2011年8月の読了本

『第二の性Ⅰ・Ⅱ』 ボーヴォワール 新潮文庫
  *サルトルのパートナー(事実婚)であった著者による、ジェンダー論やフェミニズム論の
   先駆けとなった女性論。全5巻のうちの第1・2巻。
『不安定からの発想』 佐貫亦男 講談社学術文庫
  *航空学を専門とする著者により「敢えて不安定を制御する」という視点で書かれた飛行機
   の開発史。技術論&文明論にもなっている。
『本棚探偵の生還』 喜国雅彦 双葉社
  *ギャグ漫画を得意とする著者が趣味とする、ミステリ&古本についてのエッセイ。
   『冒険』『回想』につづく第3弾で、何と7年ぶりの新作だが待った甲斐はあった。
   著者のもうひとつの趣味であるマラソンをしながら古本屋を巡る「マラ本」など、
   バカバカしくも(注:これ褒め言葉)サービス精神旺盛な内容が素晴らしい。価格が
   2,800円と高いのが玉にキズだが、凝りに凝った装丁だから致し方ないか。
『沈黙の中世』 網野善彦/石井進/福田豊彦 平凡社ライブラリー
  *今までは「文献」すなわち“能弁に歴史を語るもの”の研究を通じてしか分からなかった
   中世日本について、「沈黙するもの」すなわち“遺跡や埋設物”を通じ新たな光を当てる。
   その結果明らかになってきたのは、今まで語られることがなかった(「沈黙」してきた)
   蝦夷や東北などの地域の真の姿だった。気鋭の研究者3名による刺激的な対談集。
『戦争する脳』 計見一雄 平凡社新書
  *著者は臨床精神医学者なので、てっきり「人が暴力をふるう原因となる脳のメカニズム」
   みたいな本かと思って読み始めたら、全然違っていた。中身は(2007年当時の時事問題
   であった)イラク戦争や太平洋戦争など、古今の戦争と軍部のキーマンの意思決定に
   関するエッセイ。でも相変わらずの著者らしい豪放な書きっぷりがとても面白い。
   内容も示唆にとんでいる。例えば「リスク・マネージメント」というのはリスクの総量が
   把握できているのが前提であり、むしろ実戦では予測できないダメージを最小限に減らす
   「ダメージ・コントロール」を考えるべきとか。他にも「あってはならない」という考え
   がいちばん危険で、現実のリスクの存在を否認もしくは無視する思考が被害を大きくする
   のだとか。なんだか原発事故を巡る現在の状況にもそのまま当て嵌まるような感じが。
『結晶銀河』 大森望/日下三蔵・編 創元SF文庫
  *2010年度年間SF傑作選。この年から同じ編者(大森)によるオリジナルアンソロジー
   『NOVA』の刊行が始まったため、(当然のことながら)そこからの再録が幾つかある
   のが残念。たしかに面白いんだけどちょっと損した気がして。(ケチ過ぎるかな?/笑)
   再録作を除いて気に入ったものを挙げると、小川一水「アリスマ王の愛した魔物」
   (“計算”を武器に世界を制圧した帝国の寓話)、瀬名秀明「光の栞」(生命を持つ本)
   酉島伝法「皆勤の徒」(オールディス『地球の長い午後』や椎名誠『水域』を思わせる
   ”異界もの”)などが好かった。
『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』 石井好子 河出文庫
  *音楽家にしてエッセイストの著者により雑誌『暮しの手帖』に掲載された食べ物エッセイ
   の嚆矢。『巴里の空の下セーヌは流れる』をもじった前作に続き、今度は舞台を東京に
   移しての2作目。これまた上手い。
『神話学講義』 松村一男 角川選書
  *マックス・ミュラーからジョーゼフ・キャンベルまで6人の神話研究家を俎上にのせて、
   19世紀から今日にいたる神話研究の系譜を探る。
『東京マラソンを走りたい』 喜国雅彦 小学館101新書
  *『本棚探偵』の著者によるエッセイ。ただし本エッセイの主題は古本ではなくてマラソン
   なのだが、『本棚探偵』と同じくサービス精神旺盛な文章がとても面白い。マラソンに
   嵌っている人にありそうな「求道者」みたいな変な気負いがなく、日常生活の一部として
   気楽に走っている点に好感が持てる。なお本書に書いてある「モチベーションを維持する
   方法」というのが、自分がウォーキングを続ける上でのノウハウとよく似ていたので大変
   驚いた。同じところばかりじゃ飽きるからコースをかえたり、何らかの目的(例えば本屋
   に行くなど)を作るなど、実体験に基づいたアドバイスには頷けるところが多い。
   『本棚探偵の生還』を読んだ人にはわかる一癖も二癖もある人達「台湾のシンジさん」や
   「ミニコミ誌『野宿野郎』のかとうちゃん」らとの出会いに関するエピソードも書かれて
   いるし、「マラ本」(古本屋めぐりを兼ねたマラソン)を始めたきっかけなど、『生還』
   に関係したエピソードも豊富。『本棚探偵』のファンはサブテキストとしても読めるので
   更にお買い得といえるのでは。
『刑吏の社会史』 阿部謹也 中公新書
  *中世ヨーロッパを専門とする歴史学者による、被差別民であった「刑吏」(けいり/拷問
   や処刑の執行を職業とする人々)に関する研究書。古代ゲルマン社会においては畏怖され
   るべき存在であったにも拘わらず、12.3世紀を境にしてなぜ彼らが差別されるに至った
   のかについて、社会背景などから詳細に追及していく。
『人種と歴史』 C・レヴィ=ストロース みすず書房
  *著者が『親族の基本構造』の後に『悲しき熱帯』を出版したばかりの頃の小論。ユネスコ
   が出版した人種主義問題に関する小冊子のシリーズのために書き下ろされた。
   自然科学であるダーウィンの進化論の論理を文系学問にそのまま導入しようとする事への
   批判や、民族や文化の多様性が如何に重要かといった、いわゆる“20世紀型”の人類学の
   特徴が明晰に主張されている。こんな初期のころからやはり、レヴィ=ストロースという
   人物はレヴィ=ストロース以外の何者でもなかったのだと妙に納得。
『日本の大転換』 中沢新一 集英社新書
  *3月11日・福島の原発事故を受けて、今後の日本が目指すべき方向性について著者が示す
   自分なりの答え。「エネルゴロジー(エネルギー存在論)」の視点から、自然エネルギー
   との共存を提言する。
『ラテンアメリカ五人集』 M・バルガス=リョサ他 集英社文庫
  *収録作家および収録作は次の通り。
   J・E・パーチェコ  「砂漠の戦い」
   M・バルガス=リョサ 「小犬たち」
   シルビーナ・オカンポ 「鏡の前のコルネリア」
   オクタビオ・パス   「白」「青い目の花束」「見知らぬふたりへの手紙」
   M・A・アストゥリアス「グアテマラ伝説集」。
   中でもバルガス=リョサの「小犬たち」とパスの「青い目の花束」「見知らぬふたりへの
   手紙」あたりが好みかな。「小犬たち」は男たちの子供時代から老年に至る付き合いを
   描いた作品で、本書の中でもかなり評価は高い。(最初は中勘助の『銀の匙』のような話
   と思って読んでいたが、もっとやるせない話だった。)
『全身翻訳家』 鴻巣友季子 ちくま文庫
  *『嵐が丘』などの翻訳で知られる翻訳家によるエッセイ。本書の様に面白くて上品な文章
   を読むと、いつも惚れぼれしてしまう。
『殺す』 J・G・バラード 創元SF文庫
  *後期バラードの作品群の出発点となった作品といえるだろうか。イギリスの高級住宅地で
   起こった住民32名の大量殺害事件を巡るミステリ仕立ての中篇。
『かくれた次元』 エドワード・ホール みすず書房
  *人類学者の著者による、人間の空間認識研究に関する古典的名著。生物が他の個体との間
   に設けるさまざまな距離を元に、人間が社会生活を営む上で無意識のうちに行っている
   文化的な空間(距離)認識について考察。
『海月書林の古本案内』 市川慎子 ピエ・ブックス
  *著者は『女子の古本屋』(岡崎武志著・ちくま文庫)で紹介された荻窪にある(注:刊行
   当時)ネットの古書店主。ちなみに店名は「くらげしょりん」と読む。本書は著者が取り
   扱っている本の中から特に気に入っているものをピックアップして、オールカラーの写真
   で書影とともに内容を紹介したブックガイド。さすが女性店主だけあって選ばれているの
   はどれも装幀や意匠が綺麗な本ばかり。ずーっといつまでも眺めていたくなる。著者曰く
   「オンナコドモ」の本なのだとか。自分は基本的に「読む為の本」しか買わない主義なの
   だが、創刊当時の『暮らしの手帖』だとか知る人ぞ知る関西発の(食べ物に関する)
   小雑誌『あまカラ』、それに寿屋(現サントリー)の伝説のPR誌である『洋酒天国』等
   の書影を見ていると、思わず全部自分のものにしたくなる。(笑) 
   発行は2004年と少し古いが、取り上げられているのがなんせ古本だから全く問題なし。
   思うに自分が食べ物や本のエッセイを好きなのは、内容がいつまでも古びないからなの
   かも知れない。
『わたくしだから改』 大槻ケンジ 集英社文庫
  *筋肉少女帯のボーカリスト・大槻ケンジによるエッセイ。頭や体が疲れているときには
   オーケンのユルサが一番だがさすがに本書はゆるすぎた。(笑) 最も精神的に不安定
   だった頃に書かれた文が中心になっていると見えて、収録作の半分くらいがいつも以上
   にグダグダ。(笑)女性の身体の“一部だけ”に焦点をあてて映画評を試みた雑誌連載
   「パイパニック!」まで行くととても付いていけず、とうとうページを飛ばすはめに。
   それでも最初と最後にある表題エッセイの上手さは流石。ラストはいい塩梅で締めてあり
   読後感は爽やかだった。
『火刑法廷[新訳版]』 ジョン・ディクスン・カー ハヤカワ・ミステリ文庫
  *本の編集者が巻き込まれたフィラデルフィアの富豪の毒殺(?)事件。死体の消滅という
   新たな謎もおこって自体は更に複雑怪奇な様相を呈していく…。
   言わずと知れた怪奇本格ミステリの巨匠ディクスン・カーの代表作。つい読む機会を逸し
   ていて、新訳版が出たと聞いてさっそく購入。実を言うとカーは今まで長短編合わせても
   数冊しか読んでいなかったのだが、これは傑作だった。おみそれ致しました。
   雰囲気としてはホジスンの『幽霊狩人カーナッキ』をもっと精緻にした感じかな。
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『全身翻訳家』 鴻巣友季子 ちくま文庫

 翻訳家のエッセイは昔から好きなのだが、本書には見事にはめられてしまった。今まで読んだ翻訳家エッセイの中でもベスト3には入るのではないか。おそらく彼ら彼女ら(翻訳家たち)は、言葉に対する意識が我々常人とは全く違うのだろうな。読んでいて頭にすっと溶け込んでいく感触が何とも心地いい。詩人とはまたちがった意味で言葉の快楽を作り出す達人といえる。
 本書は筑摩書房から以前『やみくも』という題名で出版されたものを、増補・改訂して文庫化したもの。ただし増補の量が半端ではなくて、原稿はおよそ2倍近くに増えているので、単行本を読んだ人でも改めて十二分に愉しめるのでは。
 テーマは翻訳についてだけでなく著者の日常生活や食べ物など多岐に亘る。自分が気に入ったものを挙げると、たとえばこんな話。

 外国の貴族は、大切な宝飾品は身に着けずにしまっておいて、レプリカを作ってそれを身に纏うんだとか。一方、鴻巣氏の自宅では仕事で必要な本が「絶対あるはずなのにない」ことが増えつづけるが、絶対ある本を買い直すのは馬鹿らしくて意地でも買いたくない。そこでいきおい書店に行って該当箇所を確かめたり、図書館にリクエストして借りてきたりする日々が続いている。――本を読まずに仕舞っておくだけというのは、もしかしたら王侯貴族なみの贅沢ではなかろうか…。

 あまり挙げるとこれから読もうという方の興を削いでしまうのでここらで止めておくが、他にも「もっとも暴力的な弁当とは何か?」とか、シルヴァンスタインのベストセラー絵本『ぼくを探しに』を作家の倉橋由美子氏が翻訳したときの言葉の選び方だとか愉しい話題がいっぱい。
 真面目なところでは、南アの女性作家マクシーン・ケイスのアパルトヘイトに対する強い思いや、国際支援交流プログラムのホストファミリーとしてアフガニスタンから女性の先生を受け入れたときの話など、心に染みるものもある。どれを読んでも素晴らしい、名文/名言/名セリフの宝庫だと思う。
 エッセイ好きな方には、(時間と財布に余裕があれば)是非とも一読をお薦めしたい一冊。

アンチ○○

  ※今回はジャンル小説に関するマニアックな小理屈をダラダラ書き連ねるつもりなので、
   興味のない人は読み飛ばしてください。

 世の中には「アンチ○○」とか「反○○」とかいう類の小説がある。たとえばミステリの世界では、“日本四大奇書”とも呼ばれている小栗虫太郎『黒死館殺人事件』/夢野久作『ドグラ・マグラ』/中井英夫『虚無への供物』/竹本健治『匣の中の失楽』なんていうのがそう。
 野球なんかだと「アンチ○○」とか云えば単にそのチームが嫌いという意味だが、小説で「アンチ○○」と云った場合はちょっと意味合いが違う。はっきりした定義を調べた訳ではないけれど、自分としては「既存のジャンルの枠に収まりきらない過剰さを持つことで、結果としてジャンル枠への揺さぶりを掛ける効果がある物語」という感じで捉えたい。
 さきほどの例でいえば、ジャンル小説のミステリとしての面白さである、犯人探しやトリックといった“謎とき”以外に、物語から溢れだす価値(意味)の過剰性をもち、それが(ジャンルを成立させている)暗黙の約束事/枠組み自体を揺るがすほどのパワーをもっているもの。幾らパワーがあろうがジャンルの枠内で整合性がとれているものであれば、ジャンル枠の強化に寄与することはあっても枠の破壊にはならない。したがって自分にとっては、笠井潔の『矢吹駆シリーズ』は「アンチミステリ」の対象からは外れることになる。(U・エーコ『薔薇の名前』は…まだ読んでないから分からない。/笑)
 ただしここで気をつけなければいけない事がある。それはエンタテイメントを目的とするジャンル小説にあっては、意味の過剰はしばしば難解さの原因となり、そのため物語としての面白さを損なってしまうおそれもあるという事。(そうなった時、その小説は“失敗作“の烙印を押されることに。)
 それではアンチミステリとしての成功と単なる失敗作との違いはどこにあるのだろうか。自分としてはそれは「過剰な部分を読み解くことでミステリとは別の面白さが出てくる」という点ではないかと考えている。記号論的な面白さとでもいうか、メタフィクショナルな愉しみとでも言おうか。(ま、小説の愉しみ方としては邪道なのかも知れないけど。)

 SF小説の場合はどうだろうか。「アンチSF」と言われてすぐに思い浮かぶ作品はB・W・オールディスの『世界Aの報告書』。(マニアな話題ですいません。^^;)
 全般的に「ニューウェーブSF」と呼ばれる作品群は、程度の差はあるにせよどれも「アンチSF」の香りが強いといえる。ただし一部作家の作品を除いては、ジャンルの枠から溢れだす「過剰さ」に乏しく、読んでもさほど面白いものでは無かったりするのが残念。SFにおいてもやはりジャンルの約束事に反しているというだけでは駄目で、なお且つ物語としても優れていることが必要と考える。
 その意味で自分にとって及第点と言えるのは、ディックの晩年の作品群『ヴァリス』『聖なる侵入』あたりだろうか。他にはバラード『残虐行為展覧会』とかディレイニー『ダールグレン』なども。レムの『虚数』はSFじゃなくて文明批評みたくなっていくから対象外かな?(収録作の「ゴーレムⅩⅣ」だけならOKかも。)
 悩むのはリンゼイの怪作『アルクトゥールスへの旅』あたり。―ここらへんになると、まだSFというジャンルが確立する以前の作品なので、やっぱり対象外にしないといかんだろうな。ジャンル成立前ではそもそも“枠”自体が無かったわけだから、今の定義からはみ出していて当然だし。
「意識して書かれた過剰さ」でないのに、“後出しジャンケン”で「アンチ」とか決めつけるのはフェアじゃない。

 考えてみると、哲学・思想の分野でいえば木田元の『反哲学入門』なんてのも格好良くて好きだし、映画やマンガではアンチ・ヒーローものが好み。「判官びいき」じゃないけれど、生来ひねくれ者の自分としては、これからも「あー、失敗した。つまらなかったー!」とか云いながら、「アンチ○○」と名の付くものがあればつい手を出してしまうのだろう。(笑)

<追加>
 いろんな例を挙げたついでに、他のジャンルについても考えつくだけ。
 「アンチ・ホラー」としてすぐ思い浮かぶのは、国内では京極夏彦の『嗤う伊右衛門』。海外ではT・M・ディッシュの『ビジネスマン』といったところだろうか。(でも後者については読んでる人ほとんどいないだろうなあ。)良く似た分野で「アンチ・ファンタジー」では、マーヴィン・ピークの『ゴーメンガースト』3部作を上げておきたい。3作目である『タイタスアローン』後半の展開には驚いた。
「アンチ文学」ならば倉橋由美子とか笙野頼子あたりの作品は皆あてはまるのではないか。あ、筒井康隆の『虚人たち』もそうかもしれない。他にも「アンチ恋愛小説」や「アンチ経済小説」など、探せばきっとあるのだろうが、さすがにそこまでは手を出してないので分からない。(笑)
 きりが無いのでいい加減このくらいにしておこう。

『刑吏の社会史』 阿部謹也 中公新書

中世ヨーロッパを専門とする歴史学者による、被差別民であった「刑吏」(*)に関する研究書。古代ゲルマン社会においては畏怖されるべき存在であった刑吏が、何故か12、3世紀を境にして差別されるに至った理由について、社会背景などから追及されていく。著者の精緻な考察は様々な項目に亘るため一言でまとめるのは難しいのだが、以下に凡そまとめてみよう。

   *…「けいり」と読む。拷問や処刑の執行を職業とする人々のこと。

 ■古来のゲルマン社会において「犯罪」というのは、「①個人の生命や財産に関するもの」と
  「②社会そのものに対するもの」に区別されていた。前者は犯罪被害者やその氏族が加害者
  に対して「復讐」を行う形で解消され、国家や社会による介入は無かった。
  社会全体への重大な脅威とみなされた犯罪だけが、国家や社会による処罰の対象になったの
  であるが、その狙いはあくまでも「毀損された社会の修復」であり、刑吏は社会に代わって
  正義を執行する“名誉ある存在”であった。

 ■ところが地方からの非定住民の流入による人口増大で都市化が進むと、従来の仕組みでは
  対処しきれない状況が起こり始める。放浪者などによる犯罪が増えるとともに共同体の
  希薄化も進み、地域社会では犯罪を裁くことが不可能になっていく。
  それに代わって強まっていったのが国家(統治者)の権威。裁判や処刑に関する権利は
  最終的に住民たちの手から国家へと奪い取られ、それにより刑吏は単に国王の命令を実行
  する雇われ人でしかなくなってしまう。
  また同じ頃、各都市では「同職組合(ツンフト)」が発展しつつあった。この仕組みは職人
  たちが自分らの権利を守ろうと作ったもので、仕事だけではなく宗教や日常の生活までを
  対象とした全人格的組織であったそうだ。(社会的に見れば、まるでひとつの身分制度の
  ような位置づけ。)彼らは厳しい規約を作って自分たちの権利を守り、それ以外の者を排斥
  するようになっていった。

 ■時代の進展とともに市民や個人の意識が高まっていくと、旧来の社会制度による弊害や矛盾
  が目立つようになり、単純に「犯罪者」とは呼べないような者たちの処刑も増えてくる。
  今まで処刑の対象になるのは外からきた“異人”だけであったが、やがて市民たちの処刑が
  増えるにつれて、刑吏は圧政や社会の理不尽さの象徴として捉えられていくようになる。

 大雑把に言えば、以上が刑吏が差別されるに至った歴史的な経緯。ヨーロッパ社会における差別については、他にも「煙突掃除人」や「皮剥ぎ」といった職業的なものをはじめ、ユダヤ人やロマ族(ジプシー)といった民族的なものなどいろいろあって、ひとことでは語れないくらいややこしい。しかしいずれの場合も、ある社会集団がグループを維持する上で何らかの危機に至った時、それを克服するため他の集団を”仮想敵”として排斥する、というのが基本的なパターン。となれば、日本だって決して無関係な話ではなく、アイヌや琉球民族に関する話や同和問題など現在でも未解決の問題は数多くある。最近では性同一障害やインターセックス問題など性的差別という新しい問題がクローズアップされつつあるし。「他者の否定」と「相互承認」の相克というのは、社会を語る上で永遠の課題と言えるかも。(ちなみに自分の頭の中で阿部謹也という人物は、日本における非差別民の研究に精力的に取り組んだ網野善彦とセットになっている。)

 本書はテーマの性質上どうしても処刑方法や拷問方法の記述が多くなり、続けて呼んでいると少し気が滅入ってくるのが難点。でもしっかりした論考で読み応えのある本だった。他にもパイド・パイパー伝説を考察した『ハーメルンの笛吹き男』やエッセイ『中世の星の下に』なども面白かったし、この著者の本ならどれを読んでもハズレは無さそうかな。書店で本を選ぶ際の選択肢が増えるのは、何にせよ嬉しいことだ。(笑)

『千のプラトー(上・中・下)』② G・ドゥルーズ/F・ガタリ 河出文庫

  注)前回に引き続いての2回目。まずは個別の章に関する断片的な感想の残りから。

【言語学の公準】
 この第4章は言語に関しての考察が述べられているが、極めて抽象的な議論が続くため前章より更に難解さが増している。本書を通じて特に理解しにくい章のひとつといえるだろう。
 人が何かを表現するために言葉を発すると、その場の状況はその言葉が持つ“意味”の範囲内に否応なく押し込められてしまう。イメージが固まってしまい、その言葉の射程内にしか理解が及ばなくなる。(*)

   *…たとえば「○○年○○月に革命がおこった」といえば、その時を起点にして革命と
     いう現象が認識されてしまうということ。(実際にはその前から様々な状況が進んで
     いて、その結果として革命が起きたはずであり、単純に線引きなど出来ないにも拘ら
     ず。)

 更に「言葉」というのは、実際の「行為」に直接ではなく間接的に結びつくものでしかない。従って言葉と実践(現実)との間には、必ず何らかの切断/認識のずれが起きてしまう。このような様々な解釈のされ方をドゥルーズとガタリは、「読行為の内的変数」という(相変わらず難しい)ことばで論じている。
 また本章でドゥルーズとガタリが主張する「器官なき身体(CsO)」という概念は、実現への道のりがどうやら極めて困難で苦痛を伴うもののようだ。だとすれば、それにより得られる効果がよほど大きくなくては実行するメリットはないのだが、その利点がさっぱり見えてこない。何故そこまでしてやらなきゃいけない事なのだろうか。「戴冠せるアナーキー」が重要なのだと強く言われても、何だか釈然としない。
 そもそも「分析」という行為は、人間が現実の世界を少しでも理解するために発明された知の技法であり、近代科学の基礎になっているものといえる。その字義は文字通り「世界を細かなブロックに分けて調べる」という事。しかし著者たちによるアジテーションは、(言語を始めとして)あらゆる「記号」に対して、複数の意味を被せたり類似した記号との間の境界を曖昧にすることで、世界全体を正体不明の大きな塊(=リゾーム)にしてしまうのが狙いのようだ。釈然としないのは、そのメリットがあまり明確ではないこと。なぜそれが必要な事なのか自分にはさっぱり理解できなかった。せめて素人にも分かるようにそれくらいは易しく書いて欲しかったなあ。
 それと余談になるが、本章でも前章に引き続いてバルトが批判の対象に挙げられている。しかし自分が読む限りでは、彼らの手法とバルトの記号論との違いはあまりないように思えてならない。「“言語の抽象機械”を打ち立てなくてはならない!」とか気勢を挙げているのだが、バルトが『エクリチュールの零度』で書いた主張と何が違うのか、自分には頭が悪いのでさっぱり分からない。(笑)

【顔貌性】
 7章では「顔貌性」というまた新たな概念が登場する。社会で言語・地位・役割といった「シニフィアン(=表現するもの)」が発動するためには、その前提として常にある記号系が存在しなければならないそうで(ただし意識されてはいないとのこと)、それを著者らは「顔貌性」と名付けている。(**)
 言葉を発する前にまずその人の「顔」があり、そこからコミュニケーションやあらゆる知的活動が行われるようなものか。この「顔」というものは様々な権力と親和性が高い。そもそも著者らはそこから「逃走」することを理想としているので、「顔」の解体に向かうべきと主張する。だがそれを実現するのは生半可なことではない。いくら「意味」を引きはがしても瞬時に何かを吸引して、また別の「顔」になってしまう様子はまさにブラックホール。それでも諦めずに常に解体しつづける事こそが大切なのだと彼らは述べている。

  **…例えば“白人”である事などがそう。現在のマーケティングでよく用いられている
     「ペルソナ(仮面)」という概念に近いかもしれない。

【ヌーヴェルバーグ三篇、あるいは「何が起きたのか?」】
 ここでは素材として文学がとりあげられる。3篇の中短篇小説を引き合いに出しながら、世界に関する2通りの解釈の仕方について説明。でも説明にでてくるのは「近くを見る人」と「遠くを見る人」という表現で、相変わらず読者を煙に巻いている。(笑) 文章中で「有糸分裂」など唐突に生物学の用語を比喩に使ってみたりして、あらゆるジャンルを越境する“パフォーマンス”として自分たちの思想を示そうとしているようにも見える。ここまでくると、もはや文学的というよりも芸術表現に近いかも。用いる用語ももはや比喩(メタファー)ではなくて寓意(アレゴリー)と化している。

 ここでドゥルーズたちが用いている戦術は「子供」だ。
 既存の価値観や世界の解釈の仕方(=彼らはそれを「線」と呼ぶ)とは別の「線」を自在に引く存在である子供。いずれ彼らも大人になるにつれてどこかの「線」に収束していくのだろうが、子供でいる間は常に新しい「線」を引き続ける。子供らが無意識に行っているこの作業を、敢えて大人である我々が意識して実行していくべきと著者らは主張する。それは即ち、既存のエクリチュールに囚われない独自の「逃走線」を引くということに他ならない。
 しかし既存の価値感を否定するのは構わないけれど、その先どちらに向かおうとしているのだろうか。行き当たりばったりでは路頭に迷ってしまうだろう。自分の周囲(世界)の存在を無責任に否定するだけですむのは、周囲が確固たるものである場合に限るはず。周りが支えてくれるのを当てにしているだけでは、単なる駄々っ子と変わりがない。世界中が互いに否定し合うだけになってしまったら、単なる混濁したスープが出来上がるだけであり、破壊だけでは先に繋がる展望は見えてこないと思う。
 しかし「建設の前の破壊」ということだけに焦点を絞れば、本章の主張は従来の閉塞感や固定した価値観(テーゼ)を打ち破るための意図的な手法としては極めて有効だろう。まだ社会に対するアンチテーゼを提示する前の状態でしかないとは思うが、でも彼ら自身はアンチテーゼを出すこと自体を否定しているんだから仕方ないか。(笑)

【ミクロ政治学と切片性】
 ここ第9章でのキーワードは「切片」。これも分かり難い概念だが、例えば「ドルは通貨の支配的切片」、「ブルジョアジーは資本主義の支配的切片」という具合に使われている。『自分を捉えて離さない他者との共振関係』もしくは『自らを支配する超コード化したシステム』と言い換えることも可能らしい。
 著者らによれば、人が生きていく過程には「恐怖」「明晰さ(≒世界を理解できたという思い込み)」「権力」「情念(≒ニヒリズム?)」という4つの危険があるらしい。その4つの危険から逃れようとして、人はしがみつける何らかの切片を自ら求めるのだとか。なぜなら自分の所属するところ(切片)への所属意識を「硬化」させることで、より安心する事が出来るから。なおこのような様々な「切片」というは、“群衆”と“脱領土化した流れ”が出会うところに自然と生まれてくるものだそう。
 きっとこの過程がさらに徹底されていくと、『マルチチュード』でネグリらが述べたように、「政治の一形態として常態化した戦争」が世界に蔓延することになるのだろう。行き着く先はファシズムの自滅的国家であり、テロと<帝国>の果てしない戦いがつづく阿修羅の世界であったりするわけだ。

【強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること…】
 もしかしたら本書の中で読んだ時にいちばん面白い章かもしれない。メルヴィルの『モービィ・ディック(白鯨)』からスピノザまで、はたまた怪奇作家・ラブクラフトからエクスキュルの『生物から見た世界』まで、様々な文学作品や著述家たちを引き合いに出して、「生成変化」と「多様体(≒切片)」の関係性について言及する。(怪奇小説ファンとしては、狼男や吸血鬼という単語が出てくるのを見るだけで嬉しくなってしまった。)
 著者らによると「生成変化」と「多様体(≒切片)」というのはイコールで結ばれるものらしい。本章ではその根拠となる理由について、「異なる多様体間における行き来」という概念を使って説明している。(すいません、要約しても面白さが全く伝えられない。/笑)
 後の方ではさらに話は進み、博物学を例に自然科学や人文科学など様々な科学/知性における“枠組み”にまで発展。(なおこの“枠組み”は本書では「観念の形式」と呼ばれているが、「パラダイム」のことにほぼ間違いないだろう。)

【「領土化」の難点と効果について】
 この章は、ある種の価値基準・判断基準である「点」と、先程も挙げた世界の解釈の仕方である「線」についての解説。常に「点(視点)」を固定してしまうことのデメリットと、そこから脱出する為にどんな「線」が必要かを規定している。でもここでも少し引っかかる部分が…。
 本来「点」と「線」というのは表裏一体のものであるはずだろう。だとしたら、エッシャーの絵のように「黒と白」や「地と図」が反転したら、どこにでも無限に「点」が現れてしまうのではないか。その場合どんな「線」を引いても脱出することは不可能となる。それでも敢えて「線」を引いたとして、(批判にはなっても)新たな価値基準の創造には成り得ないのではないか。(すいません、直感的な印象なので間違っているかも。)

 『ヌーヴェルバーグ三篇』の章でも書いたように、世界を壮大なパロディとして読み替えようという発想は良いが、パロディは本物があってこそ初めて成り立つものといえる。現在のように世界そのものが脆弱で揺らいでいる時代には、破壊ではなく建設を、あるいは混沌ではなく道筋を示す事こそが必要ではないだろうか。 

【遊牧論あるいは戦争機械】
 この12章と続く13章ではかなり骨太な議論がなされる。内容的にみて本書の中でいちばんの山場といえるかも。
「戦争機械(≒暴力による解決を図るメカニズム?)」は「国家装置(≒現国家システム)」の外部にあるという“公理”から始まる本章はやがて、「戦争機械」の本質へと切り込んでいく。このあたりルネ・ジラールなどの問題意識に近いのかなあと思いながら(高くて読んでいないのです^^;)、興味深く読んだ。
 本章によると『至高の外部にある形式(外部性形式)』というもの、名付けて“情動の思考”というのが「戦争機械」の本質なのだとか。それは背反するような多くの特徴をもったものだそうで、例として列記されていたのは次のようなものだった。
 曰く――「思考を主体に帰属させるのではなく、出来事すなわち「此性(これまた説明が難しい概念!)」としての思考」「本質を規定する定理的な思考でなくて、解決策は王道科学に任せてしまい自らは何も生みだそうとしない問題提起的な思考」そして「民衆に訴える思考」…。
 「戦争機械」というのは、ドゥルーズやガタリにとって対処が必要な“危険”のひとつなのだろうか?などと思いながら、最初の辺りを読んでいた。しかし読み進んでいくとどうやら違ったようだ。(***)
 章の後の方になると「戦争機械」が「国家」に対する戦略である「遊牧民的な思考」と同一視されていくことになる。そして遊牧民的(ノマド的)な思考を従前たる国家的思考を乗り越えるためのものとして利用し、読者の前に提示しようとしているみたいに見えてくる。あれっ、彼らは「戦争機械」を否定する立場じゃなかったのかな?「戦争機械」は否定してその大元にある「遊牧民的思考」は認めるわけ?

 ***…ただしいきなり読解の難易度が上がるので、そう言いきれる自信はない。なぜなら
     「国家的な概念/王道科学」と「遊牧民的な概念/遊牧科学・巡航or移動する科学
     (ブリコラージュみたいなもの?)」の違いを説明するために、著者たちはある喩え
     を用いているのだが、更にその喩えを説明するために別の喩えを持ってくるという
     抽象化の二乗を行っているから。とっても分かりづらい!

 “暴力”というのは「自由の相互承認」(by竹田青嗣)と根本から対立する概念であって、この世のあらゆる社会ルールの礎になるものを否定するものではないのだろうか。将棋やチェスやトランプなどのゲームにおいて、盤やカードそのものをひっくり返す相手に対しては、一体どのようにゲームで決着をつけるというのだろうか。
 頭がこんがらがってきたので、あとは中に出てきた重要な指摘を書き出して本章を終わることにする。(笑)

 ・「数」という概念についての指摘。戦争機械にとっては、人を「数」という抽象的な概念と
  して把握することが重要。「数」とは氏族/血統的な関係や領土/具象的な組織関係に対峙
  するものである。

 ・「武器」(戦争機械に関係が深い)と「道具」(労働機械に関係が深い)の対比。戦争機械
  はターゲットを獲物として一日限りの利用をする“狩猟”という方法と、ターゲットに運動
  をさせて経済的/継続的な利用をはかる“調教”という方法の両方を駆使する。そしてこの
  方法は「武器」と「道具」という手段の利用方法におけるアレンジの違いがあるだけで、
  元来は同じものといえる。

 ・「国家」に属するものと「遊牧民」に属するものの対比。前者には軍人や兵士および労働者
  が含まれ、後者には戦士や職工が含まれる。旧態依然とした前者の成り立ちは後者によって
  生まれ変わる必要がある。

 最後に本章における誤認(と思われる点)をひとつ。
 著者らが述べる次の主張、すなわち「遊牧民にとって“絶対”という存在は聖なる場所に出現するものではなく局限されない。すなわち司祭や神に対する不敬を砂漠の遊牧民たちは持っている。」というのは、明らかな事実誤認ではないのだろうか。場所に限定されず彼岸に存在する絶対的な神を生んだのは砂漠なんだから。

【捕獲装置】
 ここでは12章からの戦争機械に関する考察が続く。テーマは国家(皇帝)がいかにして戦争機械(戦士)を国家体制に組み入れていくか(=「捕獲」)ということ。

 論旨の進め方としては歴史学の体裁をとっていて、原始社会から古代専制国家がつくられる様子を説明していく。その過程で正規の仕組みから漏れ出す(=「脱コード化」)人々によってできた余剰を吸収するものとして、軍隊や冶金業、商業といった制度が形成され、急激に国家としての体制を整えていったとされる。そして社会の「脱コード化」と「脱領土化」がその後更に進んでいき、ある閾に達した時に現在のような資本主義に覆い尽くされた世界が出現する…。とまあ、これが著者たちによって描かれたストーリー。まるで見てきたようにさらっと描かれているけどほんとかなあ? 検証しようもないから否定も出来ないんだが、典拠も示してないし学術的な信用度はどうなのだろうか。
 取り敢えず疑問はそのままにして先に進めることにする。

 資本主義の成り立ちに関する仮説を示した後は、「公理(≒ある集団の共同意思を代表するもの?)」に基づいて、現代国際社会における資本主義的な経済原理を説明していく。ただし御説ごもっともではあるが、現状認識に終始していてさほど目新しい知見はない気がする。資本主義が持つ「何でもあり」の無敵さが強調されるだけで、それに対抗するための先の展望は示されていないのが残念だ。
 今の世界の問題点への対処法としては、例えば「マジョリティの公理に対抗するには全てがマイノリティになるべき」とかいうばかりで、建設的な対抗原理は示せていない(と思う)。でもある公理(テーゼ)の要求に対抗するために別の理屈(アンチテーゼ)を主張するのは確かにかっこいいが、新たな公理を生み出すだけに過ぎないだろうし、彼らはアンチテーゼの提示を拒否しているのだからやむを得ないのかな?…うーん、さっきも書いたけど難しいなあ。しかし単に今の国家を壊すだけでは、ホッブスのいう「万人の万人に対する闘争」が再燃するだけだしなあ。(ここらへん、自分でも答えを持っているわけではない。)
 ま、いずれにせよ浅田彰らによってポストモダン思想が日本に紹介された時のキーフレーズ、「逃げ続けること」の元ネタがどこにあるのかが分かったのは、大きな収穫だった。
 
 以上で個別の章に関する感想を終わるが、最後に再び全体に関して書いておきたい。
 概してポストモダンの思想家たちの著作では「何が書かれているか」だけでなく、「どのように書かれているか」もとても重要視されているようだ。従って本書を理解する上では、おそらく文体に着目することもかなり大切なポイントになる。もしも自分に可能だったら原書(仏語)で読むべきなのだろうが、かといってそれは仏語はおろか英語すら満足に操れない自分の語学力では到底無理なこと。こんな時、「舶来の思想」を知る上での難しさを実感する。はたして他の人はどう感じているのだろう。
 とりあえずネットで本書のカスタマーレビューをググッてみた。結果は大絶賛の嵐。でも良く考えたらいい加減な気持ちでは読み通せない本だけに、カスタマーレビューを書きたいとまで思う人はドゥルーズ/ガタリに惚れ込んでいる人が多いのだろう。皆に何となく共通しているのは、折にふれ何度もあちらこちらを読み返して、インスピレーションの源泉にしようという様子。どの人も本書を完璧に理解している訳ではなさそうで、ちょっと安心した。自分の読解力が全然足りてないというわけではなさそうだ。(笑)
 もういちど繰り返すが本書で自分が理解しているのはせいぜい3分の1程度といったところ。残りの3分の2についてはここでは一切書かなかった。(だって分からないんだから。/笑)だからこれから本書を読もうという方は、もしかしたら残り3分の2で素晴らしい洞察を得る事が出来るかも。ご興味がある方はぜひ頑張って頂きたい。(笑)
 でも分からないなりに本書が面白いと感じられるのは、まるで詩のように読む者に色々なイメージを想起させるからなのだろう。いうなれば読者にわざと誤読させるために書かれた文章と言えるのかもしれない。

 この『千のプラトー』という大著を読んで感じた印象をまとめると、ポストモダン思想はやはり現代社会の問題点に関する分析が大変優れているなあということ。惜しむらくは(既に何度も書いているが)問題に対する処方箋が充分に示されず、あれもダメこれもダメを繰り返している点。竹田青嗣によって「ニヒリズムに陥っている」と批判されてしまったのも、むべなるかな。その意味では、一歩踏み出して「行動の人」になった柄谷行人に対しては、実はひそかに期待したりもしているのだ。いやホント。

<追記>
 長くなるがもう少しだけご辛抱を。
 ポストモダン系の思想書は得てして難しいものが多いが、必ずしも思想家の全てが難しい文章を書くわけではない。先述の竹田青嗣や柄谷行人のようにとても論旨が分かりやすい文章を書く人だっていくらでもいる。彼らの著作を読む体験は自分にとってストレスもなくとても快適なもの。
 もちろんその一方では、松岡正剛や山口昌男のように文意をやや掴みかねるタイプ、すなわち“分かり難い”文章を書く人もいる。ただし彼らの文章にはそれはそれで独特の魅力があり、ただ読み難いだけでは無い。だからこそ読み続けている訳だ。
 そんな事を考えた場合、はたしてドゥルーズ/ガタリの文体は、フランスの人たちにはどのように受け止められているのだろうか。母国語を使う人々にとっては、独特の魅力がある文章なのだろうか。いや彼らだけではなく、同じように文学的表現を多用するバルトやボードリアールだってどうなんだろう。
 日本人が翻訳によって読む時には難解さばかりが目立つようだが、フランス人からすればもしかしたら読んでいるだけで気持ちが良い文体なのかもしれない。うーん気になる。

祝・カウンター数10000突破(笑)

 2010年2月28日にスタートしておよそ1年半を経た当ブログですが、アクセスカウンターの数字が昨日無事に10000を超えることができました。こんな殺風景なブログに、大勢の皆さまのご訪問を頂きまして有難うございます。小さな積み重ねではありますが、日々の生活の大きな励みになっております。また、拍手やコメント書き込みをして頂きました皆さまにも厚くお礼を申し上げます。

 それでは今後ともマイペースで更新していきますので、宜しければ末長いお付き合いの程、宜しくお願い致します。
 

『千のプラトー(上・中・下)』① G・ドゥルーズ/F・ガタリ 河出文庫

  注)文章の量があまりに多くなりすぎたので、今回は2回に分けます。

 フランスのポストモダン思想を代表する著作にして最大の問題作。単行本が出たのはもう数十年前のことだが、ボリューム的にも価格的にも手が出ないので文庫になるのをずーっと待っていた。単行本は大きくてとても重いので持ち歩いて読むのは不可能。価格も7,500円(税抜)なので、万が一途中で挫折するとダメージが大きすぎる。(笑) とはいっても文庫版でも3冊合わせると3,600円(税抜)になってしまうわけだが。(ただし3カ月に亘って1冊ずつ刊行されたので懐にはそれほどの負担ではなかった。)なお数カ月に分けて刊行される本については、読み始めるのはひとまず全巻を揃えてからということに決めている。小説の場合は物語の途中で時間が空いてしまうのが嫌だからで、学術書の場合は途中で飽きると挫折する可能性が増すから。
 そもそもポストモダン思想系の本は(自分の数少ない経験からすると)、得てして難解なものが多くて途中で集中力が欠けるケースが多い。今回もそれを警戒して全部揃えてから読み始めたのだが、結果的にはそれが大正解。途中で何度も挫けそうになるのを打破できたのは、ひとえに「お金がもったいない」という気持ちからだった。(笑) 冗談はさておき、それでは“お気らく流”の『千のプラトー』感想をば。

 ドゥルーズやバルト、ボードリアールといった、フランス系の思想家たちの著作に共通する特徴として、独特の「読み難さ」という物がある。さほど沢山のポストモダン思想本を読んでいるわけではないので、もしかしたら的外れかもしれないが、その理由のひとつには「文学的表現の多用」があるのではないか?という気がする。
 そもそも哲学・思想系の本では、今までにない概念を説明するために、言葉を新しく造りだしたり別の意味で使ったりすることが多い。従ってそれらの本を読むのは、当然頭の中でその言葉の意味を常に考えながらの作業となる。しかしドゥルーズやバルトの文章に感じる読み難さはそれだけではない気がする。どうやら彼らにとっては、「言葉」による直接的な表現以外に、暗喩やほのめかしも大変重要な説明手段になっているのではないか。いわゆる「語り得ぬもの」を示すのに文学が得意とする手法というやつ。
 言葉にするとすり抜けてしまう微妙なニュアンスを伝えるには、文学的表現はたしかに非常に有効なものとなる場合もある。しかし唯でさえ内容が難解なことに加え、その微妙なニュアンスまで(しかも翻訳を通じて)理解しようというのは、自分のような「お気らく読者」にとっては正直いってかなり荷が重い。従って本書の内容についても、おそらく全体の3分の1程度しか理解できていないであろうという変な自信がある。
 以上、これからの文章が的外れなレビュー(*)になってしまった場合の予防線を張ったところで(笑)、概要について順に触れていこう。

   *…「読みが甘い!」といわれればそれまでだが、あくまでも自分なりの解釈なので
     悪しからず。

 まずは全体像から。
 本書の狙いは「資本主義と分裂症」という副題がついている事からも分かるように、現代社会を覆い尽くす資本主義のシステムに対して、分裂症的な対処の仕方(=ひところはやった「スキゾ」というやつ)を提言するものといえる。本論は全部で14章からなり、そこにガイダンスを目的とした“序”と最終的なまとめを書いた“結論”が付く。
 “序”では本書の狙いや読み方についての説明(というか宣言)が書いてある。具体的な内容は、言うなれば一種のエクリチュール(修辞)論なわけだが、彼らにとっては「何を書くか」だけでなく「どのように書くか」も大変重要なことであるので、選ばれている言葉は極めて戦略的かつ意図的なもの。しかもそのせいで本自体が読み難くなっているのだから、まさに確信犯的な難読本といえるだろう。(笑)
 このような書き方のせいもあって、著者らの意図も大変に理解しにくいのだが、それでも無理やり要約してみると、つまりはこんな事になるだろう。

 ■世界は直線的に説明や表現できるものではなく、様々な因子が多次元的に繋がって相互作用
  をもつ。(**) したがって書物/文章にして時系列で一次元的に表現すると、大切な
  部分が表現されずに抜け落ちてしまう。それに対処して本書も「千のプラトー(高原)」が
  ランダムに並べてある構成に作ってあるので、どこからどのような順番で読んでも差し支え
  ない。(ただし最終章だけは一番最後に読むこと。)

 でもこれって絶対に嘘だと思う。唯でさえ何が書いてあるのか分からないのに、順番に読んでいかないと、もっと分からなくなること請け合い。詳しくいうと2・6・8・14章などは独立して読めるが、4・5・7章や12・13章は内容的にはひと続きのものになっている。また9から13章に関しては、全体が緩やかな繋がりを持ったひと固まりの文章と考えた方が理解しやすい。

  **…かの有名な「リゾーム(根茎)」とよばれる構造そのもの

 順番に読まないと困る理由は他にもある。本書では先程も書いたように「メタファー(隠喩/暗喩)」もしくは「見立て」とでも言うべき、文学的表現による言葉/用語がわざと多用されている。そして上記のひと続きの文章においては、初出の時だけはその用語について一応説明らしきものがあるのだが、後の章ではまったく説明なしに使われているのだ。
 しかもその表現がはっきりいって判りにくい。別のものに見立てた事が、結果的には却って逆効果となり本書の難解さを増しているように思えてならない。正直言ってここまで回りくどい表現をしないと説明できない事柄なのだろうか? 自分たちが100%表現できたと思ったとしても、受け取る側が仮に30%しか分かっていないのであれば、結局は30%しか表現できてないのと同じ事なのでは。そうまでしないと、伝えることが不可能なくらい難しい概念があるってことなのかな。数学に喩えるなら、“トポロジー的”にひとつ上の次元ということを主張しているような。(彼らの表現を借りると目的は「複写」ではなく「地図」を描くということ。)
 話ついでに苦言をもうひとつ。それは格好いいフレーズが多過ぎるという点。(笑) こんなことをされると、意味も良く分からずに引用したくなる誘惑にかられてしまうではないか。どうやら誰もが同じ衝動にかられるとみえて、巷に溢れるポストモダン信者の方の文章を読むと、ただ単に無意味に文意を分かり難くしているだけのようなものも散見される。

 「格好いいフレーズ」の例をひとつ挙げよう。ドゥルーズ&ガタリといえばすぐ取り上げられる有名なキーワードに「器官なき身体」というのがある。これが何を意味しているかというと、『ひとつの意味に結び付けられた部分の集まりではなく、多様体(≒多様性をもつもの)によって満たされた身体のこと。頂点から下部へと連なるツリー構造もしくは中心から周縁へとつながるスター構造をとらないリゾーム。』ということになる。…うむむむ、確かにフレーズだけ聞くと格好いいのだが、果たしてどれだけの人がこの説明で理解出来るのだろうか。(^^;)
 もっと簡単に「ごちゃごちゃと絡み合って入り組んだ関係性のかたまり」とか言ってしまえばいいのでは。

 今ふと思いついたのだが、本書は“文学的”といっても「作品」として自立するものではなく「文学批評」のようなものなのかも知れない。対象物を良く理解していないと意味が通じず、自立したテーゼにはなりえないということ。つまり永遠のアンチテーゼでしかないというのが、ポストモダン思想の限界なのかもしれない。世界を「ありのまま」に批評しようとすればこのような書き方になるのかもしれないが、そんなことが完璧にできる者がいるとすればそれは”神”に他ならないだろう。しかし著者らは簡略的な構造で世界を理解/説明することを拒否し、「リゾーム(ひと固まり)」そのままの形で説明しようと果敢に挑戦しているようだ。(それが副題にある「分裂症」ということか。)
 彼らは本書の中で、世界との間に通常の“意味”や“つながり”を無くした人々、すなわち統合失調症の人々による世界解釈の仕方を(戦略的に?)称賛している。なお統合失調症的な世界解釈とは、物事の関係をマクロに捉えるのでなく、例えば数学で言えば微分化の概念に近いミクロ的な見方とすることらしい。(これは物理学者リーマンによる「離散的多様体」と「連続的多様体」の関係にも近い。…って、こういう独りよがりな説明をすぐにしたくなるのが、ポストモダンの本を読む弊害だなあ。深く反省。/笑)
 話を戻そう。彼らは簡略化(=モデル化)を否定するのだが、しかしそうでもしないと人間には世界の理解は永遠に不可能なのではなかろうか。それともそれは著者らも承知の上であって、あくまでも資本主義の元となった“一神教的な思考”への対抗を意識した戦略なのだろうか? 著者の意図が汲み取れないので、読めば読むほどに謎は深まるばかり…。

 さてここからは話を変えて、いよいよ個別の章の内容に移っていこう。とはいっても元が体系立てて書かれた文章ではないので、概要をきちんとまとめる事など出来ない。よって自分が感じたことの断片を書き連ねていくことにする。分かり難い内容で恐縮だが、要約すればするほど大切なエッセンスが抜け落ちていくようなので、ご勘弁頂きたい。(なお、取り上げるのも全ての章では無くて、自分の印象が強かったものの抜粋。また文頭にあるのは各章につけられた名前である。)

【道徳の地質学】
 この第3章では、「表現するもの(シニフィアン)」と「表現されるもの(シニフィエ)」という、バルトによって示された構造主義的な記号論を批判している。ドゥルーズ&ガタリによれば、“表現(≒シニフィアン?)”と“内容(≒シニフィエ?)”は互いに入れ子構造による「二重文節」を形成し、どちらも“実質(=中身そのもの)”と“形式(=その在り方)”の組み合わせを、異なる角度から見たものに過ぎないのだそうだ。もともと分離できないものの一部の特徴だけに着目して、無理やり別々のものとする構造主義的な分析方法はおかしいとのこと。(うーん、どう書いても説明しにくい。/笑)
 それでは生半可な分析では太刀打ちできない厄介な「二重文節」に対して、著者らはどのように立ち向かえば良いと言っているのか? 期待してページをめくる。 ――ところがこの一番肝心な部分で彼らがとった説明方法は、やはり「見立て」なのだ。言葉そのものの危うさを自覚している彼らは、一般的な思想・哲学書とは違い、あらゆる考えを隠喩と暗示で切り抜けようとしているかのよう。とっても理解が難しいが、それでも極力分かりやすく説明して見よう。
 この章で著者らは「有機体(生命)」を「地層」に見立てている。例えば「地層」を構成する個々の鉱物は、種類も大きさも一つとして同じものは無い。しかし“形式”としては、ある地層が別の地層とはっきり区別される特徴をもっている。一般には「鉱物の特徴を考察する水準」と「地層の特徴を考察する水準」は異なっていて、互いに何の矛盾もなく理解されている。しかるに“形式”に着目した区分である「地層」から、徐々にその区別の基準を鉱物単体へとおろして行った時、はたして区分はどのようになるか。著者らによれば「地層」(=“形式”)は明らかに揺らぎ始める。
 ここで話を有機体に置き換えてみよう。キリンと亀は明らかに違うし、蝶とカブト虫だって誰もが一目見て区別ができる。しかしその違いはいったい何に依拠しているというのか? 亀とは違うキリンの“実質”とは何なのか? 「首が長い」という“形式”をキリンの“実質”と(仮に)主張するなら、どこまでを持って「首が長い」とするのか? 
 すなわち「突き詰めると"形式”と“実質”の境界はどんどん曖昧になっていくではないか」というのが、彼らの主張である(と思う。ちょっと自信がないが。/笑)

 かように“形式”と“実質”からなる関係性は、“表現“と”内容“の中間状態である抽象的なメカニズムを示す。これがもうひとつの有名なフレーズである「抽象機械」というもの。そしてこの「抽象機械」の特徴/特性を分析して取り出そうというのが、本書で彼らが行おうとしている作戦なのだ。著者らに倣って文学的表現を用いて記号論を「海」に喩えるならば、それまでの記号論学者は水の組成や海そのものの構成にばかり着目していたが、ドゥルーズとガタリはそれまで誰も注意を払わなかった「水同士の関係性」に着目したといえるかのも知れない。そして海の表面におこる現象を「波」と名付けるとともに、その関係を記述する方法として「流体力学」まで発明してしまった ――そんな感じだろうか。今までにない概念だけに表現するのも大変だろうが、理解するのはもっと大変だ。
 なお正確には先述の”表現”と”内容”の中間状態には2種類あるそうで、それぞれ彼らによって「内側に合摂された状態である“統合態”」と、「表面上にあらわれた状態である“平面態”」と呼ばれている。
 また「逃走線」というのもある。これは先程のキリンと亀の例をトコトン突き詰めていって、有機体(生命)と外部との差異までもが曖昧になった時(=これを“脱領土化”と名付けている)、有機体を外部と区別する「最終防衛線」のことだ。(普通はそこまで意味を追いつめられることは無く、曖昧なままで構わないのだが。)有機体(キリンや亀)の意味を問われた時にギリギリまで逃げ戻れる線、それが「逃走線」というもの。
 話が長くなってしまったが、結論としては複合的な意味合いを持つ現実の「二重文節」に対しては、どのように切り分けても無理があるので、境界線をどこまでも曖昧にしてはぐらかす「逃走線」を準備すべきということのようだ。

 如何だろう、雰囲気だけでも分かって頂けたろうか。第3章は全体の骨格を示す大事な章なので著者も気合いが入っているとみえ、いきなりとても抽象的で難解な議論が続く。従って特に分かり難い章ではあるのだが、基本的に本書は全部こんな具合。(先が思いやられるでしょ。/笑)

 とりあえず今回はここまでとして残りは次回②で。興味がある方は次回もお付き合いください。

ブログの題名

 今回はいつもと趣向を変えてこのブログの題名の由来について書いて見よう。(いつも以上にどうでもいい能天気な話題なので、興味が無い人はどうか読み飛ばしてください。)

 奥谷まゆみ氏の著作に『おきらく整体生活』(ちくま文庫)という本があるので、このブログの題名はそれをもじったと思って見える方が多いかもしれない。でもこの名前をつけた時には、かの本のことは全く頭になかった。
 実は「お気らく」の元になっているのは、昔テレビでやっていた『ウゴウゴルーガ』という番組の「おきらくごくらく」というキャッチフレーズ。自分は糸井重里氏が主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」というサイトが好きで、何年も前から読んでいる。(ほぼ日手帳も愛用)
 1年半ほど前、ちょうど読書ブログを立ち上げようと考えていた頃のこと、「ほぼ日」のサイトに『ウゴウゴルーガ』製作者インタビューが載った。そして番組がやっていた当時によく見かけた「おきらくごくらく」という言葉を目にした時、自分がやりたいブログのイメージにぴったりだったというわけ。

 ブログのテーマは本の感想だけでなく活字にまつわる全般的な話題にしようと思っていたので、「活字」という言葉はすんなり決まった。かといって「おきらく活字」では柔らかすぎるし「お気楽活字」では漢字だらけで固すぎる。そこでバランスをとって「お気らく活字」に落ち着いたというわけ。(まさかそのせいで「おきらく」でも「お気楽」でもどちらの検索でも引っかからず、正確に「お気らく」と打たなければ引っかからないなんて考えもしなかった。しかし今となっては後の祭り。/笑)
 問題は「お気らく活字」の後に何を付けるかだ。
 「活字的日常」とか色々と考えてみた結果、最終的に語呂が良い「生活」にしたわけだが、その後本屋に行って棚で『おきらく整体生活』を見つけた時にはびっくり。あれほど考えに考えた名前のはずなのに、ふたを開けてみたらしっかりとダブってしまっていた。(無意識に記憶に残っていたのかも知れないなあ。なにしろ「おきらく」にしなくて良かった。盗作疑惑の渦中にある作家にでもなったような気がして一瞬ヒヤリ。)

 とまあ、そんなわけで『お気らく活字生活』という題名だけは先に決めたのだけれど、生来のものぐさがたたって、ブログ画面の構成などはまだなーんにも決まってない状態がその後もしばらく続く。(笑)
 尤も、そもそもブログを立ち上げようと思ったきっかけは、読み終えた本について感想を書いた文章が結構溜まっていて、それをどうにかしたかったという事。(当初は公開するつもりなんて無く書きとめていたもの。)そのまま放っておくとどんどん溜まっていく一方なので、ある日一念発起して、凝った画面にすることもなくパパッと作ってしまったのが今お見せしているこの画面なのです。
 ホントは画面レイアウトを工夫して画像を張り付けたりして、もっと見やすい良いものにすればのだろうが、それを調べる時間すら読書にまわしたいという横着者。取り上げる本や文章の内容とも相まって「全然“お気らく”じゃない!」とお叱りを受けてしまいそうだが、本人は至って気ままに書き散らしているだけなのでご勘弁を。
 つまりこのブログの題名の意味は、読んで頂いている皆さんじゃなくて書いている本人が「お気らく」という意味なのです。(笑)

『不安定からの発想』 佐貫亦男 講談社学術文庫

 本好きで知られた俳優の児玉清氏がかつて、「自分のお薦めの一冊」を紹介するNHKの番組で取り上げていたらしい。元は1977年に出版された本で、2010年になって学術文庫から再刊された。今回はある方から「一度本書を読んで感想を聞かせて欲しい」とのご依頼を頂き、さっそく読んでみた次第。
 著者は航空工学の教授とのことで、中身は著者が航空工学から得た知見をもとに一般向けに書いたエッセイ。
 全体の構成は前半の3分の2がライト兄弟によって、1903年12月17日に史上初めての動力飛行が成功するまでの航空技術史、そして残り3分の1が様々な随想からなる。序文によると著者が本書を執筆した動機は、ライト兄弟が飛行に成功した最大の理由である“逆転の発想”が、社会の色々な面に活かせるのでないか?と考えた為らしい。
 なお本書で描かれる航空技術史とは「飛行理論確立の歴史」をまず縦軸として、古くはレオナルド・ダ・ヴィンチから熱気球のモンゴルフィエ兄弟、そしてグライダーを研究したジョージ・ケリーやプロペラ推進を開発したアルフォンス・ペノー、更にシャニュートを経てライト兄弟へと至るもの。対する横軸としてはヘンスンおよびアデールやラングレイ、そしてリリエンタールといった「失敗者」のエピソードが間に挟み込まれている。
 大まかに言うと、彼ら先達がことごとく失敗したにも関わらずライト兄弟が成功した理由というのは、予測が不可能な「空」という環境に置いては、機体の「安定」を求めるのではなく、逆に「不安定を制御する」という発想が重要ということに気付いたからなのだとか。(*)

   *…一般的に環境というものはむしろ安定していない方が当たり前。
     その原因はマンデルブロらによるカオス理論によって説明できると思うが、要は
     「パラメーターが3つ以上ある場合は相互作用により次の状態が予測不能になる」
     というもの。最初から周囲の状況が予測できるはずがないとすれば、変化に追従
     する力が優れていたシステム最も強いシステムであるというのは、ある意味納得が
     いく結論と言える。

 すなわち「安定」とは、常に変化する周囲環境に適応して自らの最適な状態をいかに維持するか?という、いわゆる「対応力」のことではないのか ―― 本書を読んでこんな事をつらつら考えていると、かなり前に「歩行」について書かれた次のような話を読んだことを思い出した。

 「歩行という行為を力学的にみると、わざと重心を崩して前に倒れ続けているのと同じ事」

 思えば生命現象そのものが、増大し続けるエントロピーの奔流の中で局部的に安定状態(低エントロピー)を保つという、「動的平衡」の見本のようなものだものなあ。
 更に付け加えるとすれば、『不均衡進化論』を読んだ時に感じた感激も根は同じではないかと。環境が安定している間は突然変異の発生率を下げて環境に適応した個体の数を増やすが、環境が激変すると途端に変異率が跳ね上がって、遺伝的な冒険を繰り返して新たな適応点を探る――という生物の精妙なつくり。従来の進化論では解き明かすことが出来なかったこのメカニズムを、(牽強付会に陥ることなく)説明し尽くしたところに『不均衡進化論』の醍醐味があったのだった。
 こうしてみると、著者が本書で主張していることはかなり大事な話なのかも知れない…。

 と、ここだけに絞ればとっても良い本と言えるのだが、実は本書にはそれ以外の部分が沢山あって、読んでいる間じゅうそちらの方が気になって仕方なかった。上手くできるかどうか判らないが、自分の感じた違和感の理由について以下に説明してみよう。
 本書の内容について続ける。著者によれば、有人飛行という未知の技術を成功裡に導くために、科学者(技術者)として心得ておくべきだった「正しいアプローチの仕方」というものが存在するようだ。

 1)生物(鳥/コウモリ/トンボ等)や、過去に偶然発見された技術(凧/模型のグライダー
   等)を良く観察して、それらがなぜ安定して飛べるかを理論的に分析すること。
 2)小型の模型を作ってみて、理論が正しいかどうか実地に検証してみること。
   (机上検討だけではNG)。
 3)無人もしくは動物を載せてサイズを大きくして実験を行うこと。
   (サイズが異なると思わぬ影響が生じる恐れがあるため)
 
 これら全てをクリアしたとしても、有人飛行を行うには更にもうひとつしなければいけない事がある。それはグライダー(エンジン無し)によって滑空実験を繰り返し行うことで、(突風や横風など)不測の事態が起こりえる「空」という未知の環境に、操縦者自身が慣れておくことなのだそうだ。
 以上をまとめてみると次のようなことになるだろう。

 『理論をしっかり立て、模型による繰り返し検証という手順を慌てず着実に行うこと。』

 あれっ?これって「不安定からの発想」じゃなくて単なる「失敗しないための技術論」だよなあ。実を言うと本書でかなりのページを割いて述べていることは、(技術論としてはたしかに優れていると思うが、)序文で書いてあったような「不安定を敢えて選んで制御で乗り切る」という内容とは違う話なのだ。
 他にもある。航空力学で問題となる「失速」という事象を説明するのに、喩えとして「経済の失速(不景気)」をもってきたりも。(却って分かり難いし、何より話が唐突過ぎて。/笑)
 
 本書を読み進み第二部に至ると、それまで漠然と感じていた違和感は全開となる。(苦笑)
 ここではヘリコプターの制御とかコマ(ジャイロ)の安定性、それに線形・非線形型の制御モデルがもつ安定性など、色々な「安定/不安定」という状態についての紹介と考察が7つ述べられている。
 それは良いのだが問題はそれぞれの章の末尾に付けられたコメント。これらの物理現象から得られた知見を、「○○から得た見解」という形で社会全般に対する教訓に当て嵌めようとしている。しかし中身を読んでみると、どう考えても論旨に無理があるような気が。
 進化論を生物だけでなく社会や思想の“進化”に適用したがるのは、世の東西を問わず理系人間が文化論を語ろうとしたときに陥りやすい失敗。教条的な堅苦しい理屈を振りかざすか、もしくはトンデモ系のおかしな話になりがち。(敢えて名前は出さないがこのブログでも過去に何冊か取り上げた覚えがある。)
 本書も安定/非安定という本来なら純粋に物理・工学的な事象についてだけ語っていれば、非の打ちどころが無い優れた技術論になっていたと思うのだが、敢えてそこからはみだして文明批評に踏み込んでしまったがために、ちょっと「トンデモ」のニオイが漂い始めてしまった。(笑)

 本書は余剰部分が多過ぎるため、技術論や学術書として読むと少し肩透かしを食うかもしれない。児玉清氏のように一種の「人生論」として読んだ方が建設的で得るものが多いかもしれないな。(ちょっと変なところもあるけど決して人を見下すような不愉快な書き方ではないし。)
 ま、たまにはこんなのも良いんじゃないでしょうか。(笑)

『竹田教授の哲学講義21講』 竹田青嗣 みやび出版

 内容は題名に書いてある通りそのまま。竹田教授が学生との対話形式で西洋哲学のエッセンスを伝えるというもの。取り上げられている思想家は全部で16人(*)だが、ポイントとなるヘーゲルやフッサール、ハイデガーといった人達は2回に分けて講義しているので全部で21講となる。(もとは連載されていたものらしい。)

   *…プラトン、アリストテレスデカルト、ホッブス、スピノザ、ヒューム、
     ルソー、カント、ヘーゲル、ニーチェ、マルクス、フッサール、フロイト、
     ヴィトゲンシュタイン、ソシュール、ハイデガー

 今まで『プラトン入門』や『ニーチェ入門』など著者が一般読者向けに書いた哲学入門書は一通り読んでいるので、それらを軽くおさらいするような軽い気持ちで買った。ところが読み進むうちに「あれ?」という感じに。
 たしかに歴代の西洋思想をコンパクトに解説した本ではあるのだが、どうもそれだけではなさそうだ。どうやら『人間の未来』とか『人間的自由の条件』といった自著で展開されたテーマが、まるで二重写しになって透けて見えるような感じが。つまり初心者向けの哲学解説であるとともに、著者の思索活動の総括にもなっているというわけ。
 装丁も南伸坊による軽いタッチなので、そのイメージで単なる「西洋哲学入門書」として読み始めた人は少し戸惑うかもしれない。(もちろんそういう読み方もできるが、それだけじゃない過剰さがある。)逆に自分のように前からの竹田ファンは、単なる入門書じゃないので嬉しかった。(笑)
 
 著者の本にあまり馴染みがない人のため、この本を愉しむためのポイントについて簡単に整理してみたい。本書で述べられていることをまとめると、概ね次の2つに集約されるのではないかと思われる。

 1)人間が外界や他者を「認識する」というのはどういうことか、本当の「真・善・美」は
   あるのか?
    ⇒プラトン、スピノザ、デカルト、カント、ニーチェ、フッサール、ハイデガーらに
     よる追求の歴史

 2)近代社会で起こってきた貧困や戦争といった不幸の原因は何か、どうすれば克服できる
   のか?
    ⇒ホッブス、ルソー、マルクスからニーチェ、そしてヘーゲルへと続く思索の再評価

 前者はまさに哲学の王道をいくような内容だが、問題は後者の方だ。竹田の著作にある程度親しんだ人でないと、こんなにあっさりと流すだけでは話が理解し難いかも。それに輪を掛けてややこしくしているのが、思想家を取り上げる順番。入門書のセオリー通りに年代順に並べてあるため、1)と2)の二つの内容が入り混じって取り上げられるのだ。ここでわざわざこの件に触れたのは、予めふたつのテーマがあると知っているだけでも、理解度(=本書を愉しめる度合い)が大分違ってくるかも知れないと考えたから。
 話を戻そう。著者が以前からライフワークとして取り組んできた仕事には、現代社会が抱える種々の問題に対して思想的/原理的な解決方法を示すというのがある。その為に必要になるのが、過去の偉人たちの思想を原典に立ち返って再評価するという作業。(極論すれば、これまでの彼の「哲学入門」的な著作は全てその過程で生まれた副産物といってしまっても良いくらい。)
 したがって本書は教育者としてではなく哲学者としての竹田青嗣による主要著作への入門書という役割も果たしているといえるだろう。(**)

  **…教育者としての顔は先述の『プラトン入門』『ニーチェ入門』の他、『ハイデガー
     入門』(いずれもちくま新書)、『現象学入門』(NHKブックス)など。
     また哲学者としての独自の思索には『人間的自由の条件』(講談社学術文庫)
     『人間の未来』(ちくま新書)などがある。

 ところでここで取り上げられている思想家たちは、一昔前のポストモダンブームにおいてはドゥルーズやガタリたちによってやり玉に挙げられていた人ばかり。
 ポストモダン思想では現代社会に蔓延する侵略戦争や貧困問題など、数多くの深刻な問題の根本原因が現代社会(≒国民国家/資本主義経済)の仕組みそのものにある――とみなしている。したがって、現在の国家体制を作り上げる礎となってきた近代哲学こそが、すなわち現在の状況を生み出した元凶ということになるわけだ。そう考えるとポストモダン思想が彼らを目の敵にしたのも、ある意味で仕方ない面はある。)
 ところが竹田によれば、それは全くの誤解なのだとか。確かに過去の思想家たちは、彼らの時代の文化や知識に基づいて思索を巡らしたが故、今から見た場合に思想的な限界や変な点なども”一部”に見受けられる。しかしだからといって、それを理由に彼らの思想の”全て”を批判すべきではない。彼らの難解な用語に惑わされることなく、その良質なエッセンスだけを取り出せば、現代思想に勝るとも劣らないほどの深さまで原理的な検討がなされている部分もあるのだ。―― これが竹田の(変わらぬ)主張なのだ。(ちなみに彼によればプラトン、ヘーゲル、フッサールが一番誤解されてきた哲学者とのこと。)

 それでは本書の流れに沿って、そのポイントをかいつまんで説明しよう。

 ■人間は相互の不信によって「万人の万人に対する戦争(普遍闘争)」の状態にある。
  (その結果が「勝者が敗者を支配する」という封建社会や、「国家同士の弱肉強食」が
   引き起こす戦争となる。)

 ■戦争状態を抑制しつつ、同時に各人の自由を確保するためには、互いが自分の「権力」を
  どこかに移譲するしかない。(それが個人に集中しないよう、法律などの“理念”を
  最上位にもっていったのが法治国家であり、市民社会の始まり)
   …以上はホッブスの主張

 ■「最も優れた」とか「唯一正しい」というものを求めがちだが幾ら追求しても答えはない。
  どの主張が正しいかの判定は原理的に不可能であって、そのように究極の答えを追い求める
  のは人間の理性がもつ「推論」能力の特性によるもの。すなわち何かのテーマを与えられる
  と、その原因~結果の流れを突き詰めていき、最終的な(完全な)像に行き着くまで推論を
  止めようとしないが故の間違った考え。答えが本当に存在するかどうかは不明。
   …これを証明したのはカント

 ■従って「優れた世界」「正しい世界」を実現しようとすれば、必ず各人の主張がぶつかり
  合って決着がつかない。目指すべきはお互いの「自由」を実現するようにお互いが努力す
  るという「自由の相互承認」しかない。
    …これはヘーゲルの真の主張(誤解されているが)

 ■ちなみに現在の社会の問題は、これらの原理が間違っている訳では無くて、まだ実現が
  成されていないが故に発生。(たとえば、国家内では市民が各自の「権力」を社会に移譲
  しているので公共の安全や秩序が保たれているが、国家間では超越的な権限移譲がなく、
  国家同士が互いの主権を主張し合うがゆえに闘争状態/戦争がなくならない。)

 少し自分の好きなテーマの話に偏ってしまったのでいい加減これくらいで止めておこう。このあたりの話に興味がある方は、是非同じ著者の『人間の未来』なんかを手に取ってみて欲しい。すごく面白いんだから。
 本書では他にも、人間がものを認識したり考えたりする場合の原理だとか、「本当のモノ(=真)」「本当の正しさ(=善)」「本当の豊かさ(=美)」に対する理解や、それを踏まえて人はどのように生きるべきか等々、一般的な哲学入門書として必要な内容もしっかり押えられている。むしろ初心者の人が何の先入観もなく本書を読めば、先程からこうしてウダウダと書いているような事は全く気にもならず、意外とごく普通の入門書として読んでしまうのかも。それならそれで別に文句は無いが。(笑)

<追記>
 竹田青嗣は他の著作と同様、本書でもポストモダン思想に対して手厳しい態度を貫いている。現在の資本主義社会の基礎を築いた(とポストモダンの思想家たちが認識している)近代哲学の思想家たちや、それに対するカウンターとして生まれたマルクス主義に対して、後代の者が批判的に検証を行うことの意義は確かに認めてはいる。しかし著者によれば、彼らポストモダンの思想家たちは批判するばかりで、後の展望を示さないニヒリズムに陥っているのだとか。でも一部の人は確かにそうかもしれないけれど、そうじゃない人もいるので十把一絡げではちょっと気の毒な気が。
 『ストリートの思想』や『マルチチュード』といった本で紹介されているように、ポストモダンの真髄は学問の枠をはみ出して「思想/政治活動/文化」が混然一体となったものへと変化しつつある気がする。フーコーあるいは柄谷行人のように、「思想」という形でなく「行動」へと舵を切った人たちに対しては、それらをセットで読み解かないと、本当の理解は得られないのかもしれない。果たして本書の著者もいつかは行動の人になるのだろうか? 不謹慎かもしれないが、個人的にはそのあたりにすごく興味があったりして。(笑)
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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