『漢字』 白川静 岩波新書

 今回は本題に入る前に少し寄り道。前に書いたことの一部繰り返しになるが――
 自分は本を読む時、どんな本であっても「娯楽」として読む。さらに言うと読書をしている間は、その本と一種の「勝負」をしているようなもの。沢山愉しめたほど「勝った」と思うし、あまり愉しめなかったりすると「負けた」と感じてしまう。(誰に対しての勝ち負けなのかは自分でもよく分からない。/笑)
 この原則は対象物が小説だろうが学術書だろうがたいして違わない。エッセイは著者との直接の対話になるので、勝ち負けじゃなくて、どちらかというと好き嫌いに近くはなるが、それでも面白いエッセイに当たると、著者と力を合わせてゴールできたみたいで気分がいい。
 読み方にも自分なりのイメージがある。具体的には本をケーキに喩えるのが分かりやすいかも知れない。幾層にもスポンジとクリームが重なっているタイプのケーキ。
 ケーキは切り方によって断面の模様が変わる。まっすぐ縦に切ったり斜めにしたり、時には水平に切ったりするたび、それぞれ異なる切断面が顔を見せる。どれだけきれいな模様をいかに多く見出せるかが、読み手の腕の見せ所。(その意味では本をケーキではなく調理前の“素材”に喩えても良いかな。その場合、読み手は調理人になる。)
 なお、学術書の読書の場合は“素材”としてだけでなく、色んな素材を切るための“道具”を手に入れるという意味合いも強い。切る対象は小説ばかりでなく現実の世界も。切るための“道具(=視座)”をどれだけ手に入れられるかが、学術書を読む時の醍醐味ともいえる。
 物語を愉しむか新しい知見/視座を愉しむかの違いはあっても、いずれにせよ本が自分にとって「娯楽」であることに間違いはない。よい小説は様々な読み方ができ何度でも「おいしい」し、学術書もまた別の意味で「二度おいしい」といえる。
 だから、ネットのカスタマーレビューなどで、ときおり特定の本を罵るような書き込みを見かけると心が痛む。気に喰わなければ無視をしておけばいいだけのことなのに。
 自分からするとそれは単なる「敗北宣言」にしか過ぎない気がする。たまたまその人にきれいな断面模様が見つからなかったからといって、他の人が見つけたかも知れぬお気に入りの模様まで否定することはないじゃないか、とそんな風に思ってしまう。仲間内ならともかく、ネットという公の場にそんな意見を晒すのは、自らを貶めるだけだからやめた方が良いと思うのだけれど...。
他の方はどのようにお考えなのだろうか?

 閑話休題。前置きがやたら長くなってしまったが(笑)、そろそろ本題へ。
 なぜこんな話を冒頭にしたかというと、本書の著者・白川静氏の著書を読むたびに、(先程の例でいうところの)すばらしい“道具”を持つことがいかに重要かということを考えてしまうからだ。
 著者は言うまでもなく本邦における漢字研究の第一人者であるわけだが、本来は古代日本の習俗研究が一番行いたかったことらしい。ところが古代日本には「文字」による記録がないため、まずは同じ“東アジア文化圏”であって、かつ古代からの文字記録が残る中国の古代習俗研究を行うこととし、さらにその為に漢字そのものの成り立ちを調べ始めたとのこと。(*)

   *…梅原猛との対談集『呪の思想』(平凡社ライブラリー)で、白川本人が語っていた話
     による。

 一見、とても遠回りにも見えるが、それがあったからこそ後の素晴らしい研究成果が存在するというのは、衆目の一致するところだろう。そして本書『漢字』は、その“白川漢字学”の出発点となったまさに最初の著作であり、記念すべき書というわけだ。ともすれば専門的になり過ぎるテーマが持つ面白さを、一般読者になるべく平易に伝えようとする著者の気概が感じられる。
 内容としては、殷の時代の卜占の文(甲骨文字)や金文などに直接あたることで、象形文字/形成文字/会意文字の起源を解き明かしていく。それによれば、殷をはじめとして周より前の国々においては、呪術と神意に基づく国づくりが基本だったとのこと。殷から周へと繋がっていく古代中国の思想が目の前に次々と解き明かされていくのは、読んでいて気持が良い。僅か200ページにも満たない薄い本なのだが、様々な論証がこと細かく述べられていて、中身の密度は普通の本の2倍はあるのではないか。
 惜しむらくは、本文に挙げられる様々な漢字の例と、その本来の姿を示す原漢字の写真がとても照合しにくい構成になっている点。尤もこれは編集側の問題であって著者の責任ではないだろう。(このあたりは著者も気になっていたのか、後年に出された『漢字百話』などの著作においては、かなり改善されている。)

 話を戻そう。先ほども述べたように、著者にとって漢字研究というのは、本来「目的」ではなく「手段」に過ぎなかった。したがって本書も題名こそ「漢字」となっているが、書かれている内容の中心は、文字の成り立ちを通じて中国の歴史や王による統治の在り方を記述すること。すなわち題名の『漢字』というのは「漢字を説明する」ということではなく、「漢字を使って(他のことを)説明する」ということの意思表明と見た方が良い気が。
 本書の内容がそのまま「現実世界を切るための道具」になるかどうかは別にして、たまには世俗を忘れてこのような幽玄の世界に浸ってみるのも良いものだなあ。少なくとも古代中国や古代日本について書かれた本を読む時には、本書で手に入れた「呪」という新しい知見は、このうえなく強い武器になってくれそう。(笑)

<追記>
 話があちこち脱線しがちなところも併せると、本書は決して読みやすいタイプの本では無い。面白さのエッセンスだけを手っ取り早く味わいたいなら、松岡正剛によって書かれた『白川静』(平凡社新書)がお薦めかも。本書を中心とした白川静の漢字研究全般について、平易に説明してくれている。
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『イスラームの世界観』 片倉もとこ 岩波現代文庫

 著者の肩書は国際文化研究センター所長にして国立民族博物館名誉教授。本書はイスラムと我々の社会に関する比較文化論エッセイなのだが、読んでみて目からウロコが何枚もぽろぽろと落ちた。(笑)
 著者によればイスラム文化は「移動/動的」であり、対する日本文化は「定着/静的」を特徴とするのだとか。「うごく」あるいは「うつろう」と、「うごかない」あるいは「変わらない」と言う風に言い換えてもよい。イスラム社会で物事がスケジュール通りにきちんと動いていくことがないのは、彼らがルーズだということではなく、「神は一瞬一瞬を創造する」というイスラム独特の時間観があるため。身軽さや臨機応変さに積極的な価値を認めているのだそう。
 「おかわりありませんか」という言葉を挨拶に用い、(「一所懸命」という言葉が示すように)「不動」であることを美徳とする我々の日本文化からは、到底想像もつかない生き方だ。この「定着/静的」な価値観とはまさに農耕民族的発想によるもの。一か所に執着すると死んでしまうような過酷な環境で生まれた、遊牧民的な考え方とは全くの正反対といえる。彼らの場合、ひとつところにじっとしていると、心の中に「よどみ」や汚れが溜まってくるらしい。(もちろん文化は常に相対的なものなのだから、この二つの考えのどちらかが正しいというものではない。)
 このようにムスリム(イスラム教徒)の人々はあらゆる物事が移ろっていくことを前提とするため、「ハザブ・ル・ズルーフ(その時の状況次第)」という言葉をよく使う。人と約束をするときも、最後に「インシャーアッラー(神のご意思あらば)」という言葉をつけるのを忘れない。風向きに合わせて動くことは日和見主義として非難されるどころか、むしろ褒められるべきことなのだそうだ。(*)

   *…例えば結婚など、簡単に移ろってしまっては困るようなことにおいては、逆に彼らは
     厳しい縛りを設ける。具体的には「契約」に持ち込むのが普通であって、結婚契約書
     には契約解除、すなわち離婚に至った場合の処置の仕方まで予め具体的に書きこまれ
     るのだとか。日本のように相互の信頼関係を前提にして成り立つ文化とは、根本的に
     違っている。

 イスラム教は「“宗教”というよりもひとつの“生活体系”である」とさえ言われる。従って、それが浸透している社会においては「うごくこと」こそが、かように重要な価値観となる。その時、彼らにとって「道(=線)」は「都市(=点)」をつなぐ単なる手段ではなく、動くことでアイデンティティが獲得される「人生の目的」とも言えるものとなる。
 この「動の思想」というものは、今まで自分がイスラム文化に対して感じていた様々な違和感を、一挙に理解に導くキーワードとなった気がする。

 本書の後半はこれらの知見を元にして、日本にも古来存在した「動の思想」の痕跡を伊勢神宮の20年毎の遷宮や平安時代の遷都の記録などに求める話や、多種多様な文化、民族、宗教が平和裡に生きていく(=「共生」)ための知恵を探る話へと広がっていく。
 著者が提唱するのは「区別的共生」あるいは「まあい共生」と呼ぶ方法。価値観/世界観が異なっていることを前提にした上で、互いに「区別」をしながら交流していく。(注:「差別」ではない)
 必ずしも物理的な棲み分けは必要とせず、混住のまま程良い「まあい(間合い)」をもって区別と交流を続けること。――著者によれば、この方法は中東地域において歴史上ごく普通に見られるものだったのだという。(それが変わってしまったのは、「征服」を基本とする“西洋の衝撃”が中東地域にもたらされたため。)
 アジア/アフリカ/ヨーロッパという3つの大陸の接点に位置し、「宗教の博物館」とまで言われるほど多くの宗教がひしめき合っている地域だからこそ、対立と抗争を避ける仕組みが自然と工夫されてきたのだろう。それがかれらの「移動の哲学」とか「動の哲学」と呼ばれるものであるとすれば、世界各地へと自ら移ろっていくムスリムたちの生き方は、異質なものだと忌避するのでなくて、むしろ積極的に見習うべきものなのかも知れない。

<追記>
 E・ホール著『かくれた次元』においては、アラブ人が著者に対して見せた態度、すなわち「半固定空間(≒公共空間)」における無礼なまでの接近や、逆に移動中の彼らの進路を遮ることに対して異常なほどの怒りを見せる様子が書かれていた。「個体距離」や「社会距離」の文化的な違いだろうとは思いつつ、その理由が分からなくて不思議で仕方なかったのだが、本書を読むとそれが当然だったのがよく分かった。結局のところ彼らにしてみれば、停まっている状態とは移動の合間の「仮の姿」に過ぎないわけだな。納得。

『密室入門』 有栖川有栖/安井俊夫 メディアファクトリー新書

 古今東西のミステリに登場する「密室」について、ミステリ作家と建築家が建築学的な観点から考察を加えた肩の凝らない対談集。“ナレッジエンタ読本シリーズ”の単行本『密室入門!』(2008刊)年を新書化したもの。ミステリの中でも特に「本格モノ」が好きで、その中でも「不可能犯罪」と呼ばれるものを偏愛する身としては、「密室入門」と聞いては避けて通れない。(笑) 早速買って読んでみた。
 密室の定義や特性などについて真面目かつ緩やかに論じられていてなかなか愉しい。読んだ印象としては、五十嵐太郎/磯達雄両氏による好著『ぼくらが夢見た未来都市』のような感じ。ただしあちらはSF小説と建築について語ったもので、こちらはミステリだが。
 それにしても「どーでもいいこと」(失礼!)について真剣に考えるというのは、どうしてこうも面白いんだろう。精神的なゆとりが感じられるからかな。
 
 本書の愉しい雰囲気をちょっとだけ紹介しよう。
 著者らによれば、「密室」というのは「モルグ街の殺人事件」が初めて登場して以来、本格ミステリのシンボル的な存在なんだとか。(「中から鍵が掛っている。斧でぶち破れ!」というのがお約束。)一方ハードボイルドではそれが「失踪」に代わるのだそう。探偵事務所に依頼人が来て「娘を探して欲しい」というのが王道のパターン。(しかも探偵の机の引き出しにはバーボンの瓶が転がっていて、探偵には過去に友人を亡くした苦い思い出を持っていたりという…。/笑)
 こんな感じの話が延々と続き、対談の間じゅう笑いが絶えない。2人ともミステリが好きで堪らないんだねえ。本書は精神的に疲れた時などに読めば、疲労回復にかなり効果がありそう。自分にとっては「読むクスリ」といえるかも。

<追記>
 有栖川氏には一時期、不動産屋のチラシに部屋の間取りが描いてあると、ついそこに死体の絵を描き込んでしまう癖があったとのこと。さすがにミステリ好きもここまでくると殆どビョーキの域。これには笑った。

『「悲しき熱帯」の記憶』 川田順造 中公文庫

 C・レヴィ=ストロース著『悲しき熱帯』の訳者による、自身のブラジル訪問を踏まえて書かれたエッセイ。1938年にレヴィ=ストロースが訪れたインディオの集落やブラジル社会のおよそ50年後の様子が描かれる。雑誌への掲載から12年後に初めて書籍化されたため、その後の変化を踏まえて第5章が書き下ろされている。(今回の文庫化は元本の刊行から更に14年後なので、あとがきにはその後の経過も付け加えられている。)

 フランスの哲学者オーギュスト・コントが晩年に作った宗教「人類教」が広く信仰されるブラジル。USAにおけるWASPのように“社会を牽引する”強力な民族集団が存在せず、様々な民族が混交しているブラジル。多彩なフォークロアはあっても累積され乗り越えられた「歴史」というものが存在せず、それゆえ国民の中に母性憧憬や情緒の不安定さが顕著にみられるブラジル…。本書を読んでいると、「クレオール」とか「サウダージ」といった言葉が頭の中を駆け巡る。
 筆者はレヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』で取り上げたのと同じナンビクワラ族の集落も訪れる。50年経って、彼らの“文明社会”への同化はさらに進んでいる。はたして(貧困や疾病をそのままにしても)多様な文化のありかたを優先することが善いことなのか、それとも(彼らが望むままに)生活改善を行うのが善いことなのか...。人類学者がとり得る立場として「進行中の局地的問題への(積極的)関与」か、はたまた「人類学という視点を守りながらの不関与」を選ぶべきか、レヴィ=ストロースが悩んだ問題を著者も思い悩むが、当然のことながら答えなど存在はしない。
 観察する行為そのものが観察される対象に影響を与えてしまうという、まるでハイゼンベルクの「不確定性原理」を思わせるような不条理。レヴィ=ストロースが提示した問題は人類学者に今もなお解決できぬ問題を突きつけているようだ。
 『悲しき熱帯』の記憶をたどる旅もまた悲しかった。

『かくれた次元』 E・ホール みすず書房

 著者の専門は人類学だが、本書の射程は動物行動学から言語学まですこぶる広い。E・モリスの名著『裸のサル』を始めとして、この手の本は“好物”のひとつ。訳者は自らも動物行動学者であり『ソロモンの指環』の訳などで有名な日高敏高氏なので、どんな本なのかは読む前から凡そ想像がつくというもの。結構期待して読んだのだが、期待に違わず愉しむことができた。

内容は「プロクセミックス(Proxemics)」という概念について語っていて、(コミュニケーションに基づく)人間の“社会文化の基盤”とは何か?について考察しようとするもの。具体的には、「人が周囲環境もしくは他の人と接するときに感覚をどのように用いているか」など、言葉によらない謂わば“沈黙のコミュニケーション”の中身について語っている。そしてそれを形作っているのは、人間がもつ“生物的な特徴”に起因する 行動システムということらしい。(ユクスキュルの『生物から見た世界』にも繋がる内容と思う。)
 “生物的な特徴”に関する知見とは、動物心理学者のヘーディガーや鳥類学者のH・E・ハワードらの先駆的な研究をもとに著者独自の見解を加えたもの。「逃走距離・臨界距離」あるいは「個体距離・社会距離」といった概念を使い、空間認識の土台になる生物がもつ感覚を説明していく。(*)

   *…「逃走距離・臨界距離」というのは、異種の個体同士が出会ったときの関係を示す
     もの。たとえば野生動物に人間が近づいていく時、動物が両者の間に距離を保つ為
     に逃げようとし始める距離を「逃走距離」とよぶ。完全に動物の逃げ場を無くした
     上で更に近づいていくと、ある地点を超えたところで動物が逃げるのを止めて、
     逆に人間を襲ってくる限界の距離があるが、それを「臨界距離」と呼ぶらしい。
     また「個体距離」と「社会距離」というのは同種の生物同士にみられる感覚のこと。
     「個体距離」とは「非接触性動物」が同族との間で保つ空間距離のことで、一方の
     「社会距離」というのは、それ以上離れると仲間たちとの「触れあい感覚(≒群れ
     に帰属しているという感覚?)」を失って不安を感じ始める限界距離のこと。
     なお「非接触性動物」というのはウマ/イヌ/ネコ/ネズミなど、体がお互いに
     触れあうのを嫌うタイプの動物のこと。対する「接触性動物」とはセイウチ/カバ
     /コウモリなど、密集して互いの体が触れあっている状態を好む動物だそう。
     ちなみに先述の「社会距離」というのは、個体の体を包み込む“群れの泡”のよう
     なものと考えて良いらしい。もしかすると、人間を社会的な“動物”として見る
     時の重要なポイントとなるものなのかも知れない。「個体距離」というのは、
     生き物の種類によってもともと全く違うものであるうえ、それが家畜化されると
     どんどん短くなる傾向がある。(やがては消失してしまっている種も。)

 本書の後半ではこれら「個体距離・社会距離」といった生物学的な知見をもとにして人間社会を考察し、普段意識されていない空間感覚(すなわち「かくれた次元」)について語っていく。人間においては生物的な背景以外に西洋/東洋/イスラムといった独自の文化圏がもつ違いが大きな影響を与え、最適な距離と言うのは文化により大きく変化する。
 本書ではドイツやフランス、日本やアラブの社会を例にとり、「マナー距離(親密さや無礼となる距離)」とよばれる個体・社会距離の比較を行っている。ある文化圏では全く問題ない距離が、別の文化においては大変に無礼な態度ととられるケースなど、実例による説明は大変に愉しい。
 これら全ての考察を踏まえ、最終的には人間が「空間」に対して持つ認識の全体的な考察へと進んでいく。それがどんなものかと言うと、「固定空間/半固定空間/非公式空間」と呼ばれる空間の3つの型。(勿論これらも元々は“なわばり”や“棲み場”(テリトリー)といった、生物学的な土台がもとになって生まれたもの。)
 ここでいう「固定空間」というのは、“部屋”や“家”など「個人に帰属して比較的安定している空間」に対して著者が名付けた名前。一方、駅や病院の待合室などのいわゆる“公共空間”というのは、(個人に帰属する空間ではないが)ある程度はルール化や社会化が図られているため、「半固定空間」と呼ばれている。
 対する「非公式空間」というのは、全くの他人同士が路上や公衆空間で作るもの。細かく分けると(生物的な距離である)「個体距離」「社会距離」という2つ距離の間に、文化に起因する距離である「密接距離」と「公衆距離」が加わって4つに分かれるらしい。(ただしこれは欧米文化圏における距離感覚であって、民族や文化が異なる社会では当然変わってくる。日本ではおそらくもっと距離が小さくなるような気がする。)

 以上、さわりをざっと駆け足で紹介したが、アフォーダンスにも繋がるような話でもあり、今まで意識すらしていなかった文化のバックボーンが示されたようでとっても愉快。このように自然科学と社会科学の境界に位置するような本は好きだなあ。

<追記>
 自分が今まで経験したドイツ人技術者との打ち合わせの様子を思い出してみても、何となく納得できるところが多い。(例えば机の距離や立ち話する時の距離。日本人同士で会議を行う場合とはビミョーに違っていたような気が。/笑)
 実生活に本書の見方を応用してみると、色んなところで意外と愉しめるかもしれない。

『理性の限界』 高橋昌一郎 講談社現代新書

 世の中には白黒決着がつけられない問題が数多く存在する。いや、教科書とは違い現実の世界ではむしろそんな問題ばかりともいえる。克服する方法を未だ考え付けていない問題も勿論あるが、解決が不可能なことが原理的に証明されている問題もある。それら「解決不能な問題」を(人間の)「理性の限界」と名付けて紹介したのが本書。ちょっと前に話題になった本だが、自分にとって講談社現代新書はハズレが多いシリーズなので、とりあえず敬遠していた。ところが今回ふとしたきっかけで本書に目を通してみたところ、なかなか悪くなかった。これならもっと早くに読んでおいても良かったかな。尤も個人的には全体の9割ほどが既知の話題だったので、新しいことを初めて知る時のワクワクドキドキ感に欠けるきらいがあったのはちと残念。
 なお話題が広い範囲に及ぶため、思想系の本に馴染みのない人はそのつもりで。出てくる単語の意味も知らぬままにいきなり目を通すと、見慣れぬ用語の羅列にちょっと面喰うかもしれない。
 言ってみれば本書は気軽に読める「“知識の限界”見本市」のような本なのだから、個々の問題に興味が湧いた人は、本書を足がかりにして詳しい解説書に進むのがいいと思う。
 ちなみに取り上げられている分野は3つ。社会学的な「①選択の限界」と自然科学に関する「②科学の限界」、それに論理学や数学などの形式科学に関する「③知識の限界」。先ほど触れた「専門用語」の例を以下に示しておくので、面白そうと思う方はどうぞ。

 ■選択の限界
  中心になる話題は「アロウの不可能性定理」。それを補足する為の話題として「投票の
  パラドックス(*)」や「囚人のジレンマ&しっぺがえし戦略」、それに「ゲーム理論
  &ミニマックス戦略」などが取り上げられる。
 ■科学の限界
  中心の話題は「ハイゼンベルクの不確定性原理」。他に「EPRパラドックス」や「パラ
  ダイム論」「量子力学」「多世界解釈」「シュレーディンガーの猫」「方法論的虚無主義」
  など。
 ■知識の限界
  中心の話題は「ゲーデルの不完全性定理」。他には「ぬきうちテストのパラドックス
  (**)」など。

   *…個人が合理的に行った選択と、社会(集団)の合理的な選択が合致しない場合の
     ジレンマ。アロウの不可能性定理によって、選挙において投票者全員が納得のいく
     結果というのは原理的に在り得ない事が数学的に証明されているのだとか。

  **…論理学でいうところの「自己言及のパラドックス」というやつ。AがBの言う事を
     信じると言った事が「偽」になり、信じないと「真」になるように仕組まれた命題
     のこと。(“嘘つき村”の住民が「私は嘘つきです」という類の話。)

 なお最後の「知識の限界」だけはやたらと議論が細かいので、ついていくのがちょっと大変。何故だろうと思ったら、あとがきで筆者はもともと論理学の専門家だったというオチがついた。(笑)

<追記>
 本書には『知性の限界』という続篇も出されている。そのうち気が向いたら読んでみたい。

『神話学講義』 松村一男 角川選書

 昔から世界各地の神話が好きで読んでいる。物語としてはつじつまの合わないところも多々あるが、奇想天外なうえ何やら“隠された意図”がありそうな雰囲気が堪らなく好きで。
 当然のことながら神話研究についての本にも幾つか目を通してはいるのだが、困ったことに著者のスタンスがあまりにまちまちなので、頭の中の整理が今まで出来なかった。そんな折、例によって本屋をぶらぶらしていて見つけたのが本書『神話学講義』。出版されたのは1999年と少し古い。好きな分野の本なのに全く知らなかったのは、きっとハードカバーなのでスルーしてしまっていた為なのだろう。
 本書の中身としては、“神話”そのものではなく“神話学”に関する鳥瞰図を提供してくれる本といえる。19世紀から20世紀にかけての代表的な研究者を取り上げて、彼らのスタンスの違いや研究成果について分かりやすく説明してくれる。(ただし対象となる研究者についてある程度知識がないと面白くないかもしれない。初心者向けというよりは、どちらかといえば中級者向けかも。)
 取り上げられているのは①マックス・ミュラー、②ジェイムズ・G・フレイザー、③ジョルジュ・デュメジル、④クロード・レヴィ=ストロース、⑤ミルチア・エリアーデ、⑥ジョーゼフ・キャンベルの6人。いずれ劣らぬ人類学や宗教学の大家ばかりだ。(*)

   *…神話研究だけを専門にしている人はあまり聞いたことが無い。神話を研究している
     人は大勢いるが、何かを研究する為の材料として用いている場合が多い感じがする。
     ここで取り上げた人以外では、たとえば精神医学・心理学系ではフロイトやユング、
     ラングなども神話を研究しているし、人類学・民俗学系ではマリノフスキーや
     V・プロップなども。他にも言語学など様々な分野から神話の分析に参加している
     人は多い。

 それでは著者は数多い神話研究者の中からなぜこの6人を選んだのかというと、(有名だからということもあるが、)彼らの研究スタンスがとても特徴的なためらしい。実は19世紀から20世紀にかけては神話研究において大きなパラダイムの変化が起こっているそうで、ミュラーやフレイザーは「19世紀型」と呼ばれる旧い神話研究のタイプの代表であり、レヴィ=ストロース、エリアーデ、キャンベルらは「20世紀型」なのだとか。ちなみにデュメジルはその中間に位置し、初期は「19世紀型」で中後期の活動は「20世紀型」になるそうだ。
 では神話学における「19世紀型」と「20世紀型」の違いとはいったいどのようなものなのか。著者は前者に共通するパラダイムは「進化論」あるいは「歴史主義」であり、後者は「構造主義」あるいは「半歴史主義」を共通認識としているのだという。以下にもう少し詳しく説明しよう。
 19世紀の哲学・思想を全体的に俯瞰した場合、「人間の社会や文化は原始(未開)社会から発展した社会へと直線的に進化を遂げ、歴史とかそれを実現していく過程である」といった見方が一般的であった。これは西欧の近代社会を世界の中心と位置づけるとともに、本来自然科学である進化論の考え方を社会科学にそのまま応用した考え方といえる。
 ところがフロイトによって「無意識」の存在が明らかにされると、それを契機にして深層心理学や構造主義言語学などが大きく発展。それら新しい人文科学の成果を神話研究に応用することで、神話における「意識された(=目に見える)」特徴を列記・分析するだけでなく、むしろその背後にある「無意識的な(=目に見えない)」構造を明らかにすることが主流になっていった。やがてレヴィ=ストロースによって、従来「原始的」と思われてきた社会の神話に非常に論理的な思考体系が見つかると、未開(原始的)と思われてきた社会が、非論理的な社会どころか近代西洋社会に匹敵するような「別の論理体系」の構造を持つというのが、神話研究における共通認識となっていった。これがすなわち「20世紀型」の大きな特徴である。(**)

  **…ただしあくまでも神話研究とは人文科学の一領域であり自然科学のように“実験”
     による検証は不可能。従って20世紀型においても研究者ごとで「神話に何を見出
     すか」は異なっており、一律に真偽または優劣をつけられるものではない。

 それでは本書の記載に基づき、個々の研究者による神話研究の内容について簡単に紹介していこう。
 ■M・ミュラー
  当時の最新学問であった「比較言語学」の手法を神話研究に応用した人。「インド=ヨー
  ロッパ語族はアーリア人という共通の人種的な祖先をもつ」という仮説(というか当時の
  ヨーロッパ文化人の願望)をもっていた。彼はそれを証明するために、様々な地域に伝わ
  る神々の名前の比較等から最古の神話を再現しようとする試みを行ったが、その最有力
  候補とされたのがインドのヴェーダ神話。
  彼はまた神話の起源について、根源を自然現象に求めた「自然神話学」の立場をとって
  おり、この学説はあまりにも短絡的に過ぎるため現在では評判が悪い。(自分も同感。)

 ■J・G・フレイザー
  古代の王権についての記念碑的著作である『金枝篇』であまりにも有名。彼も(ミュラー
  と同様に)人間の思想や社会が段階的に「進化(進歩)」するという考え方を踏襲して
  おり、古代社会から近代社会へとつづくそのステップを呪術・宗教・科学の3段階と
  考えた。(なおここでいう宗教とはキリスト教のこと)

 ■G・デュメジル
 【初期】
  比較言語学に依拠してインド=ヨーロッパ語族の神話を研究。ただし極端に進化論的な
  図式は見られなくなっている。
 【中期】
  インドやイランの社会階層を分析して、「祭司・戦士・牧畜農耕者(生産者)」という
  三区分的な世界観が、インド・ヨーロッパ語族全体に普遍的にみられた事を想定する。
  (これを「三機能体系」と呼ぶ。)
  分析の仕方も、固有名詞の変遷に拘るのでなくシステムの「構造」に焦点を当てたという
  点で、後の構造主義的な分析にも近い。
 【後期】
  中期の視点をさらに深く推し進め、神話を構成する主要因を社会構造よりも更に世界観
  (心のメカニズム)にもとめた。

 ■C・レヴィ=ストロース
  ソシュールが創始した構造言語学を、友人であったヤコブソンを通じて知り、音韻体系の
  「構造化理論」(=個別の音自体に意味があるのでなく音の差異など相互関係や体系に
  意味があるとする理論)を神話研究に応用。神話は「理知的な無意識(=神話的思考)」
  であるとした。
  彼によれば神話が作られた目的とは、その社会にあって解決が難しい問題や根源的な疑問
  について、神話という媒介(仲介概念)を用いることで理解/受け入れやすいものにする
  ことにある。(例えば「なぜ火や水は人間にとって不可欠なのに同時に危険なのか?」
  とか、「なぜ人間は火で調理して食べるのか?」などの疑問。)

 ■M・エリアーデ
  宗教学者。彼は神話について「起源を語るもの(=創造神話)」であると考えていたよう。
  神話や儀礼は「歴史(≒キリスト教的な歴史観)」の誕生により失われてしまった太古の
  「楽園状態」を再現、存在論的な不安の解消を目的とすると主張。すなわち宗教と神話を
  等値で考えている。(何だか19世紀型を思わせるようなかなり強引で偏った主張ではある
  が、著者はエリアーデがルーマニア出身である点に着目して、幼い頃から戦禍に巻き込ま
  れたという彼の生い立ちにが原因ではないかと推測している。)

 ■J・キャンベル
  キャンベルはユング心理学(その中でも特に元型論)の影響をうけた神話分析が特徴で、
  神話の目的を「社会的不都合の解消すなわち社会規範的な要請」としては見ない。
  アメリカン・ドリームの国に相応しく、あくまでも「個人の能力開発に依る魂の成長の
  物語」としてのみ捉える。つまり彼にとって神話とは“起源神話”ではなく“英雄神話”
  であり、神話を「宗教に代わるもの」として再発見&利用しようとしている。
  神話を読むことで力を与えられるという「神話の力」論者でもある。

 本書はあくまでも神話学に関する講義であり、神話学全体の流れを分かりやすく示したもの。(だから神話に関する著者自身の見解については述べられていない。)これから神話や神話研究に関する本を読む時に、少しでも愉しく読めるように「補助線」を頭の中に引こうと思って目を通したわけだが、かなり面白かった。混乱した頭がスッと整理されていくのが気持ちいいし、なによりキャンベルに対して感じていたある種の「胡散臭さ」の正体がはっきりできたのは嬉しかった。(本屋でキャンベルの『神話の力』を立ち読みした時、何となく違和感を感じたので買うのを控えたのだが、結局のところ自分はあまり楽天的に過ぎる見方をあまり好いていないからだと、本書を読んでみて納得。)
 なお話は少し逸れるが、キャンベルはジョージ・ルーカスが映画『スターウォーズ』を作る時に、思想的な土台とした事で一躍有名になった人。『スターウォーズ』の全シリーズを通じて重要な役割をもつ「フォース」というのも、実はルーカスがキャンベルの著作から神話がもつ「力(フォース)」の概念を拝借したものだ。

 本書『神話学講義』自体に関する話は以上で終わるが、本書を読んだ後で色々と考えたことがあるので最後にちょっと補足。
 先述したように、20世紀になってから神話の「目に見える特徴」だけでなく「無意識の構造」に焦点が当たるようになったわけだが、そうなると対象を神話だけでなく民話や説話まで広げる事が可能になる。なぜなら「神話は起源を解き明かすもの」で「民話・説話は愉しみのためもの」という、それまでの画一的な見方が取っ払われることになるから。
 ところが日本の民族学における説話研究などの本を読むと、1940年代はおろか下手をすると1970年代くらいまで、ミュラーやフレイザーを思わせるまさに“19世紀的”な机上論であったり、牽強付会が過ぎるものであったりして、レヴィ=ストロースの洗礼を受けた身としてはいささか納得しかねるのも多くあった。(例えば『日本の鬼』という本では、鬼の起源を全て雷や風雨といった自然現象の擬人化に求めていて、これなんかミュラーの「自然神話学」の立場と殆ど同じ。)
 自分が思うに日本の民族学研究が世界的なレベルに追い付くのは、やっと80年代に入ってからではないだろうか。小松和彦が文化人類学の手法を民族学に取り入れて、フィールドワークや構造分析を行い始めたころから、やっと自分が読んでも「面白い!」といえる本が増えてきた気がする。(生半可な知識によるものなので、もしも違っていたらゴメンナサイ。)

『日本の大転換』 中沢新一 集英社新書

 3.11を踏まえて緊急出版された提言書。4月に内田樹/平沢克美と行ったネット対談(*)でざっと紹介されていた内容について詳しく述べた本。雑誌「すばる」に6月から8月にかけて分載されたときに本屋で一応目は通していたのだが、今回じっくり腰を落ち着けて読んでみると、けっこう見落としていたところも多かった。

   *…その後、朝日新聞出版から対談集『大津波と原発』として発売。

 著者は経済論や単なるイデオロギーではない「エネルゴロジー(**)」の視点から原子力を読み解こうとしている。その狙いは「第7次エネルギー革命」である原子力を否定的に乗り越えて、次なるビジョンを指し示すこと。本来“生態圏外のエネルギー”である核反応は地球の生態圏が処理できるものではないため、地上に直接持ち込むのではなく、媒介を経て利用できるようにすべき―というのがその大まかな主旨。(著者はそれを「第8次エネルギー革命」と呼んでいる。)

 **…もとはフランスの文明学者アンドレ・ヴァラニャックが提唱したもので、
    「エネルギー存在論」とでもいうべき概念。

 しかし「第8次エネルギー革命」といってもそんなに大層なものでは無い。簡単に言ってしまえば、核反応の熱を地球上で直接利用するのでなく、数十億年前から地球上に降り注いであまたの生物が利用してきた(遥か彼方の核反応である)「太陽エネルギー」をもっと活用しようということ。
 「そんなの当たり前の話じゃないか」「そこらのエコ活動家と同じ話だろう」と言う声が聞こえてきそうだが、ちょっと待って欲しい。僅か70年に満たないほどの経験しかもたない核エネルギーの制御技術と、それが万が一制御不能になった場合に引き起こされるダメージの大きさ。今回の事故を考えた時、無理に原子力発電に拘る必要はなく、むしろ数十億年前から様々な方法で生態圏が用いてきたエネルギー活用のノウハウを使わない手は無いという著者の論旨は、実際に読めばかなりの説得力がある。
 思うに原子力エネルギーというのは、エアコンやテレビの電源に使う為のものでは無く、地球外・太陽系外に出ていく時のような宇宙的規模の技術なのかもしれない。大勢の人の生活が営まれるすぐ横で、「電気をおこすためだけ」に核反応を日常的に発生させている状況というのは、まるで卵を割るためにパワーショベルを使うようなものかも。生態系の中で無媒介に利用するには、まだあまりにも不完全な技術だという著者の主張には首肯できるところも多い。

 いかにも宗教学者らしいのは、このように「対応を誤れば即破滅に通じるような絶対的な力」との付き合いというのがユダヤ教やキリスト教、それにイスラム教などの“一神教”の思考原理そのものだというくだり。原子力というものは、そもそもが日本人には思想的に取扱が無理な代物ではないのか?という主張はまさに彼らしいロジックで、宗教学者の面目躍如といったところ。(更に言えば「第8次エネルギー革命」とは、一神教的な思考から仏教的/曼荼羅的な思考への転回なんだとか。)
 今日では光/風/波といった、太陽エネルギーに起因する「自然エネルギー」を活用する技術として、さまざまな発電方式が実用化されている。その中で著者が最も期待を寄せるのは「人工光合成」とも称される光合成利用技術だ。この案を「素人の思いつきに過ぎない」とか、「エネルギー変換効率の低さやコスト・経済効果の悪さを考えると非現実的」とか、性急に結論付けるのは早すぎる。哲学・思想の役割が万人が納得できる思考の原理原則を指し示す事だとすれば、技術開発に携わる人間の努めとは、それを実現する手段を考えていく事なのではないだろうか。たとえそれが何十年かかるものであろうと。(ちなみにこれは自戒を込めてのことでもある。)

<追記>
 中沢新一は好き嫌いの分かれる著述家だと思う。本書でも相変わらず独特のレトリックが用いられているため、馴染みのない読者には取っつき難かったり誤解を招く恐れは充分にある。「贈与」とか「資本主義の持つ自律的・閉鎖的な危険」など、人類学や構造主義的な知識がないと分からない話も突然出てくるし…。
 でも語り口や修辞的な枝葉末節に囚われるのでなく、きちんと本質の部分を読み込めば、傾聴に値する重要な指摘を数多く含んでいると思うよ。
 今回は久しぶりに時事問題について考えてしまった。(珍しく真面目。/笑)
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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