『天体嗜好症』 稲垣足穂 河出文庫

 稲垣足穂(いやここでは親しみをこめてタルホと呼ばせてもらおう)という作家のモチーフは、デビュー作の「一千一秒物語」から一貫して、小説でも随筆でもずっと変わっていない。悪く言えば「全く進歩が無い」といえるのかも知れないが(笑)、しかしタルホの場合にはそれが逆に魅力になっているから不思議だ。
 フィクションやエッセイやその中間的な小文など、様々なタイプの文章を収めた本書の中にも、ファンにはお馴染みの言葉が溢れかえっている。曰く――
 (映画の)スクリーン/キュビズム/セルロイド/ムーンライト/カレイドスコープ/キネオラマ/複葉ヒコーキ/ブリキ細工の筒/ファンタスマゴリア/青いエントツ/手品/コメット/ガス燈/切紙細工/鉱物、そして“ポールから緑色の火花をこぼしてとおるボギー電車”...。

 人の手による痕跡をできるだけ排した人工的な感じや、“一点ものの希少性”でない“大量生産の安っぽさ”を愛しているのが、我らの敬愛するコメット・タルホ氏に他ならないのだ。(なお念のために言っておくと、これは自分の勝手な印象ではなくて、本書に収録されている「タッチとダッシュ」というエッセイで彼自身が述べていること。)
 無機質というか幾何学的というか、まるでアンディ・ウォーホールのポップアートのような“手触り”を感じさせてくれるタルホの作品世界は、ときおり無性に読み返したくなる存在。自分にとっては、ある種の故郷のようなものなのかも知れない。(ただし少年愛だけはちょっと遠慮しておきたいけどね。/笑)
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『世界怪談名作集(上・下)』 岡本綺堂・編訳 河出文庫

 岡本綺堂は時代小説における捕物帳の嚆矢『半七捕物帳』の作者として有名だが、実は海外の怪奇小説にも造詣が深かった。本書は綺堂が編んだ欧米の怪奇小説のオリジナルアンソロジーで、翻訳も彼自身が行っている。文章が一流なのは当然のこととして、時代を感じさせるちょっと古めかしい言い廻しが小説の雰囲気にぴったり合っていたのも、何だか得をした気分。
 その中から特に気に入った作品を挙げると、まず上巻からはリットンの「貸家」(正統派のお化け屋敷もの)やホーソーン「ラッパチーニの娘」(マッドサイエンティストとその犠牲者の話)。下巻ではクラウフォード「上床」(客船に起こる怪異)、アンドレーフ「ラザルス」(死から生き返った男)、ストックトン「幽霊の移転」(滑稽譚)、マクドナルド「鏡中の美女」(星新一を思わせる不思議話)といったところか。
 以前に読んだ日本の怪奇小説アンソロジー『江戸怪談集』と比べてみると、東洋と西洋の文化の違いが何だか良く分かる気がする。ヨーロッパはデカルトに始まる「近代的自我」が背景にある地域だけあって、たとえどんなジャンルの小説であっても“個人”の恐怖や感情が描かれるのが基本のような印象。
 一方で日本の伝統的な怪談を見た場合、人物の扱いが西洋とは全く違っているように感じた。登場するキャラには一応名前が付いてはいるが、物語の進行上やむを得ず区別のために付けているに過ぎず、いくらでも置き換えが可能。単なる「物語の登場人物」でしかない。
 ロシアの口承文芸学者V・プロップが唱えたように、物語の枠だけが決まっていてその他の条件(=登場人物や細かな展開の仕方など)は自由に組み替えが可能な「昔話」の構造の典型例のようだ。
 しかし本屋で本書を手に取った時には、まさか怪談話を読んで東西の文化比較をする事になるとは思ってもみなかった。(笑) これも綺堂の訳文がよくこなれていて、そのために両者の違いが却って際立ったという事なのかも知れない。今回、改めてこの著者の文筆家としてのすごさを認識した次第。

『Amazonランキングの謎を解く』 服部哲弥 DOJIN選書

 表題にある「謎」というのが何かというと、Amazonは数百万点にも及ぶ書籍のランキングを、一体どんなルールに基づいて付けているの?ということだ。
 本書の内容を簡単に要約すると「確率論や数理物理学(統計力学)を専門とする研究者によって書かれた、“確率順位付け模型”によるAmazonランキングや2ちゃんねるスレッドなどの考察」ということになるだろうか。
(学問的に正しい言い廻しになっているか自信は無いが、これでもごく簡単にした言い方。著者の言葉をかりて厳密な言い方をすると「相互作用する多自由度の確率過程と非線形偏微分方程式が流体力学的な極限において結びつくというものの見方の中で、もっとも簡単な実例を提示する。」ということになるらしい。/笑)

 ちなみに、著者の主たる興味は「謎を解く」ところにあるわけではない。抽象的で研究者の独りよがりに陥りがちな「数学」という学問を、実社会に適用してみることで一般人にも敷居の低いものにするのが本書執筆の目的といっていい。したがって第3、5、6章という3つの章では、かなり専門的な数理モデルの紹介が行われているなど、決して「愉しい読み物」のページばかりがあるわけではないので、題名だけみて買う人がいたら、ちょっと面喰うかも。
 とはいっても、高校数学レベルの内容が主であって且つ懇切丁寧に説明されているので、時間を掛けて取り組めば理解できないことはない。しかも親切な事に、数学が苦手な人や表題にある「Amazonランキングの謎」にしか興味がない人は、上記の3つの章を飛ばしても差し支えないような構成にしてある(*)。なんて優しい著者なんだろう。(笑)
 一応、理系教育を受けた端くれとしては「ポワッソン分布」や「パレート分布」、それに「大数の法則」なんていう昔懐かしい単語が頻出するので、読んでいて結構愉しかった。

  *…でも「本章を後回しにして第7章に進んでいただくことも考えられる。」という文の
    すぐあとに、「研究の中心が読み飛ばされることになるゆえ、断腸の思いだが」と
    いった独白があちこちに挿入されていて、著者の本心が垣間見れて結構笑える。

 あまり話を先延ばしにすると、
「“Amazonランキングの謎”は結局解けたのか、もったいぶらないで早く教えろ!」
という声がそろそろ聞こえてきそうなので、結論だけは述べさせて頂こう。
 (尤も本書をわざわざ買って読む人はおそらく第3、5、6章とか巻末の数式集が目当ての人だと思うし、本書のかなり早い段階でランキング決定のルール自体は明かされてしまっているので、ここで述べてしまってもネタバレには当たらないだろう。もしも本書を読む可能性がある人は、念のためにここから後は読まないようにして頂くのも構わない。)


 さて結論だが、Amazonランキングのルールは「注文が入った本はどんな本でも一旦は1位にランキングされる」という至ってシンプルなもの。たくさん読まれている本はひっきりなしに1位になるので常に上位をキープできるが、滅多に注文がはいらない本は次々とランクを落とし続けて、最終的には数万位~数十万位へと変わっていく。それが1時間ごとに更新されることで、今のランキングになるらしい。こんなに簡単なルールで良いのか?と思いたくなるが、シミュレーションしてみると計算結果は正に実際の書籍で検証した結果に一致する。
 考えてみれば、やたら難しいシステムを構成するよりも、これくらい簡単なルールの方が最小コストでシステム維持が出来るわけで、確かに理にかなっているといえる。(何故そうなるのかが気になる人は、本書の中で大変丁寧に説明されているので直接当たって頂きたい。)
 さらに面白かったのは、著者がこのルールを導き出す過程でランキングの解析を行っているうちに、図らずももうひとつの重要な「謎」まで解けてしまったということだ。それは何かというと、「Amazonのビジネスは巷で言われているようなロングテールでは無かった」ということ。これにはちょっとびっくりした。(**)
 Amazonのビジネスモデルは(一般的に信じられているように)ロングテール商品の売り上げによるものではなく、ごく少数のビッグヒットに依存しているのであった。これについても「平等性の指数が1より小さい」と仮定した数式を駆使して厳密に証明されているのだが、まあこの件については、ここでこれ以上深入りするのはやめておこう。
 
  **…尤も「どんな本でも揃うからAmazonで買う」という人がいるように、サイト自体の
     差別化によってファンが増えるという“間接的な影響”は計りようが無いんだけど。
     ロングテールの効果については、むしろそのような企業イメージ向上の方が大きい
     のではないかなあ。

<追記>
 ツイッターに本書を読んだ事を書きこんだら、著者・服部哲弥氏ご本人からお礼のコメントを頂いた。本書を読んで薄々想像していたとおり、やはり律儀で真面目な、まるで「理系の研究者の鏡」のような方だった。(笑)
 本書は(数式が沢山出てくるので)万人にお薦めできる本かどうかは疑問だが、すくなくとも読んでいてとても気分が良い本とはいえるだろう。

『中世の再発見』 網野善彦/阿部謹也 平凡社ライブラリー

 中世における社会の成り立ちを通じて、現代社会を照射しようする2人の研究者の対談集。網野は「日本」で阿部は「ヨーロッパ」と両者は互いに専門とする対象こそ違え、問題意識の高さと発想の柔軟さは共通。いずれも自分が大変敬愛する人物である。(まるでビッグスターの競演みたいなもの。/笑)時期的にはかなり昔の本なので、後に彼らがそれぞれ深く追求していくテーマ(*)の全貌がさらりと触れられていて、2人の研究に関する格好の入門書にもなっている。

   *…例えば網野を一躍有名にした「アジール」について。「宴会(特に無礼講)」が本来
     もっていた自由性を、アジールとからめて考察したりしている。
     他には「飛礫(つぶて)」の風習についてなども。これは世界中に分布する風習の
     ようで、本書では日本とヨーロッパにおける共通点と違いについて比較している。

 持たざるが故に自由、差別されるが故に無垢 ―― 2人に共通する研究を一言でまとめるとするなら、“被差別民”や(非社会人としての)“子供”がもつ逆説を探ることで、社会的弱者の存在を通じて中世ヨーロッパや中世日本の成り立ちを理解しようとする試みといっていいだろう。

 本書で触れられている話題について他にも幾つか紹介しておく。
 阿部によれば、ヨーロッパ社会が世界の他の地域とは大きく異なるユニークさを持つようになったのは、およそ11世紀以降とのこと。これは様々な教義が乱立していたキリスト教団の中から、最終的にローマカトリックが他を異端として排斥することに成功し、宗教的な支配を確立した時期にほぼ一致する。
 善かれ悪しかれヨーロッパ社会のユニークさこそが、現代社会の枠組みを作る元になったのだから、「一神教」こそが人類のその後の歴史を一変させた「人類最大の発明」といえる。(これは中沢新一を読んでいる人にはお馴染みの話題。)
 他には「私」に対して「公」という概念がどのようにして生まれたかについての考察など。中世ヨーロッパにおいては、「公」の起源もやはり(生死を司る存在である)キリスト教に始まるらしい。対して日本においてはその起源は宗教ではなく、例えば幕府による「公儀」など体制的/政治的な面が強いらしい。その代りに日本で特徴的なのは「天皇」の存在。扱いや影響の見極めがとても難しいということだが、確かに一筋縄ではいかないよなあ。
 また「贈与と貨幣の関係」から近代経済誕生についての話題の中に出てきた「“物を売る”とは“貨幣を買う”ことに他ならない」という指摘など、まさに目からウロコが落ちる思いだった。

 本書は複数回に分けて行われた対談を編集したものなので、取り上げられた話題もかなり広範囲に亘っている。2人が当時の社会学や歴史学の研究者に対して感じていた思いも、そんな中でざっくばらんに語られていて興味深い。両者ともかなりの閉塞感を感じていたようだが、自分からすれば逆にそれは2人がいかに旧来の枠に縛られず、自由な発想を持ち続けていたかということを証明するようなもの。
 「学際的」、もしくはいっそのこと(いい意味で)「素人的」とでも言えばいいだろうか。偏狭な価値感に囚われることなく、他の様々な分野の最新成果を貪欲に吸収して、縦横無尽に検討しようとする彼らの姿勢は、読んでいて共感することしきり。

 ひとつのテーマをじっくりと掘り下げていくような種類の対談ではなかったけれども、全般的に好感がもてるいい本だった。

妄想書房

 最近やたらと本屋を取り上げた雑誌の特集が目につく。例えばBURUTUSでは「本屋好き。」という特集を組んでいて、全国の面白そうな本屋さんの店内写真を眺めていると実際に訪れたくなってくる。そんな折にちくま文庫から丁度『女子の古本屋』という本が出た。こちらは女性の古書店主へのインタビューをまとめたもので、自分好みの「本のセレクトショップ」を目指して奮闘する13人の話。読んでいるうちに何だかムラムラと「自分も本屋がやりたい!」「沢山の人たちに本との出会いの機会をつくりたい!」なんて気持ちが湧いてきた。
 でもいきなり今の勤めを辞めて先の見えない生活を始められる訳もない。そこで思いついたのが「脳内」での開業、名付けて「妄想書房」というわけだ。「どんな店構えにするか?」「専門のジャンルを設けるか?」なんて考えだしたら、これが愉しいの何の。あまりの面白さに止まらなくなってしまった。(笑)

 まずは経営方針から考えた。
 自分のために理想の本屋を考えるのなら、東京駅の松丸本舗とか京都の恵文社一乗寺店などがそれに近い。(もっとも松丸本舗は母体が丸善なので新刊しか扱えないのが残念。絶版や品切れになったタイトルは品揃えすることが出ず、現時点で刊行されている本で我慢するしかないのだ。)
 でも今回は自分のための本屋ではない。対象が不特定多数の人なわけだから、店舗の狙いは自ずと違ってくる。どうせやるなら“何でもあり”の全方位的な品揃えは止めて、ある程度ジャンルを絞ったセレクトにしたい。そこで考えたのが「本好きな大人と本好きな子供のための本屋」という経営方針。また松丸本舗のように本の入荷で残念な思いはしたくないので、新刊と古本の両方を扱うことにして、自由な棚づくりを心掛ける事にした。古本を扱うには古物商免許が必要なので、ついでだから本以外の品も並べてみよう。
―― とまあ、あれこれ愉しく構想を練ることしばし、本日ここに無事“開店”を迎える事が出来た。以下はその全貌である。

<店構え>
 道路に面した平屋建ての路面店で、出入り口は右と左の2か所にある。(二つの出入り口の間にはレジがあるという一般的な郊外型書店の造りをイメージしてもらえばいい。)
 広からず狭からずの丁度いい大きさの店内に入ると、レジのすぐ前にはちょっとしたイベントスペースが設けられていて、平台にその月のイベント用の本が展示してある。周囲の壁は天井まで作りつけの棚がしつらえてあり、その間には大人の背の高さくらいの棚が数列と少し広めの通路が交互に設けられている。店内は大きく二つのゾーンに分けてあって、入り口を入り向かって右には大人向けの本が、そして左には子供向けの本が置かれている。

<大人向けゾーン>
 この妄想書房は人文系の本や小説がウリになっていて、大まかなジャンルは次の通り。
  ■哲学・思想
   現象学から実存主義、ポストモダンからジェンダーまで様々な分野のハードカバーが
   東西を問わず。なかでも竹田青嗣と中沢新一は全著作を切らしたことが無い。
  ■教養系の文庫・新書・選書
   岩波/筑摩/講談社(学術)/中公/河出/光文社(古典新訳)などの各文庫と、
   新書にさらに平凡社ライブラリーを加えた主要な教養系は、一通り押さえてある。
   また講談社選書メチエや角川・新潮など各出版社の選書からも面白いものをピック
   アップして販売。(もちろん新刊と絶版を問わず面白いものは何でもOK。)
  ■古典いろいろ
   岩波文庫があればそれだけで結構充実はするが、一応平凡社の「東洋文庫」の目ぼしい
   ところは押さえよう。江戸の古典とキリスト教文化にまつわるものは特に充実させる。
  ■幻想・怪奇・SF・ファンタジー・ミステリ
   このジャンルはかなりのスペースを割いて手厚くしてある。創元推理やハヤカワは当然
   のこと、国書刊行会とか月刊ペン社の妖精文庫あたりまで。またサンリオSF文庫も良い
   ものだけをチョイスしてリーズナブルな価格で提供。
  ■マンガ
   あまり流行のものは置いてない。ざっと名前を挙げると、ますむらひろし・諸星大二郎・
   大友克洋・杉浦茂・たむらしげる・鈴木翁二・森雅之・つげ義春・水木しげる・手塚治虫
   石ノ森章太郎など。
   その代わりこのあたりのマンガ家の作品は、出版社に関係なく集められるものはほぼ
   全部を揃える。また少女マンガはよく知らないので、とりあえず大島弓子/萩尾望都/
   魔夜峰央あたりから並べて、お客さんのアドバイスをもらいながら増やしていこう。
  ■エッセイ
   特に沢山揃えてあるのは「食」と「旅」と「本」にまつわるエッセイ。変わったところ
   では岸本加代子とか柴田元幸といった翻訳家によるエッセイだけでちょっとしたコーナー
   が作ってあったり。
  ■美術書・写真集
   美術書や複製画ではシュールリアリズムやマニエリスム、日本では若冲という「奇想」
   の作家たちを中心にして、他には浮世絵や水墨画も充実。引き札とか鯰絵など、庶民的
   な印刷物もある。
   写真集ではジャコベッティやキャパ、マン・レイ、ドアノーなどを綺麗にディスプレィ。
  ■その他
   雑誌のバックナンバーは「レコードコレクターズ」「ロッキン・オン」「キネマ旬報」
   といったあたりのみ。CDもキング・クリムゾンやYESといったプログレの大御所
   から、XTCやROXY・MUSICなどの捩じれポップまで、大変に偏った(笑)
   ラインナップが充実。
   邦楽では筋肉少女帯や平沢進、はたまた”りんけんバンド”を始めとする沖縄ポップに
   “たま”や人間椅子などのマニア系が中心。アジアン雑貨が少し置いてあったりもする。

 これらのジャンルがあるところは整然と、またあるところは混然一体となって陳列してある。人脈つながり(*)になっていたり、思想つながり(**)になっていたり。

   *…例えば筑摩書房の編集者である松田哲夫を中心とした、赤瀬川源平から南伸坊や
     藤森照信、荒俣宏らの路上観察学会ネットワーク。

  **…例えばフッサールからハイデガー、サルトルを経て竹田青嗣や西研まで続いている
     現象学の流れ。

<子供向けゾーン>
 正直あんまり詳しく書けないのが悔しいが、子ども向けはとっても大事なので勉強しながら
少しずつでも品揃えを増やしていきたい。
  ■絵本と児童文学
   『ぐりとぐら』や『はらぺこあおむし』といった定番は一通り押さえた上で、長新太や
   たむらしげるなどで店主の個性を演出している。『旅の絵本』などの安野光雅は全部。
   児童文学については赤木かん子さんのお力を借りて今後も拡充していこう。
   また江戸川乱歩の「少年探偵シリーズ」南洋一郎版「怪盗ルパンシリーズ」、それに
   山中峯太郎版「名探偵ホームズシリーズ」など往年のポプラ社ラインナップや、
   岩崎書店および“あかね書房”のジュブナイル版SF&海外ミステリもしっかり。
   (将来のファン育成を兼ねて/笑)
  ■図鑑
   「子供には理科教育が必要」という店主のポリシーから、図鑑の類は“生き物”とか
   “宇宙”とか“鉱物”とか、とても沢山の種類が置いてある。

<その他>
 宮沢賢治は大人と子供の両方の棚にある珍しい作家。あ、レオ・レオーニやロアルド・ダールもそうか。『チャーリーとチョコレート工場』で読書の面白さに目覚めた子供は、やがて大人になり『あなたに似た人』で人生の悲哀を知るというわけ。(笑)
 イベントスペースでは普段は「澁澤龍彦と彼が偏愛する作家たち」とか「笠井潔のミステリ“矢吹駆シリーズ”と現代の思想家たち」なんかのイベントを行う。月に一度は平台をどかして広場を作り、絵本の朗読会を行なおう。夜は大人向けのイベントをやっても好いね。サイン会とか。
 カフェスペースをどうするかは悩むところだ。『蒼林堂古書店へようこそ』のように、開店当初からカフェスペースを併設して、美味しいコーヒーや紅茶、それにこだわりのパンで作った軽食を出したいのは山々。でも1、2年して経営がちゃんと軌道にのってから、隣接する別店舗でちゃんとしたカフェを始めるという手もある。そこではアルコールもOK。(ただし置いてあるお酒は店主のわがままでバーボンウイスキーだけ。)

 ああ、好いなあこんな本屋。でも実際にやったら1年ともたずに潰れそうな気がするが。(笑)


<追記>
 先日この記事をアップしたところ、色々な方から本の品揃えに関するリクエストを頂いた。早速、画集のコーナーにハンマースホイや田中一村を置いたり、片山健の絵本を並べたりと大忙し。(笑)
 今回は「本を買う立場」じゃなくて「本を売る立場」で理想の店ということなので、基本的にご要望にはすべて”お応え”すると考えて頂いてOK。尤も実をいうと、草稿の段階ではもっと具体的な著者名や書名が沢山書きこんであり、煩雑になるため大幅にカットしただけ。だから結構マニアな本まで置いてあると思って頂いてもいいかも。ちょっとだけ例を上げると、児童書の棚には他にも天沢退二郎(オレンジ党シリーズなど)や斎藤惇夫(ガンバのシリーズなど)は全作あるし、幻想・SFなどのコーナーには集英社ワールドSFとか晶文社も揃えた(つもり)。「こんな本はあるかなー?」という風に想像して愉しんで頂ければ幸い。

<追記2>
 もうひとつ書き忘れていたことがあった。それは店内のBGMについて。基本はメロウなJAZZやクラシックを流しているが、ときどき店内で売っているCDの曲を流すこともある。そしてもしもその曲が気に入ったらその場で購入できるというわけ。(らっぱ亭さん、アイデアを有難うございました。)
 また、店員も本好きばかりを選りすぐって雇っているので、どんな問い合わせにも即答できる上、彼ら自身もお薦め作家のミニコーナーを作っていたり。もちろんどの店員も(大崎梢の「成風堂書店シリーズ」みたいに)気分の良い人たちばかりで、とっても明るい職場です。(笑)

 この「妄想書房」、思いのほか面白かったのでまた機会があればいつかまたご紹介したいと思う。ではその時までひとまずさようなら。

『白鯨(上・中・下)』 ハーマン・メルヴィル 岩波文庫

 実は『白鯨』には苦い思い出がある。高校生のときに新潮文庫版に挑戦したがあえなく撃沈、上巻を読んだところで挫折してしまった。昔からグレゴリー・ペック主演のスペクタクル映画のイメージを刷り込みされていたせいで、原著がこんなとんでもない作品だとは知らなかったのだ。今にして思えば「血わき肉躍る冒険小説」を期待して本書を手に取った高校生ごときに歯が立つわけがない。「何が書いてあるかさっぱり理解できない」という事態に陥ったのも、むべなるかな。(笑)
 それ以来『白鯨』という名前はピンチョンの『重力の虹』という名前とともに、自分にとってちょっとした負い目になってしまっており、いつかはリベンジしたいと考えていた。(それにしても、まさかその後30年近くも二の足を踏んでしまうとは。)
 そろそろ読んでみるかな?と思い始めたのは、八木敏雄訳による岩波文庫版が良いという話をどこかで聞きかじってから。以来タイミングを計ってきて、遂にその時を迎えたというわけ。まさに満を持してとりかかった本ということになる。(そんな大袈裟なものでもないか/笑)

 で、その結果だが、聞きしに勝る「すごい本」だった。(普通の文学書の範疇からは完全にはみ出してしまう「メタ小説」だということは知っていたが、まさか古典文学でここまでやっているとは。)
 エイハブとモービィ・ディックの物語は確かに重要な「縦糸」ではあるのだが、実は全135章のうち直接それに関するるエピソードが描かれているのは、せいぜい10章分くらい。では残りは何が書かれているかというと、本書が執筆された19世紀当時の「鯨および捕鯨に関する全て」に関する記述で全篇が埋め尽くされているのだ。聖書や文学にでてきたレヴィアサンすなわち”畏怖すべきもの”としての鯨や、マッコウ鯨とセミ鯨の生物学的な特徴の比較といった「鯨学」(*)から、海洋資源としての鯨を利用した様々なヨーロッパの文化、捕鯨船における日常生活や狩りおよび鯨油をしぼる作業の様子、はては「美食としての鯨肉」なんて題名の章も。

   *…例えば第32章は約35ページに亘ってまるまる「鯨学」の記述にあてられている。

 これら衒学的な記述を除いて純粋に物語の部分だけとってみても、本書はかなり破天荒なつくりになっている。実質的な主人公であるエイハブが登場するのは上巻もほぼ終わりに近づいた第28章になってからだし、それまでは本書の”語り手”であるイシュメールが初めて捕鯨船に乗り込むまでの顛末が面白おかしく描かれている。登場人物にはどれもかなりコミカルな誇張がなされ、まるでマーヴィン・ピークが書いた異形のファンタジー『ゴーメンガースト』に出てくる人物のよう。そしてその中でもエイハブという人物のもつ迫力は際立っている。
 先に述べたように本書の記述スタイルは、イシュメールという人物の一人称を基本にしているわけだが、それとて箇所によっては「神の視点」に突然置き換わったりとなかなか定まらない。19世紀に書かれた作品を今の基準で判断すればもちろんあちこちに綻びが見えてきても致し方ないが、それを考慮した上でなおも本書が自分の目からみて「傑作」と成り得ているのは、百科全書とも見紛うような溢れんばかりの豊饒さとともに、エイハブらがいよいよモービィ・ディックと遭遇/対決するラスト3章の圧倒的迫力も大きく貢献しているからだろう。その点では映画が「エイハブによる白鯨への復讐の物語」にテーマをしぼったのはある意味で正解なわけだが、それだけで終わらせてしまってはあまりにもったいない、そんな魅力(魔力?)をもった本だった。ここまでくるのに長い年月がかかったが、それだけの価値は充分あったといえる。

 思うに(本書を含めて)数多くのいわゆる「古典」と呼ばれる作品については、作者や発表年代などについて学校の教科書で習ってきたわけだが、その時はこんなに面白いものだとは考えもしなかった。ラブレーの『カルガンチュア』や『パンタグリュエル』なんかもそうだし、鴨長明の『方丈記』や『奥の細道』といった日本の作品でも同じ。恥ずかしながら、どれも後年になって素直な目で読んでみたら、大変に面白いものだということに初めて気がついた次第。「古典」とされる作品の中にも、単なる歴史的な価値しかない作品もあるかもしれないが、殆どの「古典」と呼ばれるものは長い年月にわたって残るだけの価値を持っていたからこそ、今に伝えられているわけだろう。『ドン・キホーテ』とか『源氏物語』や『平家物語』とか、そのうち腰を据えて取り組んでみたいものだ。(『重力の虹』も忘れずにね。/笑)

<追記>
 余談だが、自分の「100点を付けた3冊」のうちの1冊にスタニスワフ・レムの『ソラリス』という作品がある。その作品の中には何故か突然に本篇のストーリーとは直接関係ない逸話、たとえば「ソラリス学」という章が挟み込まれていたりして以前から疑問だったのだが、本書を読んでふと思いついた。もしかするとレムは本書『白鯨』のスタイルをわざと真似ているのかも。いやそれどころか惑星ソラリスにあり「海」と呼ばれている存在が”畏怖すべき強大なモノ”、もしくはコミュニケーション不可能な”圧倒的に異質なモノ”として描かれていること自体、モービィ・ディックに直接的に対比できるのかも知れない。
 とすれば『ソラリス』に登場する人間たちに、「海」と対等の立場にたってコミュニケーションを図れる可能性など万に一つもありはしないというのも頷ける。

『マクルーハン理論』 M・マクルーハン他 平凡社ライブラリー

 記号学者・批評家のロラン・バルトは、その著作において「文字媒体(書物)」に拘泥することなく、映画やエッフェル塔ならびに日本文化といったあらゆる事柄を対象にして記号論的な解読を行った。本書の主役であるマクルーハンは(『グーテンベルクの銀河系』のように書籍に関する著作もあるが)、どちらかと言えば映画やテレビ・ラジオといった「情報メディア」を対象にしてバルトと同様の記号論的な解読を行った学者らしい。
 「らしい」というのは、実はこの著者のことをあまり良く知らないのだ。(笑) なぜなら今回も例によって、今まで読んだことのない分野を齧ってみたくて初めて手に取った本だから。
 という訳で本書の解説の受け売りになって恐縮だが、マクルーハンはかつて日本でも一時期かなりもてはやされた思想家とのこと。ちなみに日本にマクルーハンを紹介して流行らせたのは、評論家の竹村健一(*)だったそうだ。全く知らなかった。(今なら茂木健一郎や勝間和代みたいな感じかな? ある種のいかがわしさも含めて。/笑)

   *…昔は一世を風靡した評論家だったのだが、この人も今ではすっかり忘れられている
     なあ。テレビCMで「僕なんかこれだけですよ、これだけ」とか云いながら手帳を
     振っていたのを覚えている人はかなりの年かも。

 話を戻そう。本書はマクルーハン自身の書いた文章を前半に、そして彼に触発されて10人の論客が書いたコミュニケーション論を後半に配して、1冊で「マクルーハンのメディア論」の全貌が分かるようコンパクトにまとめられた本。―― まあ入門書と思えばいいだろう。
 ただし本書を愉しむにはちょっとしたコツが必要であって、以下にそれについて説明しよう。

 本書は副題として「電子メディアの可能性」とつけられている。今ならこの手の言葉を聞くとすぐに「インターネット」とか「ソーシャルネットワーク」といった言葉が頭に浮かぶが、本書の元になった論文は60年代に書かれたものでありネタがかなり古い。従って取り上げている「メディア」もせいぜい白黒テレビまでで、カラーテレビはまだ普及しておらず、「総天然色」といえば映画を意味していたそんな時代。またアメリカでは3大ネットワークが巨大なテレビ産業を作り上げようとしていた、いわゆるマスコミにとって“黎明期”にあたる。テレビ番組でいえば『ローハイド』とか『ルーシー・ショー』なんかの頃だ。(日本で流行ったのも、60年代末~70年代初頭までだろうから、せいぜいが『ゲバゲバ90分』や『キイハンター』『木枯し紋次郎』といった懐かしの番組が放映されていた時代を思い浮かべれば、多分間違いないだろう。)
 すなわち本書の内容はあくまでも当時勃興しつつあった、「テレビ」というメディアに限ったものだと言う事を念頭に置かなくてはいけない。また肝心の記号論的なメディア分析についても、その後のポストモダン思想の展開を知っている目で見てしまうと「ちょっと…」と思える箇所がちらほらと散見される。さらには記号論的な読みを行うために頻出する表現、たとえば「ビートルズに大人たちが眉をひそめている」といった表現など、当時のことを知らない世代にとってはいささか意味を掴みかねる記述も多い。
 これらをすべてひっくるめた上で、今の視点で眺めたときに感じる古臭さや不備な部分については、とりあえず保留して読まないといけないのだ。これが本書を愉しむ上で必要なコツ。
 以上、あれこれ文句を書いてきたが、短所ばかりあげつらっても仕方ないので具体的な内容説明に移ろう。本書によればマルクーハンのメディア理論の基本とは凡そ次のような感じになる。

 彼は人類史を「主体となるメディアが変遷していくステップ」として捉え、その上でそれぞれのメディアの特徴を解析している。なおマクルーハンを語る際によく引き合いに出される「メディアはメッセージ」という言葉が象徴するように、マクルーハンにとって“メディア”とは単に情報を運ぶ器ではなくて、受け手の感覚や意識を変える“メッセージ”そのものなのだ。
 ちなみに本書にはあまり整理された明確な形では書かれてはいないのだが、(自分なりに整理すると)マクルーハンが述べているメディアのステップとは概ね次の6つ(8種類)になる。
  1)口承文化(言語)
  2)文字文化 ― ここは更に細かく3つに分かれる
    a.手書きによる書き写し(写本)
    b.印刷機(byグーテンベルグ)による書籍
    c.新聞
  3)演劇文化(舞台)
  4)映画
  5)ラジオ
  6)テレビ(50,60年代だから生放送が主体)
 まず最初の「口承文化」で用いられていたメディアは、記録に残らない「言語」であった。そして次にくるのが「文字」の文化。最初の写本時代においては識字率が極めて低かったため、書籍(=ほぼすべてが聖書)の社会全体に与える直接的影響はごく僅か。(また当時は口承文化の名残りで「音読」が基本であり「黙読」は存在しなかった。)続いて印刷機に因る書籍の大量生産が可能になると、活字の誕生とともに黙読が読書の一般的なスタイル主流となる。そしてその後の新聞というメディアが誕生すると、活字に代表される「ホットなメディア」が全盛の時代を迎え、演劇、映画を経てラジオまで続いていく。
 そして(当時の)最新メディアであるテレビが発明されるに至って、遂に“最終段階”である「クールなメディア」が出現することになる。(**)

  **…マクルーハンによる「ホットなメディア」と「クールなメディア」の定義は、
     正直言って本書を読んでも良く分からない。「映像+音声」を兼ね備えた総合的な
     情報が“参与性”(即時性?)をもって受け手に与えられる時、それを「クール」
     と呼んでいる感じはするのだが...。

 この「最終メディア」が子供らの教育や社会のコミュニケーションにどのような影響を与えるか、そして今後はこの新たなメディアの存在を前提にどうしていくべきなのか?といったあたりが、マクルーハンの主な関心事だったように思われる。
 なお蛇足ながら、現在ではコミュニケーションとはマスコミによる一方向&集約的(=一対多)なものではなく、Web媒体を通じた双方向且つ個別対応(=一対一)が前提となっているため、メディア論もそれにあったものでなければならない事を付け加えておきたい。さしずめ「2ちゃんねるやツイッターが青少年に与える影響」といったところか。
 
 うーん、ここまで書いてきた文章を読み返してみたが、やっぱり分かりにくい。(笑)
 もともとマクルーハン自身がまるで“ご託宣”や“詩”のように曖昧な表現を好んでいたため、全体像が漠然とし過ぎていて、きちんとした理論にまで昇華しきれていない感がある。後半に収録された10人の論客による各論も、マクルーハンのメディア論を自分らに都合の良いように解釈しているきらいがあり、今一つ腑に落ちた感じがしない。
 愚痴っていても仕方ないので、もう少し言い方を変えて説明して見よう。
 先述したようにマクルーハンは「メディアはメッセージ」、すなわちメディアそのものが一つの情報であると主張している。そして本書では各種メディアが持つ特性 ――例えば「“舞台芸術”と“テレビ”における視点」とか「“書籍”と“新聞”における書面レイアウト」とか、「“映画”と“テレビ”における同時性」などについて並列的に分析・論じている。これらメディアの“特性”というのは、メディアを「水を入れるバケツ」に喩えると分かりやすいだろう。ひとくちにバケツといっても「中に入る水の量や大きさ」、「色や形などのデザイン性」、「材質」、「持ち運びのしやすさや使い勝手」などによって千差万別。このように「中身の水」ではなくて「水を運ぶ器」自身がもつ特徴が、マクルーハンのいう「メディアのメッセージ性」にあたるといえる。マクルーハンは各種メディア(情報を運ぶ“バケツ”)の各種スペックを比較しているわけだ。もちろんテレビに代表される「クールなメディア」こそが、彼の考える“最新”にして“究極”の方法ということになる。

 最後になるが、本書の愉しみ方を挙げるとすれば2通りあるのではないかと思う。ひとつは普遍的な価値を持つ分析内容を探して読み解く事。(松岡正剛がマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』を評価しているのは、当時すでに“枯れた”メディアであった書籍(活字印刷)メディアを分析した本であるが故に、現代でも通じる価値を失っていないと判断したからではないのか。)
 そしてもうひとつの愉しみ方は、当時“最先端”であったが故に、却って今では時代遅れになってしまったハードウェア技術に関する分析を、まるでセピア色の写真を眺めるかのごとく愉しむこと。今の目でみると分析不足や的外れな点もあるが、同時代を論じるのが如何に難しいかは、現在でも巷に溢れるインターネット電子書籍、SNSなどの解説本を見ればすぐわかる。だから本書の理論書としての欠点も含めて大目に見てやって、当時の息吹を感じることに徹するのはそれなりに意味があるかも。(まるで『三丁目の夕日』みたいな愉しみ方なので、それが学術書でも通用するかどうかは読む人の感性次第だが。)

<追記>
 個々の論文については、当然のことながら玉石混交であり、「いかがなものか」というものもあれば「マクルーハンよりも良いんじゃないか」というものまで色々ある。その中でちょっと驚いたのは、日本を代表する仏教学者・鈴木大拙が本書に文章を寄せていたこと。芭蕉や加賀千代女らの俳句を用いて「仏教における象徴」について論じた文章で、なかなか面白かった。

『幽霊狩人カーナッキの事件簿』 W・H・ホジスン 創元推理文庫

 『異次元を覗く家』で有名な、20世紀初頭に活躍したイギリスの怪奇小説作家による連作短篇集。怪奇現象の研究家であるカーナッキが依頼のあった様々な怪異の謎を解く。年代的にはポーの発明した推理小説という小説ジャンルがドイルにより大きな発展を遂げた時期に重なっていて、(江戸川乱歩にも「本格」「変格」という言葉があるように)純粋な推理と怪異譚が未分化なころの作品といえる。
 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉もあるが、実は人間に因るトリックだったという話もパラパラと混じっている。従って「純粋な怪奇モノ」を期待して読むと拍子抜けする場合があり、それが好き嫌いの分かれる境目になるかも。
 しかし正体が分かるまでの恐怖は「ホンモノ」だろうがトリックだろうが同じなわけで、自分はどちらも同質の怪異譚として愉しむことが出来た。むしろどの怪異が人為的なトリックなのかは物語のラストにならないと分からないため、「ホンモノ」だった時には面白さが倍増すると言っていいかもしれない。
 特に気に入ったのは「妖魔の通路」「口笛の部屋」「角屋敷の謎」「異次元の豚」の4作品。(説明してしまうと、どれが人間によるトリックでどれがそうでないかばれてしまいそうなので、内容に触れるのはやめておこう。話については題名から想像して頂きたい。/笑)
 『異次元を覗く家』を読んだ時には少し冗漫な感じがしたので、「自分の好みではない」とこれまで手控えていたのだが、本書が思いのほか面白かったので、同じ創元からでている『夜の声』を早速買ってきた。海洋を舞台にした怪異譚を集めた短篇集とのことだが、こちらは果たしてどうかな? 愉しみ愉しみ。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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