公共図書館について考える

 最近は公共図書館に行くこともめっきり無くなってしまったけれど、中学生の頃までは毎週のように出掛けてはごっそりと本を借りていた。(このあたりの話は以前「本を食べる」という題名で記事に書いたことがある。)
 昨今、図書館の是非についてあれこれ取りざたされているようだが、本質的なところがなおざりにされているような議論もあってちょっと残念。自分は“今の自分”があるのは図書館のおかげと思っているし、そんな意味でこれからも絶対に縮小や廃止されて欲しくない公共サービスのひとつ。(大袈裟な事を言えば、読書人口はその国の民度をはかる物差しではないかという気さえしている。)そんなこんなで、一利用者の立場ではあるが、自分なりに図書館の存在意義について考えてみたい。なお、べつだん図書館論の類についてきちんと勉強した訳でもなく、専門の方から見れば的外れな話になるかもしれないが、その点はご勘弁頂きたい。

 ネットなどで議論されている「図書館の功罪」というものを整理してみると、だいたい次のような感じになるのではなかろうか。(調べた訳ではないので抜けや誤解があるかもしれない。その点はあしからず。なお「図書館は地元のコミュニケーションの場である」という別の視点による議論もあるが、ここでは本を読む場としての図書館についてだけ焦点を当てることとする。)

<“功”派>
 □子供らが本に接する機会を増やす。
 □生活費をそれほど本代に回せない人がたくさん本を読める。
 □読書能力の向上は考える力の向上につながりやがては国力を高めることに。
  そのための最も有効な手段は図書館の充実。
<“罪”派>
 ■ただでさえ読書人口が減っているのに、図書館が充実するほど本を買ってまで読もうと
  いう人が減り、本来売れる筈だった本が売れなくなってしまう。
 ■近場の人しか利用できないハコモノを作るのは税金の無駄。

 “功”の意見を突き詰めると「税金で賄っている公共サービスなんだから、ベストセラー本を沢山購入してより多くの人に貸し出せるようにすべし」という主張が出てくることも。また“罪”については、極論すると「ベストセラーはともかくとして、元々小部数しか出版されない作家にとっては死活問題である。公共サービスがそんな事をして良いのか!」という意見もある。

 うーん、それぞれの内容にはたしかに頷ける点も多い。ただこれらを踏まえた上で自分の意見を述べる前に、自分がなぜ今では図書館を利用していないのか?について、まず説明しておきたい。――とはいってもそれ程大層な理由ではない。簡単に言ってしまえば、自分の読書スタイルが変化して、図書館利用の条件に合わなくなってきたのが一番の理由。常時3~5冊程度の本を併読する読書スタイルになったため、「一度にまとめて借りて読み始め、読み終わったら揃って一定期間で返却」というシステムでは上手く回せなくなってしまったのだ。でも実は他にも理由があって、そちらも方が問題としては根深いかも…。
 それは図書館に行っても「まあ読んでもいいけど」という程度の本ばかりが目立ち、「ああ、この本がすごく読みたい」という気持ちになれないこと。内田樹ふうにいえば(笑)、今や図書館の棚は“街場の新刊書店”とよく似た品揃えでしかないのだ。それでは魅力という点で自分の家の本棚に勝てるわけがない。なんせ自宅の方は自分が読みたくて仕方がない本ばかりを集めた「濃縮ジュース」みたいなものなんだから。
 そのためいつの頃からか、面倒な思いをしてわざわざ図書館に行かなくても、新刊書店や古本屋で自分の好きな本を探して好きなタイミングで読む方が良くなってしまったというわけ。

 それではなぜ図書館が自分にとって「そんな品揃え」でしかなくなったのか?それは本というメディアがもつ特別な事情によるものと考える。個々の本がもつ価値というのは、それを受け取る側によって貴重なものにもゴミ同然にもなり得る。従ってある人を満足させる本が、同様に他の人も満足させられるわけでは無いということ。それこそが一般の公共サービスと違って公共図書館が抱えるジレンマの原因ではないだろうか。以下、このあたりの内容について少し掘り下げてみたい。

 図書館の蔵書の中心ジャンルであり、かつ利用者の大半が目的にしているのはやはり文芸書だろう。その棚が新刊ベストセラーをメインにした品揃えであるということは、図書館利用率を引き上げる原動力になる。しかし一方では先ほども述べたように、それが中小の新刊書店の経営を圧迫する原因になっているという声もあるようだ。難しい問題だと思う。
 自分としては、“公共の利用”を原則とする以上は、住民の要望がある限りにおいて大人向けベストセラーの購入を控えるわけにはいかないと思う。しかしだからといって、一部の意見にあるように複数冊いれる必要はないと思っている。幾らリクエストがあってもまさかフランス書院の本を図書館が購入することはないだろう(笑)。いくら「リクエストがあれば」といっても、ある程度は公序良俗を考えた「お上」の基準というものがあるはず。「読ませたくない本」とあからさまにいうのは、“表現の自由”とか色々ややこしい話になるので難しいだろうが、逆に「読ませたい本」や「残したい本」という視点で購入図書の優先度を決めるのは、在り得ない話ではあるまい。だとすればそこに「売れているから」という基準をもってくるのは、選択条件が安直に過ぎると言われても致し方ないのでは。(もっとも新刊本の発行点数は年間5~7万点ほどもあるそうなので、ある程度はやむを得ないとは思うが。)

 ベストセラーは沢山売れるからベストセラーという。(当り前か。/笑)
 本好きの人が年間ベストセラーの本を殆ど読まないという話をときおり聞くが、普段本を読まない人まで買うからベストセラーになるのであって、また普段本を読まない人が買うのは単に「巷で話題になっているから」という理由に過ぎないことが多い。(飲食店に行列ができるのと同じこと。人が並んでいるからきっと美味しいのだろうと、どんどん列が延びていく。)
 かように図書館でベストセラーを借りようという人は、買ってまで読む気が無いという人が大半だろう。図書館はそのような人のために限られた予算を投入して便宜を図らずとも、借りられる順番が来るまで半年でも待ってもらうか、もしくは自腹で新刊書店かまたはブックオフなどの中古書店で買ってもらえばよいのではないかと思う。

 なお、もしかしたら文芸書のヘビーな読者の方で、「いちいち本屋で買っているとお金がもたないから」という人もいるかも知れない。(この文章を読まれている方には意外と多い?)しかしこれはあくまでも一般論であり、そういう方はごく少数だと思うので考慮の対象外。(笑)
 同様にヘビーな文芸読みの方で、「読み終わった本の処分に困るから」という理由で図書館を利用しているケースも考えられる。(こちらは意外と結構多いかも?)自分の場合も、読み終わった本はなるべく古本屋に売って処分するようにしているのだが、愛着がある本(*)はどうしても処分するふんぎりがつかず、図書館を利用しないとどうしても本が溜まる一方になってしまう。しかしまあそのくらいは自分でなんとかしなきゃねえ。

  *…お気に入りの著者である/内容が思いの外よかった/その本の叢書(シリーズ)を
    集めている/装幀がとてもきれい/その本を読んだ時にまつわるエピソードがある
    等々。

 話が発散してきたので、ここらで強引に結論をだして終わりにしたい。(笑)

<自分が公立図書館に望むこと>
 ○子供が本に接する機会を増やすということでは公立図書館は最適な手段なので、絵本や
  児童書は優先して多く揃えるべき。(絵本を買い与えてまで…と考えている親が借りて
  いくことで、子供が本好きに育ってくれれば嬉しい。)
  その意味で、定期的に“子供の本の読み聞かせ会”を開いてもらえると更にに有り難い。
 ○大人向けの文芸書も一応普通に揃えるべき。ただしベストセラーを必要以上に手厚くする
  必要はなくて、発行部数が少ない本と同率で購入すればいい。(行政サービスとして必要
  最低限あればOK)
  むしろ良い本なのに値段が高い(=読みたくても読めない人が多い)本を限られた予算内
  でどれだけ揃えられるかが、図書館司書の選択眼の見せどころ。発行部数が数千部くらい
  のハードカバーこそ、ぜひとも積極的に予算を組んで揃えてもらいたい。それが良心的な
  本を出し続けている中堅どころの出版社や著者への応援になると思う。

 とまあ、とりあえずこんなところ。他の皆さんはどのようなご意見をお持ちなのだろうか?
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『世界は分けてもわからない』 福岡伸一 講談社現代新書

 本書のテーマをひとことで説明するのは正直かなり難しい。視野の拡大/縮小、意識の俯瞰/集中、あるいは世界の統合/分割とでもいえば良いのか…。どのような形で切り取るのがいちばん相応しいだろう?とりあえず本書に倣って、マップラバーとマップヘイターについての話から始めてみようか。

 本書に出てくる「マップラバー(map lover)」とは文字通り地図が大好きな人のこと。対する「マップヘイター(map hater)」とは、はなから地図など頼りにしないタイプの人だ。前者は全体の鳥瞰によって世界における自分の立ち位置を把握したうえで行動する。対する後者は、自分に隣接するものと自分の関係によって、その都度ふるまい方を変えて行動する。(悪く言えば無計画で行き当たりばったりのタイプとも言える。)
 全てを地図のように整理して捉えるのが好きなラバーの方は、普段はとても効率的に物事をこなすことができる。しかし、こと状況が混沌とする事態に陥ってしまうと、もはや手も足も出ない。そんな時に力を発揮するのは、実はヘイターの方。彼らは全体を見ようとしないため、普段はラバーに比べて効率が悪い。しかし刻々と変化する状況の中では、試行錯誤しながら最善の結果に辿りつけるのは、もしかしたらヘイターたちの方なのかも。
 著者は本書を書く際に、わざとマップヘイターのような書き方をしているような感じがする。著者お得意の分子生物学についての話かとおもってページをめくると、冒頭いきなりヴィットーレ・カルパッチョによる2枚の絵画「ラグーンのハンティング」と「コルティジャーネ」の話題からスタートする。かと思いきや、次は食品添加物であるソルビン酸が腐敗を防ぐ化学的メカニズムとそのリスクの話題へと。何かしら著者の意図的なものは感じられるのだが、なんせ話があちこちに飛ぶため、最初のうちはテーマが全くみえてこない。頭にハテナマークを沢山つけたまま読み進み、全体像が徐々に見えてくるのは、やっと半ばを過ぎたあたりからだろうか。
 このように次の展開が全く予想できない構成というのは、(小説ならともかくとして)本書のように評論的な著作としては極めて異例。あえて“文学的”な手法を使っているのだろうか。本書が出版されたのは前著『生物と無生物のあいだ』が評判になった少し後だったと記憶しているが、前著を読んで面白いと思った読者がそのまま本書を読んだとすれば、きっとかなりの戸惑いを感じたに違いない。

 とまあ、以上のように話があちこち錯綜するのを踏まえた上で、あえて本書のテーマをひとことで説明するならば、それは著者が感じているひとつの“懸念”といえるだろう。
 人類はこれまで世界を「科学」という名のもとにバラバラのピース(すなわち”科”)に分割して理解してきた。対象を絞り込んで深く探求することにより、確かに個々のピースの成り立ちについては理解が進んだかも知れない。しかし絞り込みの過程でこぼれ落ちてしまったものがあるのではないか?
 仮に著者の専門分野である分子生物学でいえば、例えば個々のたんぱく質の分子構造を幾ら調べたところで生命活動の本質は理解できず、たんぱく質や細胞同士のシンフォニックな関係性を通じてしか、決して分からないものがある。―― これこそが本書で投げかけられた疑問といえる。著者のそんな“およそ科学者らしからぬ”主張こそが、本書を通じて語られるテーマなのだ。
 思うに福本伸一と言う人物は、おそらく科学者としては極めてナイーブ過ぎる感性を持った人なのだろう。ある種の“文学的”な感覚をもっていると言っても良い。(本書を読む限りでは、本人も自らが科学者として“異端”であることを自覚しているような気がする。)

 「プロフェッショナル」すなわち専門家になるということは、何かを深く掘り下げる力を手に入れるのと引き換えに、それ以外の大きな部分を捨て去ってしまうに等しい。そもそも自然科学という学問分野およびその土台となる科学的思考というのは、キリスト教的な価値観である「神がこの世を造った意図を理解したい」という思いから生まれた。すなわち科学的思考とは、世界を成り立たせているルールを見つける為にもっとも効果的な思考方法と考えてもよい。しかし21世紀に至り世界のあちこちで綻びが出始めている今、西ヨーロッパを発祥とする近代的思考の弊害や限界が見えてきた今、もう一度「全体性」に立ち返って世界全体を見直す必要はないのか?本書には著者のそんな自省が大きく反映されているような気がしてならない。(*)

   *…思えば自分が会社で今の仕事を始めた時に心に決めたのも、
     「自分は“プロフェッショナル”ではなく敢えて“ゼネラリスト”を目指す」
     ということだった。本書を読んでいてそんな事まで思い出した。

 話は変わるが本書には次のような話題も。
 人間は何でもない画像やランダムな視覚パターンの中に、図らずも「顔」を認識してしまうパターン抽出能力というものを持っている。例えば本書で取り上げられているのは、心霊写真やジンメンカメムシ、それに火星表面につい“空目(そらめ)”してしまう謎の人面など。ありとあらゆるものに見出される「顔」の説明を読んでいると、人間がもつ世界の認識なんていい加減なものだというのがよくわかる。また空間的な境界だけでなく時間的な境界線もしかり。「命の始まり(誕生)」あるいは「命の終わり(死)」といった線引きも、個別の細胞単位まで突き詰めれば薄ぼんやりものへと置き換わってしまう。
 著者はこのような話題を通じ、人間による世界の理解というものが、本質的に混沌とした曖昧なものである世界に対し、人為的な線引きを施したに過ぎないのだという事を手際よくあぶり出していく。

 なぜそのようなパターン認識能力が生まれたのかというと、著者によれば大体次のような感じ。
 顔のパターン認識というのは、おそらく生物が生き残る上で有効な機能として発達してきたもの。例えば弱肉強食の野生の世界においては、いかに早く捕食者を発見できるかが生死を分ける重要なポイントとなる。そのためには本来「連続」であるはずの世界に敢えて境界線を引き、自分に向かう視線の存在(すなわち顔)を見つけることが、捕食者の発見スピードを早めるうえで最も効果的な戦略となる。
 「あれはいったい何だろう?」なんて考えているヒマがあったら、間違っていてでも良いからとりあえず捕食者らしき陰から逃げるべきというわけだ。そのような能力を極限まで磨きあげた種だけが現在まで残ってきたからこその能力なのだろう。
 元来はランダム且つ連続的で切れ目など存在しない自然というものに対し、無理矢理にでも分断による個別化とパターン化によって関連性を見出していくこと。そうして世界を図式化/単純化することは「安心」につながることであり、それがすなわち世界を理解するということに外ならない。

 本書は後半になってまたまたがらりと話が変わる。次に語られるのは、1980年ごろにアメリカの大学で実際に起こった実験データ捏造事件の顛末。おおよそ次のような話だ。
 ――高名な分子生物学者の研究室である大学院生が、細胞のガン化プロセスに関するある仮説(ATP分解酵素のリン酸化というもの)を検証する命をうけた。その大学院生は天才的な腕前を発揮し、数多くいたポスドクたちが誰ひとり成功しなかった実験を次々とものにしていき、ボスが望んでいたとおりの実験データを現実のものに。彼とボスが次々と世に出す“美しい理論”に裏打ちされた論文は、世界中を興奮の渦に巻き込んでいった。しかしやがてふとしたきっかけで、それらのデータは全て大学院生による捏造であることが判明、彼はその日のうちに研究室から姿を消し二度と戻らなかった...。

 彼がやった事とはいったいどのようなことだったのだろう? 著者は問いかける。その大学院生は、ボスが見たいと思った“絵”を実験の中から切り取って見せた。そう、散らばった点と線を結んでボスが「そうであって欲しい」と望んだ“星座”をとりだして見せただけと言えるのではないか。そう考える時、のちのインタビューでボスがその大学院生を指して述べた「治すすべのない病」という言葉は、まさしく我々自身が持つ「世界のモデル化/単純化」による意味付けに等しいと言えるのではないだろうか。そう考えると、巷に溢れている占星術や血液型占いやスピリチャリズム、その他諸々のカルト的な話題は全て、我々自身がもつ生物としての“業”のようなものなのかも知れない。

 以上、なんとか本書の内容を簡潔に説明しようと努力はしてみたのだが、やはりとりとめのない文になってしまい申し訳ない。本書の結論は以下の文にほぼ集約されているので、最後にそれを紹介して終わりとしよう。

 「世界は分けないことにはわからない。しかし分けてもほんとうにわかったことにはならない。」「私たちは世界の全体を一挙にみることはできない。しかし大切なのはそのことに自省的であるということである。なぜなら、おそらくあてどなき解像と鳥瞰のその繰り返しが、世界に対するということだから。」

『イスラームの日常世界』 片倉もとこ 岩波新書

 先日読んだ岩波現代文庫の『イスラームの世界観』がすこぶる面白かったので、さっそく同じ作者の本を探して読んでみた。先に読んだものと同じ話題も一部に在るには在るが、題名にあるように本書の方が日常生活に密着した内容なのでとっつきやすい。取り上げられる話題は多岐に亘っている。まずはムスリム社会の基本的価値観にはじまり、後はイスラームにとって最も重要な日々の祈りについてやムスリム女性の世界、それに断食月(ラマダーン)の過ごし方や巡礼の実態など。日常生活の様子がこと細かに語られている。
 彼らの社会意識が「うごき/移動」を基本とするものだという事は、『イスラームの世界観』でも述べられていたが、本書で興味深かったのは人間の本質を「弱いもの」として捉えている点。だからこそ絶対的な存在である神の前では、金持ちも貧者も王族も庶民もあらゆる人が皆平等なわけだし(*)、人間同士の約束は時がたてば気が変わることを前提に考えられていて、逆に変わってしまうと困る場合は「契約」で縛るのが基本になるわけだ。自分からみるとルーズさと厳格さの両極端を揺れ動くように見える彼らの社会も、理屈が分かってみるとそれなりに納得できる。
 ただ「弱いんだから仕方がないさ」という一種の開き直りのような考え方は、人としての進歩が見込めない気がして個人的にはどうかと思うが。(笑)

   *…このあたりの認識は、ユダヤ教やキリスト教など一神教に共通のものではある。

 本書で面白かった話題をもうひとつ。我々は彼らの社会を指す言葉としてよく「イスラム(イスラーム)社会」という表現を使うが、彼らにしてみるとそれは間違いなのだそう。実は「イスラーム社会」という呼び名はイスラームの教えを実現した“理想郷”を指す言葉。彼らが住む実際の世界はそれとは程遠く、「弱い人間(ムスリム)」により矛盾や問題が山積しているいわゆる「ムスリム社会」でしかないらしい。だからこそ適当な時期をおいてはイスラム原理主義のように、イスラームの理想を求める運動が盛んになるのだそう。
 本書には他にも色々な著者の実体験にもとづく示唆にとんだ文章が多く収録されていて、最後まで愉しむことが出来た。

 最後に本書を読んで感じたことを。
 もともと日本人の物の考え方には”東洋的”というか、「八百万の神」すなわち森羅万象に精霊がやどるという、シャーマン的なものがベースにあったのだと思う。そして近代になり功利的な取捨選択によって、それら伝統的な考え方は姿を消し、代わりに自然科学や工業とともに西洋的な考え方が導入された。しかしそれが日本にこれほどまでに上手く定着した背景には、きっとキリスト教の神も八百万の神のひとつとして受け入れてしまう土壌があったからに違いない。
 しかし日本はある意味うまくやり過ぎた。異質な価値観が導入されてから長い期間が過ぎた結果、今では自分たちの伝統的な価値観の良い点を忘れて果ててしまったようだ。かといって西洋的(一神教的)な考えを徹底している訳でもなく、それに起因する欠点や限界に気付くこともなければ、自分たちでそれを克服することも出来ずに閉塞感に囚われている。
 そんなときには自分の考え方を相対化するために、他の社会の考え方を参考にするのは極めて有効な手段といえるのでは? 松岡正剛から改めて「日本という方法」を学ぶのもよいが、世界における“非西洋”のうち、最も人口が多いイスラームを知らないままでいるというのは、あまりにもったいないのではないのではないだろうか。そんな気がする。

エッセイ_My favorite 20

 久方ぶりに自分が好きなものについて書いてみよう。今回はエッセイについて。

エッセイは概ねどんなものでも好いが、特によく読むジャンルは次の3つ。
 1)本(作家や本自体に関する内容の他、読書という行為や古本、翻訳についてなど色々)
 2)食べ物(作るのでも食べるのでも、どちらの話題も好き)
 3)ご当地もの(国や地域は問わないし、旅行記でもお国自慢でもOK)

 好きなエッセイストを挙げると、例えば「本」についてなら、古書店主でもあり直木賞作家(『佃島ふたり書房』)でもある出久根達郎氏。博物学や幻想小説、それに稀覯本の収集など多岐に亘る趣味をもつ荒俣宏氏なども。また、翻訳家の方々のエッセイには面白いものが多いので好んでよく読む。「食べ物」であれば、食べ物エッセイの白眉『丸かじりシリーズ』で有名なマンガ家の東海林さだお氏や、元祖遊び人・嵐山光三郎氏の稚気に溢れた文章などが好い。
 「ご当地もの」ではこれといってひいきの著者はないが、それは逆にどんな人の本でも読むということの裏返しでもある。国内なら沖縄や北海道などちょっと遠いところのエッセイが好きだし、ヨーロッパやアジアなど世界各地を旅したり辺境/冒険紀行も大好物。普通の人がいけないような場所の探訪が愉しい。(要は何でもいいんだね、きっと。/笑)
 もちろんこればかりではない。芸術・文化系では別項であげた澁澤龍彦氏はもちろんのこと、『超芸術トマソン』や路上観察学会の赤瀬川源平氏や劇作家・別役実氏のエッセイもすこぶる面白い。その他のジャンルでは例えば建築では藤森照信の『建築探偵シリーズ』なども。とまあ、挙げていけばきりがないのだが、さすがに『建築探偵』のあたりまでくると徐々にノンフィクションとの境目がぼやけていき、いつの間にか学術書と区別がつかなくなっていく。(もっとも自分はどちらも同じように愉しむので、とりわけ区分は意識していない。)

 今までとりたてて考えたことはなかったのだけれど、自分がエッセイを読む時はどんな時なのだろうか?改めて考えてみると、頭や心がくたびれている時ではないかという気が。仕事で脳ミソが疲れている時には読みかけの学術書に手を出すのはしんどい。かといって小説は(なまじっかノリが良いだけに、)逆にのめり込んでしまって、読後にどっと疲れがでることも。また内容が重たいと気分が落ち込んでしまうおそれもある。
 したがって、くたびれた時こそエッセイの“軽さ”がありがたい。良いエッセイを読むと丁度いい感じで心に染みてきて、心の奥底の凝り固まった部分を解きほぐしてくれる感じがする。してみると自分にとってエッセイとは。活字生活を支える大切な潤滑油と言えるかもしれない。
 きっとこれからも良い出会いを期待しつつ読み続け、エッセイコレクションが増えていくのだろうなあ。(笑)

 以下に今まで読んで面白かったエッセイのうち代表的なものを順不同で挙げてみよう。とりあえずジャンルを分けては見たが、内容がかぶっているものもあるのであくまでも参考程度に。またお気に入りのエッセイは日々増えているので、あくまでも現時点での内容ということで。

<本>
 出久根達郎『古書彷徨』『古本綺譚』『漱石を売る』など
 北原尚彦『キテレツ古本漂流記』
 牧眞司『ブックハンターの冒険』
 鹿島茂『子供よりも古書が大事と思いたい』
 荒俣宏『ブックライフ自由自在』『理科系の文学史』など
 喜国雅彦『本棚探偵シリーズ』 
<食べ物>
 嵐山光三郎『素人庖丁記シリーズ』
 東海林さだお『丸かじりシリーズ(○○の丸かじり)』
 石井好子『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』など
<ご当地>
 林望『イギリスはおいしい』
 玉村豊男『パリ、旅の雑学ノート』
 下川裕治『沖縄にとろける』
<翻訳家>
 柴田元幸『生半可な學者』
 岸本加代子『根にもつタイプ』『気になる部分』
 金原瑞人『翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった』
 鴻巣友季子『全身翻訳家』
<芸術系・他>
 赤瀬川源平『超芸術トマソン』『東京ミキサー計画』『外骨という人がいた』
 別役実『虫づくし』『道具づくし』『けものづくし』『当世商売往来』など
 藤森照信『建築探偵の冒険』など

 まだまだあるけど、きりがないので今回はこれくらいで。

『時間の種』 ジョン・ウインダム 創元SF文庫

 作者は『トリフィドの日(トリフィド時代)』や『さなぎ』『海竜めざめる』などの作品で知られるイギリスSF界の重鎮。本書は40、50年代の作品から作者自身が気に入っているものを選んだ自選短篇集で、長らく品切れになっていたがこのたびの復刊フェアでめでたく再リリースされた。
 読んでみるとさすがに古さは否めないわけだが、異論が出るのは承知の上でそれでも敢えて言わせていただこう。本書やシェクリイの『人間の手がまだ触れない』、シマック『愚者の聖戦』といった往年の作品群について、今の目で面白いとか面白くないとか論じるのは「野暮」だ。(我ながら何て挑発的な。/笑)
 ちなみに言えば“野暮”というのは“粋(いき)”でないこと。九鬼周三の『粋の構造』によれば、粋というのは「意気地」「媚態」「諦め」の3つの契機(≒要素)からなるものだとか。もう少し簡単な表現にすれば、それぞれ「反骨精神」「色気」「いさぎよさ」という感じだろうか。

 ではそれを踏まえて、先ほどの往年の作品群を愛でることの“粋”とはどこにあるか。まずひとつめは「反骨精神」。「自然科学をベースにした奇想」ともいえるSF小説において、時代遅れの知見というのは普通は致命的だ。そのような知見に基づいた作品にあたると、大抵の場合は興醒めして作品自体も愉しめなくなる。どうせなら上手く騙して欲しいのに…というわけだ。
 「古臭」くなるのは科学的な知見ばかりではない。社会や性に対する意識など、登場人物たちがもつ価値観についても、今から見てあまりに前時代的だったりするとネックになる。いやむしろこちらの方が科学的な誤謬より影響は大きいかな。
 しかし自分はたとえ時代遅れの知見であっても、いや時代遅れであればなおのこと積極的に「この作品の中ではそれが正しいんだ」と認めてやって、可能な限り作品の中に浸るようにしている。(永井荷風の『墨東綺譚』の心境とまで言ってしまうと格好付け過ぎか。/笑)
 ふたつめの「色気」について。これは九鬼周三が言うように異性に対するものではなくて、当時の人々が夢想した未来に対して自分が感じる、“憧れ”のようなものとしてご理解いただきたい。大阪万博が醸し出していたものといえば、(ある年代より上の方には特に)分かってもらえるかな。磯達雄氏らのことばを借りて「僕らが夢見た未来都市」とでも言おうか、それとも『鉄腕アトム』が体現していたものとでも言うべきか。物語の背後に透けて見えてくるような、それらのものへの嗜好がこれらの本に感じる「色気」の正体。
 最後は「いさぎよさ」について。先述の大阪万博で描かれたような「未来」が、当時いかに夢に満ちて魅力的だったとしても、いま我々が住む世界では実現することはない――それを自覚するということ。(今までも、そしてこれからも決して訪れることはないのだ。)
 そして我々は争いや貧困や環境などの問題を抱えながら、かつて一度も「地図」が描かれたことのない領域を、自分たち自身の足で歩いていかなくてはならないのだということ…。それらを受け入れる一種の潔さこそが、この手の本を愉しむ際の隠し味となる。すなわちこれらの作品に書かれる世界は「すでに過ぎ去った未来(**)」なのだ。

  **…ウィリアム・ギブスンの短篇「ガーンズバック連続体」が、そのあたりを上手く
     描いていて秀逸。

 この時代の作品は自分にとって、(あんまりしょっちゅう読みたいわけではないけれど、)ちょっと精神的にくたびれたときなどに無性に読み返したくなるタイプの本だと言えるのかもしれない。

 以上、やっぱりちょっと格好つけ過ぎ?(笑)
 なお、他の方がある本に対してなされた評価を否定するつもりなぞさらさらない。読む人によって当然いろんな読み方があってしかるべきと思っているから。ただ自分は前にも書いたように「本を愉しめなかったら負け」というつもりで読んでいるので、古い本に関してもこんな風に考えている――というくらいにみて頂ければ幸い。

<追記>
 良く考えたら中身について全然ふれてなかったのでちょっと補足を。本書には10の短篇が収録されている。その中でも好みだったのは、いかにも往年のSFらしい雰囲気の「宇宙からの来訪者」、著者お得意の“滅びの美学”が味わえる「地球喪失ののち」。それにシェクリイを思わせるユーモア作品「ポーリーののぞき穴」と、ラストの抒情漂う小品「野の花」といったところ。音楽に喩えるなら、自分の中ではイギリスの10ccというバンドのもつ雰囲気に近いかなあ。(もしかしてこれが英国スタイルというやつ?)

『日本の深層』 梅原猛 集英社文庫

 梅原猛は従来の歴史観をひっくり返すような著作をかなり初期から数多く残してきた。『隠された十字架』しかり『水底の歌』しかり。(*)
 彼は本書でもまた大胆な仮説/推論を提示している。ただし自身も述べているように、それはあくまでも哲学者の直感によるものであって、まだ仮説にすら達していないほどの着想の萌芽に過ぎない。解説で赤坂憲雄氏も述べているように、いつか証明されるかもしれない“予言”ともいうべきもの。仮説(予言でもいいが)というものは、その射程が広く長いほど無責任な一読者にとっては面白い読み物になるわけで、その点で本書は充分に満足のいくものといえる。

   *…とはいえ、自分はそんなに良い読者ではないので、その後はどんなのを書かれて
     いるかさほど存じ上げてはいないのだが。(笑)

 日本文化は当初、大和朝廷(近畿)を中心とした貴族の文化として始まり、やがて鎌倉に始まる武家文化から徳川時代の町民文化へと引き継がれた――従来の歴史観による基本的な流れはざっとこんな感じだろう。これはまた、縄文(狩猟)文化を駆逐した弥生(稲作)文化に、仏教思想や後の儒教思想が加わっていく流れでもある。すなわち「原始的な先住民」である縄文人を「進歩した侵略者」たる弥生人が、それまでの住処から駆逐して北の果てへと追いやることで、後の日本文化が花開く礎が出来たと見做すわけだ。
 ところが梅原は(駆逐されていたはずの)縄文文化が、東北の地に今でも色濃く残っているのだという。すなわち通常言われているように縄文文化はわずかに蝦夷・アイヌ文化に残るだけ…というわけではなく、実は歴史をひも解いていくと表舞台にもその担い手が何食わぬ顔で登場していたり、ごく普通の仏教信仰と思えるところも実は―― というわけだ。すなわち「和魂洋才」ならぬ「縄魂弥才」でしっかり生き残っているというのが著者の直感による仮説。

 本書は著者が東北の各地を実際に旅して、(「日本の深層」である)縄文文化の面影に肉迫していくものであり、その内容はとても刺激的なものになっている。具体的な旅程は、石巻の多賀城址を起点にして東北地方を左回りにぐるりと一周。平泉の奥州藤原氏や花巻の宮沢賢治、遠野には柳田國男の面影を訪ね、さらに津軽では太宰治、岩泉~天台寺では豪族の安部氏など駆け足で多くの場所を訪れるというもの。
 つぎに舞台を太平洋側から日本海側に移してからも大忙しだ。出羽三山で信仰される修験道には、中国から渡来した仏教と日本に古くから伝わる山岳信仰の混合する姿を見出したり、はたまた弘前の久渡寺に伝わる「おしらさま」信仰には、アイヌの「シランパカムイ(木の神)」との一致をみたりと、短いながらも中身がぎゅっと詰まった旅となっている。
 ここで述べられる仮説の多くは、今はまだ幻視に過ぎないかも知れないがとても魅力に溢れるもの。いちいち根拠や真偽をあげつらって無粋に詮索するよりも、ここでは是非ともそのイメージを心行くまで愉しんでいたい。本書に書かれた細い枝のような著者の直感が、後に太い幹へと育っていけたかどうかについては、これから赤坂憲雄氏らの「東北学」に関する著作を読んでいくことで、おいおい確かめることにしよう。(また追いかけなければいけない本が増えてしまったかな。/笑)

『ソモフの妖怪物語』 O・M・ソモフ 群像社

 19世紀初頭にロシアで活躍した文学者により書かれた、自身の故郷であるウクライナ地方に伝わるフォークロア集。ちょっと怖くてちょっと不思議な話が満載。
 少し例を挙げてみると――
たとえばウクライナの首都キエフの大門へと、遠路はるばる帰還した英雄を襲う邪悪な水の精「ルサールカ」。 あるいは暗い森の奥に潜む「バーバ・ヤーガ(*)」や、座敷童子とポルターガイストを一緒くたにしたようなお化け「キキモラ」。それに「はげ山」で月に一度サバトを行う魔女たちなど。まるでムソルグスキーの『展覧会の絵』や『はげ山の一夜』そっくりの世界が繰り広げられる。

   *…ロシアの民話に出てくる妖婆。

 日本でならさしずめ「御伽婢子/おとぎぼうこ」(岩波文庫『江戸怪談集』に収録)に似たものともいえるが、こちらはさすが文学者の手によるものだけあって、語り口ひとつにも技巧が凝らしてありなかなか読ませてくれる。価格が1,000円というのも群像社の本としてはちょっと考えられないくらい安いし、ちょっと変わった話が好きな人なら読んで損はしないと思う。

『自閉っ子、こういう風にできてます!』ニキ・リンコ/藤家寛子 花風社

 ともにアスペルガー症候群(*)である翻訳家・ニキ氏と作家・藤家氏の女性2人が、自らの身体感覚と世界観について語った対談集。進行役は編集者で花風社社長でもある浅見淳子氏。
 この本、この手の本の中では何より本人たち自身の声というのが気にいった。(自分は「異文化との出会い」という半ば“興味本位”もあって読んだのだが不謹慎だろうか? 本書の中で彼女ら自信がそういっているわけだし、そんなことはないよね。)
 内容も今まで知らなかった話が沢山。読み始めるなりさっそく「自閉症は社会的コミュニケーションの障碍である前に、身体的・感覚的な障碍である」という指摘に思わず納得。「のぞき穴から世界を見るような」という表現もされていたが、生まれつき周囲の人と感覚が違えば思考のベースが違ってくるのは、なるほど言われてみれば当たり前のことだ。具体的には体温調節がうまくできず汗をかかないとか、身体感覚の統合が失われがちで自分の足や背中の所在が分からなくなるなど、想像すらしなかったような驚きの連続だった。
 一例をあげると、入力情報が過負荷になると自分の身体感覚が統合できなくなって、まったく動けなくなったりするとのこと。ちなみにその場合は眼で確認しながら徐々に意識をつなげて制御を出来るようにするらしいのだが、「視覚に入らない」ということがすなわち「存在しない」に等しいという感覚は、どう考えても想像すらできない。両氏いわく「オートマティックでなく全てがマニュアル運転の身体」だそうだが、たぶん自分には一生理解できない感覚なのだろうなあ。

   *…自閉スペクトラムの一種。知能指数の低下を伴なわない自閉症であるため一見
     「定型発達(=いわゆる一般の人)」との区別が付き難く、かえって就労や社会
     サポートの面で、不足あるいは差別につながることも。なおこれらの状態を
     「発達の障碍」ではなく「得意・不得意の偏り」と見做すべきという考えから、
     健常者のことは「正常」と呼ぶのでなく「定型発達」と呼ぶのが通例らしい。

 それではなぜ身体的・感覚的な障碍がコミュニケーションの障碍になるのだろうか。本人らの説明によれば、「隠された前提条件」や「暗黙の了解」のベースになっている身体感覚がないことが原因とのこと。身体感覚が共有できていないとベースになる知識が異なるため、いちいち言葉で説明されないと想像力で補うことが出来ないのだ。また周囲のあらゆる音を平板に拾ってしまうという障碍を持っている人も多いらしい。そのような人は定型発達のように「カクテルパーティー効果(**)」がうまく働かないため、どうしても大事な情報が欠落しやすいということもあるようだ。(もちろん症状については個人差がある。)
 従って自閉スペクトラムの人に対しては、「こんなことぐらい言わなくても分かるだろう」という考えは一切通用しない。曖昧な提示やほのめかしは理解できないもしくは意味の取り違えの原因となるため、何かをお願いする場合は全てを明確な言葉にして示す必要がある。
 例えばこんな調子。
 「いっしょにご飯を食べに行こう」というのは「白飯だけでなくおかずも一緒に食べても良いこと」であって、それどころか「白飯を全く食べずにおかずだけ」でも構わない。おしゃべりもせず黙々とただひたすら食事をするのではなく、お酒を飲んだり会話を楽しみながら「親睦を深める」のが目的。「あなたともっと仲良くしたい」と言われているのと同じなのだよ。―― と、ここまで説明してあげないとアスペルガーの人は戸惑ってしまうのだそうだ。

  **…周囲の雑音の中から自分に関係する情報だけを識別できる能力。パーティーの騒音
     の中でも隣の人と会話が続けられることの比喩。

 言葉をあるがままに素直に受け取り、一度決められたことは律儀に守る。本書を読んでいると彼女らの方が、自分のような「定型発達」の人間よりも、よほど素晴らしい人に思えてくる。今の状態は「病気」ではなくあくまでも「障碍」なわけだから、「正しい状態に“治す(戻す)”」のではなく、「その人のことをあるがままに理解して生きやすいようにしてあげる」という気持ちで接することが求められるという事なのだろう。
 最後に少し蛇足を。本書で最も好いのはどの会話も終始ユーモアに包まれていて、悲壮感が全く見受けられないこと。今までかなりつらい人生をおくってきているはずなのに、本人たちは思い出話をする時もあっけらかんとしてとても明るい。(何せ「もう一度うまれても、自閉っ子に生まれたい」とまで言っているくらい。)本書が今すぐ自分の生活で何かの役に立つとかいうわけではないけれど、何だかとても大事なことを知ることができたような、そんな気がする。

<追記>
 もしかしたらブックオフの最大のメリットは、単にセールで安く本を手に入れられることではなく、本書のように普段の自分の趣味とは全く違う世界に気軽に触れられる点なのかも知れないな。また本書を読んでみて、自分が文化人類学系の本を好きな理由と、本書のように自分が知らないジャンルの本をときおり衝動的に読んでみたくなる理由は、根っこの部分で案外つながっているのではないかという気もしてきた。

『黄金伝説1』 ヤコブズ・デ・ウォラギネ  平凡社ライブラリー

 テレビのバラエティ番組の題名では無く(笑)、キリスト教文化圏でもっともよく知られた説話集。ギリシアやローマのように神々や英雄の物語をもたないキリスト教が、代わりに聖人や殉教者たちを使って作り上げた一種の神話集と言ってもよい。13世紀ごろ、ジェノヴァの大司教ヤコブズ・デ・ウォラギネによって編纂された。中世には聖書と並びもっともよく読まれた書物だそうで、ヨーロッパにおける文学や芸術の源泉となっている。長い時に亘って読み継がれてきたもので、「何物にも代えがたい書物」という意味で、誰が言うともなくこの名がつけられたらしい。
 スタイルは聖人に因んだ祝日(記念日)について、由来を説明する形になっている。(テレビのワイドショーなんかにある「今日は何の日?」みたいなものを思えばあながち間違いではないかと。)年間を通じて順番に取り上げられていて、本書にはそのうち51の祝日が取り上げられている。こうしてみると、どうやらキリスト教圏では殆ど毎日のように、何らかの記念日になっているようだ。(笑)
 中身はといえば、敬虔な信徒たちが布教や信仰のために迫害を受け、神の奇跡で魂の救いを得たといった類の話が満載。日本ならさしずめ仏教の布教のためにかかれた、『日本霊異記』などの説話集がそれにあたるだろうか。
 信仰の為には拷問はおろか処刑すら恐れずことなく、自ら進んでその身を捧げようとする彼らの姿。読み進むうちに、天草四郎ら日本のキリシタンたちの姿にも重なってくる。本書に描かれているような、迫害されるほどに信仰が“結晶化”して恍惚となっていく様子は、当時の異教徒たちからみたらさぞや薄気味の悪いものだったのではないか。なんせ暴力による脅しが全く効かないんだから始末に負えない。昔の話だから致し方ないとはいえ、あまりにも狂信的なのもなあ。イスラム原理主義者による自爆テロとか、あるいはチベット僧侶による焼身なんかをイメージしてしまって、少し引いてしまうところも。

 本書は本邦初の全訳本のようで(?)、平凡社ライブラリーで全4巻。ハードカバーの専門書に比べれば値段も手ごろでいいのだが問題はそのボリューム。なんと本書(第1巻)だけで580ページもある。個々のエピソードはそれなりに興味深いのだが、如何せん量が多過ぎ。きっと西欧の人たちは子供のころから礼拝の時など、折に触れてすこしずつ親しんできたのだろうが、今回のようにいちどに読むと結構ヘビー。異文化を理解するというのはやはり大変だというのが良く分かった。(笑)
 
<追記>
 実は本書を読んだきっかけは、R・A・ラファティの『第四の館』という作品が出版されるという情報。著者が敬虔なカトリック信者であったせいかどうかは知らないが、どうやら聖人伝説が下敷きになっているらしい。(おそらく澁澤龍彦の『高丘親王航海記』を読むには仏教の知識がある方が良いのと同じように、)本書を副読本として読んでおいた方がより愉しめる、という噂を聞いてトライしてみたというわけ。とりあえず”聖人伝説”なるものの雰囲気は分かったので当初の目的は果たせたのだが、あと3巻ある続きはどうしようかな? また機会を見つけて「ボチボチ」ということにしようか…。(ちょっと逃げ腰。/笑)

2011年9月の読了本

 今月は個人的に「読書強化月間(笑)」を開催したため少し多め。(でもその分、新しいのを買ってしまったので差し引きの在庫数は変わらず。お金がないのは毎度のこと。/笑)

『理性の限界』 高橋昌一郎 講談社現代新書
  *社会科学/自然科学/論理学など様々な「知の領域分野」における、原理的に解決不能な
   こと(すなわち「理性の限界」)を紹介した本。
『NOVA5』 大森望/編 河出文庫
  *文庫オリジナルのSFアンソロジー第5弾。割と気に入ったのは、宇宙SFと金融工学を
   ドッキングさせた宮内悠介の「スペース金融道」と、伊坂幸太郎のタイムトラベルもの
   「密使」あたり。図子彗の未来社会もの「愛は、こぼれるqの音色」も悪くない。
『漢字』 白川静 岩波新書
  *漢字研究や古代日本&中国の習俗研究で有名な著者による、一般向け書籍の記念すべき
   第1冊目。
『夏の夜の夢・あらし』 シェイクスピア 新潮文庫
  *沙翁による新旧2つの幻想的な喜劇をカップリング。初読だったが、最後の作となる戯曲
   の「あらし」は傑作だった。
『パノラマニア十蘭』 久生十蘭 河出文庫
  *河出お得意の文庫オリジナル短篇集。戦時下を舞台にしたものだとか江戸時代を舞台に
   したものだとか様々。相変わらず唐突に終わってしまう作品もあるが、やっと少し慣れて
   きた。(笑) 収録作の中では「巴里の雨」「田舎だより」「重吉漂流記聞」あたりが
   好み。
『「悲しき熱帯」の記憶』 川田順造 中公文庫
  *著者は文化人類学者レヴィ=ストロースによるブラジル紀行『悲しき熱帯』の訳者。
   本書は、自身も人類学者である彼が、レヴィ=ストロースと同じ地をおよそ50年後に
   訪問した紀行文。
『密室入門』 有栖川有栖/安井俊夫 メディアファクトリー新書
  *ミステリ作家と建築家が、ミステリに登場する魅力的なギミック「密室」について語り
   つくした対談集。 
『第二の性Ⅲ』 ボーヴォワール 新潮文庫
  *有名な女性論の3巻目。(「体験篇」はこれで最後となる。)
『平台がおまちかね』 大崎梢 創元推理文庫
  *書店を舞台にしたコージーミステリ『成風堂書店事件メモ』シリーズでおなじみの著者に
   よる新シリーズ。今度は出版社の新人営業マンが主人公。
『宗教入門』 中沢新一 マドラ出版
  *1991年7月から翌年の9月までテレビ東京で放映された深夜番組『夜中の学校』を全13巻
   の講義録として出版したものの9巻目。中沢新一は追っかけてるので一応読んでみたが、
   内容は中沢ファンにとってはお馴染みの話題。「人間にとって宗教が持つ意義」のような
   類の話や、キリスト教および仏教のエッセンスなどをごく簡単に紹介。ちなみに他の巻の
   内容は以下の通り―― ①糸井重里/②橋本治/③淀川長治/④野田秀樹/⑤杉浦日向子
   /⑥荒俣宏/⑦秋元康/⑧川崎徹/⑩景山民夫/⑪養老孟司/⑫デーモン小暮/⑬天野
   祐吉
『大人の学校 入学編/卒業編』 天野祐吉・他  静山社文庫
  *前述のマドラ出版版『夜中の学校』から講義録を抜粋した傑作選。前篇となる「入学編」
   では野田秀樹/荒俣宏、「卒業編」では橋本治/杉浦日向子/天野祐吉などが好かった。
   (文庫化にあたり⑦⑩⑫の3人が省かれている。そちらを読みたければマドラ出版版を探
   すしかない。)
『ザ・クライム』 山野浩一 冬樹社
  *日本SF界におけるニューウェーブ運動の第一人者による第4短篇集。気に入ったのは
   「エーテル」「霧の中の人々」に「革命狂詩曲」(“フリーランドシリーズ”の一作)の
   あたり。ところで表題作を読んでふと思ったのだが、著者の小説の主人公は誰も皆何らか
   の「罪の意識」を(何故か)持っているような気が。ただしそれが当時の社会に共通する
   意識なのか、それとも著者独自のスタイルによるものなのかは分からない。
『イスラームの世界観』 片倉もとこ 岩波現代文庫
  *国際文化研究センター所長にして国立民族博物館名誉教授の著者によるイスラムと日本の
   比較文化論エッセイ。
『未来への帰還』 トニ・ネグリ インパクト出版会
  *2000年に世界的なベストセラーになった『<帝国>』(ハートとの共著)で有名な社会
   学者の小論やインタビューをあつめたもの。(著者名は「トニ」となっているがアントニ
   オ・ネグリのこと。)副題が「ポスト資本主義への道」となっていることからも分かる
   ように、著者の主張はフーコーやドゥルーズらの研究成果を借りつつ、湾岸戦争以降に
   世界中で顕著になった<帝国>という新たな権力母体への対抗を探ろうというもの。
   90年代中期の内容なので思想的にまだ未整理のところはあるが、基本的なスタンスは
   『<帝国>』など以降の著作と変わっていない。(なお帯には「ネグリ入門」と書いて
   あったが、中身は断章に近いので、彼の思想をある程度は知らないと何の話かさっぱり
   理解できないと思う。)
『軽症うつ病』 笠原嘉 / 『うつ病をなおす』 野村総次郎 ともに講談社現代新書
  *仕事の都合で回復期の方の職場復帰をお手伝いする事になり、とりあえずメンタルヘルス
   関係の基礎知識をお勉強。しかしどんな理由であってもそれなりに読書を愉しむことが
   できるというのは、活字マニアの特殊技能かも知れない。(笑)
   SNRIという抗うつ薬の名前が出てきたら“INRI”(十字架のイエスの上に掲げられた文)
   を連想したりと、本文の内容とは全く関係ないところをあちこち脱線しつつも、2冊とも
   無事に読了。(読むべきところはちゃんと読んだのでご心配なく。/笑) どちらの本も
   平易に書かれていて好印象。前者は回復期にある人への対処の仕方に多くのページが
   割かれてあるし、後者は(出版された年が比較的新しいこともあって)、前者より更に
   最新の知見が要領よくまとめてある。再発を防止するための性格改造などにも触れてある
   ところも良い。うつ病は一説には10人に一人がかかるとも言われ、今や一生の罹患率が
   リューマチや糖尿病よりも高いと言われているとのこと。こうして改めて知ると、
   決して他人事ではないよなあ。
『黄金伝説1』 ヤコブス・デ・ウォラギネ 平凡社ライブラリー
  *日本でいえば仏教の功徳を説いた『日本霊異記』みたいなものか。キリスト教の聖人及び
   殉教者の言行をまとめた「聖人伝説」のなかで、もっとも有名な文献であり、ヨーロッパ
   の文化の源泉とのこと。信仰がもたらす奇跡をドラマチックに描いたり、ヨーロッパ各地
   に伝わる伝承を取り込んだりとか、様々な説話や伝説の宝庫と言える。
『ジャンピング・ジェニイ』 アントニイ・バークリイ 創元推理文庫
  *『毒入りチョコレート事件』で有名な作家による本格ミステリ。『第二の銃声』が抜群に
   面白かったので読んでみた。結果、『第二…』の時に感じたほどの驚きはなかったが、
   相変わらず巧い。使ったお金と時間のモトは充分にとれた。(笑)
『赤めだか』 立川談春 扶桑社
  *立川談志一門の真打・談春による、修行時代を中心に描いたエッセイ。08年度の講談社
   エッセイ賞を受賞した。聞くところによると談春は今一番面白い落語家のひとりらしい。
   一度も聞いたことが無いが、そのうち機会があれば聞いてみよう。
『日本の深層』 梅原猛 集英社文庫
  *日本文化のもっとも深層にあたる縄文文化。著者お得意の大胆な仮説でもって、東北の地
   に縄文文化の面影を探る旅を描いた紀行文。
『探偵術マニュアル』 ジュデダイア・ベリー 創元推理文庫
  *不条理っぽくもありファンタジックな要素もあるという、不思議な感触のハードボイルド
   風ミステリ。帯には「ポール・オースター+ブラッドベリ+カフカ」となっているが、
   何となく元ネタは想像できる。訳者あとがきには著者が好きな作家として、カルヴィーノ
   やボルヘスの名も挙げられているがさもありなん。ただし後半になって事件の構成が徐々
   に分かってくると、破綻の無いまっとうな小説として着地する。それを良しとするか、
   又は詰らないと断ずるかによって、評価が分かれるかもしれない。ちなみに自分の場合、
   「あれっそうくるの?ちょっと残念だけど、これはこれで悪くないかな」という感じ。
   筒井康隆の長篇『パプリカ』にもちょっと似た雰囲気が無きにしも非ずかな。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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