『不均衡進化論』 古澤満 筑摩選書

 不勉強につき本屋で見かけるまでは著者の名前も本書の存在も全く知らなかった。しかし筑摩選書の初刊行ラインナップで本書を見つけ内容を読んだ瞬間に、絶対に面白いだろうと確信をもった。(そしてその勘は当たった。)
 いわゆる“理系”の話も多少は出てくるが、それほど難しい記述ではないので高校生程度の知識があれば充分に理解は可能。以下に順を追って説明していこう。

 実は進化論においては、極めて大きな問題が解決できないままになっていて、それを解決しようと多くの学説が乱立する状態が未だに続いている。いったい全体、それ程まで大きな問題とは何なのか? それを理解するためには、まずダーウィン自身の学説(=「ダーウィニズム」)からおさらいしておく必要があるだろう。
 ダーウィンは『種の起源』において、「突然変異」と「自然淘汰」が生物進化のエンジンであるとした。(ここで言う「突然変異」とは、「無作為かつランダムに変異が起きる」という意味。)言い換えると次のような感じか。
 「生物はデタラメに変異を繰り返し、たまたま環境変化に適したモノたちが他を圧倒して繁栄し、数十億年かけて現在見られるような多様性が実現した。」―― これがすなわちダーウィニズムの骨子なのだが、まさにこの点に大きな問題がひとつ隠れている。
 地球上のあらゆる生物は、生命の維持と種の永続のために必要なすべての情報を、「DNA」という“ゆりかご”の中に大切に保管している。DNAは「アデニン(A)」「チミン(T)」「グアニン(G)」「シトニン(C)」という4つの塩基により作られる物質であって、その情報に基づき22種のアミノ酸が合成され、さらにそのアミノ酸により作られるタンパク質でもって、この世の全ての生き物が構成されている。
 DNAは同じく細胞内にあるRNAなどに比べれば構造的にとても安定した物質なのだが、それでも放射線などの外的要因や細胞分裂にともなう複製時のエラーなどで、ある確率で変異してしまう場合がある。生殖細胞にそれらの変異が固定されると子孫への「遺伝」になる訳だが、遺伝子の変異は生物に全く影響を与えない「中立」の変異か、もしくは生存には「有害」影響を与える変異になることが多いという。生存競争に有利に働く変異なんてそう簡単に起きるものではないのだ。
 その結果、もしも変異率が大きい場合には生存率が下がってしまい、充分な個体数が確保できず種が絶滅してしまう。かといって変異率が小さくても大した進化は期待できないため、もしも隕石の落下や氷河期など環境の劇的な変化に遭遇した場合、やっぱり絶滅するしかない。
 致命的な変異を蓄積しない程度しか変化せず、且つ環境の突然の変化に追従できる程度には変異するという絶妙なバランスが、過去の数十億年に亘ってずっと保たれた、などという幸運は万にひとつも有り得ないのではないか? ――これがダーウィニズムに対して突きつけられている“異議”の申し立て。
 ダーウィンの大まかなアイデアは間違っていないとしても、「突然変異」などという他力本願ではなくて、生物がもっと自律的に変異率をコントロールできる仕組みがあるのではないか?というのが、すなわち反対派の人々が考えていること。
 進化論がもつこの“気持ち悪さ”を何とか解消しようと、昔から多くの人が色々な説を提案してきた。例えばラマルクの「用不用説」、アイマーの「定向進化説」、今西錦司の「今西進化論」などが有名なところだが、どれも説得力がなくて、ダーウィンの学説を否定できるレベルには到底達していない。結果、現在でも基本的にはダーウィンの説の優位性は揺るがず、ただ「集団遺伝学」「分子進化の中立説」といった“補正”が行われている程度に過ぎない。つまり現在でも「生物進化は途切れなくゆっくりと進んでいく」という根本のアイデアについては、ダーウィンが初めて思いついたものから何ら変わってはいないのだ。(ある意味、ダーウィンがそれだけ偉かったと言えるのではあるが。)
 しかしそうなると少し困った事が起きてしまう。ダーウィンの時代では見つかっていなかった事象、すなわち「カンブリア紀における生物の爆発的な多様性の発現」や「哺乳類および鳥類における変異率が他の生物たちに比べて異様に大きいこと」など、ある時期だけ突然に「中立」でも「有害」でもない変異が多発する現象については、うまく説明ができなくなってしまう。これこそが、現在でも様々な学説が群雄割拠している根本原因というわけだ。

 以上、前置きが長くなってしまった。本書は進化論がもつこの難問に対して、(おそらく)唯一の正しい答えを提示できる学説である「不均衡進化」について、20数年前にそのアイデアを考え付いた本人が自ら筆をとった解説書なのだ。これが面白くないわけがない!(笑)
 本書では「不均衡進化」という画期的なアイデアのポイントについて、一般読者向けに分かりやすく説明されている。自然科学が好きな人なら大変面白いと感じるに違いないし、できれば実際に読んでもらった方が良いのだが、とりあえずその要諦だけでも説明しておこう。

■アイデアのポイント1
 “親”のDNAが複製されて“子”のDNAが2つ作られる過程で、元の遺伝情報がそのまま
 の形で保存される側と、遺伝情報に変異が起きる側の2種類になる。(今まではどちら側にも
 全く同じ遺伝情報が伝えられると考えられていた。)
■アイデアのポイント2
 変異が起きる側のDNAは、酵素の働きを制御することで変異率が変化するため、生物が自分
 で変異率を変える事が可能になる。

 ―― この2つの作用によって「元本(もとの遺伝子)」をもった個体を残すことが出来るとともに、もう片方では大きな変異を実験することが可能になる。すなわち安全パイを残したままで環境変化への適合も試すことが出来るのだ。(うーん、やはり端折って説明しても分かりにくいなあ。出来れば本書を直接読んでみて欲しいが...。)
 初めて読んだ時、思わず「なるほど!」と膝を打ちたくなったほど、このアイデアはシンプルだがとても強力なものだと思う。もう少しきちんと説明できるよう頑張ってみよう。

 先述のように問題は「突然変異」というダーウィン進化論の一番おおもとの部分にこそある。“他力本願の変異”(=変異率が一定またはランダムに変化すること)では、周囲環境が大きく変化する地球でこれほど多くの生物が生き延びてこられたはずがないということだ。
 環境変化をうまく乗り切るためには、
  1)今の形態が環境に適合してる間は低い変異率で推移し(=変化しない)
  2)環境が激変した場合は高い変異率で推移する(=様々な変種が増える)
というように、状況によってうまく変異率が変わることが望ましい。そのためには生物側に変異率を自由に変更出来る仕組みがないとおかしいが、今まではそれが見つかっていなかった。そしてその仕組みはDNAの複製メカニズムの中にある不均衡にあるというのが「不均衡進化説」の概略。(ここからは少し専門的な話になるが、もう少しお付き合い頂きたい。)
 生物の遺伝情報はすべてDNAの中に蓄えられていて、細胞が分裂して増えるときには二重らせんがいったんほどけて2本のヒモに分かれる。ほどけたDNAのヒモは「鋳型」のような役割を果たし、複製酵素によってその「鋳型」の上でペアになる塩基が組み立てられることで、前と寸分たがわぬDNAが2組に増える。―― とまあ、このあたりは高校の授業でも習う有名な話。
 二重らせんが複製のために解けていくとき、その向きには異なる2つが考えられる。ひとつはアルファベットの「Y」、もしくはジッパーが開いていくような形でDNAの一方の端から解ける方法で、もうひとつは同じくアルファベットの「X」のように、両方の端から中央に向かって同時に解けていくという考え方。(ちなみに後者は「箸の片方をひっくり返してそろえたような」という表現で喩えられている。)
 「Y」か「X」か、はたしてどちらが正しいのか? その答えが出たのは1967年のことであり、発見者は名古屋大学の岡崎令治氏らであったそうな。結論を言ってしまうと、「X」が正解。DNAは両端から同時に中央に向かって解けていくのだそうだ。しかもDNAが完全に解け切ってから酵素によるDNA複製のステップが始まるのではなく、DNAが解けていくそばからどんどん複製が進むのだという。「解け」と「複製」は同時進行なのだ。(ちなみにこれも先述の岡崎氏らによる発見とのこと。このあたりの話はとても重要な発見だと思うのだが、如何せん全く知らなかった。)
 この「“X”型であって」且つ「解けていくそばから複製される」という2つの点が「不均衡進化説」においても大きなポイントになっている。DNAの「鎖」の再合成をおこなう酵素には、実は働き方に方向性がある。そのため、DNAの一方の側(=先程の喩えでいえば“まともな向きの箸”)からの複製はスムーズに反応が進むが、それと反対の側(=“反対向きの箸”)からの複製は行えない。そこで止むを得ず細切れに「短い複製(*)」を少しずつ作り、それらを後で繋いでいく方式をとって反応が進む。当然そんな事をしていれば複製のつなぎ目でエラーが起こりやすくなるためDNA変異率は増大する。(著者はスムーズに反応が進む側を「ロールスロイスが走る舗装道路」、もう片側を「何度もトラクターが前進・後進を繰り返すガタガタ道」に喩えているが、言い得て妙。)

   *…この短い複製の鎖(不連続鎖)の発見者も先程の岡崎氏ら。そこで発見者の名前を
     とって「岡崎フラグメント」と名付けられているそう。

 スムーズな複製が為されたDNA(=連続鎖)では正確に元の遺伝子情報がトレースされるため、その子孫は親の特性を忠実に受け継いだものになる。一方もう片側の、変異が多いDNA(=不連続鎖)を受け継いだ子孫では様々な変異種が発生し、図らずも「進化の冒険」が行われることになる。すなわちこれが著者の言う「元本保証された多様性」というわけだ。

 しかしこれだけではダーウィニズムの不備を解決するのには充分ではない。生物が外部環境の変化に応じて臨機応変に進化するためには、実はもうひとつ重要なポイントがあるのだ。それは「生物がDNA変異率をどのようにして自由に変えているのか?」ということ。
 上述のDNA複製はあらゆる生物で日常的に行われているが、そのままでは不連続鎖でのエラー発生が多過ぎて個体生存率が低くなり、やがて種が滅びてしまう。しかし実際には(たまに癌化したり遺伝障碍が起こったりはするが)殆どの場合きちんと複製が出来ている。
 それは何故かというと、実は「DNAポリメラーゼⅢ」と呼ばれる酵素複合体が、DNA複製のときに壊れてしまうDNAをその都度修復しているからなのだそうだ。(正確にはその中の「校正酵素ε(イプシロン)」というサブユニット。)ということは、この校正酵素の働きを何らかの方法で押さえる事さえ出来れば、それに応じてDNA変異率も変化するということに他ならない。それは生物が自らの力でDNAの変異率を自由に変化させることを意味する。さらに「校正を行うレベル」(=変異の閾値)をコントロールすることがもし出来るとすれば、元の遺伝子の型(元型)をそのまま受け継いだ子孫はもとより、極めて多くの変異をもった子孫まで、様々なレベルの変異を持つバリエーションを自由に作り出すことさえ可能になる。
 これらのメカニズムを上手く使うことにより、例えば環境が安定している間は変異の閾値を下げておくことで、殆ど進化せず同じ形態を何世代にも亘って保持し続ける事が出来る。逆に環境が変化して滅亡のリスクが増えた場合、変異の閾値を上げる事で一気に様々なレベルに変異した数多くの“斥候”を出すことが出来る。どんな形質を獲得するか(≒どう変化するか)はランダムなので予め選ぶことは出来ないが、どのくらいの頻度・程度で変化するか(=変異率)については、生物自身で選ぶことが可能なのだ。(なんて画期的なアイデアだろう。)
 もちろん元の遺伝子をもつ子孫は残してあるので、変異が環境に合わなくて新しい種が(残念ながら)淘汰されてしまったとしても、もう一度最初からやり直すことが可能になる。
 以上が「不均衡進化論」のアイデアの核心だが、なんて上手くできた仕組みなんだろう。仮にこれが正しいとするなら(もちろん正しいとは思うが/笑)、生物は「突然変異」などという“神の気まぐれなサイコロ“に翻弄される道具ではなく、自らの力で進化を推し進めてきたのだと言うこと。なかなかに感動的な結論ではないだろうか。

 最後になるが、名にしおう「バージェス頁岩の古代化石群」(= “カンブリア大爆発”)の研究者であるサイモン・コンウェイ・モリス(ケンブリッジ大教授 古生物学)が、本書の元になった英語版の原著に寄せた推薦文を紹介して終わりとしよう。
 『DNAの二重らせんは今日の生物学のアイコン(聖像)と言えるが、その秘密のすべてが明らかになったであろうか? 本書に示されたアイデアは驚くほどシンプルだが、おそらく核心をついている。』
 生物学や進化論に興味があるひとなら必読の本。

<追記>
 本書によればDNA変異率の変遷を調べたところ、地球上の生物において変異率がもっとも高いのは哺乳類と鳥類であるらしい。とすれば、すなわちこの2つの生物こそが地球上における「生物進化の最前線」であって、まだ“進化の袋小路”には入り込んではいないということを意味する。
 人間の「進化の最前線」はおそらく「脳」の部分だろうから、(変化するのが脳の容量なのか質なのかは想像できないが)これからまだ脳の変異が続いたとして、その時何が起こるだろうか? 案外「今の若い者は」というセリフが数千年前から繰り返されているというのも、思考が世代により常に変化し続けているからだったりして。(笑)
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『「子供の目」からの発想』 河合隼雄 講談社+α文庫

 著者については今さら詳しい説明の必要もないと思う。ユング心理学の全貌を日本に初めて紹介した人で、臨床心理療法士/心理学者/教育者という3つの顔をもつ。著書は100冊を軽く超えている。本書はそんな河合が児童文学のもつ素晴らしい可能性について、心理学の観点からまとめた本。なお本書における「児童文学」とは「子どものために書かれた本」ではなく、「子どもの視点から書かれた本」のことであって、大人や子供には関係なく“読めば誰でもためになる本”という意味で使われている。
 では「子どもの視点」で見えてくるモノとは何のことだろうか? 乱暴な言い方をすれば、直截に書くとこぼれ落ちてしまう「デリケート」で「儚い」けど「大事」なモノのこと。松下正剛が「フラジャイル」という言葉で表現しているものに近いかも。それを「うさぎの穴(≒おとぎ話的な世界)」という別世界を用いて描こうとするのが「児童文学」なのだ。したがって必ずしも口当たりの良い本ばかりではなく、死や破滅と隣り合わせの非常に危険なテーマを扱っていることも多い。(自分の好きな本を例にとれば、天沢退二郎『光車よ、まわれ!』なんかがそうかな。)
 本書で取り上げられている作品は数多いが、自分が読んだことがあったのはル=グィン『ゲド戦記』やエンデ『はてしない物語』などの有名なファンタジーぐらい。しかし河合による紹介を読んでいると、挙げられた本をどれもみな読んでみたくなってくる。児童文学は嵌まると奥が深いらしいのでこれ以上手を広げるのも何だし、うっかりエライ本を読んでしまったがどうしたものか。いいブックガイドにあたると愉しいが後が困る。(笑)

『釈尊の生涯』 中村元 平凡社ライブラリー

 哲学者にしてインド・仏教思想の研究家である著者が、後世による脚色を極力省くことで、仏教の開祖・釈尊の生涯の「事実」を明らかにしようとした本。(*) 数多くの「仏伝」「釈尊伝」にみられる異同や矛盾を系統的に分析・比較することで、(神話や伝説ではない)等身大のゴータマ・ブッダの姿を描き出そうと試みている。 本書を読むと、いかに自分が釈尊について基本的な事すら知らなかったのかという事が身にしみてわかる。(しかし逆に考えれば「新しいことを知る快感」があるということでも。)

   *…少し補足をしておくと、著者は歴史学者ではないので正式な学術調査を行った結果
     ではない。文献比較や思想・用語の分析、そしてかつて現地を訪れた時の印象など
     から、「蓋然性の高そうな内容」をピックアップしたもの。つまりあくまでも著者に
     よる推測なわけだが、読む限りでは結構いいところを突いた内容と思う。

 そもそも仏教の開祖に対する呼び名からしてそう。ほとんど知らない事ばかりだった。
 今までは漠然と「ゴータマ・シッダッタ(シッダールタ)」というのが正式な名前なのだろう…くらいに思っていたのだがこれが大間違い。「シッダッタ(シッダールタ)」というのは本来「目的を達成する」という意味の現地語であって、古い仏教聖典には出てこない呼び名なのだとか。すなわち後代の人により名づけられた通称である疑いも捨て切れないというわけ。(「釈尊」の生涯を語るにあたって、このようにまず呼び名から入るところからしても、探求にかける著者の徹底した姿勢が分かると言うもの。)
 続けよう。「ブッダ」という言葉は「真理を悟った人」という意味。この音に同じ発音の「仏」「陀」という文字をあてて音写したのが「仏陀」という言葉。すなわち「ブッダ」とは仏教における“理想的な存在”を表す普通名詞であって、仏教の開祖を指し示す固有名詞ではない。本人を指す時には、彼が属していた一族の姓をとって「ゴータマ・ブッダ」と呼ぶべきなのだ。まったく知らなかった。
 また世の中には「シャカ(釈迦)」という呼び方もあるが、これも彼を世に送り出した種族自身の名であり、本人の名前ではない。開祖を示す固有名詞としては、釈迦族出身の聖者という意味で「釈尊」と呼ぶのが適当であろうとのこと。ちなみに「シャカムニ(釈迦牟尼)」という呼び名は「釈迦一族のもっともすぐれた牛」という意味なのだそうだ。以上、まるで豆知識のオンパレード。(笑)
 本書を読むことで今まで知らないことを学ぶ快感はまだこれだけではない。釈尊の人生はまるで自分の知らないことだらけだった。ここからは開祖「釈尊」が生まれてから亡くなるまでの生涯を、本書に倣ってざっと羅列していこう。

 釈尊は古代インドの大国・コーサラ国に従属するルンビニー地方(インドとネパールの国境付近)の小さな国に生まれた。その国の首都(といっても大きな町程度?)はカピラヴァットゥといい、絶対王政ではなく共和制だったようだ。父親はその国の政治を司る王族(高官)のひとりだったので、釈尊の身分はクシャトリア。父の名はスッドーダナ(「浄い米飯」という意味なので通常は“浄飯王”と呼ぶ)で母はマーヤー(摩耶夫人)。生年は諸説あるがおおよそ紀元前500年前後だろうと言われており入滅はその80年後。つまり80歳というわけで、当時としては長生きだった訳だ。
 釈尊の誕生後、間もなく生母マーヤーは息を引き取り、彼女の妹が父親の後妻に入って彼を扶養した。(釈尊が長じるにつれて人の生死について考えることになった背景には、それなりに複雑な家庭事情があったのかも知れない ――と、これは著者の説。)彼はやがて自らの「老いに対する嫌悪感」と、「やがて自分も老いて行くことへの無常観」の狭間で、大いに悩み苦しむことになる。有名な「四門出遊」の話は明らかに後からの創作なわけだが、似たような体験はもしかしたら本当に有ったのかも知れない。
 成人になった彼は結婚して後継ぎ(ラーフラ)までもうけたが、29歳になった年に妻子を捨てて出家の道を選んだ。(ちなみに彼の生まれた国はその後、大国の侵略を受けて滅ぶことになる。このことにより、後代になって釈尊は自分の国の偉大な王になる道ではなく、人類の偉大な王になる道を選んだと言われるようになったとか。)
 出家したのち彼はまず当時の強国・マガダへと向かい、その地に住んでいたアーラーラ・カーラーマ仙人やウッダカ仙人という聖者を訪ねた。彼らは当時多くの弟子をもっているとても有名な聖者だったようだ。(古代インドの宗教を詳しく知っている訳ではないが、おそらくヨーガや苦行を繰り返す類のものか。)しかし彼らのもとで長年に渡り修行を行ってはみたが、いずれの修行も彼を苦しみから救いだすものでは無かった。どちらの聖者のもとでも、あっという間に彼らと同じレベルの洞察を得て「免許皆伝」をもらい、“師範代”のような立場になってしまったらしいから、さすが釈尊は優秀だったのだろう。しかしその程度の思索では納得がいかない彼はやがて「苦行に意味は無い」と感じてすべての修行を放棄して(きちんと健康的な生活を送りつつ/笑)ただ一人で孤独な瞑想を続けていく。そんな彼に悟りが訪れたのは、出家してから6~7年後の事だったという。(29歳で出家して6~7年といえば35~36歳だから意外と若い。)なお釈尊が悟りを開いたとされる菩提樹はインドでは古くから聖なる樹とされてきたものであり、その下で悟りを開いたというのはどうやら単なる民間伝承らしいとのこと。
 悟りを開いた釈尊は、昔の仲間であった5人の修行者に会うためにベナレス(**)という地方へと向かった。ちなみに当時のベナレスは宗教/思想のメッカのようなところであって、ここで自分の思想が認められれば「ホンモノ」というお墨付きをもらったようなもの。過去の5人の仲間というのは、彼が苦行を捨てた時に袂を分かった者たちであるわけだが、釈尊に再会した彼らはその教えに感服して即刻釈尊に帰依したという。これで自分の思想に自信を深めた釈尊は多くの人々を「生老病死」という苦しみから救おうと本格的な伝道を開始し、それからの45年あまりを過ごすことになる。

  **…今でいうインドとネパールの国境付近。

 とまあ、細かなところは省いたが以上が大まかな釈尊の生涯。
 何となく聞いたことがあるエピソードもあるにはあるのだが、イエスの生涯ほどには記憶に残っていない。日本人なら絶対どこかで聞いたことがありそうなものだが何故だろう?としばし考えた。そして思い当ったのは、仏教が中国経由で日本へと伝えられたため、馴染みのある名前は全て「漢字で表現されたもの」だからということだった。インドの名前そのままをカタカナで書かれてもピンとこなくて、中国訛りの漢訳でないとしっくりこないのだ。
 例を挙げよう。釈尊が最初に赴いた場所はベナレスにある「鹿の園」と呼ばれる場所。これすなわち「鹿野苑」のことだ。また“釈尊の十大弟子”など初期に弟子になった有名な人物たちについてもそう。ヤサ(***)やサーリプッタ、モッガラーナなどと書かれてもさっぱりピンとこないが、「舎利弗」(=サーリプッタ)や「大目連」(=モッガラーナ)と書かれれば確かに目にした事がある。
 日本人にはなじみが深い「祇園精舎」だってそうだ。スダッタ(須達多)という人物が釈尊に寄進したという園林の名は、元の地主の名をとって「ジュータ(の園林)」と呼ばれたそうだが、これを漢訳(音訳)すると「祇陀(の園)」になる。これすなわち「祇園(ぎおん!)」のことだ。更にはそこに建っていたとされる精舎(僧院)こそが、『平家物語』の冒頭であまりにも有名な「祇園精舎」と呼ばれるもの。ただし当時は僧院という施設は歴史的にまだ出現していなかったそうなので、これは明らかに後世の創作らしい。(苦笑)
 もしも仏教を釈尊の時代まで辿り根源を突き詰めようとするならば、馴染み深い「漢字」の世界を離れて遠くて馴染みの薄い古代インドへと潜っていかなくてはならない。マハーバーラタやラーマーヤナに出てくるような不思議な言葉を覚えなくてはならない。仏教に対する自分の知識がキリスト教に対するそれより遥かに浅いのは、これが理由なのだという気がする。

 ***…余談だが彼が釈尊の弟子になったきっかけが笑える。大金持ちであった彼は多くの
     愛人をもっていたが、ある日夜中にふと目を覚ました折、添い寝していた愛人たちの
     寝姿を思わず見てしまった。その時の彼女らの姿があまりに“浅ましかった”ために
     無常を感じ、「ああ厄なるかな、ああ厄なるかな」と出家してしまったという。
     なんとまあ失礼な!(笑) しかしいったい全体どんな寝相をしていたというのだ
     ろうか?

 最後になるが釈尊の思想についても少し触れておきたい。
 本書は「生涯」を描くのが主たる目的なので、彼の思想については多くは語られていない。詳しくは同じ著者の『原始仏教』などを読めば良いのだろうが、もちろん読んでないので(^_^;)、一応ここに書かれていることから推測する。釈尊が説いたのは特定の宗教思想ではなく、どんな思想家や宗教家であっても規範とすべき「真実の道」というものであったようだ。それは何かというと「自分の考えこそが正しくて、相手は間違っている(もしくは考えが足りない)」と主張する立場のものは、その中身がどんなものであっても基本的に駄目だということ。彼の思想は後代の経典作者たちによって「仏教」という宗教にされてしまったが、あくまでも本人が目指したのはそうでは無かった。誤解を恐れずに言えば、あらゆる物事に意義を認める、いわゆる「山川草木悉皆成仏」という事だったのではないだろうか。本書においても釈尊が自ら「教団の指導者」であることを否定するエピソードや、彼と同じ境地(悟り)に至ったものを等しく「仏」と呼んだというエピソードが語られていて、何だか釈尊に親近感が湧いた。
 ここは大事な点なのでくどい様だがもういちど繰り返しておきたい。釈尊は人々との対話を通じて自らの境地を広く伝えようとしたのであり、一方的に自分の考えを押し付けようとしたのではなかった。これはすなわち「世界の多様性」を認めることであり、言葉こそ違うが竹田青嗣が『人間的自由の条件』で述べた「自由の相互承認」というものに他ならないと思う。まさにいつの世であっても「真実の道」はひとつ、ということか。

<追記>
 色んな本を読めば読むほど、思わぬところで結びつきが生まれて新たな発見がある。このようなネットワークにワクワクする醍醐味があるからこそ、自分は本を読むことを止められないのだろう。

『江戸怪異草子』 浅井了意/富士正晴 河出文庫

 本書は江戸時代に浅井了意が中国の白話から不思議な話や怪談を翻案した短篇集『伽婢子(おとぎぼうこ)』と『狗張子(いぬはりこ)』を、作家の富士正晴が現代語に訳したもの。

 この手の本を読むといつも思うのだが、オチも詳しい説明もない摩訶不思議な物語ばかり。今ではちょっと読めない独特の雰囲気が堪らなく好きだ。『伽婢子』では「狐の妖怪」「牡丹灯籠」「幽霊夫に逢いて語る」も面白いが、とくに好いのは「蜘蛛の鏡」「魚膾の怪」「山中の鬼魅」など。理由もなくただ恐ろしい出来事が起こるだけというのがすごい。『狗張子』では「伊原新三郎 蛇酒を飲む」あたりが好かった。
 解説では『江戸の想像力』の著者・田中優子が『伽婢子』の成り立ちや、その後の近世文学に与えた影響について語っていて、これも大変に面白かった。高い金を出して東洋文庫を買う前に、大雑把に内容を知るには手ごろな文庫だといえる。
 残念だったのは全訳でなく抄訳という事と、訳者・富士正晴によるカッコ書きが作中に頻繁に挿入される事。読者に馴染みがない(と富士が適宜判断した)言葉に注釈をつけているのと、本人の個人的な感想が書いてあるのがあり、いずれも話の流れを乱しているのでその部分は読みとばすのが正解。特に後者(個人的な感想)については、分かった風なひとりよがりのコメントが多く、読んでいて不愉快な箇所も散見される。(*)
 自分はなるべく本のいいところを見つけて褒めることにしているが、訳者のこの姿勢だけはちょっと戴けないなあ。あまりに残念だったので敢えてここに触れておく次第。これから本書を読もうという方は気を付けて頂きたい。

   *…少なくとも自分が引き受けた仕事に対して、物語そのものを「バカバカしい」と吐き
     捨てるようなコメントは書くべきで無いと思うよ。こちらは愉しんで読んでいるのに
     突然冷や水を掛けられたようで気分が悪い。原著に対する愛着がないのか、それとも
     思い入れなどないイヤイヤながらのやらされ仕事だったのかね。

<追記>
 是非とも次は原著で読んでみたいと思い、検索してみたら岩波文庫で『江戸怪談集』というのが出ていることを知った。さすがは岩波。(笑) 古文なのでちょっと読みにくいかもしれないが、他の怪談作品も収録されているようだし、そのうちじっくり腰を据えて読んでやろう。

『第二の銃声』 アントニイ・バークリー 創元推理文庫

 今この時期にアップすべきか正直かなり迷ったのだが、色々と思うところもあり、「敢えて」いつもの通りに更新することに決めた。以下の原稿自体は前に書きあげていたものだが、これからも出来うる限り今までと同じ調子でやっていこうと思う。

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 『毒入りチョコレート事件』といえば往年の名作ミステリとして有名だが、正直言ってバークリーはその一作しか知らなかった。当然、読んでたのもそれだけ。1994年に国書刊行会が「世界探偵小説全集」と銘打って埋もれていた名作ミステリを世に出した時も、(なんせ値段が高いこともあって)食指が動かなかった。しかし東京創元社が今回文庫にしたのを良い機会に、何気なく手にとったところ一読驚愕、おみそれしました。(笑)
 とても良く造り込まれた本格ミステリで、作風がとても自分好みだった。ストーリーをくどくど紹介するつもりはないが、裏表紙の紹介を抜粋しておくと「高名な探偵作家ヒルヤードの邸で、ゲストを招いて行われた推理劇。だが、被害者役を演じるスコット=デイヴィスは、二発の銃声ののち本物の死体となって発見された。」というお話。

 主要な登場人物の造形はステレオタイプ(典型的)なものばかりといってもいいだろう。たとえばこんな感じだ。(なお本書の語り手でもあるピンカートン以外の人物については、あくまでも彼から見た印象。)
 ■シリル・ピンカートン:
  主人公であり本書の語り手。イギリス紳士然としているが度が過ぎて、周りから失笑を買っ
  ていることにも気付かないにぶい独身男。ピンキーという嬉しくない綽名を付けられる。
 ■エリック・スコット=デイヴィス:
  名うてのプレイボーイで、ピンカートンとは対照的。俗世間の極めて低レベルな話題にしか
  興味がなく、自分と違う志向の持ち主を徹底的に馬鹿にする。恨みをかって本当に殺されて
  しまったが誰も同情せず。
 ■ジョン・ヒルヤード:
  著名なミステリ作家だが朴訥として「ちょっと鈍いんじゃないか?」とさえ思えるほど寡黙
  な人物。地元では作家ではなく農園主として知られ、本人も農場経営などの(つまらない)
  話題しかしない。
 ■アーモレル・スコット=デイヴィス:
  エリックの従妹だが性格は似ていない。男装してタバコをくわえていつも斜に構え、男勝り
  で気難しい気どり屋。
 ■エルザ・ヴェルティー:
  世間知らずだがとても気立てが良いお嬢様。エリックの毒牙にかかるのを周りの皆が心配
  している。
 ■シルヴィア・ド・ラヴェル:
  元女優。謎に満ちた性格の持ち主で結構シニカル。何を考えているかわからない。
 ■ポール・ド・ラヴェル:
  シルヴィアにぞっこんで、裏切られている事にも(本人だけ)気付いてない馬鹿な亭主。

 最初のあたりは、1930年の作品なので人物の造り込みが甘いのも仕方ないかと思いながら、そんなに期待せずに読み進んだ。実を言うと自分はピンカートンのようなキャラが主人公の話は苦手なのだ。(喩えるならイアン・サンソム『蔵書まるごと消失事件』の主人公・イスラエルとか、昔のテレビ番組『宇宙家族ロビンソン』に出てくるドクター・スミスみたいなタイプ…といってもよけい分からないか。/笑)
 しかしこの人物造形は全てバークリーによる計算尽くだったことが、後になって徐々に判明してくる。たしかにステレオタイプのキャラが満載だが、読んでいく途中で思わぬ人物が新しい貌を見せてくれて、次々と印象が変わっていく。本当にステレオタイプのキャラとそうでないのが入り混じって、ピンカートン(途中でピンキーという綽名を頂戴する)の恋の行方とともに物語は最後まで予断を許さない。例えば230ページでピンカートンとエルザの間に会話が交わされるこんなシーンがある。
「ありがとう」彼女は小声で言った。「これでずいぶん――ずいぶん楽になったわ」
 後から読み返すと、こんな何気ないシーンにも作者の神経が行き届いている気がする。

 2月に出たばかりだがさっそく重版がかかったようで売れ行きも順調とのこと。好い本がちゃんと評価されているのを聞くと素直に嬉しい。
 本書が気に入ったので、慌てて同じ作者の『ジャンピング・ジェニイ』を買ってきて「次に読む本リスト」の末席に加えておいた。植草甚一を気取るわけではないが、何も用事がない日曜日や雨降りの日には、もう少し“ミステリーでも勉強しよう”。(笑)

東北地方太平洋沖地震2

 3月11日に発生した地震や津波による被害が徐々に明らかになるにつれ、あまりの酷さに心が痛む。宮城や岩手を始めとする東北地域は勿論、茨城や長野、新潟など非常に広範囲に亘る被害の多さには、茫然としてしまう。遠く離れたところに居る自分が出来る事はとても限られているが、受け入れ側の準備が整い次第、募金や献血など出来ることからやっていきたい。被災地の方々が一日も早く「当たり前の生活」をおくれますように、そして現地で頑張っている人たちやそれを支えている人たちも、一日も早く「普段の生活」に戻れますように、心から願っております。

 ツイッターによる必要な情報のリツイート/転送(=デマや混乱を避けるために『公式リツイート』)を使用)を行うなど、自分に出来る事を少しだけやってみた。その過程で様々なツイートを眺めていると、こんなに酷くて悲しい状況ではあるが、いやだからこそ、明るい気持ちを持とうとする人たちや素晴らしい活動をしている人たちの様子に、心洗われることも多かった。
 「日本」という言葉には「国家」とか「文化」とか「民族」とか色々な意味が込められて、使われ方は人それぞれ。自分は「国体」とか「国家」とかいう“想像の共同体”としての「日本」は嫌いなのだが、「郷土」とか「文化」とか「先祖の歴史」とかいう意味での「日本」には誇りを持っている。(*)
 そして人々を抑圧するシステムとしての「国家」ではなく、この壊滅的な危機を乗り越えるために人々の“傘”になる限りにおいて、「日本」という仕組みを支持していきたい。

   *…単に「日本国籍」をもっているかどうかではなく、在日外国人の人も含め”地域”
     “共同体”としての「(日本という)場所」とか「(日本という)在り方」という
     こと。”ローカリティ“と言い換えてもいい。逆に「日本国籍」を持っていようが、
     人として恥ずかしい主張や他者の否定を行う人間を自分は軽蔑する。

 ツイッターで紹介され、そして海外からも称賛されたのはこのような“ローカリティ”としての「日本」だった。また『pray for Japan』のキーフレーズの元に世界から送られたメッセージとか、多くの人の善意に対する「日本もまだまだ捨てたもんじゃないな」とかいうつぶやきを見ていると、不覚にも涙が溢れてきそうになった。
 まるで戦争の後のような瓦礫の山をテレビや写真でみるたび、自然の猛威の前に人間はとても無力だと感じる。しかし助けあって前に進んでいこうとする姿をみるたび、人間の持つ計り知れない強さも感じることができる。せめてもの救いは、この惨状が戦争のように人間自身によって引き起こされたものでなかったことだろうか。(いや、被災地の方に対しては慰めにもならないが…。)

 これからまだ越えなければいけない山はいくつもあるだろうが、同じ時代にこの同じ場所に生まれたものとして、これからも「日本」を誇りに思えるように、微力ながら何か出来ることがあれば良いと思う。

<追記>
 今の自分に出来る事は、とりあえず淡々と粛々と日常生活を送ることだろう。かといっていつものように本を読もうとした時、あまりヘビーなものは読めそうもない。しかしあまりに能天気なものも空しくなってくるわけで、こんなときは何か前向きになれる物が良い気がする。(歌でいえば坂本九の『上を向いて歩こう』のような。)
 そう思って河合隼雄の著作(『「子どもの目」からの発想』)を読んだら、結構心に響いて良かった。藤原てい『流れる星は生きている』あたりも、パラ見していたら結構元気が出てきそうな気がする。以上、もしもどなたかの参考にでもなれば。

東北地方太平洋沖地震

 昨日、東北・関東を襲った大地震および大津波により亡くなられた方のご冥福ならびに、被害に遭われた方へのお見舞いを申し上げます。一日も早い復興をお祈り致しております。

 会社から昨日9名ほど東京に出張していたが、自分の部下も1名、帰れずにそのまま夜を明かした模様。昨夜は家人を迎えに行って21:30頃に帰宅したが、ツイッターをみて緊急ライフラインとしてのネットの重要さを再認識。無用な書きこみ等は控えていた。
 普段、娯楽番組としてのテレビは無くても別段構わないと考えているが、このような場合の情報インフラとしては極めて重要で、昨日からフル活用している。普段の利用率とは別の次元で、テレビ&ラジオを「保険」として維持・確保するということは(電話やネットと同じく)必要な事と思われた。

<その後の追記>
 つい先ほどAEONに買い物に行ったところ、義援金の募金箱がさっそく準備されていた。(サービスカウンターなどに設置。)少額ではあるが募金をしてきた。遠く離れた場所にいる自分たちが今すべきなのは、自分に出来る最善のことを考えてまず行動することだと思う。
 被災者の救出と治療、ライフラインの確保と復旧、危機的状況にある原子力発電所の緊急対応など、懸命に作業している人々の頑張りと幸運を祈ります。

『江戸の音』 田中優子 河出文庫

 平賀源内と上田秋成という2人の人物をキーワードにして、江戸時代の文化を論じた快著『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫)の著者が引き続いて、前作では取り上げなかった江戸時代の「音楽」についてまとめた本。
 きっかけは『江戸の…』を読んで感激した作曲家・武満徹が、ただひとつ不満な点として「音のありようについて書かれていないのがやや食い足りない」と述べたこと。すなわち本書は武満のリクエストに応えて書かれたようなもののようだ。(それが機縁で田中優子と武満徹の対談も本書に収録されている。)
 構成は「江戸の音」を巡る3つの小論に対談を加えた4つの章からなっていて、比較的に短めの本なのでさらっと気軽に読むことが出来る。
 田中優子は本書をあくまでも「前作『江戸の想像力』の補填として」読んで欲しいといっている。その理由は自分の専門があくまでも近世文学を中心とした“書きもの”であって、音楽については門外漢なのできちんと語るには準備も実力も不足しているからとのこと。しかしなかなかどうして謙遜はしているものの、実際に読んでみると、なるほどなあと思わず唸りたくなる点は多い。本書における著者の意見を自分なりに簡単にまとめてみる。曰く―

 ヨーロッパで雅楽の演奏会があったが、演奏が始まっても田中以外は現地の人たちの誰も気づかなかった。あまりに周囲の環境に溶け込んだ音だった為、西洋の感覚からすると雅楽は「音楽」と認識されなかったようだ。
 ここから推測するに、日本の「音楽」の概念は西洋のそれとは根本的に違うのではないだろうか。日本人は脳で虫の音を音楽として認識するというのは有名な話だが、よく探せば同様の話は他にも沢山ある。
 例えば尺八。尺八が発明された中国では未だにメロディを奏でるための“普通の楽器”でしかないが、それが日本に伝わってからは何故か「枯れたような風の音」を出すことに重きをおくようになった。
 もしくは三味線について。中国の胡弓は勿論のこと琉球の「三線(さんしん)」にもなくて、江戸の三味線になって初めて出来たものに、「サワリ」と呼ばれる棹の構造(及びそこから作り出される音の効果)がある。これは“一の糸”の上駒を無くして三味線の絃が棹にわざと触れるようにしたもの。その状態で楽器を演奏すると独特の「ビビリ音」が発生する。
 また伝統的な江戸の謡曲においては、西洋音楽のような「音階(=相対的な音の高低)」だけでなく、「音色(=絶対的な音の高低)」の方を重視するとのこと。西洋では前後の音の相対的な高低に意味があり、仮にアルトのために書かれた曲をソプラノの歌手が1オクターブ高く歌っても「それなり」に聞くことができる。しかし江戸の謡曲ではもともと男性の低い声で歌う曲を、音色の違う女声で歌うと意味をなさなくなるらしい。

 うーん面白い。元来、日本では「音楽」と「(自然の)音」の垣根が低かったということか? 江戸の音楽が「額縁」に入れて飾っておくような特別なものではなくて、日々の暮らしの中で自然に存在している「音」や「声」と地続きだいうのは、「環境音楽」の発想にも繋がっていくのかも。
 著者はこれらの特徴を「音楽」の領域だけで考えるのでなく、(前作に引き続いて)江戸に独特な思想の表れとして捉えている。話題は楽器を演奏したり歌を歌うことから、やがて「音と声」「歌と和歌」や「物語/文学」との関係へと広がっていく。(たしかに昔は和歌や物語というのは、声に出して鑑賞するものだったわけで、ここらの論旨は納得できる。)
 話がここまでくれば後は著者の独壇場といって良い。音楽から謡/和歌/俳諧へとなだらかに繋がっていく「連」の思想こそが、日本文化を陰で支える大きな流れとして存在するのではないか ――田中はそう主張する。(*)
 俳諧の「連」で行われていたのは、前の句を受けて後の句を作る際の「付ける」という作法。これをひとことで上手く説明するのは難しいが、要するに前句の意味や言葉に「依りそう」ような感じで新たな意味や見立てを行うということ。「付け過ぎ」は野暮だし「付けない」のも駄目。しかも前々句まで後戻りしてはいけないという厳しくもややこしい約束事があるのだが、それが故にこの作法を重視した俳諧においては、松尾芭蕉の『猿蓑』などを見ると分かるように「繋がりつつ変わっていく」というオープンシステムが実現することになる。言ってみれば「予定調和を嫌う」ということかもしれない。
 また「連」においてこのオープンシステムのダイナミズムを確保するためのテクニックとして重用されたのが、「きしみ」とか「ずらし」といった手法なのだそうだ。まるで先程の三味線における「サワリ」にそっくりな方法がここにも存在している。

   *…このあたりの詳しい話は『江戸の想像力』の感想の時に書いたので、そちらを見て
     頂きたい。

 先にも述べたが、著者は自分の専門が近世文学なので音楽までは充分に手が回らず、まだ直感的で検証もされていない仮説だといっている訳だが、この内容を見る限りではそんな事は無いと思う。かなりの部分が正しいんじゃなかろうか。このあたりの考えは、おそらく松岡正剛が上手く「日本という方法」という言葉で上手くまとめてくれたものに他ならないと思う。
 大切なのは“主語としての日本”すなわち「日本とは何か?」という問いかけではなく、“述語としての日本”すなわち「日本ではどのような方法が取られてきたのか?」と問いかけていくこと。その過程でこれらの「仮説」の検証も自然と出来ていくような気がしてならない。

<追記>
 田中優子の一連の著作も、『空間の日本文化』(オギュスタン・ベルク)や『てりむくり』(立岩二郎)などと同じようにセイゴウのネタ本のひとつになっている。ここらの本を読んでいると松岡正剛の考えが非常によく分かるので、「一粒で二度おいしい」といえる。(笑)

2年目を迎えて

 先日も書いたように、2月28日でこのブログを初めてからちょうど1年が経った。で、とりあえず「2年目を迎えて」という題材で何か気の利いたことでも書こうと思ったのだけれど、急に浮かんでくる訳もない。(笑) 
 しかし折角の機会なので、もう一度ここらで改めてこのブログのスタンス(らしきもの)を説明しておくのも良いかも知れない。これまでにちらほら書いてきたことの繰り返しになるが、「こんなつもりで書いているんだよ」ということを理解して頂ければありがたい。

 1)特定の本の悪口は書かない
   あちこちのブログを覗いていると、単に自分の好みに合わないだけでその本を罵倒
   するような文章を書く方もお見えになるようだ。しかし自分が好きな作家や本をけなされ
   悲しい思いをした経験は誰しもあるはず。なので、自分としてはそんな文章をここにUP
   する気はない。自分の考えがそんな立派なものじゃないのも重々自覚してるし。(笑)
   また大抵の本であれば、どこかしら面白いところを見つけて愉しむ力だけはそれなりに
   つけてきたつもりなので、好いところを見つけて褒めるようにしている。なお学術系の
   本については、納得できない点があれば書いているが、決して悪口ではなく建設的意見の
   つもりなのでご容赦を。フィクションに関しては愉しみ方は人によって千差万別なので
   なおのこと。もしも自分が苦手とする話であったとしても、どこかにその本を大切に思う
   人がきっといる筈。その人のためにも極力いいところを見つけて褒める。どうしても見つ
   からないときは...とりあげない。(笑)

 2)好きなことしか書かない
   正しい本の読み方というのがある訳じゃなし、どんな読み方をしても自由なはず。
   ということで、自分の気持ちに素直な感想を書き連ねる事にしている。中には的外れな
   意見を書く事があるかも知れないが、それもまたひとつの解釈ということで大目にみて
   頂きたい。

 3)その本を読んでいない人でも分かるように書く
   基本的に、数年後の自分に向けた書き方をしようと考えている。なぜなら数年後には
   読んだ本の内容を大分忘れてしまっていると思うから。(笑) 従ってその本を読んだ
   ことがある人には本の中身が蘇るように、また読んでいないひとには(ネタばらしを
   避けつつ)興味が湧くような書き方を心がけるようにしている。

 4)本のジャンルは適当
   読む本は特にジャンルを定めず広く浅く読んでいるので、ブログにもそれがモロに反映
   されている。(笑)
   一応、好みとしては①自分にとって新しいコト(知識)、②不思議な話(幻想/SF/
   ミステリなど)、③粋(イキ)なヒト/モノの3つがあり、ここに引っかかってくる本
   なら学術書だろうが小説だろうが何でもアリ。すきな著述家は数多く、多くは
   『My favorites/お気に入り』に挙げてあるのでご参考に。(まだ全部じゃないので、
   残りはおいおい挙げていくつもり。)

 5)たまには本の感想だけでなく映画や雑文も
   書籍の感想だけでなく、たまには本および活字の文化に関する雑文を書いてみたり、
   気の向くままの「お気らく」で進めていきたい。

 ということで、好きな“活字”にまつわるあれこれを、これからも今までのようにダラダラと書き連ねていくので、宜しくお願いします。

2011年2月の読了本

 このblogを始めたのが去年の2月28日だったから、昨日でちょうど1年を迎えることが出来た。2年目もこんな感じで慌てず騒がずのんびりと行きたいものだ。さて、2月に読んだ本は以下の通り。

『ミステリウム』 エリック・マコーマック 国書刊行会
  *メタミステリの傑作。「メタ」と言いながらもとっても読み易いのが好い。
『新約聖書Ⅱ』 文春新書
  *新約聖書の中から4つの福音書を収録した『Ⅰ』につづいて、残りの「使徒言行録」
   「書簡集」「ヨハネの黙示録」を収める。解説は前と同じく佐藤優が担当。
『古本迷宮』 喜多村 拓 青弓社
  *青森で実際に古本屋を営む著者が、古本をテーマに書いたショートショート集。
『パレオマニア』 池澤夏樹 集英社文庫
  *大英博物館に収められた数多くの収蔵品で、著者が特に気に入った物について、
   ルーツを探る13カ国の旅。優れた文明批評になっている。
『ALL WAYSⅢ』 開高健 角川文庫
  *ベトナム戦争以降の、釣りや自然を中心にした文章を集めたエッセイ集。
『十蘭万華鏡』 久生十蘭 河出文庫
  *往年の大エンタメ作家、久生十蘭の短篇集。題名の通りバラエティに富んだ作品を収録。
『シャーロック・ホームズの記号論』T・B・シービオク&J・U-シービオク 同時代ライブラリー
  *哲学者パースとS・ホームズを記号学者として比較分析した傑作本。
『シュロック・ホームズの冒険』 ロバート・L・フィッシュ ハヤカワミステリ
  *ハヤカワ文庫にもなっているようだが、今回はポケミス版を均一台で廉く入手できた。
『ロラン・バルト映画論集』 ちくま学芸文庫
  *バルトが映画に関して書いた文章をあちこちから集めた日本オリジナル編集版。
   『戦艦ポチョムキン』などが取り上げられている。
『久生十蘭短篇選』 岩波文庫
  *川崎賢子編の傑作集。久生十蘭は何度も改稿するので版が幾つかある作品が多いよう
   だが、本書ではすべて初出を定本にしているとのこと。特に気に入ったのは
   「黄泉から」「鶴鍋」「母子像」。
『ぼくの読書法』 植草甚一 晶文社
  *本と映画とジャズをこよなく愛した著者のテーマ別エッセイ集の一冊。洋書と古本と
   書評を中心に「本」にまつわる文章を集めたもの。
『久生十蘭ジュラネスク』 河出文庫
  *時代物から現代物まで、人情話からミステリ、はてはゾッとする話まで。著者の幅広い
   ジャンルが愉しめる。続けざまに読んでしまった。(笑) 特に気に入ったのは「生霊」
  「無惨やな」「その後」のあたり。
『ハムレット』 シェイクスピア 新潮文庫
  *言わずと知れた沙翁の「4大悲劇」のうちの一冊。福田恒存訳。
『ごはん通』 嵐山光三郎 平凡社ライブラリー
  *嵐山お得意のうんちく本。白米/お粥/雑穀米/寿司などあらゆる「ご飯もの」が
   テーマ。東海林さだおや嵐山光三郎の食エッセイはリアルに食欲をそそるので、空腹時
   には読まない方が無難。(笑)
『水族譚』 天沢退二郎 ブッキング
  *大和書房から1996年に出版され、その後絶版になっていたがブッキングで復刊された
   本。副題に「動物童話集」とあるように、殆どが(宮沢賢治風の)動物が主人公の童話
   になっている。ただし内容はかなり暗く、子供が読んだら間違いなくトラウマになり
   そうな、いわゆる“天沢退二郎らしい”作品。(これは褒め言葉なんだけどね。/笑)
『中世の星の下に』 阿部謹也 ちくま文庫
  *ちくま学芸文庫で復刊されたが、こちらは前の“ちくま”版の方。中世ヨーロッパ研究
   の大家によるエッセイと小論が丁度半分くらいずつ収録されているので、たしかに
   どちらにいれるか迷うな。著者は中世ヨーロッパ社会、特に賤民についての研究者と
   して有名な人物なので、話題はそちらの話が自然と多くなり、知らない事が多いので
   とても面白い。刑吏が被差別民というのはともかく、煙突掃除人や鐘つき男までそう
   だったとは知らなかった。定価が高くはなってしまったけど、好い本なので学芸文庫の
   方で無事に復刊されて良かった。
『第二の銃声』 アントニイ・バークリー 創元推理文庫
  *『毒入りチョコレート事件』で有名なバークリーの本格ミステリ。読んでびっくり、
   油断してたらとんでもなく面白かった。
   自分のことを教養があり礼儀正しい紳士だと思ってるが、周囲からは単に依怙地なだけ
   と思われている困った人 ――いわゆる「間抜け」という奴が主人公の小説は、正直
   あまり好きではない。しかし本書は例外、この面白さなら許せる。(笑)
   通常は彼の代表作といえば『毒入り...』だが、それよりもこちらの方が好み。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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