2011年5月の読了本

『グリム童話』 野村ひろし(さんずいに玄) ちくま文庫
  *グリム童話そのものではなくてグリム童話の研究書。「子どもに聞かせてよいか?」と
   いう副題から分かるように、ときに残酷な描写もある昔話が、そのまま子供向け読み物
   として相応しいかについて論じたもの。著者の見解は明快であり、隠すよりも全てを
   伝える事で子供たちが成長するというスタンス。昔話にみられる典型的な特徴として
   「欠如」⇒「試練」⇒「克服」というパターンが見られ、これを示すために必要な残酷さ
   は改変すべきでないという著者の論旨には納得。小さい時から“口あたりの良いもの”
   ばかり与えていると碌な大人にならないよ。
『ハーモニー』 伊藤計劃 ハヤカワ文庫
  *思春期独特の“負のエネルギー”を帯びた描写が、読むものを冒頭から圧倒する。舞台と
   なるのは近未来の、「生府」と呼ばれる統治機構があまねく社会を覆う世界。その正体は
   中央政府による単純な監視システム(=ツリー状)ではなくもっと巧妙であり、社会の
   成員同士がお互いを監視し合うようなリゾーム状の倫理システムとして描かれている。
   (M・フーコーの「生権力」の完成体にして、A・ネグリが「生政治」とよんだものに
   近い。)他にも「心身二元論」や「アフォーダンス」に「ソマティックマーカー仮説」、
   それに最新脳研究とか“想像の共同体”および“正義”を巡る社会倫理の問題とか、
   色々な分野の知識を総動員して目いっぱい「愉しませて」くれる。大変良く出来た小説
   だが、本書に唯一欠点があるとすれば「この物語は必ずしもSFである必要はない」と
   いう点だろう。同じく非常に高いレベルの作品の『グランヴァカンス』(by飛浩隆)と
   比較するとよく判る。作品としては『ハーモニー』の方が上だが、SF小説としては
   『グラン...』の方が上に思えて好対照。
   センチメンタルな部分もたっぷり盛り込んであり物語としても読みごたえがあって、
   その部分はおそらく三原純や吉田秋生などの、「ある種の少女漫画」に見られる最良な
   部分のエッセンスに近いのではないか ―そんな印象を持った。
『沖縄裏道NOW!』 はるやまひろぶみ他 双葉文庫
  *双葉書房は知る人ぞ知るディープな沖縄本を数多く出す出版社だが、これもそんな1冊。
   大衆食堂のローカルメニューや桜坂の“おばぁスナック”の様子など、観光ガイドには
   絶対に出てこない「素の沖縄」が満載のルポ&ガイドブック。自分にとってはいわゆる
   「オヤツ本」というやつで、スナック菓子感覚で気軽に摘める類の本だ。(笑)
『エレガントな宇宙』 ブライアン・グリーン 草思社
  *理論宇宙物理学者である著者が、ニュートンの万有引力から現代の最新宇宙論である
   「M理論」までを分かりやすく説明した科学解説書。
『マクルーハン理論』   平凡社ライブラリー
  *かつてメディア論で一世を風靡したマクルーハンの全貌がコンパクトにまとめられた本。
『呪の思想』 白川静/梅原猛 平凡社ライブラリー
  *漢字研究の巨人・白川静と日本の歴史研究に一石を投じた哲学者・梅原猛の対談集。
   “孤高の研究者”である白川と、その彼の“おしかけ弟子”を自認する梅原の交流が
   心温まる。
『NOVA4』 大森望/編 河出文庫
  *未発表SF短篇のオリジナルアンソロジーの第4集。特に面白かったのは京極夏彦「最后
   の祖父」と斎藤直子「ドリフター」および山田正紀「バットランド」の3作。「バット
   ランド」を読んだら『神狩り』や『地球・精神分析記録』を読んだ頃の興奮が蘇ってきて
   とても懐かしかった。最新宇宙論やらインド神話やら色んなものからイメージを借りて
   きて“ごった煮”にするという、著者お得意の大技が本作ではうまく成功している。
   どこまでが本当でどこからが著者の仕掛けた嘘なのか判る場合は興醒めしてしまうこと
   が多いが、本作ではその結果できあがる物語が面白かったので好かった。読んでいる
   うちに「もしかしてSFの面白さと小説の面白さは別物なんじゃないか(笑)」という
   気もしてきた。
『族長の秋』 ガブリエル・ガルシア=マルケス 集英社文庫
  *南米を代表するノーベル賞受賞作家・ガルシア=マルケスの長篇小説。文体が凝っており
   すこし取っつき難くはあるが、読んでいくうち眩暈を催すような魔術的リアリズムが炸裂
   する。
『蕃東国年代記』 西崎憲 新潮社
  *翻訳家/作家/作曲家といった多くの肩書を持つ多彩な著者による幻想短篇集。
   「蕃東国」という架空の国を舞台にして、不思議な印象の物語がつづられる。
『孔子伝』 白川静 中公文庫
  *従来の堅苦しい「儒学の大成者」という孔子のイメージを180度ひっくり返した画期的な
   孔子の伝記。白川漢字学による古代中国文化研究の成果のひとつ。
『単純な脳、複雑な「私」』 池谷裕二 朝日出版社
  *脳科学者・池谷裕二の本を読むのはこれで4冊目になるが、どれを読んでもハズレが無い
   のがすごい。本書でも研究者だけが知っている最先端研究の成果を、素人にも分かる
   ように説明してくれてとても面白い。例えば、脳のある部位を電気信号で刺激すると
   「誰かが後ろに居る気配」とか「自分の体や周囲の人達を上空から見下ろす」という
   現象(=幽体離脱)が100%再現できるらしい。オカルティックな現象も今や脳研究に
   よる認識科学の進展により次々と解明されつつあるのだ。ヘンテコなスピリチュアル系
   の人生相談なんかをテレビで観てる人は、もっとこういう本を読むべきだな。(笑)
『世界怪談名作集(上・下)』 岡本綺堂編・訳 河出文庫
  *半七捕物帳などで有名な作家・岡本綺堂は、欧米の怪奇小説にも造詣が深かった。
   そこに目を付けた出版者が彼を口説いて編纂させた怪奇小説アンソロジー。良い怪奇
   小説はどれだけ経っても古びないことのいい見本。
『代表的日本人』 内村鑑三 岩波文庫
  *『世は如何にして基督教徒と成りし乎』で知られる著者が、欧米諸国に「日本を代表する
    人物」を紹介するために著した評伝。元は『茶の本』や『武士道』などと同じく英文で
    書かれた。
『幽霊狩人カーナッキの事件簿』 ウイリアム・H・ホジスン 創元推理文庫
  *シャーロック・ホームズ譚と同じ頃に書かれた、ミステリと怪奇小説が未分化だった頃
   の古き良き小説。
『ジーキル博士とハイド氏』 スティーブンソン 岩波文庫
  *実は初読。話自体は既に知っているのでわざわざ読んでみる気にならずこの年まで来て
   しまった。読んでみて思ったのだが、スティーブンソンはプロットの作り方が大変巧い。
   流石は『宝島』の作者だけはある。今の目から見れば科学的にちょっと?と思うアイデア
   を使っているので、語り口が違うと単なるこけおどしになってしまうが、語り口がよい
   のでとても面白く読めた。
『江戸はネットワーク』 田中優子 平凡社ライブラリー
  *『江戸の想像力』『江戸の音』に引き続き、「連」に代表されるネットワーク組織や
   廓の文化など、江戸時代に独特で世界的にもユニークな思想・文化体系に関する解説書。
   松岡正剛が「方法としての日本」と呼んだものの実例を知ることが出来る。
『大津波と原発』 内田樹/中沢新一/平川克美 朝日新聞出版
  *3月11日の東日本大震災と原発事故を巡って繰り広げられる、50~100年という長期的な
   視点に立った提言を緊急出版。(4月にネットで中継配信された対談をおこしたもの。)
   中沢新一や内田樹のファンなら彼らが今回の震災をどう理解したかに興味深々だろうが、
   それが良く分かって満足できる。
『夢の国』 ジェイムズ・P・ブレイロック 創元推理文庫
  *ジャックやヘレンといった孤児仲間を主人公にしている点で『ハックルベリー・フィン
   の冒険』の後継でもあり、不思議で不気味なカーニバルが登場する点はブラッドベリや
   トム・リーミイに代表されるカーニバルファンタジーの後継でもある。(ここらへんは
   アメリカ文学の伝統。)本書でもうひとつ重要なのは、題名にもある「夢の国」。これは
   十二年毎の特別な<夏至>の時期にしか現れず、通常の手段では決して辿りつけぬ世界。
   このような“彼方の世界”への憧憬を描くという点では、デ・リントの『リトル・カン
   トリー』やクロウリー『リトル・ビッグ』といったファンタジーの正統的な後継ともいえ
   るのではないか。(このあたりについては訳者あとがきで増田まもる氏が簡潔にまとめて
   くれていて分かりやすい。)
   ブレイロックのゴチャゴチャした作風はビクトリア朝のイギリスを舞台にした”スチーム
   パンク小説”として話題になった『リヴァイアサン』や『ホムンクルス』よりも、本書の
   ように土着の雰囲気がするカーニバルがテーマの方がしっくりくる気がする。なお本書は
   その後『真夏の夜の魔法』と改題されて、同じ創元推理文庫から再刊された。
『桃山人夜話 ― 絵本百物語』 竹原春泉・画 角川ソフィア文庫
  *江戸時代に刊行された妖怪図画のひとつ。京極夏彦の『巷説百物語』で取り上げられた
   妖怪の元ネタとして有名。
『わたしの開高健』 細川布久子 集英社
  *開高健の担当編集者だった著者が、数十年の沈黙を破って作家・開高との交流の日々を
   書き記した本。生前の開高の姿が生き生きと描写されるとともに、作品の成立背景など
   関係者でなければ知り得ないようなエピソードも多く描かれ、彼のファンなら必読書と
   いえるかも。
『ミステリマガジン7月号』
  *このリストには雑誌やマンガは原則として挙げないことにしているが本書だけは特別。
   「特集:ゲゲゲのミステリ<幻想と怪奇>」と銘打って、水木しげるが過去に親しんだ
   作家たちの作品を特集している。短篇が掲載されているのはヘンリイ・カットナー、
   リチャード・マシスン、H・G・ウエルズ、ウィリアム・ホープ・ホジスンの4人。
   (いつの時代の雑誌かと思うようなラインナップだが、このような特集ならいつでも
   大歓迎。久しぶりにミステリマガジンを購入してしまったよ。)
『変な映画を観た!!』 大槻ケンジ ちくま文庫
  *ご存じ筋肉少女帯のボーカリスト大槻ケンジが書いた映画評を集めたもので、イラスト
   は三留まゆみ(彼女が描いた余白にびっしりコメントを書き込んだ似顔絵は誰もが一度
   は目にしたことがあるはず)。取り上げられているのは、ひとくせもふたくせもある
   映画ばかりで、カルトムービーやB・C級の作品が目白押し。「と学会」が世の中の
   変な本を「トンデモ本」と名付けてその変さ加減を楽しんでいるが、それの映画版と
   いう雰囲気がぴったりくる。ただしそのような「変」な作品は確かに多いが、それ以外
   でも、世の中でいわゆる”名作”と呼ばれる作品の中にも実は「劇睡ムービー」が多数
   あることを看破したりとなかなか鋭い。好評だったらしく、ネットで調べたら続巻も
   出ているようだ。
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『エレガントな宇宙』 ブライアン・グリーン 草思社

 このところ“文系”のジャンルを続けて読んでいたので、そろそろバリバリの“理系”の本で精神的なバランスを取りたくなった。バランスをとる手段もあくまで本だというのが我ながら呆れてしまうが、これはまあ「業(ごう)」というか「宿痾(しゅくあ)」のようなものだから致し方ない。(笑)
 本書はアメリカで1999年に出版されるや大ベストセラーになった科学解説書で、日本では2001年に出版されている。内容はというと、素粒子物理学の研究成果を踏まえた最新の宇宙物理学を、物理学者である著者が一般読者向けにやさしく紹介したもの。数式を出来るだけ使わずして大変に分かりやすく、かつ懇切丁寧な説明を心がけてくれていて好感が持てる。
 ありていに言って科学の解説書は古びてしまうのが早い。それが“ホット”な分野であればあるほどそれは顕著で、中学の頃に夢中になったブルーバックスを今になって読み返すと、時代遅れになった学説に多くのページが割かれていて興醒めすることもある。しかし本書に関しては(少なくとも2011年の時点においては)そんな心配は杞憂。今から10年以上前の本ではあるが、今読んでも全く古びておらず普通に愉しむことが出来た。
 その理由は、本書の前半に書かれているのが物理学の歩みを簡潔に説明したものであるのと、後半で扱われているのが「超ひも理論」や「M理論」であるということ。前半部分はニュートンの万有引力に始まってアインシュタインの特殊/一般相対性理論といった宇宙物理学と、シュレーディンガーらによる量子力学(素粒子物理学)の歴史が解説されている。もちろん既に聞いたことがある話には違いないが、相対性理論の根本が“等価原理”にある点など、ツボを押さえた説明でなかなかどうして飽きることがないのはさすが。この「科学発展の歴史」は本当によく書けており、これから時代を重ねていっても変わることなく高い評価を得るのではないだろうか。また後半は現在も検証が続いている”ホット“な分野であるため(*)、まだしばらくの間は本書の賞味期限は切れないと思っていいだろう。

   *…「ダークマター」や「ヒッグス粒子」といった謎にはまだ決着はついておらず、
     ときおりテレビや新聞を賑やかしている。

 物理学者たちは昔から我々の住むこの世界の成り立ちについて解き明かそうと懸命に努力してきた。大まかに言えばそれらの疑問は「宇宙はどのようにして出来、これからどうなるのか(=宇宙物理学)」という問いと、「物質は一体何で出来ているのか(=素粒子物理学)」という問いに集約されていくと言って良い。しかも面白いことに現代の最先端物理学においては、一見正反対にみえるこれら2つの謎を突き詰めていくと、最終的にはひとつになってしまうのだ。
 たとえば、「なぜ太陽や月や星はあのような動き方をするのか?」を考えた結果、コペルニクスによる地動説へと行き着いた。また「なぜ月は落ちてこないのか?」を考えた結果、ニュートンによる万有引力の発見がなされた。これらが示すのは、ひとつの理論があればそれを突き詰める事で、今までの理論を包括するもっと上の知見が得られるということだ。科学者たちはそれを信じているからこそ日夜研究に没頭しているといえる。
 同様にして、ニュートンの万有引力はやがてアインシュタインによる「等価原理(**)」の発見およびその直接的な成果である特殊相対性理論、そして発展形である一般相対性理論(***)へと繋がっていった。
 ニュートンには重力(引力)が「どのように働くか?」は示せても、「なぜ働くか?」は説明することが出来なかった。一般相対性理論は「重力による時空の歪み」というさらに上位の概念を用いることで、それを説明する事に成功したのだ。

  **…あらゆる物理現象は観測者の条件によって変わり、絶対的なモノサシは存在しない
     という知見。これによって、スピード(=等速直線運動)が違う系では時間や空間の
     尺度が変わるという特殊相対性理論が導き出され、ビックバンによる宇宙開闢と
     ブラックホールの存在が明らかにされた。

 ***…重力(=加速度運動)が変われば時間や空間の尺度が変わるというもの。

 一方、物質の成り立ちを探る物理学の方は、古典的な原子モデルを経てやがてシュレーディンガーらによる量子力学の発見へと進んでいった。(尤もこちらの分野は著者の専門ではないので必要最低限の記述にとどまり、あまり詳しくは触れられていない。)
 粒子でもあり波でもある、そしてそのどちらでもない「量子」の概念。観測者の存在が観察対象に影響を与えてしまうため、「位置」と「エネルギー」の両方を同時に確定することは原理的に不可能(=確率的な記述しかできない)という不確定性原理。そして極めてミクロな世界では真空は「からっぽ」ではなくエネルギーで満ち溢れているというディラックの説など、こちらも宇宙物理学に負けず劣らず神秘的で奇妙な世界が広がっている。

 このように、ある段階までは宇宙論と素粒子論が別々に発展してきたので問題は無かった。しかしやがて相対性理論と量子力学を同じステージで記述しようとすると大きな問題があることが発覚する。時空が“連続”していることを前提とする相対性理論に、空間の“断裂”を前提とする量子力学を単純に適用すると、「無限解」が発生して論理が破綻してしまうのだ。そうなると「(万有引力の上に一般相対性理論があったように)もっと上のステージがあるのではないか?」という疑問が出てくるのは当然の事。そこで両者を矛盾なく説明できる究極の理論すなわち「万物理論」が、次のターゲットとして世界中の物理学者たちに追い求められてきた。そして本書の前半にまとめられているのは、ここに至るまでの科学の発見と挫折の歴史というわけだ。

 後半ではこれら前半の歴史を踏まえた上で、著者の専門分野であって「万物理論」のもっとも有力な候補とされる「超ひも理論」と(その発展形である)「M理論」について、現時点で判明していることや今後検証が必要な仮説も含めて紹介をしている。
 物理が好きなひとにはお馴染みの話だが、自然界には「4つの基本的な力」というものが存在している。それは「電磁力」「弱い力」「強い力」「重力」の4つ。そして世界に存在する力はなぜこの4つに分かれているのか?という疑問も古くからあった。(先程のニュートンの譬えに倣えば、アインシュタインの相対性理論は「なぜ重力が働くか?」の説明は出来ても「なぜ重力はあるのか?」については説明することは出来ない。)
 実は重力をのぞく3つの力については、その後の素粒子理論の発展によってかなり解明されてきている。このうち「電磁力」と「弱い力」については「電弱理論」によってもとは一つであることが証明され、「強い力」に関しても「統一理論(ゲージ対称性)」によって巧く説明することができた。しかし最後に残った難物が「重力」であり、そしてこれを纏め上げる可能性がもっとも高いとすれば「超対称性」という概念とそれを敷衍することで、素粒子を一本の小さな“ヒモ”の振動によって説明する「ひも理論」というわけ。
 なお現在では「(3次元+時間=)4次元」という時空を論じた「ひも理論」を更に発展させて、全部で「11次元(10個の空間次元+1個の時間次元)」の時空へと発展させた「超ひも理論」が主流になっている。また互いに矛盾のない複数の式が導き出されてしまうという「超ひも理論」の欠点に関しては、さらに上位の概念として「M理論」というものが考えられつつある。
 (さすがにこのあたりまでくるとトポロジーなど現代数学の知識なども必要になったりして、ちょっと難しくなってくるが、理系教育を受けた人なら充分についていけるレベルだと思う。)

 本書の全体的な印象に触れて最後としたい。
 宇宙は驚きと美しさに満ちている、というのが筆者の(そして世界中の物理学者たちの)基本的な姿勢。その感性は本書の題名が「エレガントな宇宙」と名付けられている点からも分かるように、本文中のそこかしこに満ち溢れている。そんな様子がまた本書の魅力になっていると言える。先にも書いたように、科学の世界では次々と新しい発見があるので、古くなった科学解説書は面白くないのが一般的なのだが本書だけは別。
 本書のもつ魅力とは、物理学発展の歴史をとても分かりやすく俯瞰するという資料的価値だけでなく、文章が持つ品格とワクワク感こそが大きな理由を占めているのだと思う。ブライアン・グリーン氏、研究者としてだけでなく文筆家としても並々ならぬ力量と見た。

<追記>
 最近になって「自然界第5の力」が存在する痕跡が見つかったというニュースが。そうなると、「超ひも理論」や「M理論」はどのような影響を受けるのか分からないが、まだまだ「万物理論」への道は遠そうだなあ…。

『代表的日本人』 内村鑑三 岩波文庫

 何だかんだ言っても、結局のところは岡倉覚三(天心)が書いた『茶の本』や新渡戸稲造の『武士道』と同じく「外国人に対して日本をPRするために書かれた本」なのだなあ、これは。「日本はこんなに優れた文化を持っているんだ、東洋の野蛮国ではないぞ!」という著者の気概が、読んでいてビンビン伝わってくる。
 内村が「日本人の代表」に相応しいとした人物は、西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹と、そして日蓮の全部で5人。以前に松岡正剛も云っていたように、この面子はいったいどのような基準で選ばれたのだろうか? 著者の意図がいまひとつ分からない。“人間的に優れた人物”や“社会的な貢献をした人物”というのが基本にある感じはするのだが、たとえ身近な人への接し方や性格が高潔であっても、実際の行動や政敵への対応の仕方などに色々と問題のある人物も入っているし...。(敢えて名前を出すのは止めておこう。/笑)
 また著者と同時代の人物が一人もいないというのも少し引っかかりがある。本人の“人となり”について直に知っている訳ではなくて、他の人が書いた伝記などを参考に書いたとおぼしいが、それって本当に正しい情報なのかな?
 ――とまあ、あれこれ考え出すと気になる点が多くあり、正直いって悩ましい本だ。(セイゴウ氏はこの本をだいぶ高く評価していたのだが、彼の場合はかなりひねった読み方をする事があるので、それを素直に受け取って良いのか迷うところではある。)
 でもまあ書いてある内容をそのまま素直に受け取れば、西郷の「敬天愛人」だとか日蓮の求道心だとか、色々と学ぶべきところは多い。変にうがった見方をせずに参考にすべきところは素直にすれば良いのかな。

 ところで、今だったら果たして誰が「代表」として相応しいだろうか、などと考えてみるのもまた一興。そもそも現代の日本人に「伝統的な日本的価値感」というのを期待してはいけないので、選ぶのが結構難しいかも知れない。村上春樹やイチローなんかを思いついたのだが、それ以上は思いつかない。少なくとも政治家は誰ひとりとして候補に挙がってこなかった。(笑)
 明治のころは確かに「日本国家」という共同幻想を保つことが、列強の侵攻(=植民地化)に対する最重要課題であったとは思うが、グローバル化/ボーダーレス化がすすんでいる昨今では、却って「日本」に固執することは人として高潔であることの妨げになってしまう気もする。「日本の代表」などよりも、偏狭な「日本」という枠を軽々と超えていく人物の方に憧れを感じてしまうなあ。
 本書が書かれた後、やがて日本は太平洋戦争への道を突き進んでいくことになる。我々はいったいどこから道を誤ってしまったのか、それを検証するにはいずれにせよ本書や『武士道』のあたりまで遡った上で、改めて順番に考えていくしかないのだろう。今の自分が読んで素直に「素晴らしい」と云い難いところはあるが、色んな考えを巡らす良いきっかけを作ってくれた本だった。

『呪(じゅ)の思想』 白川静/梅原猛 平凡社ライブラリー

 漢字研究や古代中国&日本の研究で有名な白川静と、『隠された十字架』『水底の歌』などの日本史研究で知られる哲学者の梅原猛による対談集。話は専門的なのだが漢字や古代中国は最近興味がある分野なので、読んでいてかなり面白い。白川静の本はいつか全部読みたいとは思っているのだが、内容が難しいので一度にそう読めるものではない。その点で対談集という形式は「会話」というスタイルの性質上、難しい話でも分かりやすく語ってくれるので大変重宝する。たまに話が横道に逸れたりもするが、それもまた対談集の愉しさのひとつといえよう。
 「横道」がどんなものかひとつ挙げると、例えば立命館時代に「師弟関係(*)」だった2人による当時の思い出話など。学生運動が盛んだった頃の大学の様子や、彼らの交流の様子が垣間見れてとても面白い。論文では見る事の出来ない人間関係が生き生きと見えてくるのが対談集の良いところで、本書のように互いが信頼し尊敬し合う人同士によるものに当たると、読んで良かったとつくづくそう思う。

   *…大学で孤立していた当時の梅沢が、専攻は違うが尊敬する孤高の研究者の白川に
     勝手に師事して、「おしかけ弟子」のようになっていたようだ。

 本書は全部で三部構成になっており、まず第1部は白川の研究でもっともよく知られる「漢字の起源」の研究のあれこれについて。尤も白川本人が語るところによれば、元々のきっかけは日本の古代王朝の成立過程を知りたかったからなのだそう。そしてそこに出てくるのが、書名にある「呪(じゅ)」という概念というわけ。
 訓読みで「呪(のろ)い」とか「呪(まじな)い」ということからも分かるように、「呪(じゅ)」というのは超自然的な手段によって他者に影響を与えたり(&与えられたり)することを前提にした文化的な枠組みのことだ。日本と中国は「文身(いれずみ)」「(貨幣としての)子安貝」「呪霊」という3つの共通する文化をもっているので、東アジア的な「沿岸の文化」としてひと括りにできるのではないか?というのが最初の発想だったらしい。
 しかも中国には世界に冠たる表意文字の「漢字」が存在する。漢字の成り立ちは数千年前の古代まで遡っていくことができため、当時の習俗の直接研究が可能となる。これは古代に文字がなかった日本では不可能なことだ。すなわち柳田國男や折口信夫と白川静の問題意識は同じだが、こちらの方が心象や状況証拠による推測に頼らなくていいだけ有利というわけ。更に時代による漢字の変遷を比較することで、時間的な前後関係の確定も可能となる。柳田や折口は研究対象を日本にこだわったが故に、伝承による間接証拠しか利用できなかった。これは年代特定の点では明らかに不利といえる。
 正直いうと白川の著作を見たとき、あまりにも広い範囲をカバーしているので戸惑うところがあったのは事実。漢字研究に始まって古代中国の信仰や文化、そして万葉の時代の日本文化の研究に、更には「字統」など字典3部作の編纂と、八面六臂の活躍は逆に一貫性の無さと紙一重のような気がしていた。しかし本書を読んでその考えを改めた。背後にはこんない太い“柱”があったのだ。興味本位であちこちに手を出したのではなくて、最初からゴールは「古代日本研究」だったのだなと、安心するとともに改めて感心した。
 それにしても、日本を調べるためにまずは漢字の研究から始めて、更に次は古代中国へと進むなんて回り道にも程がある。(笑) しかしまあ、その労力を補って余りあるほどの豊潤な成果を挙げる事が出来た訳だし、結果良ければすべてよしということか。

 次の第2部ではがらりと変わって古代中国や日本の文化や思想に関する話題。本業である長年の研究成果の一端を、惜しげもなく(且つ素人にも分かりやすく)開陳してくれている。内容は孔子の話に始まって、やがて古代中国の神話から我が国の縄文時代における葬送儀礼までとても幅広い。なお且つ2人の会話は非常にレベルが高く、付いていくのが大変だが刺激的でとても面白い。

 最後の第3部は古代中国の伝統的な文学である『詩経』について。ここでは第1、2部とは趣向を変えて単なる対談ではなくて、梅原のリクエストにより予め白川が『詩経』の中から自ら選んでおいた作品を紹介していくという形をとっている。いってみれば「文学観賞の時間」みたいなもの。
 ただし「文学観賞」といっても、単なる学者の手慰みなどというレベルではなく、作品を選ぶセンスや中身の観賞力たるやかなり本格的。白川にとって古代中国の文化とは「単なる研究対象」ではなく、やる以上はとことん惚れ込んで取り組んでいたのだということが、この第3部を読むと良く理解出来る。でもまあ、好きでなければあそこまで突き詰めることが出来ないのは、当然といえば当然か。(笑)
 ここまで来ると話の中身は全く知らない事ばかり。因ってここからは本書からの受け売りで恐縮なのだが、『詩経』の中身というのは「内容による分け方」の3種と「修辞的な分け方」による3種の、合計6分類に分けられるそうだ。
 ちなみに前者の「内容」というのは「風(=民衆の詩)」「雅(=貴族の詩)」「頌(=祭礼の詩)」の3つのことで、昔は楽団による伴奏とともに謡ったものであるとのこと。また「修辞的な分け方」とは「賦(=自然の素晴らしさを朗々と歌い上げる形式)」「比(=何かになぞらえる形式)」「興(=呪術的な心象を盛り込む)」の3つ。本書では白川自身がこれら6つの分類からひとつずつ、代表的もしくは特徴的な作品を選び紹介してくれている。
 『詩経』を鑑賞するなんてことは、こんな機会でもないと普段の自分の生活では絶対に考えられない。彼の手にかかると古代中国に生きていた人々の姿が、目の前にまざまざと甦ってくるようで、本書の最後ではなかなか興味深い経験を得ることが出来た。
 
<追記>
 最後になるが、本書で大変に驚いたことがひとつあったので付け加えておきたい。それは古代では鳥や魚は“霊の住まい”とされていたという話。
 生き物は死ぬと「あの世」に帰っていくが、やがて新しい命に宿ることで「この世」へと帰還する。すなわち「あの世とこの世の交流」というのが東洋(沿岸の文化)に共通する基本的な死生観だったようだ。この「鳥と魚」というのは、以前読んだJ・G・バラードの代表作『夢幻会社』でも、主人公・ブレイクが街の人々を救済するにあたって極めて重要な象徴になっていたはずだ。スピリチュアルなものの考え方というのは、世の東西を問わず良く似たところに帰着する、というわけなのだろうか?

『族長の秋』 G・ガルシア=マルケス 集英社文庫

 ふとしたことがきっかけになって、およそ27~28年ぶりに再読した。きっかけというのは二つある。まず一つ目は作家の筒井康隆が自らの読書遍歴を語った新聞連載(*)を読んだ時、「ガルシア=マルケスでは『族長の秋』の方が『百年の孤独』よりも傑作」という言葉があったこと。(注:うろおぼえなので表現は違う。)
 自分が100点満点をつけた作品よりも評価が上とは何たる事、そんなに面白い話だったかなあ?と、それから頭の片隅にずっと引っかかっていた。二つ目はついこの間ふらふらと立ち寄った本屋で、集英社文庫の新刊として新装版が出ているのを見つけた事。実家に古いハードカバーを取り戻るのも面倒と思っていたので、可愛らしい子牛のイラストが書かれた表紙を見てつい買ってしまった。

   *…その後『漂流』という名前で朝日新聞社から出版されている。

 読んだことは憶えていても、肝心のストーリーは全く憶えていないので(=よくある/笑)、買って帰って家でパラパラとページをめくってみたところ嫌な記憶が鮮明に甦ってきた。この小説、ものすごーく読みにくかったのだ。(笑)
 でもまあ買ってしまったのだから今さら仕方がない。あれから年をとって少しは「修行」を積んでいるわけだし、前よりも物語を愉しむことくらいは出来るかな?と思って再チャレンジしてみた。で、その結果としては、以下のような感じだった。
 「傑作。ただし読むのにかなりの覚悟は必要」
 
 話は変わるが、今世界中で書かれている小説の大半が守っている作法(物語を書く上での基本ルール)は、おそらく近代ヨーロッパで誕生したものじゃないかと思う。それはどんなものかというと、例えばこんなものだ。
  ■物語に起承転結があること
  ■少なくともひとつの段落では時制が一致していること
  ■人称や語り手が一貫していて視点がぶれないこと
  ■話し言葉と地の文の区別が明確になっていること
  ■話し言葉については誰の発言かわかること
    ・・・
 (まだ探せば他にもあるだろうが、とりあえずはこのくらいで。)
 このように列挙してみると一目瞭然だが、どれも物語の流れを読者に分かりやすくするための修辞的なテクニックといえる。これらの基本ルールがあるおかげで、我々読者は頭が混乱せずに安心して物語を愉しむことが出来るというわけだ。中にはルールの一部を敢えて破ることで様々な効果を上げようと目論む作品もあるにはあるが、殆どの場合は概ねルールに則った上で「物語の面白さ」を競っていると言って良いのではないだろうか。
 ところが本書を読んだ人には分かると思うが、これらのルールはこの『族長の秋』という小説にはどれも当て嵌まらない。「登場人物の発言」と「地の文」の区別や改行は一切なく、ひと固まりになった文章が数十ページに亘って延々と続いていく。途中で語り手や物語中の時間がいつの間にか変わっているのも当たり前。起承転結など存在せず、ひたすら細かなエピソードの羅列が続いていく。読み進むにつれて、だんだんと古代神話でも読んでいるような幻惑に襲われてくる。(これが「魔術的リアリズム」というものであったか!)

 ただし誤解の内容に付け加えておくが、本書がつまらないかといえばそれは違う。物語そのものはむしろ大変に面白い。舞台は南米のどことも知れない小国で、主人公は100年を超える(?)長年にわたり圧政を敷いてきた独裁者。冒頭にはいきなり彼が死んだのちの大統領府が描かれ、その後はカットバックのように彼の生前の残虐と孤独と摩訶不思議な出来事の数々がこれでもかという程に語られる。ブラックユーモアも満載で、個々のエピソードは決して読み飽きる事は無い。
 心配があるとすればそれはただひとつ、近代小説の流儀に従っていない―というより敢えて従わなかったという点だ。しかしそれが最大の問題点なのであって、本書を最後まで読み切れないのは殆どがその理由に尽きると思う。読みにくい上にエピソードが延々と連なる本書のような手法は、好き嫌いがかなりはっきりと分かれるだろう。「近代小説の作法」に慣れきった読者にとっては、極めて“刺激的”で且つ“厳しい”種類の小説といえる。ちなみに先程の「(筒井康隆の)波長にぴったり合った」ということについてだが、読んでみたところ何となくではあるが納得できた。彼のように実験的な小説に抵抗が無くて、神話的な話が大好きな人であれば本書が気に入らないはずがない。
 で、自分がどうだったかと言えば、読み進むのに多少の努力は要ったけれど、概ね愉しい読書タイムを過ごすことが出来た。数百円と数時間を費やしただけのモトは充分にとれたと思う。(無駄に年は喰っていなかったとみえる。/笑)
 ただし『百年の孤独』と『族長の秋』のどちらが好きかと訊かれれば、自分としてはやはり前者の方が好みかな。“全体小説”のファンとしては、やはり「ひとつの町の誕生から崩壊まで」を描いた『百年…』の方に軍配を挙げたい。「悪魔的な魅力を備えた孤独な悪漢」を主人公にした本書も、読後の満足感(というより達成感?)はかなり高かったけれどね。

『ニッポンの書評』 豊由美 光文社新書

 著者は『百年の誤読』や大森望との共著『文学賞メッタ斬り!』などで知られる書評ライター。「書評王の島」というサイトを開いて、ライター育成の活動も行っている良く出来た人だ。(笑) 本書はその“豊社長”が、いつものように「書籍」を対象にするのでなく「書評そのもの」をテーマに書いた痛快な意見書である。
 「書評」に関する書評だから「メタ書評」とでも言えばいいのだろうか。あまり読んだことが無いジャンルの本だったのだが一読したところが、書いてあることがひとつひとつどれも共感でき、面白くてその上勉強にもなるという大変好い本だった。(あ、もちろん“万人向け”ということではなくて、ごく一部の人を対象にした場合という条件付きだけど…。)
 それはどんな条件の人かというと「本が好きで/新聞や雑誌の書評を読む習慣があって/自分でも読書ブログで感想を書いたりしてる」という人。―― つまりものすごくニッチ。(笑)

 云ってみれば、本書は彼女が考える「良い書評」とは何か?について分かりやすくまとめた本というわけだが、彼女自身が専門にしているのは文芸書なので話題もそちらについての話が中心。であるから、本書で述べられていることは学術書に対してはあまり当て嵌まらないように思える。彼女自身も本書の中で“文芸書以外の本についてはまた別の書き方があるだろう”という主旨のことはコメントしているので、本書を読む人はもっぱら文芸書評に限ったものとして愉しむのが良いと思う。
 さっそく内容についてだが、彼女によれば「正しい書評」なんてものは存在しないそうだ。つまりどんな風に書いてあっても読んで面白ければそれで良いということ。「良い書評」はあっても「正しい書評」なんてものは存在しないというのだから、「自分の主張を滔々と述べて読書子を啓蒙するのが書評家の務めだ」なーんて思っている昔ながらの批評家には、ちょっとばかりうっとおしい話かも知れない。(もちろん自分は先程も述べたようにこの意見に全面的に賛成の立場なわけだが。)
 なぜ彼女がそのような考えに至ったかというと、「書評」と「批評」は別物と考えているからなのだそうだ。「書評」とは800字から1200字程度の比較的短い文章で、「その本を未読の人」へ紹介するのが主も大切な仕事。すなわち自分の判断でその本を貶したり、(たとえ褒めるためであっても)ネタバレによって未読の読者の興味を削ぐような書き方はご法度。一方「批評/評論」というのは、既にその本を読んだ人間を対象にしていて、批評家の主張や意見を述べるのを主目的として書かれている。だからネタバレだろうが作者への批判だろうが、基本的には何でも許される(と思って書かれているケースが多い。しかし雑誌や新聞に掲載される場合、どちらも区別なく扱われている事が多く、不用意に読むとネタバレという“地雷”を踏んでしまうケースもままある。)
 ちなみに日本の出版業界では昔から「批評/評論」の方が「書評」よりも格が上というイメージが強くて、批評家と書評家との間には厳然たるヒエラルキーが存在するそうだ。その状況を少しでも改善しようと彼女が折に触れて強く言い続けてきたのが「書評は批評とは別の独立した文芸ジャンルである」ということ。
 その時々で“お題”にした本を深く読みこむのがまずは前提なわけだが、更にその上で愛情を込めた美しい紹介文にいかに練り上げるか?という事こそ「書評」を書く際に最も重要な点で、逆に言えばそれ以外のセオリー(=正しい書評の書き方)なんてものははなから存在しない。また主な活動の場である雑誌の文芸欄は、多くはオマケ的な扱いが多くて紙面が限られており、ライターは文章からギリギリまで虚飾を削ぎ落して、まるで俳句や詩のように刈り込んでいく感性やテクニックを持つ必要がある。(*)

   *…ただしこれはプロの書評家に特有の条件。もちろん読書ブログや読者レビューで
     書いているアマチュアはどれだけ書いても構わないわけだが、その分つまらない文
     を垂れ流す危険は大きいといえる。

 著者は「プロが書いた書評」の実例を挙げて説明してくれていて、そんな「良い見本」の書評を読むと短い文章の中に自分の伝えたい事を盛り込もうと涙ぐましい努力をしているのが分かる。なお、本書が恐ろしいのは同様に「悪い見本」についても実例が挙げられている点。こうして具体的に説明されるとよく理解できるが、取り上げられた文章を書いた人(=多くは“偉い先生”)と険悪な関係になるのは必至。我が国における書評の地位の向上のため、筆者はまさにライター生命を掛ける「覚悟」なのだ、まことに頭が下がる。(とはいえ文章自体は明るいので読んでいて辛くなるような悲壮感はないので大丈夫。)
 書評とは自分の思いつくことを、ダラダラ書き連ねさえすればそれで出来てしまうような、単純なものでは決してないのだということが、本書を読むと大変良く分かる。自分も反省することしきりである。(^^;)

 他にも海外における書評事情が詳しく紹介されていたりで話題も豊富。また超有名な某Webサイトの「カスタマーレビュー」で悪口を垂れ流す輩を快刀乱麻、バッサバッサと切り捨てるなど、胸のすくような大活躍で読んでいて愉しいのなんの。この本の面白さは単に「本をネタにしているから」というだけでなく、著者の書きっぷりも大きな原因のひとつであるような気がする。もしも書評に興味がある人なら一度は目を通しておいても損はしない。ましてや本をテーマにしたブログを書いている人なら必読といえるかも。

<追記>
 折角の良い機会なので、このブログ(『お気らく活字生活』)を書く上で自分が決めたルールについて書いておきたい。基本的にこのブログは読んだ本についての感想を“自分の好き勝手に”書き連ねるための場と思ってやっている。ただし曲がりなりにも不特定の方に対して公開する訳だから、ネタバレや独りよがりの批判めいた言説は書かないように、出来る限り気は使っているつもり。
 特にフィクション系は気を付けている。所詮は「感想」なので、読んでいないと何のことかよく分からない話が多いと思う。しかしもともと自分自身もネタバレ書評には腹を立てている口で、読むつもりがある本(文芸書)の書評には日ごろから一切目を通さないほど。だから取り上げる文芸書については、ネタバレはおろか設定についても極力書かないようにしている。(書くとしてもせいぜい本の裏表紙などに書かれているレベルまでかな。) もしもブログで書きたいことがあって、それがどうしてもネタばらしになってしまう場合は、その旨を先に断わった上で書くようにしている。
 尤も学術系の本に関してはスタンスが全く逆。感想を書くためには内容に触れざるを得ない事と、本を処分してもいいように備忘録を兼ねているので、フィクション系とは反対に内容の要約を中心にしている。極論すれば「読まなくても読んだ気になれる」というのが理想といえるかも。学術系の本は細部を読みこむ事に本当の愉しさがあるわけで、概要を知ったところで実際に読むときに面白さが減るわけでもないしね。むしろ一冊の値段が高くて“外した時”のダメージが大きいので、文芸書とは逆に書評で中身を良くチェックしてからでないと怖くて買えないというのが本音。

 というわけで、このブログの記事については取敢えず安心して読んで頂いても結構です。(笑)

ますむらひろしと諸星大二郎

 中学・高校のころからずっと大好きな漫画家に、ますむらひろしと諸星大二郎という2人がいる。ますむらひろしは『アタゴオル物語』のシリーズや、映画にもなった『銀河鉄道の夜』など宮沢賢治の一連の童話の漫画化で知られている。一方の諸星大二郎はライフワークとなっている『西遊妖猿伝』の他、実写映画化された『妖怪ハンター』のシリーズなどが有名。どちらも幻想的な作品を多く描いている作家で、昔からSFやファンタジー、幻想文学が好きだった自分には波長がぴったり合った。
 今回はちょっと趣向を変えてこの2人の漫画家について書いてみたい。

 <ますむらひろし>
 先程も書いたようにアタゴオルという名前の森を舞台にしたシリーズを数多く描いている。これは彼のファンならだれもが知っているように、筆者の敬愛する宮沢賢治が自分の故郷をモデルにして作り出した理想郷「イーハトーブ」を真似たものだ。(彼の出身である山形県米沢市に因んで名づけたのが「ヨネザアド大陸」であり、愛宕山に因んだ「アタゴオルの森」というわけ。)
 この『アタゴオル』シリーズは、掲載誌を変えながらずっと書き続けられてきており、彼の作品の中で最も歴史があるシリーズになっている。「ヒデヨシ」「パンツ」「唐揚げ丸」という人をくったような名前を持ち、直立二足歩行をして人語でコミュニケーションをとる猫たちと、「テンプラ」や「タクマ」といった(これも不思議な名前を持つ)人間たちが共存して平和に暮らしている、「力ではたどり着けない世界」を描いたファンタジー作品だ。
ただしこの世界は、始めから今のように平和なところだった訳ではない。デビュー作の「霧にむせぶ夜」(手塚賞準入選)では、自然破壊を繰り返す横暴な人類に対して反旗を翻した猫たちが、人間だけに効くという毒薬「リロコトヒ」(=ひところりの逆さ文字)を使って人類を皆殺しにしようとする。(しかもその「革命」は成功して、人類がほぼ絶滅したのちの世界が「ガロ」に掲載された作品群の舞台になっている。)
 その後の作品においても、帝国軍と革命軍(?)との戦争(『ヨネザアド物語』)や、古代から甦った皇帝と自由を求める人々との戦い(『ジャングル・ブギ』)など、人々から自由を奪い取ろうとする絶対的な悪との戦いをますむらは繰り返し描き続けてきた。ますむらにとって平和とは「与えられるもの」ではなく「勝ちとるもの」であるようだ。ビートルズに心酔する著者のことだから、フラワーチルドレンによる社会革命の記憶が色濃く反映されているのだろうか。
 彼の作品に対して自分が持っている印象は、実は『ゲド戦記』で一躍有名になった作家アーシュラ・K・ル=グィンに対するのと同じといってもいい。それは「社会に対して開かれている」ということ。架空の世界を舞台にした物語(ファンタジー)でありながら、常に現実世界との関係性を意識しているという点で、両者は似ていると思う。
 ますむら作品で繰り返し語られるメッセージは常に一貫している。それは「他者を縛り否定しようとする力」に対して「自由を求めようとする意志」を持ち続けること。お気楽な話が続いたと思ったら、突然シリアスなエピソードが挟み込まれたりして気が抜けない。でもそれがまた好かったりするんだよなあ。(笑)
 アタゴオル以外のますむら作品についても軽く触れておこう。ペンギンを主人公にした『ペンギン草子』にしても、アタゴオルとは別の猫たちを主人公にした『コスモス楽園記』にしても、基本的には彼の作品には「人語を解して二足歩行をする動物と人間の平和な共存世界」というモチーフが多い。永遠の昼下がりのような独特の世界がいつまでも続いていく、そんな雰囲気が漫画家・ますむらひろしの魅力ではないだろうか。

<諸星大二郎>
 ますむらひろしは言ってみれば「ガロ系」の漫画家だが、対する諸星大二郎は「COM系」の作家としてデビューした。(マニアな話題でわからない人には申し訳ない。そんなに大した話じゃないです。/笑)
 諸星作品はどちらかというと幻想が自己完結する傾向が強いように思う。ますむら作品のように実社会との関係性は希薄といえるのではないか。(より「結晶化/純化」が進んでいるといって良いかも知れない。)
 初めて描いた少年向けの短篇漫画「生物都市」が手塚賞に入選して本格的な作家活動に入り、『暗黒神話』『孔子暗黒伝』(*)を始めとする伝奇マンガで独特の境地を確立した。民俗学や文化人類学をモチーフにした作品が多く、代表作である『妖怪ハンター』のシリーズは主人公が異端の民族学者・稗田礼二郎(=古事記の編纂者として伝わる「稗田阿礼(ひえだのあれ)」に因んだ名前)だし、他にもニューギニアの神話的世界を描いた『マッドメン』など。このタイプの作品には傑作も数多い。

   *…これらの作品が週刊少年ジャンプに連載されていたなんて、今からはとても信じら
     れない。しかしそのおかげで自分は中学生の頃にこれらの作品の洗礼を受けて、
     現在に至っている。(笑)

 「ど次元世界物語」など独特の“味”をもったユーモア作品も捨てがたいし、古本屋と新刊書店をそれぞれ実家にもつ二人の女子高生を主人公にした『栞と紙魚子』のシリーズなどは、幻想性とユーモアが絶妙にブレンドされていて傑作。
 以上、自分の好きな2人の漫画家について語ってきた。どちらも大きく括ってしまえば「ファンタジー作品」なわけだが本質的な部分で違っている気がする。(少なくとも自分が2人に感じているものはそれぞれ違う。)
 ますむらひろしのファンタジーの作法とは、極限すれば「メルヘン」なのだと思う。空を飛んだり化石に記憶が残っていたりと、子どもの頃に夢見たような分かりやすいファンタジーがその本質。「メルヘンに社会性が加わったもの」と捉えるのが一番しっくりする気がする。
 それに対して諸星大二郎のファンタジーの作法は、ひとことでいえば「幻想怪奇」。何気ない日常に突然垣間見える異世界を描いて飽きさせない。「文学性をもった幻想怪奇」こそが諸星の真骨頂 ――そんな気がする。
 また、ますむらが繰り返し同じモチーフを用いるのに対して、諸星は作品ごとにがらっと作風を変えた多様な作品を手掛けているといえる。(その割にどれも印象が似てしまうのはひとえに彼の画風によるものなので致し方ない。/笑)

 これからも彼らが作品を発表し続ける限りは、自分が何歳になってもゆるゆると追いかけていくことになるのだろうな、きっと。

『サンタクロースの秘密』 C・レヴィ=ストロース/中沢新一 せりか書房

 文化人類学者にして構造主義の創始者・レヴィ=ストロースが書いた「火あぶりにされたサンタクロース」という論文と、それを翻訳した宗教学者・中沢新一が書いた「幸福の贈与」という論文をセットにした本で、どちらの著者も大好きな自分にとってはまさに夢のような(笑)コラボ。前者はクリスマスにおけるサンタクロース信仰についての文化人類学的な考察で、後者はその解説になっている。1995年のクリスマスシーズンに合わせて出版されたというのもいい。
 しかしそれほど好きな著者による本なのに、実を言うと今までこの本は持っていなかった。何故かというと大きな問題がひとつあったからで、それは本の厚さと値段が一致してないこと。「せりか書房」や「みすず書房」の本を買うといつも思うのだが、コストパフォーマンスが悪過ぎる。本書も2時間もあれば読めてしまうくらいの薄さなのに、それで2,000円を超えてしまうのは勘弁してほしい。―― とまあ、そのせいでつい買いそびれてしまい、今まで読まずに来てしまったのだ。(*)

   *…それを何故今になって突然購入したのかというと、例によって某中古本ショップの
     おかげ。新しい店舗のオープンに合わせたセールにいったら、帯付きの極美本が何と
     105円の棚に置かれていたというわけ。例の「ブック○○」というチェーン店には
     賛否両論あることは承知しているが、自分のような貧乏人にはこういった掘り出し
     物が見つかるので有難い存在。(単に店員に目利きがいないということなのだが。)

 本題に戻ろう。
 本書は1951年にフランスのディジョン大聖堂前で起こった「サンタクロース人形の焼打ち事件」をきっかけに、レヴィ=ストロースがクリスマスとサンタクロースの起源について深く考察した本である。
 クリスマスというのはもともとイエスの誕生日でも何でもなくて(**)、ヨーロッパに古くから(=おそらく新石器時代まで遡るくらい?)伝わる「冬祭り」を、キリスト教が布教のために行事としてうまく取り込んだことに端を発している。「冬祭り」というのは、太陽の力が最も弱くなる「冬至」の前後に、世界の再生を願うために始まったものらしく、「大いなる贈与の祭」とも呼ばれている。生者から死者へと捧げもの(贈り物)をすることで、新しく生命が甦ることを期待したものだ。古代ローマでも「サトゥルヌス祭」と呼ばれてキリスト教が伝わる前から既に存在していた、由緒正しいものでるとのこと。

  **…だいたいイエスの生まれたのは冬の季節ですらなく、夏の盛りだったという説も
     あるらしい。

 でもまあ、起源はともかくとしても、今では(一応)イエスの誕生を祝う祭りとして認められているのだから良しとすることにしよう。しかし今度はサンタクロースの存在が新たな問題になってくる。なぜイエスの誕生を祝う祭りで、「子供たちにおもちゃを配る老人」が登場するのか? 神への信仰とサンタクロースはどう関係するのか? レヴィ=ストロースは疑問を投げかけてくる。―― いままで深く考えた事など無かったが、云われてみればこれは確かにもっともな疑問だ。
 今のサンタクロースが持つ「赤い衣装に身を包んでふくよかな顔をした老人」というイメージは、コカコーラがCMポスターなどで広めたというのは多くの人が知っていると思う。でもそれ以前は果たしてどうだったのだろうか?
 レヴィ=ストロースは明解に答えてくれる。カギになるのはヨーロッパの古い言い伝えに登場する「鞭打ちじいさん」や「ペール・ノエル(クリスマスじいさん)」と呼ばれた老人のイメージ。ヨーロッパの冬祭りには、伝統的にそれらの愛想のない(笑)老人の言い伝えが既に存在していた。第2次大戦で疲弊したヨーロッパに対してアメリカが行った博愛政策「マーシャルプラン(***)」がきっかけになっているとはいえ、「コカコーラのサンタクロース」がこれ程すんなりと定着したのは、実はこのような理由があった為らしい。

 ***…アメリカがヨーロッパに対して行った、対価を求めない「無償贈与」(!)の政策。

 これらの老人の伝承が意味するのは、サンタクロースが実は古代ヨーロッパにおける「冬祭り」に深く関わっていたという事に相違ない。ここまでくれば後は文化人類学が最も得意とする分野だ。
 生者と死者の交流により、彼方の世界(常世)から現世に対して富がもたらされる、という図式は広く知られている。そして(モースの『贈与論』を引き合いに出すまでもなく、)「贈与の霊」が動くと人は幸福を感じるというのは、文化人類学によってもたらされた最も重要な知見のひとつであるといっても良い。
 すなわちクリスマスにおいて、子供たちの守護聖人「セント・ニコラウス(=サンタ・クロース)」の名を借りて行われているのは、古代から伝わる「子供~若者~大人」の間の“イニシエーション”であり、そしてそこから垣間見えるのは死者の世界というわけだ。本来ならば死者に対して捧げられるはずだったプレゼントは、あの世とこの世の介在者である子供たちへの「おもちゃ」の贈与という形で現代にも引き継がれているのだ。
 1951年にフランスで(何と)聖職者によって行われた「サンタクロース人形の火あぶり事件」は、キリスト教とヨーロッパの伝統信仰の間に未だ残る大きな溝と緊張を、謀らずとも炙り出す結果になってしまった。
 アメリカから伝わった陽気で明るいサンタのイメージが、逆にキリスト教が押し込めてきた民族の古い記憶を呼び起こすことになった結果、危機感をもった牧師たちによって引き起こされた事件が、題名にある「火あぶりになったサンタクロース」という事のようだ。(なかなか皮肉な真相といえる。)

 以上がレヴィ=ストロースによる分析の大まかな内容。これらの分析も見事なものだが、それにも増して自分が素晴らしいと思ったのは、レヴィ=ストロースの論文を受ける形で中沢新一が書いた「幸福の贈与」という解説文の方。短い文章ではあるがポイントが簡潔にまとめてあり、時に錯綜することもあるレヴィ=ストロースの論旨の全体像を理解するうえで、この上ない助けになっている。

 いやあ、おみそれしました。これならもっと前に新刊で買っても後悔しなかったと思う。「愛すべき一冊」とはまさにこのような本の事をいうのだろうな。

『マルチチュード(上・下)』A・ネグリ/M・ハート NHKブックス

 人文科学の学術書で2001年に世界的ベストセラーとなった『<帝国>』という本の続篇。前作も邦訳されているがなんせ税込で5,880円と高額なので、そちらは諦めていきなり続篇から読むことにした。(全部で3部作になり本書は第2作目。ちなみに3作目は2009年に出版された『コモンウェルス』という本で、こちらは未だ日本語版は出版されていない。)
 本書の内容は副題である「<帝国>時代の戦争と民主主義」という言葉を見れば言わずもがな。彼らが提唱する「帝国」という概念が世界をあまねく覆っていく様子と、それに伴い起こる「貧困」や「戦争」といった不幸。そして「帝国」に対する(おそらく唯一の)対抗手段である「マルチチュード」という新たな存在と、それがもたらす希望について語るのが本書の目的。
 前作を読んでいなくても、本書の冒頭でおさらいしてくれているのでさほど支障はない。むしろ前作では「帝国」の成り立ちや特徴に関する説明が大きなウェイトを占めて、「マルチチュード」についてはそれほど深い考察がされていないような感じなので、結論を早く知りたい自分としてはこちらをいきなり読んで正解だったかも。
 いずれにせよ「帝国」がもたらす災厄のもっともあからさまな例である「戦争」について語るのが本書の主題のひとつだから、本書を読めば「帝国」というのが何であるかも自然に理解出来るようには書いてある。もうひとつの主題である「マルチチュード」についても同様で、前作よりも深い考察をするために必要な大まかな復習がされているので支障はない。
 ところでネグリらは自らを「左翼」と称しており、彼らが実現を目指しているのは「真の民主主義」というものだそう。そして「帝国」はそれを実現する過程における最も大きな阻害要因である、というのが彼らの基本的な考えであり、それを乗り越える為の道筋を示すために書かれたのが本書というわけ。なお彼らによれば、現在のように「選挙による代表制」をとる社会システムは、原理的に「真の民主主義」には成り得ないものであって、いくら突き詰めていっても、「帝国」による歪みの解消は不可能なのだそうだ。
 本書の構成としては、前半部分には「帝国」を生み出すに至ったそれら「民主主義の問題点」についての詳しい分析が、そして後半部分にはその解決方法についての考察がまとめられている。それでは早速その詳細について――。

 歴史の授業で習ったように、かつてのビザンツ帝国(神聖ローマ帝国)においては、「教権(=キリスト教の最高権力)」と「帝権(=国家の最高権力)」が「神聖ローマ皇帝」のもとに集約されていた。これは最も極端な形での一極集中、すなわち「個人」への権力集中だったといえる。やがて時代は進み、貴族たちによる統治の時代(封建制)を経て市民による統治(民主制)へと移行してきたのが、ヨーロッパにおける統治形態の大まかな変遷。これはすなわち、王や貴族階級といった一部の特権階級だけでなく、あらゆる人々の生活を少しでも向上すべく奮闘努力した道のりだったと言える。しかし世界では未だに様々な問題が噴出して、不幸が無くなるどころかますます増えつつあるようにも見えるのは何故だろうか。
 この点に関してネグリらが述べている重要なことがある。それは上記の「教権&帝権生」「封建制」「民主制」のいずれの統治システムにおいても、「統治権力とイデオロギーが一体になっている」という点では何ら変わらないという事。たとえばビザンツ帝国において、当時の教権が代表していた「宗教」というのは、今で言えば「資本主義」や「共産主義」といった“イデオロギー”と何ら相違は無い。現在でも「民主主義」とか「人権」などの皆が“拠り所”とするある種のイデオロギーがあってこそ、初めて「国家」という形態が成り立っていると言える。すなわち「国家」というシステムにおいては、昔も今も変わることなく「統治権力とイデオロギー」が一体になって世の中を動かしてきたのだ。
 しかし誰もが当たり前と考えるそれらの仕組みこそが、実は“真の民主制”を実現するための阻害要因ではないのだろうか?―― というのが、本書において彼らが主張していること。

 現在の民主主義は、有権者による直接選挙によって選ばれた代表者が会議を招集し、合議制で統治をおこなうことを基本としている。古代ギリシアにおけるポリスのように有権者の総意による直接民主制は少人数だから出来ることであって、エリアや人数が増えてくると実質不可能となる。そこで(やむを得ず)とられたのが代表制であり、この方式は民主主義を実現する上で最も理想に近いシステムであるとされている。しかし果たして本当にそうだろうか?
 代表者は自分を選んでくれた集団の意見を集約して会議に臨もうとするが、複数の意見を集約する過程でどうしても漏れる意見が出てきてしまう。また代表者本人の主観的な意見も(本人が意識する/しないに関わらず)盛り込まれることになる。その結果、最初にあった多様な立場・意見の一部(または大部分)は失われていく。
 先程の代表者は他の代表者と意見を調整して更に上位の会議体へと意見を上げることになる。いずれにせよ最終的には「国家」としてひとつの意見(政策)に纏め上げることになるわけだが、階層が上がるたびごとに民意の反映は原理的に難しくなり、多様な人々の考え方は抽象的な「主権」というものに集約されていくことになる。

 これは「代表制」がもつ限界で如何ともしがたいところだろう、「代表制」はあくまでもbetterであってbestではないのだから。――とまあ一般的には大体このように了解されているのではないだろうか。しかし本当の問題はそこから先にあるのだ。
 現在のところ、「主権」の最終的な形は「国家主権」であり、仕組み上は「国民」によって構成・運営される「国民国家」だということになっている。(「国連」はそれら国民国家の集合体なので主権はない。)最近は世界経済や地球環境問題を引き合いに出すまでもなく、国民国家の垣根を超えてグローバルに影響を与えあう世界になっている。その結果、国家の更に上のレベルに「帝国」という新しい支配形態が(新たな主権の担い手として)表れつつある、というのがネグリらの主張だ。この主権は決して人々の多様な意見を反映/集約したものではない。幾層もの段階を経て意見が集約されていく過程で、一部の人々に都合が良い判断に代わってしまっているのだ。(それらのすべての人々が悪意をもってそれを行っているという訳ではないだろうが…。)
 結局のところ多様な人々の意見や価値観を集約するという今の社会の仕組みそのものに、今の国際社会における貧困や戦争などといった不幸の大元が隠されていたという訳だ。
 これは決して極端な議論ではないと思う。例えば死刑制度を考えてみれば良い。社会の多数の幸福を維持するため、ある人間の命を奪う「権利」が国家には存在する。凶悪な犯罪であればこそ国民の合意のもとに維持されている制度ではあるが、ここに示されているのはすなわち「国家主権は個人の主権に優越する」ということに他ならないだろう。もしこれが凶悪犯罪に対する死刑といった極端な例ではなく、経済政策や一部の階層に対する社会制度の不備、もしくは他国に対する“自衛的な”侵攻であったらどうか。一部の集約された意見に基づいてなされる政策決定には、全ての人々の多様な価値観・意見が反映されていると果たして言えるだろうか。
 こうして、集約/単純化されつつ規模が拡大していく「主権」は、やがて国民国家同士の関係性のステージ(グローバリゼーション)へと発展し、その行き着く先に登場したのがネグリらのいう「帝国」という新しい支配形態なのだ。(*)
 ネグリらは言う。民主主義の問題を解決するのに必要なのは、(現在のような選挙による代表制ではなく、)あらゆるイデオロギーや価値観を等しく認め、共存させることができる統治システムでなくてはならないと。そのシステムはあらゆるイデオロギーから完全に独立したものであって、どこかに偏ろうとする動きを察知・牽制してバランスを保つことが出来なければいけない。人々の多様な価値感を等しく認め続けることが絶対原則となる。

   *…本書を読んでふと思ったのだが、もしかしたら究極的なある価値観への集約という
     のは、「一神教」における神への帰依に象徴されるものなのかもしれない。
     「帝国」の行き着く先は、世界を覆い尽くす神の如き単一の“意思(価値観)”
     ということではないのだろうか? 
     そしてネグリらがそれに対抗すべく求める処方箋とは、森羅万象がバランスを取り
     ながら共存して描くまさしく「曼荼羅」のようなものかもしれない。そんなものが
     本当に実現可能なのだろうか?

 話は飛ぶが哲学者の竹田青嗣が著書『人間的自由の条件』(講談社学術文庫)において、同様の問題を考察している。その本では、ヘーゲルが主張した「自由の相互承認」に立ち返る事こそが最も根本的且つ唯一の方法である、というのが結論となっていた。しかし(竹田自身も言っているように、)それはあくまでも原理原則の考え方に過ぎず、現実のものとしていくには具体的な社会活動の在り方を考えて行く必要がある。本書は「自由の相互承認」に基く社会システムに求められるべき「資質」を明らかにしたものだといえるのかも知れない。すなわち自分にしてみれば、本書は『人間的自由の条件』とセットで読まれるべき本なのだ。(ただし本書でもまだ考察は充分であるとは言えないと思う。まだ道は半ばであり、更に具体的な社会活動へと繋がる提言が必要ではないだろうか。それがもしかしたら3作目の『コモンウェルス』で明らかにされているのであれば、是非とも邦訳が待たれるところだ。)

 すこし結論を急ぎ過ぎてしまった。本書ではあらゆるイデオロギーから独立して、人々の多様な価値感/意見を等しく認める理想的な統治システムを実現するため、(著者曰く)唯一の希望であるところの「マルチチュード」について、前作『<帝国>』よりさらに踏み込んだ考察を行った本なのだ。
 本書の後半はこの「マルチチュード」についての詳しい解説に充てられているが、結論をさきに書いてしまうと、最も重要なキーワードは「<共>性」および「生政治的生産」ということ。
 9.11をきっかけとしてブッシュ大統領(2001年当時)が掲げた「正義の戦争」というプロパガンダに象徴される「他者への非寛容と圧殺」すなわち所謂「テロとの戦い」と言われるものによって、世界は「永続的な戦争状態」に陥ってしまった。
 戦争状態においては勝つことが全てに優先されるため、主権者である「国家」は基本的に民主主義の一時的な停止が許される。従って「永続的な戦争状態」になっているという事は、常に人々の意思よりも国家の意思が優先されることを可能にする。当たり前のことだが、(物理法則ならともかく)「主義」や「主張」に絶対的な“正しさ”なんて存在しないわけだから、結局のところはまるで昔の宗教戦争のような泥沼が常態化することになる。
 その行き着く先は「生権力(**)」、すなわち個人や集団、地球上のあらゆる生きとし生けるものの生(死)を直接支配する権力に他ならない。外部に対して行使される「戦争」、そして(表裏一体である)内部に対して行使される「警察権力」は、今やそれほどまでに絶対的な力を持つようになってしまっているのだ。

  **…フーコーが『監獄の誕生』などで執拗に追及してきた権力構造の最終形態。

 ナショナリズムの源泉となってきた「想像の共同体(***)」の中でも最も強固な「国家」という存在。ある国家における問題を他の国家による制裁や武力によって無くそうとしても、結局のところ強大国を中心とした「帝国」の強化に寄与するだけ。そしてその結果、今日のグローバル化は遂に「帝国」という更に巨大なモンスターを生み出すに至り、それに反対する人々による多くの抗議行動も起こっている。しかし逆に主権をもつ「国家」の側からは「国民」としての「責任」や「ガバナンス」といった“倫理”を強制しようとする動きもみられ、世界各地で争いが起こっている。(たとえば第4期の再選を果たしたどこかの首都の知事みたいに。)
 しかしいくら締め付けを厳しくしても、インターネットのように個人が直接繋がる手段を得た現代では、そこから溢れ出すものが必ずでてくる。中国の民主化運動しかり、エジプトやリビアにおける反政府活動しかり。日本では年越し派遣村や渋谷で行われた反原発デモなどがそれにあたるだろう。そしてその担い手こそが、ネグリらが本書の主題に据えた「マルチチュード」というものなのだ。

 ***…ベネティクト・アンダースン著『定本 想像の共同体』(書籍工房早山)を参照。

 とまあ、ここまで書いて何だが、実は「マルチチュード」という概念は漠然としすぎていて、本書を読んでも正直言って概要が掴みにくい。一言にまとめると、特異性や多様性をむりやりひとつに集約することなく、違いを互いに尊重し合いつつ且つ協調し合って共に行動するものとでも言えば良いだろうか(すなわち「<共>」というキーワードの意味はコレ)。
 孔子でいえば「(君子は)和すれど同ぜず」みたいな感じ。喩えは悪いが自分にとっては「百鬼夜行」というイメージも。(笑)
 もちろんこの概念は「国家」という社会システムを(今のところは)否定するものではない。むしろ生活を守るセーフティネットとしての社会システムは必要不可欠であるといえる。大切なのは、それらの社会システムが持つ最も強い力、すなわち「法的権利を決める決定」が、多様な特異性をもつ者の間のコミュニケーションと協調のプロセスの中で、キチンと行われると言うこと。それがすなわち「<共>」に基づく生き方なのだ。

『翼の贈りもの』 R・A・ラファティ 青心社

 今回はかなりマニアックな小説についてのつぶやき。

 決してメジャーではないがとても熱心なファンを持つ米作家、R・A・ラファティの久々の新刊短篇集。彼の本を読んだことがある人は判ると思うが、ラファティの小説には「豊饒」という言葉がぴったりくる。どれも文章の密度がとんでもなく濃い、すなわちひとつのセンテンスが持つ情報量が極めて多い小説ばかりで、うかうかしていると話の筋が全く分からなくなるほど。物語のタイプは違うが、まるでバラードの実験作品である「濃縮小説」のシリーズを読んでいるようだ。
 実はラファティ作品を読むといつも思い浮かべるイメージがある。それは屈折率の高い結晶を透かして向こう側の景色を見ているような、もしくはプリズムをいろんな角度から眺めているような感じ。読むほどに違った顔を見せてくれ、決して読み飽きる事がない。強いて喩えるならば「始原的」とでも言うのだろうか。あるいは何にでもなれる可能性を秘めた「iPS細胞(幹細胞)」と同じ種類の豊饒さとでも。
 色々な要素がごちゃ混ぜになって詰め込まれたのがラファティ作品の真骨頂。その中には彼の特徴として良く言われるように「アメリカのほら話」や「笑い」といった要素がもちろん存在はする。しかしそれが全てではないのだ。
 ラファティを語る上では外すことができない「笑い」についても少し述べておこう。
 彼の作品が持つ「笑い」は、乾いていて毒のある所謂「ナンセンス」と呼ばれるタイプに属する。抒情性がある「ペーソス」や当意即妙を軸とする「ユーモア」とは違っていて、文化人類学でいう「トリックスター」が引き起こす笑いに近い。そこが彼の作品を読んで豊饒さとともに神話性を感じる原因なのかも知れない。(チャップリンではなくてマルクス兄弟といえば映画ファンには分かってもらえるだろうか。もしくはマンガであれば、赤塚不二夫の『レッツラゴン』とか榎本俊二の『ゴールデン☆ラッキー』とか...。)
 したがって、笑いの要素が強い作品だけを集めれば、とてもコミカルな作品集に仕上げることだって充分に可能。それが日本における初めての短篇集『九百人のおばあさん』で自分が持った印象。
 でもそれを読んでラファティに対するイメージを固めてしまった読者(=自分のこと)は、その後にまるで毛色が違う『子どもたちの午後』や『次の岩へとつづく』といった作品集を読んで面喰ったり、更には難解なことで知られる長篇『イースターワインに到着』『悪魔は死んだ』を読んで、完全にお手上げになってしまうのだろう。彼の魅力は単なるほら話/笑い話を超えたところから始まるのだけどね。(それに気がついたのはかなり後になってからだった。)
 骨太で不思議な話を心行くまで味わいたい人には、本書はこの上ない「贈り物」になる本だと思う。

<追記>
 本書の作品はどれも面白かったが、特に気に入ったのは「だれかがくれた翼のおくりもの」「なつかしきゴールデンゲイト」「ケイシィ・マシン」「優雅な日々と宮殿」、そして先述した“始原的な豊饒さ”が炸裂する「深色ガラスの物語」の5作品。

<その後の追記>
 この記事をアップした夜、ラファティの翻訳家や研究者によるディスカッションがネットで配信されたので、タイミング良く観ることが出来た。色々と示唆にとんだ話を聞けて面白かったが、その中でも一番参考になったのはラファティとキリスト教の関係のくだり。とても敬虔なクリスチャンだった彼の小説において、登場人物たちがとても残酷な死に方をしたりするのは、「絶対的な神の前に身を投げ出すか否か?」という一神教の本質に起因するものかもしれない。そう言われて改めて考えてみると、おちゃらけた話の中にも旧約聖書にみられるような原始キリスト教における「残酷な神」の影がちらほらと見え隠れする気も。
 彼の小説で「ナンセンス」とみえた部分が、実は我々とは全く別の「ロジック」なのかも...という考えは非常に刺激的。旧作をそんな目で読み返してみたら、また違った姿を見せてくれるかも知れない。うーん、侮れないぞラファティ。

2011年4月の読了本

『マルチチュード(上・下)』 A・ネグリ/マイケル・ハート NHKブックス
  *社会学系の学術書では珍しく世界的ベストセラーになった『<帝国>』の続篇。
   グローバル社会を覆うあらたな脅威である「帝国」の概念と、それに対する唯一の対抗
   原理「マルチチュード」をめぐる彼らの思索は、全部で3部作を形成するとのこと。
   前作は5,800円を超える高額なのでとても手が出ないが、本書でも一通りのおさらいを
   してくれているので読む上で支障は無い。たとえばエジプトやリビアにおける反政府
   運動や渋谷の反原発デモなどの、今の世界で起こっている様々な出来事を理解する上で
   とても良い視座を与えてくれる好著といえる。
『きょうも上天気』 浅倉久志/訳 大森望/編 角川文庫
  *2010年におしくも他界した名翻訳家の浅倉久志氏を偲んで編まれたオリジナル短篇集。
   未読作はル=グィン「オメラスから歩み去る人々」とワイマン・グイン「空飛ぶヴォル
   プラ」の2つだけだったが、どれも面白かったのでいいや。本書の良いところは、
   結果的に50~60年代の所謂「黄金時代」とよばれるSF短篇アンソロジーになっている点
   だろう。おかげで中高生のころに夢中で読みふけっていた頃の記憶が甦った。
『そうだ、ローカル線、ソースカツ丼』 東海林さだお 文春文庫
  *東海林さだおのエッセイは、“食”に関する話題に絞った「丸かじり」のシリーズと、
   そうでないのがだいたい交互に出される。今回は後者の方でいずれにしても相変わらず
   面白い。しかし傍若無人な若者に対する著者の怒りは既に“芸”の域にまで達しつつ
   あるなあ。(笑)
『ヘミングウェイ短篇集』 西崎憲/編・訳 ちくま文庫
  *ヘミングウェイの短篇から選りすぐったオリジナルアンソロジー。作品の選択と配置に
   編者・西崎氏のセンスが光る。
『ドクター・ラット』 ウィリアム・コッツウィンクル 河出書房新社
  *長らく翻訳が待ち望まれていた作品で、1977年の世界幻想文学大賞受賞作。アブラム・
   デヴィッドスンの『エステルハージ博士の事件簿』と同じくストレンジ・フィクション
   の1冊として出版された。(河出書房のこの叢書は今後も注目したい。ハードカバー
   なのでちょっと値段は張るが買うだけの価値はある。)世界中の動物たちの反乱の顛末
   を、気が狂った天才ネズミである「ドクター・ラット」の独白で語るという悪夢に満ちた
   傑作寓話。動物実験や屠殺場の様子などが、(かなりカリカチュア/戯画的ではあるが)
   これでもかというくらい克明に描写されている。少し悪趣味な面があるのは否めないが、
   残酷さから安易に逃げないという創作姿勢は、逆に本作にある種の崇高さを持たせる事に
   成功していると思う。高橋源一郎もかなり本気で巻末の解説を書いていてgood。
   悪趣味と崇高さが同居するこの作風には、どこかで記憶があると思ったら…そうか、
   デビューしたての頃の舞城王太郎だ!(って、ミステリ好きでないと判らない喩えで
   申し訳ない。/笑)
『アーサー王ロマンス』 井村君江 ちくま文庫
  *アーサー王と円卓の騎士の伝説について分かりやすくまとめた、肩の凝らない楽しい
   読み物。
『ビブリア古書堂の事件手帖』 三上延 メディアワークス文庫
  *古本屋の店主と店員が主人公のミステリ。著者がライトノベル出身なので本書もライト
   ノベルの体裁で出されており、買うのに少し勇気がいった。(笑)
   しかしネットでの評判通り、中身は創元推理文庫の1冊として出ても違和感がないほど
   クオリティが高い。
『江戸怪談集(下)』 高田衛/編 岩波文庫
  *江戸時代に刊行された怪談集から厳選した作品集の第3巻で、本作には「諸国百物語」
   「新御伽婢子」「平仮名本・因果物語」「百物語評判」の4つを収録。
『千のプラトー(中)』 ドゥルーズ/ガタリ 河出文庫
  *ポストモダン思想を代表する評論にして最大の問題作の2巻目(文庫版は全3巻)。
『雨の日はソファで散歩』 種村季弘 ちくま文庫
  *2004年に亡くなったドイツ文学者の最後となった自選エッセイ集で、いわば著者の
   “白鳥の歌” (出版は死後)。しかしフランス文学の澁澤龍彦といい、この種村季弘と
    いい、ヨーロッパ文化の碩学がなぜか晩年には揃って日本へ回帰するのが面白いなあ。
『翼の贈りもの』 R・A・ラファティ 青心社
  *マニアに根強い人気を誇るR・A・ラファティの新刊短篇集。
『殺人者の空』 山野浩一 仮面社
  *日本にニューウェーブSFを広めた立役者による短篇集。出版自体はかなり前の本で、
   昔からずっと読みたかったのをつい先だって入手、早速読了した。主人公が不条理な事
   に巻き込まれていくというカフカばりの話が多く、登場人物が皆一様に生きることへの
   不安や世界への不満を抱えているのが、如何にも70年代の作品らしくて好い。
   特に気に入ったのは表題作と「メシメリ街道」。「首狩り族」もシュールなイメージで
   悪くない。
『陰翳礼讃』 谷崎潤一郎 中公文庫
  *日本を代表する作家による随筆集。昭和初期に書かれたものが中心で、照明や食事などの
   生活環境/習慣について、日本の伝統的な文化のよさを見直すことを提案。文藝作品の方
   とは違って、言っている内容は至ってまともなのでびっくりした。(笑)
   今の視点で読めば至極あたりまえの事を述べているようにもみえるが、当時の社会背景を
   よく知らないのでなんとも言えない。もしかしたら当時は画期的であって、逆に社会通念
   に影響を与えた結果が今だったりして。
   夜の照明は何でもかんでも明るければ良いという物ではなく、適度な陰翳(いんえい)
   ができるくらいが良いというくだりは特に有名で、節電によって明暗の良さが見直されて
   いる現代にも充分に通じる内容と思う。
『ニッポンの書評』 豊由美 光文社新書
  *書評を中心に活躍するライター“豊社長”による、「書評とは何か」についての意見を
   まとめた本。著者は『百年の誤読』や大森望との共著『文学賞メッタ斬り!』のシリーズ
   で有名な人。出版予告を見て中身を確かめもせず即買いしたのだが、期待に違わず滅法
   面白かった。自分のように本のブログをやってる人間には必読といえるかも。
『能面殺人事件』 高木彬光 春陽文庫
  *傑作ミステリ『刺青殺人事件』でデビューした高木彬光の第2作目。日本探偵作家クラブ
   (現:日本推理作家協会)のクラブ賞を受賞している。ヴァン・ダインのミステリが
   多く引用されており、中で思い切り『僧正殺人事件』の犯人がばらされていたのは如何
   なものかと思ったが(笑)、物語としては面白い。高木彬光といえば映画化された代表
   作品『白昼の死角』のせいで、社会派ミステリ作家というイメージが強かったのだが、
   実は新本格の元祖のような人だったというのがよく判った。
『妖怪学の基礎知識』 小松和彦編著 角川選書
  *著者が長年進めてきた妖怪研究の成果について「妖怪ビギナー」にも分かりやすく解説
   した本。妖怪についての最新知見が惜しげもなく開陳されていて、初心者はもとより
   すれっからしの妖怪ファンにも愉しめる一冊。『江戸怪談集』の補足としても読むこと
   が出来るが、『江戸…』を読んで考えたことが概ね間違ってなかったので良かった。
   このような本が選書の形で比較的安く手に入るのは、学問の裾野を広げる意味で大切。
   もしもこれが京極夏彦とドラマ『ゲゲゲの女房』のおかげだとすれば有難いことだ。
   (笑)
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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