2011年11月の読了本

『時間はだれも待ってくれない』 高野史緒/編 東京創元社
  *東欧のSF(ファンタスチカ)作家たちの今を紹介するオリジナルアンソロジー。
『百鬼夜行の見える都市』 田中貴子 ちくま学芸文庫
  *今昔物語などに出てくる日本独特の伝承である、「百鬼夜行」の謎を探った本。
『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』 岩波文庫
  *中世のドイツで人気を博したいたずら者の物語。訳者は『ハーメルンの笛吹き男』や
   『中世の星の下で』などの著作で知られる阿部謹也氏。
『犬と旅した遥かな国』 織本瑞子 中公文庫
  *「人生の中休み」をとることを決めた夫婦が、愛犬をつれてスペイン&ポルトガル
   を旅した200日の記録。
『法然の編集力』 松岡正剛 NHK出版
  *浄土宗の創始者・法然の生涯と思想を紹介する。
『ノディエ幻想短篇集』 岩波文庫
  *フランスを代表する幻想作家の短篇集で全6編を収録。普通に言われるようなタイプの
   「幻想小説」をイメージして読んだら全然違った。特に最初の二編は「何だこれ?」
   という感じ。幻想というよりむしろ夢想とか幻惑といったほうがぴったりくるかも。
   誰が見た夢なのか分からぬままに、亡霊や妖精などによる神話的且つ濃厚なイメージが
   ひたすら綴られる。中では悪魔に魂を売って破滅していく男を描いた「死者の谷」と、
   聖母伝説をテーマにした「ベアトリックス尼伝説」が好かったかな。
『大衆の反逆』 オルテガ・イ・ガセット ちくま学芸文庫
  *著者はスペインの哲学者。第二次世界大戦前のヨーロッパ社会に顕著となってきた
   「大衆」という存在について、分析と批判を繰り広げる。
『メロンの丸かじり』 東海林さだお 文春文庫
  *いつもの食べ物エッセイの最新刊。
『肝臓先生』 坂口安吾 角川文庫
  *1998年公開の映画『カンゾー先生』(監督:今村昌平)の公開にあわせて発行された
   短篇集。(しかし角川はよくこの手の企画本を出すねえ。)
   少し古い本だけど、安吾がプチマイブーム中なので、均一台で見つけてきた。
『共感する女脳、システム化する男脳』サイモン・バロン=コーエン NHK出版
  *書名はイマイチだが、中身は女性と男性の脳の違いによる特徴を研究者が解説した
   (ちゃんとした)本だった。しかしこの邦題、もうちょっと何とかならないものか。
   今回はたまたま中身を確認したから読んだけど、普通なら絶対に手に取らないはず。
『ソドムとゴモラの滅んだ日』 金子史朗 中公文庫
  *うーん微妙(苦笑)。明らかなトンデモ本ではないけれど、ちょっとボーダーラインに
   足がかかっている感じが。本書のテーマは「旧約聖書に出てくるソドムとゴモラは、
   かつて死海の南部地域に実在し、地震によって滅んだ。」ということを論証しようと
   いうもので、著者は地質学の研究者のようだ。昔の死海周辺に関する地質学的な考察は
   かなり説得力があるのだが、問題は「ソドムとゴモラが実在した」という点について。
   歴史学者の発掘調査のエピソードや聖書の記述からの推理が書かれてはいるのだが、
   初めから「実在するもの」と決めつけられているようでどうも納得できない。
   学説として広く世間に問うには正直言って少々ワキがあまい気がする。もしかしたら
   著者は理系人間にありがちな「専門以外のことには疎くて思い込みが激しい」という
   タイプなのかも。それとも誰かの眉つばっぽい話を鵜呑みにしてしまったのかな?
『自己組織化の経済学』 ポール・クルーグマン 東洋経済新報社
  *「複雑系」の理論を経済学に適用して、好不況の波や都会と田舎の区分けがなぜ自然に
   起こるのかを説明しようとした試論。ちなみに著者の専門は国際経済学で、2008年には
   ノーベル経済学賞を受賞している。
『マインド・イーター(完全版)』 水見稜 創元SF文庫
  *かつてハヤカワ文庫から出ていた短篇集に漏れていた2篇を追加した完全版。最近の
   創元は、(山野浩一氏の短篇集といい、)長らく入手困難だった作品を積極的に拾い
   上げてくれるのでとても嬉しいなあ。
『京都、オトナの修学旅行』 赤瀬川原平/山下裕二 ちくま文庫
  *芸術家と絵画史の研究家が2人で旅する“修学旅行”の第2弾で、今回のテーマは京都。
   超有名な観光スポットを(色眼鏡なしで)ありのままに見て回るというもので、これが
   滅法面白い。取り上げられるのは金閣・銀閣に東寺や清水寺、嵐山などミーハーな場所
   もあれば、千利休ゆかりの待庵(まちあん)や楽焼(らくやき)の樂美術館など、渋い
   ところもあって全部で12か所。
   建築家・藤森照信氏の言葉として、「和風は贅沢。和風と言うのはある種の質素さが
   基本にあるので建物だけあっても和風にはならない。空間があって初めて成立する」
   とか、なかなか鋭い話を散りばめつつ、且つ和気あいあいと“修学旅行”は進む。
   やっぱり京都は子供じゃなく大人になってから行くべきだねえ。いいなあ、京都。
   また行きたい。
『桜の森の満開の下』 坂口安吾 講談社文芸文庫
  *安吾のプチマイブーム第2弾。こんどはいかにも「物語」を感じさせる作品ばかりを
   集めた短篇集。傑作寓話の表題作や「夜長姫と耳男」の他、歴史小説「二流の人」等を
   収録。
『創世記』 岩波文庫
  *旧約聖書で「モーセの六書」とよばれるのは、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」
   「民数記」「申命記」「ヨシュア記」。本書はそのうちの最初の書で第1章の天地創造
   から、第50章のヨセフの死までが記されている。『聖書物語』は読んだのだが、実は
   旧約聖書の原典を読んだのは今回が初めて。印象としては宗教の経典というよりも、
   むしろ日本書紀みたいな「神話っぽい歴史書」という印象。
『連塾 方法日本Ⅲ フラジャイルな闘い』 松岡正剛 春秋社
  *松岡正剛はこれまで多くの著作「“日本”についての思索」を行ってきた。本書はその
   エッセンスを全8回の連続講義の形で披露したイベント「連塾」の講義録。全3巻の最終
   巻にあたる本書には、第7回/第8回を収録。
『宮沢賢治の彼方へ』 天沢退二郎 ちくま学芸文庫
  *詩人であり物語作者でもある著者が、宮沢賢治の創作活動の通低音として響き続ける
   「死」をキーワードに作者および作品について詳細に分析した論考。大きくは3つの
   パートに分かれる。ひとつは『よだかの星』から『グスコーブドリの伝記』までの
   「自己犠牲」についての考察。もうひとつは『風の又三郎』を中心に詩人の創造作用に
   ついて語ったもの。最後は詩集『春と修羅』および長詩『小岩井農場』と、妹の死を
   詠った『無声慟哭』をとりあげて賢治の内面に踏み込んでいく。そしてこれら全てを
   結ぶのが『銀河鉄道の夜』と「最愛の妹とし子の死」というのが著者の意見。
   詩誌「凶区」に掲載された論考なので、著者の詩人としての面が比較的色濃く出たもの
   になっていると思う。
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『百鬼夜行の見える都市』 田中貴子 ちくま学芸文庫

 “百鬼夜行”とは、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』といった初期の説話から後年の『百鬼夜行絵巻』まで、なぜか日本だけに数多くみられる伝承であるという。本書はその“百鬼夜行”の本質とは何か?について探ろうとした、大変に意欲的な論考になっている。
 まず「百鬼」の正体について、従来の研究によくみられたような「怨霊」という観点からでなく、平安京と言う「都市」と不可分な存在であるとする視点が面白い。現代ならさしずめ、表参道から青山にかけての目抜き通りや新宿西口の繁華街あたりに、魑魅魍魎が跋扈(ばっこ)するようなイメージだろうか。
 著者によれば百鬼夜行のイメージが形成されるにあたり、それに関与したと見られる要素は4つあるのだそうで、いずれも実在の(もしくは実在したと当時信じられていた)もの。順に挙げていくと、①疫鬼・疫神/②田楽などの芸能を行う者(プロアマ問わず)/③夜警を務める下級役人(元犯罪者も多い)/④被差別民たち――という事になるらしい。結構いろいろな文献にあたっていて検証内容の信憑性も高く、読めば思わず「なるほどなあ」と納得。
 「百鬼夜行」そのものでなく、それに関連した周辺の話題もしっかり押さえてある。たとえば百鬼夜行が出現することで有名な、京都の一条戻橋について。そこには古くから安倍清明が「式神」を隠したという言い伝えがあり、式神の別称である「職神(しきじん)」がやがて「職人(しきじん→しょくにん)」と変化していき、被差別民の出生伝承になっていったのだとか。またそれまでの百鬼夜行とは全く別の流れで発生した「付喪神(つくもがみ)」系の百鬼夜行を描いた『付喪神記』と、それを基にした絵巻物についても言及。(このあたりは自分が好きな小松和彦氏(*)の研究に依拠しているので、馴染みがありすんなり理解できる。読んでいてもとても愉しかった。)

   *…文化人類学の手法を民族学に取り入れた研究で有名で、著書は『憑霊信仰論』
     『異人論』『悪霊論』など多数。現在は国際日本文化研究センター副所長。

 具体的な内容としては、『付喪神記』に見られる化け物の行進の典拠を、当時の京都で行われた祭礼行列のパロディであると推測。また『百鬼夜行絵巻』の代表作である「真珠庵本」を他の伝承本と比較分析し、本来の百鬼夜行は「器物」の化け物だけでなく動物の化け物なども混じっていたことを証明する。(どうやらその後の絵師たちによって、もっとドラマチックな絵柄になるよう加工されてしまったらしい。そしてその過程で器物の化け物だけに再編集されたのが真相のようだ。)

 『百鬼夜行絵巻』は昔から好きだったのだが、こうしてみると意外と知らない事が多いことに気づく。本書にはそうしたモヤモヤを吹き飛ばすような話が数多く収録されていて、読んでいてまさに「目からウロコが落ちる」という表現がぴったり。解説で京極夏彦氏がされた「むねのすく思い」という表現にも、思わず「そうそう」と。
 先行する研究には敬意を表するとともに、自らの見解もきちんと表明するという、小気味良い書きっぷりも好印象。民俗学系の著作のなかで久々に、これぞ”名著”と呼べるものに出会えたような気がした。学術的な評価のほどはよく知らないけど、少なくとも自分は好きだなあ、こういう本。

<追記>
 ちくま学芸文庫には民俗学系の本が数多く収録されているのだが、その理由が本書を読んでやっとわかった。筑摩書房の編集部には、小松氏が大学の教員をしていた時の教え子が就職しているのだそうだ。どうりで(笑)。

『第二の性』 ボーヴォワール 新潮文庫

 ※今回はかなり長くなってしまい申し訳ない。読む方は全然「お気らく」じゃないかも。

 言わずと知れた、ジェンダー論やフェミニズム論の記念碑的な著作。著者は哲学・思想家であり、サルトルの生涯のパートナー(事実婚らしい)でもあった、シモーヌ・ド・ボーヴォワール。ここのところジェンダー論に興味が湧いてきて、まずは古典的なところからおさらいしようと思い立ったのが、本書を読んだきっかけ。
 ところがいざ読もうとするとなかなか見つからないもの。たまたま入った古本屋でやっと見つけたのが全5巻の本書・新潮文庫版だったというわけ。
 ということでさっそく紹介に移ろうと思うのだが、さてどこから手をつけたらいいものか。本の内容自体にも翻訳のされ方にも話題にはこと欠かない。まずは書誌的な内容から始めてみようか。

 最初にお断りしておきたい事がある。原著がフランスで刊行されたのは1949年。日本ではその僅か4年後に仏文学者の生島遼一氏によって日本語版が出版された。当時のベストセラーになったらしく、自分が読んだのもその生島版なわけだが、実はその生島版に色々といわく因縁があるのだ。
 原著の構成は2部に分かれていて、第1部は「文献篇」として導入部を兼ねながら古今東西の歴史的エピソードや思想、文学といった資料に基づき、様々な女性観が俯瞰される。つづく第2部「体験篇」ではその内容を踏まえ、女性が生まれてから結婚・出産を経て生涯を閉じるまでについての「実存哲学」からみた考察が、第1部よりもさらに詳細になされる。(第2部の冒頭に書かれた「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉はあまりにも有名。)この構成は読者にまず概要を知らしめた上で具体的な分析にうつるという、著者の意図に基づくものとなっているよう。
 ところが日本語版では第2部と第1部の順番が入れ替えられて、第Ⅰ~Ⅲ巻までが第2部、第Ⅳ~Ⅴ巻が第1部という変則的な形に変えられてしまっているのだ。「この方が分かりやすい」という訳者の判断によるもののようだが、実際読んでみたかぎりではどうかと思う。さらには副題も原題どおりではなく訳者が考えたオリジナルに書きかえられてしまっている。当時の出版界ではよくある慣習だったのかもしれないが、原著に勝手に手を入れるというのは今から見るとちょっとどうだかなあという気が。(文章についてもどうやら原著を曲解したり意味を取り違えたりしているところがあるようだし。)

 このあたりについては、やはり色々と物議があったようで、後に“『第二の性』を原文で読み直す会”による改訳版が『決定版 第二の性(上中下)』という題名で出版されている。(こちらも現在では入手困難。)
残念ながら今回はそちらを手に入れることが出来ず旧版で読んだのだが、今から思うともう少し頑張って探しても良かったかも。これから読んでみようという方は気をつけて頂きたい。

 次に本書における著者の基本的なスタンスと時代背景について。簡単にまとめてしまうと、著者の主張はおおよそ次のような感じといえるだろう。

  ■男性が中心の世界で、女性はこれまで不当な差別を受けてきた。
  ■男と女の間には肉体的な相違しかなく、精神的・心理的な能力や特性は全く差はない。
  ■女性が持っているとされる特徴は、社会から後天的に押し付けられたものに過ぎない。
  ■性の違いに関するあらゆる区別(差別)はそれを撤廃すべき。

 歴史的に見ると、女性は今まで受動的であることを要求されてきた。多少は改善されたとはいえ、今の社会においても女性が“実存”すなわち“生きる主体”として、能動的かつ自由に生きたいと願うなら、社会的な役割としての「女性」という立場と自分の思いの間で板挟みになる。それを克服するには何が「真の原因」なのかを探る必要があり、まずは社会的な色眼鏡をすべて取っ払って客観的に眺めてみよう。―― これが本書における著者の考え方。そのため本書では、歴史学/哲学/社会学/生物学などあらゆる角度から、女性の生き方について詳細な分析がなされている。
 著者の主張のうち、社会活動の全てを「男vs女」という単純な鋳型に嵌め込んでしまったり、肉体的な違いを除いては性差というものは存在せず、あらゆるものが後天的に押し付けられた偏見に過ぎないというあたりは、正直いって少し極端過ぎる気がしないでもない。読んでいて最もつらいのは、攻撃的なスタンスでひたすら「男」を断罪する形をとっているところ。今でさえ女性は生きにくい時代だし、まして本書が書かれた時代はその傾向が強かっただろう。従って著者が男という性別に対して厳しめの態度をとるのはやむを得ないが、当事者としては正直いって「もう勘弁して~」というくらい。あまり長時間に亘って読んでいると心がヘタってしまいそうになるほどだ。(特に第2部。)
 ひとりひとりを見ないで「○○人」と一括りで論じることは、決して建設的ではないのでは?と感じた次第。社会差別や国際紛争の原因だって多くはそのような点にあるわけだし。しかし不当な差別を受けてきたという著者の主張は誠に正論であるし、これらの主張がある意味で政治的な色合いを持たざるを得ないのも理解出来る。何故、社会のルールがこんな風になってしまっているのかに関しても、以前から疑問に思っていたところなので、今回はいい機会としてじっくり考えてみた。

 まず原理原則としては、以下のような事なのではないかと。
 maleとfemaleの違いには、3つのレベルが存在すると思う。まずひとつ目は遺伝子的な相違。ふたつ目は遺伝子の働きにより作られた器官によってホルモンが分泌され、それによって出来あがる身体的・外観的な相違。そして三つ目が性差による文化や社会的役割に関する相違だ。ひとつ目とふたつ目については(成長の際に何らかの障碍が発生しない限りは)ひとまとめで考えて良いと思うので、ここでは話を簡単にするために「生物学的な違い」として括ることにする。
 最初の生物学的な特性の違い、たとえば体型や脳の構造(例えば女性は脳梁が男性に比べて太いことなど)、もしくはホルモンによる生理的な面に焦点をあてた区分けを、仮に「雄性」「雌性」と呼ぶことにしよう。また勇敢さ/決断力/論理的/能動的…といったいわゆる“男らしさ”を象徴する特性と、優しさ/気配り/情緒豊か/受動的…といったいわゆる“女性らしさ”を象徴する特性の区分けについて、これを「オトコ性」「オンナ性」と呼ぶことにする。一般的には「オトコ性」「オンナ性」は生物学的な「雄性」「雌性」に付随する特性として一緒くたにされていると思うが、ここでは文化的な特性として区別しておく。
 こうしてみると、生物学的な「雄性」「雌性」と文化的な「オトコ性」「オンナ性」を前提として成り立っている社会的な役割分担などの全てを総合した区分が、いわゆる普通に使われる意味での「男性」「女性」と言えるのではなかろうか。こうして整理することで、本書が発表された当時のバイアスもはっきりするのではないかと思う。

 まず「雄性」と「雌性」の違いについて。本書の時代には、性別というものは完全に二つに分かれるものと考えられていたが、現在ではグラデーションのように様々な中間段階があることや、脳の性別と身体の性別に食い違いがあるケースがあることも明らかになってきている。(そしてどちらかの区分に無理やり押し込めようとすることが、一部の人々への差別を生む原因になっていたということも…。) つまり生物学的な意味においての“性差”については、境界が揺らいでいるというわけだ。
 また先ほども書いたように、著者は「オンナ性」とは男系社会によって一方的に押し付けられた偏見であり、生物的な特質とは全く無関係な特質だとしている。しかし本当にそうなのだろうか?
 その後の研究やアフォーダンス理論などの進展により、精神は身体と地続きであってデカルト的な“心身二元論”は成り立たない、という考えが現在では主流を占めていると思う。もしそうなら、(どこで線を引くかは別にして、)「雌性を持つが故のオンナ性」という話も充分にあり得る話となる。本書のように性差の全てを否定的に論じるのでなく、もっと肯定的に捉えるところもあってしかるべきではないか?という気はする。
 また「文化とは何か?」ということを考えてみると、それは「人がこの世に生を受けてから後天的に学んでいく生活体験の全て」であるといえるだろう。であれば、その核となる部分には個人が自らの“生”を形作るための価値観/世界観が存在し、それらの多くは「どこの地の、どこの社会の、どこの家庭に」生まれ育ったかによって規定されるはず。こうして培われてきたひとりひとりの価値観が集まって、社会の共通認識となったときに、それを称して「文化」と呼べるのだと思う。(以上は文化人類学者の片倉もとこ氏からの受け売りだが。/笑)
 「文化」が後天的なものであるとすれば、その反対は生得的なものとなる。すなわち遺伝的/生物的に規定されているものと言えるだろう。代表的なものとしては生き物の種類や性差がそうだ。
 もしも生物的な違いを前提にして、その上に文化的な「差別」が付け加えられとしたらどうだろう。言葉や社会による違いは明らかな「文化」として区別がつけやすいが、性差などの生物的特徴に起因する差別は生得的な特質によるのか後天的なものなのか区別がつけにくいはず。これが問題をややこしくしている最も大きな原因といえる。生得的な特徴であるのか文化的な特徴であるのかを、よく見極めた上で議論していかないと判断を誤ることになる。

 おそらく最初は、腕力だとか身長差だとかの身体能力的な差や、妊娠および授乳期間中に外敵から守ってもらう必要性から、男女の役割分担が徐々に決まっていったのだろうと思う。けれど数千年はおろか数万年の長期に亘りその状態が続けられた結果、社会通念や伝統、もしくは宗教的な教えとして文化的な性差が定着してしまったのが現在の状態といえる。
 極論してしまえば性による差別問題の萌芽は、「哺乳類」という生物種が生まれた時まで遡ると言えるのではなかろうか。片方の性が子供を自らの胎内で育てるという進化を選んだ瞬間、全ての原因の種が播かれたとも言えるわけで、問題の根はおそろしく深い。
 思春期を迎えて自分の意にそぐわない身体変化や生理現象が始まった時、それを克服するために若い女性たちが選びとってきたのは、「生物としての自分を拒否する」(もしも失敗すれば精神疾患に至る)という戦略と、自然との一体感を目指して「肉体的変化の全てを受け入れる」という戦略のどちらかであったと著者は述べる。思春期の女性に特有の同性愛的な傾向や特定の異性の偶像化という現象も、「拒否か受容か」という究極の選択からの一時避難として解釈できるのだそうだ。(*)
 とすると、性差別の解消もそれらの生理的な面を無視しては語れないものであるはずで、その意味からも無理やり全てを後天的なものと断じてしまうのは危険な気がするのだが。

   *…このあたりの内容は全て第2部(Ⅰ~Ⅲ巻)の「体験篇」で詳しく論じられる。

 もう少し中身についての感想を。
 個人的には第Ⅲ巻の第3章「恋愛する女」が一番面白かった。著者が考えるに「女性の恋愛観」とは、男性中心の世界観で培われてきたものであるため、男に全面的に自分を投影することで自己実現を図る形になっているのだとか。(ほんとかなあ?)でもこのあたりの理屈は、一部の女性によるいわゆる「スーツ萌え」にも通じるものがあるのかも。(笑)
 ボーヴォワールによれば、女は男に自分を投影することで自己実現を図るため、相手の男を完全に所有することを望み、そうでなければ完全な満足を得られない。しかしその男に対しては、自分に全てを捧げないことを同時に要求するのだそう。彼女にとって対象は常に完璧な存在でなければ、自らを投影する価値はなくなってしまうのだ。従って、もしも彼が彼女の足元で無防備な姿をさらし安閑としてしまえば、彼女にとって彼は軽蔑の対象でしかない。またそれと同じ理由で、女は無防備に眠っている男の姿を憎むのだとか。しかも恐ろしいことに、女性はこれらの要求が矛盾するものであることを、充分に承知しているのだそうだ。(なんだか女性不信に陥りそう。/笑)

 以上で「体験篇」はおわり、続く第Ⅳ巻からは(本当は第1部の)「文献篇」が始まる。ここでは女性を①生物学の立場/②精神分析の立場/③唯物史観の立場という3つの観点から論じていて、いずれの立場も女性を把握するには不充分だとして④実存的な立場からの把握が必要であると主張している。尤も①については最新の知見ではないためちょっと欲求不満。(**)
 同様に②におけるフロイトへの批判や③におけるエンゲルスへの批判も、今の目からすると少し喰い足りない気がして残念。(ま、仕方ないが。このあたりは古典的な著作として割り切って考えるしかないだろう。)

  **…例えば著者は生物に性別が存在することの理由について「どんな利点があってそう
     なっているのか理由は不明」と述べているが、現在では「遺伝情報のシャッフルに
     よりウイルスや環境変化による雑滅リスクを下げられるため」と考えられている。

 特に気になったところについてだけは、以下に書き出しておく。
 著者は「①生物学の立場」を論じるにあたり、身体のサイズや筋力、生殖にまつわる諸々の身体的特性と、社会・心理的な特性をごっちゃにしてしまっている上、性差を男と女の2つにあまりに単純化し過ぎていると思う。あらゆる性差の原因を文化的な因子に求める立場からすればもっともな話ではあるのだが、それらを無理やり一括りにしたことで、著者により単純化された「モデル」が、あたかも「実体」のふりをして独り歩きしてしまっている気が。(maleとfemaleの違いのところでも書いたように、生物学的な“男性/雄”と“女性/雌”の間は厳密に分かれている訳ではなく、様々な層や中間的な段階、それに個人差なども存在するわけで。)
 いっそのことどうせ独り歩きさせるならば、人が目指すべき理想の類型として性別とは無関係な特質にモデル化すれば良いのにと思う。
 次に「③唯物史観の立場」について。本書では主にヨーロッパを中心に、古代から近代に至る歴史を考察している。そのやり方は、かつてマルクスが『資本論』において人類の歴史を「資本家と労働者の階級闘争の歴史」として捉え直したように、女性がいかに男性中心の社会において弊害・抑圧されてきたかという、いわば“迫害史観”として捉え直そうとするものだ。しかし中世以降はともかく、文献類が一切残されていない古代社会まで一緒くたにして、一律の視点で決めつけてしまうのはちょっとやり過ぎの感じがしないでもない。
 
 最後の第Ⅴ巻では、男文学作品における女性の扱い方をとりあげて、男性による女性観の類型として分析する。取り上げられる作家はモンテルラン/D・H・ローレンス/クローデル/ブルトン/スタンダールという、5人のフランス人男性作家。(このパートもすこぶる面白い。)順に概要をまとめると次のような感じだ。
 まずモンテルランは典型的な女性蔑視。男を絶対的な存在として位置付け、女はそれに従属するものと考える。つづくローレンスも多少マシではあるものの、やはりある種の男性中心主義。女を男の対極に存在するものと位置づけてはいるが、男に対して自発的な従属を求めている。クローデルはちょっと違っていて、キリスト教な保守思想と言う感じ。女性を“必要悪” として捉えているが神の前に男女は平等であり、互いが自らを犠牲にしあう事で宗教的な自己実現を主張する。次のシュールリアリスム詩人・ブルトンは完全なる女性中心主義。神秘の存在として女を理想・神格化し、男を導く存在として賛美。最後のスタンダールの考えは著者に最も近いようだ。女は本来、男と全く同じ能力をもつが、チャンスを与えられていないために男より劣ったものと位置づけられているとの立場。

 以上、何だかんだと文句を書き連ねてはきたが、全体を通してみるとそれなりに読後の満足感はあった。記述がくどかったり、強く糾弾するような書きぶりに辟易するところが無きにしも非ずだが。(文章のくどい部分を削って半分くらいの量にすれば、もっとしまったものになったんじゃないかという気も^^;)
 なにぶんフェミニズム運動については色々と議論がなされるところではあり、本書の内容についても多々意見があるのは承知の上。しかし自分は「一方の性(=男)であること」、すなわち当事者であることから逃れる事は出来ない。また今まで生まれ育った過程で培われてきた価値観を土台にすることでしか、物事を考えられない事も充分に承知している。だからこそ却って、違うものの見方を敢えて自分にぶつけることで広い視野を得たい、という気持ちが強い。
 そう考えると、本書が自分に満足を与えてくれる理由がぼんやりと見えてくる。それはおそらく視座を相対化できるという点なのだろう。凝り固まった常識に揺さぶりを掛けて、男という自分を相対化して考える。本書を読んだことは、そのとてもいい訓練になったと思う。

 蛇足になるが、本書を読んで思いついたことを。
 「論理的に考える」ということは、ある意味対象をモデル化/単純化することに他ならない。何事もついついモデル化して考える癖があり、「世界を“あるがまま”に愛でる」というのが苦手な自分にとって、「神は細部に宿る」という言葉は心にとどめておきたい言葉。もちろんそれがすべてではないし、論理や構造をつい求めがちな自分もいるのだ―― という事は認めた上での話だが。現実世界にある問題の答えは「論理か現実か」「イチかゼロか」という二者択一にはない。求める道は天にも地にもなく、その間にこそあるような気がする。

 少し判り難かったかな? また別の書き方をしてみる。
 世界を動かす論理には2つの極があるのではないかと思っている。片側の極にはひとつの価値観へと収斂させようとする「暴力」(***)があり、そして反対の極にはあらゆる異なった価値感を共存させようとする「相互承認」がある。男と女もしくは同性愛・性同一障害などを巡る一連の性差別や、黒人やヒスパニックなどの人種問題、アイヌや琉球、チベットといった民族問題や社会的なマイノリティの問題など、あらゆる問題はこのふたつの極の間にあるのではないか。そしてこれらの事柄が「深刻さの違い」というグラデーションを描きながら、地域ごとパッチワークのように散りばめられているのが、現在の国際社会であり日本の社会ではないだろうか。
 見ようとしなければ決して見えてこないこれらの問題に対し、本書は俯瞰する視点を与えてくれたように感じる。もうしばらくジェンダーの辺りをうろうろして見るのも面白いかもしれないな。

 ***…暴力というものは本質的に「(己に敵するものに対する)絶対的な否定/邪悪」
     と、「(己が庇護するものに対する)圧倒的な権力/聖性」という二面性を持つ
     といえるだろう。

『時間はだれも待ってくれない』 高野史緒/編 東京創元社

※今回もマニアックな趣味の本です。

 サブタイトルに「21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集」とあるように、現代における“東欧”諸国のSFおよび幻想系の作品を集めた作品集。編者は作家の高野史緒氏。先行した企画として1980年に本書と同じ東京創元社から出された『東欧SF傑作集(上下)』(深見弾/編)があるが、例えばバルト3国からの訳出など様々な事情で当時は出来なかった取り組みが実現していて、アンソロジーとして大変に優れたものになっている。ちなみに収録作品の国または地域は次のとおり。――オーストリア/ルーマニア/ベラルーシ/チェコ/スロヴァキア/ポーランド/旧東ドイツ/ハンガリー/ラトヴィア/セルビア。

 沼野充義氏の解説にも書かれているように、かつては“東欧”という言葉は西欧諸国とソ連との間に挟まれた「衛星国」という意味合いが強かった。しかし社会主義体制が崩壊した今では、その定義自体も曖昧なものになってきている。大雑把に言えば、地理的にはヨーロッパ地域の中央に位置し、ロシアのような本当の“東”よりむしろ「中欧」と呼ぶにふさわしい。西とも東とも違う独自の文化圏を形成しており、昔から独特の魅力をもった小説を輩出してきたエリアといえるだろう。(日本近隣でいえば、東南アジア諸国に感じられる一種独特な共通性などと同じか。)またチェルノブイリ原発事故や内戦など、激動の時代を経て多くの辛酸をなめてきた地域でもあるため、作家たちの社会的問題に関する意識は極めて高い。
 詳しいことは編者による序文およびあとがきや先述の解説に語り尽くされており、これ以上の屋上屋を重ねるような文を書いても仕方ないのでやめておくが、まさに今の日本でこそ読まれるべき作品集といえるのではないだろうか。満を持して編まれたアンソロジーだけあって収録作はどれも粒より。本書を「テーマアンソロジー」ではなく普通の作品集として見ても、極めてもレベルが高い出来と思う。
 スタニスワフ・レムの作品を想像してもらえば分かると思うが、東欧ではSFとファンタジーまたは幻想小説の垣根がはっきりしていない。そのため本書に「エンタテイメントとしてのSF」や「狭義のSF」を求める向きには不満もあろうかと思う。(値段も結構するし。)でも少なくとも自分は読んで良かったと思える作品集だった。 この企画を実現してくれた高野史緒氏と東京創元社には心からお礼を申し上げたい。

<追記>
 収録作はどれも優れており優劣つけがたいのだが、あえて個人的な好みも踏まえて選ぶとすれば、モンマース「ヘーバムス・パーパム(新教皇万歳)」/フランツ「私と犬」/ストゥドニャレク「時間はだれも待ってくれない」/シュタインミュラー「労働者階級の手にあるインターネット」あたりかな。

『法然の編集力』 松岡正剛 NHK出版

 今年は法然上人の八百回忌、親鸞上人の七百五十回忌にあたる記念の年ということらしく、様々な記念行事が行われたようだ。(震災の影響で中止になったものも多いようだが。)本書もその一環で出されたのだろうか? 自分の好きな松岡正剛が、今度は浄土宗の始祖・法然について書いたという情報を仕入れ、発売日に早速買って読んでみた。
 本書は全体で3部構成になっている。第1部では著者による法然思想の詳細な説明がなされ、第2部は京都・知恩院に伝わる『法然上人行状絵巻』を抜粋して法然の生涯を解説。つづく第3部では今日の法然再評価の先駆けとなった論考の著者である、宗教学者・町田宗鳳氏との対談が収録されている。

 本書で松岡氏も書いているように、鎌倉時代というのは日本の仏教史においてひとつのターニングポイントといえるだろう。道元(曹洞宗)や日蓮(日蓮宗)、親鸞(浄土真宗)といった新仏教の開祖が活躍した時代。思想的に言えば、天台宗や真言宗といった「悟り」を目的とした学問仏教から、衆生の「救い」を目的とした実践仏教へと大きく変貌を遂げた時代と言えるだろう。そんな視点に立って考えると、今まで地味な存在だった法然と言う人物が、実は彼ら鎌倉新仏教の指導者たちの先鞭をつけた“パラダイムの変革者”として、俄然クローズアップされてくることに。
 それでは具体的に法然の何がそんなにすごかったのか? 本書によれば「称名念仏」とその発展形である「専修念仏」、つまり“南無阿弥陀仏”の六文字をひたすら声に出して唱えることで救われる――というのが画期的なところなのだ。それまでの仏教においては、悟りを開くための技術として仏を「観想(頭の中にイメージ)」することが専ら。チベット密教では人が死ぬ(すなわち“往生する”)前に、死の苦痛から救うために施すべき内容がマニュアル化されているが(*)、そこでも基本は全て頭の中に仏をイメージすることが中心。いずれの場合でも声に出して仏の名を唱える「称名」というのは、あくまで補助的な手段でしかなかった。
 そんな“補助的手段”を逆にメインにすえて「ただひたすら実践(称名)あるのみ」という、それまでの価値観を180度転換する荒業を行ったのが法然なのだ。

   *…『チベットの死者の書』という題名で訳されているので、興味ある人はどうぞ。

 本書で面白いのは法然がこの画期的な考えに至った理由について、彼が大変な読書家だったからだと推測している点。とてつもない量の経典を読む修行を通じて、法然には(著者が言うところの)「編集力」が養われていった。そしてその事により「専修念仏」という衆生救済のためのエッセンスを、数多くのテクスト(経典)の中から的確に拾い出してくることが出来たのだと。(このあたりの斬新な読み方は、まさに編集者・松岡正剛の面目躍如といったところだろう。)

 得度して正式に仏門に入ったいわば「仏教のプロ」が、修行によって悟りを開く(すなわち静まった心で善を積む)のを「定善(じょうぜん)」という。また“武者(むさ)の世”すなわち乱世に生きる民衆が、日々の生活に追われて修行も出来ず、乱れた心のままでそれでも懸命に善を積むのを「散善(さんぜん)」という。
 同じ“武者の世”に生まれたものとして自らを「乱想の凡夫」と呼ぶ法然。彼は明日をも知れぬ社会で修行を積むことも出来ぬ民衆が救われる道をひたすら探し続けた。そして読破した膨大な経典の中から、卓抜な編集力によって「散善」の重要性を掴み取り、“救いの仏教”である浄土宗を創始した。「南無阿弥陀仏」を一心に唱えることで、阿弥陀如来の絶対的なご加護(他力)によって「報土」に生まれることができる――すなわち「他力本願」の思想はまさにこの瞬間から始まったのだ。
 本書で面白い点は他にもある。例えば法然の情報編集力を「ブラウザ」「リンク」「カーソル」といった、コンピューター用語を用いてアナロジーで説明しようとする点。さすがはセイゴウ、この型破りなところが彼の持ち味。(そして自分が彼のファンになった所以でもある。)

 第3部の町田氏との対談もなかなか刺激的だった。氏によれば日本文化の祖型は「追放と復活」であるとのこと。(**)
 思うに四季に恵まれた風土である日本は、厳しい冬が過ぎて春が来るとまた新たな芽吹きが訪れるわけで、そう考えると確かに日本文化の土台には「生まれ変わって甦る」という意識があるような気も。
 もしかして「辛いことがあっても耐えてやり過ごす」という日本人のしぶとさの源も、案外そのあたりにあるのかも知れない。他には「新たな“希望”は中央ではなく常にマージナル(周縁的)なところからやってくる」という指摘も、我が敬愛する文化人類学者・山口昌男氏と重なる部分があって、何だか共感を覚える。

  **…ちなみにアメリカの祖型はピューリタニズム(新大陸で宗教的なユートピアを作る
     という意思と行動)。中国は覇権主義と一元主義であり、西ヨーロッパ文化の祖型
     はローマカトリックとのこと。これらの祖型は地域に独自のものであり、たとえ
     政治体制が変わろうが一貫して変わらぬものなのだとか。

 対談の話題はあちこちにとんで、中にはこんな話も。
 浄土宗および浄土真宗はどちらも阿弥陀一仏のみを絶対的に信仰するため、ユダヤ教やキリスト教など一神教との類似が指摘されるほか、既存の宗派から糾弾されてきたのだそう。後に一向宗など政治的な力を発揮する集団が現れたように、専修念仏による浄土信仰はファンダメンタリズム(原理主義)的な部分を本質的に持っているといえる。「東西を問わず、一神教には権力闘争に変容していく歴史的必然性がある」というのは町田氏による弁。
 うーん、そう言われてみれば、キリスト教でも「絶対的な神の前では万人みな平等」といいつつ、神を頂点とした宗教的なヒエラルキーが厳然と存在するしなあ。(少しでも神に近い人が偉いというルール。)
 逆に地上的な権力に対しては、極端な否定に走りやすくなり、そのため革命や闘争に結びつきがちなのかも。第1部/第2部が結構充実していたので、第3部はボーナストラック程度に考えていたのだが(失礼!)、意外や意外と刺激的な話が多くてとっても得した気分。

 昔に比べると最近のセイゴウの本はとても読み易いので、仏教思想全般に興味がある人なら読んで損はしないと思う。密教との違いなど考えてみるのも面白いヨ。好著。

『フジモリ式建築入門』 藤森照信 ちくまプリマー新書

 『建築探偵シリーズ』や『明治の東京計画』などで有名な藤森照信氏の新刊。ちくまの「プリマー」といえば高校生向けの「ちくまプリマーブックス」を連想してしまうが、2005年にリニューアルして大人でも気楽に読める“知的入門書”というコンセプトで仕切り直したそうな。中身が原稿用紙150枚とお手軽なので、活字好きにはちと物足りない感が無きにしもあらず。しかしその分字も大きいので、最近近くのものが見にくくなってきた身としては有難かったり。(笑)
氏の元々の専門は「看板建築」など建築史なので、本書もてっきり建築様式についての本かと思いきや、読んでみたら全然違っていた。「(建築)様式」ではなく「(建築)そのもの」について語ったもので、19世紀末(=いわゆる前近代の手前)までの建築物の歴史をたどり、建築という概念について考察している。(*)

   *…自分で勝手に誤解していて言うのもなんだが、思うに日本における「建築家」と
     いう言葉の濫用が良くないな。英語ではアーキテクトとビルディングで区別が
     あるようだが、今の日本ではそのあたりが混在しているように思える。
     昔は「普請」という言い方で区別出来ていたような気もするが、今では使われて
     いないしなあ。
     「建築家」という言葉を個人の住居を設計する人にまで用いてしまっているから、
     てっきり本書もそちら系の「建築探偵(理論版)」みたいなものと勘違いして
     買ってしまったというわけ。
     

 本書で面白かったのは、建築というものが“神(神殿)”もしくは“人間(住居)”のどちらかの為のものだというくだり。今までそんな風に建築を考えたことなかった。しかしこのあたりの理屈を説明する為に、わざわざ“人類の曙”の時代まで遡って解き明かしていく破天荒さが、いわゆるフジモリ式というものか。

 それではここからはざっくりと中身を紹介。
 著者は建築物を「内部空間」と「概観」に分けて考え、前者「内部空間」のルーツはラスコーやアルタミラに見られるような洞窟壁画による「異空間」であるとし、同様に後者「概観」のルーツを(地母神信仰から発展した)太陽神信仰の象徴である屹立する柱に求めている。(諏訪の御柱祭のようなものかな?)
 また建築材料についての考察もなされている。ギリシアのように人が住まない神殿であれば、断熱性のない石で造られていても問題ないが、実際に人が寝起きする「住居」としての建築には木材は不可欠。しかし木材の加工は思ったより大変だそうで、まるで獣の巣のような外観が住居らしい体裁に変わったのは、新石器時代の摩耗石器による技術革命によるものらしい。(なにしろご本人が木材の伐採から加工までの工程で、打製石器と摩耗石器をそれぞれ実際に試してみたのだから間違いだろう。)
 先ほども書いたように、西洋ではギリシアの時代から「アーキテクチャー(神殿のように記念碑的な“建築物”)」と「ビルディング(住居など実用的な“建物”)」を区別していたが、日本でその区別が意識されるようになったのはようやく明治になってから。(最初の日本人建築家である伊藤忠太による命名なのだとか。)逆にいえば、日本では建物に人の意識がいくことはあまりなかったといえるのかな?それまで「建築家」なんて職業はなく、大工の棟梁(職人)の世界だったわけだし。
 ついでにいうと絵や彫刻や建築や自然景観など、あらゆるものに共通する普遍的な「美」という概念も、明治期に伝わってきたものだそう。東大の建築家教授として招聘されたジョサイア・コンドルに「建築の本質は実用ではなく美である」なんて言われても、生徒であった辰野金吾たちはさぞや戸惑ったことだろう。(笑)

 ちなみに住居としての建築すなわち“民家”が建築論の対象として論じられるようになったのは、19世紀も半ばを過ぎてから。(日本ではさらに20世紀まで下って、今和次郎により論じられたのが最初。)従って「建築史」と呼ばれるものは、その殆どが神殿や公共の建築物のみを対象とするのだという。本書でも神殿や公共建築の話がずっと続いて「もしかしてこれで終わるのかな?」と心配になったが、そこらへんは抜かりなく(笑)、キチンと別章を立てて論じてくれていた。(**)

  **…世界中に数えきれない種類があるので、本書では日本だけを例にとりあげている。
     大きくは竪穴式⇒高床式⇒茅葺き屋根、それに寝殿造⇒書院造/茶室⇒数寄屋造
     という流れのよう。

 明治期以降について語りだすと大変なボリュームになり、入門の範疇を超えてしまうため、本書はとりあえずここまでで終了。最初は内容を勘違いして読み始めたのだが、読んでみると大掴みで全体像を理解できるお手軽な建築入門としてなかなか好かった。気楽によめる”知的入門書”としてはぴったりといえる。

『吸血鬼と精神分析』 笠井潔 光文社

 本格推理と現代思想の融合という、ミステリ史上稀有な取り組みが大好きな『矢吹駆シリーズ』久々の新刊。本書では“フロイト回帰派”であるジャック・ラカンの思想が取り上げられる。それに対するは記号論学者ジュリア・クリステヴァ(*)による女性原理の思想。女性原理の復権によって、ユダヤ・キリスト教的な父性&象徴の原理からの離脱をはかろうというのが本書の主題といえる。
 物語としては2002年に出た『オイディプス症候群』の直接の続き。前作で離島での連続殺人事件に巻き込まれたナディアの心理治療をきっかけとして、パリを「アンドロギュヌス殺人事件」以来1年ぶりの恐怖に突き落とした「吸血鬼殺人事件」が展開する。奇数章では事件を追うモガール警視とバルベス警部の活躍を描いてミステリとしての骨格部分を受け持ち、偶数章はナディアと矢吹駆による思弁(=笠井潔風に言うなら「観念」)がいいアクセントになるとともに、“教養小説”としての本シリーズを支えている。

   *…たぶんクリステヴァだと思うのだが、何しろ法政大学出版局の本はどれも高くて
     読んでないので、もしかして違っているんじゃないか?という一抹の不安はある。
     「アブジェクシオン(おぞましきもの)」という、彼女に特徴的なキーワードが
     出てくるから間違いはないと思うんだが…。(^^;)

 ネタバレになるので内容は書かないが、ラストの約20ページを読んだ時の衝撃は、ミステリでは久しぶりに味わったもの。つい先だって、初めてディクスン・カーの『火刑法廷』を読んだ時の驚きにも匹敵するといえば、ミステリ好きな人には何となく想像がつくかな。いかにも自分好みな話だった。(笑)
 ドッペルゲンガーの認知を巡る、回りくどくて理屈っぽい議論が続くシーンがあり、某作を思い出してちょっと心配しかけたが、最終的にはナディアによって茶化される形でうまく決着。この調子ならまだまだ次回作(雑誌掲載時の題名は『煉獄の時』とのこと)も、安心して追いかけていけそう。

<追記>
 フロイトはともかくとして、難解で知られるJ・ラカン(本書にはシャブロルという名前で登場)については殆ど無知なので、本書に書かれた内容のどこまでが事実で、どこから作者の創作なのかは自分には分からない。しかし、もしも本書に書かれているエピソードが事実だとすれば、ラカン学派の組織運営や軋轢はなかなか大変そうだ。まるで落語家の立川談志の一門の内幕を見ているようで面白かった。落語協会脱退の顛末や家元制の導入など、(これも先日読んだ)立川談春によるエッセイ『赤めだか』を読んだ時の記憶が鮮明に甦ってきた。(笑)

『宇宙のダークエネルギー』 土居守/松原隆彦 光文社新書

 現代天文学の最大の関心事のひとつである「ダークエネルギー」について(*)、それが注目を集めている理由や現状の研究成果などを分かりやすくまとめたもの。最近はなぜかこの手の科学本がブームのようで、一昔前ならたまにブルーバックスから出るのを待つしかなかったテーマが、普通の新書でどしどし出るようになったので嬉しい。(もちろんその分だけ小遣いは減るわけだが。/笑)
 本書を愉しむには少しばかり現代天文学についての基礎知識が必要。本書の中身について触れる前に、まずそのあたりについてまとめてみよう。

   *…2011年のノーベル物理学賞は、ダークエネルギー(による加速膨張)を発見した
     2人の研究者が受賞した。

 まず宇宙を構成する要素について。大きく分けるとそれは3つあり、ひとつめは「バリオン」とよばれるグループ。これはいわゆる通常の「物質」のことで、原子を構成する陽子や中性子や電子はもちろん、その元になるクォークやニュートリノまで全てが含まれる。なおこれらの粒子が「物質に関係がある」ということは、つまり「重力に関係(相互作用)がある」ということでもある。
 宇宙望遠鏡にもその名を残す天文学者ハッブルが、宇宙が現在でも膨張し続けている証拠となる「赤方偏移」を発見したのは、今からおよそ80年ほど前のこと。それはすなわち宇宙に「始まり(=ビッグバン)」があるという事の発見でもあった。始まりがあるということは終わりがあるということでもある。その時から天文学者たちの関心事は、はたして宇宙は広がり続けて拡散してしまうのか、それとも徐々に勢いが弱くなりどこかで逆に収縮を始め、いつかは「元のひと固まり」に戻ってしまう(=ビッグクランチ)のか?という点に向けられることになった。
 それを解くカギは、この宇宙に存在する物質の量がどれ程あるかにかかっている。もしも物質(≒質量)が充分に多ければ、重力の影響で互いに引きつけ合うため膨張は止まり収縮に転ずるし、少ないとそのまま広がり続けることになる。
 そこで遠くの銀河団の観測や“重力レンズ”による遠くの天体の観測を通じて、宇宙の総質量を推定する試みがなされたが、その結果得られたデータは実に驚くべきもの。宇宙には観測できるあらゆる物質以外に、光や電磁波による観測では一切捉えることが出来ない莫大な量の「質量」が存在するという結論だった。観測することは出来ないのに重力によって宇宙の成り立ちに影響を与える謎の存在。それを天文学者は「ダークマター」と名付けたというわけ。(以上が前段の話。続いていよいよ本書のテーマである「ダークエネルギー」に移る。)

 宇宙が膨張するスピード(加速度)の測定精度は、近年になり観測技術の進歩に伴って飛躍的に向上した。そしてその結果、宇宙の膨張加速度は過去から徐々に小さくなるどころか、逆に大きくなっていることが分かってきた。これはつまり「宇宙の終わりは収縮ではなく拡散」というシナリオが確定したということでもある。
 重力は引き合う方向にしか働かないので、本来であれば加速度は徐々に減少していかなくてはならないはず。もしも観測結果が正しいとすれば、「バリオン」と「ダークマター」による引力の影響を打ち消して加速を続けるだけの「斥力」がなければおかしい。そこで彼らはその斥力の源を仮に「ダークエネルギー」と名付けたというわけだ。(**)

  **…ちなみにこの「ダークエネルギー」と言う名前は1999年ごろから使われ出した。
     それまでは一般相対性理論のアインシュタイン方程式において「宇宙項」と呼ばれ
     ていたものに等しい。(といえば科学好きの人にはピンとくるかな?)

 本書を愉しむ上での前置きのつもりが、予想外に長くなってしまった。それではここからは本書の内容について。
 本書は2部構成になっていて、第1部は本書の論点を理解する為の予備的な物理学の知識と、ダークエネルギーを巡る理論的側面について説明を、そして続く第2部ではダークエネルギー理論を構築・検証する土台となる、観測方法の紹介や今後の見通しについて述べられている。
 現在判明しているデータによれば、先ほどのバリオン/ダークマター/ダークエネルギーが宇宙全体のエネルギー成分に占める割合は、バリオン=4%、ダークマター=23%に対してダークエネルギーは何と73%にも上るとのこと。しかも現在の観測結果をきちんと説明しようとすれば、このエネルギーは ――あらゆる宇宙空間にあまねく存在する上、体積当たりのエネルギーは常に一定である―― という極めて奇妙な性質を持たなくてはいけない。もしもこれが本当だとすれば、今までの物理体系は根底から覆る可能性すらある。こんな常識外れの性質を持つ存在に対して、シカゴ大のマイケル・ターナーという研究者がつけた仮の名前が広まったのが今の状況というわけ。(***)

 ***…例えばこんな喩え話はどうだろうか。あるとき羊飼いが羊を放牧していると、
     見たこともない恐ろしい生き物が羊を襲ったとする。最初はただ恐ろしいだけの
     存在だったが、やがて「大きな牙」「するどいツメ」「立派なたてがみ」もった
     その生き物に“ライオン”という名前がつけられると、それは謎ではなく単なる
     一匹の猛獣として認知されることとなる。しかし名前がついたからといって、
     “ライオン”がどのような生き物なのか生態が分かっている訳でもないし、
     ましてや「なぜライオンという生き物が存在するのか?」という疑問が解ける訳
     でもない。
 
 現在“ダークエネルギー”という名前で呼ばれているものは、ある種の猛獣に付けられた“ライオン”という名前に相当するようなものだと思えばいい。観測精度が向上した結果“不可解”な事象が発見された。そしてそれを説明するためには、従来の物理学の常識から大きくかけ離れた存在が想定されなければならない。それを仮に「ダークエネルギー」と呼んでいるだけであって、どんなものなのか皆目見当がついていないのが今の状況なのだ。

 本書の著者2人は、ダークエネルギーを説明するための“理論”と、そのための論拠を提供する“観測”を行っているそれぞれ第一線の研究者たち。彼らは一般向けの本にはあまり縁がなかったようで、初歩的な内容と少し専門的過ぎる内容が入り混じるなどバランスに若干の難はあるが、普通の理科好きなら充分に愉しめると思う。なにしろわざわざ高い専門書を買わずとも、手ごろな値段で天文学の最前線を味わえるのは有難い。願わくばまだしばらく科学書のブームが続いて、この手の本が沢山出版されますように。(笑)

2011年10月の読了本

『怪奇クラブ』 アーサー・マッケン 創元推理文庫
  *19~20世紀初頭にかけて活躍した怪奇作家の作品集。短編の連作集である表題作の他、
   聖杯伝説をモチーフにした短篇「大いなる来復」を収録。表題作は個別の怪談を共通の
   枠でひとつながりにしたもので、ブラッドベリの『刺青の男』や『塵よりよみがえり』
   のような感じ。ただしあんまり上手につながってはいなくて、「入れ子構造」が複雑
   過ぎて、却って分かり難いところも。むしろ原題の直訳の『三人のぺてん師』の方が
   よかったかも知れない。
『自閉っ子、こういう風にできてます!』ニキ・リンコ/藤家寛子 花風社
  *アスペルガー症候群の翻訳家と作家が自らの身体感覚を赤裸々に語った対談集。
『フジモリ式建築入門』 藤森照信 ちくまプリマー新書
  *建築探偵・藤森氏による「建築」についての解説書。人類の黎明期から19世紀までの
   建築を俯瞰。(注:「建築様式」じゃなく「建築そのもの」についての入門書。)
『ソモフの妖怪物語』 O・M・ソモフ 群像社
  *ロシア名作ライブラリーの一冊。スラブ系の国に伝わる魔女や怪物の出てくる民話集。
『時間の種』 ジョン・ウインダム 創元SF文庫
  *著者は『トリフィドの日』で知られるイギリスSF界の重鎮。古き良き時代の短篇集。
『イスラームの日常世界』 片倉もとこ 岩波新書
  *ムスリム(イスラム教徒)たちの日常生活を紹介。日本人にあまり馴染みのない世界が
   とても興味深い。
『世界は分けてもわからない』 福岡伸一 講談社現代新書
  *新進気鋭の分子生物学者による評論風エッセイ。「科学的思考」への疑義がなかなか
   刺激的。
『装飾庭園殺人事件』 ジェフ・ニコルスン 扶桑社ミステリー
  *ちょっと癖ある作家による奇妙な物語。読む前に想像していたものより、もっと悪趣味
   でえげつない話だった。(これは本書に関しては褒め言葉。)物語が二転三転して先が
   見えてこないこの感じは、以前どこかで読んだことが―― そう思ってよく考えたら
   コリン・デクスターの『モース警部シリーズ』に印象が似ているのだった。ミステリと
   しては、そもそもの主題である造園家の死因そのものよりも、それを探る造園家の妻の
   行動の方がよほどミステリアス。ラストにはびっくりする仕掛けもあるので一応は広義
   のミステリの範疇に入るのだろうが、それよりもただ一言「ヘンテコな話」と言う方が
   しっくりする気がする。
『星と伝説』 野尻泡影 中公文庫BIBLIO
  *星座や星にまつわる東西の伝説をつづった天文随筆。著者は昔から星に関する民族学的
   な著作やエッセイで知られる。もしかしたら「星の話はロマンチック」というイメージ
   が今あるのは、この人の力に負うものが大きいのかも? 星座といえばギリシア神話が
   最もすぐ思い浮かぶが、浮気性のゼウスや嫉妬深いヘラを始めとして人間臭い神々に
   よる嫉妬や愛の駆け引きが特徴。となれば、それに因んだ星座の話が面白くないわけが
   ない。(笑)北斗七星やオリオンの三つ星などの和名に関する話題も多くあるので、
   うんちくが好きな方にも最適といえる。
『第二の性Ⅳ/Ⅴ』 ボーヴォワール 新潮文庫
  *“女性”に関する古典的な著作(全5巻)の残り4・5巻目。本来は第1部に相当する部位
   であり、女性に関する歴史や女性観の類型などについて考察。
『リアル・スティール』 リチャード・マシスン ハヤカワ文庫NV
  *未だに現役を続ける大御所SF作家による短篇集。(表題作の映画化に伴い編纂された
   日本オリジナル版)
『宇宙のダークエネルギー』 土居守/松原隆彦 光文社新書
  *宇宙には我々を構成する「物質」以外にも「ダークマター」及び「ダークエネルギー」
   とよばれるモノが存在する。(というか、現在観測されている天文現象は、それらを
   仮定しないと説明がつかない。)
   本書は今最もホットで最もミステリアスな話題である「ダークエネルギー」について、
   最新の研究状況を分かりやすく解説したもの。まだ端緒についたばかりで有望な仮説
   すら出ていない状況なので、決着するまでの道のりは長そうだが、果たして自分が死ぬ
   ころにはこれらの謎は解かれているだろうか?
『吸血鬼と精神分析』 笠井潔 光文社
  *大好きなミステリ『矢吹駆シリーズ』の続篇。2002年の前作『オイディプス症候群』
   からおよそ9年半ぶりの新作で、久しぶりに矢吹駆やナディアと再会して感激。因みに
   このシリーズ、主人公による様々な思想との“対決”が毎回とても愉しみなのだが、
   今回のメインテーマはフロイト&ラカンの「精神分析」。期待を裏切らない出来で、
   長いこと待った甲斐があった。
『ビブリア古書堂の事件手帖2』 三上延 メディアワークス文庫
  *北鎌倉の古書店を舞台にした「日常の謎」系の連作ミステリ。毎回色んな本にまつわる
   “謎”が登場して本好きに嬉しい一冊。
『鷺と雪』 北村薫 文春文庫
  *『街の灯』『玻璃の天』につづく、昭和初期に題材をとった全3巻のミステリ連作
   “ベッキーさん”シリーズの最終巻。(作者は本作で第141回直木賞を受賞。)自分が
   考えるに、本作は謎とき以外にも愉しみ方が4つあるといえるのではないか。思いつく
   まま順に挙げてみると、①主人公でお嬢様の「わたし」こと花村英子とお抱え運転手
   「ベッキーさん」(別宮)の会話の妙/②昭和初期の社会風俗や華族たちの生活の様子
   /③本好きな主人公に因む、当時の色々な本に関する話題/④日本が太平洋戦争へと
   突き進んでいった歴史やベッキーさんが背負った過去の重みといった、3部作を通じて
   徐々に見えてくる「大河ドラマ」のような壮大な“風景”。
   これらにミステリトリックを加えた5つの愉しさが混じり合い、且つどれもがピタッと
   見事に決まってまるで絵物語を見ているよう。北村薫氏の作品を読むたびにいつも思う
   ことだが、この人ホント巧いなあ。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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