2011年7月の読了本

『ダールグレンⅡ』 サミュエル・R・ディレイニー 国書刊行会
  *20世紀のアメリカSFが生んだ最大の問題作にして、全1000ページに亘る超大作の後篇。
『砂の本』 ホルヘ・ルイス・ボルヘス 集英社文庫
  *ラテンアメリカを代表する魔術的リアリズム作家の短篇集。
『ちょっと本気な千夜千冊 虎の巻』 松岡正剛 求龍堂
  *破天荒な読書案内である『松岡正剛 千夜千冊』の中身を紹介するブックガイド。
『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』 石井好子 河出文庫
  *巷に溢れるグルメエッセイの元祖のような作品。暮らしの手帖に連載されていた名著の
   初文庫化。そんじょそこらの低俗な食べ物エッセイとは一線を画する。東海林さだおも
   好きだがこういうのも好いなあ。
『ふらんす怪談』 アンリ・トロワイヤ 河出文庫
  *翻訳は澁澤龍彦。『女帝エカテリーナ』などの歴史評伝で有名な作者による、
   幻想味に溢れた小洒落たコント集。「幽霊の死」(幽霊を殺してしまう話)や、
   「恋のカメレオン」(自殺未遂の青年が引き受けた奇妙な仕事)などが気に入った。
『海神別荘』 泉鏡花 岩波文庫
  *戯曲集。鏡花自身が書いた戯曲は意外と数少なくて、全部で20篇くらいしかないそう。
   『崖の上のポニョ』を連想するような“海の民”の輿入れの様子を描いた表題作の他、
   「やまぶき」(人情もの)「多神教」(これも鏡花らしい幻想譚の傑作)の3篇を収録。
『ロコス亭』 フェリペ・アルファウ 創元ライブラリー
  *スペイン系アメリカ人で、本書を入れて2冊しか小説を発表していない幻の作家による
   短篇集。「ルナリート(ホクロちゃん)」、「ドン・ラウレアーノ・バエス」といった
   極めて個性的な人物たちが大勢活躍する。ある作品では主役だった人物が別の作品では
   脇役として登場し、名前やキャラクターは同じなのに役柄は作品ごとに違っているため、
   キャラがまるで芝居の役者みたいに思えてくる。
   話は幻想譚もあればミステリの原形のような作品もあってどれも抜群に面白かったが、
   とくに好きなのは「アイデンティティ」(全く目立たない男の苦悩)、「作中人物」
   (井上ひさしの『ブンとフン』を何故か思い出した)、「ネクロフィル」(こよなく
   死を愛好する家の女性)、「犬の物語」(ある男の壮絶な人生)あたりかな。
『生命はなぜ生まれたのか』 高井研 幻冬舎新書
  *深海微生物の研究者が最先端研究の成果を紹介しつつ、地球生命の起源について考察。
   理科好き人間には堪らない本。
『西瓜糖の日々』 リチャード・ブローティガン 河出文庫
  *村上春樹や高橋源一郎らに影響を与えたとも言われる作家による、なんとも不思議な
   世界を描く小編。ヴォネガットあたりにもちょっと似た雰囲気があるが、先日読んだ
   『ダールグレン』にも繋がるような。
『竹田教授の哲学講義21講』 竹田青嗣 みやび出版
  *プラトンからハイデガーまで16人の思想家について取り上げ、その思想のエッセンスを
   分かりやすくレクチャー。しかし流石は竹田青嗣それだけでは終わらない。西洋哲学の
   入門であると同時に、一本筋の通った現代社会への著者なりの思想表明にもなっている。
『千のプラトー(下)』
  *ポストモダン思想を代表する最大の話題作にして問題作。文庫版は3巻に分かれたので
   ハードカバーよりもよほど(物理的に)読みやすい。しかし内容がヘビーなので結局
   読了するのにかなりの時間がかかってしまった。
『夜の声』 W・H・ホジスン 創元推理文庫
  *『異次元を覗く家』や『幽霊狩人カーナッキ』などで有名な著者による、海洋をテーマ
   にした怪奇短篇集。長篇と違って短篇はテンポよく話を進めるため、古い作品なのに
   “勝負”が早くて現代人の感覚にぴったり合う。(笑) 特に気に入ったのはかつての
   東宝ホラー映画『マタンゴ』の原作になった表題作のほか、「熱帯の恐怖」「石の船」
   「カビの船」あたりかな。
   余談だが、子供の頃に「船の墓場サルガッソー海で船員が体験した恐怖!」という類の
   話を良く聞いた。そのおおもと(の少なくともひとつ)はホジスンだったというのが
   分かったのは、別の意味で今回の収穫。
『アフリカを食べる/アフリカで寝る』 松本一仁 朝日文庫
  *著者は『カラシニコフ』などのノンフィクションで知られるライターによるエッセイ。
   アフリカ文化には馴染みがないので初めて知るような面白い話題が満載。ただし著者の
   狙いはもっと深いところにあって、食や住という根源的な部分に焦点をあてることで、
   現代アフリカ社会が抱える問題がやがて生々しく浮かび上がってくるという仕掛け。
   たとえばルワンダやコソボなど、新聞やニュースでしか知らない出来事の向こうには
   生活する人々がいるということを実感。
『薔薇への供物』 中井英夫 河出文庫
  *アンチミステリの大作『虚無への供物』や、泉鏡花賞を受賞した『悪夢の骨牌』などで
   有名な著者の作品から、薔薇に因んだものだけを集めた幻想作品集。12篇の短篇に著者
   自身による自作解説を付す。そこはかとなく淫靡で頽廃的で不安に満ちた作品群は、
   いかにも澁澤龍彦が好みそうな感じ。
『家を作ることは快楽である』 藤森照信 王国社
  *“建築探偵”で有名な建築史家があちこちに書いた文章を集めたエッセイ&評論集。
   前半は自邸「タンポポハウス」や赤瀬川源平邸「ニラハウス」など、ユニークな建築を
   手がけた顛末についてかかれた肩の凝らないもの。一転して後半は、著者の専門である
   建築史に関する文章を集めた章をふたつ収める。ひとつは近代モダニズムにおける、
   “桂離宮&バウハウス”と“非桂&コルビジェ”や、あるいは“抽象性をもとめる”と
   ”実在感をまさぐる“といった、対極的な傾向を示す物件やブルーノ・タウトについて
   の考察。もうひとつは岩崎(三菱)と安田(芙蓉)の二つの財閥の自邸の日本建築史に
   おける位置づけを明らかにした小論。この人は建築探偵ものなどの軽めの物も好いが、
   『明治の東京計画』みたいな固めの本も結構面白い。
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『生命はなぜ生まれたのか』 高井研 幻冬舎新書

 これまで色々な自然科学系の本を取り上げてきた。(もちろん宇宙論や素粒子論といった自分の好きな分野ばかりだが。)今回とりあげるのは、自分にとって“テッパン”テーマのひとつである「生物進化」に関する本。さらに舞台が大好きな「深海」とくれば、もはやストライクゾーンど真ん中。(笑)あまり興味のない方には退屈な話題かもしれないが、少しお付き合い頂ければ幸い。

 地球生命の起源についてある程度聞きかじった事があれば、「数十億年前の始原の海に落雷などで“有機スープ”ができ、それが太陽エネルギーを利用しつつ徐々に生命に変化していった。」というストーリー(仮説)をご存じかもしれない。でもこの仮説は今では時代遅れで、最近の学説では生命誕生に太陽なんか必要なかったという事になっているようだ。
 およそ四十億年ほど昔、現在でもあちこちの深海底に見られるような「深海熱水活動域」が地球のあちこちに数多く存在したころ、高温環境で酸素に頼らずエネルギー代謝を行う「好熱タイプ」の生命が生まれたというのが、代わりに定説となっているストーリー。そして本書はJAMSTEC(独立行政法人海洋研究開発機構)に所属して深海底の生命を専門とする研究者が、一般読者向けにそれらの話を分かりやすく解説した本というわけ。
 ところでこのJAMSTECという名前だけど、知っている人があまりいないのが残念。つい先日までJAXA(宇宙航空研究開発機構)も同じような感じだったのだが、はやぶさの大活躍で一躍有名になることができた。JAMSTECも「世紀の大発見」を行って早く有名になってくれると嬉しいのだが。(*)

   *…ちなみにJAXAは一般的にはあまり知られていなかったが、科学好きにはかなり有名
     な存在だった。その点JAMSTECは更にマイナーかもしれない。
     深海潜航艇の「しんかい6500」とかスーパーコンピューター「地球シミュレータ」
     それに地球深部探査船「ちきゅう」などは全部このJAMSTECの所有する設備なんだ
     けれど...。

 著者は深海微生物の研究を20年以上に亘って行っている第一人者。したがって本書にも「かいれいフィールド」(インド洋にある深海熱水活動域)とか「スケーリーフット」(硫化鉄のウロコをまとった世にも奇妙な貝類)、はたまた「チューブワーム」(消化器官をもたず体内共生バクテリアで生命を維持する奇妙な生物)といった、深海ファンとして愉しくて堪らない単語がポンポンでてきて嬉しいのなんの。
 もちろん第一線の研究者が書いている本なので、こちらの知的好奇心も満足するような専門的な内容もキチンと押さえてくれている。たとえばだが、生命の根源を考える際、エネルギー代謝に着目して「原始地球の環境で如何にして効率よくエネルギーを得るか?」という観点から考えるというのは、自分にとってまさに“目からウロコ”だった。今までは有機物の合成方法に着目した本しか読んだことが無かったので、生命起源に関して決定的と思える説に巡り合えなかった。けれども「生命共同体を持続させるエネルギーをどうやって得るか?」について考えれば、当時まだ弱かった太陽由来のエネルギーに依存するよりも、深海で活発な活動をしている熱水域の環境を利用するのが有効なのは自明。(筆者は更にここから「生命は太陽系の他の惑星や衛星などにも比較的簡単に発生し得るのではないか」という仮説にまで想いを馳せている。いやあ、大変に面白い。)
 話がそれたのでエネルギー代謝にもどる。
 「生命」の定義も真剣に考え出すと実は難しいのだが、とりあえず「周囲環境からエネルギーをもらって自律的に代謝を行う」「同じシステムが持続的に存在を続けられる(個体維持と増殖)」「周囲との境界面をもっている(細胞膜など)」といったところにしておくと、凡そ次のような流れが見えてくる。

 ■高圧&高温の熱水が深海底の岩石を通って海底に噴出してくる。その際の化学反応で
  有象無象のエネルギー代謝システム(ゆるやかな関係をもったコロイドのようなもの?)
  が自然に出来あがる。
 ■このエネルギー代謝システム(=原始生命体)は熱水域周辺の有機物を使う代謝系をもつ
  が、それを使い果たしてしまうと一代限りで絶滅してしまう。(著者によればこのような
  発生/絶滅のサイクルが、数限りなく繰り返されただろうとのこと。)
 ■有機物を食べつくして一代限りで滅びるということが何度も繰り返されるうち、突然変異
  によって「周囲にふんだんにある無機物から直接エネルギーを得る方法」を体得したもの
  たちが現れる。この生命体は有機物が無くても周囲から直接エネルギーを得られる為に
  代謝系を持続することができ、個体数が増えていく。

 これが我々の直接の祖先へとつながるストーリー。
 なお無機物からエネルギーを得る方法としては、反応の前後でエネルギー収支の傾斜が出来るだけ大きいのが望ましい。もちろん当時の海に多く存在した元素を使った反応であることが必須条件だ。そうすると水素と二酸化炭素からメタンを作る反応(水素資化性メタン生成)や、酢酸を作る反応(水素資化性酢酸生成)などがもっともエネルギー効率が良いので、おそらく原初の生命はそのあたりの代謝メカニズムをもっていたと考えるのが自然。
 そしてそこから硫化鉱物が原始酵素の中に取り込まれていったというのが、「熱水硫化鉱物による代謝系の進化モデル」というわけだ。(ちなみこれは現在でも深海熱水域に存在する超好熱タイプの菌“古細菌(アーキバクテリア)“が行っている化学反応であり、その点でも大変に”筋が良い“仮説といえる。)
 さらにいえば上記の「原初の生命」は、遺伝的に見ると現在の“古細菌”と“真正細菌(一般に見られるバクテリア)”の間くらいの存在だったのではないかと考えられているようだ。この「原初の生命」は科学者の間で「プロジェノート」とか「コモノート」と呼ばれているらしい。

 以上、小難しい話が続いたが、本書自体は決して読みにくいわけではない。一般読者向けを想定して分かりやすい文章を書く著者の力たるや大したもの。たとえば熱水の化学組成を説明するくだりでは、深海熱水によって周囲の岩石から「出汁(だし)」ができるとか「アッツアッツの熱水」といった、今までの科学解説書ではついぞお目にかかったことがない様な表現が使われている。他にも「よっしゃー」などのくだけた独白を挟んでみたり、「気楽に寝転がって書いたような」親しみやすい文章をふんだんに使い、内容は高度だがとても取っつきやすい本に仕上がっている。但しあとがきによればそのための著者の苦労は並大抵では無かったようだが。(笑)

 「ロマン」という言葉で表わされるような”ワクワク感”には、恋愛や冒険など色々な種類があるけれど、なかでも自然の脅威や秘密を解き明かす「科学ロマン」のワクワク感には格別なものがある。
 なので、第一線で活躍する研究者が最先端の研究成果を素人にも惜しげもなく(かつ大変分かりやすく)披露してくれるような本を読むと、いつも幸せな気分に浸ることができる。ただし著者の文章センスが優れているというのが前提条件。『進化しすぎた脳』の池谷裕二しかり、『生物と無生物のあいだ』の福岡伸一しかりだ。(古くは物理学者にして夏目漱石の弟子でもあった寺田寅彦もそう。)これらの人は優れた情報発信力を持って「象牙の塔に閉じこもった変人」という科学者の悪いイメージを払拭し、科学ファンの裾野を広げるのに大変貴重な人達だと思う。
 実は自分が深海好きになったのも、日下実男氏の少年向け科学解説書(**)を読んだ子供のころの体験から。暗い深海にバチスカーフ号が浮かび上がる表紙に魅かれて図書館で借りた体験が元になっている。「科学立国」を目指すのだったらまずは理科好きの人を増やすべき。そのためには、こういった素人向けの読み物はとっても大事だと思うよ。

  **…ネットで調べてみた。表紙の絵が記憶と少し違う気もするが多分『海をさぐる』と
     いう本だと思う。

<追記>
 本書が出版されたのは2011年1月だが、先日たまたまNHKの番組でこの人のことを知るまで、こんな本が出ているなんて全く気が付かなかった。どうしてこんな面白い本をスルーしていたのかといぶかったのだが、本書の表紙をしげしげと眺めていてわかった。この「生命はなぜ生まれたのか」という題名のせいだ。
「なぜ」という言葉を「何のため?」という、宗教的な意味にとったのだ。(なおスピリチュアル系の本は自分の探索アンテナから自動的に外れる仕組みになっている。/笑)
 副題の「地球生物の起源の謎に迫る」という小さな文字に気が付けば分かるのだが、どうやら本屋で見落としてしまったみたい。どうせなら「地球生命はどうやって生まれたのか」とかの方が良かったかも。

『ちょっと本気な千夜千冊 虎の巻』 松岡正剛 求龍堂

 知る人ぞ知る「編集工学」の提唱者であった松岡正剛の名を一躍有名にしたのは、2000年から始まった本の書評サイト「千夜千冊」の連載だった。この「第1期・千夜千冊」は2006年に一旦「放埓篇」として完結(現在は第2期として「連環篇」を連載中)。そしてその「放埓篇」を元にして、大幅な加筆と再編集を施した上で書籍化したのが、“前人未到の読書案内”と銘打たれた大著『松岡正剛 千夜千冊』というわけ。(*)
 とりあげた本の冊数は「千冊」どころかなんと1144冊にもおよぶ。本巻だけで7巻もあり、他に解説・索引・年表をまとめた特別巻『書物たちの記譜』がついて全8巻構成。分配不可なのでセット価格で95,000円(税抜)というとんでもない怪物本になっていて、当然のことながら自分のような貧乏サラリーマンにはとても手の出る代物ではない。(笑)

   *…このあたりの内容は大体ウィキペディアからの受け売り。

 しかし広い世の中には金持ちも居るらしく、(それと本書が出版された時には話題になったこともあって、)こんなに高い本が予想以上の売れ行きを示したようだ。でも自分も含めて大多数の人は、詳しい内容も分からないものに対して、ポンと10万円近い金額を出資できるほどの余裕はないだろうと思う。そこで登場したのが、“化け物ブックガイド”『千夜千冊』の概要を紹介する―という趣旨で作られた“メタブックガイド”である、本書『ちょっと本気な千夜千冊 虎の巻』というわけだ。
 (ちなみにその『虎の巻』に関して感想を書くと言うことは、「ブックガイドのブックガイド」の更にブックガイドという訳で、メタどころかまるでメタメタな状態。/笑)
 あ、この文を書いていて気が付いたのだが、よくよく考えたら本書は『千夜千冊』の宣伝広告みたいなものだな。広告カタログですら1,600円もする分厚い本になってしまうのだから、さすがは破天荒な企画だけはある。

 では前置きはこれくらいにして、中身について簡単に紹介。
 松岡正剛による読書案内を読んでいるといつも、巨大な「本の山脈」をトレッキングしているような気分になってくる。それが“千冊”ともなればなおのこと。Web版では様々な分野の本を脈絡なくランダムに取り上げていたため、そのままの形で書籍にすると、読者は「本の山脈」を縦走するどころか「本の樹海」に迷い込んで遭難しかねない。そこで彼がとったのは、全1144夜をシャッフルしてテーマ別に並べ直すという方法だった。まさに編集工学者の面目躍如といったところ。その作業を加えたことで、「書籍リスト」という膨大な“知のデータベース”に彼の「世界に対する見立て」が加わり、書籍版『松岡正剛 千夜千冊』はWeb版よりもさらにすごいものに仕上がっている。
 すなわち本書『虎の巻』を愉しむ最大のポイントは、書籍版の『千夜千冊』において著者がどのような意図で編集を施したかということを、本人の口から解説してもらえる醍醐味にあると言って良いだろう。だって加筆があるとはいえ元の文章はWebで公開されているわけだし、それに取り上げられた本だって自分で入手して読めば(一応)同じ読書体験は出来るのだからね。
 というわけで、セイゴウ編集術により並べられた『千夜千冊』の各巻題名は以下の通り。

  第1巻 『遠くからとどく声』
  第2巻 『猫と量子が見ている』
  第3巻 『脳と心の編集学校』
  第4巻 『神の戦争・仏法の鬼』
  第5巻 『日本イデオロギーの森』
  第6巻 『茶碗とピアノと山水屏風』
  第7巻 『男と女の資本主義』

 どうだろう、判ったような分からないような題名ばかりで…。(笑)
 冒頭で得意げに説明してくれるのだが、自分のようなお気らくボンクラ読者には、題名を見ただけでは編集意図がさっぱり想像出来なかった。
 でもご心配なく。さすが『虎の巻』と称しているだけあって、そのあたりはちゃんと工夫してある。本書はインタビュー形式になっていて、巻ごとに10冊ほどの本が取り上げられてテーマや読みどころが紹介されていくのだが、インタビュアーになっているのは、我々一般人と変わらぬ知識レベルの人。そのため、正剛の話が難しいところに差し掛かると、我々にも理解出来るようにすかさず訊き直してくれる。おかげで「フラジャイル」といった、彼のファン以外には馴染みの薄い概念も、とても分かりやすい言葉で語られることになり、図らずも彼の思想的な著作に対する格好の入門書にもなっている。
 各巻とも複数のテーマが有機的に組み合わさっており、とても一筋縄ではいかないのではあるが、以下にその大雑把な要約をしてみる。(かなり乱暴な要約なので、興味のある方は是非とも実物の『虎の巻』に当たってみる事をお奨めする。)

 【第1巻】
  まずは導入篇として、誰もが読んでおいたほうが良い文学作品を中心に紹介。中で開陳
  される「ノスタルジアの正体」を巡る話が秀逸。
  ―― 過去には自分の周囲にあり今は記憶の中だけになってしまったもの、すなわち一旦
  は「失われてしまったもの」を、風景や映画、文章や絵画の中などに再び見出したときの
  感情の起伏。それがノスタルジアの正体なのだと看破している。さらに面白いのは、稲垣
  足穂の作品にみられる世界観を、「未知の記憶」と称してノスタルジアの範疇に含めて
  しまっている点。卓見だなあ。
 【第2巻】
  自然科学や数学などいわゆる“理系”の本が中心。たとえ理系の本だろうが数式が沢山
  出てくる本だろうが、専門家ではない“読書人”には“読書人”なりの愉しみ方がある
  ―という主張には説得力あり。
  また生命現象のことを「情報高分子」と言いきってしまうくだりも、いかにも彼らしくて
  Good。ネオテニーとか創発といった話題になってくると、もはや彼の独壇場で余人が口を
  はさめる余地は無い。いつものセイゴウ節が炸裂して、知らぬ間に煙に巻かれてしまう。
  (なおこれは褒め言葉なので念のため。/笑)
 【第3巻】
  思考を「編集」と捉えて、その手段たる「言語」とか「物語性」など色々な話題について
  触れている。なかでも個人的に一番好きなのは、第6章の「書物そのもの」に関する話題
  かな、やっぱり。
 【第4巻】
  “神(キリスト教を始めとする一神教)”と“仏(森羅万象を仏とする東洋的宗教観)”
   という思想の比較から、テロリズムなど現代における国際関係までを一気に俯瞰。
   現代史に興味ある人には格好のブックガイドになるだろう。
 【第5巻】
  日本独自のイデオロギーを紹介するこの巻では、『日本という方法』『日本流』『連塾』
  といった彼の一連の著作でお馴染みのネタ本が紹介されるとともに、彼の読書法(秘伝)
  も披露されている。(ただし本にびっしりと書き込みする方式なので、自分にはとても
  実行は無理だ。/笑)
 【第6巻】
  芸術に関する巻。水墨画や陶芸、生け花から能や文楽といった、古典芸能を中心とする
  日本文化と、西洋音楽や絵画、建築から写真術や現代美術まで、古今東西のアートが取り
  上げられる。活字マニアの自分としては一番馴染みが薄い本が多かった。
 【第7巻】
  最終巻はなんと1500ページを超え、『千夜千冊』の中でも最も大著。男と女、異性愛と
  同性愛、そして性と欲望の資本主義経済まで、現代の我々の社会を動かす“原動力”に
  ついての考察。

<追記>
 冒頭にも書いたが『松岡正剛 千夜千冊』には全部で1144冊の本が取り上げられている。本書『虎の巻』には巻末に収録作のチェックリストが付いているので、それを利用して自分が読んだことのある本がどの程度あるか調べてみることにした。その結果は次の通り。
 第1巻=32冊、第2巻=6冊、第3巻=10冊、第4巻=18冊、第5巻=11冊、第6巻=5冊、第7巻=10冊
 合計で92冊といったところ。一人の著者あたり1冊しかとりあげないというルールがあるので、仮に同じ作者の別の本を読んだのも加えるとしても、それでも162冊にしか過ぎない。芸術系の第6巻が少ないのは納得できるとして、第2巻の理系の本が少ないのには我ながら驚いた。松岡正剛が取り上げた本のうち、自分が読んだのがおよそ1割前後というのは、多いのか少ないのかは良く分からないが、これからもまだ面白そうな本が9割残っていると考えれば得した気分。

 ついでに白状してしまうと、実を言えばこのブログの裏テーマは『百夜百冊』。由来はもちろん『千夜千冊』であって、せいぜい10分の1くらいの規模がやっとだろうという事からとった。その意味では狙い(予想)通りの成績だったので、丁度良かったといえるかも。

『ダールグレン』補遺 ―― もしくは自分はなぜ“満点”をつけたか

 先日『ダールグレン』の感想をアップしたあとに、それを読んでもなぜ“満点”つけたのかが分からないというご質問を頂いた。もちろん『ダールグレン』が好きだから付けたのには違いないのだが、それだけで“満点”をつけた訳ではない。改めて読み返してみると、若干説明が足りないところもあったので、補足を加える事にした。題して『ダールグレン』補遺。
 
 自分が小説を読む時には概ね次のようなポイントで評価をしている。
 1.『すごい』
    その小説全体が醸し出すムードや圧倒感。ある程度は物量(ページ数)があった方が
    有利かも。
 2.『面白い』
    funnyではなくてinterestingとかamusingの方。興味深さとか脳味噌を使うような
    知的な面白さと、物語としての面白さを兼ね備えたものが評価が高い。
 3.『好き』
    直感的な好き嫌い。(きちんと理屈で説明できるものではない。)

 このうち『すごい』と『面白い』については何となくご理解頂けると思うが、最後の『好き』については少し追加の説明が必要だろう。自分の場合はどうやら「色んな切り口から読み解くことが出来る本を」好きになる傾向があるようだ。これは『面白い』の項目とも絡む内容にもなる。(なお下品過ぎるものやあざといもの、卑しく感じられるものはいくら出来が良くても評価は下がる。ただし最初からわざとそれを狙ったとおぼしいものは、場合により評価が上がることも。このあたりはその作品ごとで印象が変わるので一概にはいえない。)
 前回書いた『ダールグレンⅠ・Ⅱ』の感想の場合、上述の3要素のうち『すごい』については実物を手に取れば明らかだと思い言及しなかった。また『好き』については「敢えて触れない」ことにして、もっぱら自分が本書で『面白い』と感じた点について書くことにしたわけだ。(*)なぜなら自分が『ダールグレン』のどこに面白さを感じたかについては、(『好き/嫌い』とは違って)きちんと説明することができるから。

   *…その本が『好き』か『嫌い』かについてblogで書くことについて、自分はあまり
     興味を持っていない。印象批評が悪いとは言わないが、幾ら言葉を尽くして説明
     したとしても、結局のところはその意見に共感できるかどうかであり、今までに
     その手の批評を読んで面白かった記憶がないから。好きかどうかはその人の興味の
     対象や好みによって全く変わるし、昔読んで詰らなかった本をその後読み返したら
     好きになったなんてことは幾らでもある。
     ましてや理由も説明しようとせずに、「自分にとってその本が如何に詰らなかった
     か」を延々まくしたてるような、Amazonなどのカスタマーレビューに多いタイプ
     は論外。(笑)

 話を戻そう。自分にとっては『すごい』『面白い』『好き』の3つの要素が優れている作品が、「良い小説」ということだった。これらの要素は、自分がその本を読むことで自分の心の中に生じる充実感の元になっているもの。このうちひとつの要素だけが優れている作品なら世の中にいくらでもある。また「すごくて面白い本」とか「面白くて好きな本」なども、出会える確率は割と高い。しかし3つの良さを全て兼ね備えた作品に出会うのは、そう滅多にあることではないのだ。(**)
 そしてこの3拍子が揃っている稀有な作品というのが、自分が“満点”をつける小説であり、今までの『百年の孤独』『リトル・ビッグ』『ソラリス(国書刊行会版)』に加えて、今回『ダールグレン』が4冊目になったというのが前回に書いたことだった。


  **…こんなところで例に出して申し訳ないが、U・エーコの『フーコーの振り子』や
     G・ガルシア=マルケスの『族長の秋』などは自分の中では「すごくて面白い本」
     の範疇になる。これらは確かにどちらも素晴らしい作品ではあるが、『好き』の
     レベルがそれ程でもないので何度も読み返すにはちょっと躊躇してしまい、満点は
     つかない。(あくまでも自分の印象なので悪しからず。)

 では自分は『ダールグレン』のどこをそんなに優れていると思ったのか。
 前回は『すごい』の要素については殆ど触れなかったので、ちょっとだけ説明しておこう。まずは何がすごいかといえばあのページ数と書き込み。キッドがニューボーイらと繰り広げる芸術談義や、アメリカ社会における様々な考えを象徴する人物を、ベローナという「実験場」に登場させ、互いにぶつけあう様子。例えばカンプといういかにもアメリカのマジョリティ”WASP”(白人&アングロサクソン&プロテスタント)の代表のような人物を、その対極にあるギャング集団のリーダー・キッドが刊行した詩集の記念パーティでホストに宛がったり。また作品中におけるゆっくりとした時間経過の件についても、その理由が自分なりに納得できた時、まさに『すごい』と感じられるものだった。
 ちなみに本書には同性愛やフリーセックスなど性的な描写も多いが、あまり下品な印象は感じなかったのでOK。(これについては理由を訊かれても説明しようがない。ちなみにジャン・ジュネの『泥棒日記』はNGで、バタイユの『マダム・エトワルダ』はOKなのだが、ここらへんの違いも上手く説明できない。/笑)
 『ダールグレン』で謎(幻想)に満ちているのはベローナとキッド本人のみだ。他の登場人物は全て当時の等身大の人々がリアルな形で(カリカチュアライズされず)現実社会の問題を抱えたままに描かれている。
 幻想と現実の狭間を行き来する絶妙なバランスが、本書を読んでいて気分が良かったということかな。映画『アメリカン・グラフィティ』では当時の若者達の様子が描かれたが、『ダールグレン』では当時の人々が考えたり感じたりした内面的なことがそのままの形で1007ページの中に凍結保存されていると言っても良い。
 ギブスンが序文で称賛しているのは、きっとこういう点なのだろう。自分は当時のアメリカをリアルタイムで体験したわけではないが何となく雰囲気は想像できる。「自分にはピンとこない」とおっしゃる方もお見えかもしれないが致し方ない。それが個々人の読書体験というものだ。
 本書は当時の社会のひな型であるが故、あらゆる欠点や失敗もそのまま盛り込まれている。ただ、それらの欠点も含めて“全て”を盛り込もうと作者ディレイニーが企てたのだとしたら、その意気込みはほぼこちらに伝わってきたし、目的は完全に果たされたと感じた。それが「完璧な99点」と書いた意味。だからこそ自分の読書としては十全なものになったのだ。(念のために断わっておくが、自分は今まで『ダールグレン』自体が完全無欠の作品だなんてことはひとことも言ってない。自分の読書体験が“満点”だったと言っているだけ。)
 以上でお分かり頂けただろうか?

<追記>
 蛇足になるが、前のblogでベローナを夏休みのキャンプ体験に喩えた理由について、もう少しだけ説明を加えておきたい。

 そのイメージが頭に浮かんだのは、スコーピオンズの元リーダーであるナイトメアが語る次のセリフを読んだ時だった ――
「俺は、この霧の巣穴みたいな腐った街に骨をうずめる気なんてない。“ナイトメア”でいるのは、ちょっとした冗談なんだ。いずれセントルイスに帰って小さな外車でも買って、(中略)ふたたびラリー・H・ジョナスにもどる。そうなったら、ナイトメアなんて二度と耳にしたくないね。」(中略)「ナイトメアを脱ぎ捨てて、名前を手に入れる。」

 ベローナでは、スコーピオンズのメンバーのようにまるで源氏名(笑)のようなニックネームで呼び合う者もいるし、ニューボーイやカンプのように外の世界の名前をそのまま持ち込むものもいるが、基本的にはどうしようが自由。ただそれまでの自分の名を捨てた者は、それまでの“自分”も捨てて新しい人格を身につけている者が多いとはいえる。それが許されるのがベローナという特異な場所なのだ。
 そればかりではない。ベローナという場所では(訪れるのは難しいが一旦辿りつけさえすれば)、そこに居続けるのも離れるのも含めて、何をしようがまったく本人の自由裁量に任されており、仕事をしなくても何かしら食べ物にありつくこともできる。
 そんな場所だからこそ、ナイトメアのように“外”の人格を一切忘れて“内”だけで通用する「ペルソナ」を身につけることも可能なのだ。キッドも一応は「マイク・ヘンリー・フ(?)」なんていう名前を思い出しかけるが、そんなものはベローナにおいて様々な経験をするのに、結果として何ら必要なものではなかった。

 夏のキャンプに参加している間、子供たちには普段の生活の記憶など必要などない。しかしやがてキャンプを終えて日常生活にもどって行った時、そこで経験した様々な出来事はかけがえのない財産となって、彼らの心の中に残るに違いない…。
 キッドにとってベローナとはそんな場所だったのではないか? そして自分が『ダールグレン』に魅かれるのも、ベローナがそんな場所だったからではないのか?
 本書を思い返すたび、そんな気がしてならない。

『砂の本』 ホルヘ・ルイス・ボルヘス 集英社文庫

 何故だか知らないが、ボルヘスはどうも読みづらい。(話は面白いのだがその割に読み終わるのに時間がかかる。)本書を読みながらその理由を考えていたのだが、おそらく短い文章の中に人物名や地名などの固有名詞がやたらと多く詰め込まれているではないか?ということに気が付いた。それに輪を掛けているのが、ラテン系の名前に馴染みが薄いということ。聞いたことのない片仮名を数多く読んでいるうちに、土地の名か人の名かよく分からなくなってくるのだ。(笑)
 その結果、徐々に混乱してきて「これは誰だったっけ?」とか思いつつ、何度も前のページを開いて確認する羽目になるというわけ。でも登場人物に馴染みが無いのは南米の作家全般に言えることだし、徐々に慣れていくしか仕方ないのだろうなあ。

 本書の前半には幻想的な物語を集めた『砂の本』を収録し、後半には歴史上の有名な「悪人」を紹介したノンフィクション『汚辱の世界史』を併録している。『砂の本』の作品で気に入ったのは「会議」(“世界会議”なるものの思い出)、「人智の思い及ばぬこと」(怪奇作家ラブクラフトへのオマージュ)、「円盤」(オーディンの円盤と樵の話)、そして表題作の「砂の本」(二度と同じページが現れない不思議な本)の4作品。
 余談だが、『汚辱の世界史』には日本代表として吉良上野介が登場している。(こちらはすらすらと読めるので、先程の理屈はやはり正しいような気が。/笑)

『ダールグレンⅠ・Ⅱ』 サミュエル・R・ディレイニー 国書刊行会

 注)今回はマニア向けの話題なのでご容赦頂きたい。(笑) なお以下の文章は作品の性質上
   「ネタバレ」にはなっていないと思うが、設定や世界観について触れているのでこれから
   読むつもりの方はご注意を。

 世間ではいざ知らず、本書『ダールグレン』が刊行されたという事は、こと幻想/SF系の海外小説好きにとってはとんでもない大事件。なぜなら数十年に亘って噂ばかりが先行する幻の作品だったのだ。
 「アメリカで出版されるやいなや数十万部のベストセラー!」とか、「T・ピンチョンの『重力の虹』に匹敵する」とか、「長くて複雑なので“どこまで読んだ?”が合言葉に」なーんていう、まことしやかな話が伝わっていた。
 そんな折、国書刊行会から“未来の文学”というシリーズ(*)が始まり、刊行予定作品のリストに『ダールグレン』という名を見かけた時には大変驚いたものだ。その後、刊行延期という「危機(笑)」を幾度か繰り返したのち、このたび目出度くも発売の日を迎えることができた。発売当日に本屋の店頭で見つけたときは、正直、夢じゃないかと思ったほど。
 上下巻で計6,600円(税抜)という定価もさることながら、総ページ数1007ページというボリュームにもびっくり。本屋の棚で強烈に目立つ真っ黒な装丁とともに、文句なく2011年の最大の話題作といえるのではないだろうか。

   *…ウルフ『ケルベロス第五の首』やベスター『ゴーレム100』など、ファン垂涎の作品
     が目白押しの素晴らしい叢書。

 前置きが長くなったが、そろそろ内容についての感想をば。まずは“未来の文学”のパンフレットに載っている宣伝文の引用から ――
 『都市ベローナに何が起きたのか――多くの人々が逃げ出し、廃墟となった世界を跋扈する異形の集団。二つの月。永遠に続く夜と霧。毎日ランダムに変化する新聞の日付。そこに現れた青年は、自分の名前も街を訪れた目的も思い出せない。やがて<キッド>とよばれる彼は男女を問わず愛を交わし、詩を書きながら、迷宮都市をさまよいつづける……』
 本書の粗筋についてはこれ以上付け加える事は無いだろう。嘘偽りなくこれで全て言い尽くされていると思う。文字通りこれだけの話なので、本書に普通の小説みたいな「起承転結」や、もしくは「物語に隠された謎の解決」などを期待して読むと、見事に肩透かしを喰らうに違いない。それでは1000ページにも亘って何が書いてあるのかというと、記憶を無くしたキッド(=坊や)がベローナで体験する人々との出会いや想いが、(ときおり起こる不気味な現象とともに)延々と語られているのだ。
 では本書が退屈なのかというと、決してそんなことは無い。実はかつてピンチョンの『重力の虹』に挑戦したとき、あまりにも分かり難いために途中で挫折したという苦い経験があり、最初は確かに警戒して読み始めはした。しかしじっくり腰を据えて読めば何のことは無い。話の筋はとても分かりやすく、個々のエピソードも(派手さはないが)とてもリアルで、むしろ物語の豊饒さというものを、久しぶりにたっぷりと味わうことが出来た。
 身近な人の感想をみても概ね分かり易いと好評のようだ。(ただし好評なのは「文章の分かりやすさ」についてであって、話の内容については賛否両論あり。)
 ここからは自分が感じた本書の印象について書き連ねていこうと思う。ただし本書の解釈にはただひとつの「正解」というものは用意されていないので、読み手の数だけ答えが存在するとも言える。従って以下に述べるのは、あくまでも個人的なものであることを重ねてお断りしておく。もしも大枚はたいて買ったのに全然面白くなかった ―― なんて事になっても責任はもてないので悪しからず。(笑)

 先程も述べたように本書は細かなエピソードの羅列で構成されており、全体で何か「大きなひとつの物語」を描き出そうとするものではない。大雑把に分けると前半の「Ⅰ」では、ベローナという特異な空間に初めて足を踏み入れた主人公が、周囲の環境に徐々に慣れていく様子や、その過程で感じる不安と緊張などを中心に描かれている。後半の「Ⅱ」ではベローナにも徐々に慣れてきて、環境による不安が減った代わりに、周囲の人々との関係に伴なう焦燥感や怒りといった感情、そして出会いと別れが描かれている。(とは言っても「Ⅰ」と「Ⅱ」で内容がきちんと分かれている訳では無く、グラデーションのような感じではあるが。)
 読者は緩やかに続いていく個々のエピソードや、その時々のキッドの心象がまるで環境音楽のように自分を包みこむのに、ただ身を委ねていくだけで良い。
 そんな中で幾つか感じたことがあった。例えば次のようなことだ。
 ・本書の魅力の源泉になっている大小の様々な「謎」。
 ・リアルであるが故に余計に感じられる現実世界との微妙且つ異様なずれ。
 ・(メタ)フィクションとしての構成の妙。
 作者はこれらの「仕掛け」を作中に組み込んで全体をうまく構成している上、細部にも決して注意を怠らない。さすがに最初から読み返すのは骨が折れるが、途中で何度か軽く前に戻って読み返してみただけでも、会話が冒頭とラストで対になっているとか、あとの方で重要な役割をする人物が前でさらりと言及されているといった、作者が仕掛けた色々な遊びに気が付いた。まるでディズニーランドで「こんなところにもミッキーが隠れています!」と言われているようで、こういうのはとても愉しい。

 本書には最後まで解決されないまま放置される“謎”が多くある。それらを大きく2種類に分けてみると、ひとつ目はベローナという「場所」そのものに関する謎になるだろう。時期的には『トポフィリア』などの景観論が華やかりし頃なので、それらの影響もあるのかも知れない。
 ベローナはかつては200万人もの人口を誇ったアメリカ屈指の大都会だったが、今は1000人ほどがコミュニティを作り住んでいるだけの廃墟と化してしまっている。(どうやら何かのカタストロフィがあったようだが物語中では周知のことであるらしく、最後まで読者に明かされることは無い。) この場所では自然現象もおかしくなっている。季節の移り変わりはなくなっており、大気には常に煙や霧が漂っていて、遠くが見通せるほど空気が澄みわたることは滅多にない。ごく稀に晴れ渡るときがあると、決まってそこには「2つの月」や「異常に巨大な太陽」など、不吉な兆しともとれる天体現象が出現する。(本書における唯一のSF的なネタといえるものはこれぐらい。)
 またベローナは外の世界とは遮断されており(なぜだかは不明)、テレビやラジオは一切入らない。何かの拍子に訪れる者を除いて人の行き来も殆どなく、まるで外界から隔離された社会実験の場のようだ。
 次に本書のふたつ目の謎だが、それは主人公キッドにまつわるもの。彼はいったい何者で、なぜ記憶を無くし、何の目的でベローナを訪れたのか、そしてここで何をしようというのか?
 ―― すなわち本書におけるキッドの彷徨とは、ベローナが抱える”秘密”との出会いであるとともに、主人公が自らの”秘密”を探求する為のものでもあるのだ。

 話は少し変わるが、一般的な小説において「物語」が起こるのは、A/Bふたつの存在が対峙した時といえるだろう。AまたはBのどちらかによる相手側(BまたはA)の理解、もしくはお互いの相互理解(=コミュニケーション)のどちらのパターンにおいても、読者はまず自分の視点をどちらか片方に重ね合わせることで、他方を理解しようとするだろう。その場合、重ね合わせの対象の中に、ある程度は読者本人の価値感や常識と一致するものがあってこそ、初めてもう片方の存在の特異性に対峙することが出来るのだ。
 しかるに本書ではどうか。読者が頼りにするのは謎に満ちた主人公か、それ以上に謎に満ちた魔都ベローナのいずれか。読者は物語を読んでいる間、これらふたつの謎に併行して接し続けることになる。一応はキッドの視点で話が進行していくが、読者が主人公に寄り添えば寄り添う程に違和感が際立ってくる気がする。どちらかといえば起伏がなく淡々と進む物語であるのに、本書が全編に亘って異様な緊迫感に包まれている理由は、案外こんなところにあるのではないだろうか。

 『ダールグレン』で気が付いた仕掛け“その2”。本書の舞台は現実世界に極めて近い世界であるが故に、微妙な差異が却って異常さを際立させるという話を先程したが、その元になる「リアルさ」は、おそらく小説内の時間経過が読者の実時間とシンクロさせている事によるのではないかということ。(**)
 解説で巽孝之氏も指摘しているように、『エンパイヤ・スター』など初期の作品では、まるで圧縮したような「濃密な文体」が特徴だった。(これは如何様にも深読みできる“多重化した視点”という意味で「マルチプレックス」と呼ばれ、ディレイニー作品の大きなウリとなっている。)
 それが本書では一転して極めて長大なボリュームとなっている。これは現実世界に極力近いリアルな時間の流れを作るという、はっきりした目的があったからではないかというのが、自分の推測。だからこそ「自分がまったく知らないうちに」何日も経過していたと知った時に、キッドが感じた心の衝撃が読者にも直接伝わってくると思うのだ。(つまり単なる修辞的な効果ではなく、構成上の必然があって書かれた長文だというわけ。)
 また例えばゼラズニイやジョアナ・ラスなど“うるさがた”のファンに受ける作家たちや、ギャング集団/ヘルス・エンジェルスといった名が実名で登場するのも、リアルを追求する上で重要な効果をもたらしているといえる。

  **…本書を読んでいる間、筒井康隆の『虚人たち』を思い出していた。その中で筒井は
     幾つかの実験を行っているが、そのひとつが小説内の時間と読者の実時間(=本を
     読み進むのにかかる時間)をシンクロさせるというもの。主人公が意識を失うと
     白紙のページがしばらく続くのはとても新鮮に感じた。

 自分が気付いた仕掛け“その3”にうつる。今までと同様に構成に関する話だが、これは誰もが「第7章 アテナマータ―災厄日記」を目にした時に一番最初に挙げる特徴だろう。すなわち最終章である第7章に至って、本書はそれまでの「物語」から「物語が書かれた紙片(***)」へと変貌をとげ、その瞬間に物語全体のフレーム/枠の存在が明らかにされるのだ。
 ただし紙片に書かれていること自体は、第6章までの内容からの続きとなっていて劇的な変化はない。ときおり生じていたキッドの主観時間と周囲時間との不整合も、紙片や書き込みがところどころ失われるという形で、それまでと同様に存在している。
 本書に突然「フレーム」が登場したことで、自分の受けたショックは大きかった。はたしてこの章の(そしてこの物語自体の)フレームを提供しているのは、いったい誰なのか? いやそれどころか、第1章の冒頭でキッド(と後に呼ばれる男)が体験した、現実か夢かすら定かでないある出来事を語っているのはそもそも一体誰なのか? あたまの中に沢山の「?」マークが浮かんでは消え、そして最終的に思いついた仮説とは、次のようなものだった。

 『本書全体の語り手はキッドではなく実はダールグレンではないのか?』

 そしてキッドが拾ったノートの最初の持ち主も、実はダールグレンなのかも知れない。キッドが書いた詩集「真鍮の蘭」に著者名が印刷されていないのに呼応するように、本書には著者名しか書かれていないのだとしたら…。
全体を貫く神の視点の持ち主が“ダールグレン”だとしたら、その場合「サミュエル・R・ディレイニー」という署名は果たして何者なのか?

 ***…ここでは筒井康隆『驚愕の嚝野』を連想。

 以上が『ダールグレン』において自分が感じた様々な構成上の仕掛け。こういった仕掛けを見つけるのも確かに大変面白かったのだが、「器」だけでなくそこに入れる「中身」も本を愉しむ上で大切な要素なので、続いては内容についての感想も簡単に述べておく事にする。
 キッドがベローナで体験することは、基本的にはビルディングスロマン(教養小説)の範疇に入るものだと思う。教養といえば、一番分かりやすいのはカントにならって「真/善/美」で括ることだろう。という訳で、ベローナにおける「真/善/美」について考えてみた。
 「真」:真実は無い。周囲の環境もキッド自身も本質は定かでなく揺らいでいる。
 「善」:WASPの代表たる宇宙飛行士カンプからカリスマ黒人ジョージ・ハリスン(!)
     まで、ありとあらゆる価値感の坩堝と化している。
 「美」:キッドやニューボーイによる詩作や芸術を巡る議論。
 こうしてみると、著者がベローナという隔離された都市(=特異点)を創造した理由は、学生やヒッピーによるムーブメント、ジェンダーや同性愛および有色人種といったマイノリティの問題、そして都会生活者の孤独と不安など、当時のありとあらゆる社会現象を縮図にして一緒くたに放り込む為だったような気がしてくる。(時代のニオイまでそのままの状態で、永久に閉じ込めたのが魔術的な都市ベローナというわけだ。)
 何となく「自分探しをしている若者が夏休みのキャンプで経験した出来事で人間的に大きく成長する」という、よくある青春ドラマのパロディのようにも見えてくるな。(笑)

 本書の評価は「謎」が「謎」のまま終わることを許せるかどうか?とか、上記のように社会論や文学・芸術論的な議論を好きかどうかによってもガラっと変わると思う。少なくとも自分にとっては、今まで「満点」をつけた『百年の孤独』『リトル・ビッグ』『ソラリス』に続く“4冊目”と呼んでも良いくらい、満足のいく作品であったといえるだろう。

<追記>
 自分が今までに満点を付けた上記3作品において、自分がはたしてそれらのどこに魅力を感じたのか、少し考えてみた。
 ■『百年の孤独』ガブリエル・ガルシア=マルケス(集英社)
   物語の細部の仕掛けや幻想感もさることながら、マコンドというひとつの町の誕生から
   消滅までを描いて、ひとつの「環」が閉じたという満足感を強く感じさせる。
 ■『リトル・ビッグ』ジョン・クロウリー(国書刊行会)
   例えば言葉にすれば失われる「儚いもの」(≒「フラジャイル」by松岡正剛)を、
   周りの輪郭のみを描写することで浮かび上がらせる。そしてそれら「儚いもの」の
   奇跡のような美しさが徐々に見えてくる過程が、読む者に至福の時をもたらし、
   いつまでも終わって欲しくないと思わせる作品になっている。
 ■『ソラリス』スタニスワフ・レム(国書刊行会)
   完璧なまでに緻密に作り上げられた仮構の世界を提示し、人間は「全く異質なもの」を
   どこまで理解可能かについて、あらゆる文学の形式や手法を放り込みつつ追求した、
   “百科全書”のようなスリリングな作品。この世の全ての問題について語られたような
   満足感が得られる。
 以上、3作品にはそれぞれ異なる魅力を持っていたわけだが、本書『ダールグレン』はそのどれとも違っていた。(社会学的な論点を盛り込んだという点もそうだが、もっと大きな違いがあるとおもう。)
 3作品には読後「完璧な円環が閉じた」という強い感覚があったのだが、今回は逆に「円環が閉じない」という強い感覚をもったのだ。敢えて完結しない事により、狙いが全て表現できるという逆説。最初から「不完全であること」を目指して、しかもそれに完全に成功しているという不思議。そのような意味で本書を「完璧な99点」とでも呼んでおきたい。これからも何度か戻って来ることになりそうな、そんな予感にみちた一冊だった。

『魔法昔話の研究』 ウラジーミール・プロップ 講談社学術文庫

 ロシアの“口承文芸研究家”による論文集。「民俗学」「人類学」「伝承」といった言葉が持つ意味は、国や地域によって微妙に違っているので、この手の本を読む時には、著者が使う単語の語義に充分注意してかかる必要がある。題名の「魔法昔話」というのはあまり正確な表現では無くて、「口承文芸」と名付けられたジャンルの全般的な研究と考えた方が良い。日本でいういわゆる「昔話」や「説話」の類にあたるものの他、ロシア(スラブ民族)に特徴的な「バラード」などもその範疇に入るし、世界の起源を説明しようとする狭義の「神話」と面白さを追求しようとする「昔話」が、ごちゃまぜになっている
 惜しむらくは昔話と神話の区別が曖昧な点。著者は以前レヴィ=ストロースからかなり批判されたようで、本書の第1章「異常誕生のモチーフ」においてそれに反論しているが、正直いってレヴィ=ストロースの意見も止むを得ないかもしれないところがある気がする。(尤も共産主義国家における研究者の立場には同情すべき点もあって、プロップ自身が本当にそう考えていたのかどうかは不明だが。)

 具体例をあげよう。例えば論文中に散見されるように、人類の歴史を「原始⇒文明」「資本主義⇒共産主義」という“進化”の過程としてとらえる考えは、共産主義的な偏った物の見方だと思う。むりやりそちらの方に議論を捻じ曲げているところなども、批判される原因のひとつであるような気も。
 「口承文芸は社会の上層、下層という区別なく全国民的財産だ」とか、「(口承文芸と呼べるのは)支配者階級を除く全階層の創作物であり、支配者層級の創作物は文学にはいる」とかのくだりなども、読んでいて何か違和感がある。社会が古代から未来に向かって一直線且つ段階的に変わっていくというのは、ある種の特殊な時期&地域において信じられていたイデオロギーの産物に過ぎないのではなかろうか。

 なかでもいちばん残念な点は、「口承文芸」を何らかの歴史的事実を知る上での手段としてしか捉えていないところ。そもそも口承文芸を「何らかの歴史的事実が反映されたもの」としてしか見ないと言うのはおかしいのではないか。なぜその物語が語られるに至ったのか?とか、なぜこれまで民衆の中に活き活きと伝えられてきたのか?など、その理由を知ることは、全く持って著者の興味の対象にはなっていないようだ。(自分はよほどそちらの方に興味があるのだが。)
 しかし、本書の別のところでは同じロシアの研究者に対して、「演繹」による研究(*)だと指摘しており、そのような方法では駄目だといっている。その点では、同国の他の研究家よりはよほどマシだとはいえるだろう。

   *…最初から答えありきで、あとはその証拠になりそうなものだけを集めてくるやり方。

 野家啓一の『パラダイムとは何か』(講談社学術文庫)の時にも思ったことだが、物の見方/考え方の枠というものはそう簡単には変わらない。プロップは結構鋭い物の見方をしていると思うが、そんな彼でも共産主義的なイデオロギーの呪縛から自由でいるというのは、無理だったようだ。(いやむしろ本人は自分にそんなバイアスがかかっているなんて意識すらしていなかった可能性も。)
 もちろん今の我々だって、考え方に当然何らかの偏りはあるはず。当事者では気が付きにくいのは致し方ないとして、大事なのはなるべく多くの「ものの見方」を知ることで、自分の価値観が”絶対的”なものと思い込まないようにすること。せめて子供らの世代に後から笑われない程度には、公正でありたいものだ。
 (最後に話が変なところに行ってしまったな。/笑)

『孔子伝』 白川静 中公文庫

 漢字研究などで有名な白川静による、儒学の創始者・孔子の評伝。『呪の思想』などの対談集で著者が語るところによると、白川はもともと日本の古代王朝の成り立ちを解き明かそうというのが夢だったそうだ。しかし日本には文字による記録が残されていないため、まずは文字による記録が残っている古代中国の文化研究を行ったのだとか。日本と中国は習俗や死生観を同じくする「(著者曰く)沿岸の文化」に属しているとはいえ、えらく遠回りをしたものだ。しかもその準備として、長年に亘って漢字を殷の時代の甲骨文字にまで遡って緻密に解析し、語源を解き明かすところから始めたというのだから畏れ入る。(尤もそのおかげで『字統』などの“字典”や古代中国の神話・文化の研究など、多くの実りある副次的成果を生んだわけだが。)
 中国で後世に最も影響力をもった思想・儒教と、その創始者とされる孔子についての研究もその成果の一つであり、本書は白川が精緻を極めた分析によって孔子の「本当の姿」を示したもの。初出は1972年だそうだが、当時流布していた「論理と礼節の人」や「怪力乱神を語らなかった現実主義者」といった孔子のイメージとは一線を画する、画期的な評伝といえるだろう。
 本邦では儒学というと朱子学や陽明学などの歴史的な背景もあり、規律を重んじる御用学として見られることが多いのではないだろうか。(少なくとも自分はそうだった。)今でもよくビジネスマン向けの文庫なんかで「論語に見る○○」みたいな取り上げ方をされる事も多い(というより、そんな取り上げ方しかされない)ところをみると、本書の解釈が現在でも充分に人口に膾炙しているとは思えない。逆に体制批判の立場からすれば、孔子は世界を不幸にした思想を作り上げた張本人ということになろうか。しかし本当はそうでは無かったのだよ ―― というのが、本書で著者が静かに語りかけていることだ。
 かなり有名な本のようだが恥ずかしながら自分は全く知らず、先述の『呪の思想』において哲学者の梅原猛が本書を絶賛しており興味をもった次第。早速読んでみたところ、自分は本書で初めて知った事も多く、孔子に対するイメージが大分変った。(*)

   *…実は本書による孔子のイメージは、諸星大二郎によるマンガ『孔子暗黒伝』や
     酒見賢一による伝奇小説『陋巷に在り』で描かれていたものに近いといえる。
     かなり昔にそれらを読んだときは単なる創作だろうと思っていたのだが、
     発表年代を考えると逆に本書を元にしてそれらの作品が作られたのかも知れないと
     いうことに、遅ればせながら今気が付いた。

 早速だが、本書による記述の具体例を挙げてみよう。

 1)『論語』の成立には孔子本人は関与しておらず、後世(100年以上後?)の人が編纂した
   もの。いってみればユダヤ教の一分派だったイエスの教えを後のパウロがキリスト教と
   いう教団化したのに近い。そしてその過程で孔子自身のものとは違う思想が盛り込まれ、
   やがて「儒教」の形が整えられていった。

 2)現在の孔子本人に対する評価は、司馬遷が書いた『史記』の中の「孔子世家」による
   ものが多い。しかし「孔子世家」は『史記』の中でも最も杜撰で、間違いや食い違いも
   多くて当てにならない文献である。そこには孔子は諸国の列侯の嫡子として紹介されて
   いるが、それは真っ赤な偽りで実は卑賤の出身。(おそらくは、父の名も知れない
   「巫女の庶生子」であったと思われる。)

 3)孔子の出身は古代から葬礼を取り仕切ってきた「儒(≒巫祝者)」の系譜であり、若い
   ころに礼楽一般の教養を修めようと志したことが後の該博さの基礎になっている。
   (当時は詩経や楽謡、それに呪(まじな)いは未分化であった。)

 4)孔子は理想主義者ではあったが夢想ばかりしていた訳ではない。短い期間しか仕官する
   ことが出来ず14年の長期に亘って漂泊を繰り返したのは、おそらく孔子によく似た思想
   をもち、且つ孔子よりも策略に長けた「陽虎」の存在による。似て非なるが故にお互い
   相いれないがため、陽虎が孔子の向かう国に先んじて取り入るなどの不幸が重なり、
   結果として孔子はそこを避けて別の国に移らざるを得なかった。
   しかしその14年に亘る亡命生活により、孔子の思索はより純化されて稀代のレベルに
   まで達する事が出来たともいえ、(孔子本人にとってはともかく)後世の我々の目から
   見ればあながち悪いことばかりではない。

 5)孔子の教えとは古代から伝わる「儒」の教えを普遍化したものといえる。つまり孔子は
   “創始者”ではなくて“集大成者”。孔子は過去から伝わるそれらの思想を託して
   「理想」として纏め上げた対象が「周公」という人物。なお孔子が語った内容は直接的
   には伝わっておらず、『論語』を始めとする後世にまとめられた文献を通じて窺い知る
   ほかない。(このあたりもイエスとキリスト教の関係に近い。)

 6)『論語』は後の「賤儒」「犬儒」らにより捻じ曲げられて付け加えられた文章も多く、
   キリスト教における聖書と同様に厳密な原典批判を必要とする。格言集として自分が
   好いと思うところだけを取り入れるならまだしも、中国思想の精髄として無批判に全て
   を参考にするのはナンセンス。(孔子本人の考えに近いのは、儒学の後継者たる荀子ら
   よりも、むしろ荘子ではないか?というのが著者の主張。)

 本書で初めて示唆された事は、ざっと挙げてみただけでもこれくらいはある。細かく言うと切りがないくらい。これだけでも「勉強」になって自分としては充分に満足の得られた読書体験だったのだが、本書がそこらの学術書と一線を画している理由は別の点にある。
 本書が書かれたのはちょうど学生運動が華やかりし頃。また海の向こうの中国では文化大革命による現代版の「焚書坑儒」が進行中であった時代。もともと筆者の立場は、荀子などのように後年に形骸化して体制保持の道具と化した儒学はもとより認めず、中国思想の精粋は老荘思想にこそある、ということようだが孔子だけは別格なのだそうだ。心より敬愛している様子が本書を読むとひしひしと伝わってきて、孔子(自身)の思想の深さと生きざまの素晴らしさにほれ込んだ白川静が、学究の徒としての自分自身を投影したのではないかという気もしてくる。(肥大したカトリック教団を認めず、ナザレのイエスの教えに原点回帰した“アッシジの聖フランチェスコ”をちょっと連想してしまった。)
 14年に亘る亡命生活や困難にも挫けず思索を深め、一方で子路や顔回という愛弟子の死に際しては激しい心情も覘かせる孔子。そして綿密な原典批判によってその本当の姿を初めて明らかにした白川静。数千年の時を超えて2人の「孤高の人」が交流する姿は感動的ともいえる。すなわち本書はすぐれた学術書であるとともに、すぐれた文学性も備えた稀有な本といえるだろう。

2011年6月の読了本

『中世の再発見』 網野善彦/阿部謹也 平凡社ライブラリー
  *中世日本および中世ヨーロッパの研究者2人による対談集。
『食の王様』 開高健 グルメ文庫
  *“食”をテーマにした開高健のエッセイを集めたオリジナル短篇集。『巷の美食家』と
   合わせて角川春樹事務所が発行。
『白鯨(上・中・下)』 メルヴィル 岩波文庫
  *現在出版されている『白鯨』のなかでは最も良いと言われる八木俊雄の訳。高校時代に
   挫折して以来の、長年の雪辱をやっと果たした。(笑)
『胡蝶の失くし物』 仁木英之 新潮文庫
  *日本ファンタジーノベル大賞を受賞した『僕僕先生』のシリーズ第3弾。
『女子の古本屋』 岡崎武志 ちくま文庫
  *女性の古書店主13人を対象にしたインタビュー集。こだわりをもった店構えがどれも
   素晴らしい。
『パイド・パイパー』 ネビル・シュート 創元推理文庫
  *『渚にて』で知られる著者の、第2次世界大戦を舞台にした冒険小説。ひょんなことから
   子供たちを連れて、ドイツ侵略下のフランスからイギリスへと逃避行をする羽目になった
   英国の老紳士が何とも好い。小学生の頃に『ハリーとトント』を読んで以来、高潔な
   老人が主人公の話は好みなので、本書は大変気に入った。
   (ちなみに題名の「パイド・パイパー」とはハーメルンの笛吹き男のこと。)
『奇妙なホラー映画論』 荒木飛呂彦 集英社新書
  *正確な書名は『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』という。『ジョジョの奇妙な冒険』
   や『バオー来訪者』で一部読者に絶大な人気を誇る漫画家が、お気に入りのホラー映画
   を紹介するという“いかにも”な企画。しかもそれにまんまと乗せられている自分が
   情けないが、面白いものは仕方がない。(笑)
『エピクロスの肋骨』 澁澤龍彦 福武文庫
  *『犬狼都市』や『サド復活』といった初期作品よりさらに前、1955~57年という最初期
   に書かれた著者の作品集。「撲滅の賦」「エピクロスの肋骨」「錬金術的コント」の
   3つの短篇に、巌谷國士による長文の解説を付す。極めて硬質なイメージのファンタジー
   が展開する。
『魔法昔話の研究』 ウラジミール・プロップ 講談社学術文庫
  *ロシア(というより時代を考えると“旧ソ連”と言った方がぴったりくる?)で活躍した
   民俗学系の研究者による、昔話の構造分析。お国柄や時代背景を考えると致し方ない
   ところではあるが、やはりどうしても論旨に牽強付会な感は否めない。(石田英一郎を
   読んだ時に感じた印象にも少し似ているかな。)
『天体嗜好症』 稲垣足穂 河出文庫
  *フィクションやエッセイなどを取り混ぜた小文集。テーマは天体だけに絞られていると
   いうわけではなく、ヒコーキや少年愛など著者の読者にはお馴染みの題材がひととおり
   取り上げられている。
『天使の歩廊』 中村弦 新潮文庫
  *「この世」と「あの世」の懸け橋となる不思議な物件を手掛ける建築家・笠井泉二の
   生涯を描いた連作短篇集。「建築」そのものをテーマにしたファンタジーというのは
   珍しかったが、愉しく読むことが出来た。作品ごとに語り手が変わって視点が一貫して
   いないので、最初のうちは少し取っつき難いが、読んでいくうちに次第に慣れてくる。
    ところで(主人公が設計した)住宅によって「救い」を得られた依頼主たちはいいと
   して、“天使たち”によって有無を言わさずそのような仕事を行う人物として「選ばれて
   しまった」笠井自身には、果たして救いはあるのだろうか? もしも本書の続篇が書かれ
   るとしたら、次はそのあたりがテーマになる(&ならなければいけない)気がする。
『日本妖怪変化史』 江馬務 中公文庫
  *古代から江戸時代に至る、妖怪に関する伝承や特徴を簡潔にまとめた本で、妖怪学の基本
   文献といえる。(なお書名は「ようかい(の)へんか史」ではなく「ようかいへんげ
   (の)史」と読むのが正しい。)
『ダールグレンⅠ』 サミュエル・R・ディレイニー 国書刊行会
  *長年にわたり翻訳が待ち望まれていた、アメリカンニューウェーブSF最大の傑作であり
   最大の問題作。(単行本全2巻で約1000ページもある超大作のうちの第1巻)
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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