイ集。ニューヨークやロンドンといった
   有名どころから、マラケシュ(モロッコ)やカシュガル(中国・ウイグル)、バーゼル
   (スイス)にサマルカンド(ウズベキスタン)といった、殆ど知らないところまで20の
   都市が取り上げられている。等身大の感想なので好感が持てるが、いかにもお金持ちの
   兼高氏らしいリッチな旅行なので、自分には同じ体験はちょっと無理。(笑)
『ニックとグリマング』 フィリップ・K・ディック 筑摩書房
  *夭折したカルトSF作家が残した唯一のジュブナイル。子供向けと聞いてずっと読まず
   にいたのだが、これは傑作だった。(ただし子供に読ませたらトラウマになりそうだけ
   ど。/笑)他の作品でもお馴染みの摩訶不思議な生き物たちや、何とも言えない焦燥感
   と不安感など、ディックワールドのエッセンスが短い物語の中に凝縮していて、まるで
   吾妻ひでおのマンガを読んでいるかのよう。
『フローラ逍遥』 澁澤龍彦 平凡社ライブラリー
  *筆者の生前に発行された最後の著作。水仙や椿や梅、朝顔や向日葵といったごく日常的
   にみられる花々についてのエッセイ。古今東西の書物からの引用と著者の子供時代の
   思い出などが混然となって、美しい博物図像とともにとても好い感じを醸し出す。
   著者の『私のプリニウス』と『狐のだんぶくろ』が一緒になったような面白さ。
『夢十夜を十夜で』 高山宏 はとり文庫
  *博覧強記の人文学者である著者が、明治大学・国際日本学部の学生を相手に夏目漱石
   『夢十夜』を徹底読解させたセミナーの講義録。『夢十夜』を読んだ経験すらなかった
   学生たちが、回を重ねるにつれ成長した読み手になっていく様子が愉しい。しかし自分
   としてさらに嬉しかったのは、高山氏によって次々と繰り出される漱石の新たな切り口
   が、とても刺激的で素晴らしかった点。全体としては明治期における間違った西洋化を
   つきすすむ日本への、漱石の不安と焦燥という視点で読み説くのが本書のテーマ。
   しかし他にもマニエリスムの観点で漱石を語ってみたり、「怪談の構造」を描いたメタ
   怪談として第3夜を捉えるなど、読みどころは満載。年の最後によい本を読むことが
   出来てよかった。

『饗宴』 プラトーン 新潮文庫

 プラトーン(プラトン)といえば中学生のころに『ソクラテスの弁明』を必読書のように言われた覚えがあって、何となく苦手なイメージだった。本書についても、球形のアンドロギュヌス(両性具有者)が出てくるとかの話を聞いてはいたのだが、とうとうこの年まで読まず仕舞いできてしまった。しかし最近、古典は思いのほか面白いということに(遅ればせながら)気付いたのと、blogのお友達である彩月氷香さん(*)からのお薦めもあって、一念発起して読んでみた。

   *…当方とは大違いの、『持ち歩ける庭のように』という大変品の良いブログをされて
     いる方です。このページ右下にもリンクを張らせて頂いております。本書をお薦め
     頂き有難うございました。

 で、一読した結果だが、いやあこれは愉しい。デカルトやカントのような難しい内容を想像していたが実際は全然違っていた。論文ではなくひとつの物語として書かれていて、内容も頭にすらすら入ってくる。もしかするとレトリックを駆使した現代小説の方がよほど読みにくいかもしれない。中身は宴会(饗宴)の余興として「愛の神(エロース)」を皆で順番に讃え、その優劣を競うことになった顛末をまとめたもので、その内容が言ってみれば古代ギリシャにおける哲学・思想になっているというわけだ。
 全体はおよそ3つのパートに分かれている。最初のパートはパイドロス/パウサニアース/エリュクシマコス/アリストパネース/アガトーンという5人の論客が、それぞれ知恵を尽くして愛の神を讃える様子が語られる。続くふたつ目は、本書の主役であるソクラテスが彼らの意見に対し、弁証法によって「真実」を明らかにしていくパートで、本書の読みどころはまさにここ。(**)
 なお、最後のパートは宴会に後から闖入してきた人物によるソクラテス讃美で、正直言ってなぜ挿入されたのかよく分からない。まあ専門の研究者でもない一般読者にとっては、あってもなくてもどちらでもいい内容かも知れない。ちなみに自分の場合はおまけとして気楽に読んだ。

  **…ミステリ好きの人ならわかってもらえると思うが、次々と繰り出されるいかにも
     もっともらしい意見を全て踏まえた上で、最後に主役の人物が真実を解き明かす
     という構成は、まるでバークリーの『毒入りチョコレート事件』やアシモフの
     『黒後家蜘蛛の会』を彷彿とさせる。

 気をつけなければいけないのは、当時は考え方の土台になっている思想や常識が今とは全く違うということ。よって現代の視点でもって彼らの話を断ずることはできない。まずは虚心で意見の元となる背景を理解することに努め、批評するのでなくひたすら理解することに専念してみた。解説によれば5人の意見はソクラテスの意見の引き立て役に過ぎないという評価がされているようだが、なかなかどうしてこちらも滅法面白い。登場人物個人の意見というより、当時の代表的な考え方のサンプルと思った方がより愉しめるかもしれない。概要を以下に簡単にまとめてみる。

1)パイドロス
 かなり大っぴらに男性による少年愛を讃美している。エロースは愛の神なので愛の具体例が述べられるのは当然なのだが、例としていきなり少年愛が言及されたのでびっくり。ポリスによっても違うようだが、スパルタなどでは異性愛よりもむしろ崇高なものとして称賛されていたような様子も。(そういえば、日本でも戦国時代や徳川時代に「稚児」とか「陰間」というのがあったな。)
 少年愛が称賛されているのは何故かというと、肉体的な欲望に基づいた「地上的な愛」ではなくて、精神的な強さ(年長者側)とそれに対する憧れ(年少側)の心の結びつきがあるからなのだとか。ひとりの少年を愛するということは、彼を正しい人生へと導き一生を共にする覚悟が必要で、肉欲のみを求めたり途中で投げ出すのは極めて恥ずべきこととされている。
 男女による異性愛は肉体の結びつきに対する欲望がもっと強烈すぎるようで、伴侶を自己犠牲によって救うほど精神性が高い愛こそが美徳とされる程度。(女性同士の関係については言及がないので、どう評価されていたのか分からない。)
 ここらへんで何となくわかってきたのだが、どうやら古代ギリシアにおける“愛”とは、単なる恋愛感情ではなく、“生の躍動”のようなもののようだ。ユダヤ教やキリスト教における神の愛とか、仏教における慈悲の心(母の無償の愛に似たもの)とも違っている。「エロスの本質=生」という話は哲学者の竹田青嗣氏が以前書いていたが、本書を読んでやっと実感できた。

2)パウサニアース
 パイドロスの意見を補足する形で意見を述べる。どうやらギリシア神話はそのまま古代ギリシアの思想体系を表しているもののようで、「愛の神/エロース」と対になる存在として、もうひとつの「愛(美?)の女神」であるアプロディーテーが取り上げられる。ギリシア神話にはさほど詳しくないのだが、本書の記述によれば実はアプロディーテーという神は、ウラヌス(天の神)を父とする「ウラーニアー(天の娘)」と、ゼウスを父とする「地上的(パンデーモス)な女神」という違う属性をもった2人が存在するらしい。従って対になるエロースにも、天上的なものと地上的なものの2人を考えるべきだというのがここでの主張。(何故そうすべきなのかはよく分からない。)しかし神=擬人化した思想として読み替えてみれば、要は魂の愛と肉体的な愛があるということで、結局のところはさほどパイドロスの主張と変わっているわけでは無い。
 彼の話で面白いのは、愛するという行為自体には美や醜といった価値は定まっていないという点。行為の中に美/醜が生まれるのは、行為の目的やその行われ方によるのだ。正しい仕方なら美であり、不正な考えで行われた行為なら、たとえ同じ行為であっても醜というわけ。さらにいうと、この背景には「美=善である」という価値観が隠れているみたい。

3)エリュクシマコス
 ここでは「調和/ハルモニア(=ハーモニー)」を最上の価値とする考えが述べられる。それは「響和/シンポニア(=シンフォニー)」であり「同和/ホモロギア(=ホモロジー)」でもある。例えるなら音楽の低音と高音のように、対立するふたつのものが合わさって「諧律/リズム」を生み出すような感じ。

4)アリストパネース
 ここが本書でいちばん有名なくだりだろう。言ってみれば一種の譬え話なのだが、原初の人間の姿は今と違っており、円筒の身体に双頭と二対の手足をもって転がるように移動していたのだという。本書を読むまで知らなかったのは、ペアになる要素には「男-男」「女-女」「男-女」という3種類の組み合わせがあるということ。このうち「男-女」のタイプが、かの有名な“両性者/アンドロギュヌス”。(この話が出てきた時は、思わず「待ってました」という気持ちだった。/笑)
 彼らは優れた力を持っていたが、神々への謀叛を考えた為にゼウスらによって半身に割かれてしまった。それ以来、失われたもう片方の半身を求めて調和を得ようとするのが、我々の“愛”の根本理由なのだという。なおここでは、先に挙げられたエリュクシマコスの「調和」の価値観が土台にされているようだ。
 面白かったのは、かつて「男-男」の組み合わせだった男性が、少年を求める人になるという点。ちなみに「男-女」や「女-女」の組み合わせも同様で、それが同性愛や異性愛の根拠なのだとか。うーん、愛の形はまさに多種多様だねえ。中世ヨーロッパでは騎士が貴婦人に対して捧げるプラトニックな愛もあったし、現在とは違う形の愛は古来いろいろあったということか。

5)アガトーン
 ここでは前の4つとは少し変わって、エロースの性質(本性)について述べられる。
 彼はその本性を①正義(=不正を犯しせず被りもしない)と②節制(=この世で最も強力な快楽欲望を支配する故)、それに③勇気(=もっとも勇敢な戦の神アレースを愛で捕える)に④知恵(愛する者を詩人にする)といった、4つの徳を兼ね備えたものと定義付けている。

※以上が5人の論客による、愛の本質についての主張とエロースに対する讃美の概要で、ここまででおよそ160ページあるうちの約半分。次はいよいよ、これらを堂々と受けて立つ
 ソークラテース(ソクラテス)の陳述になる。

6)ソークラテース
 ソクラテスといえば言うまでもなく「弁証法」の大家なわけだが、ここでも相手の言葉尻をとらえて逆の結論を導き出し、遂には納得させるという“論理のアクロバット”が見られて興味深い。自分の目から見て納得できるかどうかは別にして、少なくとも話の進め方自体は大したもの。例えば次のような感じだ。――愛は美や知恵を求めるもの。では「何かを求める」とはどういう事か。それは求める「何か」が自分に欠けていると思っているから。従って5人の論客がエロースの事を「素晴らしい徳を持った愛の神」と主張するのは、基本的な誤認があるのだという。(この主張に対しては誰ひとりぐうの音も出ない。/笑)
 彼はさらに続ける。エロースは人間のように醜くも無知でもないが、かといって神のように完璧な美や賢さを備えているわけでもない。それでは人間でも神でもない存在とは何か。それは人間(死すべきもの)と神(不死)との中間に位置し、人と神の間をつなぐ「鬼神(ダイモーン)」なのだ。神話によれば、無知で貧困なる「貧窮の女神ペニアー」と、善美なるものを求める「策知の神ポロス」の間に生まれたエロースだからこそ、美しさや賢さを追い求めるのであり、それが(古代ギリシアにおける)「愛」につながっていく。エロースは徳を充分にはもたざるが故に追い求め、それが故に崇高で讃えられるべき存在になるということ。以上により、エロースとは人が手放しで讃美し目指すべき目標ではなくて、人と共に歩み援助を施してくれる存在であるというのがソクラテスの結論となる。(こうして5人の意見は完全に否定されてしまい、「真実」が明らかにされる。)

 ところで人が善や美を求めるのは何のためだろうか?それは“幸福になるため“とソクラテスは言う。(逆にとれば古代ギリシア人は、幸福を感じる”もと”に対して“善”や“美”と名付けたとも言えるかも...。)
 すなわち“愛”とは異性や同性への単なる恋愛感情ではなく、幸福な暮らしに対する欲望の源泉。金銭や体育や知恵や、その他ありとあらゆる営みの元になるものであり、彼はそれを広い意味での“愛”と呼んでいるのだ。さらに言えば、“愛”が最終的に目的とするのは「出産」と呼ばれる行為。(ここでは生物学的な意味だけではなく、あらゆる創造行為について「出産」という表現が充てられている。)なぜなら、「死すべきもの(人間)」にとって、神のように永遠に同一かつ完璧であることは不可能。そこで不断の努力により常に新しくなり続けることで「種族としての不死」を達成しようとする。自らの創作物によって後世に名を残したり、子孫を生み育てるのもその理由からなのだ。
 突き詰めて言えば美の本質とは「永遠に存在し、生成消滅、増大減少をまぬがれた、彼方」にあるもの。これすなわち「美そのもの」であって、決して美少年や美青年といった現実世界に存在するものではない。たとえ初めは美少年への愛から出発したとしても、やがては「美そのもの」を求めて不断に上昇を目指すことが重要であり、それが真実(まこと)の徳なのだ。
 これぞまさにイデア論そのもの!いやあ、面白いなあ。神でも人間でもない中間項の設定とか、ヘーゲルの弁証法を先取りするような筋運びには惚れ惚れしてしまう。以上、本書を「小説」として読む方にはネタばらしをしてしまったようで申し訳ないが、ギリシア哲学の面白さを愉しむなら支障無いと思うので、興味のある方は直接あたって頂く事をお薦めしたい。ほんと、びっくりするくらい読みやすいし面白いのだから。

<追記>
 ここまでで自分にとっての『饗宴』はほぼ終了したようなもの。最後のパートはどちらでもいいのだが(笑)、一応紹介だけはしておこう。ここでは酩酊状態の闖入者(アルキピアーデス)によるソクラテスの讃美が延々と続く。曰く、ありふれた言葉を使うことで光り輝く真実を解き明かす、沈着冷静かつ勇敢無比で知性輝く高潔な人物であるとのこと。(これじゃまるでスーパーマンだね。)
 なぜこのように蛇足のような記述が書かれたかは解説で丁寧に明かされているので、せめてそこくらいはネタばらしせず、これから読まれる方の愉しみをとっておくことにしよう。

能と無常とマコーマック

 先日、マコーマックの『パラダイス・モーテル』についての感想をアップしたとき、おまけとして「パラダイス・モーテル=複式夢幻能論」というのを書いてみた。マコーマックを何でわざわざ日本の伝統文化などと比較するのか?という声が聞こえてくるかと心配したが、逆にありがたいことに、訳者の増田まもる氏ご自身から「おもしろい」というお言葉を頂戴して、すっかり舞い上がってしまった。折角なので同じネタを使ってもう少しマコーマックで遊んでみようと思った次第。(なんせ根が単純にできているので。/笑)
 この手の小説にあまり興味の無い方には退屈な話題かもしれないが、宜しければもう少しお付き合いの程を。

 先回書いた内容は、『パラダイス・モーテル』のスタイルに「能」との共通点があるという事と、全体に流れるムードは「無常観」であるという2点だった。この件について詳しく述べる前に、まずは「能」の特徴について簡単にふれておきたい。
 「能」というのは、かつて「申楽(さるがく)」とも呼ばれていた日本古来の芸能のひとつ。室町時代に大きく発展し、足利義満の庇護をうけた観阿弥・世阿弥の親子によって、現代まで伝わる基本的な様式が確立した。世阿弥が一族のために演者の心得をしたためた門外不出の書が、かの有名な『風姿花伝(ふうしかでん)』。「秘すれば花」だとか「序破急」など、今でもよく知られる言葉の元になっている。
 かの書によれば、能の基本とは「女/老人/物狂(ものぐるい)/修羅/鬼…」といった様々な対象を、いかにしてそっくりに「ものまね」するかということのようだ。いかに「成りきるか」と言い換えても良い。(*)

   *…この話を突き詰めると、もしかしてシャーマニズムや八百万の神といった日本的な
     宗教観とも通じるところがあるのかも知れない。

 ちなみに演者が対象を演じ切ったときに舞台に出現する”価値”のごときものは、「花」という言葉で説明されている。(「舞台に神が降りてきた」みたいな感じか?)言ってみれば、演技に見栄えがして観客を魅了する力があることだと思うが、例えば若い演者がもの珍しさによってひと時の人気を得ることを“時分の花”といったりもする。ただし時分の花は長続きせず、いつかは枯れてしまうそうだ。
 武士や鬼といったものを演じる場合には「強き(≒荒々しさ)」もある種の「花」となるようだが、世阿弥によれば何といっても“幽玄の花”こそが最上とされる。舞台を演じるだけで「幽玄」を生みだせるような、持って生まれた才能を持つ人もいるが、長年に亘って研鑚をつむことで、殊更に意識して演技せずともその境地に至ることを理想とする。(**)

  **…「物数を究めて、工夫をつくして後、花の失せぬところをば知るべし。」
     すなわち長年にわたって「花」を持ち続けた演者に勝るものはないということ。

 次に話は変わって、“複式夢幻能”という能の形式について少し。
 昔の能は「中入り」を挟んで舞台が前場と後場のふたつに分かれていたそうで、その形式を現在の一つ場(単式)に対して複式と呼ぶらしい。典型的な例をあげてみると、最初にワキ(脇役)の旅の僧が登場して、里の老人(シテ/主人公)から土地のいわれを聞くのが前場。前場の最後では、その老人が実は亡霊の化身であることがわかり、後場になって正体を現した亡霊が、自らの思いを滔々と語った上でやがて成仏していく…というのが大まかなストーリー。
 すなわちシテは、場面によって役柄を入れ替えることで夢と現実の境界を曖昧にしていき、やがて夢幻と静謐の世界―「幽玄」の境地を生み出していく役割をもつ。どうやら「ワキの夢の中でシテが夢を見ている」などという複雑な構造を指摘する人も居るらしい。(←これはWikiからの受け売り。/笑)
 また能の場合、演者が直接セリフ(謡/うたい)を述べる以外にも、伴奏者である「地謡(じうたい)」が演者の心理状態や感情をシテの代わりに謡う事もあって、これも夢と現(うつつ)を溶かし込んでいくのに一役かっている。(まるで書き割りに直接セリフが書かれているような感じ。なお自分などは夢と現実が交差する舞台を見ているうち、まさに“夢うつつ”になってしまう。/苦笑) そして物語の最後、静かに消えゆくシテをみている観客の心には、まさに「無常観」が去来するというわけだ。
 なお、夢幻能には前後の2つの場面しかないが、『パラダイス・モーテル』の場合はざっと数えたところ場面が7つ。それらが入り乱れて夢幻の世界が繰り広げられている。ただし個別の話の枠組みはかっちりとしているため、通常のメタフィクションを読む時のようなゾワゾワする不安定感はない。(このあたりは、一見同じような語りにみえる『ミステリウム』と『パラダイス・モーテル』を比べた時、最も違っている点ではなかろうか。)
 ポストモダン小説の定義にはさほど詳しいわけではないので違っているかもしれないが、技巧を凝らした作風を駆使することで、従来の小説の枠組みを意識して踏み外そうとするのがポストモダン小説なのだとすれば、『ミステリウム』はまさにそれにあたる気がする。けれども『パラダイス・モーテル』については、もっと古典的な部分に通じるところがあるような気がしている。近代小説の作法とは確かに違うのだが、「ポスト」ではなくむしろ原点回帰のような感じが。

 話を戻そう。この「無常観」という概念は、決して能の専売特許というわけではない。『風姿花伝』に遡ることおよそ200年あまり前。平氏との争いを制した源頼朝によって鎌倉時代が幕を開けるまでは、「武者(むさ)の世」「乱世(らんせい)」などと呼ばれた戦乱の時代。世は乱れて盗賊が跋扈(ばっこ)する上、伝染病や飢饉に倒れる人も多く、明日をも知れぬ日が長く続いた。平安時代を代表する仏教であった天台宗や真言宗の場合は、出家して僧院で長く修行することによって悟りを開く、いわば「学問仏教」だったわけだが、戦乱の世においては人々にそれだけの時間をかける余裕などない。(***)

 ***…そこで「悟りの仏教」から「(衆生の)救いの仏教」へと大転換を図ったのが、
     「専修念仏」すなわちひたすら念仏を唱えれば救われると説いた法然(浄土宗)。
     あとに続く親鸞(浄土真宗)もそうだし、道元(曹洞宗)や栄西(臨済宗)の禅宗
     も、「頓悟」という悟りへの“ショートカット”を説いたことでは皆同じ。更には
     日蓮も、法華経を信じれば救われるという単純明快や教えによって、いわゆる
     「悟りのプロ」である僧侶ではなく、一般の人々を救うことを最重要に考えていた
     とおぼしい。

 厭世家であった鴨長明の『方丈記』にもみられる無常観は、やがて民衆の心にも深く浸透し、「驕れるものも久しからず」という認識は、平家の滅亡とともに法師によって津々浦々まで伝えられた。先ほども書いたように、日本では「世の無常」は過去から仏教によって脈々と語られてきたわけだが、武士社会になってそれがひとつの生き方/世界観として定着していった。それはやがて「儚さ(はかなさ)」という形で能にとりこまれ、幽玄の境地のもとになったと考える。(このあたり、松岡正剛の「フラジャイル」という概念にも通底するものか。)
 
 こうして考えると、“耽美と残虐”や“騙りと語り”の作家と呼ばれるエリック・マコーマックの作品に感じる無常観は、まさに先述したような日本独特の美意識(滅びの美学)に通じるものがあるような気がしてくる。他の方はどうだかしらないが、少なくとも自分のなかでは両者の印象は分かちがたく結びついている。訳者の増田氏によれば、マコーマックの作品が順調に翻訳・紹介され続けているのは、実はどうやら日本だけらしい。しかし日本人が世界で一番マコーマック好きな国民だというのも、こうして見るとあながち根拠がないわけではなさそうだ。

<追記>
 かように日本的な美意識と共通する点が多いマコーマックではあるが、すっかり和風の印象に染まりきらないのは何故か? その理由は日本人の感覚と一箇所だけ違う部分があるからではないかと考える。それは何かというと「笑いの質」。
 ヴォネガットのように一見アイロニーに見えて実はその影にペーソスを隠した“黄色い笑い”とも、もしくはレムのシニカルな“白い笑い”とも、はたまたスウィフトやボリス・ヴィアンのような“赤い笑い(嗤い)”とも違う。もちろんラブレーやカルヴィーノの宇宙的な笑い、そしてビアスの”黒い笑い”とも。
 彼らよりもっと無機質で鉱物のごとき“透明な笑い”こそが、マコーマックの身上ではないだろうか。もしそうだとすれば、明らかに日本人の笑いの質とは違うだろう。もっとも「笑い」について詳しいわけではないので、これ以上は深く考えてなどいないのだが。
 シェークスピアとかベルクソンをもっと読まなきゃだめかなあ。(笑)

<追記2>
 なお無常観ということでは、自分が好きな『百年の孤独』や『族長の秋』にも似たようなところがあると思う。だから自分は南米の魔術的リアリズム作家の中でも、とりわけG・ガルシア=マルケスが好きなのかな?

『共感する女脳、システム化する男脳』 サイモン・バロン=コーエン NHK出版

 女性と男性の脳の違いについて、生理学的な見地から研究成果を紹介した真面目な本。本書の内容を簡単にまとめるとすれば、だいたい次のような感じになる。

 1)脳は傾向別に2つのタイプに分けられる。ひとつは「共感(*)」。これは他人の感情
   に反応して適切な感情を催す傾向のこと。もうひとつは「システム化」。周囲環境や
   対象物の中に隠れた規則やパターンを見つけ出す傾向のこと。前者を“共感(Empathi
   -zing)”に優れたという意味で「Eタイプ」、後者を“システム化(Systemizing)”
   に優れたという意味で「Sタイプ」と名付けている。(ちなみにEとSのどちらも同じ
   くらいでバランスがとれているのをBタイプと呼ぶ。)

 2)統計的に女性はEタイプが多く、男性はSタイプが多い。なお女性が言語能力に優れ、
   男性が空間把握能力に優れると言われているのも、元々はこのEとSの傾向に起因する
   と思われる。(あくまで統計的に有意差があるという意味であって、もちろん個人差は
   ある。地図が読めない男もいるし国語が苦手な女もいるのは当然のことだ。)

   *…もしかしたらこれはミラーニューロンの発火によるもの?

 ちょっと気になったのは、著者がこれらがすべてほぼ生得的な特徴だと決めつけているようにみえるところ。たしかに男女による性向の違いについては、1~2歳の頃から既にその萌芽が見られる。(例えばお人形が好きな女の子とか、乗り物が好きな男の子などもその一種。)でも成長の過程では、最初は僅かであった違いが選択強化されることで、更にハッキリとした違いになるという事も充分に考えられる。とすれば、どこまでが生得的でどこからが後天的かなんて、そう簡単には決められないはず。(脳は柔軟性や可塑性にも優れているわけだし。)
 なぜそんなことを思ったかと言うと、本書に挙げられている成人男女の特徴について、日本人の目から見ると少し極端過ぎる気がするから。つまり著者が「生得的」といっていることが自分からみると「後天的」に思えるというわけ。仮に著者が言うように生得的な男女差があるとしても、それを土台として、いかにもアメリカ的な文化が上書きされているような印象がある。(話は違うが、最近のニュースによれば女性の方が「空間把握能力」が優れている社会が発見されたらしいという話もあるし...。なかなか一筋縄ではいかないテーマだ。/笑)

 ここではとりあえず男女の特徴が生得的なものだとしよう。とすると、その理由として著者がたてた仮説は以下のとおりだ。
 空間把握能力(≒システム化)には左脳が深く関わっていて、言語能力(≒共感)には右脳の発達が重要。そこで男性ホルモンの一種である”テストステロン”や”アンドロジェン”の分泌により、胎児期の脳に影響が与えられると、右脳の発達が促されて「男性的な脳」になる。逆にそれらのホルモンの値が低いと左脳が発達して「女性的な脳」へと変化する。―この仮説は、性腺機能の障碍を持つ人の調査やその後のホルモン治療の効果、もしくは脳を損傷した人の症状観察、脳の活動領域の変化および性別による脳構造の違いなど、様々な観点から検証が試みられている。(理科好きとしては、このあたりのくだりはなかなか魅力的。)
 言葉を変えれば「システム化」というのは、近似によるモデル化や簡素化に外ならない。もしも脳の処理能力が低くて一度に多くのパラメーターを扱えない場合は、脳は自らに与えられた数少ない因子を用いて強引な近似(解釈)をすることになるだろう。逆に「共感」が過ぎると、周囲のあらゆる人への気配りで身動きがとれなくなり、優柔不断で判断がくだせなくなってしまう。(ものごとの決断には、ある程度の割り切りが不可欠ということでもある。)
 つまり大切なのは「SとEどちらのタイプが優れているか?」ということではないのだ。どんなことでも程度が過ぎるとよくないのは当たり前。多様な人々への配慮をしながらも、極力沢山のパラメーターを組み込んだシステムを構築して、その時点で最適(bestではなくても少なくともbetter)な選択をすることが、生きていく上で重要だという事だろうか。
 以上をまとめると、本書が新しいのは「人間をタイプ分けする際にSとEという軸を据えた事」と、「そこに生物学的な根拠がある“可能性”を示唆した事」であるといえそうだ。

 著者の元々の専門は自閉症の研究なのだそう。したがって本書の後半には、アスペルガー症候群など自閉症スペクトラムの人々についても多くのページが割かれている。アスペルガー症候群は共感やシステム化に関する障碍ではないかというのが、本書における著者の主張。具体的にいうと、自閉症とは脳にシステム化が極端に顕われた状態なのではないかというもの。ここで提示されるのが、「“共感”と“システム化”というふたつの特徴は“ゼロサム”の関係にあるのではないか」という新たな仮説。“ゼロサム”の関係というのは簡単に言ってしまえば「いちかゼロか」、すなわち互いに相容れない性質ということ。もしもその仮説が正しいとすれば、「S」と「E」は単なるふたつの評価軸ではなく「対抗軸」ということになる。著者がそう考えた根拠は、男に比べて女に自閉症スペクトラムの出現率が極端に少ないためらしい。
 でも自分としては、著者の見解に納得できないところがあるなあ。以前読んだ『自閉っ子、こういう風にできてます!(**)』によれば、自閉症というのは著者が考えるような「コミュニケーションの障碍」というより、むしろ身体感覚の障碍と考える方が妥当なようだし。

  **…アスペルガー症候群の翻訳家と作家のふたりの女性が、自分たちの身体感覚を率直
     に語った対談集。それによれば、例えば体温調節が出来ないだとか、意識しないと
     手足が統合制御できないとか、はたまた周囲の生活雑音の中から自分に関係した
     情報(会話のことばなど)を拾い上げるための、フィルターが上手く働かない等の
     事例が紹介されている。

 身体感覚に不具合があり、脳に入力される情報が少ないため、やっと手に入れた情報にこだわり過ぎる。そのために周囲から見ると奇異に見える言動が目立ったり、デリカシーに欠ける応対をしてしまう。――これが『自閉っ子...』で示されていたことだった。またアスペルガーの人はこだわりが強くて共感能力に欠ける半面、受け取った情報はそっくりそのまま素直に理解する傾向が強いらしい。とすれば、本書で著者が主張するように周囲を意識的にないがしろにしたり、自分の興味が持てない事をわざと無視しているのとは違うはず。
 著者の説によれば、自閉症スペクトラムの人々がシステム化の能力に長けている理由は、Sタイプとして突出しているからということになる。しかし反対に、障碍があって入手情報が限られてしまうから、やむを得ずSタイプ(システム化)の力を「伸ばさざるを得なかった」という可能性、つまり原因と結果の順番が逆の可能性もあるはずなのだ。

 結局のところ、本書で著者が述べようとしたことのうち、「脳にはSとEのふたつのタイプがある」というのは良いとして、「それは生得的なものである」というのにはちょっと疑問が残った。概ね賛成ではあるけれど、ちょっと論証には弱い気がする。すごく興味深いテーマなだけに、本書が提示した様々な指摘や疑問に対して、最新の研究結果が早く紹介されるといいね。(このまま結論無しで宙ぶらりんのままじゃ、何だか欲求不満になりそうだ。/笑)

<追記>
 以上、あれこれ内容についていちゃもんをつけたけど、大きな流れについては別に不満もなく好著だと思う。それより文句をいいたいのは題名について。著者自身も文中で何度も強調しているが、性差を扱う本には軽い調子で面白おかしく書いたものが多い。(いい加減な書き方をした本の中には、性差別を助長しかねないものも。)
 本書(原著)はそのような誤解を招かないように、表現ひとつとっても大変に気を遣って執筆されている。それなのにどうして原題の“The Essential Difference(本質的な差異)”にこんな邦題が付けられてしまうのだろう。「女脳」「男脳」などという断定的ないい方は本文中では一切でてこなくて、せいぜいが「統計上は女性に多いEタイプと男性に多いSタイプ」という程度なのに。
 世に溢れる脳のオモシロ本に便乗した「売らんかな主義」が見え隠れしているようでとても残念。もしも文庫になるような事があれば、そのときは是非とも原著のままの題名に戻すことを切に希望する。

『澁澤さん家で午後五時にお茶を』 種村季弘 学研M文庫

 「異端の独文学者」が「異端の仏文学者」について書いた文章をあつめた本。(←褒めてます、念のため。)内容は文芸時評などで発表された書評や対談など、バラエティに富んでいる。なんせ本書で取り上げられている澁澤氏の著作を読んだのがだいぶ昔で、どんな本だったか思い出しながら読むためいつもより少し時間がかかった。特に気に入ったのは、朋友である澁澤龍彦が亡くなってから彼との思い出を語った一連の文章。心にジーンと沁みる。(*)

   *…今では種村氏ご本人までが旅立ってしまい寂しい限り…。と、そんな話をネットで
     つぶやいたところ、「きっと今頃2人はあちらの方で一緒にお茶でもしながら、
     好きな話に興じてるんじゃないか」というお言葉を頂いた。うん、そうかも。いや
     きっとそうに違いない。(^^)

 書評や作品論についてもかなり的確な内容が多い。例えば「澁澤龍彦は実はフェティシストではない」という指摘は、流石に著者ならでは。澁澤龍彦という人は一種の“台風の目”のようなものであって、フェティッシュなのは彼自身ではなく、彼の収集のお眼鏡にかなう対象群の方なのだとか。(サド然り、マニエリスム芸術しかりだ。)
 自分が持つもともとの資質から自己をさらけ出すのが「表現者」だとすれば、彼(澁澤)は専攻するテキストから様々な物事をとりだしてはコレクションする、いわば「エクリヴァン(作家)」とでもいうべき存在とのこと。
 また『思考の紋章学』が初期とその後を分ける大きなターニングポイントになっていて、それ以降の著作では澁澤が本来持っていた資質が十全に花開いたのだとか。サド裁判のころには澁澤自らがフェティシストのようなパフォーマンスを示すこともあったわけだが、晩年の彼は自身の初期スタイルを好んでいなかったとも。確かにそう言われてみれば、初期の著作である『黄金時代』などに比べて、後期の『私のプリニウス』とか『夢の宇宙誌』などはかなりのびのびと書かれている感じがする。ちなみにこのあたりは自分が特に好きな著作であって、読んでいると澁澤龍彦という作家の本質は、“具象”ではなく“イメージ”もしくは“観念”にあるという思いがひしひしとしてくる。まるで中世の神秘家たちがみた夢を食べて生きる“獏”のようだ。(笑)
 巻末に収録された「澁澤龍彦を読む」という章もすごい。河出書房新社から出版された全集に付された澁澤作品の解題を集めたもので、最初期の『黒魔術の手帖』から最晩年の『フローラ逍遥』までを取り上げ、執筆にまつわるエピソードを紹介していて圧巻。懐かしい書名の裏話が次々に出てきて、澁澤ファンとしては嬉しい限りだ。また読み返したくなってきたが、そのためには本棚をひっくり返さなきゃなあ。(笑)

<追記>
 今までは漫然と澁澤氏の著作を読んできたわけだが、本書を読んで頭の中をだいぶスッキリさせる事ができた。要するに彼の活動には3つの貌(かお)があるということだ。ひとつはエッセイストとしての貌。ふたつめは翻訳者およびアンソロジストとしての貌(編集者の顔といっても良い?)。そして最後がフィクション作家としての貌。本書によって、活動のスタンスが時代とともにどう変遷していったかも良く分かった。いままで自分はエッセイストおよびフィクション作家としての澁澤龍彦しか読んでこなかったわけだが、そろそろアンソロジストや翻訳者といった面にも手を出しても良いかも知れない。

『パラダイス・モーテル』 エリック・マコーマック 創元ライブラリ

 マコーマックを読んだのは、短篇集『隠し部屋を査察して』(創元推理文庫)と傑作長編『ミステリウム』(国書刊行会)につづいて3冊目。本書は単行本のときについ読みそびれてしまい、そのまま長らく入手困難になっていたもの。(『ミステリウム』が見事にツボに嵌まったので、本書が文庫化されると知ったときには小躍りしてしまった。自分にとって本書の訳者である増田まもる氏が選ぶ作品は、安心して手に取れる一種のブランドのようなものになっている。)

 さて本書を読んだ感想としては、まさによく言われるような“語り”と“騙り”の作家という形容がぴったりという感じ。前の2作にも共通していた事だが、マコーマックの作風は時にグロテスクで時に不気味。なのに何故だか読後の印象は重たくない。文章を読むと物語のシーンが頭に浮かんでくる映像型の作家であって、例えばキリコの有名な絵画『街の神秘と憂愁』の不気味さや、もしくはエッシャーのように技巧を凝らして精密に作り上げた作品というイメージ。そしてデビュー作である本書においても、その雰囲気は既に存分に顕われているといえる。(ただし本書はまだ話に少し素直なところがあり、『ミステリウム』では「とても筋の良いメタフィクション」という印象をもったのに対して、どちらかといえば「よくできた騙し絵」といったところだろうか。)
 なお、どの登場人物も他のマコーマック作品と全く同じように、肉体的/精神的な「痛み」に遭遇する様が執拗なまでに描写されるので、その手の語が苦手な人は止めておいた方が無難かも知れない。その意味ではマコーマックは読み手を選ぶといえるかも。好きな人には堪らないけどね。

 繰り返すが、本書(というかマコーマック自身)のテーマは“語り”と“騙り”。ほとんどの小説の場合は(少なくとも作者の頭の中では)、物語における「真/まこと」と「偽/いつわり」はきちんと区別されているといえるだろう。たとえばミステリであれば大抵の場合、“騙り”(=ミステリの場合はトリックと同義)が複数あったとしても、作者による物語上の真実はひとつしかなく、ラストはそこに向かって収斂していく。(あえてオチを書かないオープンエンディングの作品もあるにはあるが、おそらく作者の中では決着はついているはず?)
 ところがマコーマック作品の場合、「真」と「偽」の間に区別はない。本書では全部で7つのエピソードが絡み合っていくのだが、真偽の見分けは全くつかない、いやそもそも真偽は存在しない。まるで夜空に輝く恒星の本来の遠近が無くなり、見掛け上の天球面に星座という物語が描きだされているかのよう。そしてそのときマコーマック作品においては、天球面は幻ではなく物語を語る(騙る)ための「真実」と化す。

 殺された母親の肉体の一部を手術で体内に埋め込まれた4人の子供、というショッキングなエピソードを軸にして、他には≪自己喪失者研究所≫なる精神療養施設で患者に与えられる偽の人生記憶や、老いた元新聞記者が語る自殺と嘘にまつわるエピソード等々― 全編が「語り/騙り」に彩られたまるでパッチワークのような、もしくはまるで「複式夢幻能」のような物語を堪能することができた。

<追記>
 この手の作品では、詳しく中身について触れてネタばらしをするのは厳禁。なので今回は漠とした印象に終始してしまって申し訳ない。でも本書を既に読まれた方なら、自分が言いたいことは大体ご理解いただけるのではないかと。(この文を読んで「うん、そうそう」と頷いていただけたなら幸い。)
 一方、もしもまだ読まれてない方であれば、(もしもこのようなタイプの話がお好きならば)一度目を通されては如何だろう? そして感想を語り合いましょう。「面白かったよねー」と。(笑)


<追記2> ※注意:ここからはネタバレがあります。
 さきほど「複式夢幻能」という言葉を使ったのだが、これは単なる印象ではなくて、実は本書の物語構成に関する比喩のつもり。通常、世阿弥によって完成された能の形式のことを指す言葉で、場面が前後二つに分かれているのを「複式」と呼んでいる。本書ではふたつどころかもっと多くの場面に分かれているわけだが。
 また「夢幻能」というのは亡霊などがシテ(主役)となってワキ(脇役、通常は旅の僧など)に自らの無念や思いを語るというストーリーのこと。舞台を見ているうちに、どこまでが現実でどこからが夢の世界か判然としなくなっていくのだが、まさにこの『パラダイス・モーテル』の雰囲気がそれにぴったりというわけ。どこかで誰かが構成の面から本書と夢幻能の比較でもしてくれていたら面白いのに―と思って調べてみたが、世の中そんなに甘くはない。(笑) 仕方がないので自分で指摘しておくことにした次第。
 もっとも、本書でシテを演じるのは果たして誰なのかという問題は残るが...。(祖父のダニエルか友人のクロマティか、はたまたマッケンジー兄弟の消息を語った語り部たちなのか。さらにはヘレンや主人公のエズラでさえ、シテともワキとも言うことが可能に思える。)
 パラダイス・モーテルに一人たたずむ男の姿は、全てが過ぎ去ったあとに残った夢のかけら。自分にとって本書は「ポストモダン小説」というレッテルよりも、むしろ能の「黒塚」や『平家物語』の無常がよく似合う、そんな作品だなあ。

『自己組織化の経済学』 ポール・クルーグマン 東洋経済新報社

 著者は国際経済学を専門とする経済学者で、2008年にはノーベル経済学賞も受賞している立派な(笑)人。でも『クルーグマン教授の経済入門』などを読んだ感じでは、気さくで親しみやすい人のようだ。本書のテーマは、経済学に対して「複雑系(*)」を適用したら、どのような展開が期待できるかということ。なお正式な学術論文ではなく大学の講義録を元にしたものだそうで、かなり大胆な仮説やアイデアも臆せず披露してくれている。(どれもまだ検証されていない「アイデアの段階」であることが、著者によって何度も念押しされている。)

   *…世の中には一見すると無秩序に思えるような複雑な現象が数多く存在する。その中
     に何らかの秩序を見出そうとするのが、いわゆる「複雑系」と言われる学問体系の
     狙い。元は自然科学の分野から生まれた理論で、沢山の要因が複雑に影響しあう事
     で示す挙動を説明しようとするもの。気象における「バタフライ効果」や「フラク
     タル図形」などが代表的な例。応用範囲が広いので、他にも通信システムや経済学
     などの社会科学にも適用が期待されている。

 著者によれば、経済学における難問として「景気の好不況はなぜ起こるのか?」と、「なぜ都市という経済活動の中心地が自然発生するのか?」というのがあるらしい。複雑系の研究テーマの中には、ランダムで混沌とした状態から、秩序が如何にして自己生成されていくかという仕組み(ちなみにこれを「自己組織化」という)があるのだが、これが難問の解決に利用できるのではないか?というのが著者の仮説。まあ簡単に言ってしまえば、「好不況」にも「都市の発生」にも特段“これ”といった原因は無く、自然に発生するものではないかという話だ。

 取っ掛かりとしては、なぜかアメリカの大都市の数と住民の数(人口規模)が、「べき乗法(**)」に則っていることが紹介される。“べき乗法”とか“べき乗則”といえば、複雑系とか非線形といった理論とは相性がいい特徴のひとつ。なので、ここら辺りから直感的に推理を働かせて、自己生成の可能性を探っていこうとする意図はよく理解できる。(ただその理論展開が読んでちゃんと理解出来るかどうかは別の話。数式を使わずなるべく平易に説明してはくれるのだけど、経済学の門外漢にはやっぱりちょっと難しいところが無きにしも非ず。)
 実際に行っているのは、人口が均一分布する(=都市と農村が区別ない)状態を起点とする、「自己生成の数式モデル」を複数種類シミュレーションしてみること。それにより簡単な「ゆらぎ」で今の世界によく似た状態が引き起こせるか試してみている。適当に常数を設定してやると、実際に幾つかのモデルで人口が幾つかの山に分かれ、やがて都市へと収斂していく様子が示される。(ただモデルはかなり簡素化されていて、著者によればまだまだアイデアのレベルに過ぎないということのようだ。)

  **…地震の大きさと発生頻度や、労働災害の被害と頻度(ハインリッヒの法則)なども
     同様で、(何故だかわからないが)“べき乗法”に則っている。こちらについては
     聞いた事がある人もいるのでは?

 これだけでは何のことか判らないと思うので、具体的な内容を少し。
 書中で著者が試しているのは「エッジ・シティ・モデル」「中心地モデル」「都市発展モデル」という3つのモデル。著者によれば、これらは「不安定から生じる秩序」と「ランダムな成長から生じる秩序」という異なる2つの原理に基づいているとのことで、「エッジ」と「中心地」が「不安定…」に、そして「都市発展」が「ランダム…」に相当するらしい。(***)
 うん、このあたりの話がけっこう難しかったのだが、こうして書いて見てもやっぱり分かり難い。(笑)
 なお、注意しなければいけないのは、「自己組織化」は必ずしも最善の結果に帰着するわけでないという点。昔のビデオデッキにおけるVHS方式とベータ方式の競争を見ればわかるように、必ずしも技術的に優れた方式が市場のスタンダードになるわけではないのだ。市場原理に野放図に任せきるだけでは、ロクな事にならない場合もあるということは、よく承知しておく必要があるだろう。

 ***…「不安定から生じる秩序」というのは、都市内における企業同士に生じる何らかの
     “求心力(互いに近づこうとする力)”と“遠心力(互いに物理的な距離を置こう
     とする力)”を仮に規定した時、相互作用によって“均一分布”から“複数の場所
     への安定した集中”が自己組織化(≒創発)されるという原理。また「ランダムな
     成長から生じる秩序」では周囲との相互作用はなく、どんな現象も(それがランダ
     ムな成長でありさえすれば)一定以上の規模になると「べき乗法」に従うという
     原理のこと。

 著者も言っているように、これは簡単なモデルに基づくシミュレーションなので、理論として確立するにはまだまだ時間がかかると思われる。もっとしっかり細部を詰めていって、世界同時不況や急激な人口集中による歪みの是正なんかに役立つ日が早く来ればいいんだけど。(話はそれるが、そもそもアメリカの経済学は一般的にみて、モデルの条件をあまりに単純化し過ぎているきらいがあると思う。でもだからこそ、人文系の学問のなかで経済学だけが唯一「数式を用いる科学的な学問」と認められてきたのも事実。まあ、どんな風であれ現実の世界が説明できるなら、それで構わないのだが。)
 ただし、不完全な前提に基づく理論のままでマネーゲームなんかに利用されて、経済政策(つまり自分の収入)が振り回されるのだけは願い下げ。ヘッジファンドみたいな経済モンスターだとかバブル崩壊なんてのは、もうこりごりだね。

<追記>
 自分が読んだのは1997年の単行本の方だけど、現在はちくま学芸文庫でも入手可能。ちくま学芸は他にもクルーグマン教授の本を積極的に出しているので、興味がある人はどうぞ。『経済入門』は山形浩生訳でとっても読みやすいし、内容もわかり易くてお薦め。

『大衆の反逆』 オルテガ・イ・ガセット ちくま学芸文庫

 著者ガセットはスペインの哲学者。専門は新カント派で、活躍の場はもっぱら新聞などのジャーナリズムが多かったみたい。今の日本で言えば内田樹氏みたいな感じか。(ちょっと土屋賢二氏に似たところも?) 本書の刊行は1930年で、著者の政治的な文章をあつめたもの。20~30年代のヨーロッパといえば第一次世界大戦が終結し、スターリニズムやファシズムの影に不安を感じながらも、つかの間の“戦後の繁栄”を謳歌していたころ。本書は、その頃に存在が顕著となってきた「大衆」というものが持つ、潜在的な危険性の警鐘がテーマだ。
 ちなみにこのあたりの状況については、現代でも改善されるどころか、むしろ悪くなっているのではなかろうか。最近のヨーロッパ等に代表される国際情勢や、日本でも地方の首長選挙の様子などを見ていると、どうもそんな気がしてならない。

 閑話休題。それでは著者がいうところの「大衆」というのは、いったいどんなものか。
 著者によれば、人は社会性や精神面から見て2つのタイプに分けることが出来るのだそう。ひとつは自分を厳しく律し、進んで困難な義務を負う人々。精神的な“貴族”とでも言えば良いか。そしてもうひとつは生きる目標も向上心もなく、周囲に流されながら何となく日々を送る人々(*)。このような人は結構多く、且つそのような人ほどそのことに無自覚であると著者は述べる。彼らが“喫茶店での話題(今ならさしずめマスコミ報道や口コミ)”から得た情報を鵜呑みにして、「それに法の力を与える権利をもっていると信じて」行動し、“数の論理”で自らの短絡的な判断を社会に強制するとき、それが著者言うところの「大衆」という存在となる。(つまりかなり否定的な意味で使われている言葉。)彼らは自らのタイプに無自覚であるが故、実のところはとても狭い了見によるものであるにも関わらず、自己の判断が最善のものと信じて疑わない。そこが一番の問題というわけ。
 念のために言うと、著者は「実社会における階級」がそのまま「精神的な高貴さ」に直結すると考えている訳ではない。むしろそれははっきりと否定しており、社会階級とは無関係だと明言している。例えば貴族階級の人々の中にも、(世襲によってその地位を得たような人に多く、)どうしようもない「大衆」が存在するし、逆に民衆のレベルにも精神的な高みに到達している人々はいる。

   *…著者の言葉によれば、前者は「自分のうちに厳しい規律を維持することを自ら
     義務付けし、進んで困難と義務を負わんとする人々」であり、対する後者は
     「自分に対してなんらの特別な要求を持たず、したがって自己感性への努力を
     しない、まるで風のまにまに漂う浮標のような人々」だそうな。

 第一次大戦後のヨーロッパでは戦禍により社会環境が激変し、従来の貴族階級の没落とともに市民による実質的な支配が圧倒的な勢いで進んだ。また経済の発展に伴って、人類がかつて経験したことがない程に民衆の生活水準も上昇した。しかし「満たされ過ぎた」ことが原因なのか却って悪い影響も出始めたのだという。それは何かというと、それまでの階級別の“生き方のモデル”が通用しなくなり、自分の生の方向を見出せなくなった結果、新たな生き方を各々が見つけなければならない時代へと変化してしまったのだ。しかし大多数の人々は、新たな生き方を進んで切り拓こうという気概をもたず、(なお且つそれでも充分に生活を謳歌できる社会であるが故に、)社会を漂うだけの生活を送ることに。
 著者は本書の中で大衆のことを「慢心しきったお坊ちゃん」という言葉で呼んでいる。このお坊ちゃまたちは、「生の設計」も「未来の計画」も無しに生きており、自分たちがどこに向かおうとしているのかまるで分かっていない。甘やかされて育ったため、未来を自分たちの手で選択するということに責任を持たない「政治的なその日暮らし」なのだとか。これぞいわゆる「衆愚」ということではないだろうか。そしてその最終的な帰結こそが、ヒトラーへの白紙委任状だったというわけだ。

 まだまだ著者の“恨み節”は続く。大衆も様々な意見を言う事があるが、そこには先の展望があるわけではなく、ただ近視眼的かつ直情的に今の状況に反対するだけ。過去の歴史や先人の知恵に何も学ぼうとはせず、自分の中途半端な知識や倫理観が完ぺきなものと思い込んで今を取り仕切ろうと画策する。「豊かな社会」とは苦難の末に勝ち取られなければならず、努力して維持されなければ簡単に失われてしまう物だという事に気が付いていない。――以上、色々と辛辣なことを書き連ねたが、これらは著者による心からの 「怒り」であり、また「悲鳴」とも思えてくる。
 では、著者が主張するあるべき姿とは何だろうか? それはひとことで言ってしまえば、「真正」であれということ。自らが“したい”ことではなく、“しなければならない”ことを自覚せよ。これがガセットの言わんとするところだ。
 本書における著者の意見には、(細かいことをいえば)自分と「少し意見が違うかな」と思うところもあるけれど(**)、おおむね非常に真っ当な意見といえるだろう。少なくとも「慢心しきったお坊ちゃんたち」に対する著者の怒りと、彼らに下す“言葉による鉄槌”は誠にごもっともに思える。

  **…意見が違うのは筆者の考えが「ある種の君主論」だからなのだが、話が長くなる
     のでここでは省く。実は本書では他にも何か所か気になる点が無いでもない。
     例えばヨーロッパ至上主義。「ヨーロッパの技術はその基盤に“科学的思考”を
     持ち」、従って「世界で唯一ヨーロッパ技術だけが無限の発展の可能性をもつ」
     だとか、「それ以外の地域の技術は、ある程度の段階に達すると頭打ちになり、
     逆に後退を始める」といった文章を読むと、ちょっと引っかかりを覚えてしまう。
     他にはアメリカの発展を過小評価し過ぎる点なども。(これらは本書に対して若干
     時代の古さを感じてしまう原因でもあった。)しかし一方では、ネーション
     (国民国家)の本質が単なる政治的な線引きに過ぎないことを指摘し、今日の
     EU連合にあたる“ヨーロッパ広域統治体”を提唱しているなど、なかなかに
     先見の明もある。

 全般的に見れば、80年以上前の著作であるにもかかわらず、本書で問題とされた点は、現代にもそのまま通用すると言える。特に今の日本はまるで当時のヨーロッパ社会に生き写しで、なんら状況が変わっていない気がして、何ともはや...。
 もう終わってしまったことをあれこれ言っても仕方ないのではあるが、(自分も含めて)東名阪の有権者の人々は、首長選挙に臨む前にこの本を皆で読めばよかったんだと思うよ。今でも遅くないから皆で読んで、そして各々が考えてみるといい。(もっともこの本は「大衆は絶対にこの手の本は読まない」ということを述べているわけだけど。/苦笑)
 なんだか気分が暗くなってきたので(笑)、最後に著者の言葉を引用して終わることにしよう。

 「一つの社会が意見を異にする集団に分裂していて、それぞれの意見が相殺されるような場合には、(中略)その世論の力の不在がもたらす空白を凶暴な力が埋めることになる。そして最悪の場合には、その暴力が世論の代用品となる」

 ――この事態を招くも防ぐも、すべての「大衆」が自分たちの持つ力の強さと恐ろしさを自覚できるか否か、その点にかかっているといえるのではないだろうか。(なんてね。もちろん自分だって偉そうなことは言えないけど。でも、物事を考える習慣だけでも忘れないようにしたいものだ。)

『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』 岩波文庫

 16世紀初頭に出版された作者不詳の風刺説話集。一応は元本の作者らしき人は特定されてはいるのだが、その人もドイツ語圏に古くから伝わる物語を色々と拝借したようだし、その後どれだけ改変が加えられたか分からないので、結局のところ作者不詳と大した違いはない。なお、訳者は中世ヨーロッパの被差別民研究で知られる阿部謹也氏。網野善彦氏との対談集『中世の再発見』(平凡社ライブラリー)の中で紹介されていたので、本屋で見かけた時にすかさず買っておいた。どうやら中世では大変人気があった物語のようだ。

 主人公のオイレンシュピーゲルはいたずら者ではあるが、トリックスターのように神話的な存在ではない。かといって「ものぐさ太郎」のように、世の中のはみ出し者が才気を使って出世していくというわけでもない。言ってみれば、中世における社会常識やルールを逆手にとって、混乱を引き起こしては去っていく“困りもの”。彼の“道化的”な行為は時に笑い話にもなるし、またいたずらの矛先が貴族や司祭といった当時の社会的な権威に向かうときには痛快な風刺劇になもる。
 以前『世界怪談名作集』(岡本綺堂編訳/河出文庫)を読んだ時にも感じたことだが、ヨーロッパの説話は(日本のそれとは違って)、物語の登場人物にも「一人の個人」としてきちんとしたキャラクター造形がなされているのが面白い。たとえ話の中で直接言及されていなくても、専門家が見れば主人公の出自や親の職業までが特定できるほど。(*)

   *…一例を挙げる。ティルの父親は地元の有力者たる「盗賊騎士」に仕えた、身分の
     低い兵卒であることが、話中の説明から推測できるらしい。なぜなら農民がしない
     「引っ越し」を行ったり、その際に身分の高い人の所有物である「馬」を用いて
     いるからなのだとか。
     またティルが子供の頃、綱渡りに夢中になって母親に厳しく叱責されるシーンが
     出てくるが、これは当時の大道芸人が賤民であったためらしい。このように本書は
     研究者にとって、当時の生活意識や社会通念が手に取るように分かる、まさに
     第一級の資料といえるだろう。

 このあたりは、 “太郎”や“姫”として幾らでも置き換えが可能な、本邦の物語構造とは全く違っていて、大変興味深い。話自体は他愛もないものだが、そのような視点で読むには良いテキストといえる。(しかし、物語自体より解説の方が面白いというのは、なかなか珍しい体験だった。/笑)

<追記>
 なお本書をこれから読もうという方はちょっとご注意。オイレンシュピーゲルが仕掛けるイタズラは、やたらスカトロ系のネタが多い。ざっと数えると約1/4ほどが糞尿譚(!)なので、その手の話が苦手な方は止めた方が無難と思う。なんだか小さな子供のギャグみたいで他愛もないものなのだが、あまりに数が多いので続けて読んでいるとさすがにちょっと...。できれば食事前には止めておいた方がいいかも。(苦笑)
 まあこれも当時が今と違う社会意識(衛生観念)を持っていた事の証拠ではあるわけだが。

<追記2>
 ついでにふと思いついた仮説をひとつ。オイレンシュピーゲルは実在した人物がモデルになったのではないかという説があるようだ。それがもし本当だとしたら、その人はアスペルガー症候群だった可能性が高いかも知れない。なぜなら彼の“イタズラ”のかなり多くが、相手の言葉を額面通りに受け取って実行するという、いわば「揚げ足取り」のようなものであり、それって「素直すぎる」というアスペルガー症候群の特徴にとても似ている気がするから。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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