『夢幻会社』 J・G・バラード サンリオSF文庫

 新しく出た『千年紀の民』を読もうと思い、その前にちょっと予行演習のつもりで読んだらすっかり嵌まってしまった。バラードの傑作、久々に読み返した。バラード作品の中でも『結晶世界』と並ぶ、大のお気に入り作品であって、多分3、4回目の再読になるが何度読んでも面白い。かのスーザン・ソンタグが絶賛したとかいう噂を聞いたことがあり、本当かどうかは知らない「さもありなん」という気も。
 ここでだらだらと粗筋を紹介して、これから『夢幻会社』を読んでみようという人の興を殺ぐような事をする気は無いが、もしも見かけたら一度手に取ってみて欲しい。たぶん損はしないと思うから。
 さて、今回はロラン・バルトをちょっと真似て、以下に自分なりのバラード作品の愉しみ方を“記号論ふう”にまとめてみたい。はたして上手くいくかどうか?自信はないが一度トライしてみよう。
自分がバラード作品を読むときの愉しみ方を整理すると、凡そ4つの「位相」に分けることができる。(*)

(1)“メッセージ”の位相
   作者により顕在化された「ストーリー」や「テーマ性」を普通に読みとる愉しみ方。
(2)“シンボル”の位相
   作中に散りばめられたシンボル(象徴)/メタファー(隠喩)/アレゴリー(寓意)
   などを推理・発見する愉しみ方。明らかに作者が意図して仕組んだものもあるが、
   こちらが勝手にそう解釈しているだけのもありそう。
(3)“演出”の位相
   作者が作品を書く上で用いたテクニックや、構築された物語世界の“景観”を観賞する
   愉しみ方。
(4)“位置づけ”の位相
   作者の著作におけるその作品の時系列的な位置づけや、作風およびテーマの変遷などを
   考える愉しみ方。(この位相は多くの作品を書いている作家の方がより一層愉しめる。)

   *…このような重層的な愉しみ方が出来る作家には、他にスタニスワフ・レムや
     A&B・ストルガツキー、フィリップ・K・ディックなどがいる。いずれも自分の
     お気に入り作家である。

 こうした位相に沿ってバラードの作品全体を眺めた場合、ある種の共通した特徴がみられる。
 上述の“メッセージ”の位相でいえば、(今風にいえば)“パーソナリティ障害”とでも言うべき人物によって主人公がひたすら翻弄され続けるストーリー展開とか、作者が一貫して追求してきた「外宇宙(現実世界)と内宇宙(精神)の関わりについて」といったテーマなんかがそれにあたる。
 “シンボル”の位相においてもしかり。「砂(=砂漠、干上がった海岸)」「飛行(=セスナ、飛行場)」、頻出する「静と死(熱死?)」のイメージなど、多くの作品で反復されるシンボルを見ると、いかにも「バラードらしさ」を感じてしまう。(1966年の作品『結晶世界』では、静止した時間の中で結晶化が進んで滅びゆく世界の描写があまりにも美しかった。)
 “演出”の位相に関しては、多くの作品が三人称で書かれている点や物語の“視点”などが挙げられるだろう。
 因みにバラードにおいて作者の“視点”は、特権的な「神」のごときである。作者により登場人物たちが自在に動かされる様子は、まるで緻密に描かれたタブローを上から眺めているかのよう。(**)作者も意図しなかったような恐怖が襲うディックと違い、バラード作品には“世界の外側”から不意に襲いかかる不安定な因子は存在しないようだ。

  **…ロシア民話の研究家V・プロップによれば、物語には「状況」と「行動」に関する
     大きな構造的網状組織があるらしい。そのような物語において、登場人物とは単に
     物語進行上の道具「個人X」に過ぎず、物語の本質的なものではないとのこと。
     この特徴はもしかしたら特にバラードの作品において顕著かも。バラード作品に
     おいて「個人」とは、何よりまず物語の網目の中における彼の位置により定義され
     ていて、性格などは幾らでも入れ替えが可能な気がする。

 またバラード作品には執筆時期によって、幾つかのグループ分けが出来る特徴というのもある。“演出”の位相の例でいえば、“破滅3部作”に見られるように人間には左右する事の出来ない「超常的な自然環境変化」とか、“テクノロジー3部作”に見られるように人間が無意識に作り出した「人工的な環境」など。(なお「人工的な環境」が精神に与える影響については、前に『クラッシュ』のところで触れたので宜しければそちらも。)
 さていよいよここからは、本書『夢幻会社』について取り留めもなくあたまに浮かんだ印象や、気付いた点について綴ってみたい。(但しあくまでも個人的な感想なので、的外れな意見や無知からくる誤解などがあればご容赦を。なおそのような場合はご教授・ご指摘いただけると嬉しいです。)

 『夢幻会社』はバラード作品の中でも際立って特異な位置を占める、極めて重要な作品といえるだろう。乱暴な喩えをするならバラード作品における「特異点」と言っても良い。“位置づけ”の位相で考えた場合、バラードのフィクション系の著作は凡そ次のようなグループに分けることが可能。

 a)シュールリアリズム的な描写が際立つ主に初期の絵画的作品群。
   ―『沈んだ世界』『燃える世界』『結晶世界』および『ヴァーミリオン・サンズ』まで
    の短篇集。(但しすこし後の『奇跡の大河』も一応ここに含む。)
 b)超現実的な世界は登場せず、現実社会と精神の関わりを追求した中期の神話的作品群。
   ―『残虐行為展覧会』および『クラッシュ』『コンクリート・アイランド』
    『ハイ-ライズ』など。
 c)ミステリやサスペンスの手法を取り入れ、より現実的な色合いを強めた後期の作品群。
   ―『殺す』『楽園への失踪』『コカイン・ナイト』『スーパー・カンヌ』など。
 d)その他、自伝的要素が強かったり他との繋がりが比較的希薄なもので、時期はまちまち。
   ―『太陽の帝国』『女たちのやさしさ』など。

 上記の分類において『夢幻会社』はどうかといえば、年代的にはb)の後くらいに位置づけられるが、内容的には上記のどこにも属さない不思議な作品といえる。(敢えていうなら初期作品群に対する “陰画”のような関係かもしれない。)その根拠は以下の通り。
 まず“メッセージ”の位相では、『夢幻会社』は(少なくとも長篇においては)自分が知る限りで唯一「救世主」を主人公とし、「救済」というテーマに真正面から取り組んだ作品である。それは次の“シンボル”の例を見れば明らかだろう。
 ・主人公が乗ったセスナ機の川への沈没と、それによる死からの劇的な「復活」。
 ・主人公の「復活(=新たな生誕?)」にいち早く駆け付けた“東方の三博士”を思わせる
  3人の子供の存在。
 ・主人公の身体(唇/胸/こぶし)にできた聖痕としてのキズ。
 ・主人公に「復活」とともに備わった治癒力や空中浮遊の力。(まるでシャガールの絵画)
 また解説で訳者の増田まもる氏が指摘しているように、主人公の名がウィリアム・ブレイク(***)を連想させる「ブレイク」という名前である点も意味深。コンドルやオオジカおよびセミクジラという「風/土/水」の三界の王へと自在に変身する力を得た主人公は、やがて「ヒューブリス(ギリシャ語で「慢心の罪」のこと)」を犯して自らの私利私欲の為に人々を利用しようとする。その際、彼の姿に堕天使/悪魔の姿が重なっていくシーンや、それに破滅的な危機を乗り越えて皆を“神の国”ならぬ、生命力あふれる“翼の国(?)”へと導いた後に主人公に訪れる安息日。はては物語の期間が天地創造と同じ7日間であること等々、キリスト教的なメタファーには事欠かない。

 ここで話は少し変わる。実をいうとバラード作品は日本においてSFというレッテルを貼られてはいるが、超常的な出来事は殆どの場合発生しないといって良い。最も「SF的」といえる“破滅3部作”では確かに「人間の精神を取り巻く環境(=景観)」に未曽有の危機が訪れるが、それ以降の作品においては“テクノロジー3部作”を始めとして基本的に超常的な出来事が起こりはしない。しかしその唯一の例外が『夢幻会社』なのだ。主人公たちの心に起こる(精神的な)変容ではなく、「治癒」とか「飛行」といった客観的に見る事が出来る“超常能力”が物語の中で現実に起こるのは、バラードでは本書をおいて他には無い(はず)。

 ***…18~19世紀にかけ活躍したイギリスの幻想的な詩人・画家。『天国と地獄の結婚』
     や『虎』といった詩や、ミルトン『失楽園』ダンテ『神曲』などの挿絵で知られる。

 本書の特殊性を示す点はまだある。本書にはキリスト教的なもの以外にも数多くの“シンボル”が登場するが、どれもが他の作品とは対称的な特徴を示している。
 バラード作品には先述のように「静と死」のイメージが頻出するのだが、『夢幻会社』ではそれが「動と生」に置き換わっている。また他の作品に多い「砂」や「干上がったプール」「後退した海岸線」といった“乾燥”のイメージとは逆で、本書は「川や海」「熱帯のジャングル」「水や高い湿度」という“湿潤”なイメージで覆われている。これは彼の作品では非常に珍しいことではなかろうか。これらの“湿潤さ”や“母なる水”が持っている“生命の源”というイメージは、本書において「生」を強く感じさせるのに一役買っていると言えるだろう。
 また子供が非常に多く出てくる点も他とは違う。バラードの小説では(『殺す』という中篇で顕著だが、)単に「大人が頻出する」というよりも、むしろ「子供が欠如している」と言った方が正しいくらいであって、死や疲弊感が支配的な印象がある。しかし本書は子供たちの生き生きした描写によって、行間がまるで生命力で満ち溢れているようだ。
 またバラード作品には主人公を翻弄する”狂言回し”的な人物がよく登場するが、その”狂言回し”自身が主人公だというのも本書の特色。しかも本人による一人称(=おれ)だというのだから念がいっている。こんな話は他には知らない。なぜ作者がこの語り口を選んだのか理由は定かでないが、このことも本書に「動」を感じる要因のひとつになっているといえる。
 ところで「動と生」に関していうと、ここまでエロチックなイメージがあからさまに出てくる作品も珍しい。他の作品にも淫靡で頽廃的なエロスは良く出てくるが、そこではあくまでも隠蔽されたものであって、常に「死/タナトス」の影が色濃くつきまとう。しかし本書ではもっとあっけらかんとしていて、原初の生命力に満ちた本来の意味での「エロス」(=豊饒さと言い換えてもいい)が描かれている。

 これら様々な特徴により本書『夢幻会社』は、バラード作品における「特異点」と化していると思うのだ。そしてバラードの膨大な作品群は、本書を折り返し点として前後で大きな変化を遂げているように思えてならない。

 再びちょっと話が逸れるが、プログレッシブ・ロックという音楽をご存じだろうか。このジャンルで有名なバンドにキング・クリムゾンというのがある。自分はバラード作品の流れを考えるといつも、彼らの活動が頭に浮かんでくる。ロバート・フリップ御大を中心に何度もメンバーチェンジを繰り返した彼らは、その都度作風を大きく変化させてきた。
 例えばデビュー作『クリムゾン・キングの宮殿』を始め、第1期のアルバムでは演劇性や物語性が特徴的だった。その後の活動休止を経て復活を遂げた彼らは、ガラリと曲調を変えて半端じゃない緊張感をもつ傑作アルバム『太陽と戦慄』で華々しく第2期のスタートをきる。そして次の大きな変化は、再度の活動休止から復活した『ディシプリン』に始まる第3期。この頃の彼らの曲は(題名からも分かるように)極度に抑制・制御されたリズムが特徴的だった。(彼らはその後も何度か大きな変化を遂げて現在に至るがそれは省略。)
 今挙げたようなキング・クリムゾンの変化が、自分にとってはそのままバラードにダブってみえてしまうのだ。第1期の演劇的かつ物語性に溢れる作風は“破滅3部作”などのバラード初期作品群に、第2期の人工的かつ緊張感溢れる作風は“テクノロジー3部作”などの中期作品群に、そして自らに課したある種の“ルール”に従って新たに意欲的なテーマに取り組む第3期は、ミステリ的な手法をとりつつエコロジーなどの新たなテーマに取り組んだ『スーパー・カンヌ』など後期作品群と重なっていくというわけ。

 以上、とりとめのない話だったが『夢幻会社』を読んでみて、あたまに浮かんだ諸々をメモ代わりに書きとめてみた。この次に読むバラード作品はいよいよ(バラードの到達点とされる)『千年紀の民』となる予定だが、今まで述べてきたような作者の長い道のりが、最終的に『千年紀...』ではどのような形で昇華されているのだろうか。“景観“とならびバラード作品を貫く重要なキーワード”パラノイア“を、今回はどのような形で読みとる事が出来るのだろうか。(はたして出てくるのかな?) 今からとても愉しみだ。

<追記>
 本書の本筋とは関係ないのだが、読んでいて2点ほど分からないところがあった。ひとつめは物語の途中に突然何の説明もなく出てきた「パイド・パイパーコンプレックス」という言葉。「パイド・パイパー」とは『ハーメルンの笛吹き男』の事だと思うが、これのコンプレックスとはどういう意味だろう。主人公ブレイクによって子供を連れ去られる不安にかられた母親たちの心理ということなのかな?
 それともうひとつは、ブレイクが初めてウィンゲイト神父に出会った場面。たしか一度は「牧師」と呼んでいるのだが、その後は物語全体を通して全部「神父」に統一されている。「ファーザー・ウィンゲイト」という記載があるから「神父」には間違いないと思うが、でもイギリス国教会での呼び名は「牧師(a rector)」ではなかったか? 作者による深い意図でもあるんだろうか。こんな些細な事を気にしてるようじゃ、おちおち“お気らく”に本なんて読んでられないけど。(笑)
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『シャーロック・ホームズの記号論』T・Aシービオク&J・U-シービオク 同時代ライブラリー

 著者のひとりT・A・シービオクは高名な記号論の学者。本書はシービオク夫妻がプラグマティズムの哲学者として知られるC・S・パースとコナン・ドイルが創造した名探偵シャーロック・ホームズに対して、記号論的な比較分析を行った名著。なお特別付録として、著者が書いた別の論考「ネモ船長の船窓(*)」とともに、巻末には山口昌男とシービオクの対談「記号学の広がり」も収録されていてお買い得。岩波書店の同時代ライブラリーの一冊だが、同シリーズとともに消えて今では入手困難なのが残念。(岩波現代文庫で出ないのなら、講談社でも筑摩でもいいから是非とも拾って欲しいものだ。)

   *…ジューヌ・ベルヌ『海底二万里』に出てくるノーチラス号の船窓の話題をきっかけ
     にして、やがてコナン・ドイルへと話を進めホームズ物における「窓」の記号論的
     分析を行った論考。

 本書は執筆の動機がとても分かりやすい。ひとつは「記号学」という学問が(バルトを例にとる迄もなく)社会のあらゆる事象について分析を加えられる“武器”に成り得るという観点から、身近なホームズ物を題材にして実例を述べるということ。論より証拠というわけ。そしてもうひとつは、一般的には哲学者として広く知られているパースが、実は記号学でも極めて重要な貢献をした人物であることを明らかにし、パース再評価への道筋を付けること。以上の2点が大きな目的。
 ちなみに記号学者としてのシービオクの考え方については、巻末の山口昌男との対談で詳しく語られている。当時は「記号学は言語学の一分野に過ぎない」という認識も根強くあったようだが、シービオクはそれに反対している。逆に「記号学は言語学をその一部に含んでしまう広大な学問領域である」というのが彼の主張。ここらのやりとりを読んでいると、80年代の記号論ブームが懐かしく思い出されてくる。なんだか良く分からないなりに、「格好いい!」と思って色々齧ったんだよなあ。(笑)

 余談はこれくらいにして本題に入ろう。
 著者の切り口はふたつあって、まず第一はパース本人がまさに「探偵」としての才能を示すエピソードの紹介。殆ど知られていない彼のエッセイ「当て推量について」には、汽船の船員による盗難事件をパースが見事に解決して犯人を捕まえた経緯が詳しく述べられているらしい。その事件の際に彼が用いた思考法こそが、後にパース自身によって「推測(abduction/アブダクション)」と名付けられ、「演繹(deduction)」でも「帰納(induction)」でもない“第3の思考方法”として定義づけられたものだった。(**) ここらの顛末を読んでいるとまさにホームズばりの活躍なので、パースに対して勝手に感じていた「しかめ面しい哲学者」というイメージが大きく変わった。
 
  **…パースの定義によれば「推測」とは驚くような洞察に繋がる仮説の閃きの行為の
     こと。人間が動物の中で最も優れている能力である“当て推量”といってもいい。
     ちなみに「演繹」とは洞察も何もなくその仮説から必然的に導かれる答えを後付け
     する行為であり、「帰納」とは仮説を実験的に確かめるだけの行為(でしかない)
     というのも彼の主張。
     この「推測」という概念は、『デカルトの誤り』(ちくま学芸文庫)でダマシオが
     述べた「ソマティックマーカー仮説」とか、ジェームズ・ギブソンによって提唱
     された「アフォーダンス理論」にもつながるようなものだと思う。
 
 第二の切り口は全てのホームズ作品を踏まえた上で、ホームズの推理法が(作中で本人が述べているような)「演繹法」ではなく、まさに「推測(アブダクション)」であることを示し、ホームズを記号学者として位置付けようとするもの。
 ドイルが新しく小説を書くにあたって主人公である探偵のモデルにしたのは、医学の分野で彼の恩師にあたるジョーゼフ・ベル博士だったというのは、ドイル研究者の間では有名な話らしい。(自分は寡聞にして知らなかった。)
 そのベル博士のエピソードや人物像が本書の第3章に詳しく語られているのだが、それを読むとまさにパースとベル博士の人物像や考え方がピタリと重なっていくので驚いた。ベル博士は「初めて病院を訪れた患者から医者が信頼を得るかどうかが、後々の治療効果に大きな影響を与える」という信念を持っていて、患者の信頼を得るために、容姿のちょっとしたヒントから患者の職業や経歴をずばり当てていく。その様子はあたかもホームズ作品(のもちろん”聖典”)を読んでいるかのようであり、またそこでベル博士が用いていた思考方法はまさに「推測(アブダクション)」に他ならない。
 ここまで読み進んでくると、ホームズが記号学者であると結論づけた著者の主張もすんなり納得がいく。実を言えば最初はなんとまあ突拍子もない事を言うもんだと思っていたのだが...。まさに論理のアクロバットとはこのような事を言うのだろうか。たまたま見つけた本でこんな経験ができた時は、趣味が読書で本当に良かったなあと思える。

<追記>
 本書があんまり面白かったので、次には是非ホームズ物か記号論のどちらかを読みたいと思い、迷った挙句に選んだのが以下の2冊だった。
 ・『シュロック・ホームズの冒険』
  (ホームズへの愛情あふれるとても良くできたパロディ集)
 ・『ロラン・バルト映画論集』
  (まだ『エクリチュールの零度』を読むほどの気力は無いし『神話作用』に手を出す程の
   お金もないので、まずは軽めのところで。)

 ―― 結局はどちらかじゃなくホームズと記号論の両方を並行読みとは、我ながら単純だ
    ねえ。(笑)

『人間的自由の条件』 竹田青嗣 講談社学術文庫

 注)今回は長い文章になってしまって申し訳ない。もしかしたら今まででいちばん長いかも。
   (苦笑)

 大好きな竹田青嗣の著作が新しく文庫で出たのでさっそく買ったら、目次に「『トランスクリティーク』のアポリア」と書いてあった。そこで本書をより愉しむために先にそちらから読んだ顛末については『トランスクリティーク』の感想の時に書いた。無事に読み終わって準備も整ったところでようやくと本書に取り掛かったが、『トランス…』については最初の100ページ程度しか触れられていなかったのでちょっと拍子抜け。(笑)
 しかし本書自体については大いに満足できた。全部で500ページを超える大部の本であるにも拘わらず、いつものように素人にも分かりやすい説明と期待以上の面白さで一気に読み切ってしまった。
 ところで、気になる「竹田青嗣vs柄谷行人」の巨人対決(笑)についてだが、結果としては竹田青嗣の“貫禄勝ち”といったところだろうか。ただし変な誤解を招くといけないので補足が必要だろう。著者が『トランス…』を引き合いに出したのは批判を行うのが目的ではなく、あくまでも本書の執筆のきっかけというか、テーマが共通するので導入部として利用しただけのように感じた。

 著者には以前から、思索活動において一貫して取り組んできたことがある。それは現代社会における矛盾(≒生きにくさ)の解決にあたって、哲学が如何に貢献できるのか?ということ。「哲学」と聞くとすぐに「生とは何か」「存在とは何か」みたいな形而上的なことを考える学問と思われがちだが、(少なくとも竹田においては)そんな事は無い。今、我々が生きる場面において役に立つものでありたいというのが、彼の過去からの基本姿勢。過去の多くの哲学書を(わざわざ原語で読解して)虚心に学び直してきた(*)のも、その為の「武器」を手にする為であったとおぼしい。さすがは自分が密かに「闘う哲学者」と名付けただけはある。(ちなみに「何と闘うのか?」と聞かれれば、それは勿論「社会における矛盾」とに決まっている。/笑)

   *…彼の思索活動の原点にあるのはフッサールが創始した「現象学」なので、あらゆる
     虚飾を戦略的に捨て去って物事の本質をつかみ取ろうとするスタンスは、そこから
     来ているのだろうか。

 詳しい内容に入る前に、ここで本書における著者のスタンスをざっくりとおさらいしておこう。
 ■現代は資本主義&市民統治が基本となっていて、社会的な諸問題(貧困や格差、紛争など)
  の根本的な原因もそこに起因する。
 ■爾来、多くの思想家達が問題解決を図ろうとしてきたが、原因の根本にまで遡って考察した
  のはマルクスが創始した共産主義/社会主義思想しかない。(しかしその思想も、現実の
  国家による壮大な実験が無残な失敗を遂げた今、それに代わる妙案は存在しないといって
  良い。)
 ■ポストモダンの思想家たちが様々な分析と提案を行っているが、彼らは自らを特権的な
  批評家の立場において論じるだけであって新しいビジョンを何ら指し示してはいない。
 ■近代社会の問題の原因を探るには、それが成立した頃まで立ち返って考察を行うべきで
  ある。そうでなければ本質は見えてこない。(このあたり、「現象学」を武器とする竹田
  らしい考え方だと思う。)
 ■近代社会を成り立たせる考え方について最もすぐれた考察を行ったのはヘーゲルである。
 ■ヘーゲルの生きた19世紀初頭は、(神による王の主権承認を基本とする)封建社会が崩壊
  して近代市民社会に移行するとともに、まだ根強く伝統的な“神聖化された世界像”が
  残っていた時代である。したがって彼の思想にも色々と偏見や課題はあるが、それは致し
  方ないことである。
 ■今の視点でヘーゲルを全て切って捨てるのでなく、彼の思想の本質を捉えて優れた点を
  利用しない手はない。

 とまあ、大体こんなところ。
 先程の柄谷行人との話に戻ると、『トランスクリティーク』において柄谷が解決しようとする資本主義社会の矛盾は、まさに竹田が取り組んでいる内容に等しい。したがって柄谷の著作の意義について竹田は高く評価している。『トランス…』において柄谷が依拠しているのはカントとマルクスの思想(およびそれを成立させている思考方法)であるが、その着眼点もとても優れていると評価をしている。竹田が『トランス...』で問題視しているのは、柄谷はカントの認識論解釈について、当時のカントがおかれていた時代の視点ではなく現在の視点で見ているという点。たとえ表面には出てこなくても、あらゆる思索活動にはその思想家が生きた時代の社会背景や考え方が、色濃く反映されているとみて間違いない。そこを考慮せず現代の我々の視点で(都合の良いように)解釈するのは危険と著者は見る。それで画期的な見方が出てくるならそれでも良いが、竹田の見る限り誤った解釈によって柄谷が導いた結論は社会の問題解決のポイントを外してしまっているとのこと。
 具体的には次のような感じ。カントは「主体と客体があるかないか?」という問いには答えがだせないが、なぜそんな問いが生まれてくるのかについては説明が出来ると言ったそうだ。なので、柄谷のように「主体と客体をいったりきたり」という方法の発明者としてカントを読むのは、(自由な解釈/誤読は後世の者の権利とはいえ、)カントの時代背景を考慮すると牽強付会が過ぎるのだと。

 これはもしかしたら、柄谷が「評論家」で竹田が「哲学者」であるという立場の違いに起因するものだろうか?自分なりの分析を駆使して社会矛盾に何らかの答えを出そうとするのが、評論家である柄谷の使命であるとすれば、そこは哲学者である竹田にはなかなか踏み込んで行きにくいところ。その代わりに彼が貢献できるのは、問題の本質に立ち返って精緻な分析を行うことで叩くべきポイントを明確化し、公正な社会ルールを構築するための原理原則を指し示す、ということだろう。現に本書の最後で竹田は以下のように述べている。
 ―― しかしこの基礎理論を、実際にどのような具体的な社会的展望と目標へ転嫁できるかに
    ついては、われわれは、これらの概念をより厳密な形で検証する「近代社会」理念の
    “社会学的転移”を必要としているように思える。

 それではいよいよ本論である第2章からの分析について紹介していこう。(これだけの量の中身に細かく触れていくとキリがないので、なるべく簡潔にエッセンスだけを抽出するようにしたい。)

 著者の主張はシンプル且つ本質的である。ひとことで言えば「近代社会を成り立たせる公正かつ根本的な原理は、ヘーゲルが『精神現象学』で明らかにした『自由の相互承認』という概念である」ということだ。ホッブスが『リヴァイアサン』で述べたように、“弱肉強食の世界”を克服するには各自が自分の欲望を際限なく求めることをやめることが必要。しかしそれが絶対君主のような特権階級に集約されてしまうのでは意味がない。そこで近代社会が発見した新しい原理とは、他者同士が相互に尊重しあうことで初めて人間の「自由」は実現するというものだった。この概念はホッブスに始まりロック、ヒュームと続いてルソーの「社会契約説」へと至り、カントによる「自由」の根拠づけを受けて、最後はヘーゲルによって原理的な完成をみたものである。
 著者によると、この「自由の相互承認」という原理は当時の封建社会(絶対主権国家)において王の政治の“正統性”を根拠づけていた「神からの承認」に代わるものとして、市民による統治における“正統性”の根拠には(辛うじて)成り得た。しかしそこから先、共同体の間で起こる互いの主義主張の対立(**)を防いだり、個人が自らの自由な欲望のままにせめぎ合う、市民社会独特の利害対立を克服する原理としてはまだ不充分だったとのこと。

  **…例えばフランス革命後の恐怖政治をみよ。

 その後著者は、本書のキーワードとなる「自由の相互承認」が何かを正しく理解するため、一旦ヘーゲルの『精神現象学』における「人間の本質」について詳しい説明をおこなう。『精神現象学』における思索の流れをきちんと理解するには、同じ著者による『完全読解 ヘーゲル「精神現象学」』(講談社選書メチエ)を参考にするのが一番良いが、誤解をおそれず簡単にまとめれば「人間の本質」とは次のようなことになる。
 ―― 人間には何らかの確固たる“主体”があるわけでなく、根本は基本的に「無」。常に周囲との関係性において自分を発現していくものといえる。それぞれは自分に欠けているモノがあることを自覚しているが故、自分の外に向かって“自分に無いもの”を求める「欲望」が生まれる。この「欲望」を実現しようとする権利こそが、人間の「自由」に他ならない。
 世界にこのような「自由」な個人が多く現れてくると、次には自分ではない者(つまり「他者」)と自分が、ひとつのモノに対して同時に欲望を向ける状態が発生することになる。その時“自分”の側の優位を「他者」に承認させることで、個人は初めて自らの欲望の「強度」を自覚することができるのだという。すなわち人間的欲望の本質は、社会関係の中で各人が「他者の承認」を求めあうことで形成され、自然的「実体」があるわけじゃない。したがって欲望の対象における互いの優位/順列を決めようとする行為により、弱肉強食の世界は必然的に発生してしまうのだ。(このあたりは竹田の受け売り且つ自分なりに要約したものなので、間違いないかどうか保証できないので悪しからず。正確にいうと竹田もこの考えを自分の見解として述べている訳ではなく、ヘーゲル研究で名高いコジェーヴやラカンによる理解として紹介している。しかし概ねヘーゲル本人の考えを要約したものと見て差支えないだろう。)
 ヘーゲルはこのような「人間本質」の理解に基づいて彼独特の哲学を生み出した。それは“弱肉強食”を克服するにはお互いの「自由」を相互承認することが必要で、それによる自己実現の追求や社会的な「普遍的なもの(≒価値)」を互いに支え合いながら追求していくのが「社会実現の過程(=歴史)」であるというもの。ヘーゲルによれば「近代国家」とは社会実現の完成形に他ならなかったのだと、竹田は説明する。
 すごく乱暴な喩えをするなら、「自由の相互承認」による「社会実現」とは、イワシの大群やムクドリの群れのように不定形のグニャグニャした塊と思えばあながち間違いではないのかもしれない。確固たるものがあるのではなく、それぞれの支え合いで大きな価値が生まれてくるのだというイメージ。

 しかしヘーゲルが「社会実現の完成形」であると結論付けた「近代国家」という存在は、産業革命における社会格差や全体主義の台頭など、その後の歴史を通じて様々な矛盾や不幸を露呈してしまった。そしてその原因を追求し、近代社会の構想(仕組み)自体に根本的矛盾があるに違いないと考えたのが、マルクス主義やポストモダン思想なのだそうだ。
 繰り返すが、ヘーゲルは「自由」を根本に置いて、相互承認により個人の自由が実現していく過程を「歴史」と呼んだ。そしてその為の唯一の仕組みは(彼が生きていた当時に萌芽がみられた)資本主義社会・市民社会という名の「近代国家」であった。しかしマルクスはヘーゲル思想の根源に遡って考察を加え、社会矛盾が無くならないのはヘーゲル思想の大前提に根本的な事実誤認があったからだと判断した。ヘーゲルのように近代国家を個人の自由を承認するための仕組みの完成形」と位置付けるのでなく、「“所有”と“配分”にかかわる人間の支配関係の完成形」であるとみなした。その思想からはやがて共産主義革命の主張が、すなわち現国家(ブルジョアジー国家)による人間支配から我々を解放するため、抑圧された側の人間(プロレタリアート)による国家の奪取とその後の「国家そのもの」の解体に向かうべきという、所謂「マルクス主義」が生まれる事になったのは誰もが知っている通り。またマルクスの示したその道筋が的外れだったのも、その後の経緯を見れば明らかといえる。
 ただ、近代社会の矛盾が一気に解決できる原理がもしも在り得るとすれば、ヘーゲルの主張した根本原理(=行為を通じて為される自由の相互承認)を超えるものでしかない ――そう考えたマルクスの指摘自体は極めて正しかったといえる。そして残念なことに、矛盾を解消できる新たな原理は今だ発見されていない…。

 ついで竹田は、マルクス以外の思想がなぜ近代社会の諸問題を解決するに不充分であるかについて、ヘーゲルの『法の哲学』を引き合いに出しつつ検討を加えていく。
 結論から言おう。著者の考えによれば、ヘーゲルが提唱した根本原理である「自由の相互承認」を超える優れた原理は、現在でもまだ見つかっていない。そして様々な論客が数多くの概念を提唱しているにも関わらずいつつまでも問題解決がなされないのは、全てが問題の本質を取り違えた的外れな議論をしているからなのだそうだ。
竹田はヘーゲル思想を近代から現代に至る思想の根本と位置づけており、本書には近代化から現代に至る多くの思想家たちが登場する。いわくヴィトゲンシュタイン、ハーバーマス、メルロ=ポンティ、ニーチェ等々。そしてマルクス主義と同様に、資本主義および近代国家批判の急先鋒であったポストモダン思想が、なぜ社会の問題を解決し得なかったかについても、容赦ない検証を加えていく。
 その結果見えてきたのは、ポストモダン思想が新たな根本原理に成り得なかったのは、彼らのスタンスが基本的に(はるかプラトン哲学にまで遡る起源を持つ)「イロニー」という概念の一形態に過ぎないということだった。ポストモダン思想家たちは、主観的には「普遍原理」の本質を“知っている”が、その実現のための行為には加わろうとはせず、自分がそれを認識している“自由な”「主体」であることで満足してしまっているのだという。(***)
 しかし彼らが“知っている”と考えている「普遍原理」は、実はヘーゲルの根本原理まで立ち戻ったものではないため、正統性を互いに主張し合うだけで誰もが納得できる主張ではないのだ。「ヘーゲルのいう“自由”は古くて間違った考えであり、それを求めることを善しとすることから疑ってかからなければならない」という彼らの主張こそが事実誤認であって、それを突き詰めても(フランス革命後のように)互いの意見の対立を招くに過ぎず、いつまで経っても次のビジョンは見えてこない、そう竹田は結論付ける。
 分かりにくいところなので少し言葉を変えて説明してみる。
 何が「正しい」のかは、人や立場によって異なるのでひとつに決める事は出来ない。むしろただひとつの「正しさ」なんて存在しないというのが本当。みんながある意味「正しい」のだ。したがって「ヘーゲルではなく自分の方が正しい」というのは、自分にとっては充分に根拠ある意見かも知れないが、他の人にとっても根拠があるとは言えない。―― 簡単にするつもりが余計ややこしくなってしまったかな。(笑)

 ***…思うに竹田が柄谷を(認識が間違っていると考えているのに)評価しているのは、
     これらポストモダン思想家たちから一歩すすんで「アソシエーション」という対抗
     策を自ら実践しようと試みたところにあるのではないか。(なおそれが失敗に終わ
     った理由については、自分は詳しく知らないのでここでのコメントは差し控える。)

 それでは我々が行うべきは如何なることだろうか。竹田は続ける。
 「普遍的なほんとう(=絶対本質)」などというものは存在しない。そうだとすれば、そんなものを求める思索をいくら積み重ねても、互いに自分こそが「真」であり「善」であるという水かけ論になるだけ。「自由な相互承認」を超える本質原理が見つかっておらず、しかも現状では原理として不充分というのであれば、残された可能性はそれを極限まで推し進め、人間同士が他者を完全に「等しいもの」として認め合うことしかない。それを彼は「普遍的なものを巡る承認ゲーム」と呼んでいる。
 そのゲームに参加する資格は簡単で、大まかに言えば『①参加資格および、ルールの決定/変更の権限が全てのプレーヤーに対等に与えられる事に同意すること』、それに『②ゲームの目的が全ての参加者の納得感を得ること(=「一般福祉」)であって、特権者や固定的な勝利者を生むものでないことに同意すること』くらいしかない。なおこれは「妥当要求」(byハーバーマス)という言い方に置き換えてもいいかも知れない。「合理的な動機」に基づいた人間的関係を築き上げるのに最も重要な概念だそうで、簡単に言えば「権力的要求」や「サンクション(懲罰)的要求」に対立するもの。すなわち他者を否定して自らの主張を押し付けないということに他ならない。(分かりやすい言葉に置き換えるとすれば、すなわち「パワハラ」の否定ということか?)
 翻って「権力的要求」を突き詰めた先に最終的に現れるのは、「暴力装置としての軍隊」ということになるのだろうか。

 以上、長々と書いてきたが、現代の資本主義社会が持つ矛盾や問題を解決する特効薬というもの存在せず、お互いが他者を認め合う「自由の相互承認」にもとづいて「公正な合意のゲーム」を続けていくことが唯一の答えというのが、本書における最終結論である。極めて常識的で真っ当な意見といえる。懇切丁寧かつ非常に分かりやすく手順を踏んで説明されているので、自分が読む限りでは充分に納得できる結論になっていると思う。
 これ以上の根本原理が在り得ないとすれば、次に行うべきは本書が明らかにした原理に従って現実の社会改革のための処方箋を考えることだろう。本書のラストから、先述した竹田の言葉の続きを以下に引用する。

 ―― この先の理論的実践では、哲学の領域を離れて社会学的領域に踏み込む必要がます
    ます大きくなるだろう。そこでは社会=国家の本質、あるいは人間のナマの本質に
    ついての原理論ではなく、一定の目標に相関した社会の具体的構造と条件についての
    仮説が必要だからである。

 著者がこれから進んでいくのは果たして社会学的領域なのか、それとも柄谷行人のような実践を志す者たちに根本原理という強力な武器を提供すべくさらに知恵を絞るのか...。今後も竹田青嗣の活動から当分目が離せそうにない。

<追記>
 ヘーゲルが問題設定した次元まで遡らないと新しい原理は見えてこないということなので、恐れ多くも不遜にも無い知恵を絞って考えてみた。頭の体操もしくは冗談話として聞いて頂きたい。
 ヘーゲルが思索の出発点にしていて、且つ竹田青嗣も無条件で受け入れている前提条件に、「人間は生来“自由”をもとめる存在である」というのがある。ここを攻めることができれば根本原理を覆すことが出来ないか?と思って考えたのが以下の内容。(素人ごときの分際で恐れ多くもヘーゲルやマルクスに意義を唱えられるとすればであるが。)
 この前提条件は「個人」や「自己」というものを基本においている点で、西洋の一神教的な考え方であるとも言えるだろう。一方で東洋思想においては、老荘思想に代表されるように宇宙との一体化を理想として「個人」を重視しない考えが根強くある。もしも東洋思想の方が“本当”なのだとしたら、「個人」をベースにおいた考えから導き出される国家は生来歪んだものであり、原理的に矛盾が生じてしまうものとは言えないだろうか? これ以上突き詰めて理論構築する程の頭もないし、「全体主義とどこが違う!」と言われても上手く説明出来そうにないので馬脚を現す前にここらで止めておくが、ちょっと気になることではあった。ミツバチやアリの立場からすると、人間の悩み自体がナンセンスと言われるのではないのかなあと。
 これ以上考えようとすれば、人間にとって「自由」や「自己」とは何か?という議論に踏み込んでいかざるを得ない。そしておそらく脳科学や心理学、オートポイエーシス理論やアフォーダンス理論など、哲学と自然科学、医学の境界を飛び越えて議論を重ねることが必要になるだろう。そうなると読書blogの範疇や自分の能力を遥かに超えてしまうので(笑)、もうこれくらいにしておこう。

 でも最後にもうひとことだけ。自分で言いだしておいて何だが、『家畜人ヤプー』の世界が「あるべき世界」の姿だったりするのは絶対に嫌だなあ。(笑)

『新約聖書Ⅱ』 文春新書

 前書の『新約聖書Ⅰ』に続いて、本書ではイエスなき後の使徒たちによる布教の様子を描いた「使徒言行録」と、彼らが書いた(とされる)「書簡集」、そして「ヨハネの黙示録」の3つが収録されている。(要するに新約聖書から4大福音書を除いた残り全部ということ。)
 出版の意図はキリスト教徒でない人が手軽に聖書を知ることが出来るようにということなので、佐藤優が『Ⅰ』と同様に懇切丁寧な解説を書いてくれていて、素人にも大変とっつきやすいので助かる。

 4大福音書においては、イエスが生まれてから処刑されるまでのドラマチックな生涯を通じて、キリスト教思想の真髄が語られていた。本書では弟子たちによる信仰告白やその後の布教の様子を通じて、キリスト教が徐々に人々の間に広がっていく様子が克明に綴られている。
 これはこれでそれなりに興味深いのではあるが、如何せん「スター俳優」が退場した後に脇役だけで延々と演じられている舞台劇、もしくは本篇の小説よりも長い外伝を延々と読んでいるようで、いささか寂しい。
 ただし使徒の中でも特別な存在であるパウロ(*)について、人となりがとても良く理解できたのは収穫だった。最初はキリスト教を迫害する立場であったにも拘わらず、ある時に劇的な回心を遂げ、その後はキリスト教普及と教団設立の原動力となったパウロ。ユダヤ人でありつつローマの市民権を持ち、なおかつ“狂信的な”キリスト教徒である彼が、自分の古巣であるユダヤ教に対して挑発的な言動を繰り返すたび、怒り狂う敬虔なユダヤ教徒たちパウロの間に挟まれて困惑する律法学者およびローマ帝国の行政官たち。読んでいると当時の様子が目の前にありありと浮かんでくるようで苦笑を禁じ得ない。

   *…彼は他の使徒たちと違い生前のイエスに直接教えを受けてはおらず、後になってから
     使徒に加わった人物。ちなみに彼パウロは異教徒をキリスト教に帰依させることを
     専門にしていて、ユダヤ人の改宗を専門にしたペトロやヨハネとは“受け持ち”を
     うまいこと分担していたようだ。

 以上が「使徒言行録」で、次は「書簡集」について。佐藤の解説によれば、新約聖書に収められている「書簡」には大きく3つの種類があるとのこと。
 ひとつは前述のパウロが書いたとされる「パウロ書簡」13通。例えば「ローマの信徒への手紙」や「コリント人への手紙」など、書簡の宛先による名前が付けられている。(もっとも現在では、そのうち6編は別人が書いたものと考えられているらしい。)
 もうひとつが「公開書簡」とよばれる7通。「ペトロの手紙」とか「ヨハネの手紙」など、パウロ以外の使徒が書いたとされているもの。(こちらも、明らかに別人が書いたと判明しているのも中にはあるようだ。)
 そして最後が、上記の2種類のどちらにも属さない「ヘブライ人への手紙」。作者は不明だがかなりの知識人が書いたものと目され、初期のキリスト信仰の思想が事細かく語られている。
 どの書簡にも共通することだが、これらは当時の人々にあてたアジテーションのようなもの。文字通りの「説教」であるわけで、中身は筋も何もなくただひたすら神とイエスに対する自分の熱い思いが語られたもの。したがって異教徒であり無神論者でもある自分にとって、(知的興味で読んではみたが)失礼ながら正直言ってさほど面白いものではなかった。
 更にきつかったのは、当時の頑迷なユダヤ教徒を説得するためのメッセージだということ。彼らを説得するにはユダヤ教信仰(すなわち旧約聖書の内容)に関する極めて詳しい知識と、キリスト教がユダヤ教の神との契約を踏まえた上で如何に普遍化されたものであるか、についての理論が必要になる。つまり知識不足の部外者が理解するには、かなり無理があると言う訳。最低でも旧約聖書を一通りは読んでおかないとしんどいと思う。(子供向けの『聖書物語』を読んでいるだけじゃ、やっぱり太刀打ちは全然無理。/笑)

 ただし読み辛くはあるのだけれど、内容はすべてどれも初期のキリスト信仰のあり方が示された文章であって、キリスト教の本質を理解するうえではとても参考になる。
 たとえばキリスト教の真髄が(浄土真宗における阿弥陀信仰にも通じるような)絶対的な他力本願であり、唯一神への絶対的な帰依であるということ。
 いわく、ユダヤ教のように「肉(体)」と「律法」に生きるのでなく、神への「信仰」と「義」に生きるべきとか、絶対的な神からみれば、信仰/身分/貧富/賢愚などに関係なく人々はみな平等だとか…。(これって人権意識の萌芽といえるかも。)でも一方で「自分にふさわしいことをせよ」といって、身分や男女の差をわきまえるべきとも。つまり近代において人権とは「個々人の完全平等」を前提とするが、(当時の)キリスト教においてはあくまでも「神からみると人間同士の違いなんて単なる誤差」という意味の“平等”ということか。

 話は変わるが、パウロ書簡においてパウロがユダヤ教に対する彼の見解を述べているくだりが面白かった。もともとユダヤ教の「律法」とは、唯一神(ヤハウェ)がかつてモーゼと取り交わした約束のこと。パウロがそれをどうみるかというと――
 
 子供のように未熟で詳しいことが分からない間は、とにかく理屈も無くルールを守らせることが肝心。ユダヤ教の律法というのは、神が人類に対してそのようにさせてきたもの。
 でも大人になって、ルールのもとになる理由(=倫理や目的)が理解できるレベルになったら、枝葉末節の規則に拘らずとも自分を律することで、状況に合わせてルールを変えてしまうことも可能なのだという。(たとえばユダヤ人にとって絶対的なルールである割礼を否定しても構わないとか。)すなわち自分はユダヤ教よりも上の立場にあると主張しているのだ。
 パウロによって大成された「キリスト教」の教えによれば、ユダヤ教は神の教えの“簡易版/お試し版”のようなもの。イエスに至り初めて真の教えが示されたというわけ。しかしあとの宗教によって“不完全”と決めつけられた側は、どんな風に思ったんだろうか? 当時のユダヤ教徒が怒り狂ったのも分からないでもない気がする。

 さて本書で最も長い「書簡集」のパートを過ぎると、次はいよいよお待ちかね「ヨハネの黙示録」になる。このパートは本当に面白かった! これを読むだけでも本書を手に取る価値はある。
 映画やドラマ、文学などありとあらゆるところで描かれてきた災厄のイメージの源泉になるのが、この「ヨハネの黙示録」だと言っても過言ではない。描かれているのはヨハネが幻視したとされる、この世の終わりに訪れるシーンの数々。たとえば次のような内容は、誰もがどこかで聞いたことがあるはずだ。
「7つの封印」「(天使が吹く)7つの喇叭」「白・赤・黒・蒼の色をした4頭の馬とそれに乗る騎士」「飛蝗の王」「天から落ちてくる“ニガヨモギ”という名の星」「666という数字(獣の刻印)」「海と地から上ってくる怪獣」…そして「ハルマゲドン」。
 これから欧米の映画や小説を見るときには、今まで以上に愉しめることを期待したい。

 しかしながら、結局のところ新約聖書を通読して一番印象に残ったのが「ヨハネの黙示録」というのでは、我ながら救われないなあ。(笑)

<追記>
 なんで人間は恐ろしいもの/怖いものについて考えるのが好きなんだろう。絵画の世界に限ってもボッスの『快楽の園』(右扉側の図)やブリューゲルの『死の勝利』など沢山あるし、日本でも『地獄絵図』で執拗なまでに描かれる亡者への拷問だとか、例を挙げれば枚挙にいとまがない。これがいわゆる「怖いもの見たさ」というやつか。

『十蘭万華鏡』 久生十蘭 河出文庫

 かの有名な雑誌「新青年」系の作家(と言って良いのかな?)の短篇集。ユーモア小説とかミステリ仕立ての作品とか、はたまた人生の悲喜こもごもを描いた掌編とか、題名が示すように収録作は様々なタイプのものが入っている。どの作品にも共通して言えるのは、物語としての面白さをひたすら追求しているという点。「古き良きエンタメ小説」という感じ。でも岩波文庫にも短篇集が収められていることからも分かるように、文学性だってある。小難しい理屈をこねくり回したり、高邁な理想を押し付けるような古臭い「文学作品」と違って、こういうタイプの作家は個人的に好みだ。
 ちなみに以前『大雷雨夜の殺人』を読んだ小酒井不木よりは、こちらの方が自分の趣味にあう感じがする。(もっとも、小酒井不木を『大雷雨夜…』で判断してはイカンという声もあるようだが。)

 ところで十蘭を読むのは実は今回が初めて。(『顎十郎捕物帖』とか前から気にはしてたのだが、まだ目を通したことはない。)で、読んでみたところが、今までに読んだことがないタイプの小説だったので驚いた。何しろ話が突然にぶつりと終わる。物語がいよいよ佳境に差し掛かったと思ったら、そのままの勢いでぴたっと終わってしまう。作品を川に喩えるならば、小舟を浮かべてゆったりと川下りを愉しんでいたところ、先がいきなり滝になっていて落ちていくような感じ。(笑)
 ―― 解説の東直子氏も「あ、物語が消えたんだ、と思う。」と書いていた。驚いたのはどうやら自分だけじゃないらしい。
 これが「新青年」系もしくは当時の作家に共通する一般的な特徴なのか、それとも久生十蘭に独特の書き方なのか分からないが、妙に気になる。もう少し彼の他の作品も追いかけてみようか。

 最後に収録作について感想を少し。
 どれも面白かったけど、特に好かったのは「贖罪」「少年」「雲の小径」「一の倉沢」あたりだろうか。戦時を舞台にしたものは話に切れがあって特にいい感じ。「雲の小径」は先ほどの「ぶつり」が非常にうまく利いていてかなり不気味な幕切れに仕上がっている。
 なお久生十蘭は澁澤龍彦が編集者時代に担当していた作家とのこと。帯の惹句に澁澤の名が使われていたのでついフラフラと手に取ってしまった。上手い作戦だなあ。(笑) でもインチキではなく、ちゃんと巻末には澁澤が書いた久生十蘭の思い出話が収録されているので、ちょっと得した気分を味わえた。

<その後の追記>
 あまりにも気になったので続けて『久生十蘭短篇選』(岩波文庫)と『久生十蘭ジュラネスク』(河出文庫)を読んでみた。その結果、たぶんこんなことかなー?という仮説は出来た。結論からいうと、おそらく久生十蘭独特の”作風”なんだと思う。
 彼の作品はとても映像的で、読むと映画のように場面ごとのイメージが浮かんでくる。それに実はすごい技巧派なんだけど一見するとそれを悟らせずに、(「自分らしさ」を主張しないで)さらっとした端正な語り口を目指しているような気がする。画家でいえばゴッホとかじゃなくてユトリロとかのイメージ。
 だからラストでもあまりいかにも「さあ終わるよ!」という感じでなくスッと画面がフェイドアウトするような終わり方を好んだんじゃないかな? うまくそれがツボに嵌まれば「母子像」みたいに素晴らしい効果をあげて、たまらなくカッコイイ終りになる。しかしどうかして巧く行かなかったりすると「ぶつり」になってしまうのだと見た。もっともこのあたりになると、個人の好みになるから何とも言えないが。

『パレオマニア』 池澤夏樹 集英社文庫

 大英博物館に展示された数多くの収蔵物の中で著者の心に留まった物をいくつか。その源流を求めて現地に赴いた全13カ国・28章にも及ぶ旅の記録。訪れた国々はギリシャに始まりエジプトやインド、カンボジアにイラク、オーストラリアなど様々。なお題名にある「パレオマニア」とは著者の造語で、「誇大妄想」ならぬ「古代妄想狂」の意味。
 語り口は独白のスタイルをとっている。しかし何故か主語は「男」という三人称なので最初はちょっと違和感を覚えたが、あとがきを読んだら何となく理解できた。考えがあまり主観的になり過ぎないよう、わざと自分自身から距離をおく為だったらしい。おかげで全体を通じて冷静な見方を貫く事が出来、過去への旅を通じて現代を逆照射することで卓抜な文明論が展開されている。
 現地に身を置くことで初めて分かることも多くあり、やはり「手や足を使う」というのが大事なことを実感。自分も読んでいて眼からウロコがおちる場面が何度もあった。以下にそのうちの幾つかを紹介しよう。

 アメリカ大陸に住む先住民(いわゆる「インディアン」と呼ばれた人々)の居住地域は、北はカナダにまで広がっている。かれらの神話に出てくる「サンダーバード」の木彫りの像が大英博物館に展示されていて、池澤はその像に心魅かれる。そして現地にある博物館まで足を延ばし、先住民の女性から彼らの文化や伝統について直接話を聞く旅にでる。その話の中に出てきたのが、「ポトラッチ」で使う仮面にまつわる意外な話だった。
 「ポトラッチ」と聞くとすぐ思い浮かぶのは、文化人類学に出てくる「蕩尽」という言葉だろう。部族の首長たちが威信をかけてお互い自分の財産を消費し合うという風習で、「贈与」とか「過剰」とかいうキーワードとセットで語られる事が多い。
 しかしここで語られた話は、そのようなキーワードとは全く異なる印象を持つものだった。先住民たちは夏は狩猟のために各地を移動して過ごす。しかし冬には冬越しの地に集まってそこに定住して、春までの寒い時期をしのぐ。冬は一族にとって夏の蓄えを使って親睦を深める時期であり、ポトラッチは集落同士を結び付けるとても楽しいイベントであったとのこと。日本人ならここで述べられている結婚式の話を読めば、その様子が手に取るようにイメージできると思う。招待客に引き出物を配ったり、豪華な食事を供したりというとても楽しそうな様子が目に浮かんでくる。しかしそんな風習は白人たちによって禁止されてしまった。キリスト教圏ではそのような風習はなく、単なる「蕩尽」としてしか映らなかったようだ。先住民たちにとっては、(我々日本人も普通に行っている行為を「蕩尽」と取られてしまっては、)そりゃあ心外だろう。
 ロラン・バルトの『表徴の帝国』を読んで「これは違う」と感じたのに、ポトラッチについてはそのまま西洋的な視点を鵜呑みにしてしまっていたのは我ながら恥ずかしい。

 別の例を挙げよう。
 古代ペルシャ帝国(今のイラン)の首都はペルセポリスと呼ばれている。なぜペルシャなのに「○○ポリス」というギリシャ風の名前が付いているのか前から不思議だった。
 しかしその疑問は、「ペルシャは自国の正史を残していなかった」という説明を読んで氷解した。ペルシャ帝国に関する記述は、全てヘロドトスの『歴史』など、ギリシャ側の記録に基づくものだったのだ。そのため本来の名前「パルーサ」ではなく、ギリシャ語の「ペルセポリス(=ペルシャの町)」という名前になっただけのことらしい。またギリシアはペルシャから侵略を受ける側だったので、ペルシャ帝国に関する記述も(伝聞や著者の偏見などにより)おそらくかなりのバイアスがかかっているとみて間違いなさそう。
 同様の事例はエジプトにもあって、古代エジプト王朝の首都である「テーベ」という名前が何だかギリシャ風だと思っていたら、やっぱりギリシャに同じ名前の町があるらしい。(古代のエジプト人自身は「ワセット」とか「ヌ・アモン」とか呼んでいたとのこと。)古代ギリシャ人は何にでも自分たちの価値観を押し付ける傾向があったようだ。
 高校時代に習った世界史で、地中海や西アジアの古代国家のイメージが頭の中でごっちゃになってる原因が、実はこんなところにあったとは。そこらじゅうの都市に自分の名前に因んで「アレクサンドリア」という名前をつけたアレクサンダー大王と同様、はた迷惑な話だなあ。(笑)

 とまあ、このように本書で著者が行っているのは、まさに自分の物の見方を相対化することに他ならない。
 本書の中には、著者が自分自身の眼で見て/耳で聞いて/(受け売りではなく)己で考えた、そんな文章がおよそ500ページに亘って隅々までびっしりと書かれている。会話文も少なくて独白調の「地の文」が続くので時間はかかるが、決して読みにくくは無い。飾りの少ない端正な文章で語られた温かい人間観察と厳しい文明批評は、読み終えた後の充実感とともに読み応えも充分。

<追記>
 誰の言葉か知らないが池澤夏樹は「理系の村上春樹」と呼ばれているらしい。特徴を掴んでうまく言ったものだと思う。ただし自分が本書を読んだ限りでは、村上春樹ほどには奥底に「辛辣なもの」が秘められている感じはしなかった。生真面目さは生来のものらしく多少堅苦しいところはあるが悪い印象はなくて、却って好印象をもった。あえて喩えるなら「文学寄りの内田樹」といっても良いかも。初めて読んだけど、他のもこんな感じだとしたら結構好みかも知れない。

『ミステリウム』 エリック・マコーマック 国書刊行会

 マコーマックは『隠し部屋を査察して』(創元推理文庫)などが邦訳されているので、既に読まれた方もいるかもしれない。サキやコリアもしくはスタージョンといった作家たち、すなわち所謂「奇妙な味」と呼ばれる人とはちょっと違うが、何とも変わった雰囲気を持つ作家のひとり。
 このように書くと、「えーっ、どれも“奇想作家”の仲間で似たようなもんだろ」という声が聞こえてくる気もするが、感じ方は人それぞれということでご容赦いただきたい。(自分の中ではスティーブン・ミルハウザーとかドナルド・バーセルミあたりと似た印象。そこらへんの作家は自分の中では「奇妙な味」グループとは別扱いになっているのヨ。)
 本書『ミステリウム』はマコーマックの最高傑作とされ、日本での刊行が長らく望まれていた長篇。敢えて小説のジャンルを当てるとすれば一応「ミステリ」になるのだろうが、なかなかどうして一筋縄ではいかない。(笑) 『ミステリウム』という題名からして「職業/秘儀/謎/ミステリ/細菌(バクテリウム)」など、色々な意味が込められているようだし、ところどころ既成のジャンルの枠からはみ出す部分があって、それがまた本書の魅力になっている。

 物語は、とある島国(スコットランド?)の北部に位置する寒村・キャリックが舞台。そこで発生した謎の奇病は住民を次々と死に至らしめる。軍によって封鎖された村で、ただひとり発症せず生き残った人物は手記をしたためるが、そこにはキャリックが密かに抱えるある秘密が仄めかされていた。―― とまあ、ざっとこんな感じの話。(ミステリの手法を用いた作品では、内容を詳しく語ること自体がネタばらしに成りかねないので、結構気を使う。)
 本書を読んでいる間に脳裏をよぎったのは、次のような作品だった。
   バラード   『殺す』(東京創元社)/『コカイン・ナイト』(新潮文庫)
   グランジェ  『クリムゾン・リバー』(創元推理文庫)
   池上永一   『ぼくのキャノン』(角川文庫)
   ストルガツキー『醜い白鳥』(群像社)
   キング    『呪われた町』(集英社文庫)
   レム     『捜査』(ハヤカワ文庫)/『枯草熱』(国書刊行会)
 うーん、書いては見たものの、分かる人が殆どいないとしたら申し訳ない。(苦笑) このblogではあちこちに顔をだすお馴染みの名前ではあるが、あまり一般的とは言えないかも。(SFやファンタジー系の小説が好きな人なら、自分が言いたいことは何となく理解してもらえると思うが…。)

 それではこんな喩えはどうだろうか?
 一般的なミステリでは、冒頭にどれほど不可能犯罪が起きたとしても、最後には唯一の合理的な解(=犯人/トリックなど)を示すべく物語が収束していく。これを仮に「初期値(知)を与えさえすれば唯一の解が導かれる」という意味で「古典力学的ミステリ」と呼ぼう。ミステリにはラストの決着をわざとぼかしたままにする「リドルストーリー」というタイプの作品もあるが、「AまたはB」という二者択一しかないという点では、これも基本的に「古典力学的」であると言っていいと思う。
 一方で「メタミステリ(*)」と呼ばれるタイプの作品が存在する。こちらも物理学に喩えるなら、さしずめ「量子力学的ミステリ」ということになるだろう。有名な“シュレーディンガーの猫”のように「AおよびB」という二つの状態(解)が重なり合っていて、確率的にしか表現できないような、解を出すことが目的ではないような、何とも不思議な作品群である。
 メタミステリにおいては「謎の提示」と「その合理的な解決」というミステリの文法(ルール)自体が、作者によって俎上に載せられることになる。唯一の合理的な解というものはなく、万華鏡のようにさまざまな解決が読者の前に晒されたり、もしくは解決自体が示されることなく物語が終わる。

   *…自分が「メタミステリ」と聞いてすぐに思うのは、レムの『捜査』や竹本健二の
     『ウロボロスの偽書』、夢野久作の『ドグラ・マグラ』といった小説。
     なおこれらはミステリの枠組みに対する挑戦/否定という意味で、「アンチミス
     テリ」と呼ばれることもある。

 『ミステリウム』は物語としてはとてもストレートであって読み易いが、油断していると最後に土俵際でうっちゃりをかけられ、見事にひっくり返される。そこで自分としては、本書を「とても分かりやすく面白いメタミステリ」と呼ぶことを提案したい。
 とまあ、以上がネタバレ無しの感想。ここからはネタバレになるので、本書をこれから読むつもりの人はご注意を。

       ―――――――――――――――――――――――――――

 先ほどは以下のような多くの書名を挙げた。
   バラード   『殺す』(東京創元社)/『コカイン・ナイト』(新潮文庫)
   グランジェ  『クリムゾン・リバー』(創元推理文庫)
   池上永一   『ぼくのキャノン』(角川文庫)
   ストルガツキー『醜い白鳥』(群像社)
   キング    『呪われた町』(集英社文庫)
   レム     『捜査』(ハヤカワ文庫)/『枯草熱』(国書刊行会)
 実はこれらを挙げた順番にも意味があって、読み進むにつれて感じた印象を時系列に並べているのだ。
まずひとつめのグループは、バラード『殺す』から池上永一『ぼくのキャノン』まで。次がストルガツキー『醜い白鳥』とキング『呪われた町』の2作品。そして最後のグループがレムの『捜査』と『枯草熱』になっている。

 最初は理由も明確にされないまま封鎖された村があるところから話は始まる。そして主人公のジャーナリストが手記を読み進んでいくうち徐々に明かされていくのは、一見平和な村に数十年前に起こった(らしい)、「ある出来事」。そしてその出来事には村人のほぼ全員が関係しているらしいということ。更には彼らが懸命に葬りさろうとしている「出来事」の記憶を呼び覚ます者に対しては、“死”を与えることさえ辞さないということ…。
 少しずつ仄めかされる「ある出来事」の全貌が見えてくるに従って、自分の頭に浮かんだのはひとつめのグループの諸作品だったというわけだ。
 次いで思ったのが、ひとつの集落が丸ごと滅びていく様子。最近では小野不由美がキングに対するオマージュをささげた『屍鬼』の方が有名になってしまったが、自分が真っ先に思い浮かべたのは元本であるキング『呪われた町』の方。また消えていく世界という繋がりで、消えゆく古い世界を旧世代の側からの視点で描いた『醜い白鳥』も、哀愁が本書と被っている気がした。
 話が進んで本書のメタフィクションとしての特徴がはっきりしてくると、レムの『捜査』と似た印象が強くなってくる。『捜査』ではまるで遺体が蘇って勝手に動き出したとしか思えない現象と、それを解決しようとするスコットランドヤードの苦悩が描かれていて、最後まで何ら明確な説明がなされずに話が終わる。その“宙ぶらりん”な雰囲気が(『捜査』にかぎらず『ソラリス』などにおいても)レムのメタフィクションの真骨頂なわけだが、本書『ミレニウム』においても“宙ぶらりん”な感じがまさに同じといえよう。
 ただし先程も述べたように、物語は錯綜/発散することなく、きちんと一本調子でテンポよく進んでいくので読み難いことは全くない。徐々に村の秘密が明かされていくところのワクワク感も大変心地いい。本書がその「メタ」な正体を現すのは、解決が為されたはずの謎が再び蘇って、物語をきれいにひっくり返すところから。(そしてそのままラストへとなだれ込んでいく。)
 ラストのもって行きかたはP・K・ディックの『ユービック』を始めとする諸作品にも似ているのだが、あれほどグチャグチャな現実崩壊感が感じられないのは、たぶん主人公が事件の「当事者」ではないことにあるのだろう。いや正確に書くと、一応は「当事者」であることも仄めかされはするのだが、ディックほどの緊迫感はないということ。

 余談になるが、物語中で重要な役割をするブレア行政官というキャラがとても気に入ったので、最後にぜひ触れておきたい。本書が陰惨な内容であるにも関わらず全体の印象が暗くならないのは、この人物によるところもかなり大きいと思う。何故だか知らないが、ディヴィッド・リンチ監督の『ツインピークス』にでてくるクーパー特別捜査官とイメージがだぶって仕方なかった。
 途中で本筋とは全く関係なく、彼による犯罪理論の系譜に関する特別講義のエピソードが挿入されるのだが、それが現代思想のパロディになっていて爆笑モノ。
 たとえば“フレデリック・デ・ノシュール”なる人物が著した『一般犯罪学講義』が現代犯罪理論の始まりとされるのだが、これは勿論ソシュール『一般言語学講義』のパクリ。「シニフィアン」「シニフィエ」の代わりに「クリミニフィアン」「クリミフィエ」などの言葉がまことしやかに語られる。
 最初がそんな風なので、後の流れも推して知るべし。ジェンダー理論から見た犯罪学だとか、あとはもうムチャクチャな状態が延々と続いて行く。(笑)

 国書刊行会なのでちょっと値段は高かったが、翻訳者の増田まもる氏のお薦めの通り、とても愉しい活字タイムを過ごすことが出来た。

<追記>
 余談ついでに「古典力学的ミステリ」と「量子力学的ミステリ」を、それぞれジェットコースターに見立てるとどんな感じになるか書いてみよう。
 ドキドキハラハラのスリルを手軽に味わえるのがジェットコースターの楽しさ。どんなに怖くても(事故が無い限りは)生命に危険が及ぶことはなく、無事にスタート地点まで戻ってくる。いわば予定調和のハラハラ感といえる。
一般的なミステリ(エンタテイメント小説)をごく普通のジェットコースターとすれば、メタミステリでは折角乗ったコースターが途中で停まり乗客全員が降ろされてしまう。(笑)
 レールの行く先は霧で見えなくなっていて、身軽になったコースターは無人のまま再びガタゴトと動き出し、霧の彼方へと消えていく。そしてそれがどこに向かうのかは誰も知らない。(おそらく作者も?)
 なおコースターが途中で停まってしまうのも客が降ろされるのもアクシデントではなく、メタフィクションの場合は全て計算された「イベント」にあたる。気をつけなければいけないのは、メタフィクションだと思って読み始めると、コースターが停まることもなく猛スピードで乗客を振り落としてそのまま走り去るような小説もある点。そんな小説に乗ってしまって大ケガしないように、”この手”の小説を読むときには注意が必要。(もちろん乗客を乗せる間もなく動き出して、勝手に行ってしまうような小説が論外なのは当然である。/笑)

 本書『ミステリウム』の場合はそんな心配なく、礼儀正しくメタフィクションのイベントを愉しませてくれる。真相はまさに「霧の中」である。

わが「読書生活」

 昨年の2月末にこのブログを始めたころは、本を読む時間が減ってしまうのではないかと心配していたのだが、まったくの杞憂だった。むしろ読書量は2~3割ほど増えている気がする、何故だろう?
 つらつら考えているとハタと気が付いた、テレビを見る時間が減っているのだ。テレビを見るのは朝のニュースぐらいで、それ以外は殆どテレビを付けなくなっている。前はバラエティ系の番組を流しながら本を読むという「ながら見」をしていたのだが、テレビを見る時間を原稿書きにまわして、その後は寝る前にベッドで本に集中するという至って“健康的”な生活習慣になっている。
 でも平日は家に帰ってから読書に充てられる時間は30分もあればいいところだし、休日だって原稿のまとめ書きと本屋巡りをしているのでそれほど多くの時間を割いている訳ではない。それ以外でどうやって読書時間を捻出しているかというと、実は朝の出勤時間と昼の休憩時間をやりくりしているのダ。
自分は会社まで自動車通勤なので渋滞を避けるために朝は少し早めに家を出る。そして会社の駐車場についてからエンジンを切って車の中で過ごす30分が貴重な読書タイムとなる。次は昼休み。食堂で食事を済ませたのち、自席に戻ってコーヒーや緑茶を一杯のみながらの15分。これも貴重なストレス解消。(午前中の会議が長引いたりして読書タイムがなくなるとちょっと寂しい。/笑)
 これらの細切れ読書時間を積み重ねると、平日でも何とか1~1.5時間くらいは本を読めると言うわけ。

 出張の日は大きなチャンスだ。行き帰りの新幹線や乗り継ぎの時間を考慮すると、普通の本なら往復で2冊はイケる。(笑)というわけで、出張の時にはかばんの中にいつも本を3冊忍ばせることになる。読みかけが一冊、それを読み終わったときに読む本が一冊、そしてその本に乗り切れなかった時の予備としてもう一冊と言う感じ。
 平均すればたぶん週に1回くらいは出張しているから、それだけで年間100冊くらいはこなしている計算になるだろうか。だから出張の時は滅多に車中でビールなんて飲まない。アルコールはあんまり強くないので、コテンと寝てしまうと一冊分の時間を「損」してしまうのだ。(笑)

 もちろんそれ以外にも日々の読書で工夫していることはある。まず自分の読書スピード(*)に合わせて大まかな予定を立てていること。例えば読みかけの小説が残り100ページだったら、およそ50分あれば読み終えられるのでそれだけの時間をどこかで作るように心掛けるとか。(もちろん大雑把に検討を付けている程度だけど。)
 またその日の気分で読む気が起きなかったり、精神的に疲れて学術系を読む気力がない時など、TPOに合わせて選べるように、常に3~5冊くらいの本を併読している。理想的な配分は①学術系の難しい本と②小説と③気分転換のエッセイという3つのジャンルを合わせて読むこと。(もちろんその時々で②が難しめの小説と軽めの小説の2冊になったり、エッセイが紀行文や科学解説書になったり臨機応変ではあるが。)

   *…普通の小説やエッセイなら1ページあたり30秒、学術系など少し難しめの本なら
     1ページあたり1分がおおよその目安。

 10月にはブログに続いてツイッターも始めたのだが、こちらは若干本を読む時間を浸食している気がする。帰宅後や休みの日にボケッと眺めたり書き込みをしていると、あっという間に1時間くらい経ってしまっているので、こちらの方は一応は時計を気にしながらやるようにしている。
 でも自分がフォローしているのは友人以外には、作家や翻訳家、本屋や図書館司書、それに出版社など“活字”関係者ばかりなので、新しい本の情報とか気になる本の感想なんかをリアルタイムで入手できるメリットもあるし、プラスマイナスでいえば得してるんじゃないかな。テレビみてるより遥かに面白いし。

 以上が、わが読書ライフの全貌。「こんな生活、何が面白いんだか。」といわれる方もいるかも知れないが、面白いんだから仕方がない。もしも5年経っても10年経ってもこんな生活が続いていたなら、すごく嬉しいんだけどねえ。(体力とお金が続く限り、出来るだけ。/笑)

2011年1月の読了本

『日本力』 松岡正剛/エバレット・ブラウン PARCO出版
  *日本在住が長い写真家/著述家のエバレット・ブラウンとお馴染み松岡正剛の対談集。
『サイモン・アークの事件簿』 エドワード・D・ホック 創元推理文庫
  *ホックの数多い探偵キャラのうち、「オカルト探偵」が活躍するシリーズの短篇集の
   2作目。題材はオカルトだけど事件そのものはガチガチの合理的解決がなされるのが
   個人的にはちと残念。ちなみにホックの探偵キャラで好きなのは1番が怪盗ニック、
   2番がこのサイモン・アークで3番がサム・ホーソン。
『ヨーロッパ中世の宇宙観』 阿部謹也 講談社学術文庫
  *著者の中世ヨーロッパ歴史学の原点となった初期論文など6つを収めた論考集。
   なお題名にある「宇宙観」は「世界観」という程度の意味。内容は「ハーメルンの笛吹
   き男」の伝承や「当時の一般市民の自伝」における社会制度の研究、被差別民であった
   「刑吏」を巡る社会史など。
『一寸法師』 石田英一郎 アテネ文庫
  *書店でたまたま見かけ、装丁に一目惚れして購入した民俗学系の本。石田英一郎の本は
   これで3冊目。彼の著作は学術書として読むといささか古めかしい感じもするが、書か
   れた時代を考慮した上で読めばそんなに悪くない。どちらかというと好みのタイプかも。
『世界SF大賞傑作選8』 アイザック・アシモフ編 講談社文庫
  *アメリカのファン投票により選出され、年間の最高のSF小説に与えられる賞である
   「ヒューゴ賞」。その賞の受賞作ばかりを集めたアンソロジーの1冊。アイザック・
   アシモフは実際には編集した訳ではなく、受賞作の著者に関して序文を書いてるだけ。
   収録作は以下の4作品。
    ジェイムズ・ティプトリィ・Jr「接続された女」
    ジョージ・R・R・マーティン「ライアへの讃歌」
    ハーラン・エリスン「ランゲルハンス島沖を漂流中」
    ラリー・ニーヴン「ホール・マン」
   ティプトリィとエリスンは文句なく最高。マーティンは相変わらず意地の悪い小説
   ばかり書くなあ(なおこれは彼に関しては褒め言葉)。最後のニーヴンは軽い掌編。
『胎児の世界』 三木成夫 中公新書
  *生物に組み込まれた「生命記憶」と胎児におけるその発現を巡り、著者独特の思索を
   巡らせたユニークな本。
『論語』 岩波文庫
  *言わずと知れた儒教の聖典。思ってたほど敷居は高くなくて、すらすら読めた。
『巨人ポール・バニヤン』 ベン・C・クロウ編 ちくま文庫
  *アメリカに伝わる説話を集めた「アメリカの奇妙な話」シリーズ(全2冊)の第1巻。
   都市伝説やホラ話など色々な種類の説話が収録されて面白いが、残念ながら今は絶版。
『迷宮としての世界(上/下)』 グスタフ・ルネ・ホッケ 岩波文庫
  *もともと美術史上の概念だった「マニエリスム」を拡大解釈して、芸術全般から文学、
   そしてヨーロッパ思想の根幹へと話を広げた長大な論考。
『ボクはこんなことを考えている』 大槻ケンジ 角川文庫
  *ロックバンド筋肉少女帯のボーカリスト・大槻ケンジのエッセイ集。出張帰りの新幹線の
   車中でビール呑んで居眠りしながらでも1冊読み終えてしまう、そんな気軽さがオーケン
   の真骨頂。でも「恋をしらない少女達」の章とか凄いぞ。なんせ自分のようなミュージ
   シャンの追っかけをしている女の子達の心理を冷静に分析してしまうんだから。
   「こんなこと書いてるからファンが減るんだ」とか言いながらも書かずにはいられない
   のは、彼の性(さが)としか言いようがない。自分を突き放して客観的に眺めることが
   できる視点はなかなかどうして、一筋縄ではいかないなあ。なんせ本書のあとがきでも
   本書のことを「野狐禅野郎のエッセイ集」とまで言い切ってしまうんだから。
   -なお野狐禅(やこぜん)とは、悟ってもいないのに勝手に悟ったと勘違いしている人
    のこと。仏教用語。)
『風の王国』 五木寛之 新潮文庫
  *かつて三上寛により「サンカ」という名前で取り上げられた、日本に実在した“流浪の
   民”を巡る伝奇小説。安直に貴種流離譚の設定をもってくるなど、ご都合主義的な点に
   不満が無いでもないが、エンタテイメント小説としてのツボはちゃんと押さえてあり、
   なかなか面白い。『四季・奈津子』のイメージがあまりに強くて、今まで敬遠していた
   が少し見直したぞ、五木寛之。同じく伝奇小説という噂の『戒厳令の夜』も、そのうち
   見つけたら読んでみてもいいな。
『怪奇小説という題名の怪奇小説』 都筑道夫 集英社文庫
  *都筑道夫の作風は情緒よりも論理が勝りがちで、そこが長所でもあるが短所にもなる。
   彼のミステリ作品は“パズラー”として優れたものが多い半面、その「小難しさ」が
   敬遠されるケースも。本書はそんな都筑道夫が書いたゴシック系のホラー小説だが、
   彼の論理的な面がとても優れた効果を挙げている。どろどろした雰囲気だけで話を強引
   に引っ張るタイプのホラーは、(途中で退屈してしまうので)自分はあまり好きでは
   ないのだが、その点で都筑道夫手によるホラーは好い。明晰な論理で語るので「何が書
   いてあるかは良く分かるが意味が全く通じない」という怖さが味わえる。考えてみれば
   「狂った論理(=狂気)」というのが一番怖いものな。同じ筆者の怪奇連作である
   『雪崩連太郎』のシリーズもお薦め。
『ジャージーの悪魔』 ベン・C・クロウ編 ちくま文庫
  *『巨人ポール・バニヤン』に続く「アメリカの奇妙な話」シリーズ(全2巻)の2巻目。
『人間的自由の条件』 竹田青嗣 岩波現代文庫
  *現代の「国家」と「資本主義」の抱える矛盾を、ヘーゲル/マルクス/カントなど先達の
   哲学を再検証することで克服しようとする意欲的かつ画期的な論考。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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