『江戸怪談集(下)』 高田衛/編 岩波文庫

 しつこいようだが、結構気に入ったので『江戸怪談集』をもう一度とりあげる。
 江戸時代に刊行された多くの怪談話に題材をとった全3巻のアンソロジーで、今回読んだのは先日取り上げた中巻に続いて2冊目となる下巻。(残念ながら上巻は手に入れてないので今読めるのはこれで最後。)もともと自分は西洋のゴシック系のホラー小説が大好きなのだが、この2冊を読んでみて本邦の怪談話も肌に合うというのがよく判った。まあ結局のところ単に「幻想怪奇な話」が好きだという事なのだろう。(笑)
 本書に収録された作品は『諸国百物語』『平仮名本・因果物語』『新御伽婢子』『百物語評判』の4つ。中でもとりわけ気に入ったのは『諸国百物語』。中巻に収められていた『曽呂利物語』と同趣向のものが多くあって、話として一番面白く感じた。後になって色々な作品の元ネタにされたとおぼしきものも数多いので、判った物についていくつか挙げてみる。

 ■「播州姫路の城ばけ物の事」
   泉鏡花の「天守物語」の中で、物語の骨格として使われている。
 ■「京東洞院、かたわ車の事」
   そのままゲゲゲの鬼太郎の中で「片輪車」という妖怪で出てくる。
 ■「ばけ物に骨を抜かれし人の事」
   同じくゲゲゲの鬼太郎で「手の目」という座頭の妖怪として出てくる。
 ■「会津須波の宮、首番(しゅのばん)と云うばけ物の事」
   「天守物語」では「朱の盤」という名前で出てくるが、話自体は小泉八雲の『怪談』に
    でてくる「貉(むじな)」という話と同じ。繰り返しによる恐怖を盛り上げる語りが
    巧い。
 ■「酒の威徳にて、化け物を平らげる事」
   これは今までのモノとは少し違うが、まるでペロー作の『長靴をはいた猫』にそっくり
   なエピソードが出てくる。(最後には化け物を梅干しに化けさせて食べてしまう。)
   所詮人間が考える事は同じという事なのか、それとも共通の元ネタがどこかにあると
   言う事なのかな?

 他の収録作についてもかるく触れておこう。
 『平仮名本・因果物語』は中巻に収録の『片仮名本・因果物語』と対になった話であって、どちらも禅宗の高僧・鈴木正三が編纂したもの。『新御伽婢子(しんおとぎぼうこ)」は同じく中巻に収録されている『伽婢子(おとぎぼうこ)』の“二匹目のドジョウ”を狙ったと思われるが、典拠が前作のように中国説話でなくなり、単なる民話集になってしまっているのが残念。そのせいか、話の面白みという点では前作に少し劣る気がする。
 最後は『百物語評判』だが、この話は他と趣旨が少し異なる。「怪奇な物語を愉しもう」というのが今までの作品だったのに対して、この本の場合は「世の中に伝わる不思議な話」を論理的に解き明かしていこうとする内容。まるで明治期に「妖怪博士」の異名をとった井上円了の著作のようだ。(今ならさしずめ大槻義彦教授といったところか。)

 以上が本作の中身についての感想だが、ここからはまたまたガラッと内容が変わる。今回、江戸時代の怪談を集中して読んでみた結果、当時の怪奇話のパターンが何となく見えてきたので、忘れないうちに書いておきたい。
 『江戸怪談集』に収録されている怪奇話には大きく分けて4つのパターンがあるといえる(気がする)。
 まず1つ目は“人の呪い”や“嫉妬心”に起因するもの。これらの「負の心理」が誰かの心の中に生まれてくると、やがて鬼や幽霊もしくは(なぜか)蛇に姿を変えて、対象人物をとり殺すなどの害をなす。ちなみに呪う人物は必ずしも死者とは限らず、本人が嫉妬心を感じたことで知らないままに生霊になっているケースもある。 
 また、これらが僧侶によって折伏されるオチがつくと、『日本霊異記』や『因果物語』のように仏の功徳を説く物語になるというわけだ。
 パターンの2つ目はキツネやタヌキなどの動物によるもの。キツネやタヌキはどちらも現実に存在する動物だが、江戸の怪談の中では色々なモノに「化ける」力を持つとされる。その点では猩々や雷獣など架空の生物と同じ扱いと言っても良いだろう。いずれも人間に対していたずらを仕掛けてきたり、自分を酷い目にあわせた人間に対して復讐するような話が多い。
 3つ目は出所不明な化け物の類。「○○入道」とか、障子を破って部屋に侵入してくる謎の巨大な腕など、正体不明な怪異の比率も結構高い。なお、なぜか蜘蛛だけが唯一、実在の生き物の中でこの仲間に入れられている。理由もなく突然人間を襲ってくる化け物蜘蛛というのは結構怖い。(笑)
 最後の4つ目は仙術や桃源郷のような、正確には怪談というより幻想譚と言った方が良いタイプの話。死んだ人が生前と同じようにあの世で暮らしているというのも割と多いが、これなんかは、おそらく中国の話のスタイルを真似たものだと思う。これなんかも怪談というより「奇妙な話」と呼んだ方がしっくりくる感じがする。

 以上が『江戸怪談集(中・下)』から得られた4つの分類。思いつきではあるけれども、それほど大きな間違いは無いんじゃないかと思う。これから日本の怪談を読んでいく時は、この分類を頭においたうえで読んでいくことにしよう。そうすれば今までよりもっと愉しめるような気がする。(いつか上巻が手に入ったら是非試してみたい。)
 今回は物語として読んで面白かったうえに、頭の整理まですることが出来たので、更に得した気分だった。
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読書の場面

 種村季弘のエッセイ『雨の日はソファで散歩』(ちくま文庫)で知ったのだが、明治の政治家・市島春城に「読書八境」なる文章があるそうだ。読書に最適な場所を八つ挙げたもので、順に「羈旅(=旅行中)」「酔後(=飲酒中)」「喪中」「幽囚(=獄中)」「陣営(=陣中)」「病蓐(=病気療養中)」「僧院」「林泉(=良い景色の屋外)」。言うなれば邪魔が入らず独りになれる場所という事のよう。
 このうちの幾つかについては自分も時々やっている。つい先日も車で家から10分ほどの市民公園に出掛けて行って、満開の桜の下で1時間ほど読書を愉しんできた。しかも、モノ好きにも2週続けて。(笑)
 その時に読んだのはヘミングウェイの短篇集とアーサー王伝説の本。どちらも本自体は大変面白かったので良かったのだが、シチュエーションに合う本かどうか?という点では微妙な感じ。
 で、その時にちょっと考えた。「満開の桜の下」という場面に合う本って何だろう?
 すぐ頭に浮かぶのは、梶井基次郎の「櫻の樹の下には」とか坂口安吾の「桜の森の満開の下」あたり。でもあまりにベタ過ぎるかも(笑)。
 あの風景にピッタリ合うのは、読んでいて気分がスカッとするようなタイプの本か、もしくは逆にうんと狂気じみた『ドグラ・マグラ』みたいな本のどちらかだろう。『奥の細道』みたいな古典も意外に良いかもしれない。『古事記』の「黄泉比良坂(よもつひらさか)」だとちょっと狂気じみてくるが。(笑)
 どちらにしても学術書ではなくフィクションが似合う気がする。あ、『遠野物語』くらいなら好いかな。軽めのエッセイも合うなあ。――これなんか先程の「読書八景」でいえばまさに「林泉」にあたる読書風景といえる。

 「旅行中」といえば、以前泊まった十和田湖畔のリゾートホテルが良かった。夜、消灯の時間になって庭の灯りが消えてから外に出ると、芝生の上で見上げる夜空は満天の星で溢れんばかりで、どれが星座か見分けがつかないくらい。その旅行で何の本を持っていったのか記憶が定かではないが、今なら絶対に稲垣足穂の幾何学的宇宙ファンタジーや野尻抱影の星座随筆あたりを持っていきたい。風情のあるホテルのロビーでそんな本を読んだら、一生忘れられない思い出になりそうだ。
 読書に合う場面はまだある。コーヒーが美味しくてちょっといい雰囲気の喫茶店だったら、大抵どんな本を読んでもさまになる。(タバコの煙でもうもうとしているのだけは願い下げだが。)
 そんな雰囲気の良い喫茶店で本を読むときは、できればベストセラーなんかはやめておきたい。折角の雰囲気がもったいないから。好い喫茶店には古本屋巡りなんかをした後に寄って、その日の収穫をパラパラと眺めながら一杯のコーヒーをいただくのが最高かも。静かな音楽が流れている店内で読めば、少し難しめの本でも愉しめること請け合い。なお、これは「八景」には載っていない場所だから、さしずめ“九景め”ということになるだろうか。

 出張のときの新幹線はどんな本でも合うオールマイティの場所だが、往きの便は朝早くて頭が冴えているので学術系なんか良い感じ。一方で帰りの便では疲れているので、しっとりとした感じのミステリや文学が合う。泊まりの出張なら夜にはたっぷり時間があるので、厚めの本格ミステリを一冊やっつけるのもいいだろう。
 未だに忘れられないのは、10年以上前に行ったヨーロッパへの出張で読んだ本。海外旅行にはいつも多めに本を持っていくのだが、たまたま帰りの機内で読んだ本が良かった。皆が寝静まる真夜中、ただひとり座席照明を付けて読書していたのだが、ふと窓の外を見るとそこには空いっぱいに広がる真っ赤なオーロラ。しかもその時に読んでいたのが『タウ・ゼロ』という昔の名作SF。有名な話なので内容を知っている人もいるかも知れないが、恒星間宇宙船が事故で制御不能になって亜光速で宇宙の彼方へと飛んでいくというもの。(笑)
 周りのムードがまさにぴったりで、こんなに面白かった読書体験は今に至るまでこれをおいて他にない。この時はおかげで本を120%堪能することができたと思う。

 普段から、読む本を選ぶ時は、当然その「本自体の面白さ」については気にしている。しかし「本を読む場面」については、正直言ってこれまであまり気にした事がなかった。考えてみれば本を読むために場面を誂えるというのは、より読書を愉しむためにとても大切なことかも知れない。
 これからも時々「本を読むために出掛ける」というのをやってみようかな。桜は終わったけど花水木や藤の花が咲き始めているから、まだしばらくは公園通いが愉しめそうだし。本を読むためだけにブラリと小旅行、なんてのも好いかも知れない。もちろんその時は車でなく電車でね。

『アーサー王ロマンス』 井村君江 ちくま文庫

 今回は題名にもある通り、ホントにお気らくで気ままな読書だった。

 イギリスを中心に伝わるアーサー王伝説は、昔から様々なファンタジーやロマンスの源泉となってきた。でも実を言うと、その全体像についてはあまり知らなかったりするのだ。知ったかぶりするのも嫌だし、いつか機会があったら大掴みで知りたいと思っていた。そんな折、たまたま本屋で見かけた本書をパラパラめくってみたら、格好の入門書と思われたので早速買って読んでみた。
 で読んだ感想だが、アーサー王伝説を(乱暴にも)ひとことでまとめてしまえば、騎士道と伝奇物語と神秘思想の3者が入り混じって出来た「剣と魔法」の元祖みたいなものというのが良く判った。
 「騎士道」とは公明正大を旨として国王に使え、ひとりの婦人との(プラトニックな)愛を貫くのを理想とする中世ヨーロッパの剣士の“生きざま”のこと。「騎士道物語」とは出会うそばから意味も無く闘って勝った方が負けた方を家来にしたりという、まあ言ってしまえば「武侠小説」みたいなものなのだが、今言った精神論の部分が独特な味付けになっている。アーサー王伝説の中では、アーサーと円卓の騎士(150人もいるとは知らなかった!)の関係に焦点をあてた武勇伝としての側面がそれにあたる。
 つづく「伝奇」とは、アーサーの出生や即位にまつわる魔術師マーリンや、名剣エクスキャリバー(エクスカリバー)を彼に与えた湖の妖精など、古代から伝わるケルト神話が元となっている超自然的エピソードのこと。この「騎士道」と「伝奇」の二つの要素が合わさった物が、現代でも人気を博している「剣と魔法」の物語の大元のイメージを(少なくとも重要な一部については)形作ったといえるだろう。
 最後の「神秘思想」というのは、処刑されたキリストの血を受けたとされる聖杯の探求にまつわる物語。前の2つの要素とはかなり雰囲気が異なり、話としても少し無理やりの感じがするので、おそらく後代になってから付け加わったのではないかと推察する。(*)
 なんだか理由はよく分からないが、円卓の騎士たちはアーサーの命により聖杯を探す旅に出るのだ。しかもその中で何人かは聖杯を見つける事に成功するのだが、それで何をするでもなくアーサーの元に帰ってきて「聖杯を見つけました」と報告するだけ。(笑)
 なお誤解が無いように言っておくが、アーサー王伝説における聖杯の探求の物語が決してつらないわけではない。むしろアーサー王伝説のメインとなるエピソードとも言えるわけで、キリスト教系の神秘思想はかなり好きな方だからとても面白く読めた。ただ何となく、キリスト教会が布教のために「アーサー王と円卓の騎士」という昔から人気があった説話を利用した――そんな印象を強くもっただけ。ケルト伝説にキリスト教が徐々に浸透していく様子がまるで目に浮かぶようで実に愉しかった。

   *…これもケルト絡みの「豊穣の大釜」の伝説と関連があるようだが、本書では詳しく
     触れられていない。

 登場人物についても少し触れておこう。一読するとラーンスロットやパーシヴァル、ガレスにガラハッドなどさすがの自分でも一度は聞いたことがある、名だたる円卓の騎士たちの名前が目白押し。もっとも「トリスタンとイソラド(イゾルデ)の悲恋」など、もとがアーサー王伝説によるものだとは知らなくて驚いたエピソードも同じくらい数多くあったが。
 このあたりの物語とか『ニーベルンゲンの歌』なんかを押さえておけば、ヨーロッパの古典文学がおそらくもっと愉しめそうな気がする。その意味では、本書のように気軽に読める入門書が文庫で楽に手に入るというのは、とても大事なことなのかもしれない。

 最後に、全体を通して感じた事をひとつ。
 エッダ(北欧神話)を読んだ時にも感じたのだが、なぜかアーサー王伝説も最後は物悲しい終わり方をする。たまたま読んだ二つの物語でどちらも「始まり」と「終わり」がきっちりしているというのは、偶然なのかそれともヨーロッパの伝説全般に共通する特徴なのだろうか?
 前半でアーサーが王になって円卓の騎士が参集するまでのくだりは気分も高まるのだが、ラスト近くになって今まで親しんだ英雄たちがひとりふたりと世を去っていく姿が描かれると、なんだか無常感のようなものを感じてしまう。このあたりはインド神話や日本神話、それに南アメリカのインディオの神話などには見られない独特の終わり方だなあ。
 いや、だからといって何か結論じみた意見があるわけではないんだけど。(笑)

『ヘミングウェイ短篇集』 西崎憲/編訳 ちくま文庫

 作家/翻訳家/アンソロジストという多くの肩書を持つ編者・西崎憲氏による、言わずと知れた短篇の名手・ヘミングウェイの傑作選。中身は超有名なものから初めて読むものまで色々だが、いずれにしても選りすぐった作品であり面白くないわけがない。いわゆる「てっぱん」というのは、このような時に使う言葉なのかも。(笑)ちなみに収録作品は以下の14作品。(注:新潮文庫版の短篇全集とは若干名前が違っているものあり。)
 「清潔で明るい場所」「白い象のような山並み」「殺し屋」「贈り物のカナリア」「あるおかまの母親」「敗れざる者」「密告」「この身を横たえて」「この世の光」「神よ、男たちを愉快に憩わせたまえ」「スイスへの敬意」「雨の中の猫」「キリマンジャロの雪」「橋のたもとの老人」

 さっそく内容についてだが、まずはひとつ目の「清潔で明るい場所」を読んだところで、いきなりノックアウト。何といってもヘミングウェイの短篇の中でも1,2を争う出来の名品だもの、「やられたー」という感じ。これを冒頭に持ってくるのはずるいでしょう。(笑)
 毎夜カフェを訪れる老人客を巡り交わされる2人の店員の会話と独白で構成された掌編だが、ラストの苦い感じといいほぼ完璧な出来。「ナダ(無)にまします我らがナダよ」「我らに日々のナダを与えたまえ、我らを我らのナダにしたまえ。」という条は特に有名で、我がお気に入り作家である開高健も自著の中で引用している。
 その後もバラエティ豊かな物語が続く。例えばクライムノベル(犯罪小説)を思わせる「殺し屋」や、まるでハードボイルドのような渋さが光る「密告」などミステリっぽい作品もある。(ここらはかなり好み。)
 ひとつ分からなかったのが、「密告」の中に出てきた“バーでする6つの話題”とは何か?ということ。さらりと書いてあって本筋にも関係は無いのだが妙に気になって仕方ない。「政治」や「女」の話というあたりは考えたのだが、残りについては皆目見当もつかない。ヘミングウェイはこのあたりのくすぐりが実に巧い。(笑)
 毎回全く同じ書き出しと登場人物を使って尚且つ印象が全く違う物語に仕立てた「スイスへの敬意」も面白いし、リゾートホテルのちょっとした出来事を描いて忘れがたい印象を残す「雨の中の猫」なども好い感じ。そして山頂にある豹の死骸の描写が有名な彼の代表作「キリマンジャロの雪」を経て、まるでエピローグのように「橋のたもとの老人」で余韻を残しつつ終わる...。いやあ、久々にアンソロジーの愉しみを存分に味わうことが出来た気がする。収録作の選択はもちろん、それらの並べ方についても。
 自分だったらどう組み立てるか? 冒頭にはやはりインパクトのある作品をもってくるとして、クライマックスはラストではなくひとつ手前に。最後はいかにも彼らしい小品で余韻を残して終わるのがいい。そしてその間をつないでいくバラエティ豊かな作品群をどう配置するか。―― なんて色々考えてしまった。うん面白い、面白い。(収録作の候補と配置を考えている間中、きっと西崎氏も面白くて仕方なかったんじゃないかな。)
 こんど自分の好きな作家の短篇で架空のアンソロジーを編んでみるのもいいかも。開高健やJ・G・バラードあたりなら出来そうな気がする。

 開高健の名前が出たところで少し余談を。開高健はヘミングウェイのことをかなり好きだった節があるのだが、今回改めてヘミングェイ作品を読んでみて、自分には開高作品との類似がとても目についた。でもネットで検索してみるとそのあたりの比較に言及している人は意外と少なかったりする。
 無駄を極限まで削ぎ落して、「乾いた」とでもいう表現がぴったりくる独特の文体や、釣りやハンティングなどのアウトドア趣味もしくは戦場体験といった外面的な類似だけでなく、もっと内面的な資質の部分で両者には共通するところが多い気がするのだが。(特に『輝ける闇』以降の作品には顕著。)
 もっとも、小説のスタイルは若干違う。開高が私小説風の独白を好んだのに対して、ヘミングウェイの場合あくまでもキャラ造形による物語の体裁をとっている。そのため「リアルさ」という点ではたしかに差がある。しかしどちらの手法にもそれぞれ一長一短があって、一概にどちらが優れているとは言えない。後は好みの問題だろう。
 開高の『ロマネ・コンティ・一九三五年』や『歩く影たち』といった短篇集と、本書の収録作を改めて比較してみるのも面白そうだ。

<追記>
 話ついでに久生十蘭についても少し。
 もしかしたら久生十蘭は物語を書くにあたって、ヘミングウェイと同じ雰囲気を狙っていたのではないか?という事に気が付いた。本書に収録されている作品、中でも「この身を横たえて」や「雨の中の猫」「橋のたもとの老人」などの掌編を読むと、「スケッチ(素描)」という言葉がぴったりくる。余計な脚色を極力排して一見荒削りにもみえる物語は、ヘミングウェイの短篇に共通する「格好よさ」の源泉になっている。そしてそれは久生十蘭の良く出来た作品に感じる“風味”にも共通しているような気が。
 そのうちに確かめたいことがまた増えてしまった。こんな調子で読みたい本がどんどん増えていくんだよなあ。(苦笑)

『ストリートの思想』 毛利嘉孝 NHKブックス

 2000年ごろから顕著になってきた「①社会運動/②文化/③思想の一体活動」を「ストリートの思想」と名付け、それについて自らの経験を交えながら明らかにしようと試みた本。ちなみに著者は「カルチュラルスタディーズ(文化研究)」の研究者である。
 ここのところ10年ほど、世の中があまりにも目まぐるしく変化するので、正直いって何が起こっているのかよく判らなかった。しかし本書を読むことで、混沌としたこの状況は新しい価値観が顕われてくる兆しだったということが、何となく理解できたような気がする。周りが何となく見通せるようになったというか。
 自分のように理論優先型の古いタイプの人間には、本書のように理路整然と説明してくれる本はとても有難い。おかげで今の世を眺めるための新たな視点を得ることが出来た。

 いうまでも無いことだが社会科学は「社会」を研究の対象としている。「社会」とは個々人の意思が織りなす関係性な訳だから、そこで探求される結果には「真実」というものは存在せず、ただ「合意」があるだけ。(厳密な事を言えば自然科学においても「真実」はなくて、そう思われている「合意」しかないというのが、クーンによる「パラダイム」の概念。)
 従って本書のように現在進行形の内容を取り上げようとすると、読み手がどのような知識を持ちどのように考えているかにより判断が変わってくるので、客観的な評価は難しい。結局のところ書き手がその時代をどのような視点で捉えたか? という事なので、「○○年代は△△という時代であった」というように、どうしても後から総括する感じになってしまうのはやむを得ないところだろう。
 と、のっけから歯切れの悪い文で恐縮だが、本書について書こうとすればするほど自分の知識不足を感じてしまう。個人的には割と納得できる話が多いのだが、人が100人いれば100人なりの考え方があるわけで、他の人にも同じように感じてもらえるかどうか、はなはだ心もとない。けれど、少なくとも著者の書き方は「誠実」であると断言して良いだろう。以上、うだうだ書いていても仕方ないので早速本題に入る。

 本書は冒頭にも書いたように、2000年ごろから顕著になってきたある種の社会的な変化について分析をしたもの。現在進行形の社会的な傾向について書こうとすれば後出しの特権的な視点で断罪することは不可能であるため、本書で著者がとった方法は、その変化が生まれてくる元になった1980年代から現在までについて、著者の個人的な体験を交えながら活写しようとするもの。―― 結果としてこれが同じ時期に大学生活を送った自分の記憶とも重なり、読んでいてとても心地が良い。
 更に面白いのは、この手法がそのまま著者の専門であるカルチュラル・スタディーズの実践に繋がっているという点。
 本書に出てくるキーワードをかいつまんで紹介しよう。曰く―
 <1995年以前の時代>
  ・バブル景気
  ・デリダ/フーコー/ドゥルーズ=ガタリ/バルトといった“ポストモダン思想”
  ・山口昌男やバルトに代表される”記号論“
  ・浅田彰/中沢新一といった”ネオ・アカデミズム“の潮流
 <1995年以降の時代>
  ・オウム真理教事件
  ・阪神/淡路大震災
  ・バブル崩壊と“失われた10年”
  ・ニートや派遣社員と“格差社会” etc.

 切りがないのでこれくらいにしておくが、こうして見ると1995年を分水嶺として社会の雰囲気ががらっと変わっているのが良く分かる。これらを踏まえて2000年ごろから少しずつ明らかになってきたのが、著者が「ストリートの思想」と名付けた動きというわけだ。それがどんなものかひとことでいうと、一見左翼的な“社会運動”とサブカルチャーを中心とした“文化”、そしてそれらに付随する“思想”の3つが混然一体となった活動のこと。路上でのパフォーマンスを伴なうのが大きな特徴で、従来のように大学や論壇を中心とした「頭でっかち」の活動ではなく、実際に身体を動かして愉しみながら自然体で社会的な主張を行うもの。たとえば2008年末に湯浅誠らを中心とするNPOによって組織された「年越し派遣村」をイメージすると分かりやすいだろう。
 “社会運動”として見た場合、近年の新自由主義によって発生した様々な社会の矛盾に対して、弱者の立場から行う抗議という側面が強い。かつて「小さな政府」と「民営化」を積極的に推進した小泉純一郎や竹中平蔵は、彼らの最大の敵と言っても良いだろう。(笑)
 “文化”としては、路上(=ストリート)で繰り広げられるライブ活動やダンス、そしてヒップホップなどの音楽ジャンルに代表されるような所謂“サブカルチャー”が付随する事が大変に特徴的。古くはハウス・ミュージックや「ピチカート・ファイブ」といったグループによるサウンド、そして「じゃがたら」(懐かしい!)などを経て「ソウル・フラワー・ユニオン(*)」といえば分かる人もいるかな?
 最後に“思想”の面では「本来のポストモダン思想がもっていた政治活動としての側面」を強調するような思想となっている。これはドゥルーズ=ガタリ、フーコー、デリダといったポストモダン思想家たちが本来持っていたテイストなのだそうだ。すなわち「ストリートの思想」にとって“思想”とは、今までのような「“象牙の塔”の中の飾り物」ではなく、あくまでも実践としてあらわされるものといえる。またこの思想は必ずしも著作物によって世に問われるとは限らず、デモやNPO活動や路上ライブなどがそのまま彼らの思想の表現だというのも、今までにない大きな特徴になっている。

   *…阪神/淡路大震災のときに被災者に向けて名曲『満月の夕』の路上ライブを行った
     のが有名だが、もとは関西を中心に活動していた「ニューエスト・モデル」と
     「メスカリン・ドライブ」いう2つのバンドを母体に結成されたグループで、
     社会的なメッセージを込めた歌詞を載せたダンサブルな曲が多い。

 このように「ストリートの思想」とは今までになかった新しい活動/概念であるため、従来の思想で捉えきることはできない。そこで分析のための強力なツールとして著者が選んだのが「カルチュラル・スタディーズ(**)」という訳。(このあたり、哲学・思想に興味のない人は何の事かさっぱり分からないかも知れない。/苦笑)

  **…日本における「ポストモダン」や「カルチュラル・スタディーズ」の受けとられ方
     は、欧米におけるそれとはかなりの隔たりがあるらしい。イギリスに留学して直接
     その”風”にあたった著者ならともかく、バブル時代の“ネオ・アカ”ブームで
     多少齧った程度の自分が、生半可な知識で本書を判断するのは難しいと感じた理由
     はここにもある。もっともそのあたりの知識については、本書の中できちんと解説
     してくれているので素直に読めば大丈夫だと思う。最初に「カルチュラル…」と
     いう言葉を聞いたとき、ちょっとした胡散臭さを感じたのは事実だが。(笑)

 先程の繰り返しになるが、本書によれば「ポストモダン」や「カルチュラル…」に特徴的だったのは、それらが単なる理論ではなく極めて政治的且つ実践的な側面をもった思想という点。いやむしろ、現代の社会構造に対する分析と、批判に基づく政治的/社会的な改善活動が先に在り、それと不可分なものとして同時発生的に生み出された思想だったと言う方が正しいかも知れない。ところが日本にそれらの思想が紹介された際、政治的な側面は意図的に抜かれてしまったと著者は述べる。そして西武セゾングループら当時最先端の流通グループによって、「ファッション」の一種として消費されてしまったのだと。
 ところがその後のバブル崩壊や湾岸戦争の経験を経て状況は大きく変わる。例えば以前から活発な活動をしてきた評論家・柄谷行人は、彼の思索において重要な里程標となる『トランスクリティーク』を著し、それ以降は単なる「思索」ではない「実践」へと傾注していった。このように多くの思想家がその主たる活動の場を大学から他へと移すことで、新たな思想の供給元として社会の指導的な役割を果たしていた大学の地位は、徐々に凋落していった。その代わりに新たな「“公共圏”としての公園(***)」の位置づけが増していき、やがて「ストリートの思想」を生みだす母胎になったのだという。
 以上、本書は“社会運動”“文化”“思想”の三位一体である「ストリートの思想」を、今後の社会における大きな潮流として位置づけようと果敢に取り組んだものといえる。(果たしてこの見方が正しいかどうかが分かるのは、もしかしたら10年後なのかも知れないが。)

 ***…これってまるで歴史学者・網野善彦などが提唱した「アジール」という概念、
     すなわち中世日本の各地に散在したという自由圏の現代版みたいだ。

<追記>
 カルチュラル・スタディーズに感じていたある種の「いかがわしさ」について、すこし補足しておきたい。以前はこれを“学問”の一分野としてしか考えていなかったため、「インタビュー(聞き取り調査)による対象者の深掘り」という手法そのものに怪しさを感じてしまっていた。インタビュアーの主観によっていかようにも結果が変わる、悪い言い方をすれば結果を恣意的に「捻じ曲げる」ことが可能ではないか?という点が気に入らなかったのだ。しかし本書を読んで少し考えを改めることにした。
 人間はニュートン力学で使うような「理想空間」に生きている抽象的な存在ではない。実在の社会の中で他人との関係性を持って生きている以上、生活をする上で何らかの意思/立場の表明は避けては通れない。(それを「政治的」と呼んでも構わない。)
 もしもカルチュラル・スタディーズが目指すのが純粋な“学問”であれば、上記のような特徴は批判にも値しようが、そもそも依って立つスタンス自体が違っているのだ。いうなればカルチュラル・スタディーズは単なる「学問」ではなく、「生きるための思想」を実践しているといってもいい。最初から社会的/政治的な活動と不可分なのがこの「文化研究」なのだとすれば、むしろ実践者の主観(=主張)が入ってこその研究成果なのだろう。好きか嫌いかということは別にして、彼らのやっている事がようやく理解できた気がする。
 なお本書は、ネグリらが学術書『<帝国>』の中で提示した主張を下敷きにしているとのこと。それによれば、本書で示されたような動きは同時多発的に世界中で起きようとしているらしい。もしそれが本当だとすれば、現在進行していることは文字通りの社会的な「パラダイムシフト」なのかもしれない。そして世界のあちこちで起きている紛争が、もしも旧世代と新世代の「考え方の枠組み」の違いに起因する“軋み”なのだとしたら、若い世代が社会の中心になる頃には自然に治まっていくのかも。その時には自らのパラダイムを変更できなかった人々は、社会の表舞台から退場していく事になるのだろうな。自分はその時どちらの側に居るのだろうか。舞台から退場する側ではなくて、舞台で踊り続ける人々の中に居られたら嬉しいんだがなあ。

<追記2>
 本書を読んでいる時にずっと頭に浮かんでいたのは、今回の「東北地方太平洋沖地震」が発生してからツイッターに時々刻々と書き込まれていたコメント群だった。昔のようにマスコミの発表を一方的に受け取るだけでなく、ひとりひとりが直接繋がって情報を伝え合い助け合って、自発的な最善の“行動”に結び付けていく様子は、まさに「ストリートの思想」の実践に思えてならなかった。デマや非難中傷などももちろんありはしたが、そのような人がある割合で混じっているのは現実社会だって同じ事だ。バーチャルな空間ではあるけれど、おそらく「ストリートの思想」とはこのような事なのだろうな、と感じ入った次第。

0点の本

 小説を読むと言う行為は読者と作家の真剣勝負。著者が物語に仕込んだ「仕掛け/たくらみ」をどれだけ愉しむことが出来るか・味わいつくすことが出来るかによって、読者としての力量が図られると思うのだ。なぜなら折角お金を出して買った本だもの。評論家でもないのに、その本の詰まらない点をいちいちチェックしていくような読み方をしていては損。最初から試合を放棄するような読み方ではなく、ひとつでも愉しめるところが多い方が得だろう。そうでない人は、「今日も本が読める」ということに対する感謝の気持ちがちょっと足りないんじゃないのかなー?なんて。(笑)
 このことは小説に限らず、学術書を読む場合でもだいたい似たようなもの。「面白さ」という基準ではないが、その代わりに「腑に落ちる」ことがどれだけあるかが、学術書を愉しむ上でおおよその判断基準になる。それ以外は小説の場合とそう大した違いは無い。(他の人はいざ知らず、あくまで自分の場合だが。)
 総じて自分が本を読むときは、「さて、何を愉しませてくれるのかな?」という受け身の姿勢ではなく、「さあ、何を愉しんでやろうか!」という攻めの姿勢といえるだろう。だから一冊の中になるだけ多くの愉しみを首尾よく見つけられた時には、「得した」という気分とともに「勝った」という気持ちもちょっと味わうことができる。

 とまあ、あれこれ偉そうに書いてはみたが、実を言うと今までどうにもならずに0点を付けた本が3冊ある。あ、面白いんだけど色んな理由で最後まで行き着けなかった本は除いて、読了した上で0点をつけたものに限っての話ね。ポリシーに反するので書名や具体的な内容は書かないが、自分の力量不足への自戒(*)も兼ねて、今回はそんな本について紹介したい。

   *…なぜなら自分にとって0点をつけるということは敗北宣言に他ならないから。

 まず一冊目は、大学のセンセイによって書かれたある思想家の解説本。『○○入門』とあって手に取ったのだが、まず文章が日本語になってないのが駄目。どれだけ読み直しても意味が全く通じない文章が続くのには正直参った。しかも苦労して少しずつ読み進んでいくと、どうやらそこに書かれているのは「入門」ではなくて、その思想家の(たった)1冊の著作に対するかなり専門的な分析らしい。別の形で発表すればそれなりに評価してくれる人は(日本中を探せば何人かは)居ると思うんだが、少なくとも新書で「入門書」として広く世に問えるような代物ではなかった。最初からこのような内容と知っていればきっと買わなかったと思うし、仮に買うにしてもきっと最初から覚悟して読んだろう。
 どういうことだろうね、これは。編集者の依頼を著者が全く理解しなかったのか、もしくは著者が偉いセンセイなので原稿に文句が付けられず、いまさら内容に合わせて企画(題名)を変えるわけにもいかなかったのか。いずれにしても書名や裏表紙の説明と実際の内容とに大きな食い違いがあって、しかもまともな日本語の文章ですらないというのはヒドイ。こんな形で世に出したって、著者にも編集者にも(もちろん読んだ読者にとっても)いい事なんて一つもないだろうに。とても不幸な本だった。

 残りは2冊とも小説。ひとつ目はジャンルとしては一応ミステリに分類されるもので、こちらはちゃんと日本語にはなっている。(当り前か。/笑)
 それではこの本のどこが駄目かというと、物語の体をなしていない点。自分が中学生のころに書いていた習作を今になって無理やり読まされているくらい(笑)、読んでいて苦痛だった。おそらく世の中にはそのような本がごまんと存在するとは思うが、自分が本を選ぶ時はかなり真剣に吟味したうえで買うので、ここまで酷い小説に引っかかることは滅多にない。名のある出版社から出た人気のある叢書の一冊だったので、油断してろくろく見もせず買ったのが失敗だった。
 最後の一冊はSF。これは文章の意味も分かるし(笑)、ちゃんと物語になってもいるのだが、作者のレベルが読者よりも下と言う不幸なパターン。陰々滅滅とした話を我慢して100ページくらいまで読んでいるうち、残りの筋(しかも暗いオチ)がおおよそ想像できてしまった。まさかそんな話では…と思いながら読んでいくと、全く予想通りのストーリーが展開していき、ラストもまさに100ページ目で想像した通りの終わり方。せめて途中の展開やプロットなどに愉しめるところがあればまだしも救われるが、それすらない。読み終えた後の虚脱感といったらなかった。喩えるなら、会社の慰安旅行のバスの中で見たくもない映画を延々と流される感覚に近いかも。先の読める展開がずっと続くだけなので退屈極まりない。
 以上の3冊が0点を付けた本。一冊目と二冊目はどちらかと言えば0点というよりマイナスを付けたいくらいで、金と時間を損した気分。(笑)
三冊目は別に「損」ではなかったが、愉しめるところが全くないということで、限りなく“原点”に近い0点。

 今回改めて感じたことだが自分が低い評価をつけるのは、小説ならば先が読めてしまうものであり学術書なら「看板に偽りがある」本のようだ。多少の悪文であっても中身さえ面白ければ良いんだけど、こちらが想定していた内容とあまりにかけ離れて過ぎているのはツライ。
 それと何しろ「活字を読む」という行為自体が自分にとって最高の娯楽なわけだから、本を開いているのに読み進められないのが一番のストレス。飛ばし読みをするという手もあるが、意味が通じないほどひどい文章ではそれすら出来ず。となれば、諦めて途中で読むのを止めて処分するか、もしくは最後まで我慢して読んでブログでネタにするくらいしか手は無い。(笑)
ということで本日の結論は次の通り。

   「本を買う時には本屋で実物を良く見てから買うこと。(笑)」

『江戸怪談集(中)』 高田衛/編 岩波文庫

 数多い江戸怪談話の中から物語を精選して収録。全3巻なのだが残念ながら上巻は品切れだったので、残りの2冊を買ってきた。(なお上巻は次回のリクエスト復刊に期待。)中間である本書には「曽呂利物語」「片仮名本・因果物語」「伽婢子」の3種の本から、全部で88の作品が収録されている。古文ではあるが、(江戸時代の)一般読者向けのやさしい文章なので決して読みにくくは無く、リズムに乗ればスラスラと楽に読み進むことが出来る。
 『江戸怪異草子』の時にも書いたことだが、この時代の小説は今では決して読めないような独特の雰囲気が堪らなく好い。この雰囲気は一体どこからくるのだろう?と前から考えていたのだが、本書の解説を読んで納得できた。細かく分けるとどうやら3種類の話が混じっているという事らしい。
 ひとつは昔ながらのいわゆる「民話」や「昔話」のようなもの。そしてもうひとつは『日本霊異記』のような仏教説話によくある「因果モノ」というやつ。最後のひとつは『聊斎志異』や『閲微草堂筆記』のような、中国の「志怪小説」の流れをくむもの。自分がとりわけ好きなのは、ひとつ目の「民話」的な話と三つ目の「志怪小説」のような話。「親の因果が子に報い」みたいないわゆる「因果モノ」は話がワンパターンになりがちなので、沢山読んでいると少し飽きてしまう。そういうタイプのではなくて、オチも理由説明もなくただ変な出来事が起こるだけ、という話の方が好みだ。
 もしも「因果(=原因と結果)」という世の中の“理(ことわり)”が通用しないのであれば、そこに描かれるのは“条理”が通用しない“不条理“の世界ということになる。
 この味を正しく近代に伝えている作家と言えば、まず真っ先に思い浮かぶのはやはり泉鏡花ではないだろうか。自分が泉鏡花を好きなのは、きっとそんな“不条理”な怪談を書いてくれるからなんだと思う。

<追記>
 ところで有名な禅宗の僧侶・鈴木正三が、この手の怪談話が好きで数多く収集していたとは知らなかった。坊さんでも怪力乱神は好きだったと見える。(笑)

『千年紀の民』 J・G・バラード 東京創元社

 バラード作品をこのブログで取り上げるのは『クラッシュ』『夢幻会社』に続きこれで3作目。バラードの作品世界をより愉しむための方法として、『クラッシュ』の時は“景観”という切り口を考えてみた。『夢幻会社』では記号論的な見方で眺めることで、ひとつの作品を異なる位相で重層的に愉しむという実例を挙げてみた。続く本作品ではバラード作品を愉しむための切り口「その3」として、“パラノイア”というキーワードを提案したい。「バラードの到達点」と称される『千年紀の民』を偉そうに「切ってみる」なんて、正直なところ畏れ多いが、まあ上手くいったらお慰みということで。(笑)
 なお今回はバラード作品をある程度読んでいるのが前提なので、いつにも増してマニアックな話題が続く。(なるべく分かりやすくするつもりではあるが、)読んでいない方には退屈かもしれないが、平にご容赦頂きたい。

 まずは今回ご紹介する提案(仮説)を先に書いてしまおう。それは凡そ次のような内容。
『バラード作品は一種の“教養小説”ビルドゥングスロマン(*)として読む事ができる。』
 更にもうひとつ加えるとすれば次のような仮説も。
 『主人公が様々な経験を積む過程で、重要な役割を果たす人物/キーマンが登場する。
      主人公を新しい世界へ導いていくその人物は“パラノイア(**)”である。』

   *…ドイツを中心にして出来あがった小説ジャンル。主人公が様々な経験をする事で、
     人間的・精神的に成長していく姿を描く。ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修行
     時代』などが有名。
  **…きちんとした精神病理学的な意味で使っているのではなく、「偏執的/強迫神経的な
     性向」という程度にとって頂きたい。彼らはパーソナリティ(人格)に極端な偏りは
     あるが、多くの場合は知性や判断力は他の人と何ら変わりはない。

 話は飛ぶが、中世イタリアを代表する詩人ダンテの代表作『神曲』には、暗い森の中へと迷い込んだ主人公ダンテに同行して「地獄」「煉獄」「天国」を旅してくれる「案内人」が登場する。(物語の前半ではヴェルギリウスがその役を担い、後半ではダンテの憧れの女性であったベアトリーチェへと引き継がれる。)
 彼らの目的は、心に迷いを生じて途方に暮れるダンテに寄り添って歩き、時に勇気づけたり適切な助言を与えることで、ダンテを精神的な“高み”へと導いていくこと。様々な経験に即してタイミングよく助言することで、より効果的な成長が望めるわけであって、これは企業に勤めている人ならお馴染みだが、所謂“OJT(On the Job Training)”というものに他ならない。(笑)
 ―― このように主人公とともに行動して新たなビジョンをもたらす“導き手”がバラード作品の中には数多く登場し、そして彼らは皆“パラノイア”ということ。このような構図が、今回提案する「仮説」というわけだ。
 論より証拠、早速具体例を挙げてみよう。
 彼ら“導き手“たちはバラードの初期作品にすでにその姿を見ることが出来る。しかしその特徴がはっきりしてくるのはどちらかといえば中期~後期の作品であり、そちらから先に説明した方が分かりやすいだろう。例えば『コカイン・ナイト』で主人公チャールズの弟フランクを狂気へと導いたボビー・クロフォード。あるいは『スーパー・カンヌ』でグリーンウッド医師を無差別殺人へと追い込んだドクター・ペンローズ。そして『永遠への疾走』において、同行した多くの人々に破滅をもたらしたドクター・バーバラなども。
 一方、初期の代表作『沈んだ世界』でいえば、“導き手”にあたるのは、海賊/ストラングマンでもベアトリスでもなく、物語途中で(調査隊から脱走して)密林へと姿を消すハードマン中尉。彼は登場シーンこそ少ないが、主人公のケランズの精神に与える影響はとても大きいといえる。それに引き換え、物語中盤を盛り上げる為に重要な役どころであるストラングマンは、これほど刺激的な“景観”の中にいるにも関わらず最後まで俗物根性が抜けきらない。その結果かどうかは知らないが、ブログなどで感想を見る限りではキャラとしてどうも人気がないようだ。(笑)
 破滅3部作の2作目にあたる『燃える世界』でも同様で、富豪のミランダ・ロマックスなど魅力的な“パラノイア”が登場する。しかし主人公ランサムは“啓示”を得るチャンスが何度も訪れたにも拘わらず、世界の“変質”のもつ意味を理解することなく死んでいく。読んでいて思わず「しっかりしろよ!」と言いたくなってくる。『燃える世界』が“破滅3部作”の中でもっとも評判が良くない作品というのも何だかわからないでもない。『沈んだ世界』のストラングマンの人気の無さといい、どうやらバラードファンは俗物的なキャラを嫌う傾向があるようだ。(笑)

 「“パラノイア”は(主人公に新しい世界の啓示を与える)“導き手”である」という視点で、もう一度バラード作品を眺め直してみよう。すると中期作品あたりまでは世界の変容をただ受け止めるだけで、主人公への積極的な関与を行わなかった彼ら“パラノイア”は、後期になるにつれて周囲の人々や世界への積極的な働きかけの姿勢を強めているように思える。これはバラードの関心が当初の「(景観の)観賞」から、その後「(世界との)合一」へと向かっていったからでは?という気もする。(***)

 ***…聞くところによると「景観」もしくは「環境」という言葉は「自分」という概念を
     含まないが、「世界」という場合には、それを認識する自分自身を含むらしい。

 参考までに、他の作品における“パラノイア=導き手”についても思いつくまま列記しておこう。(わりと曖昧な作品もあるので印象は人によって違うかもしれないが、自分はこう感じたということで。)
 まず『結晶世界』においては主人公サンダーズ博士に対するソーレンセンの存在が大きい。『コンクリート・アイランド』では前半がメイトランドによるサバイバル描写のため少しボリュームが少ないが、それでも後半に謎の女性ジェーンが登場すると、彼女が“導き手”であったことが徐々に分かってくる。(そこから始まる安部公房『砂の女』ばりのストーリーが面白い。)つづく『クラッシュ』では“自動車事故”が人類にもたらす新しい世界の啓示を、(文字通り命を張って)示したヴォーンがそれに当たる。(これは割と納得頂けるのでは?)
 短篇に目を転ずると、まさに“パラノイア”の宝庫といえる。例えば、架空のリゾート地ヴァーミリオン・サンズを舞台に幻想的な物語が繰り広げられる連作集『ヴァーミリオン・サンズ』から順に挙げてみると ――
  ・「コーラルDの雲の彫刻師」=レオノーラ・シャネル
  ・「プリマ・ベラドンナ」=ジェイン・シラシリデス
  ・「スクリーン・ゲーム」=エメラルダ・ガーランド
  ・「歌う彫刻」=ルノーラ・ゴールン
  ・「希望の海、復讐の帆」=キューナード&ラーデマーケル
  ・「ヴィーナスはほほえむ」=ロレイン・ドレクセル
  ・「風にさよならをいおう」=レイン・チャニング
  ・「スターズのスタジオ5号」=オーロラ・デイ
  ・「ステラヴィスタの千の夢」=グロリア・トレメインなどなど...ふう。
 作品によって程度の差はあれ、これだけ「変な人」が登場するというのはある意味で壮観といえる。もっとも、なにぶん初期の作品なので、彼らがきちんと主人公を“導いて”いると言えるかについては微妙なモノもあるが。

 以上、ここまでは「主人公vs“パラノイア=導き手”」というモデルがうまく当て嵌まるものを中心に紹介してきたが、そうではないタイプの作品ももちろん存在する。例えば以前に『夢幻会社』を取り上げたときには、この作品を「バラードにおける“特異点”」と表現したことがあり、それは今回の視点においても同様。『夢幻会社』では主人公ブレイク自身が周りの人々を導く“導き手”であり、こんな設定はこの小説だけ。また「テクノロジー3部作」のラストを飾る『ハイ-ライズ』においては、ラング/ワイルダー/ロイヤルという3人の登場人物の視点が交互に描かれとともに、お互いがお互いの“導き手”となって神話的世界の高みへと昇りつめていく(という風に自分には見える)。
 切りがないのでこのあたりで止めておくが、このように“パラノイア”という補助線をひとつひいて見る事で、新たな愉しみ方が生まれてくるわけで、バラード作品の奥深さには興味が尽きない。

 かなり脱線してしまったので話をそろそろ『千年紀の民』に向けよう。本書における“パラノイア=導き手”とははたして誰か? 読んだ人には一目瞭然だと思うが、実は本書の場合、主要な登場人物は殆どが“パラノイア”なのだ。(笑)
 ざっと名前だけでも挙げていくと、ケイ・チャーチルやヴェラ・ブラックバーン、それにデクスター神父や中国人女性ジョーン・チャン、はては主人公の妻サリーまで、周りの人はみな主人公であるデーヴィッド・マーカムに啓示をもたらそうと一生懸命。まるで彼が来るのを手ぐすね引いて待っているようだ。(“パラノイア”という点だけを見れば、本書はバラード作品の中でもかなり特異な作品と言えるかも知れない。)
 なかでも小児科医のリチャード・グールドはすごい。エネルギッシュに周囲を刺激・鼓舞し続けるその様子は、『コカイン・ナイト』のボビー・クロフォードや『楽園への疾走』のドクター・バーバラにも匹敵するほどのパワーを持っており、ひときわ強烈な印象を残す。
 グールドが企んでいるのは、彼の忠実な使徒であるケイとヴェラを使い、「善良なる一般市民」である中産階級が社会への反乱や無差別テロを起こすのを手助けすること。彼ら“導き手“が切り開こうとする新しいビジョンとは、一般的な見方をすれば「とてつもない”悪“」でしかない。(まるで笠井潔のミステリー「矢吹駆シリーズ」に登場する絶対的な悪の権化ニコライ・イリイチのよう。)
 しかしクロフォード(『コカイン・ナイト』)にせよバーバラ(『楽園への疾走』)にせよ、そして全ての“パラノイア”の集大成とも思えるグールド(本書)にせよ、彼らが世界に対して行う破壊行為の理由が、絶望や閉塞感に起因する倒錯的な「革命観念」ではない事を理解しないと、バラードの主張は理解できないだろう。
 例えば現代社会が抱える病理について、心理学者であるデーヴィッドが語ったコメントは次の通りだ。

 「(想像上の広大な神の不在という巨大な)空虚に恐れをなし、時間と空間のトリック、ひげを生やした老賢者、倫理的宇宙といった思いつくかぎりの底荷(バラスト)でそれを満たそうとする」

 この心理学の教科書通りとも言えるコメントに対して、グールドは次のように反論する。
 
 「無意味な宇宙にも意味がある。それを受け入れれば、あらゆるものが新たな意味を帯びる」

 ここに示されているのは、「従来のように“搾取される労働者階級vs欺瞞に満ちた資本家たち”といった、単純な対立の構図ではないぞ」という、バラードからのヒントではないのだろうか? ―― 深読みのし過ぎかもしれないけれど、自分としてはそのように解釈したい。(だってその方が面白くなるから。/笑)
 それではグールドを始めとする“導き手”たちの行動はいったいどのように解釈すべきだろうか?

 少し横道にそれるが、ここでもうひとつの“補助線”をいれてみたい。それはアントニオ・ネグリとマイケル・ハートによって提出された<帝国>(“Empire”)という社会学/政治学上の概念。湾岸戦争がもたらした衝撃により書かれた(という)、彼らの著書『<帝国>』の中で示された概念だそう。この本は出版されるやいなや話題を呼び、人文書では珍しいベストセラーとなった。(エラそうに書いてるが高いので読んでない^^;)
 それでは<帝国>というのがどの様なものかというと、グローバリゼーション(国際化)の進展によって登場してきた、今までとは全く異なる「主権の在り方」なのだそうだ。例えば従来では冷戦時代に見られるように国家やイデオロギーが世界を牛耳る主権の区分けに直結していた。しかしグローバリゼーションが極限まで発展した現代においては、たとえ先進国であってもアジアにおける中国やインドなど、発展途上国の意見を無視して国を成り立たせることは出来ない。
 現在の世界の主権は<帝国>と名付けられた新しい主権、すなわち「帝国主義的な単一の支配原理で統合された超国家的な組織体」によって動きつつあるのだ。―― これがネグリらが発見した新しい化け物の正体であり、彼らは「もはやいかなる強力な国家であっても、単独で自らの主張を押し通すことはできない」と述べる。
 しかし新しく誕生したこの究極の暴君に対して、我々の希望が皆無という訳ではない。<帝国>に対抗できる唯一の存在として近年急速に顕在化してきたのが「マルチチュード」と名付けられた存在であるのだという。
 「マルチチュード」とは、地域や国家・国民、企業などを超えた超国家的なネットワーク体のこと。多様性を維持したまま連携するという<共>(“the commom”)の活動を特徴とする。(ここらへん取っつき難いが、重要なところなのでもう暫くご辛抱を。)
 実はバブルがはじけて失業者が増えた2000年ごろから、日本でも良く似た活動が顕在化してきているのだ。例えば「年越し派遣村」を組織したNPOや、渋谷などを中心に広がりを見せている「脱貧困」のデモなどがそう。これらは70年代にあったような大学・論壇を中心とする政治活動ではなく、「社会運動/文化活動(サブカルチャー)/思想」の3つが一体化している、今までにない草の根的な活動である。(社会学者・毛利嘉孝はそれを『ストリートの思想』と名付け、同名の著書(NHKブックス)において詳しく考察している。)
 ネグリらによると、この活動の中心になるのは17世紀ごろの農民や19世紀ごろの工場労働者に続いて20世紀後半から労働の中心となってきた「非物質的生産」に従事する労働者たちなのだそうだ。「非物質的」とは物理的なモノを生み出さないという意味であり、営業職や教育者、著述家に企業の中間管理職などあらゆる“サービス業”を含む。ひとことで言えば「中レベルから高レベルの教育を受け、知的労働に従事する賃金労働者」のこと。これってズバリ『千年紀の民』で反乱を起こした「中産階級」そのものではないだろうか。
 勝手な推測だが、良く似た印象の『コカイン・ナイト』/『スーパー・カンヌ』/『千年紀の民』が出版されたのはそれぞれ順に1996年/2000年/2003年のこと。イー・フー・トゥアンの『トポフィリア』やエドワード・レルフの『場所の現象学』に先だっていち早く“景観”と“精神”の関係に注目した”予言者”バラードの事だから、『<帝国>』に先だってグローバリゼーションが抱える問題を察知したのが『コカイン...』や『スーパー...』の2作品だったという可能性だって無いとは言えない。そして2001年8月に出版の英語版『<帝国>』をもしもバラードが読んだとしたら、それまで漠然としていた問題意識が「中産階級による反乱」という形に結晶化していったのが『千年紀の民』だったりして...。そんなことを考えたくなるほどに、この<帝国>や「マルチチュード」という概念は本書を味わう上で実にしっくりきた。

 で、話は変わってここからは、ファンタジーとしての『千年紀の民』について考えてみる。
 本書は他の後期作品群と同様にミステリ的な手法をとっている。ビジネスエリート向けの新興住宅街チェルシー・マリーナの住民が起こした騒乱を背景に、ヒースロー空港で起こった無差別爆弾テロの犯人を探す形で物語は進んでいく。マリーナの住民たちによって築かれたバリケードやひっくり返った車、あるいは放火された住宅などの描写は、まるで1871年のパリ・コンミューンや安田講堂の攻防などを連想させるが、しかしそこには学生運動が華やかりし頃のデモ隊に見られるような悲壮感は存在しない。住民の子供たちが辺りを駆け回り、ピクニックやカーニバル的な要素も多くみられるその様子は、まるで前述の「ストリートの思想」に見られる新たな社会活動を彷彿とさせる。一方でヒースロー空港やテート・モダンにおける無差別爆弾テロは、犠牲者たちに「無意味な死」をもたらすだけ。それはまるで我々が生きなければいけない現代の「無意味な生」の陰画のような気さえする。
 グールドが言った「無意味な宇宙にも意味がある。それを受け入れれば、あらゆるものが新たな意味を帯びる」という言葉は、主人公マーカムが探し求める“ある事”に対する答えを暗示しているのだが、それはピクニックやカーニバルの陽気さとは対極に位置し、両者の間には絶対に越えられない深くて大きな深淵が口をあけている。翻ってチェルシー・マリーナにおける反乱を見た場合、それは抑圧に対するカウンターの意味合いが強く、無差別テロに代表されるような、暴力と殺戮による他者の否定とは全く相いれないものだといえる。
 この全く正反対の両極を“中産階級”というキーワードで括って違和感を思わせない魔法の技。ここにバラードが巧妙に本書に仕掛けた“ファンタジー”が存在している気がする。バラード作品にはSF的なガジェットやアイデアはほとんど登場しないのに、なぜか作品にファンタジー性を感じる点があるとすれば、それは主人公の前に現れるグールドたち、すなわち神話性を帯びた“導き手”の存在があるゆえではないだろうか。そして「聖と穢」「生と死」といった両極端の価値が違和感なく溶け合う“奇跡”を作り出せる場があるとすれば、それは「神話の世界」に他ならない。本書『千年紀の民』がそんな「奇跡の場」としての“バラードランド”の到達点であるというのは、まさにその点にあると言えるのかも。

<追記>
 蛇足だが最後にもうひとつだけ補足を。
 バラード作品の主人公たちは皆一様に、“パラノイア”たちに導かれ神話的世界を遍歴する中で、死の淵をのぞき込むような危険を体験する。彼らのうちある者はそのまま“あちらの世界(笑)“へと旅立ってしまうし(=『沈んだ世界』『スーパー・カンヌ』など)、ある者はかけがえのないビジョンを得て無事に元の世界へと帰還してくる(=『結晶世界』『クラッシュ』『楽園への疾走』など)。
 このように“導き手”による地獄めぐりの体験を、(教養小説に倣って)主人公が経験しなければならないイニシエーション(通過儀礼)であると見做せば、前者はいわば“魔”に取り込まれてしまった犠牲者であり、後者は帰還してひとつ上の社会の一員になった者たちといえる。『千年紀の民』がどちらを描いた作品か、それはまだ読んでいない人のためにここでは明かさないでおくが、ラストまで気を抜けない極めて完成度が高い傑作であるとだけは断言しておこう。バラードのファンなら自信を持ってお薦めできる一冊。

<追記2>
 今回は書きたい事が沢山あり過ぎて困ってしまった。書き足りない事はまだまだ山ほどある。たとえば同じ“パラノイア”を題材にしているのに何故ディックとバラードではこれほどの違いがあるのか?とか、両者における“視点”の問題とか。更には、そもそもバラード作品における“神”の存在とは何なのか?とか。しかし今の自分の力量を考えるととてもじゃないが手に余る話題だし、仮にやったとしてもとても「お気らく」では済みそうもない。というわけで、とりあえず今回はこれくらいで。(笑)

2011年3月の読了本

 今月は中止になった出張が多くて、思ったより本の数が少なかった。

『パリからの紅茶の話』 戸塚真弓 中公文庫
  *フランス在住の著者によるエッセイ。フランス人はコーヒーをこよなく愛しているが
   紅茶にはなぜか冷たい。そんなフランスで紅茶好きな人物が巡らす紅茶考。
   例えば『失われた時を求めて』の「紅茶をマドレーヌに浸すシーン」を真似たがあまり
   美味しくなかったとか、オモシロ話がいっぱい。
『江戸の音』 田中優子 河出文庫
  *『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫)の続篇。江戸時代の楽器や謡など“音”について
   語っている。
『釈尊の生涯』 中村元 平凡社ライブラリー
  *後代による脚色をできるだけ排して、ゴータマ・ブッダのリアルな生涯をあぶり出そうと
   した労作。
『江戸怪異草子』 浅井了意/富士正晴 河出文庫
  *中国の怪奇小説の舞台を題材にとり、本邦に移した江戸時代のベストセラー『伽婢子
   (おとぎぼうこ)』と『狗張子(いぬはりこ)』。その中から幾つかを選んで現代語に
   直した読み物集。
『乙女しじみの味』 出久根達郎 新人物文庫
  *古本屋のオヤジにして直木賞作家の著者によるエッセイ集。淡々と語られる日常生活が
   しみじみ好い。
『「子供の目」からの発想』 河合隼雄 講談社+α文庫
  *ユング派心理学者の著者による「児童文学」のブックガイド。
『不均衡進化論』 古澤満 筑摩選書
  *書名にある「不均衡進化論」とは、長年議論の的になってきたダーウィニズムの問題点を
   解決できるであろうおそらく最良の説。それを研究者自らが一般向けに紹介した解説書。
   面白い!
『千年紀の民』 J・G・バラード 東京創元社
  *バラードの最新作にして無差別テロをテーマにした傑作。「バラードの到達点」という
   惹句もあながち大げさでは無くて、まるで『クラッシュ』以降のバラード作品の集大成の
   ような風格さえ漂わせる。未訳はあと1作しか残されていないので寂しいなあ。
『ストリートの思想』 毛利嘉孝 NHKブックス
  *最近なって見えてきた新しい“社会現象”について、その起源から解き明かした解説書。
『江戸怪談集(中)』 高田衛 岩波文庫
  *江戸時代の怪談話を精選した傑作集(全3冊)。
   本書には『曽呂利物語(そろりものがたり)』『片仮名本・因果物語』『伽婢子』の3作
   から厳選して収録。
『流れる星は生きている』 藤原てい 中公文庫
  *作家・新田次郎が誕生するきっかけとなった、新田の妻によるノンフィクション。満州で
   敗戦を迎えた著者が、たった一人で3人の幼い子供をつれて日本に辿りつくまでの、地獄
   のような道のりを描く。胸が痛む描写が延々と続くが、そんな中でも何としても生き抜こ
   うとする彼女の強い意志に心打たれる。読むのが辛い本ではあるのだけれど、読後には
   却って勇気づけられる。(これ程までに酷い時代を乗り越えてこれたのだから、今回の
   震災もきっと…という気がして。)
『暴いておやりよドルバッキー』 大槻ケンヂ 角川文庫
  *相変わらずサクサク読める気楽なエッセイ。いつもよりは脱力度が控えめだが、さすがの
   オーケンも不惑を迎えて多少は落ち着いてきたかな? 筋肉少女帯の再結成のくだりは
   ちょっとばかり感動ものだった。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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